マルクスとエンゲルスの社会主義論

−−『反デューリング論』と『資本論』の対比を中心として−−

                 大 石 高 久      

 

【目次】

I. はじめに

II. 『反デューリング論』と『資本論』の同一性と差違性

III. 差違性のゲネジス

IV. 資本の本質把握と経済学批判・社会主義批判・哲学批判

V. おわりに 

 

I. はじめに

 A. 本稿の目的

 本稿の目的は、マルクス社会主義 論を彼自身の言葉から明かにすることである。「生産諸手段の国有化」と「集権的計画経済」を二大特徴としたソ連型社会主義が崩壊した今日、マルクス社会主義論を解明する意味は、従来とは異なる意味を持つ。つまり、以前にはソ連型社会主義とマルクスとの関係が問題であったのに対して、今日ではソ連型社会主義の崩壊とマルクスとの関係が問題になる。ソ連型社会主義の崩壊がマルクス社会主義論そのものの欠陥を意味するのか否か、が問題となる。本稿は、この問題に答えるための基礎的作業である。

 マルクス社会主義論は、マルクス研究の中で最も基本的テーマであり、それこそ枚挙に暇が無いほどの研究蓄積がある。従って、読者の中には、何故、今そうした作業が必要なのか、疑問に思われる向きもあろう。答えは簡単である。未だ十分理解されていないからである。従って、それが「適用」あるいは「実現」 されたことはない。例えば、『経済学・哲学草稿』−−以後、『草稿』−−以降、マルクスは将来社会を「連合[Assoziation] 」と記している にも拘らず、この概念は最近まで殆ど看過されてきたのである。にわかには信じられないかも知れない。そこで、マルクス理解を阻んできた諸原因の考察を通して、この点を説明しよう。

 第一の原因は、エンゲルスの影響である。マルクス死後、彼は自他共にマルクス理論の唯一・絶対的解説者として認めてきた。確かに、マルクス理論の普及という面での彼の貢献は否定できない。ところが、そこに俗流化という否定面も潜んでいたことを見逃すことはできない。生い立ちも、知的経歴も異なる二人の間に、細かい点で差違性が存在したとしても驚くには当たらない。むしろ、当然であろう。ところが、例えばエンゲルスの『反デューリング論』−−以後、『反』−−をマルクスの『資本論』と細かく比較・対照すると、両者の間には「社会的所有」や「自由の領域」等、基本的な点で差違性が認められる。マルクス理論の唯一・絶対の解説者としてのエンゲルスの権威が、そうした重大な差違性の存在を看過させてきたと思われる。エンゲルス自身はマルクスの社会主義論を十分理解していなかったにも拘らず、自分なりに解釈したマルクス理論を、マルクス自身の理論として解説したのではないか。逆にいえば、エンゲルスは自分の社会主義論を無自覚的にマルクスのそれとして普及させてきたのではあるまいか。このことは、『反』が「マルクス主義の歴史において『資本論』とならぶところのもっとも重要な古典的著作」として、「マルクス主義全体に対する最良の入門書」 と見做されてきたことからも窺える。

 第二の原因は、ソビエト・マルクス主義ないしスターリン主義の影響である。マルクスの著作である『十八世紀の秘密外交史』や『草稿』がなかなか出版されず、特に後者は、出版後もその素晴らしい理論的内容が完全に無視されきた。このことは、ソ連共産党がナショナリズムや特権の維持に都合の良いものだけを公表してきたことを意味する。彼らにとっては、「自由人の連合」を説くマルクスよりも、「社会が公然と直接に生産諸手段を掌握する」と説くエンゲルスの方が便利だったに違いない。彼らは、マルクスの名の下に、実はエンゲルスの思想・理論を、しかもその都合の良い部分だけを強調し、人民抑圧の手段としてきた可能性が強い。「マルクス・エンゲルス一体」説も、ソビエト・マルクス主義によって強調されてきたものである。

 第三の原因は、言うまでもなく、研究者自身にある。ソ連の権威を傘に、マルクスの著作を自分で読むことを怠り、結果的に人民抑圧のイデオロギーの普及に加担してきた研究者も少なくないはずである。

 その阻害原因が何れであれ、現在はマルクスの社会主義をあるがままに理解する絶好の時期と言える。第一に、ソビエト・マルクス主義が崩壊した今、我々はソビエト・マルクス主義やエンゲルスの解釈から自由に、自分の頭でマルクスの著作を読めるようになったからである。第二に、現在の情況がマルクス自身の時代に近似しているからである。マルクスが社会主義者となった1840年代、マルクスの眼前にも種々の社会主義が存在し、オーウェン等の実験と失敗があった。マルクス社会主義論は、それらの批判の上に形成されたのである。その意味では、ソ連型社会主義の理論的反省は、マルクス自身の理論形成過程と重なり合う。否、マルクスの理論形成過程の研究が、ソ連型社会主義への批判ともなるし、ならねばならない。ソビエト時代に禁書とされてきた『草稿』を囚われない目で読み直すことが、真のマルクス社会主義論を知る必要条件である。

 B. 本稿の方法と構成

 従って、本稿でも、『草稿』や『ドイツ・イデオロギ−』−−以後、『ドイデ』−−等の初期諸文献からそれ以後の諸文献を読み直すことによって、マルクス社会主義論の真相に迫る。こうして明かになるマルクス社会主義論は、間接的にはであるが、現代資本主義と残存する「ソ連型社会主義」の変革 に、光を投げ掛けるであろう。

 マルクス社会主義論を明かにする上で、マルクスの記述を「生産諸手段の国有化」と「集権的計画経済」に分類することは、一見有効に見える。しかし、本稿ではそうした分類を敢えてしない。そうした分類に従うこと自体、ソビエト・マルクス主義に影響されることだからである。本稿ではむしろ、マルクスとエンゲルスの後期の諸著作、即ち、『資本論』と『反』の社会主義論を対比し、両者の間の目立った差違性を足掛かりとして、そうした差違性を生み出した思想的・理論的差違を追求していくことにする。

 以下本稿は次のように展開される。先ず、後期の『資本論』と『反』の比較・対照を通して、両者の間にある重要な差違性を、特に「自由の領域」及び「社会的所有」概念を中心に明かにする(II)。次に、それらの差違性を引き起こした、両者の思想・理論上のより根本的な差違性を、「生産諸力」と「領有」概念を中心に解明する(III)。最後に、「資本の本質」把握が、「経済学批判」体系において持つ意義について解明する(IV)。マルクスの社会主義が資本家的生産諸関係の積極的止揚とされている以上、その性格は「資本の本質」把握によって規定されている。「資本の概念」から区別されるところの「資本の本質」概念の内実と、それが「経済学批判」体系の中で持つ意義が解明される。

 尚、通常マルクスとエンゲルスの共著とされる『ドイデ』と『共産党宣言』ーー以後、『宣言』ーーを、本稿では基本的にマルクスの著作と見做しそのように扱う。それはエンゲルスが単独で記した『共産主義の原理』ーー以後、『原理』ーー等での論理と異なっているからである。それらの著作では、『原理』に類似した表現が新しい光の下に、別の論理の中に読み込まれているからである。更に、本稿では、所謂「初期マルクス」と「後期マルクス」、『草稿』と『ドイデ』を基本的に整合的なものとして扱っている。これらの間の「断絶」がソビエト・マルクス主義によって巧妙に作り出されたイデオロギーでしかないことは、行論が示すであろう。

 

II. 『反デュ−リング論』と『資本論』の同一性と差違性

 本章では、『反』「第三篇 社会主義 第二章 理論的なこと」を『資本論』「第1部 第二四章 第七節 資本家的蓄積の歴史的傾向」及び「第三部 第四八章 三位一体的定式」を比較・対照し、そこに看取される両者の社会主義論の差違性を確認する。

 A. 『反デューリング論』の社会主義論

 『反』の特徴は、現代のあらゆる衝突を「社会的生産と資本家的領有[Aneignung ]との間の矛盾」(,204,208)から展開し、社会主義をこの「矛盾」の「真の解決」として示している点にある。「社会的生産と資本家的領有の矛盾」とは、生産が社会的であるにも拘らず領有様式は私的であることを指す。つまり、「個々人[einzelnen ]の生産手段から、人間の集団によってしか使用することのできない社会的な生産手段に」(_,201)、「生産そのものも一連の個人的な行為から、一連の社会的行為に」(_,201)、また「生産物も個々人の生産物から社会的生産物に変わった」(_,201)にも拘らず、「商品生産の領有様式」は「そのまま通用」(_,202)し、資本家は「他人労働の生産物」を引き続き私的に領有し続けている(_,202)ことを指す。_プロレタリアートとブルジョアジーの対立、_工場内組織化と社会的生産の無政府性、_恐慌の三つは、この矛盾の発現形態として展開されている。

