「唯物史観」と「一般的結論」


政経学部教授 大石 高久


はじめに
 1883年3月14日14時45分、マルクスは亡命先のロンドンにおいて客死する。『資本論』第二部、第三部の原稿は未完のままエンゲルスの手に委ねられ、彼の手で出版されることになる。この時以後、エンゲルスは自他ともにマルクスの思想・理論の唯一絶対的解説者と看做されてきた。従って、今日のわれわれのマルクス解釈もまた、その根本において、エンゲルスのマルクス解釈によって規定されている。
 ところが、マルクスとエンゲルスの間には、エンゲルスが思っている以上に大きな差違性が存在する。主要な諸論点についてすらそうである[1]。本稿では、われわれがわれわれ自身の頭でマルクスを解釈し、マルクスの思想・理論の全体像を再構築するために、いわゆるエンゲルスの「唯物史観」を取り上げ、エンゲルスが如何に、しかも無自覚的に、マルクスから乖離しているかを明らかにする。
 エンゲルスのマルクス解釈は、マルクスが「唯物史観と剰余価値論」を発見したという彼の定式に代表される[2]。この「唯物史観」とは、『経済学批判』「序言」(1859年)−−以後、「序言」−−における「一般的結論」ないし「導きの糸」である。以後、この「一般的結論」は「唯物史観」と解釈され、『ドイデ』「第一篇 フォイエルバッハ」がその生誕地とされてきた。その結果、従来の『資本論』成立史研究においても、『ドイデ』がマルクス形成過程の分岐点とされ、「一般的結論」と「経済学批判」体系の関係は「唯物史観」と「経済学」の関係という形で設問、考察されてきた。
 他方、マルクス自身の記述によれば、上記「一般的結論」は彼の「弁証法的方法」のための「唯物論的基礎」を記した箇所であって[3]、マルクスの「経済学批判」体系から独立に存在する歴史観などではない。「経済学批判」体系が経済学的諸範疇の批判的叙述であることを踏まえれば、マルクスの「一般的結論」と彼の「経済学批判」体系の関係は、次のように設定し直されなければならない。即ち、この「一般的結論」は、資本家的生産様式の肯定的理解の中にその否定的理解を含むことと如何なる関係にあるか、と。更に一歩進めると、「一般的結論」は経済学的諸範疇の批判的叙述を通して資本家的生産様式を弁証法的に把握することと如何なる関係にあるか、と。「問題の立て方は、既にその解決を含んでいる」。慧眼な読者は、問題の核心が現実の資本家的生産諸関係と経済学的諸範疇との関係にあることを理解されるであろう。「唯物史観」と「経済学」という定式の中に、両者が歩んだ「異なる道筋」とその結果到達した「同じ結論」が、つまり両者の差違性と同一性が端的に現れているのである。
 このように、エンゲルスの「唯物史観」をマルクスが『批判』「序言」で概説した「私の[弁証法的]方法の唯物論的基礎」と詳細に比較・対照する時、従来「唯物史観」と「経済学」と理解されてきた関係が、弁証法的方法とそのための「唯物論的基礎」の関係として定式化される。経済学とその外部に存在するものとの問題が、経済学的諸範疇の批判的叙述という「経済学批判」体系の内部の問題に再設定されるであろう。本稿は、「唯物史観」をめぐるエンゲルスとマルクスの同一性と差違性、その差違性の源泉の解明を通して、マルクスの真の全体像を再構築すると同時に、今日から観たエンゲルスの意義と限界を解明するであろう。
 以後本稿は、次のように展開される。まず第一に、マルクス自身に即して「一般的結論」と『ドイツ・イデオロギー』(1845-6年)−−以後、『ドイデ』−−「第一篇 フォイエルバッハ」の性格、主内容、弁証法との関係の考察を通して、「一般的結論」がマルクスにとっては彼の「弁証法的方法」のための「唯物論的基礎」である、ということの意味を明らかにする(第一章)。第二章では、エンゲルスの「唯物史観」解釈を彼の言葉に即して明らかにすると同時に、「一般的結論」との同一性と差違性を論定する。最後に、その差違性の発生源を通して、「一般的結論」と「経済学批判」体系の内的連関と、「唯物史観」が孕む問題点を明らかにする。


第1章 マルクスの「一般的結論」

 A. 『批判』「序言」における「一般的結論」

 1 「一般的結論」の根本性格
 エンゲルスによって「唯物史観の諸定式」と解釈された『批判』「序言」の「一般的結論」は、マルクス自身の知的遍歴の回想の一部として記されたものである。従って、その根本性格は「一般的結論」が置かれている文脈によって規定されている。この文脈で、注目すべきは次の諸点である。
 先ず第一に、「一般的結論」は、それに先行する箇所に記されているように、ヘーゲル『法哲学』の批判的検討を通して獲得されたものであること。
 第二に、同じく先行部分に記されているように、この「一般的結論」は特定の時代の、特定の「法的諸関係ならびに国家形態」は何によって理解され得るか、という問題に関連していること。特定の時代の法的諸関係や国家形態は、「それ自体からも、また所謂[ヘーゲルが主張するような]人間精神の一般的発展からも理解できるものではなく、むしろ物質的な生活諸関係に根差している」[4]、というのがマルクスの結論である。
 以上の二点から、「一般的結論」がヘーゲル国家論(『法哲学』)批判の視角によって規定されていることは明白であり、物質的生産諸関係とその他の社会的諸関係の間の規定−被規定関係が一つの中心問題となっている。勿論、後に考察するように、物質的生産諸関係の歴史的発展も問題となっているが、一国がアジア的、古典古代的、封建的、近代ブルジョア的生産様式の順に発展するとは、記されてはいない。
 第三に、マルクスが「一般的結論」に到達したのは、経済学の批判的研究よりも前だ、という点である。マルクスはこの「一般的結論」に到達したために、経済学の批判的研究に取りかかったのであり、その逆ではない。このことは、次のことを意味する。即ち、この「一般的結論」は『ドイデ』で初めて獲得されたものでも、ましてや『批判』において初めて獲得されたものでもない。それはマルクスの経済学研究の最初の成果である『経済学・哲学草稿』−−以後、『草稿』−−以前に既に獲得されていた[5]、ということである。「一度獲得された後では、私の研究(経済学批判)にとって導きの糸となった」とは、『草稿』もまたこの「一般的結論」に導かれていた、ということを意味している。

