マルクスの弁証法的方法と古典派価値論批判
 ──『哲学の貧困』におけるリカ−ドウ「生産費」批判を中心にして──


拓殖大学政経学部  大石 高久


 目次
A. はじめに
B. リカ−ドウ価値論とは何か
C. 『貧困』のリカ−ドウ価値論批判:歴史性把握
D. 『貧困』のリカ−ドウ価値論批判:統一性把握
E. おわりに


A. はじめに

「リカ−ドウは商品の相対価値(または交換価値)が『労働量』によって規定されるということから出発する。……ところで、彼はこの労働の姿態──交換価値を作り出すものとしての、または交換価値で表現されるものとしての、労働の特殊な規定──を、この労働の性格を研究しない。従って彼は、この労働と貨幣との連関を、即ちこの労働が貨幣として表現されなければならないことを理解しない。従って彼は、商品の他の労働時間による規定と、諸商品が貨幣形成にまで進む必然性との間の連関を、全く把握していない。ここから彼の間違った貨幣理論が出てくる。[1]」

 この一節は、リカ−ドウとマルクスの「貨幣」把握の差違が、直接的には「商品と貨幣の内的連関」把握の有無に、究極的には価値規定の差違──特に「質」規定の有無──に由来することを示している。では、この価値の「質」的規定は一体何処から、如何に発生したのであろうか。本稿では、『哲学の貧困』(1847年)──以下、『貧困』──「第一章 科学上の一発見」の分析からこの問題に答えてみたい。以下、本稿の目的、対象、方法について簡単に説明しておこう。
 プル−ドンの『経済的諸矛盾の体系』──以下、『体系』──は、近代市民社会が生み出した富と貧困の各々の代弁者たる経済学者と社会主義者の両方を「止揚」し、真に「平等」な社会を実現するための革命理論であり、一つの「経済学批判」である。この『体系』の「基礎理論」(「構成された価値」)と「方法」(「形而上学」ないし「系列の弁証法」)を批判した『貧困』は、プル−ドンの「経済学批判」を批判する限りで開示されたマルクスのそれである[2]。事実、『貧困』「第二章 経済学の形而上学」では古典派方法論の欠陥は前提で、問題の核心はそれを「止揚」する「科学的方法」をめぐる両者の対決にある。即ち、それはプル−ドン方法論批判という間接的形式を持つ古典派方法論批判なのである。『貧困』をその総体において、統一的に理解しようとするならば、「第二章」で展開されている「方法」を「第一章」「商品」分析で具体的に把握する必要があろう。何故ならば、両章の関係は「一般」と「個別」に他ならないからである[3]。
 ところで、「第二章」では、古典派経済学が諸範疇を永遠視することによってブルジョア的諸関係自体を永遠視していることが批判され、それらの「歴史性」と「統一性」を範疇諸規定の中に反映すべきことが展開されている。この「方法」から「第一章」を見れば、そこでの課題は「商品」を「一つの(歴史的で、過渡的な……大石)生産関係」として把握することである。即ち、リカ−ドウとプル−ドンの価値論が何処まで「商品」をその「歴史性」と「統一性」の両面から把握し得ているかが問題なのである。「第二章」同様、「商品」把握におけるリカ−ドウ価値論の欠陥は前提で、その「止揚」の仕方、商品「価値」の「質」的規定にこそ核心があるのである。従って、『貧困』のリカ−ドウ価値論批判は、その方法批判の当然の帰結として、「価値」の「質」規定にこそある。これが本稿の基本視角である。
 「第一章」におけるリカ−ドウ価値論批判は、「第一・二節」ではプル−ドンに対置されたリカ−ドウ「生産費」がマルクスの「読み込み」であるということの中に[4]、「第三節」の「貨幣の必然性」論批判ではそもそもリカ−ドウが対置されていないということの中に[5]示されている。
 議論の混乱を避けるために、先ず本論に先立ってリカ−ドウ「価値論」を確認しておこう。