 勿論、資本家もこうした衝突を無視することはできなくなり、資本関係の内部での矛盾の解決を図る。そうした解決には、生産諸手段の社会化の程度に応じて、_「さまざまな種類の株式会社」、_(国内の同一産業部門の大生産者たちが連合してつくる)トラスト、_(一産業部門全体での)一つの大きな株式会社 _「郵便、電信、鉄道」部門の国家的所有への転化、の四段階がある。

 勿論、「国家」は「資本主義社会の公式の代表者」に過ぎない。従って、「国家的所有[Staatseigentum]」といえども「生産諸力の資本としての性格を止揚するものではな」(_,216)い。それはむしろ、資本関係の頂点である。しかし、この国家的所有の中には、基本矛盾の「真の解決」の手がかりがある。つまり、「真の解決」は、生産諸力の社会性を認め「生産、取得、交換の様式を生産手段の社会的性格と一致させる」(_,216)こと以外にはない。しかし、そのことは「社会が公然と直接に掌握することによってのみ、果たされる」(_,216)という手掛かりである。こうしてエンゲルスは、プロレタリア−トが国家権力を掌握し、徐々に生産諸手段を「国家的所有に転化」し、生産を計画化して行くという。

 B. 『反デュ−リング論』と『資本論』との同一性

 以上の社会主義論が、その大枠(繰り返さないが)において『資本論』のそれと一致することに疑問の余地はない。しかし、少し注意深く読むと、同一用語、類似表現が用いられているにも拘らず、その基本的部分におい、両者が異なっていることが判明する。以下、比較的分かりやすい大きな差違性を取り上げてみよう。

 C. 『反デュ−リング論』と『資本論』との差違性

  1. 自由の領域と必然の領域

 『反』と『資本論』との間の、議論の余地の無い最も明白な差違性は、両者の「必然の領域」と「自由の領域」の把握である。『反』では次のように記されている。

「人間は、自分自身の社会的結合の主人になるからこそ、またそうなることによって、今やはじめて自然の意識的な、本当の主人になる。これまでは、人間自身の社会的行為の諸法則が、人間を支配する外的な自然法則として、人間に対立してきたが、これからは、人間が十分な専門的知識をもってこれらの法則を応用し、従って支配するようになる。これまでは、人間自身の社会的結合が、自然と歴史とによって押し付けられたものとして、人間に対立してきたが、今やそれは、人間自身の自由な行為となる。.....これは必然の領域から自由の領域への人類の飛躍である。」(_,223)

 『反』における「自由の領域」とは、人間が「自分自身の社会的結合の主人」となり、それを制御することによって、人間から自立し、逆に人間を支配する社会的諸法則がなくなった状態を指す。他方、『資本論』の「自由の領域」は、次のように記されている。

「文明人が発展するにつれて欲求も拡大するのだから、自然的必然性の領域は拡大する。しかし、この欲求を充たす生産諸力も同時に拡大する。この領域内での自由は、ただ次の点にあるうるだけである。即ち、社会化された人間[der vergesellschaftete Mensch] 、連合した生産者達[die assoziierten Produzenten]は、盲目的な力によって支配されるかのように自然と彼らの物質代謝によって支配される代わりに、この物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同の統制のもとにおくという点........にのみありうるだけである。しかし、これはやはりつねに必然の領域である。必然の領域の彼岸において、自己目的と看做される人間の力の展開が、真の自由の領域が始まるのである。」(_,828)

 つまり、マルクスにおいて物質代謝の合理的規制は、依然として「必然の領域」に属するとされている。一方、「自由の領域」は、「窮乏と外的な合目的性とによって規定された労働がなくなる時に、事実上初めて始ま」り、「事柄の性質上、本来的な物質的生産の部面の彼岸のもの」(_,828)とされている。生活のための生産が終了した後の、「自由(に処分できる)時間」こそが、真の「自由の領域」だというのである。従ってマルクスは、先の引用文に続けて、「労働時間の短縮が根本条件である」と述べている。

 この対比から判明する点は、次の二点である。第一に、「自由の領域」が異なり、『反』のそれは『資本論』の「必然の領域」内にあること。従って第二に、当然、『反』にはマルクス的意味での「自由の領域」が欠如していること。

  2. 社会的所有

 二番目に際立つ差違性は、両者の「否定の否定」理解である。デュ−リングは『資本論』「第二四章 第七節 資本家的蓄積の歴史的傾向」における「否定の否定」を、「個体的にして同時に社会的所有」と理解し、これを「朦朧とした混合形態」と批判した。エンゲルスのデュ−リング批判は、この箇所が生産諸手段の「社会的所有」と、その他の生活諸手段の「個人的所有」を説いたものと解釈すべきである、という点にある。

「誰でもドイツ語が分かる人にとっては、これはつまり、社会的所有は土地やその他の 生産諸手段に関するものであり、個人的所有はもろもろの生産物、即ち、消費対象に関するものだ、という意味である 。」

 整理すれば、次のようになる。

デュ−リング:「生産諸手段の共同所有」≠「社会的所有」=「個体的所有」

エンゲルス :「生産諸手段の共同所有」=「社会的所有」≠「個人的所有」

 「誰でもドイツ語が分かる人にとっては」とエンゲルスは自分の解釈に自信満々なのであるが、果たしてそうなのかどうか、『資本論』の当該箇所を引用し、対比してみよう。

「資本家的生産・領有様式は、従ってまた資本家的私的所有は、自己労働に基づく個体的私的所有の第一の否定である。資本家的生産は、一つの自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生み出す。それは否定の否定である。この否定は、個体的所有を再建するが、資本家的時代の成果に、つまり自由な労働者達の協業及び土地と労働そのものによって生産される生産諸手段に対する彼等の共同所有に基づく個体的所有を再建する。........資本家的私的所有の社会的所有への転化.......。」

 これを文脈上解釈すれば、デュ−リングの方が正しいことが判明しよう。

 「(自己労働に基づく)(個体的)私的所有」

≠「(他人労働の搾取に基づく)資本家的私的所有」

≠「(自由な労働者の協業及び生産諸手段の共同所有に基づく)個体的所有」

=「社会的所有」

 従って問題は振り出しに戻り、「個体的にして同時に社会的所有」が「朦朧とした混合形態」か否か、が問題となる。確認すべきことは、生産諸手段の「共同所有」つまり共同利用される点と、将来社会(社会的諸関係)においても、生活諸資料が個人に分配されるということに疑問の余地はない、という二点である。そこで、エンゲルスの解釈に対する次の二点で疑問点から出発しよう。先ず第一に、「社会的所有」把握である。この概念が「資本家的所有」に対置されていること、また「共同的所有」は「個体的所有」の基礎でしかないことから判断すれば、「社会的所有」は「個体的所有」を指すものと理解すべきである。第二に、「個体的所有」理解である。「個体的所有を再建する」という記述には、「消費対象」が個人に分配されるということ以上の「響き」があることである。

 問題をこの「第七節」に限定して言えば、『反』の「個人的所有」概念の中に、「労働者自身の自由な個性の発展」が含まれていないことである。「再建」とは、「資本家的私的所有」によって否定された「自己労働に基づく私的所有」の良い面を、「資本家の時代の成果の上で」引き継ぐことを意味する。事実、「自己労働に基づく私的所有」の歴史的基礎(「小経営」)と再建される「個体的所有」の歴史的基礎は対比的に描かれ、その中から「労働者自身の自由な個性の発展」が浮かび上がるようになっている。

「この生産様式[小経営]は、土地その他の生産諸手段の分散を前提する。この生産様式は、生産諸手段の集積を排除するとともに、同じ生産過程の中での協業と分業を、自然に対する社会的支配と規制を、社会的生産諸力の自由な発展を排除する。](_,789)

「資本主義時代の成果に基づく、即ち自由な労働者の協業及び土地と労働そのものによって生産される生産諸手段の共同的所有に基づく個体的所有を再建する。」(_,791)

 問題を「第七節」に限定しないで、他の諸文献も参考にして考えると、エンゲルスの「個人的所有」把握の不十分性は、明白なものとなる。つまり、『宣言』、『哲学の貧困』やマルクス自身が改訂した『資本論入門』(モスト著)の当該箇所は、各々「一つの連合[Assoziation] 」、「自由な労働者達の連合」となっている。これらは、「消費対象に関する」以上のものである。ここでは『資本論入門』から引用しておこう。

「こうして個体的所有が再建されるが、しかしそれは、近代的生産様式の成果の基礎の 上にである。土地及び労働そのものによって生産される生産諸手段とを共有する自由な 労働者達の連合が生まれる。」(_,109)

 こうした記述は、マルクスの「個体的所有」の内実が、「自由な労働者達の連合」であることを示している。「連合」とは、特定の目的のために結集した(自由・対等な)人々の組織ないし結集する行為をいう。これは諸個人相互の連関・関係行為であり、一つの「社会」である。従って、この「連合」概念を媒介として、マルクスの「個体的所有」と「社会的所有」が連結されると同時に、エンゲルスの「個人的所有」理解の没概念性が明白になる。整理すれば、マルクスの「否定の否定」は次のように定式化できる。

