1996年度 卒業論文


       所得の二極化
−−米国の所得の二極化と今後の日本−−


             政経学部経済学科 4年 34428番
                         林 博和

【目次】
はじめに
第1章 米国の所得構造
 第1節 国民のいらだち
  第1項 1992年の経済情勢と大統領選挙
  第2項 1994年の経済情勢と中間選挙
  第3項 国民のいらだち
 第2節 所得の二極化と富の偏在の激化
  第1項 所得の二極化
  第2項 富の偏在の激化
第2章 米国の所得の二極化の原因
 第1節 税制度
  第1項 所得税
  第2項 法人税と企業買収(M&A)
  第3項 キャピタル・ゲイン税
 第2節 産業の衰退
  第1項 独占下の経済
  第2項 クラウディング・アウト
  第3項 低貯蓄率
  第4項 短期的視野という企業体質
 第3節 多国籍化
  第1項 多国籍化
  第2項 多国籍化の問題点
 第4節 規制の撤廃
 第5節 雇用の変化
  第1項 労働市場の変化
  第2項 雇用の変化
   1. 雇用の変化
   2. リエンジニアリング
   3. ジャスト・イン・タイム
第3章 日本での所得の二極化の恐れ
 第1節 産業空洞化
  第1項 産業空洞化と海外進出
   1. 産業空洞化の進展
   2. 海外進出
  第2項 産業の再構築
  第3項 経済のソフト化・サービス化
  第4項 今後
 第2節 その他要因
  第1項 財政硬直化
  第2項 税制度
   1. 所得税
   2. 法人税
   3. 間接税
  第3項 規制緩和
第4章 各政府のなすべきこと
 第1節 米国政府のなすべきこと
 第2節 日本政府のなすべきこと
おわりに
【資料】
【参考文献】

はじめに
 1994年米国経済白書によれば、1973〜92年の間の所得五分位ごとの平均世帯の実質所得上昇率(年平均)は、トップ20%層では0.93%、第4分位で 0.5%、第3分位で0.19%と上昇しているのに対し、第2分位では -0.18%、ボトム20%層では -0.69%となっているという。したがって、米国では所得の二極化が進行しているといえる。
 米国は1980年中頃まで、ブルーカラー中流階級を主体とする第一級の工業化社会を形成してきたが、今ではそれが崩壊し、親の世代より良い生活を望めないという状態にあり、言い換えれば、アメリカンドリームの終焉を迎えたといえる。
 所得の二極化は、米国に限ったものではなく、日本も所得の二極化への第一歩を踏み出そうとしているか、あるいはすでに踏み出しているのかもしれない。
 したがって、所得の二極化という問題を検討することは非常に意味のあることといえよう。幸い、日本には米国という先駆者がいるのだから、米国を反面教師とし、学ぶべきである。
この点に関し、D.ハルバースタムはその著『幻想の超大国』で以下のように述べている。
  「アメリカが20世紀という石油の世紀に、
 いち早く中流階級主体の工業化社会への道
 を開いたことは日本をはじめとする諸外国
 に多大な影響を及ぼした。それと同じよう
 に、現在アメリカが抱えているジレンマは、
 遠からずあとに続く国々のジレンマになる
 だろう」(D.ハルバースタム著『幻想の超
 大国』より)
 以上のような理由により、所得の二極化を卒論のテーマとした。
 内容については、第1章で現在の米国の所得の二極化について述べ、第2章でその原因を述べる。そして、第3章で日本での所得の二極化が発生する恐れについて述べる。そして、第4章で各国での所得の二極化に対する解決策を述べる。尚、第2章、第3章については、著者が重要と考える順番にしたがって記述した。

第1章 米国の所得構造

 第1節国民のいらだち

  第1項 1992年の経済情勢と大統領選挙
 湾岸戦争が終結し、米国国民の目が経済に向かい始めた1992年の大統領選挙で、共和党の現職大統領であるブッシュは破れ、民主党のクリントンが勝利を手にした。なぜ、クリントンが当選したのか。その答は1992年の経済情勢に導きだされる。
 1990年から景気は後退局面に入り、1991年には失業率が拡大し、雇用不安が国民を襲いはじめた。表1−1を参照していただきたい。実質GDP成長率は1985年以降、年平均 3%を上回る成長を続けてきたが、1989年では2.5 %、1990年では 1.2%、1991年では-0.6%、1992年では 2.3%という低い成長であった。ちなみに、労働人口増加率、生産性上昇率、労働時間増加率の合計、つまり潜在成長率は 2.5%前後であるといわれている。したがって、景気は1991年を谷とした不況期にあったといえる。また、失業率は1989年に 653万人、1990年は 687万人、1991年は 843万人、1992年は 938万人と増大した。当然ながら失業率も上昇、1989年に5.3 %であったものが1990年は 5.5%、1991年は 6.7%、1992年は 7.4%となった。一方、インフレ率は1990年の 5.4%をピークに、1991年に 4.2%、1992年に 3.0%へ低下した。
 このような景気低迷状態を打開すべく、ブッシュ大統領は、1993年度予算教書において景気の早期回復を目的とした一連の景気刺激策を発表した。その中には長期的効果を目標とした、1.キャピタル・ゲイン減税、2.貿易相手国の市場開放と自由貿易の推進、3.研究開発促進のための優遇税制の導入、4.教育改革の推進、5.金融制度の改革などもあったが、最大の重点は短期的景気刺激策にあり、それらは、1.連邦政府支出 100億ドルの3カ月前倒し、2.住宅購入に対する最大 5,000ドルの税控除、3.機械設備投資の15%割増償却、4.源泉徴収の圧縮といったものであった。すなわち、政府支出を拡大し、一方で民間投資を換気させ、実質的に減税とならない源泉徴収の圧縮による消費の拡大を促す政策を打ち出したのである。
 同時に、連邦準備制度理事会も金融緩和を実行した。銀行が準備預金の不足を他の銀行から準備預金の借入により補う際の金利であるフェデラル・ファンド・レートは、1989年第1四半期に平均9.85%であったのが、各四半期ごとに、9.53%、9.02%、8.45%と低下し、1990年第4四半期には平均7.30%に低下した。また公定歩合は 7.0%から 6.5%へ引き下げられ、1991年には2月、4月、9月、11月にかく 0.5ポイント引き下げられた後、12月にはさらに1ポイント引き下げられ 3.5%となった。そして、1992年7月にも 0.5ポイント引き下げられ、結局、3%という低水準まで落ち込んだ。
 ブッシュの景気刺激策と連邦準備制度理事会の金融緩和により、1992年には景気は回復局面に入っていた。National Bureau of Economic Researchによれば、米国の景気は1990年7月にピークに達した後、景気後退に入り、1991年の3月に底を打って回復に転じたという。事実、実質GDP成長率は前年の-0.6%から 2.3%へ拡大している。
 しかしながら、1990年不況からの景気回復は非常に緩慢であった。表1−2は1970年以降に生じた4回の景気後退の後の回復・拡大の過程を実質GDP水準の推移により示したものである。同表から明らかなように、1990年不況以外の3回の不況では、実質GDP水準がボトム時の水準を5%上回るまでに4〜5四半期で済んでいたのに対し、1990年不況では、9四半期もかかっている。また、1990年不況以外の3回の不況では、10四半期目には実質GDP水準がボトム時の水準を13%強上回ったのに対し、1990年不況では6%上回ったにすぎなかったのである。
 1990年不況の景気回復は、連邦準備制度理事会の金融緩和政策がインフレを大きく悪化させることなく、安定的景気拡大を目指したものであったため、非常に緩やかなものとなり、またその結果、国民が景気回復を実感するまでのタイム・ラグが非常に長くなったと思われる。
 そのため、国民はブッシュを支持せず、「経済こそが問題だ」と訴えたクリントンが大統領選挙で勝利を手にしたのである。

 第2項 1994年の経済情勢と中間選挙
 1994年の中間選挙でクリントン民主党は1946年以来の大敗を喫した。これにより、共和党は上・下院で多数党となった。
1994年の米国経済は1990年不況を脱した状態であった。実質GDP成長率は 4.1%、失業者数は 751万人まで減少し、失業率も 5.7%へ低下した。こうした景気拡大にもかかわらず、インフレ率は 2.6%と低水準を維持していた(表1−1)。つまり、1994年はまさに「低インフレ下の高成長」を絵に描いたような状態であったのである。にもかかわらず、クリントン民主党は敗れた。
 それではなぜ、クリントン民主党が敗れ、共和党が勝利を手にしたのかという点を以下で述べていこうと思う。
 1994年の中間選挙における共和党の大勝利をどう分析するかという点に関しては、大きく分けて2つの見方があったといえる。第1は共和党の勝利は、大きな歴史的流れが当面行き着くところまでいったことを示すものであるという見方である。これに対し、第2は流動性に重点を置く見方で、共和党の両院支配は、永続性のあるものではないというものである。
 第1の見方は、アイゼンハワー時代に始まった共和党の南部への浸透がニクソン、レーガン時代を経て、1994年の中間選挙で完了したとみることである。第2の見方は、1992年の大統領選挙でクリントンと民主党が「変化」を約束しながら、それが実現されなかったことに対する国民の不満により、共和党が勝利したと見ることである。
 CNN/TIMEの世論調査によれば、共和党に勝利をもたらした要因は、1.クリントン大統領への不満50%、2.民主党の政策に対する反発24%、3.共和党の政策に対する支持12%という結果がでている。このことから、1994年の中間選挙の結果は、クリントン大統領と民主党に対する不満票、批判票が流れたという見方、つまり、第2の見方の方が説得力があるといえよう。
 それでは、米国の経済情勢がきわめて好調に推移するなかで、なぜ民主党が大幅に議席を減らしたのかといえば、主として以下の2通りの理由があげられる。
 第1の理由は、米国経済は、指標上確かに改善したが、一般国民は経済指標によって景気を判断しているわけではなく、1994年はまだ不況にあると思っている国民が多くいたということである。多くの国民は所得の伸びが依然として低く、また、現在の職もいつ失うか分からないという雇用保障への不安を持っているため、将来に対して希望を持てずにいる。従って、クリントン大統領に対して不満を持っているのである。
 第2の理由は、クリントン大統領の評判が悪すぎたということである。U.S.News & Report によれば、「クリントン大統領は大嫌い」という者は20%、「嫌い」という者は25%で、合計45%にも達し、その理由は、クリントン大統領の個人的性格から政策及び政策遂行上の問題までさまざまであるという。
 民主党大敗の理由として、著者が重視しているのは、第1の見方である。なぜなら、米国経済が順調に推移している中で、民主党が大敗したのであるから、国民が米国の経済に対し不満を持っていたのではなく、よりミクロ的経済状態、すなわち所得上昇率、雇用不安への不満が、民主党に向けられたと思われるからである。
 1994年の中間選挙に対する有識者の論評の中から、政府と議会に対する国民不満をより具体的に挙げれば以下のようになる。
 1.アメリカは基本的に「ブルーカラー経済」 であったにもかかわらず、経済が国際化す る過程で、ブルーカラーの職を外国に奪れ てきたことに対する不満。
 2.米国国民の大多数は過去長期にわたり生 活水準が低下しているだけでなく、子が親 の生活水準を上回ることができないという 期待喪失。
 これらの問題は短期間で解決できるはずもなく、その結果、国民の不満、不安が蓄積され、それが1994年の選挙で、政府と議会に対する不信感、不満となって現われたものである。