B. リカ−ドウ価値論とは何か

 「商品」の歴史性および統一性把握という観点からリカ−ドウ−マルクス関係を考察する際、先ず第一に両者の「主体」が問題になる。即ち、リカ−ドウ『経済学及び課税の諸原理』──以下、『原理』──においては、そのタイトル(「第一章 価値について」)が示しているように「価値」が主体である。しかし、マルクスにおける「主体」は「商品」であって、「価値」ではあり得ない。
 マルクスの課題は、ブルジョア的生産・交易諸関係の生成・発展・消滅の論理的必然性をそれらの「歴史性」および「統一性」把握から解明することにある。従って、マルクスにおいては、経済学的諸範疇はそれらの諸関係の理論的反映として、その「歴史性」と「統一性」から規定される。従って、範疇としての主体は「一つの生産関係」としての「商品」であり、「価値」ではあり得ない。ところが、古典派にはそうした意識がそもそも存在しないし、彼らの分析的方法もそれを可能とするものではない。その意味で、この主体の差違はマルクスのリカ−ドウ方法論批判を語り出している[6]。
 第二に、リカ−ドウが商品に「絶対価値」(一商品の価値を「不変の価値尺度」で測ったもの)を認めていること注意しなければならない。彼は差当り『原理』での考察を「相対価値」(他の商品との「交換比率」を意味する)に限定しつつ終生この「不変の価値尺度」を追求したが、遂に未発見に終わった。しかし、このかれの徒労は、「価値の社会的実体」に関する彼の無知の証明でしかない。即ち、「交換価値」とは「労働の社会的配分」のブルジョア的形態であり、「価値」とは「労働の社会性または社会的労働」のブルジョア的形態に他ならないから、「交換価値」には「不変」の尺度は存在し得ないのである。このことは、つまり、リカ−ドウが商品を歴史的に把握できず、『原理』には「価値」の「質」規定が欠如していることを語り出している。『資本論』で「量」規定に先立って、その前提として「質」が規定されていること自体が一つのリカ−ドウ批判なのである[7]。
 第三に、「価値」と「(生産)価格」とが「混同」ないし「同一視」されている。古典派の「価値」は、日々変動して止まない現実の「交換価値」の「中心」ないし「軸」としての「価格」である。従って、この「中心価格」は個々の商品に投下された「労働量」と大きさが異なる。この乖離を、『原理』は「価値修正」論で考察している。即ち、(1) 固定・流動資本の構成、(2) 固定資本の耐久性、(3) 流動資本の還流時間、の三つの変動誘因が存在する条件下では、「労働量」の相対量に変化がない単なる「賃金の変動」によっても「価値」(交換比率)の変動が生ずるというのである。勿論、彼はその影響を過大視することに警告しているが、ここから次の点が判明する。即ち、彼の価値論とは、諸商品は正確にではないが、「ほぼ」その労働(「費用」としての「賃金」)の相対量に応じて交換されるという議論でしかないということである。
 この「価値修正」論の問題点は、より単純なブルジョア的関係として、より複雑なそれを発生的に説明・展開する基礎である「商品」の「価値」を規定する段階で、利潤や平均利潤を持ち込み、「価値」と「生産価格」を無媒介的に同一視している点にある。彼には発生的展開という方法が無く、「私的労働」と「社会的労働」との、従ってまた両者の大きさの区別、剰余価値の利潤への、後者の平均利潤への転化という媒介項をも欠ているのである。
 マルクスは初期からこの「価値修正」論を熟知しながら、それに対する評註を一切残さず『貧困』でも深入りしていない。「生産価格」と「価値」を区別し、問題の立て方自体を止揚するからである。「修正」論は、「価値」と「生産価格」の混同の証明でしかないのである。
 第四に、「価値」と「労働量」および「生産費」との関係が重要である。
 マルクスが「生産費」で価値を規定する時、それは明確に「労働時間」である。ところが、『原理』のそれは、平均賃金と平均利潤の合計即ち「生産価格」である。
「マルサス氏は、一つの物の費用と価値とは同一であるべきだというのが、私の学説の一部である、と考えているようである。──氏のいう費用が、利潤を含む「生産費」の意味であるならば、その通りである[8]。」
 更に、マルクスが「労働量」で価値を規定する時、それは明確に「労働時間」である。しかし、官見によれば、『原理』にはそうした規定は見られない。この差違は、運動「量」はその「時間」によって計られるという「常識」の有無の問題ではない[9]。実は、「方法」の問題なのである。そこで最後に、第四点の背後にある両者の「方法」に注目してみよう。
 リカ−ドウが「労働量」を「価値の主要な源泉」と言う時、労働者の労働日を一定と前提し、その「労働量」から「賃金総額」推量しているのである。何故ならば、その「労働量」は資本家にとっての「費用」であり、商品は最低限この「費用」を回収し得る価格で販売されなければならないという意味で商品の最低価格を成し、その限りで商品価格を規定していると考えるからである。
 しかも、「平均利潤率」を前提する彼にとって、商品価格はこの「費用」に「平均利潤率」を乗じたものなのであり、「平均利潤率」が諸商品間で一定であることから、結局諸商品の交換比率(相対価値)はこの「費用」としての「労働量」の相対量に依存するという論法である。事実、彼は次のように記している。
「次のことを注意しておくことが、また、私にとって必要である。即ち、一つの商品には、千ポンドの費用を要するほどの労働が投下され、もう一つの商品には、2千ポンドの費用を要するほどの労働が投下されているが故に、従って一方は千ポンドの価値を持ち、他方は二千ポンドの価値を持つであろう、と言ったのではなくて、それらの商品は、相互にとって1に対する2であり、その割合でそれらは交換されるであろう、と言ったのである。これらの商品の一方が千百ポンドで売れ、他方が2千2百ポンドで売れようと、一方が千5百ポンドで、他方が3千ポンドで売れようと、それはこの学説の真理にとっては何ら重要性を持たない。……私は、ただ、これらの商品のの相対価値はその生産に投下される労働の相対量によって支配されるであろう、ということを確信するだけである[10]。」
 即ち、『原理』の「価値」とは、日々変動して止まない諸価格の「中心」ないし「平均」なのであり、「価格」の一規定性(形態)でしかない。その「価値」は最初から「価格」なのであって、前者から後者が説明・展開されるのではない[11]。
 これに対してマルクスの「価値」は、ブルジョア的生産諸関係の最も基礎的な関係としての「商品」の歴史性と統一性を理論的に反映したものである。「科学の本領は、正に、この価値法則が如何に貫徹されて行くかを展開することにある[12]」と言う言葉に示されているように、この概念はその他の諸範疇を発生的に展開する「始元」──単なる「端初」ではなく、それ以後の展開の「原理」──である。
 従って、『原理』の「価値」・「労働量」・「生産費」等を『資本論』や『貧困』のそれと同一視することは厳に謹まなければならない。諸範疇の発生的叙述の「始元」としての後者は、前者とその性格と論理次元を異にするからである。
 以上の考察を通じて、『原理』の「価値」は次のように定式化されよう[13]。
 「価値」=「交換比率」=「生産費」=「平均賃金」+「平均利潤」
     ≒「労働量」=賃金総額
   (ただし、≒は「ほぼ比例する」関係を意味する。)
 この基礎知識を踏まえて、以下の二章では『貧困』におけるリカ−ドウ価値論批判を「商品」の歴史性および統一性把握の二面から明らかにしてみよう。