   「個体的所有」=「自由な労働者達の連合」=「社会的所有」

 要するに、「資本主義時代の成果の上に」つまり「自由な労働者達の協業」と「土地と労働そのものによって生産される生産諸手段に対する彼らの共同所有」に基づいて、(自己労働に基づく)自由な労働者達の「個体的所有」が再建される。それは「自由な労働者達の連合」の中にのみ成立可能であり、その限りで「社会的所有」である。

 以上、本章では『反』と『資本論』の間に差違性が存在することを明かにしてきた。「マルクス主義の全体に対する最良の入門書」と見做されてきた『反』。その『反』を、エンゲルス自身の著作としてはともかく、標準的『資本論解説』と見做すには重大な疑義が生じる。用語や記述は酷似しているが、その意味・内容が両者の間で異なるからである。そうした差違性は、エンゲルスの単なる不注意から発生したものでも、ましてや筆者の言い掛りでもない。それらは彼等の初期の段階から見られるものである。その意味では、彼等が歩んだ「別の道筋」の結果であり、彼等の思想・理論の本質的差違性から発生したものである。次章では、そうした両者の本質的差違を跡付け、マルクスの「個体的所有」・「社会的所有」概念を更に具体化してみよう。

 

III. 差違性のゲネジス

 本章では、前章で明かとなった差違性を生み出した根本的な差違性を抉り出すために、所有・領有、個人・社会・共同体の関係を考察し、『資本論』の「個体的所有」・「社会的所有」・「共同所有」概念を一層明確にして見よう。

 A. 所有の一般的規定と個体的所有

  1. 労働過程の三契機とその一般的性格

 人間は肉体的にも精神的にも自然を必要としており、自然との不断の交流(物質代謝)の中でしか生存できない。その意味で、自然は人間の非有機的身体であるが、人間の諸欲求に直接適合した形では存在しない。この加工対象としての自然が労働対象である。人間の合目的的活動としての、人間の精神的・肉体的諸能力の発揮が労働である。その際に用いられる彼の活動の伝導体が労働手段である。労働手段は人間の延長された肉体的諸器官であり、労働手段の発達は人間の諸器官の発達に等しい。人間の合目的的活動、労働手段、労働対象は労働の三契機であり、その何れが欠けても労働は成立しない。能動因としての人間の合目的的活動から、他の二契機を区別して生産諸手段と呼ぶ。

 人間の合目的的活動とは、労働のその自然的(外的)諸条件に対する関係行為であり、「人間の諸欲求に合わせて自然的なものを自己のものとすること(領有[Aneignung ])」(_,198)である。これが「領有」ないし「所有」の一般的意味である。所有は単なる自然の変形ではない。それは人間の精神的・肉体的諸能力の発現、目的の実現であり、人間はこの自然への働きかけを通して「自分自身の中に眠っていた諸能力[Potenzen]を発展させ、それらの働きを自分自身の制御の下におく」(_,192)ようになる。しかも、所有は通常孤立的にではなく、幾人かの共同作業として行なわれる。従って人間は、他人との協業を通して、「彼の種族能力[Gattungsverm喩en]」(_,349)をも発展させる。そうした意味で、労働・所有とは、人間を他の動物から区別する種差、即ち「意識を持った類的存在[bewuァten Gattungswesen]」(_, 96)の発現であり、それを確証する行為である。

  2. 資本家的生産の歴史的特徴

 しかし、労働過程の三契機はやがて分離される。労働が、その実現諸条件から切り離され、その分離が再生産されるようになる。資本家的生産・領有の生成・発展がそれである。こうした状況下において、労働者は彼自身の「生命活動」・「富の可能性」・「創造力」である「労働能力[Arbeitsverm・gen ]」を時間決めで資本家に譲渡し、資本家の指揮命令[Kommando]に従う以外に生活する術を持たない。「労働力の使用即ち労働は、資本家に属す」(_,200)ようになり、労働過程は「資本家による労働力の消費過程」に、「資本家が購入した物と物との間の過程」(_,200)に転化する。労働は直接的生産者達の欲求や資質の発現ではなくなり、彼の生活の一部つまり個性の発揮ではなくなる。労働は今や生活資料獲得のために止むを得ない犠牲でしかなく、労働者の真の生活は、就業時間後に始まる。労働力の他人への譲渡、他人の指揮命令に応じた労働力の発揮は、人間に特徴的な事柄である。これは「意識を持った類的存在」という人間の長所が、労働が生産諸手段から分離した結果、人間の短所に転化された形態である。

 労働能力の譲渡は、労働と労働生産物を媒介して他人と交通する能力の譲渡でもある。生産過程における労働者の協業は、それが労働者自身による自覚的結合によってではなく、資本家の指揮命令によって始めて創出される。従って、それは資本の力である。労働生産物が資本家に帰属し、商品として販売される以上、労働生産物を介した諸個人の交通もまた、生産者自身とは無関係なものとなる。労働者は、自己の生産物を相互に補完し合う社会的力を喪失するのである。このように、労働者の個人的・社会的諸力の喪失は、労働とその外的諸条件との分離の必然的帰結である。直接的生産者からの生産諸手段の分離は、生産者達にとって決定的な意味を持つのである。

  3. 個体的所有

 このように考察してくると、『資本論』第一巻「第二四章」が、_労働諸条件の占有主体、_直接的生産者、_両者の関係(結合)としての生産・所有を中心に展開されている必然性も理解できる。即ち、先ず最初に「労働諸手段と労働の外的諸条件とが私人に属する」か否かが、次いで「この私人が労働者であるか否か」が、最後にそれらの生産・所有の一般的特徴付けが記されている。そうした生産様式の類型が、次の三者である。

「自己労働、所謂個々の、独立した労働個体と労働諸条件との結合に基づく私的所有」

__「形式的には自由な、他人労働を搾取することに基づく資本家的私的所有」__「自由な労働者達の協業及び....生産諸手段の共同所有に基づく個体的所有」

 重要なので繰り返そう。「個体的所有」は「資本家的生産・領有諸関係」に取って代る、新しい「生産・領有諸関係」の一般的特徴付けである。それは、新しい基礎上で労働とその諸条件との一体性を回復した、新しい生産・領有諸関係の規定である。

 次に、個体的所有が「再建される」、ということの意味を考えてみよう。その「再建」が「否定の否定」である以上、この考察は資本家的生産様式によって駆逐された「小経営」を検討することとなる。「小経営」の肯定的側面は、それが「繁栄し、その全エネルギーを発揮し、その十全で典型的な形をとるのは、ただ労働者が自分自身の使用する労働諸条件の自由な所有者である場合」であり、それが「社会的生産及び労働者自身の自由な個性の発展にとって一つの必要条件である」という点にある。

 検討すべき事項の一つは、生産者自身による労働諸条件の占有が、彼らの普遍的な個性の発展の基礎である、という点である。しかし、この点については既に(本節1.)述べた。二点目は、小経営が「社会的生産の基礎」だ、という点である。今この点を、小経営とそれに先立って存在した生産様式との比較から考えてみよう。生産諸手段が諸個人から自立した共同体に属する場合、彼らの労働はその共同体に帰属することを意味した。諸個人はその具体的労働を通して共同体に参加し、諸個人は共同体に埋没していた。しかし、「労働者が自分自身の使用する労働諸条件の自由な所有者」になることで、諸個人は共同体から解放され、自立し始めたのである。諸個人の労働の関係は、共同体的労働−−「他人と共に同時に遂行される労働」(_,134)−−から、より間接的な社会的連関へと移ったのである。直接的には私的労働でしかない諸個人の具体的労働が、商品交換を通じて始めて、他人にとって必要な労働であったこと(社会的総労働の有機的一肢体を構成すること)が実証される。小経営は、直接に社会的な(共同体的)生産以外の、社会的な生産を生み出したのである。商品生産と商品交換を通した人間の社会的交通を、労働と労働生産物の相互補完関係を生み出したのである。

 「第一の否定」とは、資本家的生産様式が生産過程の内部で共同的労働(協業)を発展させると同時に、それとは対照的な人間の社会的交通諸関係の樹立を通して、小経営を駆逐したことを意味する。生産の内部での相互補完関係及び労働生産物の相互補完関係の発展は、差当り生産者から自立し、逆に生産者を支配する形態で展開しているが、明かに諸個人相互の社会的諸関係であり、諸個人が生み出したものである。それは、諸個人に対立する形での、諸個人の社会的諸能力の発展である。

「物的依存関係の上に築かれた人格の独立性は、[社会の]第二の大きな形態であり、この形態において始めて、一般的社会的物質代謝、普遍的諸連関、前面的諸欲求、普遍的諸能力といったものの一つの体系が形成される。」(_, 91)