第3項 国民のいらだち
 これまで述べてきたように米国経済は深刻な経済問題を抱えている。そして、米国政府がそれらを解決できずにいることへの国民の不満が非常に大きなものであるため、政局は非常に不安定化しており、先に述べたように1992年の大統領選挙では、ブッシュ大統領への批判票がクリントンを大統領にし、1994年の中間選挙では、今度は国民の不満が民主党に向けられたのである。
 大統領選挙の行われた1992年の連邦政府財政赤字額は 2,904億ドルでGDP比 5.1%に達した。レーガン政権以降急増した財政赤字は民間資金需要の充足に悪影響を与えるという、いわゆるクラウディング・アウトを引き起こし、その結果、設備投資と生産性の伸びにマイナス効果をもたらした。図1−1で説明してみよう。財政赤字により利子率が非常に高くなる。なぜなら、政府の歳入不足を補うための国債が発行されるからである。またこのような状況下で、景気刺激のために公共事業を拡大すると、需要を表わすIS直線はI'S'へシフトする。また、均衡点はaからbへ移行するため、YすなわちGNPはY0からY1へ拡大するのである。しかしながら、その結果、iすなわち金利はi0からi1へ上昇することとなり、民間投資の抑制をもたらすのである。そして、財政赤字が膨大であれば、その抑制の強さは増すのである。なぜなら、通貨量が仮に一定ならば、財政赤字を埋める資金を借金で賄わなければならず、またそれに対する利払いも増大する。また、その結果、通貨供給量が不足することとなり、資金不足が発生するのである。
 またこの時期、米国の対外純債務は 5,000億ドルを超え、その結果、外国への利子払いや配当金の支払を増加させ、それにより資金不足が促進され、設備投資と生産性の上昇を抑制したのである。
 そして、アメリカ人の平均実質賃金は長期間にわたって減少していった。1973年の1時間当り平均実質賃金を 100.0とすると、1992年のそれは86.7でしかなく、そのため多くの米国国民はこの世代が親の世代よりも生活水準を引き上げることができないと感じている。それと同時に米国では、所得の二極化も次第に顕著になってきた。1992年に行われた国勢調査によれば、トップ20%の家計が得た所得は、国民全体の51.3%に達しており、その一方で、ボトム20%の家計が得た所得は、国民全体のわずか 6.5%にすぎなかったのである。 これらの深刻な問題は、どれも短期間では解決できるものではない。従って、国民の不満は蓄積され、選挙は流動化し、政局が不安定となるのである。

