『経済学・哲学草稿』と『ミル評註』

    拓殖大学政経学部 大石高久


<目次>
はじめに
第1章 『ミル評註』における「貨幣」論の論理
 A 『ミル評註』の主内容
 B 『ミル評註』における「貨幣」論の論理
第2章 『経済学・哲学草稿』における「経済学批判」と「貨幣」範疇
 A 『経済学・哲学草稿』の課題、方法、及び構造
 B 『経済学・哲学草稿』における範疇展開と「貨幣」
第3章 『経済学・哲学草稿』と『ミル評註』の論理的関係
おわりに

はじめに

 近代は、単なる人間の政治的解放でしかない。マルクスが1843年以来[1]その死に至るまで完成に邁進した「経済学批判」体系は、この近代を超克する、真に人間的な解放の為の理論である。従って、この「経済学批判」体系をマルクスが形成していった現実的運動・過程を、その現実的運動に応じて叙述することは、単に我々の知的欲求を充たすのみならず、彼の未完の大著『資本論』を完成する作業にとっても極めて重要である。
 この形成運動の「始元(Anfang)」──「端初」であると同時に、それ以後の展開の「原理」でもある──は、『経済学・哲学草稿(Oekonomisch‐philosophische Manuskripte)』(1844年)──以後、特に断わりのない()内頁数は、岩波文庫版の頁を示すものとする──に他ならない。
 『経済学・哲学草稿』以外に当時のマルクスの経済学研究の成果を示すものとして『経済学ノート(Exzerpte und Notizen von Karl Marx)』がある。この中で、特に『ミル評註』──以後、新MEGA版原頁と標準的テキストである未来社版の頁を並記する──が注目され、所謂『経済学・哲学草稿』−『ミル評註』問題として、初期マルクス研究の一大中心論点を成していることは周知の事実である。本章の課題は、この『経済学・哲学草稿』−『ミル評註』問題に、つまり当時のマルクスにおいて両著作が如何なる論理的関係にあるものとして把握されていたかに、答えることにある。
 しかし、いきなり本論に入る前に、この問題に関する従来の研究について、方法的反省を加えておくことは不可避であろう。何故ならば、こうした学問的活動についても、次のマルクスの言葉は妥当すると思うからである。
「ある現実的な類的本質存在[2]としての、即ち人間的本質存在としての自己を実現する行為は、ただ人間が実際に彼のあらゆる類的諸力を創り出し──このことは亦人間達の働きの総体によってのみ、歴史の結果としてのみ可能であるが──この類的諸力に対して対象に対するように関係することによってのみ可能である。だがこのことは差し当たり、またもや疎外の形態においてのみ可能であるが。」(199頁)
 さて、従来『経済学・哲学草稿』と『ミル評註』の差違性のみが注目されてきた為に『経済学・哲学草稿』−『ミル評註』問題は、その本質が両者の論理的関係にあるにも拘らず、一方から他方への研究の進展、つまり歴史的ないし時間的発展関係を問う形式で追求されてきた。そもそも、細見氏による先駆的研究からしてそうであった[3]。此処に、今日ある種の呪物崇拝(Fetischismus)」化しつつある「執筆順序」問題の芽があったのである。
 しかし、この「執筆順序」問題を前面に押し出したのは、その「独自な」『経済学・哲学草稿』〔第一草稿〕後段(所謂〔疎外された労働〕部分)解釈によって、〔第一草稿〕「中断・放棄」説を持っていた望月氏の研究[4]であった。氏は、タイミングよく紹介されたラーピン論文[5]に無批判的に乗っかり、〔第一草稿〕「中断・放棄」→『ミル評註』での新たな学的原理の獲得→〔第二・第三草稿〕での分業論の展開というマルクス像をセンセーショナルに発表したのである。
 しかし、此処には、『経済学・哲学草稿』と『ミル評註』の著述目的・性格等を無視する方法的欠陥がある[6]だけではない。氏は一定の内容理解を前提として始めて可能な「執筆順序」の推定を、あたかも文献それ白身がこの推定力を待つものと見せかけた上で、逆に一定の内容理解を強要するという、一種の呪物崇拝の教祖となったのである。そして、この呪物崇拝の最大の害悪は、『経済学・哲学草稿』と『ミル評註』の論理的発展関係を、時間的発展関係に転化させ、誤った「経済学批判」形成史像をもっともらしく見せ得るという点にある。
 これに対して、中川氏[7]や細見氏が力説していることは、〔第一草稿〕と『ミル評註』との差違性、『ミル評註』と〔第三草稿〕(三)の同一性ばかりでなく、〔第一草稿〕と〔第三草稿〕(五)との同一性も亦存在するということである。ということは、『経済学・哲学草稿』は、一つの「基本視角」と二つの「分析視角[8]」を含むところの原稿であるということである。『経済学・哲学草稿』−『ミル評註』問題にとって重要なことは、この問題を〔第一草稿〕−『ミル評註』問題としてではなく、〔第一草稿〕と〔第三草稿〕の問題として、即ち『経済学・哲学草稿』各草稿間の論理的関係ないし構造問題として考え得る、ということである。
 著者はこれまでの『経済学・哲学草稿』の構造分析を通して、『経済学・哲学草稿』−『ミル評註』問題について、次の三点を明らかにしてきた。即ち、
^ 『経済学・哲学草稿』−『ミル評註』に共通に存在する「基本視角」とは、「労働の本質的関係」(91頁)において規定された「疎外された労働」概念に他ならないこと。
_ 『ミル評註』=〔第三草稿〕(三)の分析視角は、この「基本視角」(=学的原理)から展開されたものであること。
` つまり、〔第一草稿〕と『ミル評註』の「分析視角」の相違は、単なる相互補完関係ではなく、「本質」と「現実性」との関係に他ならないこと。
 ところが、問題は以上ですべて解決したとは言えない。従来指摘されてきた『経済学・哲学草稿』(とは言え、多くの場合、〔第一草稿〕後段の無自覚的表現でしかなかったが)と『ミル評註』との間の論理的差違には、次の二種類のものが指摘されているからに他ならない。

論理\文献   『ミル評註』        〔第一草稿〕後段
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
A群     自己労働に基づく私的所有   他人労働に基づく私的所有
      小商品生産[9]          資本制的商品生産
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
B群     商品貨幣関係視座       資本‐賃労働関係視座
      交換過程視角         生産過程視角

 この両群の差違性の相違はこれを区別している当人にも明確に自覚されているとは思えない。何故ならば、『経済学・哲学草稿』と『ミル評註』の面著作の論理的関係が問題として成立し得るのは、それがB群の差違性である場合だけである。にも拘らず、A群の差違を中心に問題を立てているように思われるからである。これでは問題が解けないのは当然である。そうした場合には、「当時のマルクスは未だ未熟であった」という便利な言葉が用意されている。
 しかし今や我々は、A・B両群の差違は質的に全く別種のものであることをはっきりと認識し、両著作の差違がA・Bいずれの差違であるのかを確定しなければならない。これが残された課題の第一である。
 次に、この第一の課題を解決した上で更に、『ミル評註』で展開されている「貨幣」論の内容が、『経済学・哲学草稿』における「経済学批判」──経済学的諸範疇の批判的展開──と具体的に如何なる関係にあるかが論定されなければならない。これが第二の課題である。
 第一の課題について言えば、問題は、はたして『ミル評註』の「私的所有」が「自己労働に基づく私的所有」であるか否かにある。しかもそれは、「表象」としてではなく「論理」の問題として確定されなければならない[10]。第二の課題について言えば、『ミル評註』の「貨幣」範疇展開と〔第三草稿〕(「四 貨幣」──ただし、これはMEGA編集著による標題──)とは、同じ目的を持つものか否か、目的が異なるとすれば、『経済学・哲学草稿』における範疇展開と『ミル評註』での「貨幣」論との具体的関係はどうか、が明らかにされなければならない。
 こうして本章は、次の様に展開される。先ず、『ミル評註』の「貨幣」範疇展開を理解するために、その主内容を即自的、対自的に考察する()。次いで、『経済学・哲学草稿』における範疇展開のプランとその達成度を、特に「貨幣」範疇に関連して考察する(。)。そして最後に、以上の基礎的確認を踏まえて、『経済学・哲学草稿』−『ミル評註』問題についての著者の見解を展開する(「)。これによって、両著作における「疎外論」のズレ、つまり「疎外された労働」→「私的所有」(〔第一草稿〕)と、「私的所有」→「社会的交通の疎外」(『ミル評註』)との論理的関係も余す所なく解明されるであろう。


第1章 『ミル評註』における「貨幣」論の論理

 通常『ミル評註』と呼ばれているものには、次の二つの評註がある。
^ MEGA、「−2、S. 447−S. 459の「第一評註」と、
_ MEGA、「−2、S. 462−S. 466の「第二評註」の二つである。
 先ずこれらの二つの評註を順次取り上げ、その主内容を確定した上で(A)、論点であるそこでの「私的所有」の論理的性格について詳しく考察することにする(B)。