 従って、「第一の否定」の否定である個体的所有の「再建」とは、単なる「消費手段に関わるもの」では全くない。資本主義時代に作り出された諸個人の普遍的な社会的(生産・交通)諸関係(その内実である普遍的に発展した生産諸力)という新しい基礎上で労働と労働諸条件の一体性を回復し、労働者達がその個性を普遍的に発展させることを意味する。そのことは、後に述べるように、普遍的に発展した人間の社会的交通諸関係(協業と交換)を、「自由な労働者達」が自覚的に結合し、自分達自身の社会的諸力として発揮することによって始めて可能となる。それはまた、彼らの生産・領有が、「自由な労働者」一人ひとりが現実に「意識をもった類的存在」であることを実証し、確証するようなものとなることを意味する。『経済学批判要綱』は次のように記している。

「諸個人の普遍的な発展の上に築かれた、また諸個人の共同的・社会的生産性を諸個人の社会的諸能力として服属させることの上に築かれた自由な個体性は、第三の段階である。第二段階は第三段階の諸条件を作り出す[普遍的な社会的物質代謝、普遍的諸連関、全面的諸欲求、普遍的諸能力といったものの一つの体系が形成される]。」(_, 91)

 B. 生産諸力の領有

  1. 領有の対象

 『ドイデ』は、資本家的私的所有に代わるプロレタリアの「領有」の性格が、領有の対象、領有する主体、領有方法によって規定されている、と記している。そこで、我々もこれら三項目に即して、『反』と『資本論』の社会主義論をより詳細に比較してみよう。

 『ドイデ』は、領有の対象を「ひとつの総体へと発展したところの、そしてひとつの普遍的交通の内側に存在する限りでの生産諸力」(_,157)としている。一見不思議に思われるかも知れないが、『資本論』の当該箇所に「生産諸力」自体は見当らない。その生産諸力がより具体的に列記されているからである。他方、『反』は「生産諸力と生産様式の矛盾」を幾度か強調し、「社会的な生産諸力としてのそれらの性格が事実上承認されることを、迫る」(_,213)と記している。

 しかし、いざ「生産諸力の領有」という次元になると、エンゲルスは殆ど「生産諸手段の領有」だけを問題にしているに過ぎない。例えば、「資本関係の内部での矛盾の解決」も、「生産諸手段の社会化」に応じた分類である。また、「生産諸力の国家的所有」とか「生産諸力を、社会が公然と直接に掌握する」という表現は、逆に彼が「生産諸力の領有」を「生産諸手段の領有」と同一視していることを窺わせる。事実、社会を諸個人の社会的(生産・交通)諸関係の総体として把握していたら在り得ないような、「社会が生産諸手段を掌握する[besitzergreifen] 」という表現が頻出する。次の一節は、その典型例である。 

「この解決は、近代の生産諸力の社会的本性を実際に承認すること以外に、従って生産、領有、交換様式を生産諸手段の社会的性格と一致させること以外にはあり得ない。そしてこれは、社会の手にまかせる以外に、何者の手にも負えないほどに成長した生産諸力を、社会が公然と直接に掌握することによってのみ、果たされる。」(_,216)

 この「生産諸力の領有」と「生産諸手段の領有」との同一視は、断じて些細な問題ではない。それは単なる便宜的な用法でもない。それは、彼の「領有・所有」概念から必然的に発生するものである。「生産諸手段」は労働対象と労働手段であるから、生産諸手段の「領有」は、生産諸手段が誰に帰属するかだけを意味する。エンゲルスの場合がまさにそうである。上記引用文で、「生産諸力」の社会的本性の承認が、「生産諸手段」の社会的性格との一致を意味し、それは結局「社会が生産諸手段を掌握する」ことと同義とされていることに注意すべきである。

 他方、「生産諸力」は物質的な生産諸手段の他に、生産者達の「協業」を含む。否、領有対象である普遍的生産諸力は、「ひとつの普遍的交通の内側に存在する」(_,157)だけであり、労働者達の普遍的交通を離れては存在しない。それ故、「生産諸力の領有」とは、労働者達が彼らの普遍的な交通諸関係を自分達の制御のもとで行なうこと、自分達の社会的諸力を他に譲渡しないで自分達の諸力として発現すること以外のなにものでもない。従って、マルクスが「個体的所有」の基礎として、生産諸手段の「共同所有」に先立って「自由な労働者の協業」を指摘していることは、一貫したことである。

 ところが、『反』の「領有」概念は、この協業つまり生産者達の生産・交通関係を含まない。それは生産物や生産諸手段の掌握を意味する。このことは、先の引用文中で「生産、領有、交換」が並記されていることに現われている。要するに、「領有・所有」概念が、両者の間で異なるのである。この差違性が、初期からのものであることは、『宣言』と『原理』を対比すれば明かである。『原理』の「私的所有」は、資本家によって占有されている「生産諸手段」ないし「生産物」を意味している。他方、『宣言』の「所有」が「生産・交通諸関係」であることは、「近代的生産諸力の、....近代的生産諸関係に対する、所有諸関係に対する反逆」(_,13)である、という一節に端的に示されている。  

  2. 領有主体

 『ドイデ』では、領有する主体は「諸個人」であり、諸個人以外に主体はない。理由は、その生産諸力の担い手である労働者が、単なる労働力の担い手として個別的に生産過程に入り、そこで始めて「諸個人として、相互の結合に入る」からである。普遍的な生産諸力という領有対象は、彼ら自身の「普遍的交通の内側に存在する」のであり、労働者「諸個人....の力が生産諸力」(_,157)だからである。この点でも、両著作とも「プロレタリアート」で一致しているかに見える。

 しかし、先の「領有対象」や次の「領有方法」を意識して考察すると、微妙な差違が浮かび上がる。即ち、『反』では集団的性格の強い「国家」や「社会」が頻出するのに対して、マルクスの場合「自由な労働者達の協業」・「自由な労働者達の連合」等、「諸個人」の自立性を強調している、という差違性である

 この差違性も、偶然的なものではない。両者の思考方法の差違から必然的に生じたものである。エンゲルスの「領有主体」は、彼の「基本矛盾」及びその「真の解決」理解の結果である。他方、マルクスの場合も、『ドイデ』に見られるように、彼の「生産諸力」把握に基づくものである。

  3. 領有方法

 『ドイデ』では、「団結.......と革命」である。これを敷衍すると、次のようになる。

「この革命では、従来の生産・交通様式及び従来の社会的編成の力が覆される一方、プロレタリアートの普遍的交通及び領有を成し遂げるのに必要なエネルギーが発展し、更にプロレタリアートは、彼が従来置かれていた社会的地位のせいで自分の身にまとい付けていた一切のものを剥ぎとる。」(_, 161)

 「否定の否定」としての「個体的所有」が、モストの『資本論解説』で「自由な労働者達の連合」と解説されていることは既に見た。その具体的内容が労働者達の普遍的な生産・交通諸関係であること、その意味で「個体的所有」は同時に「社会的所有」であることは、もはや繰り返す必要はない。此処ではただ、この立場が初期から一貫してものであることを確認しよう。即ち、規模のメリットと平等を同時に実現する「連合」によって「独占」を完全に根絶するということは、『草稿』以後一貫したマルクスの立場である。『宣言』でも概略次のように記されている。「組織されたプロレタリアート」の手への生産諸手段の集中は、「全生産様式の変革の手段」として不可欠ではあるが、「経済的には不十分で不安定」である。従って、やがて「すべての生産が、連合した諸個人の手に集中される」(_,38 )、と。

 ところが、『反』では、プロレタリアートが「国家権力を掌握し、生産諸手段を国家的所有に移」し、「社会の名において生産諸手段を掌握する」こと、と記されている。つまり、革命及び生産諸手段の「国家的所有」ないし「社会的所有」である。これは「基本矛盾」を中心に議論を展開する『反』の当然の帰結である。即ち、基本矛盾の解決は、「生産、取得、交換の様式を生産手段の社会的性格と一致させること以外には」ありえず、その「一致」は「社会の手にまかせる以外に何者の手にも負えないほどに成長した生産諸力を、社会が公然と直接に掌握することによってのみ、果たされる」(_,216)からである。しかも、この彼の立場は初期から一貫したものである。既に『原理』において、「社会は....分配を編成しうるであろう」とか「社会全体による、生産の共同的経営」というように、「社会」が中心的役割を担っている。では、この「社会」とは何を意味しするのであろうか。それは『資本論』の「連合」と同じものなのであろうか。節を改めて考察してみよう。

  4. 社会的所有

 前節「領有の対象」の項で引用した、「基本矛盾」の「真の解決」に関する『反』の記述で、「生産諸力」を「公然と直接に掌握する」とされた「社会」とは、それは、「真の全社会の代表者」としての「社会」であり、止揚されつつある「国家」である。それが、生産・交通諸関係の総体としての「社会」でないことは、次の一節から明かである。

「国家が真に全社会の代表者として登場する最初の行為−−社会の名において生産諸手段を掌握すること−−は、同時にそれの国家としての最後の独立した行為である。」(_,219)