 第2節 所得の二極化と富の偏在の激化

  第1項 所得の二極化
 1993年12月に行われた世論調査によれば、米国国民の81%が「富めるものはますます富み、貧しいものはますます貧しくなっている」と思っているということである。
 1994年の中間選挙で見られた米国国民の不満、いらだちの重要な原因の1つであるといわれる「生活水準の低下」及び「所得と富の不平等の拡大」は、昨今に発生したわけではなく、1973年に始まったのである。
 民間の1時間当り実質賃金は1973年までに着実に増加を続けきていたが、同年以降減少傾向をたどりはじめ、1973年を 100とすると、1980年は90.1、1990年は88.0と低下し、1994年には86.5にまで低下した。また1週間当りの実質所得(表1−3)も1973年を 100とすると、1980年は87.1、1990年は82.3と低下し、1994年には82.2と約20年前の水準を20%近く下回るに至った。
 このように長期にわたり、実質賃金、実質所得の減少が続いた結果、米国の多くの国民が、「子が親の生活水準を上回る生活を営むのは難しい」と感じるようになり、将来に期待が持てない状態に陥っている。この点について、D.ハルバースタムは次のように述べている。
「アメリカン・ドリームの中核となってき
たのは、子供たちの世代は親の世代よりよ
い生活ができるという信仰だった。しかし、
アメリカはついに旅路の果てにまで行き着
いてしまった。今、アメリカでは、その歴
史を通じてはじめて、子供たちが親と同じ
ような生活水準を維持できるという確信が
失われかけている」(『幻想の超大国』より)
 確かにその通りである。実質賃金、実質所得が減少するという状況下で以前と同水準の生活を維持するためには、労働時間を増加させることが必要である。また、もっとも簡単な方法は、夫婦共働きである。1950年代には平均的な世帯所得はたいてい夫婦いずれか1人の労働によって得られるものだった。しかし、1990年代には平均的世帯所得はほとんどの場合、夫婦共働きで得たものである。つまり以前は1人分の所得で買えた財やサービスが、1990年代では2人分の所得が必要となっているのである。従って、このことからも、国民の実質所得は減少しているといえよう。 しかしながら、実質賃金、実質所得の低下にあえいでいるのは、あくまでも「多くの国民」であって、「すべての国民」ではない。一部の国民は引き続き裕福になっており、その一方で多くの国民がますます貧しくなっている。そのようなミクロ的な現象を総合して、米国全体で見るマクロ的見方をすれば、先に述べたように、実質賃金、実質所得が減少しているということになるのである。従って、米国国民全体の実質所得水準の低下は「所得の二極化の拡大」という点を抜きにして論じることができないのである。
 スタンフォード大学のP.クルーグマンによれば、1979〜87年の間にトップ10%の家計の実質所得は21%増大、一方でボトム10%の家計の実質所得は12%減少した。また、貧困層に分類されるものは1979年の12%から1990年には18%に増大したという。また、マサチューセッツ工科大学のL.サローによれば、1973〜92年の間にトップ20%の男性労働者の実質賃金は増大したものの、それ以外の80%に関しては減少したということである。
 米国国勢調査局が1994年の10月に発表した「所得と貧困に関する調査」によると、1993年にはトップ20%の家計の所得が国民の総所得に占める割合は48.2%であったのに対し、ボトム20%の割合は、わずか 3.6%にすぎなかった(表1−4)。所得の不平等を計測するものとして、トップ20%がボトム20%の何倍になっているかをみる方法があるが、これによると、米国では13.4倍となっている。この数字を日本、ドイツと比較してみると非常に高いことがわかる。日本では4倍、ドイツでは 5.5倍となっており、米国の同比率は先進国中もっとも高いのである。また、トップ10%の男性の1時間当り平均賃金をボトム10%の男性の1時間当り平均賃金と比較した場合、1992年では、前者は後者の 5.6倍という水準であり、日本の 2.8倍、ドイツの 2.7倍に対し、約2倍という高い水準であることがわかる。
 このように、米国では、所得の較差が非常に大きいということがわかる。すなわち、所得の二極化が他の先進国に比べ、非常に進行しているといえよう。
 米国の所得の二極化は昨今に始まったことではないが、歴史的にみると、近年になって加速度的に拡大しており、現在では、過去20年間で最大になっている。トップ20%の家計の所得は、1973年には全所得の43.6%のシェアを占めていたが、その後5年間で 0.5%増大し、1978年に44.1%に達するにすぎなかった。しかし、1978〜83年の5年間での増加率は 1.0%と倍加、1983〜88年の5年間は 1.2%、また1988〜93年は 1.5%となっており、トップ20%のシェア拡大スピードは最近になればなるほど加速化している(表1−5)。 このことはジニ係数の推移からも明らかである。ジニ係数はローレンツ曲線と対になるものであるので、まず最初にローレンツ曲線を図1−2で説明する。横軸(x軸)に家計数の累積構成比を取り、縦軸(y軸)に家計の所得の累積構成比をとる。すなわち、図1−2において、図上の任意の点(x,y)は下位x%の家計が全所得のy%を有していることを示すのである。ただし、この任意の点(x,y)は45゜線よりも左ないし上の位置には存在しない。なぜなら、下位0%の家計が有する所得のシェアは必ず0%となり、また下位 100%すなわち、全家計が有する所得のシェアは 100%となるはずだから、この2点を結ぶ45゜線を上回ることはありえないのである。今仮に、A国における家計の所得が完全に平等であるとすれば、下位(※平等であるから正確には「下位」という言葉は当てはまらないが説明の都合上「下位」という)10%の家計が得る所得は総所得の10%であり、また、下位20%の家計が得る所得は総所得の20%となる。従って、ローレンツ曲線は図1−2で、原点を起点とした45゜線で示される。また、1つの家計がその国の所得のすべてを有するという最も不平等なB国では、ローレンツ曲線は原点を起点としてx軸上を右に走り、最後の家計すなわちx= 100で垂直となる。当然のことながら、通常のローレンツ曲線は前述の2つの仮定の中間にあり、(0,0)と( 100, 100)を結ぶ曲線となる。そして、45゜線に近く位置していればいるほど、所得の不平等が小さいことを表わすのである。
 ジニ係数は、ローレンツ曲線と45゜線により囲まれた部分の面積(A)が、45゜線を斜辺とした直角二等辺三角形の面積(B)に対する比率(A/B)として定義される。そして、ジニ係数は必ず0≦ジニ係数≦1となる。なぜなら、完全に平等である状態と最も不平等な状態の間にあるからである。従って、ジニ係数が小さければ、所得不平等が小さいということを意味し、ジニ係数が大きければ、所得不平等が大きいということを意味するのである。
 米国のジニ係数の推移をみてみると表1−6のとおりであり、1970年代は0.40前後で推移し、ほとんど変化がみられなかったが1980年代に入り急速に上昇傾向を強め、1980年に 0.403であったのが、1993年には 0.545にまで上昇、所得の二極化が加速度的に拡大してきていることを示している。
 また、当該年度必須食料購入額の3倍と定められている貧困層(1992年の4人家族の貧困水準所得は14,335ドル)に属す国民の数、及び総人口に占める割合は、1973年に 2,300万人で11.1%であったものが、1978年は 2,450万人で11.4%、1983年は 3,530万人で15.2%、1988年は 3,175万人で13.0%、1993年は 3,927万人で15.1%といった推移を示している。景気循環の影響により波があるが、貧困層の人口及びシェアは次第に上昇しつつあるといえよう。
 以上のことから、富裕層と貧困層の所得上昇率の差が大きいため、所得の二極化が進行してきたといえるのである。
 しかしながら、こうした所得の較差がそのまま正確に生活水準の較差となっているわけではない。両者の間にはきわめて密接な関係があるものの、若干のずれがある。ノースウェスタン大学のC.ジェンクスは以下のように述べている。
「国勢調査局の貧困調査では、いちばん低
い所得階層に属する『子供のいる家計』の
実質所得は1973年から1978年の間に22%
減少しているが、この統計は不正確であり、
ミスリーディングである」
 つまり、貧困層の実際の生活水準は必ずしも低下しているわけではないということである。なぜなら、国勢調査の統計には、貧困層に対し、社会福祉政策の一環として支給されるフード・スタンプなどの所得は加算されておらず、これらを計算に入れれば、貧困層の収入は公式統計よりも多くなるからだということである。また、彼の報告によれば、子供のいる家計のボトム10%の所得は、1988〜89年には平均で年間 5,588ドルであったのに対し、彼らの実際の支出は13,558ドルと所得の 2.5倍近かった。またこのような家計の72.0%がセントラルヒーティングのシステムを有し、49.4%が冷房装置を有し、96.6%が浴槽・トイレ・洗面台を完備したバスルームを有しているという。
 たとえ所得水準が低くても、その生活水準は所得から予想されるほど低いわけではないということが、表1−7からもわかる。1992年ではボトム20%(第1五分位)の平均所得は 5,981ドルであったが、その平均支出は 12,396 ドルであり、支出は所得の 2.1倍、また、第2五分位では平均所得が14,606ドルに対し、平均支出は17,920ドルで所得の 1.2倍であった。
 つまり、所得水準と支出水準の差は低所得層ほど大きくなっており、生活水準の較差を測るものさしとしては所得は必ずしも正確ではない。そして、ボトム20%(第1五分位)の平均支出とトップ20%(第5五分位)のそれを比較すると、約 4.5倍となるのに対し、平均所得を同様に比較すると、約13.9倍となる。従って、所得の較差に比べれば生活水準較差は小さく、日々の生活水準は所得と比べ、差が小さいといえる。
 しかしながら、所得の較差の方が支出の差よりも大きいということは、貯蓄の較差(富の差)が大きいということである。従って、所得の二極化は所得水準の差だけではなく、貯蓄水準の差にもより進行するといえよう。
  第2項 富の偏在の激化
 富を保有するものは、富を保有しないものに比べ、経済的厚生をより得ることができるのだから、富は重要なものであるといえる。この点に関し、A.オーカンは次のように述べている。
「人々の経済上の位置を示すのは所得と富
であるが、2つのうちでは所得のほうが重
要で所得は生活を維持するための基本とな
る購買力を示すだけでなく、財産所得を加
えるなら、その分布は富の保有をも反映す
るからである。それにもかかわらず、富は
重要であり、考察に値する」
 例えば、金融資産を保有する者は、金融資産を保有しない者に比べ、利子、配当などの財産所得を得られるため、経済的厚生は大きくなる。また、他人に貸す住宅を保有する者はそれによって家賃収入が得られる。また、自ら居住する住宅や自動車などの実物資産を保有する者は、それらを借りてレンタル料、リース料を支払っている者と比較した場合、リース料などに相当する収入を余計に得ているのと同じであり、たとえ両者の金銭所得が同じでも、生活水準は異なるのである。
 また、資産を保有している者とそうでない者とでは、経済的安定度も違ってくる。失業、疾病等の予期せぬことにより、所得の減少が生じても、資産を保有している者は、それを売却し現金化したり、あるいはそれを抵当に借金をすることが可能であり、急場をしのぐことができる。すなわち、生活を安定化させる役割をも果たすのである。このように、資産保有の有無とその大きさは人々の経済的厚生の大小を表わすのである。
 資産の形成は、1.貯蓄、2.すでに保有している資産の価値の増大、3.贈与及び相続によってなされ、富裕者と貧困者とでは貯蓄、既存の資産、相続などのパターンと大きさが異なり、所得の分布よりも富の分布のほうが、その偏在の度合いが極端である。1989年にトップ5%の所得を有する家計が得た所得は全家計所得の19%であったが、同年にトップ5%の所得を有する家計が保有していた富は全家計の富の61%に達していた。ジニ係数を見てみると、所得のそれは0.43であったのに対し、富のそれは0.84という大きさであった。これにより、所得より富の偏在、すなわち富の不平等のほうが大きいといえよう。そしてまた、この富は財産所得を生み出す源泉となるため、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなるのである。
 家計の富について調査を行っている連邦準備制度理事会は、富の概念として、1.市場性のある富、2.金融的富の2つを使用し、これらを以下のように定義している。
 まず「市場性のある富」だが、これは市場性のある資産の現在価値から債務の現在価値を差し引いたものであり、次のように定義されている。
 市場性のある富=自ら保有し居住する家屋、土地の市場価値+その他不動産の価値+現金、各種貯金+各種有価証券−各種債務。
 この定義からわかるとおり、「市場性のある富」とは容易に現金化できる資産のことであり、どれくらいの消費支出能力があるかという点について富の大きさを測るものである。 「金融的富」は「市場性のある富」から自ら所有し、居住している家屋、土地の市場価値を差し引き、住宅抵当債務残高を加えたものである。つまり、自ら居住する家屋、土地にかかわる資産とその債務を除いた富であり、より流動性のある富といえる。
 連邦準備制度理事会が1992年に発表した統計によれば、米国の家計が保有する実質ベースの「市場性のある富」の平均値は、1983〜89年にかけて23.2%増大した。これに対し、そのメディアン(中央値)は同期間中に10.5%増大するにとどまった。また、1989〜92年にかけては、前者は11.7%増大、後者はわずか 1.4%しか増加しなかった。
 「市場性のある富」の平均値は合計を家計総数で割ったものである。これに対し、メディアンは全家計を富の少ないものから順に並べて、ちょうど真ん中に位置する家計が保有する額を示すものである。従って、仮にトップ10%の家計の市場性のある富の価値のみが上昇した場合、平均値は増大するが、メディアンは変わらない。つまり、平均値とメディアンの増加率に差が出るということは、増加部の配分に偏りがあることを示している。
 E.ウルフが連邦準備制度理事会発表の前記統計から計算したところ、トップ1%の家計が保有していた市場性のある富の全家計が所有していた市場性のある富に占める割合は、1983年に33.8%を占めていたのが、1989年には 5.1%増大し、38.9%となった。また、トップ1%に次ぐ19%の家計の同比率は同期間に47.6%から45.6%へ2%減少、残り80%の家計の同比率も18.7%から15.4%へ 3.3%減少した(表1−8)。
 このような富の偏在の激化は「金融的富」の分布に関してもみられる(表1−9)。1983年にトップ1%の家計が保有していた金融的富は全体の42.9%であったが、1989年には 5.3%増大し、48.2%となった。トップ1%に次ぐ19%の家計の同比率は48.4%から45.8%へ 2.6%減少、残り80%の同比率も 8.7%から6.1%へ減少した。
 以上のように富の偏在が激化していることがわかる。そして、このような富の偏在を激化させる要因として、1.資産価格の変化、2.所得配分の変化があげられる。
 まず第1の「資産価格の変化」だが、これは、富める家計とそうでない家計では、富を構成する資産のウェイトが異なるだけでなく、各資産価格の変化も富裕家計に有利に作用したため、富の偏在が激化したというものである。
 具体的にいうと、株式、債券、事業資産の多くが富裕家計に偏在している。1989年についてみてみると、トップ1%の家計は株式の49.4%を保有、債券では78.9%を保有していた。これに対し、ボトム90%の家計は、株式で14.6%、債券では 6.5%を保有していたにすぎなかったのである。また事業資産の61.9%はトップ1%の家計により保有され、それに次ぐ9%の家計が29.1%を保有し、ボトム90%の家計はわずか9%を保有しているにすぎなかった。これに対し、不動産はボトム90%の家計が全体の46.2%を保有しており、その偏在の度合いは小さかったといえるが、この内、85.8%は自ら居住する家屋であったのである。
 従って、ある時点における各家計の資産保有額が同じであっても、その後の各資産の価格上昇率の相違により、各家計の資産総額に差が生じるのである。例えば、1983〜89年の間の各資産の上昇率は、株式が 101%、債券が21%、事業資産が50%上昇したのに対し、住居用家屋は27%上昇したにすぎなかった。その結果、株式、債券、事業資産を多く保有する富裕家計は一層裕福となったのである。 第2の「所得配分の変化」は所得の較差の拡大が富の偏在をもたらし、それがまた所得の較差を拡大させ、その結果また、富の偏在が激化するというものである。つまり、所得がある水準、いいかえれば所得と消費支出額が同じとなる水準を超えるとその一部は貯蓄され、富(資産)の一部となり、その富(資産)がまた、配当、利子といった財産所得を生み出す。そして、富(資産)から生み出された財産所得が消費支出額を上回ると、富(資産)は幾何級数的に増大するのである。
 前述の2つの理由のいずれの場合でも、所得の較差が重要である。なぜなら、消費支出を上回る所得は、貯蓄や自由に選択できる資産の購入に振り向けられ、富の偏在を引き起こすからである。またこれにより、米国がそうであったように、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなるという、所得の二極化が発生するのである。


第2章 米国の所得の二極化の原因

 第1節 税制度

  第1項 所得税
 1970年代から、米国ではそれまで縮小傾向にあった所得の較差が拡大してきている。『1994年米国経済白書』によれば、所得五分位ごとの平均世帯の実質所得上昇率(1973〜92年)は、トップ20%層では年平均0.93%増、第4五分位では 0.5%増、第3五分位では0.19%増、第2五分位では -0.18%、そしてボトム20%層では -0.69%となっている。上層ほど上昇率は高く、下層ほど下降率が高いことから、所得の二極化が進行したといえる。 この理由として、1970年代からの一貫した減税があげられる。例えば、レーガン政権は2度にわたり、非累進的税制改革を行った。具体的には、1981年の経済再建税法により、個人所得税の最高税率はそれまでの70%から、50%へ引き下げられた。また、1986年の税制改革法で、最高税率はさらに引き下げられ、28%となり、1931年以来の低水準となった。また、法人税の税率も46%から34%へ引き下げられた。
 このように最高税率が引き下げられたということは、高所得者への税負担が軽減されたことを意味している。従って、富裕層は着実に自分たちの可処分所得を増大させることとなったのである。
 この大幅減税を行ったレーガンの政策は以下の論理に立脚していた。すなわち、歴代民主党政権の高福祉政策は「個人の自助努力、自立精神」を弱め、貯蓄率を低下させた。高負担=高い限界税率は国民の勤労意欲を低下させた。また、ケインズ政策に基づくずさんなマネー・サプライ管理はインフレを高進させ、インフレはタックスフレーションとなって限界税率を高めた。それ故、大幅減税によって個人と企業の労働意欲、投資意欲を高めることが必要である。限界税率を引き下げれば、個人と企業の労働意欲、生産が高まり、それによって課税ベースが広がり、また脱税インセンティブが弱くなるのでかえって税収が増えるというものである。
 しかしながら、最高税率が引き下げられれば、税収が減るということを意味することは誰の目にも明らかである。しかも、この減税は、比較的に富裕者にとってのみ減税となるが、低所得者層には何ら意味のないことであるといえる。
 少し話がそれるが、著者が就職活動で、商工ファンドという企業の面接を受けたときのことを述べておく。この面接で著者は、米国の所得の二極化の要因として、1986年の税制改革のことを述べた。この時の面接官A(以下A)は、著者の見解に否定的な意見を述べた。Aによれば、最高税率の低下により、全体の可処分所得は増加し、それが消費に振り向けられ、経済は活性化するのだから、何ら問題はないというのである。たしかにAの意見は、マクロ的視点で考えるならば筋が通っているように思われる。しかしながら、第1章で述べたように、トップ20%の平均所得はボトム20%の平均所得の13.9倍に対し、平均支出のそれは4.5倍であるのだから、高所得者への減税による消費拡大は大きな効果をもたらすとはいえない。従って、所得の較差を減少させることの方が重要であり、金持ちを優遇する税制改革はまちがっていると著者は考える。