 A 『ミル評註』の主内容

  1.「第一評註」の主内容
 J.ミル『経済学綱要』(パリソ訳、1823年)は、生産−分配−交換−消費という篇別構成になっている。「第一評註」は、「第三章 交換について」でミルが貨幣と金属価値の相殺関係を論じた箇所に付せられたものであり、この「第一評註」も次の三つの部分から成っている。
^ ミルにおける法則把握の抽象性を批判した第1パラグラフ──以下、パラと略記し、パラ区分は、未来社版に従うものとする──。
_ ミルによる「貨幣の本質」規定を批判した第2−25パラ。
(第26パラは全文、MEGA編集者による補充。)
` 範疇展開に関するスケッチとしての第27パラ。

   a ミルの法則把握批判について
 ミルに依れば、貨幣量の増減が自由に行われていれば、貨幣量はその金属価値によって規定され、そして後者は生産費によって規定される、という。ここでマルクスは、ミルの「貨幣量」を「貨幣価値」に読み替えた上で、次の様な評註を付している。
「@生産費が価値規定の唯一の契機だと述べた時と同様、貨幣と金属価値との相殺関係を論じた箇所でも、ミルは──一般にリカードウ学派はそうだが──、抽象的な法則を述べるだけで、この法則の変動(Wechsel)や不断の止場(Aufhebung)──それを通して始めて法則が生成するところの──には触れない、という誤りを犯している。A例えば、生産費は究極において──というよりはむしろ、偶然的に生じる需要と供給の一致の際に──価値を規定するというのが不変の法則であるとすれば、Bこの関係が一致しないこと、従って価値と生産費とは何の必然的な関係も持っていないということも、同様に不変の法則である。」(S. 447、85−6頁。強調と番号は大石。)
 「抽象的」とは、有機的全体の一契機のみを他から切り離して固定化すること、つまり一契機に過ぎないものを全体と主張することである。従って、マルクスはリカードウ派の法則把握を「偶然的」と批判しているが、その意味する所は、その法則が如何にして私的所有の本質から生じるかを確証しない、ということである。
 亦、下線部からも明らかな様に、ここでのマルクスの立場は、対立するAとBの見解の両面批判である。従って、この部分から、マルクスがリカードウ労働価値説を拒否し、セーの価値論に立っていたとか、エンゲルスの『国民経済学批判大綱』の影響で、競争を重視し[11]、市場価格の存在しか認めなかったと結論することは、この部分に対する無理解以外の何ものでもない。
 Aで「例えば」という一語が入っており、この第1パラと第2パラが特別区別されていないことを考え合わせると、第2パラ以降も、こうしたミル──リカードウ学派一般──における法則の抽象性批判の一環なのかも知れない。そうだとすれば、MEGA編集者による第26パラの補充は適切なものと言えよう(ただし、それが編集者によるものであることを明確にしておくべきであるが)。

   b ミルの「貨幣の本質」規定批判について
 『ミル評註』全体の中心でもあるこの部分は、「貨幣は交換の仲介者である」というミルの規定を取り上げ、そのマルクス的理解、読み込み、批判を展開したものである。ここでは、貨幣がこの仲介者となる論理的必然性、従って私的所有との本質的連関が概念的に把握される。マルクスの主張は、先ず第2〜5パラで要約的に示めされ、第6パラ以降で詳論されていく。その要旨はこうである。
 貨幣の本質は、人間が生産物を相互に補完し合う媒介的活動や運動が疎外されて、人間の外に存在する物質的な物(貨幣)の属性になっていることにある。人間はこの媒介活動そのものを外在化することによって、こうした状態の下では自己を喪失した人間として活動しているに過きず、この疎遠な媒介者を通して、人間は自分の意志、活動、他人に対する関係が、自分からも他人からも独立した力となっていることを直観する。こうして、人間の奴隷状態は頂点に達し、貨幣が現世の神となる。
 以上の要旨の内、第6−8パラでは、私的所有の貨幣態(Geldwesen)への、更に信用制度(Kreditsystem)への発展の論理的必然性、及びそこでの人間疎外の発展が詳論されている。
 先ず、私的所有の貨幣態への発展の必然性について、次の様に記されている。即ち、人間が社会的な本質存在(geselliges Wesen)として交換に、そして私的所有を前提した場合には、交換は価値にまで進まざるを得ない。それ故、価値とは、この「私的所有と私的所有の抽象的関係」(S. 448、89頁)であり、「この価値の価値としての真の現実的な実存」(ebd.、同上)こそが、貨幣である、と。ここでの「抽象的」とは、その素材的内容への無関心性(Gleichgueltigkeit)であり、使用価値の捨象である[12]。
 マルクスは、貨幣を「市民社会のありとあらゆる生産や運動の肢体に潜む貨幣魂(Geldseele)」(S. 449、90頁)の感性的現れと捉えた。この立場から見れば、近代の国民経済学による重金主義(Geldsystem)批判は不徹底であり、所詮は「同じ穴のムジナ」に過ぎない。なるほど、彼らは、「貨幣本質(Geldwesen)」をその抽象性と普遍性とにおいて捉えており、貴金属形態をとった貨幣本質の排他的定在を信仰する迷信からは目覚めている。しかし、商品の現実の価値はそれの交換価値であり、それは結局貨幣の形で存在し、貨幣は貴金属の形で実存していると考える点では、この近代の国民経済学も同じだからである。
 むしろ、近代の国民経済学は、市民社会の発展に伴う重金主義の完成の、理論的反映に過ぎない。何故ならば、貨幣が貨幣として現れる実在が、より抽象的で、人間が創造したものであればある程、それはより完成した貨幣だからである。
「紙幣及び紙製の貨幣代理物(手形、為替、債券等)は、貨幣としての貨幣のより完全な定在であり、貨幣制度の発展をうながす必然的な契機である。」(SS. 449−50、91頁)
 続いて、この貨幣から紙幣、紙製の貨幣代理物、信用、銀行制度に至る発展を、疎外克服過程と看做すサン・シモン主義者の見解が批判されているが、ここでは省略する。
 第9パラでは、人間の本質を「共同的本質存在(Gemeinwesen)[13]」と規定し、その本質に合致した定在を「社会的(gesellschaftlich)」という語で表現している。
「生産そのものの内部での人間の活動の交換も、人間の生産物の相互的交換も、何れも類的活動であり、その現実的な(wirklich)、意識的な真の定在が社会的活動であり、社会的享受である。」(S. 452、96頁)
 勿論、この本質規定は、現実の分業と交換の中から、その疎外された形態を捨象することによって獲得されたものである。従って、観念的に勝手に前提したものではない。しかし、〔第一草稿〕後段での「類的本質存在(Gattungswesen)」規定と比較すれば、後者の方がより根本的な、存在論的規定である。人間がGemeinwesenであり得るのは、人間がGattungswesenあるが故に他ならない。
 従って亦、このGemeinwesenが疎外の形態で現れる原因は、その主体である人間一人一人が類から疎外されているからに他ならない。
「だが、人間が自己を人間として認識しておらず、従って世界を人間的に組織し終えていない間は、この共同的本質存在は、疎外の形態で現れる。何故なら、この共同的本質存在の主体である人間が自己疎外された存在であるからである。」(ebd.、97頁)
「従って、次の様に言うのはすべて同一の命題である。即ち、人間が自己を疎外すること、亦、この疎外された人間の社会は、人間の現実的な共同的本質存在の、即ち人間の真の類的生活の、カリカチュアであるということ……云々。」(ebd.、同上)
 この第9パラで上げられた活動と生産物の二つの相互補完行為の各々が、第10パラ以降で立ち入って考察されていく。
 先ず、交換の仲介者としての貨幣に直接に関連する「生産物の相互補完行為」から、第10−20パラで詳論されている。その内容はこうである。
 国民経済学は、人間が真に人間的な生活のために営む相互補完行為を、つまり「共同的本質存在」を、交換並びに商業の形で、しかも、それを人間の本分にふさわしい形として固定している。しかし、交換は、私的所有の外化であると同時に、人間の外化でもある。
 国民経済学も、そして現実の運動(交換)も、私的所有者の私的所有者に対する関係から出発する。つまり、経済学者も、「人権(droits de l'homme)」に基づく交換も、私的所有を、その所有者の人格の定在と看做し、この私的所有者間の関係を、真に人間的な相互補完関係と看做している。
 しかし、交換は、その私的所有が私の所有物ではなくなり、従って私の人格の定在ではなくなる、ということを意味している。交換が私的所有の外化であるに留まらず、人間の外化でもあるという意味は、このことを指す。ただ行論の為に補足すれば、「私的所有」そのものが、実は既に「人間の外化された類的活動である」(S. 448、87-8頁)というのがマルクスの立場であることは、忘れられてはならない。
 勿論、私的所有者がこの外化を自発的に行うのは、「必要、欲求から」である。そして此処に、人間が全体的存在であり、生産物の相互補完の背後には、次の様な人間的意味があることの証明がある。
「ある事物を欲求するということは、その事物が私の本質に属していること、……そしてそれを私が所有することは、私の本質を所有すること、私の本質に固有な属性であることの、極めて明白で反論の余地のない証明である……。」(S. 454、100頁)
 それはともかく、交換は私的所有の相互的外化であり、私的所有者間の関係は、外化の相互規定性に他ならない。そして、外化された私的所有は、他の私的所有と等置され、「同等物」、「代理物」、「等価物」となる。こうして、「私的所有は価値に、直接的には交換価値になっている」(S.455、102頁)。
 更に、交換の発展に応じて、労働が「営利労働(Erwerbsarbeit)」に転化すること、そしてこの営利労働が含む三つの契機から、私的所有下における社会的力の増大に反比例して、人間の社会性が喪失することが記されている。
 続く第21→25パラでは、「活動の相互補完関係」の国民経済的現れが考察され、貨幣による人間の支配が説明されている。私的所有下においては、生産物の相互補完が交換取引として、「掛値売買(Schacher)」として現象するのと同様、活動それ自体の相互補完は、労働の分割(=Teilung der Arbeit=分業)として現れる。この人間の労働の統一性が、その反対の分割としてしか看做されないのは、正に「社会的本質存在(das gesellschaftliche Wesen)」がその反対物としてしか定在していないからである。そして、生産物はますます等価物という意味を持ち、等価物は等価物としての自己の実存を貨幣という形で獲得し、遂に貨幣が交換の仲介者となる。最後に、この交換の仲介者としての貨幣において、疎外された事物の人間に対する完全な支配が出現していることを指摘して、この部分は終わっている。