 以上の考察から、『反』における「社会的領有」について、次のように結論できよう。第一に、領有対象が、実質的には「生産諸力」から「生産諸手段」に狭小化されている。第二に、領有主体である「社会」は「全人民」であって、職場や地域等を単位として現実に協業している直接的生産者達ではない。その結果、第三に、生産諸力の社会的「領有」が、全人民による生産諸手段の「掌握」に変質させられている。

 これに対して、マルクスの「社会的所有」は、次のように結論できよう。第一に「生産諸力」の領有は「生産諸手段」の領有に限定されない。それを使う労働者達の交通をも含んでいる。第二に、その結果、生産諸力の領有とは、生産諸手段は勿論のこと生産者達の(活動と生産物を介した)相互補完諸関係を自分達自身の制御のもとに置くことを意味する。第三に、そうした諸個人の協業と連関とは、規模のメリットと平等を同時に実現する「連合」である。

 「否定の否定」を通して、「資本主義時代の成果」の上に「再建」される生産・領有諸関係は、相互に自立した直接的生産者達の、この普遍的な生産・交通諸関係そのもの、彼らの連合そのもの以外ではあり得ない。諸個人はこうした社会的諸連関の中でのみ生産・交通し得るのであり、この普遍的な協業と社会的諸連関を通して、個人の欲求、感性、精神的・肉体的諸能力等と伴に、社会的欲求や社会的諸能力を発展させるのである。その意味で「社会的所有」は「個体的所有」である。それは単なる「生産諸手段に関わるもの」では全然ない。

 C. 共同所有 

  1. 『反デュ−リング論』と『資本論』の共同所有

 これまで我々は、「個体的所有」と「社会的所有」を「生産諸力の社会的領有」の面から考察してきた。今度は「共同所有[Gemeineigentum]」について考察してみよう。当然にも、論点は次の三つである。即ち、_所有の一般的意味、_「共同」所有の意味、そして_それが個体的所有の「基礎」であるということの意味である。既に、__については、これまでの展開で述べられているので、ここでは_を中心に考察することにする。

 エンゲルスの場合は、こうである。「生産諸力」をほぼ「生産諸手段」と同一視し、「領有」を「生産諸手段」の「掌握」問題としてのみ捉えた。その結果、「生産諸力の社会的所有」を「生産諸手段の社会的所有」と、後者を「社会の名において生産諸手段を掌握すること」と同一視した。この立場は、その「社会」を生産者達から自立させてはいないとはいえ、理論的にも実践的にもソ連型の「国家的所有」と紙一重である。勿論、「共同的生産」と「共同的分配」から成る彼の「財産の共同体」が、生産諸手段の共同利用を含んでいないはずはない。しかし、『反』だけを読む限り、生産諸手段が人間労働に対して持つ本質的意義の認識が、従ってまた資本家的生産・領有諸関係を止揚する意義も不鮮明なままとなっている。事実、生産諸手段は社会的所有、消費対象は個人的所有という彼の「否定の否定」理解には、労働者の「協業」が完全に抜け落ちている。「協業」の看過は、生産者の生産諸手段への関係の欠落を意味する。彼がその「自由の領域」論において「社会的に作用する諸力」の典型として「生産諸力」を念頭に置きながら、その制御に関して具体性がないことも、その結果である。

 これに対して、マルクスの場合はこうである。領有は生産を、生産者の生産諸手段への関係を意味する。生産者達から自立し、資本の生産諸力として逆に彼らを支配してきたものは、生産者達自身の社会的諸力である。この生産諸力の自立は、直接的生産者達の生産・交通諸関係が自覚的なものでないこと、労働力の譲渡から発生する。従って、この生産諸力の自立性を奪い、自分達自身の諸力として(制御し)自覚的に発揮するためには、生産諸手段からの生産者の分離が克服されなければならない、と。従って、「個体的所有」の「基礎」にも、_「土地と労働そのものによって生産される生産諸手段に対する共同所有」に先立って、_「協業」が挙げられている。『資本論』ドイツ語版二版では、主体は明確に「自由な労働者達」とされている。こうしたことは、Gemeineigentum が単なる生産諸手段の掌握の問題ではなく、生産者達が彼らの「共有地」・「共有財産」を共同利用している姿が映し撮られている。因みに、「共同所有」という用語自体、生産者達による生産諸手段の自由な利用を含んでいる。『草稿』や『宣言』における「女性共有」思想批判はそのことを示している。従って、『資本論』の「共同所有」は、生産諸手段が諸個人から自立した、何らかの「共同体」の所有物となることでは全然ない。

  2. イメ−ジとしてのゲルマン的生産・交通諸関係

 マルクスの「ゲルマン的共同体」に関する記述は、彼の「個体的所有」・「共同所有」の具体的イメージを持つ上で示唆的である。労働がその客体的諸条件から分離した資本家的領有関係と対照的な、労働する個人の(土地)所有形態として、東洋的、ローマ的及びゲルマン的の三形態がある。ゲルマン的領有諸関係の特徴は、その「個体的所有」と「共同体的所有」との関係にある。即ち、そこでの共同体は、「一つの自立した有機体」ではなく、「共同体成員のその時々の連合によってのみ存在するに過ぎない」。具体的に言えば、それは構成員の共通目的のためにのみ開かれる「集会」(_,389)でしかない。従って、その「共同体」は「自由な土地所有者」の「連合体[Verein] としてではなく、連合[Vereinigung]としてのみ現われ、統一体[Einheit] としてではなく、土地所有者からなる自立的主体の統一[Einigung]としてのみ現われ」(_,388)る。勿論、そこには諸個人の「個体的所有」とは別個に、共有地という形で「共同体的所有」が存在する。しかし、その共有地は、「個体的所有」の補完物であり、「各個体的所有者によって、そのように[共同的に]利用されるもの」でしかない。その意味では、共同的所有である。つまり、ゲルマン的領有諸関係においては、「共同体と共同体的所有という定在」は、「自立した主体相互の関係[Beziehung ]として現われ」(_,389)、「これらの個体的土地所有そのものの相互の交渉の内にだけ[nur in der Beziehung]存在する」(_,389)に過ぎないのである。

 D. マルクスの社会主義

 さて、本章の考察を総括し、「個体的所有」・「社会的所有」・「共同所有」の関係を中心にマルクスの社会主義を整理すれば次のようになろう。資本家的生産・交通諸関係は、その本質的において他人労働の領有であり、直接的労働者の社会的諸力の領有である。自己の社会的諸力を疎外し、逆にそれによって支配されている労働者達は、この資本家的諸関係のもとで発達させられる協業と生産諸手段を、「自由な労働者達の連合」の形で、自分達の生産・交通諸関係を自分達の諸力として領有し発揮して行く。このことは、物質的生産の側面でだけ理解されるべきではない。自覚的な生産と交通は、彼ら個人の精神的・肉体的諸力の発展であると同時に、彼らの社会的諸力の発展でもあり、個性の普遍的発展である。人間の五感も発展させられ、より人間的な感覚になるのである。生産者達の生産諸手段の共同所有・共同利用は、そうした人間の個体的・社会的発展の一つの基礎でしかない。労働者達の「余すところの無い、もはや何物にも縛られない自己表現」と豊かであらゆる感覚を十分備えた「全体的人間」(_,136)が生成する時、「他人の労働に対する指揮・命令」である私的所有の貧しい基礎が駆逐され、もはや「否定」による媒介を必要としない「社会主義としての社会主義」が生成する。

 

IV. 資本の本質把握と経済学批判・社会主義批判・哲学批判

 マルクスの社会主義が資本家的生産諸関係の積極的止揚とされている以上、その性格は「資本の本質」把握によって規定されている。本章の課題は、「資本の概念」から区別されるところの「資本の本質」概念の内実と、それが「経済学批判」体系の中で持つ意義を解明することにある。それは同時に、「経済学批判」が単なる古典派経済学の批判に留まらず、ドイツ哲学批判、フランス社会主義となる根拠の解明、これら三批判の統一原理と統一構造を明かにすることでもある。

 A.  資本の本質と資本の概念

  1. 資本家的生産の「二つの証明」

 マルクスが『ライン新聞』を辞し書斎に退いた理由は、資本家的生産の成立及び消滅の必然性という二つの歴史的な課題−−以後、「二つの証明」−−に答えられなかったことである。先進国英仏での問題は、社会主義が提起する資本家的生産の止揚である。他方、ドイツの国内問題は、成立過程にある資本家的生産が封建的諸制度との間に引き起こす衝突である。従って、ドイツの国内問題は既に英仏では解決され、図書館の中で埃を被っている問題ばかりであり、それを論じることは一つの時代錯誤である。従って、真の問題は、「資本の本質」を把握すると同時に、次の社会の原理を探求すること−−「二つの証明問題」に答えること−−にのみ存在する。確かに、マルクスは『ライン新聞』で仏社会主義の「出来損ない」を批判した。しかし、それは「資本の本質」把握に基づくものではなかった。此処に辞職の理由がある。