 2 「一般的結論」の主内容
 『批判』「序説」における「一般的結論」は、次の7つ命題から成る。
「私にとって明らかとなった、そして一度自分のものになってからは私の研究にとって導きの糸として役立った一般的結論は、簡単に言えば次のように定式化することができる。@人間は、彼等の生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼等の意思から独立した諸関係に、即ち、彼等の物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。Aこれらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法律的及び政治的上部構造が立ち、そしてこの土台に一定の社会的諸意識形態が対応する。………B社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現に過ぎないが、所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのときに社会革命の時期が始まる。………Cこのような諸変革の考察にあたっては、経済的生活諸条件における物質的な、自然科学的に正確に確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それを闘い抜く場面である法律的な、政治的な、宗教的な、芸術的または哲学的な諸形態、簡単に言えばイデオロギー諸形態とを常に区別しなければならない。………このような変革の時期をその時期の意識から判断することはできないのであって、むしろこの意識を物質的生活の諸矛盾から、社会的生産諸力と生産諸関係との間の現存する衝突から説明しなければならない。D一つの社会構成は、それが十分包容し得る生産諸力がすべて発展し終わるまでは、決して没落するものではなく、新しい、一層高度の生産諸関係は、その物質的諸条件が古い社会自身の胎内で卵が化し終わるまでは、決して古い生産諸関係にとって代わることはない。………E大づかみに言って、アジア的、古代的、封建的及び近代ブルジョア的生産様式を経済的社会構成の相次ぐ諸時期として挙げることができる。Fブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の最後の敵対的形態である。敵対的というのは、個人的敵対という意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味である。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時に、この敵対の解決のための物質的諸条件をも作り出す。従ってこの社会構成でもって人間社会の前史は終わる。」[6](番号は大石。) 
 上記「一般的結論」のうち、結論@は、人間の生産が何時の時代にも社会的であったことを述べている。ここでの「社会的」とは、『ドイデ』で記されているように、数名以上の協働を意味する。人間は何時の時代にも、孤立的に、自分と自分の家族のためにだけ生産してきたのではない。その協働が直接的であるか間接的であるかに拘わらず、その協働の空間的、時間的広がりが数名か、部族か、国民か、あるいは人類一般であるかはともかく、人間は他人とともに生産し、他人のためにも生産してきた。その意味で、生産は何時の時代にも、社会的生産である。この社会的生産における人間関係が「生産諸関係」であり、その総体が「社会の経済的構造」を形成する。生産諸関係の特定の在り方は、その都度の生産諸力によって規定されている。
 結論Aでは、特定の法的及び政治的諸関係や社会的意識形態が、特定の経済的構造の上に成立していることが、ヘーゲル哲学批判の形で記されている。確かに、ある時代に特徴的な法律「形態」、政治「形態」、意識「形態」が問題になっている。しかし、どんな些細な法律や政策や思想もすべて経済問題から説明できる、とは記されていない。また、意識や政治が経済的諸関係に働きかける、という側面も否定されてはいない。
 結論Bでは、「所有諸関係」とは「生産諸関係」の「法律的表現に過ぎ」ず、生産諸力のある発展段階で、生産諸力と所有諸関係(生産諸関係)は矛盾するようになること、そうした時代が「社会革命の時代」であることが記されている。
 ここで注意すべきは、「所有諸関係」が「生産諸関係」の法律的表現と捉えられている点である。「アンネンコフへの手紙」(1846年)、『哲学の貧困』(1847年)、「マルクスの観たプルードン」(1865年)等で展開されているように、「所有」は種々の時代に種々の諸関係のもとで発展してきたのであり、所有をその結果ではなく、そのゲネシスから把握するのがマルクスである。後に述べるように、「所有」を「生産諸手段」が誰に帰属するかという次元でしか捉えないのは、エンゲルス以後の没概念的発想である。
 マルクスの「一般的結論」は、結論Cで表明されているように、そうした「社会革命の時代」を「自然科学的に正確に確認できる変革」だけを問題にするものである。それは「社会革命の時代」を「生産諸力」と「生産諸関係」との間の矛盾の中に見い出すのであり、単に人間の意識、宗教、法律や政治的形態でそうした変革が可能であるとする見解とは無縁である。
 結論Dはそうした「自然科学的に正確に確認できる」変革の基準を示したものと思われる。マルクスが捉える「社会革命の時代」とは、「生産諸力と生産諸関係の間の現存する衝突から説明」できるものであり、そうした衝突がないものは単なる上部構造ないしイデオロギー上の衝突でしかない。
 結論EとFが一番解釈の別れる部分である。Eによれば、アジア的、古代(ギリシャ、ローマ)的、封建的及び近代ブルジョア的生産様式が「経済的社会構成」の「相次ぐ時期」として列挙されている。問題は、この「相次ぐ時期」の意味である。それは、途中の段階を飛び越すことのできないという意味で、人類史における「普遍的発展法則」なのか、それとも単に人間の社会的組織をその発達度に応じて分類した理念型なのであろうか。
 望月氏によって指摘されたように[7]、「社会構成」の「構成Formation」、「相次ぐprogressiv」、「時期epoch」は地質学用語であり、マルクスは既にギムナジウム時代に地質学に関する知識を獲得している[8]。地質学では、地層の断面、異なる地層の堆積からその地層の形成過程を解読するのであり、結果的に、神による天地創造説に対する科学的反証となっている。1844年の『草稿』以後も地質学に深い関心を示し、天地創造に対して人間労働による自然及び人間的自然(human nature=人間の本性)の歴史的形成を論じている。従って、ここでの地質学用語の使用は、単なる比喩ではない。生活の在り方という意味での「生産様式」を基準にして、過去の人間の営みを振り返ると、そこには近代ブルジョア的生産様式に至るいろいろな「社会構成」という地層が、「相次ぐ」、「諸時期」として見い出せる、というのである。
 確かに、マルクス「経済学批判」体系は、直接的には資本家的生産・交通諸関係の分析であり、「資本家的生産様式に先行する諸形態」自体の分析はその目的ではない。しかし、『経済学批判要綱』「序説 3 経済学の方法」における有名な一節が示しているように、「人間の解剖は、猿の解剖のための一つの鍵である」[9]。より発展した形態の分析は、より未発達のものが今後どのように発達するかという方向を暗示する。同様に、「ブルジョア社会は、最も発展した最も多様な歴史的な生産組織である。それ故、ブルジョア社会の諸関係を表現する諸範疇即ちブルジョア社会の編成の理解は、同時に、すべての滅亡した社会諸形態の編成と生産諸関係との認識を可能にする……こうして、ブルジョア経済は古代その他の経済への鍵を提供するのである」[10]。資本家的生産様式の分析は同時に、結論dでも記されているように、そこで生みだされつつある将来の生産・交通諸関係の可能性を暗示するのである。
 このように考察してくると、先の地質学用語はマルクス「経済学批判」体系の根本性格を示していると言えよう。つまり、資本家的生産様式という従来の人類史の中で最も発展した生産・交通諸関係の分析を通して、人類史の過去及び将来の生産様式をも理解する体系である、という根本性格である。資本家的生産様式の分析の一歩一歩が、それとの対比において、過去及び将来の生産様式の諸特徴を明らかにする。『資本論』のあちこちに見られる歴史的諸社会に関する記述は、その都度の経済学的諸範疇の展開に対応しているのである。
 近代市民社会の分析から、資本家的生産・交通諸関係における「生産諸手段」からの「生産者」の完全な「分離」から過去を振り返る時、そこに見い出せるのは生産者と生産諸手段の本源的一体性(共同体的所有)である。その共同的所有の内部での区別は、諸個人と共同体との関係がより自然的な要因によるか、人為的諸要因によるかの区分である。生産者の生産諸手段に対する関係(社会的諸個人の存在様式)から見ると、アジア的生産様式から封建的生産様式への発展は、その協働形態が自然的なものから社会的なもの(諸個人の活動の産物)へと発展し、近代ブルジョア的生産様式はその協働形態が貨幣という最高に社会的(人為的)なものによって媒介されていることが判る。
 従って、「序言」の社会構成体論は、資本家的生産様式の分析から獲得された、生産様式の類型ないし理念型である。ここでの段階区分は、私的所有の発展度あるいは同じことだが、労働の社会性の発展度を示す典型的な諸類型でしかない。それは、どの社会もアジア的生産様式から、古代的、封建的、資本家的生産様式に至る、というドグマではない。古代的生産様式はギリシャとローマにだけ見い出されるものでもないし、封建的生産様式も所謂中世ヨーロッパにだけ見い出されるものでもないのである。アジア的生産様式から資本家的生産様式への発展過程を、「歴史の普遍的発展法則」[11]と理解することは、「経済学批判」体系と人類史把握の間の内的・本質的連関を看過することになろう。
 少なくとも、封建的生産様式からブルジョア的生産様式を経て「自由な諸個人のAssociation」に至る過程が途中を飛び越すことのできない「法則」だとは記されてはいない。そうした歴史理解は、マルクスの歴史的課題[12]から判断しても、ありえない。「ザスーリッチ宛へのマルクスの手紙」(1877年)もこのことを裏付けている。
 結論Fの、ブルジョア的生産諸関係が「社会的生活諸条件から生じてくる敵対」の最後であるとは、ブルジョア的生産諸関係が「この敵対の解決のための物質的諸条件をも作り出す」からに他ならない。そうした諸条件とは、『資本論』第一巻「資本家的蓄積の歴史的傾向」の所謂「否定の否定」によれば、「生産諸手段の共同的占有」と「生産者の協働」である。前者は、直接的生産者による生産諸手段の共同的占有という形で、直接的生産者と生産諸手段との本源的一体性を回復(Aneignung=領有)し、生産諸手段を自己実現の手段に転化するものである。従って、生産諸手段の「国有化」(生産者から抽象的に分離された「国家」による生産諸手段の所有)とは全く無縁である[13]。後者は、直接的生産者の社会的諸能力・活動を自分たち自身の社会的諸能力・活動として自覚的に発現することに関わる。それは、『ドイデ』で「(疎外された)労働の廃棄」あるいは「分業の廃棄」と記されているものであろう。