   c 範疇展開に関するスケッチについて
 先ず、全文を引用してみよう。
「@労働の自己自身からの分裂=労働者の資本家からの分裂=労働と資本との分裂。資本の本源的形態は、土地所有と動産とに分裂(zerfaellt)している。……私的所有の本源的規定は独占である。それ故、私的所有が我が身に政治的憲法[14]をあてがうや、それは独占の政治的憲法である。完成された独占は競争である。──A国民経済学者にとっては、生産と消費、亦、両者の媒介者としての交換や分配がばらばらになっている。様々な個人の間での、亦同一の個人の中での生産と消費の分裂、活動と享受との分裂は、労働の対象並びに享受としての労働それ自体からの、労働の分裂を意味している。分配は私的所有の力である。──B労働、資本、土地所有相互の分裂は──労働と労働との、資本と資本との、土地所有と土地所有との分裂も、最後に、労賃と労賃との、資本と利潤(Gewinn)との、利潤と利子(Zinsen)との、そして最後に土地所有と地代との分裂も亦そうだが──自己疎外をして自己疎外の姿態で現象させると共に、相互的疎外の姿態で現象させる。」(SS. 458−9、105-6頁)
 引用文中のAは、エンゲルスの『国民経済学批判大綱』や、マルクスによるその抜粋及び『経済学・哲学草稿』〔第三草稿〕末尾のスケッチ等から判断して、実質的には、賃金と利潤(後者は概念上「地代」を含んでいる)との分裂を意味している。従って、この部分は、Bの前半と同主旨であろう。そして、既に見た様に、『経済学・哲学草稿』は〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕における資本の生産過程の二面的分析を通して、この賃金と利潤の分裂を展開している。従って、この@は生産(過程)に属するものとされていた、と思われる。亦、その様に考えてのみ、Aが生きてくる。
 ミルの『経済学綱要』は、生産−分配−交換−消費の篇別構成になっている。そして、生産論で考察されているのは事実上生産一般であり、分配論では、賃金、利潤、地代が論じられる。従って、その分配論は生産論から内的、必然的に展開されたものではない。
 これに対してマルクスは、生産の必然的帰結として分配を展開・説明しなければならないと述べている。「分配は私的所有の力である」という表現で、「労働の対象並びに享受としての労働それ自体からの、労働の分裂」を、即ち「疎外された労働」概念から「生産と消費の分裂」という「分配」問題を説明しようとしていることを表明している。つまり、マルクスのこのスケッチは、ミルの生産−分配の篇別構成に対して、資本の生産過程−資本制的分配(=交換)過程の篇別構成を対置したものに他ならない。従って、かつて細見氏がそう解釈した様に[15]、このスケッチを、この「第一評註」に続いて賃金、利潤等の範疇を展開しようと意図したものと解釈することは誤りである。

  2.「ミル第二評註」について
 この「第二評註」は、ミル『経済学綱要』「第四章 消費について」の、特に「§3 消費は生産と同範囲であること」に付されたものである。マルクスの評註は「ミルはここでも、例の如く皮肉たっぶりに、鋭くかつ明晰に、私的所有に基づく交換を分析している」(S. 462、111頁)で始まっている。この「第二評註」理解の鍵を握る一節をより理解するために、この評註に先立つ、ミルからの抜粋を見ておこう。
 この§3でミルは、^人間が自分自身のために生産している状態と、_分業が行われ、剰余を他の商品の購買にあてている状態とを区別しながら、そこでの需要と供給の関係を論じている。ミルに依れば、^の状態では、そもそも交換は生ぜず、比喩的に言えば、そこでは需要と供給が完全に一致している。そして、需要と供給が本来的に問題となる_の状態については、次の様に記している。即ち、「需要は、購買したいという欲求と購買するための手段」とを表わしており、彼の需要の程度は、この手段つまり「交換する際に与えることのできる価値の等しい客体(仏訳。原文では『等価物』……大石)によって測られる。従って、「彼の需要は、彼が自分で(生産しながら、しかも……大石)消費するつもりのない限りでの生産物総額に丁度等しい」、と。
 ミルが想定し、需給を論じているこの社会状態が、近代市民社会というよりは小商品生産社会であることは、明白である。そこでは「自分自身では彼自身の生産物のごく僅かの部分だけを使用(し)……、残りの部分は、彼の必要とする他の一切の商品の購買にあてられる」ことが前提されているからである。従って、マルクスの評註も、このミルの想定する社会状態そのものに制約されている。
 では、「ミルは……皮肉たっぶりに……私的所有に基づく交換を分析している」とは、何を指しているのであろうか。それは、正に、「需要の手段」に関する記述を指しているのである。ミルは、「仮りに、誰かがあれこれの対象物を占有したいと望んでも、それを入手するために供与し得べきものを何一つ持たなければ、如何ともし難い。その人が持ち出す価値の等しい客体が需要の手段である」と記している。ここにマルクスは、私的所有下の相互補完行為(交換)においては、「人間そのものは相互に無価値」(S. 465、117頁)であり、「対象物の価値」(ebd.、同上)のみが相互に認められる唯一の価値であることを読み取ったのである。では次に、「第二評註」の内容を考察しよう。
 先ず第2−3パラにおいては、ミルの記述に即して「未開で野蛮な状態」(S. 462、111頁)について次の点が確認されている。即ち、この状態においては、生産の目的はその人間の直接的な、利己的な欲求を対象化することであり、交換は決して生じないこと。
 続く第4パラでは、これ亦ミルの記述に即して、「交換が発生」(ebd.、同上)した状態(従って未だ近代市民社会ではない状態)において生じる次の変化が確認されている。即ち、交換の発生に伴って占有の直接的限界を越える剰余生産が生じるが、この剰余生産は、自己の生産の中にではなく他人の生産の中に自己の利己的欲求を見出す様な、そういう欲求を充足する為の間接的方法に過ぎないこと。生産は営利労働になること。生産物の占有が、どの程度欲求の充足が可能かを示す限度となること(先のミルの「需要の手段」参照)。
 第5−11パラは、この剰余生産の性格と交換の性格との内的連関を立ち入って考察したものである。一つ注意点を上げれば、マルクスの叙述において、主体が「人間(der Mensch)」、「私」、「君」となっていることである。マルクスはこれらの用語で「私的所有の根本前提」(ebd.、同上)を表現している。しかし、この「人間」が歴史上の「小商品生産者」に限定されるものでない事は、後に明らかにされよう。
 先ず第5パラでは、各々の生産物に対象化されているものが各自の利己心であること、従って亦、他人の生産物に対象化されているものは「自分とは無関係で、疎遠な……他人の利己心」(S. 463、113頁)であること、つまり「我々の生産を相互に結びつける紐帯は、人間的な本質ではない」(ebd.、112頁)こと、だからこそ[16]、その媒介運動も、人間が人間として効力を発揮できるものではないことが記されている。
『ミル評註』がW−G関係を扱っていることは事実としても、そこでの疎外の原因は、生産過程に求められていることを見落してはならない。そこで、敢えて次の一節を引用しておこう。
「交換がなし得ることは、ただ我々が各々自己自身の生産物に対して持っており、だから亦、他人の生産に対して持っている性格を運動させ、確証することだけである。」(ebd.113頁)
 マルクスは生産が「人聞としての人間のために行う、人間の生産」(S. 462、112頁)になっている場合、あるいは「我々の生産を相互に結びつける紐帯(が)、人間的な本質」(S. 463、同上)である場合、それを「社会的な生産」(S. 462、同上)と呼んでいる。その場合には、相互補完関係も「私の生産物は君自身の本質、君の欲求の対象化であるから、それは君の為にあるのだ、ということがそこにおいて確証される様な媒介運動」(S. 462、同上)、つまり真の「類的生活」(S. 453、98頁)になると考えている。
 第6パラでは、他人の生産物を欲求することが持つ人間的意味が、交換においてはどう現れるかが考察されている。マルクスに依れば、相手の欲求、熱望、意欲も、それ自体としては、私の生産物にとっては無力であり、君が私の生産に内面的につながっていたとしても、そのことが直接に、私の生産に対する支配力(Macht)を意味するのでもない。むしろ、それらは、君を私に依存させる手段であり、君に対する支配力を私に与える手段となる、と。
 続く第7パラでは、この剰余生産においては、相互補完は全くの仮象であり、実は相互略奪と瞞着の関係であることが示されている。
 第8パラは、ミルの本文との対応をよく示すもので、結局の所、私的所有とは生産物による人間の所有であることが示されている。なるほど、交換はわれわれの生産が相互に相手の生産物に対して持つ観念的結びつき(相互の欲求)を示しているが、実在の、現に行われている関係は「相互の生産物の相互の間での排他的占有」(S. 464、115頁)に過ぎない。従って、相互の生産物のみが相互の欲求の手段、公認の支配力なのである。いみじくもミルが述べている様に、君の需要は、君の占有している等価物なのであり、自己の生産物こそが他人の生産物及び自分自身を支配する力なのである。一見我々の所有物であるものが、実は我々を所有する主人なのだ、と。
 従って、続く第9−11パラでは、「事物の価値という疎外された言葉」(S. 464、116頁)のみが、交換者の間で通用する唯一の言葉であること、つまり「人間そのものは相互に無価値の状態にある」(S. 465、117頁)ことが示される。最後に、以上の私的所有に基づく交換に対比して、「人間として生産した」(ebd.同上)場合の、自己と他者の二重の肯定が叙述されている。この部分は余りにも有名なので省略するが、次の二点だけは強調しておこう。即ち、
^ 労働が自由な生命の発現、享受に転化することが、交換を「人間が真に人間的な生活を営む為」の相互的補完行為に転化する基礎である、とされていること。
_ その「自由な生命の発現」、「生命の享受」、「個性とその独自性とを対象化」することが、「真の、活動的な所有」(S. 466、118頁)と規定されていること、
の二点である。
 最後に、第10パラにおいてマルクスは、次の様な注目すべき記述を残している。
「ところで、この様に我々が相互に対象物に隷属し合うこと(Knechtschaft)が、発展の初期において、実際に主人と奴隷の関係として現れることがあったとしても、それは我々の本質的諸関係が赤裸々にかつ率直に(rohe und offenherzige)表現されたに過ぎない。」(S. 465、117頁)
 「発展の初期」という言葉から、次の三点が判明する。
^ この「発展」とは、交換の、従って剰余生産の発展であること。
_ この発展の「初期」は、主人と奴隷の関係であったこと[17]。
` ここでの「我々の本質的な諸関係」は従来の発展のすべての段階に妥当するものであること。
 この「第二評註」は、近代市民社会ではなく「自分では自己の生産物のごく僅かの部分だけを使用(し)……残りの部分は、彼の必要とする他の一切の商品の購買にあてられる」状態についての議論である。しかし、この議論は、「剰余生産」や「営利労働」そのものに普遍的に妥当するものである、とマルクスは述べている。そして「営利労働」の頂点は、賃労働なのである。問題は、人間の生産と生産とを結ぶ紐帯が、「人間的本質」であるか、それとも「利己的欲求」であるかであって、この紐帯の性格こそが人間の媒介的活動の性格を規定する、というのである。