 この「二つの証明」問題は、資本の代弁者である経済学者と労働の代弁者である社会主義者の理論的対立として現われている。従って、マルクスの理論形成過程は、対立する両者との批判的対決の形をとる。その最初の成果が『草稿』である。『草稿』は「二つの証明」問題を中心に展開され、古典派経済学、仏社会主義そしてヘ−ゲル哲学が批判されている。『草稿』は、資本の「概念」から区別される資本の「本質」を摘出し、この「本質」から「二つの証明」問題に答えている。

  2. 直接的生産過程分析と資本の本質把握

 資本は、土地所有に始まる私的所有の発展の頂点である。一般に、あるものの本質はその未熟な形態においてよりも、頂点形態の中で明瞭な形で現われている。逆に、頂点形態の本質は、その未熟な諸形態の本質をより完成した形態で含んでいる。でなければ、それは「発展」ではない。単なる「変化」か「変種」でしかない。従って、マルクスは私的所有の頂点である資本の分析を通して、最も完成した形態にある「私的所有の一般的本質」を獲得することになる。『草稿』は資本の直接的生産過程を、次の相互制約的な、二つの関係に分析する。即ち、

i 「労働者の、自己の生産の諸対象に対する関係」(_,90-1 )

 =「労働に対する労働者の関係」(_,102)

 =「対象の領有は疎外として、外化として現われ」(_,105)る関係

 =「外化された労働の自己自身に対する関係」(_,105)

 =「労働によって自然を領有する労働者について、領有が疎外として......対象の生産が疎遠な力、疎遠な人間のもとへの対象の喪失として現われる」(_, 106)関係

 =「労働としての私的所有の関係」(_,110) 

 =「人間の活動が労働として、従って自分にとって、全く疎遠な、......活動として生産される」(_,110)関係

ii 「生産の諸対象と生産そのものに対する財産家の関係」(_,90 )

 =「労働に対する資本家の....関係」(_,102)

 =「外化は領有として、疎外は真の市民権の獲得として現われる」(_,105)関係

 =「労働者と労働に対する非労働者の所有関係」(_,106)

 =「労働と労働者にとって疎遠な人間の、労働者に対する関係、労働とその対象に対する関係」(_,106)

 =「資本としての私的所有の関係」(_,110)

 =「人間の活動の対象が資本として、対象の全ての自然的及び社会的な規定性が解消され、....その現実的内容に全く無頓着な資本として生産される」(_,110)関係

 これら二側面は、相互に制約し合うとはいえ、論理的には前者の方がより本質的であることは、「労働過程の一般的性格」から言える。その意味で、__の論理的「産物、成果、必然的帰結」(_,102)でしかない。生産者の活動が他人のための活動となり、他人のための生産物を作るからこそ、資本家はその生産活動と生産物を領有できるからである。これらの二側面に関連して決定的に重要なことは、マルクスが「私的所有の概念」と「私的所有の本質」を区別していることである。

 「私的所有の概念」とは、「我々が疎外された、外化された労働の概念から分析を通じて私的所有の概念を見つけだしてきた」(_,104)という記述から判断すると、「労働者と労働に対する非労働者の所有関係」であることは間違いない。生産過程における資本家による労働及び生産物の領有(_の関係)である。このことは、『経済学批判要綱』等で、スミスの資本「概念」には生産過程における「他人労働の領有」が入っていないと批判されていること等からも確証できる(_,245)。

 更に重要なことは、「疎外された労働の結果として明かになった私的所有の一般的本質」(_,104)が一体何であるか、である。「第1草稿」「後段」は、私的所有の一般的本質を摘出し、それから諸法則を確証することを課題にしている。従って、この概念を知ることは決定的に重要である。そこでこの記述に先立つマルクスの分析を追跡すると、次の一節に突き当たる。

「それ故私的所有(権)は、外化された労働、即ち外化された人間、疎外された生活、疎外された人間という概念から、分析を通じて明かにされる。」(_,102)

 つまり、「私的所有(権)の本質」とは、「外化された労働、即ち外化された人間」乃至「疎外された生活、疎外された人間」であることが判明する。人間的な労働ではなく、人間的生命活動としての意味を喪失した労働である。事実、「第1草稿」「賃金」欄は、これに対応している。即ち、「利潤」欄(実質的には『草稿』の冒頭)は「資本、即ち他人の労働の生産物に対する私的所有(権)は、何に基づくのか」で始まり、スミスの指揮命令権[command] 論を読み込みながら、「従って資本は、労働とその生産物に対する支配権である」と結論されている(_,39-40)。このことは、「第三草稿」における「私的所有の主体的本質」(_,119,126)という記述等からも裏付けられる。

 重要なので繰り返す。資本家の「他人労働の生産物」に対する私的所有権は、生産過程において労働者を自己の指揮命令に従わせることに基づく。生産過程における「他人労働の領有」、これが「資本の概念」である。この「資本の概念」自体は、直接的生産者の活動の疎外・外化の結果である。労働者の外化された労働が「資本の本質」である。

 勿論、直接的生産者が他人の指揮命令に従うこと(疎外された労働)自体は、資本家的生産に特徴的な現象では全くない。むしろ、それはあらゆる階級社会・私的所有に共通して認められることである。その意味で、この「資本の本質」は「私的所有の(一般的)本質」と呼ばれている。しかし、この「私的所有の本質」が私的所有の発展の頂点から析出されたものであることから、次の三つが判明する。

1) 資本の本質(労働一般)は土地所有の本質(農耕労働)をその一部として含むと同時に、その抽象性、社会性の喪失度合いにおいて完成形態にあること。従って、土地所有は資本に向かって完成せざるを得ないこと。

2) 資本と私的所有の同一性を把握したことによって、資本の「本質」の止揚があらゆる私的所有の止揚となり得ること。

3) 更に、資本のより発展した諸規定はこの「本質」から展開され得ること。

 このように、「私的所有の概念」と「私的所有の本質」の区別は、『草稿』理解にとって決定的に重要なのであるが、管見によれば、この区別を明確にした研究は未だない。

 B. 資本の本質把握と古典派経済学批判

 近代市民社会の諸法則を科学的に、体系的に分析したのは、イギリス古典派経済学である。彼等は、商品・貨幣・資本の運動を分析し、その構造・運動諸法則を摘出した。勿論、マルクスもエンゲルスもこの側面での彼等の意義を疑ったことはない。問題は、古典派がそれらの諸法則を資本家的生産の「必然的」諸法則として解明できないでいる点にある。従って、『草稿』「第一草稿後段」以降のマルクスの課題は、先ず最初に資本の「本質」を摘出、第二に、それらの諸法則と資本の「本質」との内的連関を示し、それらが如何にこの「本質」から生じるかを確証することである(_,86 )。その「本質」が「疎外された労働」であることは既に見た。以下、この「本質」把握が如何に古典派批判となるかを、諸法則の確証との関連で考察してみよう。

 経済学者と社会主義者との間に一つの論争が起きる。それは概略次のようになる。労働こそは富の源泉である、これはスミス経済学の原理である。ところで、もしそうだとすれば、労働の担い手である労働者こそ富を獲得し、非労働者である資本家は貧しいはずである。ところが、現実はその反対に、労働者の側に貧困が資本家の側に富が蓄積される。労働から出発するスミスは、他方で労働者階級の悲惨な状態を遠慮会釈無く描き出す。この古典派のシニシズム(無遠慮さ)は、「スミスからセ−を経てリカ−ドオ、ミル等々に進むにつれて、.....相対的に露骨さを増す」(_,121)。だが、「これは初期マルクスが未熟だから.........」、と結論を急いではならない。その程度のこと、つまり「それが、彼らの科学がより徹底的により真実に展開されているからに他ならない」(_,122)ことぐらい、マルクスも十分承知している。古典派経済学の引き出す諸帰結が「労働者に敵対的」であること自体が問題なのではない。真の問題は別のところに、即ち古典派の富認識の不十分性にあるのである。

 経済学者が「生産の本来の心髄としての労働から出発するにも拘らず、それは労働には何も与えず、私的所有に全てを与える」(_,103)とすれば、逆にプルードン等社会主義者は、「この矛盾から、労働を擁護し私的所有に反対する結論を引き出す」(_,103)。この経済学者と社会主義者の対立は、「富の本質」としての「労働」が他人のための労働であり、人間にとって当然かつ永遠の形態ではないことさえ理解すれば、解決できる。スミスが発見した富の源泉として「労働」とは、資本家に富をもたらすような「労働」であり、「賃労働」である。これは労働の一歴史的形態でしかないが、この労働の一歴史的形態を、経済学者は労働の「自然な」、つまりはその「永遠」の形態と見做す。彼等はこの形態以外の労働を認めない。従って彼等は、労働を資本家に富をもたらすものとして徹底的に、扱う。丁度、ルターによって人間が宗教から解放されたのではなく、逆に人間が信仰の目的とされたように、スミスによって人間が賃労働から解放されるのではない。むしろ逆に、人間が賃労働の目的とされるのである。従って、経済学の「原理」と「諸帰結」の矛盾とは、「表面上の矛盾」でしかなく、それはむしろ経済学の「原理」の当然の帰結でしかない。これが「スミスはルター」のもう一つの意味である。     