C. マルクスのリカ−ドウ価値論批判:歴史性把握の欠如

 1.「交換価値」の発生(ゲネジス)

 諸範疇が反映している現実の諸関係の「歴史性」と「統一性」を解明することは、諸範疇の「発生=Genesis=起源」を解明することであり、諸範疇の「論理的諸展開」(S.161,199,166) の基礎である。ところが、古典派には範疇の「発生」を解明するという問題意識すら欠けている。マルクスの古典派価値論に対する批判の第一は、ここにあった。
 そこで先ず、「生産費」と「交換価値」の「発生」即ち、「効用価値を交換価値たらしめる運動」(S.67,49,13)に関する叙述を追跡して見よう。
 マルクスは「交換」の歴史を三つの局面ないし段階に区分する。今日の交換即ちその第三段階とは、「(以前なら……大石)人々が譲渡し得ないと考えていたあらゆるものが交換の対象となり、取引対象となり、譲渡され得るに至った」時代であり、需給が一致し得ない時代である。需要と供給との均衡・比例は「生産手段が制約されていて、交換が極端に制限された範囲内で行なわれていた時代にだけ可能であった」(S.97,96,62)に過ぎない。ところが、「営業の自由」と「生産の無政府性」とは同義であり、「生産が消費に先行し、供給が需要を強制する」(S.97,97,62)今日の大工業と自由競争の社会においては、生産者が需要を明確に知り得ないからである。従って、需給は「交換価値」として1) 生産者間、2) 生産者と消費者間、3) 消費者間、の三面的競争を通じて始めて一致するのである。
「現実の世界(分業と私的交換の基礎に立った社会……大石)にあっては、 ……供給者間の競争と需要者間の競争とが、買手売手間の闘争の不可欠な一要素を形成し、その結果として売買価値が生ずるのである。」(S.76,64,28-9)
 それと同時に、この運動を通じてその生産過程に規定された「生産費」が浮上し、その「交換価値」の大きさを規定することになる。
「供給される生産物……は単に効用あるものというだけに留まるものではない。生産の過程で、それは一切の生産費、例えば原料や労働者の賃金等々等と、売買価値たるあらゆる物と、交換されてきたものである。」(S.75,26-7、 62)
 勿論、この「生産費」は個々の生産者にとっての個別的「生産費」ではあり得ない。それは数年に亙る価格変動を通じて始めて、確認・検証され得るものである。
「価値を決定するものは、一つの物品の生産に必要な時間ではけっしてなくて、この物 品が生産されうる時間の最低限[14]であり、この最低限は競争によって確認される、というこの点を強調することが、重要である。」(S.95,94,59)
 つまり、商品価値は予め決定されているのではない。それは価格変動を通して事後的にのみ決まるのであり、それを労働時間によって構成する運動=過程が存在するだけである。価値とは、この一つの運動であり過程である。
「構成されてしまっている『比例性関係』などというものは存在しないのである。構成する一つの運動が存在するのみなのである。」(S.94,92,58)
 要するに、マルクスは「交換価値」が大工業と自由競争をその成立諸条件とする、優れて歴史的な範疇であることを明確にした。このこと自体がリカ−ドウ価値論に対する批判となっている。何故ならば、リカ−ドウも「事実上」交換価値の歴史的諸前提を認識しているが、無意識的で、不明確である。従って、資本を蓄積された労働に、価値を労働に還元したものの何故労働が価値に、蓄積された労働が資本となるかという肝心な点は、不問のままだからである。