 B 『ミル評註』における「貨幣」論の論理

 本章の「はじめに」で述べた様に、日本においては、『ミル評註』における「私的所有」から「貨幣態」への展開における「私的所有」を、「自己労働に基づく私的所有」と看做す見解が多い。こうした見解が正しいか否はともかく、『ミル評註』と『経済学・哲学草稿』〔第一草稿〕の両「私的所有」を比較することが、研究の一層の深まりにとって重要な一視点であることは疑いない。
 こうした論者は次の四つの論拠を上げる。
即ち、『ミル評註』で考察されているものは、
^ 資本ではなく、私的所有である。
_ 賃労働ではなく、営利労働である。
` 工場内分業ではなく、社会的分業である。
a 生産ではなく、交換である。
 後二者について言えば、それらが十分に発達するのは近代市民社会においてであることは、「スミス評註」後のマルクスにとっては自明のことである。従って、後二者は『経済学・哲学草稿』〔第一草稿〕と『ミル評註』とが同じ資本制社会の異なる局面を考察したものであることを示す論拠とはなり得ても、両著作の論理上の差違を示すものとはなり得ない。従って、以下では、これらのうち前二者を検討する。

  1. 『ミル評註』における「私的所有」
 先ず最初に、後々の議論を容易にするために、『ミル評註』の枠内に見い出せる社会区分を明確にしておこう。
^ 「未開で野蛮な状態」(S. 462、111頁):「このような状態においては、人間は彼が直接必要とする以上には生産しない。……この場合、交換は生じない。」(ebd.、同上)
_ 「外化された私的所有の、即ち交換取引のあの未熟な姿態」(S. 455、103頁):この状態にあっては、「私的所有者の双方は、彼の欲求・資質・手持ちの自然的素材が直接に彼を駆り立てて生産に向かわしめたものを各々生産したのである。それ故各人は、彼の生産物の剰余分だけを他者と交換したに過ぎない。勿論労働は彼の直接の生活の源泉(Subsistantzquelle)であったけれども、それと同時に、彼らの個体的実存の実現(Betaetigung)[18]でもあった。ところが交換によって、彼らの労働は部分的に営利の源泉(Erwerbsquelle)なっている。」(ebd.、同上)
`  以上の二状態に対して、特定の名称は与えられていないが、要するに、「市民社会」(S. 449、90頁)、「交換の関係を前提」(S.455、102頁)した状態、営利労働が「その頂点に達」(ebd.、同上)した状態、「分業(が)高度化」(S. 456、105頁)した状態。「剰余生産」(S. 462、111頁)の社会。
 ところで、『ミル評註』において展開されているのは、これらの中の社会状態`であることに疑間の余地はない。というのも、社会状態^には、そもそも、交換が生じていないし、交換が未発達な社会状態_においても、貨幣が交換の仲介者となることはない、とされているからである。
「分業を前提すれば、私的所有の素材を成す生産物は個々人にとって、ますます等価物の規定を受けとる。そして、彼がもはや自己の剰余分を交換するのではなくなり、彼の生産対象が彼にとってどうでもよくなるのに応じて、彼はもはや自己の生産物を彼が欲求するものと直接に交換するのではなくなる。等価物は、等価物としての自己の実存を貨幣という形態で受けとる。貨幣は今や営利労働の直接の帰結であり、交換の仲介者である。」(S. 456、105頁)
 蛇足ながら、小商品生産及び自己労働に基づく私的所有は、社会状態_に関するものであり、`は資本制的商品生産及び譲波に基づく領有である[19]。では、マルクスはこの資本制商品生産における貨幣の「交換の仲介者」化を、資本家達による私的所有の等価物としての交換を、小商品生産者を主体にして展開したのであろうか。ポイントは、引用文中に見い出せる「営利労働」範疇にあると思われる。がしかし、これは後に譲るとして、ここでは、「小商品生産者」論者に有利な「私的所有」に関する記述を検討してみよう。
 [引用文1]
「@国民経済学は──現実の運動もそうだが──私的所有者の私的所有者としての人間の人間に対する関係から出発する。A仮りに、私的所有者として人間が前提されれば、即ち仮にこの排他的占有によって自己の人格性を確証(bewahren)し、亦それによって自己を他人から区別するのと同様、他人と関係するような排他的占有者を人間と前提すれば、私的所有は彼の人格の定在であり、彼を特徴づける定在であり、それ故に彼の本質の定在である。Bそれ故、私的所有を喪失(Verlust)したり放棄(Aufgeben)することは、とりも直さず私的所有の外化(Entaeusserung)であると同様、人間の外化である。」(S. 453、98−9頁)
 この箇所から、私的所有が私的所有者にとっては本質の定在であり、従ってこの私的所有者は資本家ではなく、「小商品生産者」であると結論することは不可能である。こうした解釈は、文脈の一部(Aだけ)を、しかも「仮に」という肝心な一語を故意に見落した「改訳」である。しかも、この一節の前には、国民経済学が「真に人間的な生活を営む為の相互的な補完行為を交換ならびに商業という形態で理解している(auffassen)(ebd.、同上)こと、従って「社会的交通(geselliger Verkehr)の疎外された形態を……人間の人間としての在り方にふさわしい形態として固定している」(ebd.、同上)ことが批判されているのである。
 従って、[引用文1]の意味は、次の様に理解されるべきである。即ち、国民経済学は、私的所有者を真に人間的な人間と看做している為に、私的所有者の私的所有者に対する関係(=交換)を、真に人間的な人間による社会的交通そのものと看做している(@)。しかし、仮にこの私的所有者が人間的人間であると仮定しても、つまり仮に私的所有が彼の人格の定在であると仮定したとしても(A)、交換は彼が真の人間ではなくなるということなのだ。何故ならば、彼はその自己の人格の定在(と仮定された私的所有)を交換に出すのだから。従って、交換は、私的所有と私的所有者についての国民経済学(ヘーゲルも同様[20])の前提に立ってすら、私的所有の外化であり、人間の外化なのだという意味である。
 もっとも、私的所有と私的所有者を人格性の定在と真の人間と看做しているのは、近代市民社会そのものであること、citoyenから区別されたbourgeoisとしての権利が、人間(homme)のものとしての権利(=droits de l'homme=人権)と僭称されていることはマルクスが既に『独仏年誌Deutsch‐Franzoesische Jahrbuecher』(1844年)で解明したことである[21]。
 以上から、『ミル評註』における「私的所有」(=「商品」)が、そもそも「私的所有者」にとって「彼の人格の定在」でも「本質の定在」でもないことが明らかになったと思う。このことを更に裏づけてみよう。
 [引用文2]
「@それ故、二人の私的所有者の社会的連関、社会的関係とは、……双方の側で外化を措定する関係……である。A他方、(単純な)私的所有においては、外化はまだそれ自身に関してのみ一面的に生ずるに過ぎない。」(S.454、101頁)
 引用文中Aの「(単純な)」はMEGA編集者による補完であるが、この「単純な私的所有」は、「外化された私的所有」との対比で外化されていない「私的所有」即ち交換される前([補論]参照)の、所有者の手中にある「私的所有」である。この「(単純な)私的所有」は「自己労働に基づく私的所有」とは全く無関係である。何故なら、この「私的所有」には、Aに依れば、「それ自身に関してのみ一面的」な「外化」が生じているものだから。では、この外化とは一体如何なる外化なのであろうか。少くとも、この外化が「直接に生活の源泉であると同時に、個体的実存の実現でもある」様な労働からは生じないことは明らかであろう。そこで、この外化の内容を、「営利労働」範疇の検討を通じて明らかにしてみよう。