第2章 『ドイツ・イデオロギー』における「あらゆる歴史記述の唯物論的基礎」

A. 社会的諸個人の物質的生産
 これまで「唯物史観」の生誕地と解釈されてきた『ドイデ』における「あらゆる歴史記述の唯物論的基礎」[14]ないし「歴史の現実的土台」[15]を理解する際にも、ヘーゲル哲学及びヘーゲル左派との関係が決定的に重要である。
 マルクスは、「天上から地上に下向する」観念論的歴史解釈を「無前提的な歴史解釈」と批判し、これに「地上から天上に上向する」歴史解釈を対置する。法律や国家や意識のある歴史的形態は、それら自身から説明・展開できるものではない。現実の人間は、生きて行くためには必ず物質的な生産を必要としているのであり、この物質的生産こそが現実的諸個人の物質的基礎である。あらゆる事物を歴史的に把握するためには、人間による生の生産から出発すべきであり、各々の歴史的社会(生産者の生産諸手段への関係、生産様式の諸段階)を、物質的生産・交通の分析から始めて、法・国家・精神的生産へと上向しなければならない、と。
「現実に活動している諸個人から出発して、人間の現実的生活過程から、この生活過程のイデオロギ−的な反映や反響の展開を叙述する。」[16]
 この社会的生産を一世代に関して言えば、一つのまとまった単位を形成している諸個人の、物質的生活資料、新たな欲求及び子孫の生産である。この現実的諸個人の社会的生産は、一面では対自然の関係であり、他面では社会的関係(一定の諸個人による協働関係)である。「生産諸力」概念は、特定の協働様式のもとでの諸個人の生産の仕方(=生産様式)を、対自然の関係で見たものがであり、「生産関係」概念はそれを対他人の関係で見たものがである。これらは社会的諸個人の二側面であり、社会的(つまりは歴史的)諸個人の在り方は、これらの二側面によって規定されている。即ち、これらの諸個人が何であるか(諸個人の存在)は、諸個人の社会的生産の在り方(対自然および社会的関係の様式)によって示されている。この社会的生産の諸契機として次の五つが指摘されている。
 @生活手段の生産、
 A新しい欲求の生産、
 B他人の生産、
 C自然的及び社会的関係(社会的関係とは協働)、
 D人間は意識を持った存在
 ただし、マルクスは単なる物質的生産諸力の発展のみを考察しているのではない。彼の関心は、むしろ社会的諸個人の歴史的発展にある。生産諸力と生産諸関係は、一定の協働関係の中にある社会的諸個人の二側面であり、対自然関係と対人間関係であり、現実的諸個人の自然を加工する諸力と人間を加工する諸力の現われである。マルクスの「生産・交通諸関係」概念、従ってまた「所有(領有)諸関係」概念は、単なる物質的富の占有の意味に理解されてはならない。生産諸力と生産諸関係の発展の度合いは、人間の社会的諸力を示す指標であり、その意味で社会的諸個人の自己表現様式と理解されるべきなのである。

B. 社会的諸個人による生産諸条件の変革
 一つの世代は、先行する世代から一定の生産諸力と生産様式を継承し、それを再生産・発展させながら、次の世代に譲渡して行く。この継承の系列が歴史である。従って、生産諸力の歴史的発展とは、活動及び生産物の二側面で−−生産の内部と生産物を通して−−の社会的諸個人の歴史的発展に他ならない。問題はしかし、その生産諸力の発展が生産様式の変化を生み出すことである。歴史をその現実的土台から叙述するということは、各々の歴史的段階にある社会をその基礎から、生産諸力と生産様式から叙述することであり、それらの再生産が何処で、如何にその否定を生み出しているかを叙述することでもある。肯定的理解の中に否定的理解をも含むと言うことは、資本の生産過程分析と一体のものである。両者を別個のものと理解してはならない。

C. 『ドイツ・イデオロギー』における「唯物論的基礎」
 以上の内容を踏まえて、『ドイデ』における「あらゆる歴史記述の唯物論的基礎」を一言で表現するならば、次のようなる。即ち、「従来のあらゆる歴史的諸段階に[その都度]現出した、生産諸力によって制約されそして生産諸力を制約しかえすところの交通形態」即ち「市民社会」から、その都度の社会組織、国家形態、意識形態を解明せよ、と。
 ここで注意すべきは、次の諸点である。その都度の市民社会の分析とは、その都度の社会的生産の在り方の分析であり、人間が「歴史を作る」ことができるためには、人間が生存しなければならないという「根本事実をその意義及びその範囲の全体にわたって観察し、それを正当に扱うこと」[17]を意味する。それは、各世代が、前代からどのような社会的生産の物質的諸条件を引継ぎながら、それを如何に変更して行くかの解明である。これは、歴史としての歴史から、生産ー再生産への、経済分析への転換である。
 第一に、考察の対象は、社会的生産である。一定の社会的単位で生産に従事している現実的諸個人の生産である。その意味で、社会的生産とは、生産者の生産諸手段に対する関係を基準とした諸個人の協働(共同体)形態、社会的分業形態、生産諸関係の総体としての「所有諸関係」に他ならない。
 第二に、どんな歴史的諸社会もそれを理解するには、それらの諸社会の基礎にある各々の「市民社会」(生産・交通諸関係の総体)を分析する必要があること。この分析を通して、市民社会と国家の関係もその全体性において解明され得るのである。その意味で、生産様式は生活様式であり、諸個人が現実に何であるかは彼らの生産様式によって規定されている。
 第三に、マルクスとエンゲルスは、「あらゆる歴史的把握の第一の案件は、この根本事実[物質的生活そのものの生産:大石]をその意義と範囲の全体において観察し、それを正当に扱うことである」[18]と述べている。このことから判断すると、彼らの歴史記述のみが唯一の歴史記述とは看做されてはいない。また、フランス人やイギリス人が「市民社会の歴史、商業と工業の歴史を始めた書いた」ことを指して、彼らは「ともかく歴史的記述に唯物論的な土台を与えようとする最初の企てた」[19]と両面的な評価をしている。このことから、更にはまた観念論的歴史記述に対する批判から判断すると、マルクスの歴史記述は、後に見るように、市民社会の歴史を現実的諸個人の歴史として、(一定の協働関係の許で生産に従事している)社会的人間の歴史としての記述と言える。事実、ノート頁[13]でも「人類の歴史は常に産業および交換の歴史との関係で研究され記述されるべきである」とか、「人間相互間の唯物論的な連関が見られる」とか記されているのである[20]。