 2. 人間的共同体〔Gemeinwedsen〕とそのカリカチュア

 ところで、「交換価値」の歴史的諸前提が究明されるや否や、次のことが判明する。即ち、「交換価値」は他の社会にも同様に存在するあるものの歴史的(ブルジョア的)な形態であるということである。その「あるもの」とは、労働の社会的配分である。プル−ドン(リカ−ドウも同様)の工場内分業と社会内分業との同一視を批判した箇所で、「労働を配分するための規制」と記されていることに特に注目すべきである。
「近代社会には、自由競争以外に労働を分配するための規制も権力もないのである…… 工場内部の権力と社会内部の権力とは、分業に対する関係においては、互いに反比例するものである。」(S.151,182-3,150-1)
 人間はどのような歴史的社会においても、その労働を社会的に配分して生産を行なってきた。「交換価値」を決定する運動は、「労働の社会的配分」のある歴史的な即ちブルジョア的形態に過ぎない。ここから「価値」は「労働の社会性」ないし「社会的労働」の歴史的形態として把握されることになるのである。
 要するに、『貧困』のマルクス価値──「生産費」──概念は、「社会的労働の分配」の、ある特殊・歴史的な形態として規定されたものである。それは、大工業と自由競争という歴史的諸条件を前提し、直接的には個人的交換の3面的競争から価格変動や「(生産)価格」──古典派経済学の「価値」──の成立を説明・展開するものである。
 ところで、「交換価値」を労働の社会的配分のブルジョア的形態として把握することは、それに先立つ諸形態のみならずその後の形態に対する一定の認識、商品次元なりの歴史認識を生み出す。即ち、「価値」法則は「労働の社会的配分」の歴史上最も発展した一形態であると同時に、未だ人類がこの社会的配分を制御できない形態であるという認識である。従って、ブルジョア社会は真に人間的(=類的)な社会のカリカチュアでしかなく、人類史の前史の最後の段階として位置付けられるのである[15]。
「諸階級の対立が消滅し、最早階級というものが存在しないような将来の社会では、何が使用されるは最早生産時間の最小限によって決定されることもなくなり、品物に当てられるべき生産時間がそれらの物の社会的効用の程度によって決定されるようになるであろう。」(S.93,90-1,56)