「彼等は私的所有をその活動的な形態において主体とし、従ってまさに人間を本質とすると同時に、非本質としての人間を本質とするのであるから、現実の矛盾は、彼等が原理として認識したところの矛盾に充ちた本質に完全に対応している。」(_,122)

 問題はまだ終わっていない。マルクスは続ける。人間労働の一歴史的形態でしかない賃労働を、古典派が人間労働の自然で、永遠の形態として掴んだことは、彼等が資本主義的「富」及び「富の本質」の歴史的特徴を十分掴んでいないことを意味する。資本主義的「富の本質」(賃労働)が、直接的生産者にとって自分のための労働ではなく、他人のための労働であることを明確に掴むならば、彼等の「表面上の矛盾」はそもそも成立しない。労働者の側での貧困と、資本家の側での富の蓄積は、この「富の本質」(賃労働)の当然の帰結となる。社会主義者の的外れとも言える経済学批判の中に、マルクスは経済学の富認識の不十分性を指摘する。逆に言えば、富の本質としての「労働」を「疎外された労働」(非人間的労働)として掴むならば、経済諸法則は「疎外された労働」の諸法則として確証可能だ、と。即ち、次のように言う。

「しかし我々は、外見上のこの矛盾が疎外された労働の自己矛盾であること、そして国民経済学が単に疎外された労働の諸法則を言い表わしたに過ぎないことを、見抜くのである。」

 古典派経済学における「利潤の源泉」論が「論点窃取の虚偽」であるというマルクスの古典派批判(_,85 )は、彼が経済学的諸範疇を現実の生産・交通諸関係の理論的反映として捉えながら、尚かつ古典派の諸範疇が持つ根本的欠陥(歴史性と統一性把握)を指摘したものとして注目される。しかもそれは、彼等が「賃労働」の歴史的特徴を十分に把握できないことに由来するものだと看破されているのである。

 C. 資本の本質把握と空想的社会主義批判

 資本主義的私的所有の批判を「経済学批判」として展開したのは、マルクス一人ではない。プル−ドンもその一人であり、彼の『貧困の哲学』は彼の「経済学批判」である。しかし彼は、古典派のシニシズムが単なる「外見上の矛盾」でしかないこと、その解決は「疎外された労働」(現実の諸関係)そのものを止揚する以外にないことを理解できない。従って彼の「経済学批判」は、現実の諸関係理論的反映でしかない古典派の諸範疇を彼が考える理想状態から批判するのである。まるで諸範疇を別様に規定すれば、現実の諸関係が変革されるかのように。『草稿』のマルクスがその「資本の本質」把握に基づいて、このプルードンを空想的社会主義に分類していることは、共産主義の次の三形態の中で_に分類していることからも明白である。

1 「私的所有の普遍化と完成であるに過ぎない」ような共産主義、

 1-1「民主的にせよ専制的にせよ、未だ政治的な性質を持っている共産主義」、

 1-2「国家の止揚を伴うが、しかし同時に未だ不完全で、未だ相変わらず私的所有 即ち人間疎外に影響されている本質を持っている共産主義」

2 「人間の自己疎外としての私的所有の積極的止揚としての共産主義、それ故にまた人間による人間のための人間的本質の現実的獲得としての共産主義。それ故に、社会的即ち人間的な人間としての人間の、意識的に生まれてきた、また今までの発展の全成果の内部で生まれてきた完全な自己還帰としての共産主義」(_,130)

 ここで注目したいことは、マルクスが_を「この共産主義は確かに私的所有の概念を捉えてはいるが、しかし未だその本質を捉えてはいない」(_,130)と批判している点である。既に我々は、私的所有の「本質」と「概念」について了解しているので、その意味を次のように確定できる。即ち、この形態の共産主義は資本家による労働者階級の搾取を掴み、それを廃止しようとはしているが、その資本家の所有権を日々再生産している「疎外された労働」の廃止にまで認識が進んでいない、という意味である。

 これを逆に言えば、第三のマルクスの共産主義は次のようなものと言える。労働の疎外は人間にとって(物質的・精神的)生活の疎外であり、人間が人間的に成るためにはどうしても止揚しなければならないものである。逆に、資本はこの労働を領有することで、人間の社会的諸力(生産・交通諸関係)を発展させてきたのである。資本家的富の本質が「労働一般」と認められ、そのようなものとして徹底的に利用・発展させられることは、一面では人間の社会的交通の普遍的拡大を意味しており、人間の能力・欲求・感性の発達をも意味している。資本家的生産のこの成果の上に、人間がその本質に適合した形で生産・交通すること、これが_の共産主義である。このように、仏社会主義批判においても、「私的所有の概念」と「私的所有の本質」の区別は決定的な意味を持っている。

 この箇所でマルクスが繰り返し使用している「人間的即ち社会的人間」とは、「類的本質」に合致した人間の在り方を意味し、「他の人間に対する人間の人間的関係であり、人間の人間に対する社会的関係」である。それは、ドイツの「自己意識」、フランスの「平等」を換骨奪胎したもので、「人間が本質的に一であること」、「人間の類意識と類としての振舞い(関係)の、人間と人間との実践的同一性」を意味する(_,40-1 )。

 D. 資本の本質把握とヘ−ゲル弁証法批判

 ヘ−ゲル以後のドイツの哲学界において、目立った進歩をとげたのは、ひとりフォイエルバッハであった。彼こそは、人間を感性的存在として、人間を現実の物質的諸関係の中で掴む道を切り拓いた。しかし実際には、彼は人間を愛情・友情関係においてしか把握できなかった。反面で彼は、ヘ−ゲルにおける積極面、つまり人間を活動的存在として捉える側面を見落とした。ヘ−ゲルの場合、人間の活動は実質的には「思考」活動としてしか掴まれなかったとはいえ、彼の「否定性の弁証法」の偉大さは、生産活動を通じた人間の自己産出を捉えた点にある。マルクスの哲学批判は、このヘ−ゲルとフォイエルバッハの両面的批判であり、人間を感性的存在と同時に感性的活動として把握した点にある 、具体的には人間の自然への関係−−「産業[Industrie]」−−を人間の本質の発現・確証形態を見出だした点にある。

 ところで、スミスもいうように、分業と交換は人間に特徴的な事柄である。この事実から、次のことが判明する。

  1. 生産の内部で労働を相互に補完し合うことも、生産物を相互に補完し合うことも、等しく人間的で、社会的な活動であり、社会的な享受であること。 
  2. 直接的生産者は、これらの相互補完関係の発展を通して、自然の恩恵を豊かに享受できる可能性を持つようになったこと。

3) しかし、現実には、直接的生産者はそうした社会的諸力を喪失しており、それらは彼等自身から自立し、むしろ彼等を支配するものの力となっていること。

 1)は、人間が「共同体存在」であり、人間労働が社会的である(社会的総労働を形成する)ことを意味する。同時に、一人ひとりの人間は「類」(全体)を意識できる存在(「類的存在」)であり、諸個人の労働が社会性を持つ(社会的総労働の有機的肢体を形成する)ことを意味している。2)3)は、資本主義的諸関係のもとでは、直接的生産者がそうした人間労働の社会性を自分達の能力として発揮できず、むしろその能力を他に譲渡していることを意味する。『草稿』や『ミル評註』における「人間の本質」規定や「疎外」は、このように生産の一般的性格と現実との対比から引き出されたものである。従って、「疎外された労働」とは「疎外されない労働」を前提した判断ではない。

 ところが、その「労働」把握に対応して、古典派経済学はこの資本家的(歴史的)な「分業と交換」を自然的で永遠の形態と見做す。歴史は資本家的生産で以て終焉するのである。そこには、この資本家的「分業と交換」を基礎としてより人間的な「分業と交換」形態を考えるという視点はない。

 ヘ−ゲルの「否定性の弁証法」もこの古典派経済学の立場に一致する。彼の人間労働による人間的人間の産出は、現実には「疎外された労働」による「人間的人間」の産出でしかない。その弁証法では、直接的生産者の労働は人間本質の対象化、その現実化としてのみ考察され、それが人間本質の外化、その喪失となっている側面を看過しているのである。これに対してマルクスは、この「否定性の弁証法」を「社会主義として社会主義」の生産と消費の運動原理として換骨奪胎する。即ち、労働者達が疎外し、彼等に対立的な形で発展させられている生産諸力・社会的諸力を、労働者自身の諸力として発揮できるための基礎(諸条件)が必要である。人間的労働による人間的人間の産出は、その後の問題である。しかし資本家的生産は、そうした運動を可能とする生産・交通諸関係を歴史上始めて生み出す、と。 ところで、このマルクスの「否定性の弁証法」(真に人間的な生産と消費の運動)において、人間的人間は「その結果であると同時に出発点でもある」(_,133)。真に人間的な活動と生産物の相互補完関係は、「反省によって生ずるのではな(く).........諸個人の必要とエゴイズムによって即ち彼の定在そのものの活動を通して直接に生み出される」(_,96-7 )のである。人間がそれらの諸関係を人間的に組織するためには、先ず以て、そうした諸関係(共同体)自体が現実に生み出されている必要がある(_,200)。正に、ここに資本の歴史的意義と限界が、その成立と消滅の必然性がある(_,133参照)。