第3章「一般的結論」と「弁証法的方法」

 『資本論』の方法についてマルクスは、『資本論』「第二版あとがき」において、「私の弁証法的方法」と呼んでいる。「弁証法的方法」とは、「現存するものの肯定的理解の中に、同時にまた、その否定、その必然的没落の理解を含む」[21]方法であり、各々の「社会有機体」の「肯定的理解のうちに、同時にまた、その否定、その必然的没落の理解を含み、どの生成した形態をも運動の流れの中で、従って、またその経過的な側面から捉え」20る方法である。つまり、一定の社会的生産の諸条件の再生産が同時に、その否定をも生み出していることの析出である。
 更にマルクスは、自分の弁証法をヘーゲルのそれから区別するために、『資本論』フランス語版への「序文」では「私が用いてきた、経済的諸問題には未だ適用されたことのない研究(分析)の方法」[22]と断り、上記「第二版あとがき」では、ヘ−ゲルの弁証法とは全く逆のものであり、「合理的姿態における弁証法」であり、「……その本質上批判的で革命的である」ことを強調している[23]。要するに、「現実の[生産と消費の]運動をそれにふさわしく叙述する」弁証法だというである。この「第二版あとがき」には、マルクスの弁証法的方法と「一般的結論」との関係について注目すべき点が記されている。即ち、マルクスの弁証法的「方法の唯物論的基礎」を論じた箇所が「一般的結論」だというのである。では、如何なる意味で、「一般的結論」が彼の弁証法的方法のための「唯物論的基礎」なのであろうか。
 何よりも先ず、この「一般的結論」がマルクスを経済学の批判的検討に向かわせたものだという点に注目する必要がある。「一般的結論」が、特定の時代の法的諸関係・政治的形態を規定するものが物質的生産諸関係であることを示したことによって、マルクスは近代社会における市民社会が如何に政治的国家を生みだすかを解明するために、経済学の批判的検討に向かったのである。
 第二に、確かに「一般的結論」には、「人間の歴史の発展法則」と思わせる部分が存在する(E及びF)。しかし、そこでの「相次ぐ諸時期」は、人間の生産=生活様式即ち発達度合を示す、「大づかみ」な理念型である。勿論、それらの間には「私的所有者」が「生産者」であるか否かに応じて、「種々の中間形態」[24]が存在するのであるが、文脈から言えば、マルクスの趣旨は、それらの諸時期の法的諸関係及び政治的諸形態は各々の時期の生産諸関係から説明できる、ということであろう。この「一般的結論」によってマルクスは、資本家的「生産様式」を「生産諸力」のある特定の発展段階に照応する、歴史的で、過渡的な「生産諸関係」として捉え、その成立−発展−消滅の必然性を「自然科学的に正確に確認」する基礎を獲得したのである。
 第三に、マルクスの「経済学批判」は資本家的生産様式の分析でしかない。しかし、資本家的生産様式が人類史の中で最も発達した社会組織であるが故に、その資本家的生産様式の分析は、「資本家的生産様式に先行する諸形態」及び資本家的生産様式の次に来る生産・交通諸関係に関する認識をも与える。資本家的生産諸関係の一つ一つの分析が、経済学的諸範疇の展開の一歩一歩が、そうした歴史理論あるいは歴史認識を生みだすのであり、経済学批判に先立って、経済学の外部にそうした歴史理論ないし歴史認識が「唯物史観」として存在するのではない。
 マルクスの「経済学批判」体系は、経済学的諸範疇の批判体系である。即ち、資本家的社会を一定の生産諸力に対応した、しかも有機的に連関し相互に支え合う資本家的生産・交通諸関係として把握する。その資本家的生産・交通諸関係の理論的反映として、経済学的諸範疇を規定し、叙述する。そこでは、資本家的生産・交通諸関係の歴史性と統一性は、各々経済学的諸範疇の歴史性と統一性として反映・規定される。従って、経済学的諸範疇の批判的叙述を通して、資本家的生産・交通諸関係はその「歴史性」と「有機的統一性」の両面から、つまり成立−発展−没落の理論的必然性が解明されることになる[25]。その意味で、マルクス自身が明言しているように、「一般的結論」は彼の弁証法的方法のための「唯物論的基礎」である。

第4章 エンゲルスの「唯物史観」

 A. 「唯物史観」と「一般的結論」の同一性
 管見によれば、「唯物論的歴史観」ないし「唯物史観」(the materialist interpretation of history)は、本来的にエンゲルスの用語であり、「書評:カール・マルクスの『批判』」(1859年)にその最初の使用例が見られる。
「このドイツ経済学は、根本において唯物史観に基づいており、この史観の要綱は前掲の著作の序文で簡単に述べられている。………『物質的生活の生産様式が、社会的、政治的及び精神的生活過程一般を制約する』という命題、即ち、歴史のなかに現われるすべての社会的、国家的諸関係、すべての宗教的、法律的体系、すべての理論的見解は、それらに対応するそれぞれの時代の物質的生活諸条件が理解され、そして前者がこれらの物質的諸条件から導き出される場合にのみ理解されうるという命題は、たんに経済学にとってのみならず、すべての歴史科学(自然科学でないすべての科学は歴史科学である)にとっても、革命的な発見であった。」[26]
 引用文中の「前掲の著作の序文」とは、『批判』「序言」であり、そこでの「一般的結論」を指している。更に、下線部から明らかなように、この「一般的結論」の中でも特に「土台ー上部構造」論を指して「唯物史観」と呼んだのである。「唯物史観」が「土台ー上部構造」論であることは、彼の晩年の諸著作からも裏付けられる。例えば『共産主義者同盟の歴史によせて』(1885年)においても、次のように回想している。
「私がマンチェスタ−でまざまざと見せ付けられたのは、これまでの歴史記述では何の役割も演じていないか、あるいはとるにたらない役割を演じているに過ぎない経済的諸事実が、少なくとも近代世界では決定的な歴史力であるということ、この経済的諸事実が今日の階級対立の成立する土台であること、大工業のおかげでこれらの階級対立が十分に発達した国々、従ってとりわけイギリスでは、この階級対立は更に政党形成の、党派闘争の土台となっており、こうしてまた全政治史の土台になっているということである。」[27]
 同様の証言は、『ル−トヴィッヒ・フォイエルバッハと古典哲学の終結』(1886年)にも見られる。
「そういうわけで、すなくとも現代の歴史においては、次のことが証明されている。それは、政治闘争はすべて階級闘争であり、諸階級の解放闘争は、どうしても政治的形態をとらずにはすまないにも拘らず−−というのは、どの階級闘争も政治闘争だから−−、すべて結局は経済的解放を中心としている、ということである。つまり、少なくともここ[現代の歴史]では、国家即ち政治的秩序は従属的なものであって、市民社会即ち経済的諸関係の領域が決定的要素である。」[28]
 これらの記述から、次のように結論できよう。即ち、エンゲルスの「唯物史観」とは、優れて「土台ー上部構造」論であった、と。エンゲルスはイギリスでこの「土台ー上部構造」の規定関係を「まざまざと見せ付けられた」のであり、それをマルクスの「一般的結論」の中に見い出したのである。
 確かに、マルクスの「一般的結論」は「土台ー上部構造」論を含んでいる。また、その「土台−上部構造」論が当時のドイツ哲学界及び思想状況の中で極めて重要な歴史認識の転換を意味していたことは、疑い得ない。ここに、「唯物史観」と「一般的結論」との同一性があり、「唯物史観」が一見「一般的結論」の解説そのもののように見える根拠がある。
 しかし、それと同時に、「唯物史観」は「一般的結論」そのものではなく、その中の一つに過ぎないこともまた事実である。「一般的結論」には「唯物史観」即ち「土台ー上部構造」論以外のものが存在するからである。従って、この同一性をもって、「唯物史観」を「一般的結論」そのものと理解したり、「唯物史観」を「一般的結論」の唯一の、正当な解説と理解するはできない。節を改めて、両者の差違性を考察してみよう。