 3.「労働時間」による「生産費」規定 

 マルクスはリカ−ドウ価値論を「生産費」による価値規定と紹介し、しかもその規定を「現実の経済科学的解明」として支持している。
 しかし、そこには価格変動が「偶然」か「必然」かの、価格変動の「結果」か、価格変動によって「確認」ないし「実証」されるものかの差違がある。古典派経済学の「自然価格」や「生産費」が、価格変動の結果生じる長期的平均であることは疑いない。しかし、こうした「中心価格」としての「価値」は、単なる「価格」の一規定性(=形態)でしかなく、価格変動やその結果生じる「中心価格」を説明・展開するものではあり得ない。古典派経済学においては、「価値」と「価格」の関係が逆転しているのである[16]。マルクスの次の一節と比較して見よう。 
「価値を決定するものは、一つの物品の生産に必要な時間ではけっしてなくて、この物品が生産されうる時間の最低限であり、この最低限は競争によって確認される、というこの点を強調することが、重要である。」(S.95,94,59)
 ここには、結果論としての「価値」論ではなく、価値概念がそれ自身の中に変動の契機を有すると同時に、その変動を通じて自己を実現するという理解が窺える。
「労働の間断なき価値低下は、労働時間による商品の価値決定のたった一つの側面、たった一つの結果であるに過ぎない。価格騰貴、生産過剰、その他多くの産業的無政府現象の解明は、この価値決定方法のなかに見いだされる。」 (S.96, 94,60)       
 勿論、リカ−ドウも価格変動を知らない訳ではない。しかし、問題の核心はその価格変動が「価値」概念の「必然」的な一契機として把握されているか否かである。即ち、マルクスの場合、「競争」は「価値」を撹乱する要因でも、「偶然」的要因でもなく、「価値」決定「運動」の不可欠な一契機として把握されているのである。
「競争は、一生産物の相対価値はその生産物の生産に必要な労働時間によって決定されるという法則を、実現する。」(S.94,93,58)
 この差違は、結局、「価値」を「労働の社会性」──社会的労働──のある特殊・歴史的形態と把握するか否かの差違である。この差違こそが、以下で考察する価値規定や価値法則理解での差違をも生み出してゆくのであろう。
 更に、両者の「生産費」に存在する差違も看過してはならない。
 既に見たように、リカ−ドウの「生産費」は平均賃金と平均利潤の合計であり、『資本論』の「生産価格」である。また、彼の「労働量」とは現実的には「賃金」であり、この「生産費」との関係は「ほぼ比例する」というものであった。
 ところが、マルクスの「生産費」は「労働時間」そのものである。
「〔既に〕我々には分かっているように、リカ−ドウの学説によれば、あらゆる物の価 格は結局、産業利潤を含めた生産費によって、換言すれば、使用された労働時間によって、決定される。」(S.168,211-2,178)
 この引用文で問題なのは、「換言すれば」ということである。リカ−ドウに「労働時間」による「生産費」規定がないことは既に述べた。従って、問題の核心は利潤を含む「生産費」を「労働時間」に還元するマルクスの論理である。別言すれば、「交換価値」は価格変動の結果事後的にのみ判明すると一方で主張しながら、その「価値」をリカ−ドウの「生産費」──「生産価格」──で規定しない理由である。
 答えは、マルクスが「価値」を「労働の社会的配分」のブルジョア的形態として、商品に対象化された私的諸労働と価格変動(=自由競争)を契機とする運動・過程として把握しているからに他ならない。「労働時間」としてのマルクスの「生産費」が生産過程によって裏付けられ、生産関係を反映するものに規定され直されていることは、次の一節から明らかである。
「供給される生産物……は単に効用あるものというだけにとどまるものではない。生産の過程で、それは一切の生産費、例えば原料や労働者の賃金等々等と、売買価値たるあらゆる物と、交換されてきたものである[17]。」(S.75,62,26-7)
 これに対して、生産価格即ち利潤や賃金の平均率から成るリカ−ドウの「生産費」は、流通諸関係を反映する範疇である。従って、リカ−ドウはその「価値」規定において、「論点窃取の虚偽」を犯しているのである。「価値」から説明・展開されるべき「賃金」や「利潤」が、しかもその「平均率」が「価値」規定に密輸入されているからである。
 マルクスの「(交換)価値」は、飽くまで、労働の社会的配分のブルジョア的形態であり、個々の商品に対象化されている私的で個別的な労働時間は、可能性としての「価値」でしかない。この私的労働時間が、その全面的な譲渡・販売、その価格変動、産業諸部門間での資本移動等を通じて、「価値」に生成するというのである。
 それ故、マルクス「価値」概念には少なくとも次の三契機から成る。
1) 私的労働の社会的労働への転化:直接的には私的な諸労働が、商品販売を通じて社会的に有用な労働となるのであり、その社会的労働が「価値」なのである。
2) 価格変動の必然性:この私的諸労働の社会的労働への転化が価格変動を通じて事後的に決まることを意味する。価値を労働時間によって構成するこの「運動」には、労働力、商品、生産手段や全施設等の不断の「価値低下」等も含まれている。
3) 個別的労働時間の社会的必要労働時間の生成:個々の商品に含まれている私的労働時間は単なる可能性としての「価値」でしかない。2) は、ある商品が同一品種、他品種の他の諸商品の生産に要する労働時間との関係に入り、その商品の価値がそれらの諸商品の生産に必要な労働時間に依存することを意味する。価値はその商品の労働時間だけによってではなく、「それが生産され得る時間の最小限」によって決まるのである。