「分業と交換が私的所有の形態化であるということ、まさにこのことの中に、次の二面 の証明がある。即ち一方では、人間的な生活がその実現のために私的所有を必要としたということ、他方では、それが今や私的所有の止揚を必要としているということの証明がある。」(_,176)

 この諸個人にとって疎遠な社会的諸力を諸個人が自覚的に発現し、制御する時、人間は真に人間的になるのである。諸個人の生産活動がそのようなった場合、つまり「類的本質存在」と「共同的存在」に合致するようになった生産活動を、マルクスは「人間的、社会的[gesellschaftlich]」活動と形容している。従って、この「社会」概念は、「共同」的な生産活動、即ち「他人との直接的協働」としてのgemeinschaftlichな活動とは明確に区別されている。共同的労働にも社会的な労働形態と非社会的労働形態があり、個人的労働にも社会的労働と非社会的労働があるのである。

「しかし私が科学的等々の活動--これは私が滅多に他人との直接的共同のもとに遂行できない活動なのであるが--をする場合でも、私は人間として活動しているが故に、社会的である。........私は社会のために自分から作るのであり、しかも社会的存在としての私の意識をもって作るのである。」(_,134) 

 ここで敢えて一点追加する。諸個人相互の関係を規定するものは、諸個人が如何に生産するかである。人間的な相互関係は人間的な生産なしには不可能である。丁度、資本家的生産において、生産物は販売するために生産されてからこそ市場において等価物を要求するように、「交換が成し得ることはただ、我々が各々自己自身の生産物に対して持っており、従って また他人の生産に対して持っている性格を運動させ、確証することだけである」(_,112-3)。生産物の相互補完関係が非人間的であるとすれば、それは諸個人の生産活動が非人間的だからに他ならない。従って、「私的所有の積極的止揚」とは、諸個人が各々の生産活動においてその社会的諸力を疎外することなく、それを諸個人の諸力として自覚的に発現・発展させることに他ならない。「ミル評註」における「個人的な生命が肯定され」、「個性が肯定される」ような生産活動においては、「労働は真の、活動的所有となる」(_,118)という一節も、こうした文脈の中で理解される。

 

V. おわりに

 A. マルクスとエンゲルスの差違性とそのゲネジス

 マルクスとエンゲルスの間、『資本論』とその入門書ないし解説書と見做されてきた『反』の間には、「自由の領域」論や「社会的所有」概念等の基本的な諸点においてすら、根本的な差違性が存在することは今や否定できない。

 その差違性を詳細に検討してみると、土地その他の生産諸手段の「共同所有」はともかく、「自由な諸個人の連合」としての「個体的所有」及び「社会的所有」が全く異なることが判明する。この差違性の源泉を辿ってみると、資本家的生産のもとで普遍的に発展する「生産諸力の領有」概念が、領有対象・領有主体・領有方法で異なることが判明した。これを更に遡及すると、資本の主体的本質である「賃労働」の歴史的特徴把握における差違性に辿り着く。マルクスにとって労働とは、人間の精神的・肉体的諸能力の発現であり、人間生活の本質的に重要な部分である。人間は、この労働を通して自己の諸能力を発展させると同時に、他人との社会的交通を発展させる。従って、他人の指揮命令下での労働(賃労働)は、人間の諸能力の譲渡であり、自己の諸能力を自己に対立的に発展させることであり、人間生活の喪失である。逆に、この疎外を克服することは、あらゆる階級対立(一階級による他の階級の搾取)をその根底から覆し、自己の生活を取り戻し、自己の個人的・社会的諸能力を普遍的に発展させることを意味する。資本の歴史的生成・発展・消滅の論理的必然性は、人間労働の社会性の発展の中にある。

 資本家的生産によって発展させられた諸個人の「社会的諸力」を、諸個人から自立し、固定化し、経済的諸法則や国家の形で諸個人に対立している諸個人の「社会的諸力」を、諸個人の制御の下に置き、諸個人が自覚的に発現し享受すること、これがマルクスの社会主義である。土地や生産諸手段の共同利用は、そのための土台に過ぎない。経済諸法則の自立と人間支配、資本家の側での富と労働者の側での貧困は、労働者がその「労働能力」−−一切の富の源泉としての−−の運用を資本家に譲渡することの当然の帰結でしかない。従って、マルクスの社会主義は、単に労働者の労働諸条件−−給与はその一つでしかない−−の改善でその意味を喪失するような性格のものではない。

 B. ソ連型社会主義とマルクス、エンゲルス

 マルクス死後、エンゲルスが果たした役割には次の二面があり、その何れを無視することも出来ない。即ち、マルクス社会主義論の普及とその俗流化の両面である。エンゲルスの解説によって、マルクス社会主義論の内的連関が断ち切られ、ソ連型社会主義への可能性が拓かれたのである。但し、このことはグロテスクで「粗野な共産主義」でしかないソ連型社会主義が形成された責任を全てエンゲルスに帰すことを意味しない。マルクス思想・理論の内的連関を明かにすることができなかったとはいえ、エンゲルスはまがりなりにもマルクスの重要な記述を押さえていたからである。この面では、その後の研究者の研究態度にも問題があろう。 依然としてソ連型社会主義を維持している国々は、その改革を所謂「市場経済への移行」という次元でのみ捉えてはならない。それは単なる資本家的生産そのものであり、それを超えるものではない。労働者の自主管理が単なる工場に留まらず、地域、社会全体へと拡大させねばならない。さもなければ、ソビエトや東欧諸国と同じ道を歩み、革命以後の時間と人民の苦難や流された血が無駄となろう。

 C. マルクスと現代日本

 一方、欧米に比較して封建的要素の強い資本家的社会に住む我々にとっては、賃金面での改善や年間労働時間の削減も重要な課題であるが、それだけが問題なのではない。企業の立派な本社ビルとサラリーマンの「うさぎ小屋」とを、日本企業の躍進と「残業手当て」の不払いやサラリーマンの過労死を、コインの表裏として把握することが、求められている。つまり、これらの両面は社会的労働の直接的生産者からの疎外と資本家によるその領有に他ならないことを、把握する必要がある。この疎外の克服と諸個人の真の豊かさは、生産諸手段が諸個人一人ひとりに利用可能となり、諸個人の社会的諸力を自覚的に制御しつつ、発現してゆく運動の中以外にはない。現在の我々に必要なものは、思想であり、改革の方向である。

 D. 今後の課題

 『資本論』の「否定の否定」理解については、これまでの研究蓄積と論争が多いが、紙数の関係で、それらの業績に触れることはできなかった。今後の課題として残す他ない。此処では、こうした論争に別の視点即ち「連合」概念を持ち込んだことで満足する他ない。

 

 

【マルクス・エンゲルス引用文献一覧】

(以下の文献からの引用は、その文献番号と頁数を、_, 224の要領で示す。ただし、『マルクス・エンゲルス全集』とMEGA2 からの引用頁は、ドイツ語版原頁を示すものとする。)

1 『ユダヤ人問題』『マルクス・エンゲルス全集』第1巻、大月書店。

2 『経済学批判大綱』『マルクス・エンゲルス全集』第1巻、大月書店。

3 『ミル評註』『マルクス 経済学ノ−ト』有斐閣。

4 『経済学・哲学草稿』岩波文庫。

5 『聖家族』『マルクス・エンゲルス全集』第2巻、大月書店。

6 『ドイツ・イデオロギ−』合同新書。

7 『共産主義の諸原理』『共産党宣言』講談社文庫所収。

8 『共産党宣言』講談社文庫。

9 『哲学の貧困』岩波文庫。

10 「マルクスの観たプル−ドン」『哲学の貧困』岩波文庫所収。

11 『経済学批判要綱』MEGA2, _-1・1.         

12 『経済学批判要綱』MEGA2, _-1・2.                  

13 『経済学批判』『マルクス・エンゲルス全集』第13巻、大月書店。   

14 『1861-3年草稿』MEGA2, _-3・4.        

15 『資本論』第一巻、『マルクス・エンゲルス全集』第23巻、大月書店。

16 『資本論』第三巻、『マルクス・エンゲルス全集』第25巻、大月書店。

17 『反デュ−リング論』上巻、岩波文庫。  

18 『反デュ−リング論』下巻、岩波文庫。  

19 モスト『資本論入門』岩波書店。  

20 『資本論書簡 1』国民文庫。