  第2項 法人税と企業買収(M&A)
 1950年代、連邦政府は法人と個人の所得税を合わせて 4,780億ドル集めた。その内訳は、法人が39%、個人が61%であった。1990年に法人、個人の所得税による歳入は4兆ドルに達した。その内訳は、法人が17%に減少したのに対し、個人は83%に増加している。
 1986年の税制改革法で、法人税の税率は46%から34%へ引き下げられた。これにより企業の成長は促進され、企業の利益が拡大するため、結果的に、法人税の税収は増加し、法人税の比率も増加すると議会は予測していた。具体的な金額をあげるなら、議会は1986年の税制改革により、1987〜90年の4年間で集められる法人税は、 1,200億ドル増加して合計 4,100億ドルになると推定していた。すなわち、 1,200億ドルの税負担が個人から企業に移るはずであった。しかしながら、この4年間で実際に集められた法人税は合計 3,750億ドルにとどまった。新しい法人税収は 1,200億ドル増えるどころか、実際には 350億ドルの減収となったのである。その結果、1980年には所得税の総額に法人税の占める割合は21%であったのに対し、1990年には4%減少し、17%となった。このおかげで個人の税負担の比率は大きくなり、また一方で連邦政府の財政赤字が拡大したのである。
 それでは、なぜ法人税収が予測したよりも減収となったのだろうか。それには、1980年以降の企業の借入金利息の課税控除、純営業損失控除(NOL)の増加があげられる。
 企業の借入金利息の課税控除とは、企業の借入に対する費用、すなわち金利に対して税を控除するものである。これにより、法人税収は1980年代で年間 1,000億ドルの減収となっていた。
 純営業損失控除とは、企業が前年の損失分を当期、あるいは来期、またはそれ以降まで繰り越して、法人税を支払わなくて済むという優遇税制である。1980年代を通じて、この制度を使って企業が支払わずに済ませた税金は約 1,000億ドルになっている。
 この2つの課税控除は1980年頃までは非常に有用であった。なぜなら、企業は借入により、工場、設備に対する投資を行い、生産を拡大し、その結果、雇用の創出がなされていた。従って、支払い利息の課税控除はこれを促進させる意味で非常に有効であった。また、経営の悪化した企業から税を控除することは、経済を安定化させるのに必要である。つまり、米国を建設するために、これらの課税控除は非常に有効であったといえよう。
 しかしながら、1980年代に企業買収(M&A)が増加する中でこれらの制度は、米国を切り崩すために利用された。企業は借入により、他の企業を買収しようとし、また買収の危機にさらされた側は、それを防御するため、結果的に莫大な負債が発生する。そして、企業買収がなされると、買収した側は資産の売却を行い、その結果、工場は閉鎖され、雇用が減少する。そして、このような結末をもたらした企業のオーナーや投資家たちに天文学的な額の金が支払われるのである。従って、所得の二極化が促進されるといえる。
 具体的な例として、1989年のコールバーグ・グラビス・ロバーツ社によるRJRナビスコ社の買収劇をみてみよう。この買収にかかった費用は約 200億ドル、その全ての負債がRJRナビスコ社に押し付けられた。その結果、同社は1990年に30億ドルの支払い利息を計上、これにより新しいオーナーは10億ドルもの法人税を支払わずに済んでいるのである。

  第3項 キャピタル・ゲイン税
 米国には、連邦政府、州政府や地方自治体の発行する国債、州債等は非課税債券とされている。つまり、これらの非課税債券から得られる利子収入、すなわちキャピタル・ゲインには、課税されないのである。1989年の非課税債券の利子総額は 388億ドルとなっており、この内 201億ドル(52%)を所得上位80万世帯(1%未満)の家計が得ており、それに次ぐ上位3%の 800万世帯の家計が、残りの 187億ドルを得ているのである。つまり、非課税債券のすべてが、トップ3%の家計により保有されており、当然その利子収入のすべてがトップ3%のものとなっている。これに対し、残りの97%の家計、すなわち1億 830万世帯には非課税の利子所得はないのである。つまり、上位3%の家計の所得は非課税の利子収入により増加するが、残りの大多数の家計は非課税の利子収入がないため増加せず、所得の格差が拡大するのである。
 次に、非課税債券以外のキャピタル・ゲインについてみてみよう。1993年度予算教書で、ブッシュ大統領は、キャピタル・ゲインの減税案を発表した。これにより税率は28%から15.4%へ引き下げられた。この減税は、景気低迷にあえぐ米国の景気回復を目標としたものであった。つまり、減税により、可処分所得が増加するため、消費支出が拡大し、景気を刺激するという考えに基づいていた。
 内国歳入庁の統計によると、1989年度に所得申告されたキャピタル・ゲインは総額で、 1,502億ドルであった。その内の 1,082億ドル、すなわち72%は所得10万ドル以上の 130万世帯のものであり、これは1億 1,230万という所得申告者全体のたったの1%に相当する。残りの 420億ドルのキャピタル・ゲイン所得は、所得10万ドル以下の 720万世帯のものであると報告されており、これは所得申告者全体の6%に相当する。この2つのグループを除いた1億 380万世帯、つまり所得申告者全体の93%にはキャピタル・ゲイン所得はなかったのである。従って、キャピタル・ゲイン減税は、所得申告者全体の上位7%には節税となる。しかも、その結果もたらされた金の大部分は、所得申告者上位1%の手元にいく。逆に93%の人々はこの減税から何の恩恵も受けられないのである。
 このようなことから、キャピタル・ゲインを得ているものはそれだけで、所得の増加となり、またこのキャピタルゲイン減税により、利益を得ているといえる。これに対し、大多数の国民は、キャピタル・ゲインを得ていないため、所得の二極化が進行したといえよう。


 第2節 産業の衰退
 
 1960〜89年の間、米国の設備投資は非常に低かった。投資率(対GDP比)は1960年代は 9.0%、1970年代は 7.9%、1980年代は5.2 %と減少している。同時期の諸外国の投資率をみてみると、日本は各22.1%、21.5%、15.8%、西ドイツも各17.2%、12.7%、 8.3%となっており、米国の投資率が非常に低いことがわかる。そして、投資率が低いことは生産性上昇率が低いということを簡単に推察させる。
 製造業生産性と投資は、密接不可分であることは誰の目にも明らかであり、表2−1が示すとおり、1960〜89年にかけて、米国の年平均投資率(GDP比)は 7.4%で、その結果として生まれる生産性上昇率はわずか3%である(図2−1)。主要諸外国をみてみると、トップの日本は、年平均投資率は19.8%と高く、生産性上昇率でみても 7.5%と非常に高く、イギリス、カナダは、米国に次ぐ低い水準であることがわかる。
 生産性上昇率と投資が低いため、米国では、国際競争力が低いといえよう。そのような状況下では、当然、労働者の低賃金が進む。なぜなら、競争力を失った米国製品は、より競争力を持った国の製品に市場を奪われることとなり、米国の工場は、以下の3つの選択を迫られるからである。
 まず1つめの選択は、単純に廃業することである。その結果、雇用されていた労働者は解雇され、失業者となる。当然、労働需要は減少し、労働供給の過剰が発生するため、賃金は相対的に低くならざるをえない。つまり、ブルーカラー労働者の賃金が下落することとなる。
 次に2つめの選択は、国内の工場を閉鎖し、より安価なコストを求め海外進出を行うことである。労働者はより安価な賃金で働く海外の労働者との競争にさらされ、1番目の選択と同様、賃金が低下する。
 3つめの選択は、国内に留まりながら競争力を維持する方法である。競争力を維持するためには、研究開発、生産設備に対し、積極的に投資をすればよい。しかしながら、前述のように米国では、投資率が低いという事実から、それが実行されたかどうか疑わしい。ただし、米国は競争力を維持するために労働コスト、すなわち賃金を低下させ、生産性を引き上げたのである。
 以上3つの選択のどれもが、労働者の賃金を引き下げることになるのである。従って、低水準な設備投資による産業の衰退は、労働者の低賃金をもたらし、所得の二極化の一因となったといえるのである。
 それではなぜ設備投資をしないのであろうか。それには、1.米国経済が長い間、独占下にあったこと、2.クラウディング・アウト、3.低貯蓄率、4.短期的視野という企業体質があげられる。これらの4つの要因について以下の項で述べていくことにする。

  第1項 独占下の経済
 米国は第2次世界大戦後から1960年代中頃まで、世界最大の国内市場、技術の優位性といった経済発展に必要な要素を持っていたため、非常に高い収益を得てきた。なぜなら、第2次世界大戦により、敗戦国の日本、ドイツはもちろん、戦勝国であるイギリス、フランスでさえも、既存設備に被害をこうむったのに対し、直接戦場とならなかった米国は、何ら被害を受けることもなく、いわば、「世界の工場」として、工業製品の市場を独占したからである。しかしながら、このような独占の下では、競争せずとも高い利潤が得られるため、設備投資、技術革新は停滞するのである。
 この点について、レーニンは以下のように述べている。
「独占は不可避的に停滞と腐朽の傾向を生
みだす。たとえ一時的にでも独占価格が設
定されると、技術進歩に対する、従ってま
たあらゆる他の進歩、全身運動に対する刺
激的要因がある程度消滅し、さらには、技
術的進歩を人為的に阻止する経済的可能性
があらわれる」(『帝国主義』より)
 これに対し、既存設備を失った側は、競争力を上昇させるために投資を拡大させ、その結果、設備、技術が向上し、生産性も上昇することとなり、やがて米国と同水準の品質の製品をより低いコストで生産することが可能となる。
 このように、米国における独占下の経済が低設備投資を招き、米国の産業を衰退させる一因となったのである。

