『経済学・哲学草稿』における最初の「経済学批判」


       拓殖大学政経学部 大石高久

目次
はじめに
第1章 〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕の位置
 A 〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕の関係
 B 〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕の位置
第2章 〔第一草稿〕後段の論理展開
 A 対象化と外化・疎外の区別
 B 特定のZur Naturの分析=「労働としての私的所有の関係」の分析
 C 特定のzueinanderの産出=移行規定(「疎外された労働」の第四規定)
第3章 〔第二草稿〕の論理展開
 A 「資本としての私的所有の関係」の分析
 B 「商品」−「私的所有」−「資本」
 C 私的所有の頂点としての資本
おわりに


はじめに
 『経済学・哲学草稿」──以後、特に断わりのない()内頁数は岩波文庫版を、引用文中の〔〕は城塚・田中氏、〈〉はアドラッキー版での補充を示すものとする。──においてマルクスの「経済学批判」が端初的に成立したこと、その「経済学批判」における経済学批判−哲学批判−社会主義批判の「三位一体的統一」の原理が「疎外された労働」概念であること、従ってこの概念が優れて経済学的性格を持っていること、以上の三点は研究者の一致して認めるところである。
 しかし、経済学者達は「疎外された労働」概念を『資本論』をも貫く学的原理としては見ず、単なる思想ないし視角としてしか評価しない。従って、彼等に依って、『経済学・哲学草稿』における「経済学批判」の理論的意義は少ないものだとされている。
 「概念[1]」は「思想」ないし「視角」から明確に区別されるべきであり、著者は、こうした研究に対して根本的な疑問を感じる。そこで、従来『経済学・哲学草稿』の何処をもって「経済学批判」と解釈されてきたかをまず検討してみよう。
(1)〔第一草稿〕前段
(2)〔第一草稿〕全体
(3)〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕
 前二者は古いタイプで、これらにおいては『経済学・哲学草稿』各草稿間の論理的関係や論理次元はほとんど意識されていない。従って、この両者は、ラーピン論文[2]以降の、〔第一草稿〕と〔第二草稿〕以後との論理次元が間われている状況においては、時代遅れとなっている。実際、〔第一草稿〕後段は「私的所有」ないし「疎外された労働」の二側面のうちの一側面の分析に他ならないことは、後に示す通りである。
 (3)には二つの対立した見解が見られる。即ち、〔第二草稿〕の内容が論理的であるか歴史的であるかの解釈に依って、『経済学・哲学草稿』における「経済学批判」の内容理解とその評価に相違が生じているのである。そこで著者は、本章を次の順序で展開する。節において、この論理説と歴史説との対立を差し当たり形式的に考察し、〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕との論理的関係を明らかにする。次に、。、「節では各々〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕の論理展開を明らかにし、論理説と歴史説との対立を内容的に考察する。要するに、節では、『経済学・哲学草稿』の何処をもって「経済学批判」と理解されるべきか、。、「節では、その「経済学批判」の内容は如何なるものであるがが明らかにされるであろう。この作業を通して「疎外された労働」概念の経済学的内容も明らかにされるであろう。