 B. 「唯物史観」と「一般的結論」の差違性
 『反デューリング論』「第三篇 社会主義」「第二章 理論的なこと」をエンゲルスは、次の言葉で始めている。
「@唯物論的歴史観は次の諸命題から出発する。即ち、A生産が、そして生産に次いではその生産物の交換が、あらゆる社会制度の基礎であり、歴史上に現れてくるどの社会においても、生産物の分配は、またそれとともに諸階級ないし身分への社会編成は、なにが、どのようにして生産されるか、また生産されたものがどのように交換されるかによって決まる、という命題である。Bこれによると、あらゆる社会的変化と政治的変革との終局的な原因は、人間の頭の中に、つまり永遠の真理及び正義についての人間の洞察が進んで行くことにではなく、生産および交換様式の変化に求めなければならない。」[29](番号は大石。)
 この「唯物史観」をマルクスの「一般的結論」と比較すると、そこには次のような差違性が見られる。
 先ず第一に、マルクスにとっての「その後の研究の導きの糸」が、エンゲルスによって「出発」点に変質されていること。
 第二に、「一般的結論」では、一定の生産・交通諸関係が生産諸力の一定の発展段階に対応していることが記されている。しかし、「唯物史観」には、この対応関係欠落していること。
 最後に、「一般的結論」では、生産諸力と生産諸関係の矛盾は「社会革命の時期」に限定されいるのに対して、エンゲルスは「あらゆる社会変化と政治的変革」の原因にしていること。
 「一般的結論」とマルクス「経済学批判」体系との内定連関を考える上で重要なことは、「一般的結論」をエンゲルスのように「唯物史観」と理解することによって、「生産諸力」と「生産諸関係」の弁証法的関係が欠落することである。
 例えば『反デューリング論』を詳細に検討すれば明らかなように、エンゲルスが繰り返している「矛盾」は、「生産諸力」と「生産様式」との間の矛盾であって、「生産諸力」と「生産諸関係」との間の矛盾ではない。エンゲルスにはそもそも「生産諸関係」概念が欠如している。初期から後期に至る彼のどの著作では、「生産諸関係」概念は全く見られないか、見られても殆ど何の役割も果たしていない[30]。
 この「生産諸関係」概念の欠如は、エンゲルスにおける経済学的諸範疇の批判の欠落を意味する。『経済学批判大綱』に見られるように、彼もまた私的所有の批判を経済学批判として行っている。しかし、マルクスのような厳密な意味での範疇批判はないのである。「生産諸関係」概念が欠如していると、経済学研究の必要性は説明できても、何故マルクスの学問体系が経済学的諸範疇の批判となのかを全く説明できない。
 その結果、「一般的結論」と「経済学批判」体系との、経済学的諸範疇の批判と資本家的生産様式の弁証法的把握との内的、必然的関係が看過されることになる。資本家的生産・交通諸関係の理論的反映を経済学的諸範疇と把握した上で、資本家的生産・交通諸関係の歴史性と統一性を経済学的諸範疇の発生的展開を通して理論的に把握するという視角が欠落し、「序言」を範疇批判に結びつける媒介項が欠如するのである。「その後の研究の導きの糸」が「出発」点に変質させられているのは、その一つの帰結であろう。
 更に、社会が生産・交通諸関係の総体であるならば、資本主義社会における人間から自立し、逆に人間を支配する経済法則は、諸個人の活動から説明・展開されるなければならない。ここにマルクスの「疎外された労働」概念の意義がある[31]。諸個人が自分たち自身の社会的活動を無自覚的に行うことから、その社会的活動を制御することが出来ない。それが経済諸法則だと言うことになる。ところが、エンゲルスはこうした一元論を共有していない。エンゲルスにとって、社会法則も自然法則も同じである。即ち、社会法則も自然法則と同様に、元来人間から自立して存在し、人間はただそれを認識し、活用することができる、というものである。
 そうしたエンゲルスにとって、歴史の唯物論的理解とは、自然に対して自然科学が実現してきたのと同様に、「人間社会の歴史のなかを支配的法則として貫いている一般的運動法則を発見すること」であり、社会科学の成立と「唯物史観」の成立、「唯物史観」と「経済学」とは、実質的に同じものである。例えば、「マルクスの葬送にあたって」においてエンゲルスは、マルクスをダーウィンと比較しながら、「ダーウィンが有機界の発展法則を発見したように、マルクスは人類史の発展法則を発見しました」[32]と記している。ここでの「人類史の発展法則」とは、アジア的生産様式から近代ブルジョア的生産様式に至る生産様式の歴史的発展のことではない。むしろ、それは「土台ー上部構造」論即ち「唯物史観」のことであり、エンゲルスは続けて次のように述べている。
「即ち、人間は政治や科学や宗教や芸術などを研究できるまえに、何よりも先ず食い、飲み、住み、着なければならない。従って、直接的な物質的生産諸手段の生産と、それとともに、ある国民またはある時代のその時々の経済的発展段階が土台をなし、そこからその人々の国家制度や法律思想や芸術や、また宗教的観念さえも発展してきた。従って、これらのものもまたここ[この土台]から説明されなければならず、これまでのようにその逆に説明されてはならないということです。」[33]
 こうした社会法則観の延長線上に、いわゆる「唯物史観」の「適用」問題がある。エンゲルスは「唯物史観」−−即ち、「土台−上部構造」論−−を「唯物論的テーゼ」とも呼び、それが理論上のみならず実践上も重要であることを強調した後で、それを現代にも「適用」すべきとして次のように記している。
「われわれの唯物論的テーゼを一層追及してそれを現代に適用すれば、……あらゆる時代で最も巨大な革命への展望が開かれる。」[34]
 勿論、エンゲルスはこの「唯物論的テーゼ」ないし「唯物史観」を「適用」することの困難性を「この場合たんなる決まり文句ではなにもできない」と指摘することを忘れてはいない。しかし、エンゲルスの「適用」論は依然として、経済学の外部にあるテーゼを経済学に適用するというものでしかない。
 こうして、マルクスにとってその後の研究の「導きの糸」だったものが、いつのまにかエンゲルスによって、そこから「出発する」諸命題に変質されられる。その結果、マルクスの弁証法的方法も、経済学的諸範疇の批判との関係が看過され、論理学の問題と理解されることになる。例えば、「書評:マルクスの『経済学批判』」でも次のように記されている。
「マルクスは、ヘーゲルの論理学から、この領域におけるヘーゲルの真の諸発見を含む核心を取り出し、弁証法的方法からその観念論的外皮を剥ぎ取って、それを思想展開の唯一のただしい形式となりうるような簡単なかたちにつくりあげるという仕事を引き受けることのできた唯一の人物であったし、今もそうである。マルクスの経済学批判の基礎を成している方法の完成を、われわれは、その意義において唯物論的根本見解にほとんど劣らない成果であると考える。」[35]
 要するに、「唯物史観」は土台と上部構造との規定関係である。他方、「一般的結論」は、生産諸力と生産諸関係の弁証法的関係を含み、資本家的生産様式を生産諸力の発展の一定の段階に照応し有機的に連関した生産諸関係として、歴史性と統一性の二面から把握することに導く。後者はまさしく、弁証法的方法のための「唯物論的基礎」であり、諸範疇の発生的展開を通して資本家的生産様式の成立ー発展−消滅の必然性を把握する基礎である。しかし、「唯物史観」は経済が他の社会諸関係の土台であることは明らかにしたとしても(これがエンゲルスの結論)、範疇批判とは直接連結しない。確かに、「唯物史観」は「一般的結論」の一部分ではあるが、一部でしかない。
 問題は、一部分でしかないものを全体と理解することから、それが別物に変質することである。「導きの糸」が「出発点」に変質するのである。「一般的結論」は、経済学批判を諸範疇批判として、再生産過程の中に生産諸諸条件の変革を見出す。「一般的結論」にとって「土台−上部構造」論は、この範疇批判の「唯物論的基礎」である。しかし、「唯物史観」の「土台ー上部構造」論は、範疇批判の外部にあり、範疇批判とは直接無関係の「歴史観」である。ソビエト・マルクス主義における「唯物史観」とその「適用」という発想は、疑いもなくエンゲルスに由来するのである。 