  第2項クラウディング・アウト
 1960〜70年代前半までの連邦政府の財政赤字額はGDP比で1%以下(15年間の単純平均で 0.9%)であり、連邦政府の総債務(連邦政府以外の保有分)は、1960会計年度末のGDP比47%から、1975会計年度末の26%まで減少してきていたのだが、1970年代後半から財政赤字が増大し始め、1975〜79会計年度間の赤字額は、単純平均するとGDP比 3.0%となった。
 1977年に大統領に就任したカーター大統領は、失業の改善を重視し、減税と公共支出拡大を行い、上昇局面にあった経済は成長を促進され、GNP成長率は1977年に 4.7%、1978年に 5.3%と高水準に達した。また、雇用面では、失業率は前年から1%減少し、1978年には 6.1%となった。しかし、これにより財政支出は拡大し、インフレが加速され、1978年に 7.7%の高率となった(表2−2)。また一方で、財政赤字が拡大したのである。 そして、財政赤字は、レーガン、ブッシュ政権下で拡大を続け、1980年代の赤字額は平均するとGDP比 4.1%となった。赤字は1990年代に入っても拡大しつづけ、1990〜93年度間の平均では、平均 4.4%に達した。
 1985年の財政収支均衡法以来、数回にわたり赤字削減措置が行われてきたが赤字額は一向に減らなかった。1990年時点で、利払い費が連邦政府支出の15%(約 2,000億ドル)を占めるに至っており、それによるクラウディング・アウト、財政の硬直化が懸念されている。
 このように1970年代後半から1990年代前半までの財政赤字拡大により、クラウディング・アウトが叫ばれ、その結果、設備投資の抑制がもたらされたのである。

  第3項 低貯蓄率
 マクロ経済学は純貯蓄率の校庭から、純投資率を説明する。1962〜89年の間、日本は常時20%(GDP比)前後の高い純貯蓄率を維持することにより、急速な資本蓄積を容易とし、また可能としたことは事実である。
 これに対し、米国の純貯蓄率は1962年 9.1%、1972年の 8.8%から、1980年代後半の2.2 〜 3.2%と急落し(表2−3)、また、可処分所得に対する個人貯蓄も1973年の 9.4%から、1980年に7%、1987年に3%、1991年に4%へと急落した。
 貯蓄率が低いということは、それだけで、設備投資に振り向けられる資本が不足しているため、設備投資が抑制されることを意味する。なぜなら、貯蓄率を改善しようとするならば、若しくは、資本不足を改善するためには、金利を高く設定せざるをえない。
 その結果、資本コストが高くなり、投資が停滞するのである。
 貯蓄率が激減した1980年代は、レーガン大統領によるマネーサプライの厳格な管理の下で高金利政策を維持していたにもかかわらず貯蓄率が低下するという、矛盾が発生していたが。実はこの時期の景気拡大が消費者需要に依存していたものであったため、高金利であるのに貯蓄が低下するという現象を生み出したのである。つまり、この時期の景気拡大を促した個人消費の増大は、個人可処分所得の上昇からではなく、貯蓄率の低下と借入の増大により賄われたのである。
 このようなことから、1980年代の米国は、低い貯蓄率と高金利により、設備投資が抑制されたといえよう。

  第4項 短期的視野という企業体質
 事業に成功するためには、経営者はその意志決定がもたらす長・短期の双方の結果に注意を払う必要がある。しかしながら、米国企業は概して短期の業績に目を奪われる傾向がある。例えば、研究開発を見てみよう。研究開発は長期的に見れば、企業の発展に必要不可欠であるが、短期的に見れば、手っ取り早く利潤を得られないため軽視されるので、企業の研究開発支出は日本、ドイツに比べ低いものとなっている(図2−2)。
 それではなぜ、米国企業は短期の業績に固執するのであろうか。
 まず、資本コストが日本よりも大幅に高いことが言える。資本コストとは、xという資本を使用するにあたり、一年間に支払う費用のことであり、言い換えれば金利のことである。米国は、日本比べ貯蓄率が低いことは表2−1からも判る。貯蓄率が低ければ、当然そのコスト(金利)は高くなる。それに加え、米国の80年代の高金利政策により、金利は高率であったということからも容易に推察できる。
 例えば、今仮に、A社とJ社の二社が存在したとしよう。A社、J社はともに$ 100を借り入れ、A社は資本コストを年間10%支払うのに対し、J社は年間 3%しか支払わないとすれば、20年間の投資を行う場合、A社は$ 637以上の収益が得られる場合のみ投資が可能となるのに対し、J社は$ 181以上の収益があれば良いのである。そして、投資年数が30年であれば、両社の差額はより広がることは明白である。従って、金利の高い米国では、企業は長期的視野に立つことが出来ず、短期的視野に立たざるをえないのである。
 もう一方の理由として、投資収益性が重視されているということが言える。例えば、経営者が短期の利益を棄て、長期的な開発・投資政策を採用すると、株主に対する配当(利益)は少なくなる。すると株主はより自分たちに利益をもたらす経営者を望み、結果的に経営者の交替が要求される恐れがある。また、経営者の給与所得が、前年度の経営実績に比例して支払われる場合が多いため、経営者は短期的利益を重視することが多いのである。
 従って、企業はここでもまた短期的視野に立たざるをえないのである。
 以上のような理由により、設備投資や、研究開発投資が阻害され、機械設備は老朽化し、生産性の上昇率は鈍化したのである。その結果、80年代のドル高の影響も作用し、日本製品の「品質と価格」の前に世界市場、国内市場で競争力を失ったのである。例えば、日本車の米国国内販売のシェアは70年には42万台で約 4%であったのが、80年には 240万台で約20%を占めるようになったのである。
 そして、競争力を失った米国産業に短期的視野の圧力がかかり、企業は低コストを求め、海外へ流出するのである。またその結果、労働者の実質賃金は下落することになるのである。


 第3節 多国籍化

  第1項 多国籍化
 米国国内の実質資本ストックは、1970年代に 3.5%増であるが、1980年代には 1.5%増となり、第1次金属、衣服繊維、窯業などでは減少した(表2−4)が、これは、伝統的な米国工業地帯での製造業雇用を1967〜80年にかけて減少させる。ニューヨーク州では 192.2万人が 145.1万人へと24.8%減少、ペンシルバニア州では 155万人から 132.8万人へと14.3%減少、イリノイ州では 139.7万人から 122.2万人へと12.5%の減少となっている(表2−5)。 これに対し、全米企業資産中の米国直接海外投資(簿価)の比率は1950年の 0.6%から、1960年の 0.6%、1974年の 0.7%、1980年の 1.2%、1985年の 1.6%へと増大した。
 このような事実から、明らかに米国企業の多国籍化が進んだといえる。また、製造業における米系 300大多国籍企業の支配力は想像以上に大きく、表2−6が示すように、米国製造業の全生産高の35%、カナダの52%、メキシコの25%、ブラジルの18%、イギリス及びベルギーの16%を占めている。ここの部門についてみてみるとさらに強力であり、カナダのゴムの98%、輸送設備・機器の90%、電機の82%を占め、イギリスの機器の56%、ベルギーのゴムの82%、化学の48%を占め、ブラジルの輸送設備の65%、ゴムの48%、メキシコの機械の63%、電機の52%、輸送設備の45%等々を支配しているのである。
 多国籍化により、企業は国内工場を閉鎖し、自国労働者を解雇しながら、外国に工場を建設し、在外調達への依存を強めたのである。企業が部品や完成品を外国から調達する在外調達には、1.キャプティブ輸入(外国企業や米系子会社により外国で生産された製品を、米国企業が自社ブランドで販売するための輸入)と、2.輸入した外国部品を米国企業が国内生産で用いる場合とがあり、アメリカ関税法 807、 806.30項により優遇される。
 この方式における輸入は1966年の9.53億ドルから1985年には 305億ドルへと32倍に増加した。また、米国の商品輸入額に占める比率も 3.8%から 8.9%に増大した。
 また雇用面でも、時間給で米国の 14.31ドルに対し、2.23ドル(1989年)という低水準の賃金を有すメキシコ労働者を利用し、マキラドーラ保税加工区の工場は、1965年の12工場、 3,000人から、1989年には 1,699工場、44万人へと激増したのである。また、極東でも、米国での労賃を 100とすると、香港で16、韓国で14、シンガポールで19、台湾で16(1989年)といった低賃金を利用するため、労働集約的工程が移転された。その結果、米国半導体工場は、1985年に、香港に8工場で 4,552人、韓国に5工場で 8,800人、シンガポールに11工場で10,397人、台湾に8工場、15,296人、その他のアジア地域に31工場で60,918人と合計63工場で約10万人を雇用し、さらに現地資本を下請け組立工場として組み込み、米国を含む世界市場への輸出拠点とすることも促進したのである。

  第2項 多国籍化の問題点
 以上で述べたような企業の海外進出の増加は、国内労働者の失業と賃金の引き下げをもたらす。1980年代の米国や現在の日本における産業の空洞化現象に見られるように、企業がより安価な労働力、生産コストを求めて海外進出をした場合、生産にたずさわる労働者および下請企業の労働者の失業をもたらし、その結果、労働需要が減少するため、労働力の供給が過剰となり、労働者全体の賃金、労働条件を引き下げるのである。
 従って、企業の多国籍化は、所得の二極化をもたらす一因であるといえよう。