D. マルクスのリカ−ドウ価値論批判:統一性把握の欠如

 マルクスはその初期の時代から、「貨幣」の「呪物崇拝」や「貨幣」に対する英仏の経済学者達の対立を、「商品」把握との関係から問題にしてきた。フランスの経済学者達は、金・銀のみを貨幣と看做し、それを生産物の本来的「価値」の破壊者として非難すること。これに対して、「完成した貨幣国民」たるイギリス古典派経済学は「貨幣性〔Geldwesen〕を金・銀のみに認める迷信から解放されていること。しかし、ブルジョア社会における生産物の価値とは、結局「交換価値」であるから、古典派経済学も貨幣の「呪物崇拝」そのものを止揚できないでいること。それを止揚するためには、「貨幣」の止揚という実践上の課題が不可欠であること等である[18]。
 ところで、プル−ドンは貨幣の普遍的交換可能性を、1) 価値比例性(均衡)の法則」を基礎として、2) 「金と銀が、その価値が自己の構成〔構成状態〕に到達した最初の商品である」ということから説明している。
 「価値比例性(均衡)の法則」とは、「価値とは、富を組成する諸生産物の比例性(均衡)関係である」(S.89,85,51)という規定を言い換えたものであり、「生産全体に対するこの生産物の比例的割前」を意味する。
 「構成されてしまっている『比例性〔均衡〕関係』(価値……大石)などというものは存在しない。構成する一つの運動が存在するのみである」(S.94,92,58)ことを明らかにしたマルクスにとって、この貨幣論は「一般的交換媒介物」が「金と銀」に帰属させられるという二次的問題の説明でしかない。ブルジョア的な生産・交易諸関係が特殊な交換媒介物を貨幣として必要とすることこそが問題なのである。
「特殊な交換媒介物の必要、即ち貨幣の必要を一度認めたならば、残る問題は、何故この特殊な機能が他の一切の商品ではなく金と銀とに帰属させられる方が良いのかの理由を説明することだけである。それは、最早生産諸関係の連鎖によっては説明されないで、物質としての金と銀とに固有な特性によって説明される二次的な問題である。」(S.10 7,116,80-1)
 この「価値比例性」の問題は、結局「貨幣」を「一つの社会関係」として、「一つの生産関係」(S.107,115,80)として、貨幣と他のブルジョア的諸関係との内的連関を解明することである。
「貨幣とは、一つの物ではなくて、一つの社会的関係である。貨幣関係が、他の一切の経済的諸関係例えば分業等と同様に、一つの生産関係であるのは何故か?もしプル−ドン氏がこの関係をよく理解していたならば……この関係が〔経済的諸関係の全連鎖の……独語版〕一つの環であって、そのようなものとして他の〔経済的〕諸関係の全連鎖と緊密に結付いていること、また、この関係が私的交換と全く同様に一定の生産様式に照応したものであることを認めたであろう。」(S.107,115-6,80)
 確かに、貨幣は他の諸商品の価値尺度である。しかし、その貨幣自体、金・銀として一つの商品であり、その価値は固定・不変ではない。それ故、貨幣の普遍的交換可能性は、その価値が「最初に構成された」ことに基づくものではない。むしろ、貨幣は諸商品の価値決定を前提しているのであり、その必然性はこの価値決定の方法自体に求められなければならない。
「金と銀が事実の上でも何時でも交換可能なのは、現在の生産組織が普遍的な交換媒介 物を必要とするからである。」(S.112,123,88)
「貨幣は、『構成された価値』ではない。何故なら、一つの価値は単独に構成されるものでは決してないのだから。一つの価値はただその価値のみを生産するために必要な時間によって構成されるものではなくて、それと同一の時間内につくりだされる他の一切の生産物の分け前に対比して構成されるものなのである。それ故、金と銀との構成は他の多くの生産物の全く既与の価値構成を前提条件としているのである。」(S.108,118, 82)
 そこで問題になるのが、価値表現の「回り道」である。一商品の価値は、その全面的な譲渡・販売において、他の諸商品の使用価値(現物形態)の一定量という形で表現される他ない。『貧困』の次の一節は、マルクスがこの「回り道」を実質的に把握していることを示している。
「銀貨に〔かつて〕与えられ、かつ〔現に〕与えられている刻印は、銀貨の価値の刻印ではなくて、銀貨の重量の刻印である。」(S.109,119,84)
 この点は更にマルクスの価値規定によって裏付けられよう。
1) マルクスは価値決定の方法を「労働の社会的配分」のブルジョア的形態として把握していること。
2)  この「労働の社会的配分」様式の特徴が、その配分が前以て決定されていない点にあることが把握されていること。
3)  従って、その価値概念が、(1) 私的労働の社会的労働への転化、(2) 価格変動ないし自由競争、(3) 社会的必要労働時間の生成、の三契機から把握されていること。
 諸商品に含まれている私的で、個別的な労働量は、価格変動を通じて、各々社会的労働の一定量として評価を獲得する。従って、そこには「一般(普遍)的等価物」が事実上成立している。貨幣とは、こうして生成する「一般的等価物」であり、金貨・銀貨はこの一般的等価物が金・銀という特殊な金属に固定されたものに過ぎない[19]。
 このように、『貧困』におけるマルクス「価値」概念は、それから「貨幣」を発生的に展開し得るものであり、商品と貨幣との「同一性」を含むものなのである。ブルジョア的生産・交易諸関係そのものが、一つの「普遍的交換媒介物」を必要としており、その意味でブルジョア的諸関係は不断に貨幣を生産していること。諸商品の交換過程は、同時に貨幣形成過程であること。ブルジョア社会における貨幣の普遍的交換可能性は、このように貨幣が特殊・歴史的な社会関係であることから始めて説明され得るのである。
 ところが、こうした商品と貨幣との必然的関係は、リカ−ドウによっては全く問題にされていないのである。成程、彼は貨幣が一つの商品であること、貨幣の内在価値は他の商品同様「生産費」であること、資本構成が中位的であることから日常的には価値尺度とし得ることを把握している。しかし、彼には「価値の交換価値への転化」、「商品の貨幣への転化」の必然性を解明するという意識はない。その意味で、『貧困』「第一章 第三節」のプル−ドン貨幣論批判は、そのままリカ−ドウ価値論批判なのである。