第4章 「唯物史観」と「一般的結論」との差違性の源泉

 A. エンゲルスにおける「生産諸関係」概念の欠如
 前節で考察したように、「唯物史観」と「一般的結論」の差違性の直接的な原因は、エンゲルスにおける「生産諸関係」概念の欠如である。しかし、この問題を更に追求してゆくと、その背後にマルクスとエンゲルスの歩んだ「異なる道筋」が潜んでいる明らかとなる。即ち、「一般的結論」に到達するまでに歩んだマルクスの哲学批判が、エンゲルスの場合不徹底であることが判明する。言うまでもなく、マルクスが主としてヘーゲル哲学批判を通して「一般的結論」に到達したのに対して、エンゲルスは主として現実のイギリス社会の観察を通して「唯物史観」に到達した。従って、エンゲルスにはマルクスの「生産諸関係」概念が持つ哲学的ないし人間学意味が欠如しているように思われる。以下、この点について概略しておこう。
 ヘーゲルはその『法哲学』において、近代社会の特徴を市民社会と政治的国家の分裂に見出すと同時に、この分裂を身分制議会を媒介として止揚することを主張した。資本は浮き沈みの激しい不安定な所有であり、その不安定性を土地所有という安定的な所有で克服しようというのである。しかし、土地所有や身分制議会は本来的に封建的諸制度であり、資本主義以前の制度である。従って、ヘーゲルの近代市民社会止揚論は、一つの時代錯誤であり、ごまかしでしかない。マルクスはこのヘーゲルの思弁性を批判し、市民社会と政治的国家の分裂の基礎が、従ってまたその分裂を止揚する基礎も市民社会の中にあることを見出す。その結果、現実的国家の現実的基盤の解明を行うために、市民社会の解剖学としての経済学の批判的研究に取り掛かることになる。「ヘーゲル『法哲学』批判から経済学批判へ」の彼の歩み、近代的諸個人の「私人」と「公人」への分裂問題がそれである。従って、マルクスの市民社会分析には、この市民社会と国家の問題意識が貫徹していることに注目しなければならない。
 ヘーゲル及びフォイエルバッハの人間把握への批判を通して、マルクスは人間を感性的存在及び感性的活動として把握する。人間は自然の一部であり、人間はその自然を物質的のみならず精神的にも必要としている。しかし、自然は人間の欲求に適合した形では存在しない。また、人間の欲求は、直接的、肉体的生存のための欲求に限定されておらず、普遍である。存在論的に言えば、「生産」とは、そうした自然を普遍的な人間の欲求に適合する形に改変することであり、人間による「自然の領有[Aneignung]」=「所有」である。一定の「所有」形態とは、本来的に一定の「生産諸関係」である。この「生産」ないし「産業」を通して、人間は外部の自然のみならず人間的自然(人間の本姓)をも改変し、より普遍的で洗練された欲求を持ち、より普遍的に自然を享受できるようになる。歴史とは、人間に向かっての自然の生成以外の何物でもない[36]。以上の意味で、「産業」の歴史とは、抽象的な自然科学と抽象的な社会科学との止揚であり、人間の欲求がどこまで人間的(普遍的)となり、人間がどこまで人間的(普遍的)となったかを示すメルクマールである。産業が「人間の開かれた心理学である」とは、そういう意味である。従って、マルクスにとって、経済学批判は単なる市民社会の分析のみならず、人間の社会的発展の度合いを示すメルクマールでもある。
 ところで、この生産は、孤立した個人によって行われることは珍しく、大抵の場合は、諸個人の協働として行われる。そうした社会的人間による生産を対自然[zur Natur]と対他人[zur einander]の両面から規定したものが、「生産諸力」と「生産諸関係」であり、生産諸関係自体一つの生産力である。別の表現をすれば、「生産諸力」と「生産諸関係」概念は社会的人間(その協働を行っている諸個人)の在り方を示す二側面である。
 勿論、社会的人間の在り方は主として「生産諸関係」の在り方によって規定されるのであり、その協働の在り方が自覚的であるか否か、自分たちのコントロールの下にあるか否かにより、諸個人から自立した経済法則や諸個人に対立する諸関係が発生するか否かの違いが生じる。疎外論がそれである。
 「一般的結論」は、以上のような人間観、社会観をその背景に持っている。それ故、「一般的結論」は「土台ー上部構造」論の他に、それから一歩進んで、生産諸力と生産諸関係の間の弁証法的関係が含まれているのである。