 【補論:初期マルクスにおける対象化、疎外と外化】
 初期マルクスにおいて、「対象化(Vergegenstaendlichung)」と「疎外(Entfremdung)」=「外化(Entaeusserung)」とが明確に区別されていることは周知の事実である。このことは例えば『経済学・哲学草稿』でマルクス自身明記していることである。従って、一部の論者がこれらを区別し得ていない原因は、その文献への内在不足以外の何ものでもない。
 しかしそれと同時に、『ミル評註』での考察対象が、人間の相互補完行為であるということを即自且つ対自的に自覚せず、「疎外」自体は広い意味を持っていることを認識しない者にとっては、この『ミル評註』における「外化」=「疎外」が紛らわしいものであることも事実である。「交換」を扱う以上、ここでの「外化」を「譲渡(Veraeusserung)」と同義と解釈──望月・森田説──し得る余地は存在するからである。もっとも、それはマルクスの記述に起因するものではなく、読み手の問題である。
 例えば、『資本論』において、「私的所有者」「商品交換者」等から区別された「資本家」が出てくるのは、第二篇(正確には第三篇)以降である。この場合、三者を同一人物と解釈し得る余地はある。しかしだからと言って、第一篇で「資本家」を使用できることにはならない。第一篇では、この「商品交換者」を「資本家」たらしめる規定が末だ展開・説明されていないからである。その逆に、第三篇以降では、単なる「商品生産者」では不十分なのである。
 ここでの「外化」と「譲渡」についても同様である。交換とは商品の「譲渡」である。しかし、それでは現象を現象として述べただけである。この「譲渡」が、生産物に対して私的所有者が持つ「本質的」関係の「措定」として展開されるが故に、この「譲渡」は「外化」=「疎外」と規定されているのである。いやしくも、説明=展開(Entwicklung)とは、この様な新しい規定の追加、新たな再規定であろう。
 『ミル評註』の展開自在の中に、「外化」=「譲渡」説の入り込む余地は確かに存在する。しかし、そこから先はそれを読む者の理解力の問題である。「譲渡とは、外化の実践である」(KARL MARX‐FRIEDRICH ENGELS WERKE, Bd. 1, S. 376)=「交換がなし得ることは、ただ我々の各々が自己の生産物に対して持っており、従って亦、他人の生産に対して持っている性格を運動させ、確証することだけである。」(S. 463、112−3頁)このことは亦、次のことを意味する。即ち、『ミル評註』が非自立的著作であり、「私的所有者」が彼の「私的所有」に対して持っている「性格」の分析を、その論理的前提として必要としていること、この「性格」は、『ミル評註』では析りに触れて指摘されているに過ぎないということである。

  2. 『ミル評註』における「営利労働」
 先ず、この範疇の使用例を上げてみよう。
 [使用例1]
「@交換の関係を前提すると、労働は営利労働になる。A疎外された労働のこの関係は、次の事態を通して始めてその頂点に達する。B即ち、1)一方では、営利労働、労働者の生産物が彼の欲求に対しても、彼の労働の目的(Arbeitsbestimmung)に対しても何ら直接的関係を持っておらず、この両者のいずれの面からも、労働者にとっては疎遠な社会的連関(gesellschaftliche Combination)によって規定されること:C2)生産物を買う人が、自分では生産しないで他人によって生産されたものを交換すること(dass, der, welcher das product Kauft, selbst nicht producirt, sondern das von einem andern Producirte austauscht)[22]」(S. 455、102−3頁)
 [使用例2]
「D外化された私的所有の、即ち交換敢引のあの未熟な状態では、二人の私的所有者の各々は……自分の生産の剰余分のみを他人と交換する。労働は、なるほど彼の直接的な生活の源泉ではあったが、同時にまた、彼の個人的実存の実現でもあった。Eところが、交換によって、彼の労働は部分的に営利の源泉となった。労働の目的と定在とは、別のものになったのである。F生産物は価値として、交換価値として、等価物として生産されるのであって、もはや生産者に対する直接に人格的な関係のために生産されるのではない。G生産が多面的になればなるほど、従って一方では欲求が多面的になり、他方では生産者(Produzent)の作業が一面的になればなるほど、それだけ生産者の労働は営利労働の範疇に属し、ついには営利労働の意味しか持たなくなる。」(S. 455、103頁)
 [使用例3]
「H営利労働には、次の事態が横たわっている。1)労働主体からの労働の疎外。I2)労働対象からの労働の疎外。J3)労働者が社会的欲求によって規定されること。しかもこの社会的欲求は、労働者にとっては疎遠なものであり、利己的な欲求や必要に迫られて服従せざるを得ないような強制である。……K4)労働者にとっては、自分の個人的実存を維持することが活動の目的となり、彼が行う現実の行為は、手段の意味しか持たないこと。即ち、労働者が彼の生命を実現させるのは、生活手段を取得する(erwerben)ためでしかないということ。」(ebd.、104頁)
 [使用例4]
「L分業を前提すれば、……個々人はもはや自己の剰余分を交換するのではなくて、かえって、彼の生産対象がなんであるかには全く無関心になる。Mそれ故、もはや彼は彼の生産物を、自分が必要とするものと直接に交換するのではない。この等価物は等価物としてのその実存を、営利労働の直接的帰結であり、交換の仲介者となっている貨幣の形態で受けとる。」(S. 456、105頁)
 [使用例5]
「Nひとたび交換が発生するや、占有の直接的限度を超える剰余生産が発生する。しかしこの剰余生産も、利己的欲求を超越するものでは決してない。むしろそれは、彼の対象化を直接に自己に見い出すのではなく、他人の生産の中に見出す様な欲求を充足する間接的方法に過ぎない。O生産は営利の源泉、営利労働になっている。」(S. 462、111-2頁)
 以上の使用例から、次のことは直ちに判明する。即ち、「交換取引のあの未熟な姿態」において「部分的」に生じた労働の「営利労働」ヘの転化が、分業あるいは交換の発展に応じて、完全な「営利労働」にまで発展する、と理解されていること(D、E、L─O)。
 では、この「営利労働」とは、労働の如何なる規定であろうか。労働の目的と定在が分裂した労働(E)であり、「生活手段を取得するため」の労働(K)である。つまり、「自由な生命の発現」(S. 466、118頁)の対極にあるところの、労働以外に存在するある目的を達成する為の手段となった労働である。
 では、この営利労働は、如何なる事態の下でその発展の頂点に達するのであろうか。[使用例1]のCに依れば、生産物を交換する者とそれを生産する者とが別人物になることによって、生産する者の労働は「営利労働」そのものになるのである。何故ならば、この「自分では生産しないで他人が生産したもの」と言う時の「他人」が、仮に生産物を買う人の交換相手である「他の私的所有者」に過ぎないとすれば、この一節全体は空語になるからである。一人の私的所有者が、各々他人の生産物を交換するということは交換の常であり、このこと自体は営利労働をその頂点に導びく特別な事態ではない。それはむしろ交換の発生、従って労働の営利労働への部分的転化を説明するものであろう([使用例2]、D─E)。
 営利労働の発展は、資本家と労働者の関係における賃労働として、その頂点に達するのである。それ故に、この[使用例2]においては「労働者」が登場するのである。このことは亦、[使用例3]において、「営利労働」の基礎に横たわっているとされている諸事態が、〔第一草稿〕後段における「疎外された労働」概念の諸規定とほぼ同じであることによっても裏付けられる。
 更に、[使用例2]における二種類の登場人物、「私的所有者」と「生産者」との関係はどうであろうか。ポイントは、FとGの訳し方にあるので、長くとも全文を引用してみよう。
 ”FDas Product wird als Werth、als Tauschwerth、als Aequivalent、nicht mehr seiner unmittelbaren persoenlichen Beziehung zum Producenten wegen producirt. GJe vielseitiger die Production wirt、je vielseitiger also einerseits die Beduerfnisse, je einer seitiger anderseits die Leistungen des Producenten werden, um so mehr faellt seine Arbeit in die Categorie einer Erwerbsarbeit, bis sie . . . .
 先ずFでの、Producentenはnicht mehr以降にのみ関係している。従って、「生産物が〜として」の部分は、必ずしもこの「生産者」にとってであるとは限らない。「私的所有者にとって」という可能性も存在する。そこで次に、GのProducentenがどこまで掛かるかが重要になる。二種の邦訳[23]の様に、Beduerfnisseにまで掛けると、この「生産者」が「私的所有者」である可能性が増すのに対して、拙訳の様にLeistungenのみに掛けると、この「生産者」は「私的所有者」ではなくて「労働者」である可能性が増す。というのも、〔第三草稿〕(三)に見られる様に、労働者にとっては「動物的な欲求すら止む」(167頁)と考えられていたからである。
 ともかく、[使用例2]においても、営利労働の主体はその表象においても理論においても、「労働者」であると考え得る[24]。つまり、労働者=生産者=私的所有者ではなく、労働者=生産者≠私的所有者の場合に営利労働が頂点に達する、とされているのである。そして、『ミル評註』における私的所有から貨幣への論理は、この営利労働が頂点にあることの上に展開されている。従って、『ミル評註』における「私的所有」そのものが疎外を含んでおり、「貨幣」は疎外されたものの更なる疎外なのである。
「それ故に、この媒介者(貨幣……大石)は、私的所有の本質の自己喪失態、疎外態であり、自己自身に外的な、外化された私的所有である。それは丁度、私的所有が人間的生産と人間的生産との外化された媒介であり、人間の外化された類的活動であるのに対応している。こうして、この活動の進行中に生じる一切の属性が、この仲介者に移譲されるのである。」(S. 448、87−8頁)
 見られる様に、『ミル評註』の「私的所有」は「人間の外化された類的活動」であり、この活動の外化故に、交換の仲介者が「貨幣」になるという論理である。
 では次に、「営利労働」範疇と「疎外された労働」概念との差違性について考えてみよう。確かに、[使用例3]の1)、2)、4)は各々「疎外された労働」の第2、第1、第3規定に対応している。従って、この二つが、同じ賃労働を、異なる論理次元で規定したものであることは、容易に推測しうる。「疎外された労働」概念は、資本の直接的生産過程における「労働の本質的関係」を概念化したものである。これに対して、近代市民社会の構造及び運動諸法則を「表象」──概念的把握の「出発点」であり「到達点」でもある──として確定した〔第一草稿〕前段において「営利活動(Efwerbstaetigkeit)」(28頁)が登場することからも判る様に、「営利労働」の方がより「表象」に近い範疇である。[使用例2]のFに依れば、その頂点にある営利労働は、その生産物を価値、交換価値、等価物として生み出す労働である。その意味する所は、他人との交換を前提した生産物を生み出す労働だということである。この交換とは、私的所有の枠内での生産物の相互補完関係であり、その意味で、「交換……は、……外化された類的行為」(S. 454、101頁)なのである。
 つまり、営利労働とは、生産物の相互補完という「類釣行為」との関連で賃労働を規定したものである。だからこそ、「疎外された労働」概念とは異なって、「社会的欲求」との関係も規定されているのであろう([使用例3]、J)。
 「疎外された労働」概念における「類」との関係規定は、一層存在論的なものであり、「営利労働」における「類的行為」の外化が生じる根拠を説明するものである。そもそも人間が「類」=「普遍」を意識し得る存在であること。この人間の本質規定の上で始めて、今日の労働主体における個と類の関係の転倒性(疎外)を解明し得ると同時に、この転倒した関係の克服を可能ならしめる諸条件を提示しうるのである。「疎外された労働」概念と「営利労働」範疇との関係は、「本質」と「定在」の関係である。
 では、以上の考察を踏まえて、『ミル評註』における「貨幣」範疇導出の論理が「自己労働に基づく私的所有」ないし「小商品生産」のそれであるか否に答えてみよう。
 「私的所有」が「貨幣態(Geldwesen)」へと進み得るためには、その「私的所有」は、偶然的に交換されるものでは不十分である。それは、始めから、価値として、等価物として生産された「私的所有」でなければならない。それは、営利労働の産物であり、「対象化された利己心(Eigennutz)」(S.463、113頁)でなければならない。こうした「私的所有」は、「自己労働に基づく私的所有」ではあり得ない。部分的な営利労働ではなく、営利労働そのものの結果でなければならないからであり、そのことはまた私的所有者と生産者の完全な分雄の上で始めて可能とされているからである。
 否、「小商品生産」とか「自己労働に基づく私的所有」とかは、そもそもこの『ミル評註』には無関係なのである。その意味は、「交換」そのものが私的所有を外化することであり、私的所有と私的所有者との間の関係が「人格の定在」であることを止めることなのであり、このことのみが問題だからである。『ミル評註』における「交換の仲介者としての貨幣」論は、交換を行う双方の私的所有者がその所有物に対して持っている性格、従って亦相手の所有物に対して持っている性格が、交換において運動させられ、確証させられることを論理的に展開したものである。従って、「小商品生産者」であろうが「資本家」であろうが、一切は「私的所有者」なのである。
「国民経済学は──現実の運動(交換……大石)もそうだが──私的所有者の私的所有者に対する関係としての、人間の人間に対する関係から出発する。」(S. 435、98頁)
 実際、マルクスは「信用制度」において「資本家と労働者との間の対立が、ますます増大する」(S. 451、94頁)ということを、「富者」と「貧者」に対する「信用」の「機会」によって展開している。つまり、『ミル評註』が商品−貨幣関係視座であるということは事実である。しかし、そのことと、「論理としては自己労働に基づく私的所有から出発している」ということとは別であり、両者は「論理としては」区別されなければならない。
 逆説的に言えば、研究者をして「ここでマルクスは、表象としては三階級分化の階級社会を前提にしながら、論理としては自己労働に基づく私的所有から出発している」と解釈させ得た程に、『ミル評註』におけるマルクスのW−G関係分析は成熟していたのである。
 確かに、『ミル評註』と〔第一草稿〕の両著作における「私的所有」の同一性を検討しておくことは必要である。しかし、日本においてその差違性が説かれている根本原因は、両著作の論理的関係を歴史的関係として追求してきたことにある様に思われる。そこで次節において、当時のマルクスの方法を明らかにし、当時の「私的所有」と「資本」との使用方法を確認し、誤りの根本原因を除去しよう。