 第4節 規制の撤廃

 1970年代以降の歴代大統領は、失業とインフレの共存というスタグフレーションを克服するため規制緩和という経済へのてこ入れを行ってきた。例えば、フォード大統領は経済再検討委員会を設けて規制緩和法案の制定に着手したし、カーター大統領は78年に航空規制緩和法を制定した。これにより、航空業界では運賃が自由化されたほか、航空路、発着時間の認可制が廃止された。そして、1980年には自動車運送改善法により、運送業の自由化が促進された。そして、レーガン大統領も1982年に金融法を制定した。これにより、S&L(貯蓄貸付組合)の業務範囲は拡大され、銀行の不動産投資が自由化されたほか、経営の悪化したS&Lと銀行との合併も認めらるようになった。
 そして、これらの規制緩和は以下のような論理に裏付けられていた。それは、政府介入をなくし、市場を自由競争に委ねれば、新興企業の成長は促進され、他方、既存の企業は高率アップに努めるか、さもなくば、自然淘汰され衰退するという論理である。つまり、競争により新しい職が生まれ、価格の下落が生ずることで、消費者も産業も潤うということである。確かに、以上の論理には非の打ち所が無いように思える。
 しかしながら、これらの規制緩和は、結果的に何千もの企業の倒産と、約20万人の失業をもたらしたのである。
 航空業界では規制の撤廃により、経済的支配力をもつ航空会社がのし上がり、競争力の低い航空会社は倒産していった。そして、失業が生み出され、結果的に寡占市場が形成されることとなった。そこでは、新しい航空会社の参入は不可能である。そしてまた、競争が少ないため、航空運賃は上昇した。例えば、フィラデルフィア〜ピッツバーグ間の往復航空運賃は、1978年では$86であったのが、1992年では$ 460まで上昇したのである。
 一方、競争力の低い企業(結果的に倒産に至った企業)では、少しでも競争力を上昇させるために、設備投資の削減、人員の整理、賃金の大幅な引き下げを行った。その結果、航空機の使用年数は上昇した。例えば、トランスワールド航空の機体の平均使用年数は、1978年に10.5年であったのが、1990年には 15.52年に上昇したのである。しかしながら、この急激な数値の増大だけでは真実が見えてこない。トランスワールド社の機体の多くは 15.52年をはるかに超えて使用されている。同社のボーイング 727−100 型旅客機の平均使用年数は25年であり、最も古い機体は1964年製であるという。
 トランスワールド社のように、米国の航空会社の多くは航空業界の厳しい経済状態のために弱体化し、古びたジェット機を交換する資金さえも底をついてしまっている。そのため、米国の航空会社は、米国国内線市場に食い込もうとするヨーロッパ、アジアの競合会社よりも、はるかに古い機体を飛ばさなければならないのである。ボーイング社のデータによれば、米国航空会社の機体使用年数は、1980年に平均7.56年であったのが、1990年では平均 13.5年に上昇しているという。これに対し、ヨーロッパ、アジアの航空会社の機体使用年数は1990年にそれぞれ、平均10.4年、平均 8.7年となっているという。
 また、賃金の引き下げの例として、フライト・アテンダント(旅客機の乗務員)の給与を見てみると、1983年の彼らの平均年収は、28,847ドルであったのが、1989年では6%低下し、27,160ドルとなっている。ちなみに、同時期に物価は約24%上昇している。
 このような航空業界のデータが示す深刻さが理解できれば航空業界に自由化をもたらした人々、すなわち政策決定者達は、別の解決策を採るだろう。すでに彼らは海外の航空会社に、米国国内に残っている各社に投資するように求めており、さらに、米国の国内線市場を海外の航空会社にも自由化することを考えているのである。
 このことが何を意味するのかといえば、以下のようなことになる。
 米国の航空会社間の競争をかきたてるために規制を撤廃した政府が、今度は、多くはそれぞれの政府が援助している海外の航空会社と、弱体化しながらも生き残った数少ない米国航空会社を、競争に駆り立てようとしているのである。その結果、米国航空業のさらなる弱体化が引き起こされると思われる。
 このように、規制の撤廃は、意図していた結果とはまったく逆の結果をもたらしたのである。いいかえれば、規制の撤廃は設備投資の減退と、労働者の失業の増大と低賃金化を招き、所得の二極化をもたらす一因となったのである。


 第5節 雇用の変化

  第1項 労働市場の変化
 米国の労働者の多くは、1996年の時点で、米国経済はまだ1990年不況から抜け出していないと感じている。しかし、統計上は米国の景気は拡大しているのである。労働市場状況指数は1990年不況が終わった1991年には109.0 であっが、1995年のそれは116.4と約7%上昇している。また、実質GDPも1995年第4四半期には、前回の景気のピークである1990年第2四半期に比べ、約13%上昇しているのである。
 このように統計上景気回復がなされているのに、米国の労働者の多くはそれを感じていない。U.S.News & World Report が1996年に行った世論調査によれば、「景気が拡大している」と思っている者は全体の22%しかおらず、「景気が低迷している」と答えた者が37%、「不況に陥っている」と答えた者が20%、そして、「深刻な不況に陥っている」とこたえた者が11%もいたのである。
 このような統計と労働者の実感の矛盾は、労働市場情勢に原因があるといわれている。 前述の労働市場状況指数は、雇用要因指数(量的指数)と実質労働報酬要因指数(質的指数)の2つの指数を乗ずることによって算出されているが、表2−7からも分かるように、雇用要因指数と実質労働報酬要因指数とではその推移がかなり異なっている。前者は1993年以降、連続して上昇したが、後者は1990年以降、一貫して低下傾向が続き、1990年に98.7であったものが1995年には97.5となっている。すなわち、労働市場状況指数は雇用の量的拡大により上昇したといえる。しかし、雇用の質的面では悪化が続いており、これが国民の景況感に作用したと思われる。従って、問題は雇用の量よりも質であり、言い換えれば、雇用の質的劣化が問題ということになる。 米国労働省労働統計局が1992年2月から1994年4月までの約2年間の雇用の増加について分析した結果によれば、雇用の増加の多くは相対的に賃金の低い産業に多く、その結果、雇用の数は増大しても雇用の質は劣化するという減少を生み出しているという。 表2−8は、米国の諸産業を当該産業に属する労働者の平均所得を低い順に並べ、それらを10のグループに分け、10分位表を作成し、1992年2月から1994年4月までの期間の 421.3万人の雇用増が、どの分位で生じたのかを表わしている。
 最も平均所得の高い第10分位(タバコ、鉱業、石油精製、映画制作、タイヤ、航空機、証券、通信業等)から第6分位までに属する業種の雇用は、全雇用の28%を生み出したにすぎず、残りの78%は、第1分位から第5分位に属する業種、すなわち労働者の平均所得が下位50%に属する業種によって生み出されたのである。中でも、第4分位、第5分位、第1分位の雇用貢献度が大きく、これらに属する主だった業種は、食料品店、ベーカリー、デパート、レストラン等があげられる。
 また、民間産業を1.鉱業、2.建設業、3.製造業、4.運輸・公益産業、5.卸売業、6.小売業、7.金融・保険・不動産業、8.サービス業の8つに分類し、それを当該産業に属する労働者の平均週所得の大きい順に並べ雇用の増減をみても、同じ傾向が読み取れる。表2−9は1990年不況のボトムである1991年3月と1995年12月とを比較し、景気回復開始から約5年間の間に、どの産業が雇用増加にどの程度貢献したかをみたものである。最も雇用の増大が大きかったのはサービス業で 466.3万人、増加寄与率62.2%、次いで、小売業の 155.3万人、増加寄与率20.7%であり、両産業の寄与率の合計は83%に達している。この両産業の労働者の平均週所得は1991年と1995年の両年において、ともに全産業の平均を下回り、8産業中では7位と最下位である。しかも、同期間の両産業の平均賃金上昇率11%は、消費者物価上昇率13.8%を下回っており、実質賃金は低下しているといえる。
 雇用の質的変化のうち、国民の景況感に悪影響を与えているものとして、考慮すべきことがもう1つある。それは、雇用の保障(継続性)である。たとえ高収入の職を得たとしても、雇用期間が短かったり、いつ解雇されるか分からないといった状況では、被雇用者としては生活の設計が立てにくく、従って、消費者心理も不安定にならざるをえないのである。
 すでにみたように、1990年不況からの景気回復・拡大過程における雇用増の80%は、小売業とサービス業において生み出されたが、これらの多くは、当然ながら中小企業である。 ところが、中小企業の雇用は、その保障(継続性)という面では大いに問題があるといわざるをえない。S.ディヴィス(NBER)によれば、中小企業の雇用創出率は非常に高いが、同時に雇用破壊(解雇)率も非常に高いという。表2−10は製造業における工場の従業員規模別に、1.総雇用創出率(新規雇用数÷従業員数× 100)、2.総雇用破壊率(解雇数÷従業員数× 100)、3.純雇用創出率(1.−2.)を表わしたものである(1973〜88年の平均)。総雇用創出率は、明らかに従業員規模と反比例の関係にある。しかし、同様に総雇用破壊率も従業員規模と反比例の関係にある。つまり、規模が小さい企業では雇用機会をみつけるのは容易だが、雇用の保障(継続性)は期待できないといえる。従って、1990年不況からの景気回復・拡大過程における雇用の多くは小売業、サービス業を中心とした中小企業によって創出されたのであるから、その保障(継続性)に問題があるといわざるをえず、これが労働者(=消費者)の心理に影響しているといえるのである。
 ところで、雇用の保障(継続性)の問題は、必ずしも中小企業に限ったものではなく、大企業にも存在する。パート・タイマーやテンポラリー・ワーカーは、1990年不況の景気回復過程で急速に増加し、「使い捨て労働力は今日の経済において重要な要素となっている」といわれるまでになった。1991〜95年までの4年間で民間雇用数は 8,985万人から 9,731万人へ 746万人(8.3%)増加したが、同期間にテンポラリー・ワーカーは 148万人から 241万人へ62.8%増加し、全雇用の増加に対する寄与率は12.5%に達した。
 そして、パート・タイマーやテンポラリー・ワーカーなどを含む臨時補充労働者は、米国の全労働者人口の約30%を構成しているといわれている。
 以上のような、労働市場の変化は、労働者の実質賃金の低下と雇用不安を招き、所得の二極化を促進させる一因となったのである。
  第2項 雇用の変化

   1. 雇用の変化
 米国経済は1980年代のレーガン政権時代から、さまざまな分野で規制緩和が進められ、それにともなって国内競争が激化してきたが、それに加え、1980年代後半以降は経済の国際化の度合いが強くなり、競争もグローバル・ベースになった。こうした状況変化の中で、米国企業はその競争力を維持するため、1.コスト削減のために人件費を削減する必要に迫られ、2.消費者ニーズの変化に弾力的に対応するために、従業員の固定化をできるだけ避ける必要に迫られた。
 このような必要性に迫られた米国企業は、1990年前後から、従業員管理方式と雇用方式を大きく転換してきているわけだが、その1つはリエンジニアリング( reengineering)であり、もう1つはジャスト・イン・タイム(just in time)方式による雇用である。