E. おわりに

 マルクス「経済学批判」の方法とは、ブルジョア的諸関係の歴史性と統一性を理論的に把握する方法である。即ち、経済学的諸範疇の「歴史性」および「統一性」規定を通して、歴史的で、相互に連関しているブルジョア的生産・交易諸関係をそうしたものとして把握する方法である。マルクス価値論の課題は、最も基礎的関係である「商品」の「歴史性」と「統一性」を規定することにある。
 しかし、古典派労働価値説はその最良の成果であるリカ−ドウ価値論においてすら、生産物の歴史的形態である「商品」の必然性や「商品と貨幣の内的連関」については何も明らかにしない。それは単なる価値の「量」規定でしかなく、次のように定式化できる。
 「価値」=「生産費」=「平均賃金」+「平均利潤」
           ≒「投下労働量」=「賃金」
 この「生産費」は「生産価格」であり、定式中の「≒」は「ほぼ比例する」関係を表わす。諸商品の交換比率はそれらに投下された労働量(「賃金」から推計された)の相対量にほぼ比例するという主張である。
 これに対して、『貧困』の「価値」概念は、次のように定式化できる。
 「価値」=「生産費」=「投下労働量」=「投下労働時間」
 価値の量的規定に限定として見ると、「生産費」が生産過程によって裏付けられた「労働時間」に還元されていることである。ここに、「投下労働量」と「生産費」概念に関して、リカ−ドウからの改鋳ないし再規定、即ち「批判」が見られる。
 しかし、決定的に重要なことは、「価値」の「質」規定によって「商品」の「歴史性」および「統一性」が把握されていることである。
 先ず、リカ−ドウの「投下労働量」に対する批判を整理してみよう。それは、「歴史性」把握の面で、一定の「労働量」が何故商品の「価値」という歴史的形態を持つのかを解明ないと同時に、「統一性」把握の面で、それは「利潤」の論理的発生=Genesisi=起源を示すこともできない。
 次に、リカ−ドウの「生産費」概念の批判を整理して見よう。価値規定としてのそれの問題点は、単なる抽象不足──未展開の「平均賃金」と「平均利潤」が密輸入されている──でなく、「交換価値」を「労働の社会的配分」の一定の歴史的形態として把握する意識すらない点である。従って、「統一性」把握の面では、それが他の一切の諸範疇を展開する基礎たり得ないことである。「貨幣」、「利潤」、「平均利潤」等が、この「生産費」から説明・展開されるのではないのである。諸範疇間の「同一性」が示されない以上、その内的連関や発展関係の「必然性」は解明され得ないのである。
 これに対して、マルクス「価値」概念は、大工業とそれを背景とした私的交換の3面的競争をその歴史的成立諸条件とし、1)  私的労働の社会的労働への転化、2) 価格変動、3)  個別的労働量の社会的必要労働量への転化等の諸契機から成る。需要と供給が乖離する大工業の下では、労働を社会的配分する規則は自由競争以外に無い。従って、「労働の社会性」が商品「価値」という、「労働の社会的配分」過程が「交換価値」(価格変動)という物的、歴史的形態を持たざるを得ないのである。
 この「価値」概念は、他の一切の諸範疇を発生的に説明・展開する「始元」──「端初」と同時に「原理」──であると同時に、「商品」把握という限定された論理次元においてはであるが、ブルジョア的諸関係の人類史上の意義を明らかにするものである。即ち、ブルジョア的諸関係(=社会)は歴史上最も発展した諸関係であるが、未だ人間が生産過程によって支配された、その意味で前者が後者を制御する「真に人間的」(=類的)な諸関係のカリカチュアでしかないということである。


巻末注********************************

[1]. 新MEGA, II-3、Teil 3、 SS.815-6. 

[2]. 「我々の見解の決定的な諸論点は、1847年に刊行されたプル−ドンに反対した私の著作『哲学の貧困』の中で、単に論争の形でではあったが、始めて科学的に示された。」『経済学批判』「序言」、国民文庫、17-8頁。 

[3]. マルクス価値論の成立史研究の中で、マルクスがリカ−ドウ価値論の「否定」ないし「拒否」から、その「肯定」ないし「受容」に転向したと主張するマルクス「転向」論には次の二タイプがある。即ち、1) 『貧困』は「文字通りリカ−ドウの忠実な継承である」か、それ以下(「一面的」な継承)でしかなかったとする吉沢説(「マルクスにおけるリカ−ドウ理論の発見と批判」『社会科学年報』4号)と、2) 『貧困』のマルクスが数点でリカ−ドウ価値論を超えていることを認め、それを「唯物弁証法」の適用で説明するロ−ゼンベルグ説(『初期マルクス経済学説の形成』)である。『貧困』の両章の連関を捉えて点で、確かに後者は前者に優っている。しかし、その連関を彼らは次のように説明する。即ち、「商品」分析の外部に「一般的な形で……定式化した唯物弁証法の基本的諸命題」を「商品」に「適用」したのだと。