第2章 『経済学・哲学草稿』における「経済学批判」と「貨幣」範疇


 A 『経済学・哲学草稿』の課題、方法、及び構造
 本節の詳しい内容は既に本書第9─11章において展開されている。従って、以下の所説の論証はここでは行わない。
 『経済学・哲学草稿』各部分の論理的関係は次の様になっている。
^ 〔第一草稿〕前段(所謂「所得三源泉の対比的分析」):国民経済学及び社会主義者の最良の成果に基づいて、概念的に把握されるべき近代市民社会の構造・運動諸法則を「表象」として確定する。
_ 〔第一草稿〕後段(所謂〔疎外された労働〕)と〔第二草稿〕:「表象」を概念的に把握する作業の端緒。資本の直接的生産過程の二面的分析。前者においては、「労働及び労働生産物に対する労働者の関係」が「疎外された労働」概念の第1−3規定に概念化され、そこから「労働者の労働及び労働生産物に対する非労働者の関係」、即ち「私的所有」あるいは「非労働者の所有関係」が導出される。この「非労働者の所有関係」そのものを考察したものが〔第二草稿〕である。
` 〔第三草稿〕[25]:〔第二草稿〕への付論。_で剔出された「私的所有の本質」=「疎外された労働」に基づいて現実及び認識上の諸対立、諸矛盾を「その現実的規定性」(168頁)において解明する。
 『経済学・哲学草稿』の課題は、国民経済学が現実の運動の内から抽象してきた近代市民社会の構造・運動諸法則を概念的に把握することにある。古典派経済学は、それらが如何に私的所有の本質から発生するかを確証しない。従って、未だそれらは私的所有の「必然的」諸法則として把握されているとは言えず、単なる「規則性」、抽象的・偶然的諸法則に過ぎない。マルクスはこれらの諸法則を一度「表象」として受け入れた上で、私的所有の本質から経済学的諸範疇を展開することによって、私的所有の必然的な法則として「概念的に把握(begreifen)」[26]しようとする。注意すべきは、特に貨幣制度の発展との関連が問われていたことである。
「従って我々は、今や私的所有、所有欲、労働と資本と土地所有との分離、(という三者)の間の本質的連関を、亦交換と競争、価値と人間の価値低下、独占と競争などの間の本質的連関を、更にこうした一切の疎外と貨幣制度(Geldsystem)との本質的連関を概念的に把握しなければならない。」(85-6頁)
 『経済学・哲学草稿』の方法について、もう一点重要なことは、マルクスが古典派経済学者の説明方法に潜む「論点窃取の虚偽」を批判し、彼の概念的把握を「国民経済学上の現に存在する事実」(86頁)の分析から始めていることである。この「事実」自体は、〔第一草稿〕前段で「表象」として既に穫得されたものであるが、その取捨選択の基準は、私的所有の発展の頂点である資本(−賃労働関係)における、人間と自然との物質代謝過程の視角にある。私的所有の頂点から剔出される「私的所有の本質」が、資本の構造法則のみならずその運動法則(土地所有→資本→私的所有一般の止揚)の概念的把握を可能ならしめている[27]。

 B 『経済学・哲学草積』における範疇展開と「貨幣」

  1. 〔第一草稿〕後段及び〔第二草稿〕での範疇展開
 ところで、『経済学・哲学草稿』の構造からも明らかな様に、『経済学・哲学草稿』における「経済学批判」は、〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕である。マルクスによれば、一切の経済学的諸範疇はここで獲得された「疎外された労働」及び「私的所有」概念の発展した姿態として展開し得るという。
「我々が疎外された、外化された労働の概念から分折を通して私的所有の概念を見つけ出してきた様に、これら二つの要因の助けをかりて、国民経済学上のすべての範疇を展開することができる。そして我々は、例えば、掛値売買(Schacher)、競争、資本、貨幣といった各範疇において、ただこれら二つの最初の基礎の規定され、展開された表現を、再発見するだけであろう。」(104頁)
 この範疇展開プランの中で、実際に展開されているものは、賃金、利潤の一般的規定及び資本である。資本は〔第二草稿〕において、「労働と労働生産物に対する非労働者の関係」の考察を通して、次の様に展開されている。即ち、労働者は資本に転化する時にだけ肉体的に存在しうるのであるから、資本に転化せざるを得ない。この資本に転化した労働者は、同じ資本に転化した他の商品(原料と機械)と区別されることなく、従ってその価値(賃金)は資本にとって必要経費でしかなく、その範囲を超えることはない。こうして、労働者は生産過程において、利潤を伴って資本を再生産する、と。
 この展開においてマルクスは、資本を「貨幣形態」の私的所有(116頁参照)、つまりその内容に対する「抽象性」の完成形態にある私的所有として捉え、この「抽象性」を基準に、土地所有から資本への発展の論理的必然性を説いている。
 ところが、貨幣範疇そのものの展開は、少くとも、現存する4頁分(XXXX−XXXXIII)の〔第二草稿〕に見い出すことはできない。では、貨幣範疇の展開は、この〔第二草稿〕の紛失された部分でなされていたのであろうか。多分、そうではあるまい。
 先ず第一に、先のプランでも「貨幣」は「資本」の後に書かれていること。第二に、〔第二草稿〕の対象は飽くまでも「労働者の労働及び労働生産物に対する非所有者の関係」であること。従って、この〔第二草稿〕で貨幣が問題になるのは、資本の内容的「抽象性」に関してだけだからである。第三に、事実〔第三草稿〕──この〔第二草稿〕への「付論」──において、貨幣について論じられることが多いからである。
 では、〔第三草稿〕における貨幣論は、如何なる性格のものであろうか。「付論」という性格からも容易に推測し得る様に、それは範疇展開プランにおける貨幣範疇展開では有り得ない。しかし、以下においては、その〔第三草稿〕において貨幣が論じられている──MEGA編集者による標題の──「〔三〕〔欲求・生産・分業〕」と「〔四〕〔貨幣〕」を検討してみよう。