   2. リエンジニアリング
 リエンジニアリングとは、1.ファンダメンタル(基本)、2.ラディカル(根本的、徹底的)、3.ドラマティック(劇的)、4.プロセス(手順、過程、工程)をキーワードとし、実行される。
 リエンジニアリングを実行しようとする企業は、第1に「何をどのようにしてなすべきか」を基本に立ち返って決定しなければならない。つまり、既成の事実を無視することから始まる。
 第2に、改革は表面的なものでなく、「根本からの改革」でなければならない。つまり、既存の組織、プロセスを無視し、まったく新しい仕事の遂行方法を発明するのである。 第3に、表面的改善ではなく既存の体制を吹き飛ばすという劇的変化を実現する。
 第4に、既存のプロセスを見直す必要がある。
 以上4つのキーワードの中で最も重要であるのが「プロセス」であるといわれる。現代の企業経営には、高品質、よいサービス、弾力性、低コストなどが要求されるが、この要求を満たすためにはプロセスを変えることから始めなければならない。現代の企業経営は、A.スミスの分業のメリットにあまりにも注目した結果、仕事を細分化してしまっている。これに対し、リエンジニアリングでは、顧客にとって意味のある価値を生み出すためには、どのようなプロセスが必要かという点から出発し、まず必要なプロセスを創出、それに必要とされる人々を集め、結果に対する連帯責任を持たせたチームを作る。そうすることにより、企業の中に顧客第一主義が育つといわれる。
 新しいプロセスを作り出し、そのプロセスにしたがって価値を創造していくということは、現在行っていないやり方に取り組むということであり、情報技術の有効活用が不可欠となる。この点についてサンフランシスコ連銀のB.トレハンは以下のように述べている。 「企業は1980年代にコンピューターを積極 的に導入したものの、その有効活用という 点では不十分で学習期間ともいうべき状態 にあった。しかし、1990年の不況をきっか けとして加速度的にコンピューターの有効 活用が進められ、その結果、雇用が削減さ れた」
 つまり、1990年以降、急速に普及したコンピューターは、仕事の基本的性格を変えるために使われるようになったということである。いいかえれば、コンピューターの活用により、リエンジニアリングが推し進められたということである。
 リエンジニアリングによる雇用削減は、一説には25,000人に達するといわれており、その雇用破壊効果が懸念されている。そして、米国企業が、外国企業と激しい競争を続けるかぎり、米国企業は、リエンジニアリングによる効率性の追求をしつづける事となり、雇用の破壊が、今後ますます進むと思われる。
   3. ジャスト・イン・タイム
 米国企業の雇用政策の第2の特徴はジャスト・イン・タイムの雇用方式により、人件費を削減しようとしている点である。
 米国企業は、1.雇用をテンポラリーなものにすることにより、フリンジ・ベネフィット(健康保険、有給休暇、退職年金等)を削減し、労働報酬の抑制を図る、2.ジャスト・イン・タイムの雇用方式により、企業にとって必要な労働者を必要なときに必要なだけ、人材派遣会社から供給してもらい、不必要になれば引き取ってもらうことで弾力性を維持し、従業員の解雇にともなう訴訟や、その他の法律上の問題を回避するといった、努力をしている。企業が給付する健康保険、退職年金、社会保険などのフリンジ・ベネフィットの賃金に対する比率は、1985年には32%であったのが、1995年では40%に達しており、いいかえれば、米国企業の労働コストを40%割り増しにしているのである。そして、その内訳は、健康保険21.8%、退職年金10.6%、社会保障21.2%、有給休暇22.5%、その他23.9%となっている。
 このように企業が雇用方針を弾力化するなかで、どの程度の数の労働者が、弾力的労働者となっているのかという点が問題となるが、これに対する答えは、弾力的労働者をどのように定義するかによって変わってくる。弾力的雇用の対象となっている労働者は、普通、臨時補充労働者と呼ばれ、同労働者を広く定義すれば、1.パート・タイマー、2.会社形態をとっていない自営業者、3.人材派遣会社によって雇用されている者に分類される。この定義による臨時補充労働者の内訳は、1993年の時点でパート・タイマーが約 2,100万人、会社形態をとっていない自営業者 1,030万人、人材派遣会社被雇用者 190万人、そして、重複計算を差し引いた合計は 3,100万人であり、総雇用数1億 1,900万人の約26%に相当するのである。
  2,000万人を超えるパート・タイマーは、フルタイムの労働者に比べ、時間当り賃金が低い。そして、パート・タイマー、テンポラリー・ワーカーの両者はともに、雇用の保障(継続性)が不確実なのである。
 従って、このような雇用の変化は、所得の二極化を促進する一因といえるのである。


第3章 日本での所得の二極化の恐れ

 第1節 産業空洞化

  第1項 産業空洞化と海外進出

   1. 産業空洞化の進展
 近年、日本では産業空洞化が懸念されてきているが。この産業空洞化により、労働者の雇用が減少し、日本での所得の二極化を招く一因となると思われる。
 産業空洞化とは、製造業の国際競争力の低下により、製造業が直接投資を通じて国外へ流出することであり、いいかえれば、製造業のGNPに占める割合が低下することを意味している。そして、その結果、雇用の消失、設備投資の低下を招くことになるのである。 この雇用の消失と設備投資の低下を、仮にセー法則に当てはめると、雇用の消失は消費の減退を引き起こす。なぜなら、もしある給与所得者の職が失われてしまったら、その人は、今まで蓄えてきた貯蓄を使用し生活するか、持っていた資産を売り払って手に入れた現金で生活をするか、あるいは政府からの保護を受け生活するという3つの選択を迫られる(ただし、いずれの場合も、次の職を得るまでの生活である)。しかしながら、これら3つの選択のいずれも、普通に職を持っている人々よりも少ない消費を余儀なくされる。従って、その人の消費は以前よりも低くなる。次に、設備投資だが、ある企業が事業から撤退すると、当然需要の減少が引き起こされることになる。すなわち、消費の減退と設備投資の減退は、総需要曲線を左ないし、左下にシフトさせるので、経済活動が不活性化され、国の衰退につながるのである。また、雇用の減少と需要不足が労働者の低賃金化を促進させるのである。
 それでは産業空洞化がどのように進展してきたのだろうか。
 1955~70年代までの高度経済成長期では、重化学路線、国内生産の推進、製品輸出の推進が行われ、表3−1からも分かるように、製造業のウェイトは上昇していった。しかしながら、1973年と1979年の2度のオイルショックにより、省エネルギー化を迫られることとなった。製造業でこれを達成したのが、エレクトロニクス革命である。これにより、IC(集積回路)技術が向上し、エネルギー制御が可能となり、産業用ロボット、自動制御工作機が登場し、ファクトリーオートメーション(FA)化が進行した。一方、事務部門でもオフィスオートメーション(OA)化が進み、その結果、以前よりも少ない労働力で、製品の製造が可能となり、製造業での雇用拡大が鈍化することとなった。そして、製造業での雇用吸収力の鈍化を第3次産業が補完するという「経済のソフト化・サービス化」が進行した。
 1980年代の低成長期に入ると、1985年のプラザ合意以降の急速な円高により、製造業の価格競争力が低下し、輸出が困難になったため、企業はより安価なコストを求め、海外へ進出することとなった。このことは、国際収支のなかの長期資本収支からも分かる。1985年には長期資本収支は-644億ドルであったが1986年では-1,318億ドルに拡大している。そして、海外直接投資額をみても、1985年に 122億ドルであったのが、1986年には 222億ドルへ拡大しているのである。
 このように、産業空洞化は1985年以降の急速な円高による海外直接投資の増大とともに懸念されるようになったのである。

   2. 海外進出
 次に企業の海外進出について述べていく。 まず、海外進出の第1段階で、生産は国内で行われ、生産された商品の販売は、現地の代理店を通して行われる。つまり、進出というよりは輸出状態である。
 そして、第2段階に入ると、輸出先の国に販売拠点が設立されるという、販売面での変化が発生する。
 つづいて、第3段階に入ると、生産面で変化が発生し、技術開発の拠点が現地に移転されることとなる。つまり、この時点が産業空洞化の始まりとなるのである。日本では、前述のように、1985年以降の円高にともなう、海外直接投資の増大にこのことがあらわれている。
 そして、第4段階に入ると、現地法人化が起きる。つまり、生産、販売、技術開発、資金調達機能がすべて移転されるのである。
 そして、最終段階である第5段階に入ると、第4段階で移転された経営資源が、世界的規模で最適配置されることとなる。ここで注意したいことは、今まで日本の主要な輸出製品であった自動車の製造が、第5段階に進んでいることと、その部品等を供給していた中小企業も同様に進出したかもしれないということである。仮に、国内で自動車の生産台数が 100万台減少すると、雇用は26.6万人減少するといわれている。ちなみに、この26.6万人は1986年の失業者 170万人の15.6%に相当する。

  第2項 産業の再構築
 日本を代表する自動車、エレクトロニクス等のいわゆる、加工組立型の製造業は、今まで輸出の面で高い競争力を持っていた。しかし、先に述べたように、急激な円高により、競争力を失ってきた。そして、アジア諸国の工業化の進行により、それは決定的なものとなってきている。そのため多くの企業が、生産拠点の海外移転、生産ラインの合理化といった、産業の再構築(リストラクチュアリング)を行うこととなった。
 それでは、どのようにして、産業の再構築が行われるのだろうか。
 まず、生産ラインの合理化が行われた場合、先にあげたFA化により、工場の無人化が発生、それ以前よりも相対的に少ない労働力で生産が可能となる。そのため、熟練工は産業ロボットが普及するにつれ、生産現場から消えていくこととなる。一方、事務部門では、OA化が進み、事務労働者により高い技術、能力が求められるようになる。
 つまり、この時、日本の高度経済成長を支えてきたブルーカラー労働者が崩壊し始めるのである。
 次に、ある大手企業が生産拠点を海外へ移転させたとする。すると、その大手企業を支える、部品産業や中間加工などを行う産業群(中小企業)はどうなるのだろうか。日本の中小企業による社会的分業は、諸外国に例のない大規模なものであり、この社会的分業が、大企業を支えているといっても過言ではない。実際、自動車をとってみても、1台の自動車を生産するにはきわめて多くの中小企業が部品の生産、中間加工組立を担っているために可能となるのである。従って、大手企業が海外へ生産拠点を移転させてしまったら、これらの中小企業は新たな納入先を求め、互いに競争を始めるか、より高度な技術を獲得し、新しい事業に進出するか、納入先の企業と同様に海外進出することになる。しかしながら、新たな納入先を獲得するための競争や、新しい技術の獲得を行おうとするならば、脆弱な企業は倒産や廃業を余儀なくされる。その結果、事業所数の減少につながり、また労働者の雇用機会の消失となるのである。一方、海外への移転は、労働者の雇用機会の消失だけではなく、基礎技術の欠落をももたらし、次世代の成長を阻害する恐れがあるのである。
 