[4]. プル−ドン価値論にリカ−ドウとブレイのそれを対置したのは、後者に依拠して前者を批判するためではない。ただ次のことを論証するためでしかない。即ち、彼が経済学者も社会主義者も「止揚」しておらず、むしろ両者の「下位に立」ち、「両者の間を揺れ動いている」単なる「プチ・ブルジョア」に過ぎないということである。

[5]. ここでは、最早リカ−ドウもブレイも対置されない。それは対置すべき理論を彼らが持たないからである。従って、ここでのプル−ドン批判は、直接にリカ−ドウ批判である。

[6]. 拙稿「『経済学的諸範疇の批判』とは何か」『拓殖大学論集』170号参照。

[7]. 商品の「質」的規定こそは、「商品」の歴史性や「商品」と「貨幣」の有機的統一性(内的連関)を把握するための鍵であり、マルクス価値論をリカ−ドウのそれから区別する種差である。『資本論』第一篇、第一章の(注31)および(注32)参照。

[8]. Works of David Ricardo, Vol.1, P.47.

[9]. 「労働時間」が使用され始めるのは、『聖家族』以後であるが、ヘ−ゲルが『法哲学』の中で奴隷と賃金労働者とを区別して「時間決め販売」を説いていたことを考えれば、もっと早い時期に獲得されていたものと思われる。

[10]. Works of David Ricardo, Vol.1, PP.46-7.

[11]. これこそ「価値と価格の混同」であり、マルクスが初期から批判しているリカ−ドウ学派における「価格変動」=「競争」の捨象の問題である。即ち、リカ−ドウ学派は「価値」を「自然価格」にまで発展させる「競争」を「偶然的」として捨象することで、「私的所有」(=商品)と「生産費」との内的連関を看過し、その経済学自体を「偶然的」なもにしているという批判である。別言すれば、『原理』において「利潤」や「平均利潤」が説明されていないということである。

[12]. 1868.7.11付け、クーゲルマン宛の手紙。


[13]. Ian Stedmanが、「価値」、「労働量」、「生産費」の三者を同義語としているのは誤りであろう。Marx on Ricardo: in, Classical and Marxian Political Economy, The Macmillan Press,1982,P.121. 尚、中村廣治氏の綿密な研究によって、リカ−ドウ価値論に関する通説的解釈も変更された(「リカ−ドウ労働価値論の再検討」『経済論叢』(広島大学)10-3号参照)。


[14]. この「最低限」は、長期的な「最低限」であり、スミスのそれと同じである。
「独占価格は、どんな場合にも、獲得できる最高の価格である。これと反対に、自然価格、即ち、自由競争価格は、成程どんな場合でもとは言えないが、かなりの期間にわたって得ることのできる最低価格である。」(『国富論』、中公文庫版、I、104頁)   
 勿論、『1861-3年草稿』でもこの表現が使われており、エンゲルスが『貧困』独版で「『資本論』において、上記の命題を正しい位置に置く」(S.83,76,41)と注記しているのは誤りである。

[15]. 『資本論』には、次のような一節がある。
「ところで、経済学は、不完全ながらも、価値と価値の大きさとを分析し、そしてこれらの形式のうちに隠されている内容を発見した。しかし、経済学は何故この内容がかの形式をとるのか、何故労働が価値に、そして何故その継続時間による労働の計測が価値の大きさに表現されるのか、という問題は、未だかって提起したことさえなかった。そ生産過程が人間たちを支配していて人間は未だ生産過程を支配してはいないという社会構成体に属するものだということがその額に書かれている諸範式は、ブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものと全く同じように自明的な自然必然性として認められているのである。」(MEW,Vol.23, SS.85-7)

[16]. 『国民経済学批判大綱』においてエンゲルスは、「本源的なものであり、価格の源泉である価値が、それ自身の産物である価格に従属させられている」(MEW, Vol.1, S.508)と経済学における「価値」と「価格」の「転倒」を批判している。

[17]. 『賃労働と資本』でも、「生産費」は次のように規定されている。
「価格が生産費によって決定されるということは、価格がその商品の生産に必要な労働時間によって決定されるということである。というのは、生産費は、1) 原料と用具、即ち、その生産にある日数を費やし、従って一定量の労働時間を表示している工業生産物と、2)  同様に時間をその尺度とする直接的な労働から成っているからである。」(山中隆次訳角川文庫版、23頁)


[18]. 『ユダヤ人問題によせて』、『経済学・哲学草稿』(岩波文庫、160頁)、「ミル評註」(旧MEGA, I-3、SS.532-3 、新MEGA, IV-2, SS.449-50)、『経済学批判』「第一章 A 商品分析の史的考察」(国民文庫、63頁)等を参照。

[19]. ここで既に「ミル評註」で「等価物」「同等物」「代替物」等の概念が成立していたことに注目しなければならない。管見によれば、『貧困』には「一般的媒介物」しか見出せないのであるが、それは「第一章」の目的──価値論におけるプル−ドンの混乱の解明──から来る制限でしかないだろう。