 B. エンゲルスにおける「生産諸力」概念の無理解
 勿論、マルクスにとっても生産諸手段が誰に帰属するかは重要な問題である。道具は、人間が自然に働きかける際に不可欠の媒介項であり、人間の欲求の度合いや自然を加工する能力を表現するものである。生産対象と生産諸手段は生産者にとって不可欠のものである。従って、マルクスの場合、資本家的生産様式における生産諸手段からの生産者の完全な分離という事実に対して、労働者と生産諸手段に対する関係が人間の在り方にとって根本的に重要であるとの判断(人間学)がある。即ち、直接的生産者からの生産諸手段のこの完全な分離が人類の発展史において如何なる意味を有するかは、人間労働の「社会性」の発展を基軸として、次のような二つの証明問題として定式化される。
 @人類史における私的所有の成立の必然性(必要とした)
 A人類史における私的所有の止揚の必然性(必要とする)
 従って、この「私的所有の二つの証明」問題もまた、資本家的生産・交通諸関係の理論的反映である経済学的諸範疇の批判的叙述を通して答えられることになる。その意味で、マルクスの範疇展開の一歩一歩が、資本家的生産・交通諸関係の現実的分析であり、それらの歴史的特徴の描出である。それは同時に、間接的ながら、将来的な生産・交通諸関係の展望でもある。このように、マルクスにとっては、将来社会の問題は、現実の資本主義分析、範疇批判と密接不可分の問題である。マルクスが「一般的結論」を「私の方法のための唯物論的基礎」と呼んでいるのは、そのためであろう。
 資本が私的所有の頂点であるということは、資本家的生産・交通諸関係が人間の社会的活動の最も発展した形態であること、ただし、その発展が直接的生産者に敵対的な形態で発展している形態(疎外された形態)であることを意味する。逆に、そうした資本の積極的止揚は、人間が自分たちの社会的諸能力を自分たちのコントロールの下におき、自分たちの自己実現に転化することを意味する。労働の内部での相互補完及び生産物を通した相互補完関係の自己管理と実現こそは、ドイツ人が「自我」や「自己意識」と哲学的に表現し、フランス人が「平等」と政治的に表現したものであり、真に「人間的」であるが故に「社会的」な人間の歴史的成立を意味する[37]。
 ところが、この肝腎の部分がエンゲルスには欠如していたし、彼の「唯物史観」には欠如している。エンゲルスは、『ドイデ』においても、『反デューリング論』においても、自然と歴史を、自然科学と歴史科学とを明確に区別する。そこには、マルクスがヘーゲル批判を通して獲得した人間学は微塵も見られない。そのために、彼の「土台−上部構造」論は範疇批判との接点を持たず、経済分析と将来社会の構想とも内定連関を持たない。
 ここで注目すべきは、エンゲルスにおける「生産諸力」概念ないし「所有」概念の矮小化である。言うまでもなく、「生産諸力」概念はその一契機として「生産諸手段」を含んでいる。しかし、それは同時に、「生産諸関係」概念、「生産者たちの協働関係そのものの」をも含んでいる。従って、「生産諸力の領有」とは、単になる「生産諸手段の領有」に止まらず、生産者たちの協働関係そのものの制御を含んでいる。直接的生産者による「生産諸力の領有」概念は、近代市民社会のどこを、どのように変革すべきかのビジョンをも含んでいるのである。そこには、労働者が労働諸条件との一体関係を回復することが、単なる経済的搾取の問題ではなく、全自然及び人間的自然の人間化の可能性の問題として、文明の収奪として把握されている。
 しかし、エンゲルスにおいては、「生産諸力の領有」問題は「生産諸手段の領有」問題に単純化され、「所有」も生産諸手段が誰に帰属するかのの問題に矮小化されている。社会的諸個人から自立した経済諸法則そのものの廃止ではなく、その利用だけが問題となる。仮に、エンゲルスがマルクスの生産様式区分を踏襲しても、マルクスがそれを区別した基準の意味は理解できないままになる。上記の人間観ないし哲学が欠如しているために、エンゲルスは社会主義や共産主義を単なる生産諸手段の帰属問題に還元し、「財産の共同体」としてしか、「平等な労働」と「平等な分配」としてし共産主義を構想できない[38]。
 エンゲルスには、経済学批判があっても、経済学的諸範疇の批判はない。その意味では、エンゲルスの経済学批判はマルクスの経済学批判よりも、むしろプルードンの経済学批判の方に近いと言っても過言ではない。プルードンもまた私的所有の批判を、経済学批判として行おうとした。しかし、プルードンもまた経済学的諸範疇を資本家的生産・交通諸関係の理論的反映として把握することができず、経済学批判を経済学的諸範疇の批判として遂行することはできなかった。このように考えて始めて、初期エンゲルスの高いプルードン評価もまた説明できよう。
 マルクス自身は、『批判』「序言」において、「われわれの見解の決定的な諸論点は、1847年に刊行されたプルードンに反対した私の著作『哲学の貧困』のなかで、単に論争の形ではあったが、始めて科学的に示された」[39]と記している。しかし、従来の『資本論』成立史研究においては、『哲学の貧困』はマルクスが漸くリカードウ主義者になったことを示す文献と理解され、マルクスがリカードウとの決定的差違を展開した文献とは理解されてこなかった。この『哲学の貧困』理解の中に、われわれがこれまでマルクス「経済学批判」体系を誤解してきたことが語られている[40]。今日のわれわれがマルクスを研究する時、エンゲルスやソビエト・マルクス主義に欠けている「生産諸関係」概念や狭い「生産諸力」理解、誤った「領有=所有」概念理解から脱却する必要がある。その時始めて、「社会的力」の疎外とその回復、人間が欲求、活動、生産物、他人との関係(相互補完行為)等の次元で「人間的品位を勝ち取る」ことこそが、真の問題であること理解されよう。

おわりに
 我々はこれまで、「序言」の「一般的結論」及び『ドイデ』の「唯物論的基礎」をエンゲルスの「唯物史観」理解と比較・対照してきた。その結果、次の諸点が明かとなった。
 「土台ー上部構造」論としての、「土台ー上部構造」論のみとしての「唯物史観」は、その用語自体エンゲルスのものであること。マルクス自身は「一般的結論」を「私の[弁証法的]方法の唯物論的基礎」と呼んでいること。マルクスがこの「一般的結論」に到達したのは、ヘ−ゲル『法哲学』の批判的検討を通してであること。確かに、「土台ー上部構造」論は「一般的結論」の一部である。しかし、それは「一般的結論」に存在する生産諸力と生産諸関係の弁証法等を欠いていること。その結果、「唯物史観」は経済学的諸範疇の批判との接点を欠き、経済学批判の外部にある歴史観、経済学批判から独立して存在する「出発点」に変質させられていること。これに対して、マルクスの「一般的結論」は、「土台ー上部構造」論を基礎に、生産諸力と生産諸関係との弁証法等を含むことで、私的所有批判を経済学批判として、その経済学批判を経済学的諸範疇の批判として遂行する方法的基礎となっていること等である。
 マルクスの「経済学批判」体系が単なる経済学ではない。つまり、単なる物質的富の生産・消費を考察しているのではない。生産は、人間がどれだけ自己の非有機的身体(自然)と自己自身(人間的自然=人間性)を人間的(普遍的)に加工しているかのメルクマールである。歴史的で、社会的な諸個人の在り方は、その時代の「生産の内部での活動の相互補完関係」(分業)と「生産物を通した相互補完関係」(交換)の二側面から規定されている。この社会的諸個人の活動を、対自然及び対他人の二側面から把握したものが、その時代の「生産諸力」と「生産諸関係」であり、生産者の生産諸手段に対する関係もその「生産諸関係」を規定する要因として重視されているに過ぎない。つまり、それは単なる経済的搾取の次元の問題ではなく、人間が自己の労働を通して人間と成るために必要不可欠な条件として問題にされているのである。
 所有(=領有)諸関係の実体が生産・交通諸関係の総体である以上、マルクスの「社会的所有」の具体像は、資本家的生産・交通諸関係分析の各々の段階で、つまり範疇批判の各々段階で、資本関係の裏返しとして展開されているし、そうする以外にはない。即ち、直接的生産者が彼ら自身の「連合ないし結合」を通して普遍的に発展した生産諸力(生産諸手段のみならず、彼ら自身の集団力をも)を普遍的に「領有」すること、直接的生産者達自身が自己の社会的諸力を自己のコントロ−ルの許におくこと、これこそが近代市民社会の中に成熟しつつある次の社会の原理である、と。
 以上の意味で、マルクスの「経済学批判」体系は、社会科学から切り離された(抽象的な)自然科学と自然科学から切り離された(抽象的)社会科学の止揚であり、「唯一の人間の科学」である。「経済学批判」体系以外のマルクス哲学、マルクス経済学、マルクス社会主義像というのは存在しない。『批判』「序言」の「一般的結論」は、エンゲルスが主張する「唯物史観」などでは全然なく、飽くまでもマルクス「経済学批判」体系の「弁証法的方法」の唯物論的基礎でしかない。
 現代に生きるのわれわれもまた、エンゲルスによる「一般的結論」の矮小化から解放され、むしろそれを「導きの糸」という本来の姿に戻して、『草稿』−『経済学批判要綱』−『資本論』等の「経済学批判」体系自体の考察に進まなければならないであろう。