第1章 〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕の位置

 A 〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕の関係
 〔第二草稿〕の内容については、従来二つの推定がなされてきた。即ち、
^『ミル評註』が引用され、私的所有の諸形態を歴史的に展開したもの、と解釈する歴史説[3]と、
_〔第一草稿〕後段と表裏一体関係にある資本の生産過程分析、と解釈する論理説[4]の二つである。
 歴史説は、『ミル評註』が多分〔第二草稿〕に引用されていたであろうという推定から出発して、〔第二草稿〕における動産と不動産の対立に関する叙述(116頁)と、労働と資本の運動に関するスケッチ(117-8頁)とを〔第一草稿〕末尾近くの「二つの課題」(104-5頁)に結びつけて次の様に結論する。
「……疎外された労働と私的所有とを歴史的に展開し、それらが人類の発展にたいしてどういう意味をもつかを解明すること、これが第二草稿の課題だと結論づけて大過あるまい。[5]」
 この立場に立てば、〔第二草稿〕の内容は、私的所有の一側面を分析した〔第一草稿〕後段の内容と整合しないことになり、結局、『経済学・哲学草稿』には「経済学的部分は存在しない[6]」と結論されてしまうことになる。
 しかし、この歴史説には次の問題が生じてこざるを得ない様に思われる。まず第一に、歴史説の出発点であるところの、『ミル評註』が〔第二草稿〕で活用されていたという推定は、元来『経済学・哲学草稿』の外部から、つまり『ミル評註』研究から持ち込まれたものであるという点である[7]。〔第一・第二草稿〕の記述に内在しても、はたしてこの推定は成立しうるのであろうか。
 第二に、内容的に言えば、〔第一草稿〕後段以降においては、もはや歴史としての歴史の叙述は問題となり得ないのではないか、という疑問である。何故なら、〔第一草稿〕後段では、私的所有の諸法則の概念的把握が問題にされているはずだからである。更にまた、〔第二草稿〕の内容の要約と思われる〔第三草稿〕の次の一節も、〔第二草稿〕の内容が純・理論的なものであったことを示していると思われるからである[8]。
「われわれは既に…見てきた。(1)資本は蓄積された労働である。(2)生産の内部での資本の規定:即ち、……。」(159-60頁)
 では、以上の二つの疑問に対して論理説はどの様に答えているのであろうか。第一の、言わば形式に関する疑問に対して、論理説は次の様に答える。即ち、〔第一草稿〕後段では「私的所有」ないし「疎外された労働」には二つの構成部分があることが指摘されながら、実際には、その一面しか分析されていなかった。だが、〔第二草稿〕(特に107-11頁)の内容こそは、残る一面の分析であったことを示している、と。
 ところが、第二の論理次元の問題になると論理説は極めて抽象的見解に留まっており、せいぜい[9]、次の様に発言しえているに過ぎない
「現実の歴史的過程は、いったん『国民経済学』に反映され、『国民経済学』の批判を通して解明されるという運びになっていることを忘れるべきではない。[10]」
 この指摘そのものは正しいと思われるが、歴史説に立つ人々を納得させるには未だ不十分であろう。そこで、本章ではこうした論理説の十分な展開・論証を試みるが、第二の問題については「節に譲り、まず第一の問題についてだけ、差し当たり形式的にのみ考察しておこう。マルクスは、〔第一草稿〕後段では8回、〔第二草稿〕では2回、「私的所有の関係」に言及している。まず、それらの箇所からいくつかを捨い上げた上で、そこからいくつかの結論を引き出すことにしよう。

〔第一草稿〕後段における記述:

〔引用文1〕
「こうして労働者は、疎外された、外化された労働を通して、労働にとって疎遠な、そして労働の外部に立つ人間の、この労働に対する関係を生み出す。労働に対する労働者の関係は、労働に対する資本家の、あるいはその他労働の主人を人が何と名づけようと〔とにかくその主人の〕関係を生み出すのである。」(101-2頁)
〔引用文2〕
「われわれにとって、外化された労働は、相互に制約し合うところの、あるいは一個同一の関係の単に異なった表現に他ならないところの、二つの構成部分に分解された。領有は疎外とし、外化として現れ、/そして外化は領有として、疎外は真の順化[11]として現われる。」(105頁。ただし、以後引用文中の/は大石。)
〔引用文3〕
「さてこれまでわれわれは、労働によって自然を領有する労働者について、領有が疎外として現れ、自己活動が他人のための活動そして他人の活動として、対象の生産が疎遠な力、疎遠な人間のもとへの対象の喪失として現われることを見てきたのであるが、/次に我々は、労働と労働者とにとって疎遠なこの人間の、労働者に対する関係、労働とその対象に対する関係を考察することにしよう。」(106頁)

〔第二草稿〕におるけ記述:

〔引用文4〕
「私的所有の関係は、労働としての私的所有の関係と資本としての私的所有の関係、及びこれら両方の表現相互の関連とを自分の中に潜在的に含んでいる。」(110頁)
〔引用文5〕
「私的所有の関係は、労働、資本、及びこの両者の関連である。」(117頁)

以上の引用文からの帰結:

 さて、以上の引用文から、次の諸点が明らかとなろう。まず第一に〔引用文1〜5〕を通して、「私的所有の関係」あるいは「疎外された労働」の関係は、「労働者の、自己の労働と労働生産物に対する関係」(=「労働としての私的所有の関係」)と、「非労働者の、労働者の労働と労働生産物に対する関係」(=「資本としての私的所有の関係」)の二つの構成部分ないし二つの側面から成る、とされていること。つまり、この二側面は「相互に制約し合うところの、あるいは一個同一の関係の単に異なった表現に他ならない」(105頁)ということ。
 第二に、〔引用文2〕に依れば、この両側面は各々、「領有(が)疎外・外化として現われ」る側面と、「外化(が)領有として、疎外(が)真の順化として現われる」側面として総括される、ということ。
 第三に、〔引用文3〕は、「領有は疎外・外化として現われ」るという規定が「労働としての私的所有の関係」に関する規定であることを示している。
 第四に、してみれば、「外化は領有として、疎外は真の順化として現われる」という規定は、「資本としての私的所有の関係」に関する規定であるはずだ、ということ。更に、〔引用文1〕に依れば、この側面は労働者の労働と労働生産物に対する資本家の「所有関係(Eigentumsverhaeltnis)」(106頁)に他ならない、ということ。
 ここで三と四の二点を合わせて考えるならば、先の総括規定は次のような内容のものと推測されるであろう。即ち、労働者が労働と労働生産物を外化するということは、資本家がそれらを領有するということであり、労働者がそれらを自己に敵対的に(疎外)するということは、資本家がそれらに順化するということに他ならない、という内容である。
 しかしながら、第五に、〔第一草稿〕後段での分析は「労働としての私的所有の関係」に限定されている、ということ(〔引用文3〕参照)。私的所有の関係の一側面の内で、この側面が最初に考察されたのは、論理的には、この側面が他の一面の関係を生み出すからに他ならない、ということ(〔引用文1〕参照)。そこで、〔第一草稿〕はこの残る一面を次に考察すると予告して終っている、ということ(〔引用文3〕参照)。
 最後に、〔第二草稿〕からの〔引用文4、5〕でも、改めて「両者の関係」が指摘されていることは、〔第二草稿〕でも私的所有の関係が考察されていたことを示している、ということこれである。
 以上の諸点から、〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕との関係について一つの結論を引き出してみよう。
 私的所有の関係のニつの構成部分とは、労働者による自己の労働と生産物の外化・疎外の関係と、資本家によるそれらの領有・順化の関係であった。〔第二草稿〕においてもこの私的所有の関係が問題になっているということは、〔第二草稿〕の内容が〔第一草稿〕後段と同じ資本の直接的生産過程の分析であったことを示している。この様に、〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕がその分析対象を同じくしている以上、これら両部分においては各々、「労働としての私的所有の関係」と「資本としての私的所有の関係」が考察されていたであろうと推定することが、『経済学・哲学草稿』に即した内在的な解釈であろう[12]。〔第二草稿〕において「私的所有の関係」が、生産過程分析が確認されているということは、歴史説の論拠を覆し、論理説を根拠づけるものであろう。