  2. 〔第三草稿〕「〔三〕〔欲求・生産・分業〕」における貨幣論
 ここでのテーマは、生産の新しい様式並びに生産の新しい対象が、私的所有下においてもつ意義を明らかにすることである。貨幣については、その展開の冒頭で、次の文脈の中で論じられている。即ち、私的所有下において諸々の欲求とそれらを充足する手段の増加が欲求と手段の喪失を生み出す、ことを述べた箇所においてである。
 社会主義を前提すれば、人間的諸欲求の豊かさは、従って生産の新しい様式並びに生産の新しい対象は、「人間的本質力の新しい実証活動と人間的本質力の新しい充実」(149頁)という意義を持つのに対して、私的所有下においては「人間がそれに隷属させられるところの疎遠な存在の領土」(149頁)の増大でしかないことが展開される。その根拠について、次の様に記している。
「各人は他人に一つの新しい欲求を創出しようと思惑し他人に新しい儀牲を強制し、また他人を新しい従属におとしいれて彼を享楽の新しい様式ヘ、従ってまた経済的破滅の新しい様式へと誘い込む。各人は、他人に対して一つの疎遠な本質力を作り出そうと努め、そこに自分自身の利己的な欲求の満足を見出そうとするのである。」(同上)
 私的所有下においては、「新しい生産物の一切は、相互的瞞着と相互略奪の新しい潜勢力」(同上)でしかないから、新しい対象の増大は貨幣の力の増大であり、人間自身の能力の減少である。その結果、「貨幣に対する欲求が、国民経済によって産み出された真の欲求」(149−50頁)となる、というのである。

  3. 〔第三草稿〕「〔四〕〔貨幣〕」における貨幣論
 では、MEGA編集者によって「貨幣」と標題をつけられた部分においてはどうであろうか。ここでは、人間の諸感受性や諸情熱と対象との関係、及び私的所有下におけるその関係が考察されている。
 人間の諸感受性や諸情熱は、対象が感覚的に存在することによってのみ、現実に肯定される。そして、この対象は「発展した産業、即ち私的所有の媒介を通して始めて……生成する」(178頁)。ところが、この私的所有下においては、貨幣こそが「対象」となる。
「貨幣は、一切のものを買うという属性を持ち、一切の対象を獲得するという属性を持っているから、従って貨幣は優れた意味における対象である。」(179頁)
 それ故、貨幣は人間の欲求と対象、人間の生活と生活手段との間の縁結び役であり、縁切り役であり、諸々の個性の全般的転倒である、と。
 以上の考察から、『経済学・哲学草稿』における貨幣論を整理してみよう。
 先ず、第一に、『経済学・哲学草稿』の貨幣論は、「疎外された労働」概念に対する「付論」、つまりそこから展開されたものであるということ。
 従って第二に、所謂「経済原論」的な貨幣論と言うよりも、もっと視野が広いことである。そもそも、『経済学・哲学草稿』でマルクスが物質的疎外を考察しているのは、それが精神的疎外をも含む「全体性」であるからに他ならない(136頁参照)。従って、これらの付論においては、あらゆる主題で、「疎外された労働」と他の一切の疎外との本質的連関が示されているのであり、貨幣についても同様である。
 こうして第三に、『経済学・哲学草稿』の現存部分に見出せる貨幣論は、範疇展開プラン(104頁)における「貨幣」範疇の展開というよりは、むしろ「こうした一切の疎外と貨幣制度との本質的連関を概念的に把握」(86頁)するという『経済学・哲学草稿』全体の課題に係るものと言えよう。
 確かに、〔第三草稿〕「〔三〕〔欲求・生産・分業〕」の貨幣論は、『ミル評註』におけるそれに近いものである。しかし、『経済学・哲学草稿』の範疇展開プランは、同時にこの〔第三草稿〕「〔三〕〔欲求・生産・分業〕」の付論的貨幣論の他に、「疎外された労働」と「私的所有」概念からの「貨幣」範疇展開を予定していることも事実である。以上の基礎知識を踏まえて、次節では『経済学・哲学草稿』の範疇展開プランと『ミル評註』との関係について、考察してみよう。


第3章 『経済学・哲学草稿』と『ミル評註』の論理的関係

 我々は、これまでの考察によって、『ミル評註』を次の様に要約することができる。即ち、『ミル評註』は「貨幣の本質」論である。人間が真に人間的に生活し得る為には生産物の相互補完が不可欠であり、人間は他の人間の生産に対しても、内的・本質的関係を有している。従って、生産の内部での労働の相互補完と、生産物の相互補完は、類的生活のために人間が営む類的行為である。
 ところが、私的所有それ自体が、従って亦交換の当事者である私的所有者が自己の私的所有に対して持つ関係が、類的活動の外化であることによって、つまり相手の欲求、意欲を自己の私的所有へ従属させる手段としているために、この類的活動自体が相互的瞞着関係としての交換並びに商業として現れざるを得ない。この交換の発展によって、従ってまたその交換を始めから前提にした剰余生産及び等価物としての私的所有の定在が発展し、等価物を貨幣として受けとる関係にまで至る。ここに至って、貨幣は交換の仲介者に成るのである。従って、貨幣の発展ないし等価物としての私的所有の発展とは、人間の類的能力が、疎外された形で歴史的に形成されていくことに他ならない。
 以上の論理展開において、マルクスは「私の生産」と「君の生産」という表現を使用しているが、その「私」「君」は「歴史上」の「小商品生産者」に限定されるものではない。相互補完当事者とその生産を、つまり生産活動と生産物との関係を規定しているに過ぎない。
 論理と歴史は明確に区別されるべきであり、ここではそもそも「私的所有者」が「小商品生産者」であるか「資本家」であるかは問題にはならない。私的所有者と直接的生産者が別であってもなくても、交換で私的所有は「外化された」私的所有の規定に入る。ただし、「外化された」私的所有概念は、営利労働の頂点において、即ち交換当事者(私的所有者)と直接的生産者が分離した事態において頂点に達することだけは言い得る。
 ところで、他の評註、例えば『セー評註』を見れば、次の事は明らかである。即ち、当時のマルクスが「私的所有」を論理的出発点とした「経済学批判」を構想するハズはない、ということである。何故ならば、この『セー評註』は、国民経済学が「私的所有権(Privateigentum)を前提していることを批判し、この「私的所有権」を解明しない限り、科学的経済学は不可能であることを示めしているからである[28]。
 では、この「私的所有権」を解明した著作は何か。言うまでもなく、それは『経済学・哲学草稿』である。先ず「表象」次元において、「資本、即ち他人の労働の生産物に対する私的所有は、何に基づくのか」(31頁)と自問し、それを生産過程における「労働とその生産物に対する指揮命令権能(Regierungsgewalt=command)」(40頁)と捉えた[29]。〔第一草稿〕後段においては更に、資本の本質を「疎外された労働」概念(第1−3規定)として理論化し、この「疎外された労働」概念の結果として、「労働者および労働に対する非労働者の所有関係」(106頁)(第四規定)、いわゆる「私的所有」を導出した。
 従って、『ミル評註』は、この〔第一草稿〕後段を論理的に前提している。両者は各々同じ資本制社会の、生産諸関係(の一部)と交通諸関係をその考察対象とするものである。では、『ミル評註』は具体的には、『経済学・哲学草稿』の「経済学批判」の中で何処に位置づけられるのであろうか。次に、『経済学・哲学草稿』についての我々の見解(特に貨幣に関連して)をまとめてみよう。
 〔第一草稿〕後段で示されている『経済学・哲学草稿』の課題と方法に従えば、マルクスは先ず「私的所有の本質」(85頁)を剔出し、経済学的諸範疇の批判的展開を通して、即ち貨幣を「疎外された労働」と「私的所有」の発展した形態として規定することによって、近代市民社会における「一切の疎外と貨幣制度との間の本質的連関」を概念的に把握しようとしていた。貨幣自体一つのGemeinwesen(勿論、疎外されたそれ)であり、この貨幣があらゆる他の未熟なGemeinwesenを解体し、それにとって代わらざるを得ない必然性を解明しようとしている。
 従って、『経済学・哲学草稿』には交換過程の考察は一切含まれていない。考察対象は未だ生産過程に限られ、分配=交換については、その範囲内で説きうるもの(剰余価値としての利潤、資本の費用としての労賃等)に限定されたままに留まっている。
 他方、『ミル評註』は、生産−分配−交換−消費の展開が「必然的」なものであり、「分配は私的所有(これは生産の結果……大石)の力」(SS. 458-9、106頁)として展開されるべきこと、従って「労働の対象ならびに享受としての労働からの労働の分裂」(ebd.、同上)から展開すべきであることを示めしている。
 この様に見てくると、『経済学・哲学草稿』−『ミル評註』の論理的関係は、生産−交換の関係あると言えよう。その意味はこうである。『経済学・哲学草稿』は、生産過程分析から交換過程分析へと展開するブランを持っているにも拘らず、その現存部分が生産過程分析の枠内に留まっている。他方、『ミル評註』はこの『経済学・哲学草稿』の現存部分の後に展開される予定の交換過程分析の一部分(交換手段)であり、範疇展開としては「疎外された労働」と「私的所有」からの「貨幣」の展開である[30]。従って、『経済学・哲学草稿』と『ミル評註』は、単なる相互補完関係ではない。論理上は、『ミル評註』が『経済学・哲学草稿』の後に来るものである[31]。『経済学・哲学草稿』は、その現存諸草稿の後に、『ミル評註』をその一部として含むところの、分配を論じた別個の、新たな草稿が続くものとして計画されている。その意味では、『ミル評註』は『経済学・哲学草稿』の一部分に過ぎない、と言えなくもない。