  第3項 経済のソフト化・サービス化
 第1項で述べたように、産業の空洞化、産業の再構築により消失した雇用は、第3次産業での雇用拡大、すなわち経済のソフト化・サービス化により補われている。
 家計の消費支出は「モノ」に対する支出が年々低下し、それに変わって、「サービス」に対する支出が高まってきている。つまり、サービス支出の所得弾力性が大きくなってきたという事である。いいかえれば、所得1単位の追加分に対して、サービスへの消費に振り向けられる割合が、以前よりも高くなったということである。これを図で表わすならば、図3−1のようになり、以下で説明する。
 今仮に、ある家計における、サービス支出の消費関数のグラフが1.であったとする。そして、「サービスに対する支出が増加した」ということは、グラフの傾きがよりきつくなり、2.となったことを表わしている。そして所得水準がaであった家計が、bの水準に所得が上昇するならば、グラフ1.では、cというわずかな消費の伸びであるのに対し、グラフ2.では、dという、より大きな消費ののびが発生する。
 そして、サービス支出の増大はサービス雇用を創出することとなり、それにより製造業の雇用吸収能力の鈍化を補完することとなった。このことは1975年以降の第2次産業の就業率が、低下し始めているのに対し、第3次産業の就業率が拡大しつづけていることからも明らかである(表3−2)。
 しかしながら、製造業からの失業者が、第3次産業で職を求めるときには、より高度な教育水準、年齢に反比例する技術適応能力が必要とされる。つまり、失業者の年齢が高くなればなるほど、再就職が難しくなるのである。1986年の有効求人倍率(表3−3)にも、そのことがあらわれている。
 日本の終身雇用制が崩壊しつつある今、年配者の再就職のための技術訓練所のような福祉施設が必要なのではないだろうか。

  第4項 今後
 これまで述べてきたように、産業空洞化は労働者の失業、低賃金化を促すといえる。しかしながら、政府は産業空洞化に対し、あまり危機感を持っていないように思われる。1994年の経済白書には、産業空洞化に対する政府の見解として、次のような一節がある。
「長期的に見れば、製造業の生産拠点のア
ジア諸国への移転は、動態的水平分業を通
じた日本とアジア諸国の雁行形態的重層構
造の高度化という趨勢的な流れを更に押し
進め、それがアジア諸国との長期的な相互
依存関係を深めるとともに、日本も含めた
アジア地域のダイナミックな発展を促進さ
るため、日本を含めたアジア地域でのパイ
の拡大につながることが期待できる」(平
成6年度経済白書より)
 たしかに、産業空洞化はグローバルな視点で見れば、国際分業というプラスの側面を持っているといえる。事実、すべての生産物が国際分業により、最大限効率的で、なおかつ、最大限低いコストで生産が可能ならば、企業または資本家は、当然それを目指すであろう。
 今のところ、国内での雇用減少は、第3次産業での雇用拡大により補われているが、今後、海外直接投資を通じた産業空洞化が、加速度的に進行していくならば、労働者の雇用の減少、低賃金化による所得の二極化が進むのではないだろうか。
 図3−2で説明するならば、海外直接投資、国内工場の無人化により、労働力の需要は減少する。つまり、需要曲線はDDからD'D'へシフトする。この時労働者は互いに競争試合、賃金はP1からP2へ低下し、労働人口はAからBへ減少する。つまり、A−Bの人々が失業する。ただし、賃金がP2の時、最低限度の生活水準が維持できなければならない。もしそうでなければ、働こうとする人は誰もいないからである。
 以上のことから、産業空洞化が今後、急ピッチで進行すると、図3−2で見られたように需要不足失業が拡大し、労働者の所得も低下する。従って、日本でも、所得の二極化が発生する恐れがあるといえるのである。


 第2節 その他要因

  第1項 財政硬直化
 1994年度の一般会計予算73兆円のうち、14兆円(19.6%)は国債費に当てられている。すなわち、政府が歳入の不足を補うために借り入れた、建設国債、赤字国債に対する支払に14兆円という資金が注ぎ込まれているのである。しかも、同年の国債残高は 200兆円を超えており、これを仮に60年で返済するならば、元本の約3倍にあたる 600兆円を返済することになる。一体どうやってこの 600兆円を返済するのだろうか。
 前述のとおり、国債費は19.6%と高い水準にある。この結果、一般歳出に振り向けられる資金は、戦後初めて国債が発行された1965年では79.8%であったものが、1994年では、55.9%に低下してしまっている。このような状況下では、米国と同様に、クラウディング・アウトが発生する恐れがあるといえよう。 従って、クラウディング・アウトを回避するために、財政の硬直化を改善する必要があるのである。
 しかし、このような財政硬直化を改善するために、今、消費税率の引き上げを柱とした税制改革が実行されようとしている。

  第2項 税制度

   1. 所得税
 日本における所得税は、年収 300万円以下は税率10%、年収 300〜 600万円以下は税率20%、年収 600〜 1,000万円以下は税率30%年収 1,000〜 2,000万円以下は税率40%、年収 2,000万円以上は税率50%といった形の超過累進課税制度をとっている。従って、年収 1,000万円の個人の納税額は、 300×0.10+ 300×0.20+ 400×0.30= 210万円となる。 しかしながら、より公平な税制を求めるのであれば、単純累進課税制度の方が望ましいと思うかもしれない。事実そうなれば、高所得者の税負担は大きくなる。しかしながら、中間所得者にとっても税負担が大きくなってしまう。つまり、仮に単純累進課税制度を採用した場合、年収 300万円以上の個人にとっては、それは増税となり、また年収 300万円以下の個人の税負担は変化しない。従って、最も多いい中間所得者にとっても税負担が増え、その結果、勤労意欲が損なわれるという恐れがある。
 著者の考えでは、全所得者の平均年収が中央値と同水準となるような税制が望ましいと思われる。なぜなら、その状態こそが最も公平な税制と思われるからである。
 いずれにしろ、所得税性は高所得者にとって有利なものであってはならず、高所得者により税を負荷する必要があると思われる。

   2. 法人税
 日本の法人税は、税率37.5%のフラット税制を採用している。つまり、純利益の37.5%を税として納めるのである。そして、特筆すべき点として、前5年以内の繰越し欠損金の算入と、受取配当の80%の不算入があげられる。
 前5年以内の繰越し欠損金の算入とは、本年度の赤字額を最高5年間、利益から差し引くことができるということである。
 受取配当の80%の不算入とは、法人に37.5%の税を課すのだから、受取配当の全てを課税対象とすると、二重に課税することとなり、不公平となるため、80%については利益としないとするものであり、これは個人に関しても適用される。
 フラット税率と繰越し欠損金の算入は、企業の経済活動を活性化させるのに必要と思われる。ただし、1980年代の米国で見られたように、繰越し欠損金の算入が、税の抜け穴として機能する恐れがある。
 受取配当に関しては、改善すべき点があると思われる。個人にとっての受取配当は、個人の可処分所得で購入した有価証券からの収入であるから、その 100%に課税すべきだと思われる。つまり、20%のみに課税することは、個人にとって優遇税制であると考えられるのである。

   3. 間接税
 間接税は、一律x%の税率、もしくは、定額の税を負荷するものである。例として、消費税を見てみよう。
 消費税は、現在3%という税率を消費金額にかけた額となっている。従って、消費金額に比例して、税額が変わるのである。もし、ジニ係数が1であれば、すなわち全ての家計の所得が同水準であれば、きわめて公平な税制となる。しかし実際には、所得の差というものが存在するため、逆進性を持っているのである。つまり、高所得者にとっての消費税は低所得者に比べ、負担が小さいことを意味している。
 そして今、この消費税の税率は引き上げられようとしている。そうなれば、逆進性が一層増し、不平等となり、貧富の差の拡大に寄与する恐れがあると思われる。

  第3項 規制緩和
 近年、日本では規制緩和が叫ばれている。確かに、規制の緩和により、市場を自由競争に委ねれば、自動的に経済は効率化するといえる。しかしながら、米国における規制の撤廃で見られたような、寡占市場の形成を生み出す可能性があることを忘れてはならない。また、競争の激化による、雇用の消失も考えに入れなければならない。
 たとえば、証券業界では、昨今、売買手数料の自由化が叫ばれているが、これが実現されれば、手数料の値下がりが予測される。どの証券会社でも、手数料収入の総収益に占める割合は、40%前後と高い割合を占めており、手数料の自由化後多くの証券会社が倒産すると予測されている。
 従って、規制緩和が推し進められる際には、それによる経済効果だけを見るのではなく、それにともなう弊害について、十分な考慮がなされなければならないといえよう。

第4章 各政府のなすべきこと

 第1節 米国政府のなすべきこと
 これまで述べてきたように、米国の所得構造は、富裕者に有利な税制度、設備投資を抑制する、独占下の経済、財政赤字、短期的視野といった要因、多国籍化とそれにともなう弊害、規制撤廃の失敗、労働需要及び労働供給の変化により、所得の二極化が進行したといえる。
 それでは、この状況、すなわち所得の二極化を解消するためには、どうすればよいのだろうか。
 それには、税制面では、高所得者層への増税と中・低所得者層への減税を実行すること。企業買収により発生した利子払い、純営業損失を課税対象とすること。キャピタル・ゲインへの課税を強化すること。以上の3点が必要と思われる。
 また、設備投資を拡大させるために、財政均衡化により財政赤字を削減し、クラウディング・アウトを回避すること。研究開発等の長期的投資を、促進させるような課税控除を作り出すこと。以上の2点が必要と思われる。
 そしてまた、規制を撤廃するにあたり、その結果として、どのようなことが生ずるかということを熟慮することが必要と思われる。 以上のことが達成されれば、所得の二極化は解消できると思われる。

  第2項 日本政府のなすべきこと
 日本では、近年叫ばれている産業空洞化が、所得の二極化を発生させる第1の要因と思われる。しかし、日本でも、近年、財政硬直化が懸念されており、米国と同じ道をたどるのであれば、所得の二極化は避けられないと思われる。
 従って、日本政府のなすべきことは、クラウディング・アウトが発生するほどの財政赤字になる前に、財政赤字を削減すること、より公平な税制度を確立すること、衰退産業を保護するような政策を採ること、規制緩和に対する熟慮を行うことである。
 以上の4点が達成されれば、所得の二極化を回避することが可能と思われる。


おわりに
 これまで述べてきたように、所得の二極化は、我々にとって対岸の火事ではなく、ごく身近に迫りつつあるものである。
 著者は来春より、某証券会社で働くことになっているが、現時点で、給与の一部を実力給としている証券会社はいくつも存在している。これは、手数料の自由化により、純利益が減少することが予測されており、固定給制度を維持できないという理由によりなされているものである。つまり、労働者にとって、それだけ厳しい時代に突入したことを意味し、今後は所得の格差が顕著になると思われる。
 このような、所得の二極化が進行した社会で働きたいと考える者が、一体どれくらいいるだろうか。おそらく、圧倒的多数の人々は、所得の二極化を望んでいないはずである。 従って、所得の二極化を回避するための方策を、いまこそ考えだし、それを実行すべきではないだろうか。
 今だからこそ、所得の二極化を回避できると著者は思う。


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