巻末注********************************

[1]. 1994年はエンゲルスによる『資本論』第三巻が出版されて100年であった。折からMEGA2版も刊行され、エンゲルス版が如何に滅茶苦茶かが明らかとなった(例えば、大谷禎之介「『資本論』第三部第一稿のMAGA版について」『経済誌林』62-2号参照)。しかし、ここではこうした編集問題ではなく、キー概念での差違性を意味している。例えば、拙稿「マルクスとエンゲルスの社会主義論」『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』17号、八朔社、1993年参照。
[2]. エンゲルス「マルクスの葬送にあたって」『マルクス回想』、国民文庫、9ー10頁。
[3]. 『資本論』第一巻、ドイツ語版「第二版へのあとがき」、『資本論』、新資本出版社、1、24頁。
[4]. 『批判』「序言」、国民文庫、15頁。
[5]. 「序説」を素直に読めば、マルクスの知的遍歴における「飛躍的発展」ないし「断絶」はヘーゲル『法哲学』の批判的検討の前後即ち『独仏年誌』の前後にあったことは自明である。事実、『独仏年誌』以後のマルクスの立場は驚くほど一貫している。ところが、従来の『資本論』成立史研究においては、『ドイデ』における「哲学意識」の「清算」という記述を主たる根拠として、『ドイデ』の前後での「断絶」が主張されてきたのである。ここにも、各々の著作の目的を無視し、単なる執筆時期を唯一の根拠にして、『草稿』から『ドイデ』への思想的・理論的発展を捏造してきたソビエト・マルクス主義およびその亜流の非科学性がある。
 事実、『草稿』の中心的部分を「第一草稿後段(所謂「疎外された労働」)」と「第二草稿」における資本家的生産過程の二面的分析と理解する時、その分析がこうした結論を前提していることは明白である。従って、執筆年代から言えば、『ドイデ』の方が『草稿』よりも後なのであるが、内容的に言えば、『草稿』は『ドイデ』を踏まえたものである。従って、『ドイデ』を基準にして、その前後でマルクスの思想・理論に飛躍的発展があったという従来の通説的「『資本論』成立史」研究は、単なる独断と偏見に過ぎない。
 また、エンゲルスの晩年の次のような証言もこれを裏付けている。
「マルクスはこれと同じ見解に到達していたばかりではなく、既に『独仏年誌』(1844年)でそれを次のように一般化していた。即ち、総じて国家が市民社会を条件付けるのではなく、市民社会が国家を条件付け規制するのであり、従って政治と政治史とは経済的諸関係とその発展によって説明すべきものであって、その逆ではない、ということである。私が1844年の夏にマルクスをパリに訪ねた時、理論上のあらゆる分野でわれわれの意見が完全に一致していることが明かとなった。そして、その時からわれわれの共同活動が始まるのである。」(MEW, Vol., 21, ss.211-12)
[6]. 『批判』、8ー9原頁。
[7]. 『マルクス歴史理論の研究』、岩波書店、552-4頁。
[8]. Peter Krueger/Uta Puls, Karl Marx und die zeitgenoessische Geologie des 19. Jahrhunderts -- Aspekte seiner geowissenschaftlichen Exzerpte vor und nach dem Erscheinen des "Kapital", 1994.
[9]. 『経済学批判要綱』「序説」、『マルクス資本論著作集 1』、大月書店、58頁。
[10]. 同上、57頁。
[11]. この概念の解釈については、後に考察する。結論を先取りして言えば、それは「唯物史観」であり、「土台ー上部構造」論である。
[12]. 後進国ドイツを、先進国であるイギリスやフランスの次に来る社会の原理の水準にいちはやく到達させたいというのがマルクスの時代的課題であり、「追いつき、追い越せ」では何時まで経ってもイギリスとフランスの後塵を拝することになることを洞察していた。初期マルクスが当時のフランスやドイツの社会主義者から多大な影響を受けていたという議論は、このマルクスの時代的課題を看過するところから発生する誤った議論でしかない。
[13]. マルクスやエンゲルスが抑圧機構としての国家を廃止しよう−−そのことをフランス社会主義者たちは「国家の死滅」と表現した−−と考えていたことを否定する者は少ないはずである。ところが、そうした研究者ですら、生産諸手段の国家所有ないし国有化を以てマルクスの共産主義と看做してきたのは理解に苦しむ。この点については、前掲拙稿「マルクスとエンゲルスの社会主義論」、6頁を参照。
[14]. 『ドイデ』、合同新書版、55頁。以後、『ドイデ』からの引用は、便宜上、合同新書版から行う。なお、『ドイデ』の編集問題については、拙稿"The Editing Problems of The German Ideology"『社会科学』(拓殖大学)207号参照。
[15]. 同上、84頁。
[16]. 同上、42頁。
[17]. 同上、55頁。
[18]. 同上、55頁。
[19]. 同上、55頁。
[20]. 同上、58ー59頁。
[21]. 『資本論』、新日本出版社、1、29頁。
[22]. 同上、31頁。
[23]. 同上、27頁。
[24]. 『資本論』、新日本出版社、4、1303頁。
[25]. 『資本論』第一巻ドイツ語版「第二版へのあとがき」における「弁証法的方法」からも明らかなように、マルクスは『資本論』で資本の成立−発展−消滅の必然性を証明しようとしているのであって、そうしたことは不可能であるという主張は、資本家的生産・交通諸関係の歴史性把握が不十分か、そもそも歴史性を把握しようとしていないかの何れかであろう。
[26]. 『批判』、国民文庫、255-6頁。
[27]. MEW, Vol., 21, ss.211-12.
[28]. MEW, Vol., 21, s.300.
[29]. 『反デューリング論(2)』、国民文庫、483頁。
[30]. その「準備的労作」を含んで、『反デューリング論』では「生産諸関係」概念は、わずか四度しかも殆ど「生産・交通諸関係」の形で、階級関係の基礎として触れられているに過ぎない。
[31]. 『草稿』においていわゆる「疎外された労働」概念が登場するのは、古典派経済学が経済的諸法則を概念的に把握しないことを批判した後である。この「疎外された労働」概念を否定してきたソビエト・マルクス主義及びその亜流が、経済的諸法則を概念的に把握できないのは当然である。
[32]. 前掲『マルクス回想』、9頁。
[33]. 同上。
[34]. 『批判』、国民文庫、256頁。前掲『反デューリング論』、500-6頁参照。
[35]. 『批判』、国民文庫、262-3頁。
[36]. 人類史は自然史の一部である、というのは、『ライン新聞』時代以来のマルクスの基本的立場である。MEW, Vol, 1, s.115及び『草稿』岩波文庫、143-5頁参照。ところが、エンゲルスは、『ドイデ』(前掲合同新書、24頁),
「書評:マルクスの『経済学批判』」(前掲『批判』、256頁)及び『フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終焉』(MEW, Vol.21, s.296)等において、人類史と自然史とを明確に区別している。
[37]. 言うまでもなく、この場合の「人間的」=「社会的」は、何人かの協働を意味する日常的な意味での「社会的」ではない。この場合は、「類的」で「普遍的」な存在として人間にふさわしい在り方に成っている状態を意味する。
[38]. Terrell Carver, FRIEDRICH ENGELS, MACMILLAN, 1989, p.187.
[39]. 前掲『批判』、17-18頁。
[40]. この点については、方法論、価値論の両面から『哲学の貧困』を詳細に検討した拙稿、"Ricardo's Method Re-examined"と"Ricardo's Value Theory Re-examined"『社会科学』1-2、1-3号参照。