おわりに

 従来の『経済学・哲学草稿』−『ミル評註』問題の諸定式を検討すると、その定式は次の三つの契機から成り立っている。
^ 『ミル評註』を他の諸評註や『経済学・哲学草稿』から分離・固定し、自立的著作と看做す。
_ 〔第一草稿〕後段を、他の『経済学・哲学草稿』各部分から分離・固定し、自立的著作と看做す。
` この様に両著作を捉えた上で、改めて〔第一草稿〕後段と『ミル評註』の時間的発展関係を問う。
 しかし、そもそも『ミル評註』も〔第一草稿〕後段も、自立的な著作ではない。つまり、『ミル評註』は単なる読書ノートでないとはいえ、まとまった著作の原稿ではないし、『経済学・哲学草稿』全体はまとまった著作の原稿とはいえ、〔第一草稿〕後段は、その有機的全体の一部分でしかない。
 従って、『経済学・哲学草稿』と『ミル評註』を、例えば『経済学批判』と『資本論』第一篇との時間的発展関係を問うのと同様に比較・対照することは、そもそも出来ない相談である。ほぼ同時期の、しかも各々非自立的著作の時間的発展は、両者が同じ個別テーマを扱っている時にのみ可能である。しかし、この『経済学・哲学草稿』−『ミル評註』問題の場合は、そのケースではない。問題の立て方に、問題があるのである。
 『経済学・哲学草稿』が、独立した著作の原稿であることを十分認識し、その有機的な論理上の関係を解明した上で始めて、『ミル評註』と〔第一草稿〕後段の論理的関係を、正しく論理的関係として問い得るであろう。
 「執筆順序」問題が初期マルクス研究でかくも大きく取り上げられている根本的原因は、この誤った問題の立て方そのものにあるのではないか。こうした方法的反省に立って、我々は、事実上〔第一草稿〕−『ミル評註』の時間的発展関係として論じられてきた問題を、『ミル評註』と『経済学・哲学草稿』各部分の論理的関係として、当時の「経済学批判」の全体像を確定する一大中心論点として論じてきた。
 その結果、『経済学・哲学草稿』当時の「経済学批判」が資本の直接的生産過程分析、しかも後の言葉で言えば、「絶対的剰余価値の生産」に留まっていたことが判明した。貨幣範疇の展開それ自体は末だなされておらず、ただ読書ノート(『ミル評註』)や付論〔第三草稿〕の形で取り上げられているに過ぎない。しかし、こうした限界は、単に「未熟」の一言で片付けられる性格のものでは断じてない。『経済学・哲学草稿』は十分な方法的認識に立って、その対象を「経済学批判」体系の「始元」に限定し、それに集中したものであり、開かれた体系、後の実り豊かな成果を十分予期させる著作である。
 こうした『経済学・哲学草稿』の内実を、その十分な意義において解明し尽くした研究を著者は未だ知らない。それ故、『経済学・哲学草稿』研究の新たな段階は、「執筆順序」問題の止む所から始まる様に思われる。


巻末注********************************

[1]. エンゲルスの証言。例えばKarl Marx‐Friedrich Engels Werke, Bd. 23, S. 42参照。

[2]. Gattungswesenは本来文脈に応じて訳し分けるべきだが、原語の区別の為に、一応このように統一的に訳しておく。

[3]. 細見英『経済学批判と弁証法』未来社、1979年。

[4]. 望月清司『マルクス歴史理論の研究』岩波書店、1973年。

[5]. Lapin, N. I., 細見訳「マルクス『経済学・哲学草稿』における所得三源泉の対比的分析」『思想』、1971年3月号。

[6]. Terrel Carver, MARX & ENGELS (HARVESTER PRESS,1983)は、従来の研究に三つの誤りを見出している(xii一ii)が、全く同感である。ただし、当該文献に内在せず、安易に後期文献から裁断する誤りも追加すべきである。

[7]. 中川弘「『経済学・哲学草稿』と『ミル評註』」『商学論集』37-2号。

[8]. 細見前掲『経済学批判と弁証法』、185頁参照。

[9]. 例えば、細見前掲『経済学批判と弁証法』。中川弘「疎外された共同態としての市民社会」(細谷・畑・中川・湯田著『経済学・哲学草稿』有斐閣新書、1980年)、第3章。森田桐郎『ミル評註』(現代の理論編集部編『マルクスコンメンタール氈x現代の理論社、1972年)。重田澄男「『ミル評註』と疎外」『法経研究』29-1号。

[10]. 細見前掲『経済学批判と弁証法』、21頁参照。もしも当時のマルクスが「表象」としても「自己労働に基づく所有」を持っていたと考えるならば、それは全くの俗見である。当時のマルクスにとって私的所有は、土地所有と共に始まり、資本(−賃労働関係)において発展の頂点に至るが、この両者の間に存在した諸形態は、「事物の本質の内に根拠づけられていないなおまだ歴史的な区別であり、資本と労働との対立が形成されてゆく間に固定した一契機」(111頁)でしかない。従ってマルクスは、土地所有が、地主の借地農(Paechter)への転化と奴隷の自由な労働者への転化によって、資本に至ると考えているのである。この点についは、『経済学・哲学草稿』岩波文庫、75-81、111-2、123-4、165-7頁等参照。

[11]. こうした見解は一般的であるが、全く根拠のないものである。マルクスが「競争を法則」の推進者として捉え、しかもこの競争をも説明しなければならないと考えていたことは、次の箇所からも明らか。『経済学・哲学草稿』48、85-6、155頁及び杉原・重田訳『経済学ノート』未来社、55訳頁参照。

[12]. 『経済学・哲学草稿』岩波文庫、110頁及び本書第二部第四篇第9章参照。

[13]. 本来文脈に応じて訳し分けるべきだが、原語を示すために、一応統一的に訳しておく。

[14]. politische Konstitutionは、未来社版では「政治的組織」となっている。『経済学・哲学草稿』岩波文庫、78-9頁での「独占」と「平等」の対比を考え、「憲法」(『マルクス・エンゲルス全集』第40巻の細見訳)を採った。この部分は、よく理解できないので、識者の御教示を乞いたい。

[15]. 細見前掲『経済学批判と弁証法』、22頁参照。

[16]. この点を明確にしている文献として、Franz von Magnis, Normative Voraussetzungen im Denken des jungen Marx, (Verlag Karl Alber GmbH, 1975, SS. 194-201)がある。

[17]. ラーピン説等に依れば、『経済学・哲学草稿』〔第一草稿〕は『ミル評註』以前に執筆されたことになっている。従って、この『ミル評註』当時のマルクスが土地所有の資本への発展を次の様に捉えていたと考えたとしても、この説に立脚する論者から異論は出るまい。即ち、土地所有においては、少なくとも主人は所有地の王である様な外観を示すが、この土地が商品になり私的所有の運動に完全に引きずり込まれ、すべてが貨幣関係化し、私的所有は「人格の定在」から「単に事物的な物質的富」に転化し、人間に対する物質の支配が完成する、と(『経済学・哲学草稿』岩波文庫、76-8頁を参照)。

[18]. 新MEGA版でBestaetigungから判読され直されている。この用法については、宮本十蔵『哲学の理性』(合同出版、1977年)、99-105頁参照。

[19]. 森田桐郎氏は、「譲渡に基づく領有」を「市民」的交通形態と看做し、それは結局小商品生産の交通形態とされる(同氏前掲論文、215-6頁参照)。氏は、異なる社会状態に関する記述を、勝手につなぎ合わせている(215頁)のである。

[20]. ヘーゲル『法哲学』「第一章 §41」参照。

[21]. 本書第一篇第2章参照。

[22]. 新MEGA版で、vertauschtから解読され直されたもの。

[23]. 杉原・重田訳『経済学ノート』未来社、103頁及び『マルクス・エンゲルス全集』第40巻、373頁。

[24]. 次の諸研究も、こうした見解を支持している。
Sozialistische Studiengruppen, Entfremdung und Arbeit, VSA‐Veflag, Hamburg, 1980, SS. 201.
Hans‐Joachim Helmich, >>Verkehrte Welt<< als Grundgedanke des Marxschen Werkes, Peter D. Lang, Frankfult am Mein、1980, SS. 215−6.
Walter Tuchscheerer、Bevor "Das Kapital"" entstand、PAHL‐RUGENSTEIN VERLAG、Koeln, 1968, S. 145, Fussnot 130.

[25]. ただし、紙数の関係上、「へ一ゲルの『精神現象学』からの八ケ条の抜き書きかな成る」(『経済学・哲学草稿』岩波文庫、297頁の訳者解説)〔第四草稿〕は、ここでは取り上げない。

[26]. 『経済学・哲学草稿』岩波文庫、258-9頁の注(1)参照。

[27]. 本書第四篇第9章及び第六篇第18章参照。「私的所有」から「資本」の展開については、本書第四篇第9章を参照。

[28]. K. Marx, Aus den Exzerptheften, in Gesamtausgabe、「-2, SS. 316-8.『経済学ノート』杉原・重田訳、35-6訳頁。

[29]. 資本を自己増殖する価値として捉え得るか否は、このcommand論に依存する。本書第四篇第9章及び第五篇第12章補論を参照。

[30]. この点を最初に指摘したのは、重田晃一氏による森田前掲論文への「コメント」(『マルクスコンメンタール 氈x現代の理論社、255頁)であろう。

[31]. 勿論このことは、実際の執筆順序とは差し当たり無関係である。