 B 〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕の位置
 〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕の関係が、同じ私的所有の関係を二面的に考察した表裏一体の関係にあるとすれば、この両部分が『経済学・哲学草稿』全体の中で占める位置とは、とりも直さず〔第一草稿〕後段が『経済学・哲学草稿』中で占める位置に他ならないであろう。では、その〔第一草稿〕後段の位置とは一体どの様なものであろうか。
 前章で考察した様に、〔第一草稿〕の前段は、経済学者達の諸著作を分解価値説的立場から引用し、彼らの分析から近代市民社会の構造的・動態的諸法則を表象として確定するものであった。成る程、その際にマルクスは、スミス等の著作に独自な読み込みを行ないながら、実際のスミス以上のことを語らせていた[13]。しかし、古典派経済学者には、こうした読み込みでは補完し切れないところの、ある根本的な欠陥が存在する。それは、彼等にはヘーゲル−マルクス的な「学(Wissenschaft)」が欠如している、ということである。つまり、彼等にあっては諸範疇間の内的・必然的関連は解明されず、諸範疇の発生的展開がなされないばかりでなく、そうした意識すら欠如しているということである。マルクスはこの古典派経済学の根本的欠陥を意識しつつ、自己の立場を「概念的把握」としてこれに対置する。
「国民経済学は私的所有という事実から出発する。だが彼らはわれわれに、この事実を解明してくれない。経済学は、私的所有が現実の中でたどってゆく物質的過程を、一般的で抽象的な諸公式でとらえる。その場合これらの公式は、彼らにとって法則として通用するのである。国民経済学は、これらの諸法則を概念的に把握しない。即ち彼らは、これらの諸法則がどのようにして私的所有の本質から生じてくるかを確証しないのである。」(84-5頁)
 従って、〔第一草稿〕後段以降におけるマルクスの課題は、第一に、私的所有の本質を明らかにし、第二に、私的所有の諸法則がこの本質からどのようにして生じるかを確証することとなる。
「従ってわれわれは、今や私的所有、所有欲、労働と資本と土地所有との分離〔という三者〕の間の本質的連関を、また交換と競争、価値と人間の価値低下(16)、独占と競争などの本質的連関を、更にこうした一切の疎外と貨幣制度との本質的連関を概念的に把握しなければならない。」(85-6頁)
 この課題の性格を理解するために次の諸点が注目されるべきである。まず第一に、〔第一草稿〕前段段階においては「私的所有」、「労働と資本と土地所有との分離」は前提されていた(84頁参照)。今や、この前提そのものの生成が間われているのだということ。第二に、「労働と資本と土地所有との分離」の生成が間われているとは言っても、史実としての本源的蓄積過程が問題なのではない。概念的把握の次元においては、私的所有の本質から如何にして「労働と資本と土地所有との分離」が「労賃と資本利潤と地代との分離」として発生するかが問われるのであろう。つまり、この課題は近代市民社会の構造分析に、従ってまた経済学的諸範疇の発生的展開に係わるものだということ。この第二の点は、次の二点からも確証されよう。
^ 古典派においては、利潤や地代の発生は「資本の蓄積と土地の占有に先立つ初期未開の状態」との対比によって説かれ、資本が蓄積されて以降は、資本家は「利潤」を得られなければ彼の資本を投下しないであろう、という形でしか説明されない。マルクスが批判し、自己の課題としているのは、この「利潤」の発生過程なのである。次の一節で「労働と資本と土地との分離」が「利潤」や「労賃」との関連で扱われている点が重要である。
「国民経済学は、労働と資本、資本と土地とが分離される根拠について何等の解明もわれわれに与えない。例えば、資本利潤に対する労賃の関係を規定する場合、国民経済学では資本家達の利害が最後の根拠と見枚されている。即ち国民経済学は、自分が説明すべきものを予め仮定しているのである。」(85頁)
_ 従って、マルクスは古典派によるこの「利潤」の発生論を論点窃取の虚偽として退け、日々われわれの眼前で繰り返されている資本の生産・再生産過程に関する次の様な「事実」の分析から出発している。
「労働者は商品をより多く作れば作るほど、それだけますます彼はより安価な商品となる。……労働は単に商品だけを生産するのではない。労働は自分自身と労働者とを商品として生産する。」(86頁)
 以上考察してきた様にマルクスの課題は論理的であり、諸範疇の発生的展開に係わるものである。言うまでもなく、「私的所有の本質」を剔出した箇所は〔第一草稿〕後段であり、そのことは「疎外された労働の結果として明らかになったような私的所有の一般的本質」(104頁)という記述によっても確証できよう。とすれば、〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕は、『経済学・哲学草稿』における「経済学批判」の「学」的原理を提示した部分であると言えるのであって、『経済学・哲学草稿』における「経済学批判」は、何よりもまず、この〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕における経済学的諸範疇の批判的展開に即して理解されるべきであろう。そこで以下の二節において、各々、〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕におけるマルクスの論理展開を明らかにし、『経済学・哲学草稿』における「経済学批判」の内容を論定しよう。


第2章 〔第一草稿〕後段の論理展開

 A  対象化と外化・疎外の区別
 マルクスが資本の生産過程から剔出する「私的所有の一般的本質」とは何であり、その本質から「労賃と資本利潤と地代との分離」は如何に展開・説明されるのであろうか。マルクスが分析を開始するところの「国民経済上の現に存在する事実」──以後、単に「事実」と略記する──とは、次の様な表象であった。
「労働者は、彼が富をより多く生産すればするほど、彼の生産の力と範囲とがより増大すればするほど、それだけますます貧しくなる。労働者は商品をより多く作れば作るほど、彼はそれだけますますより安価な商品となる。事物世界の価値増大にぴったり比例して、人間世界の価値低下がひどくなる。」(86頁)
 マルクスはこの「事実」を、人間と自然との物質代謝過程の視角から、労働者と労働生産物との関係の視角から分析する。一般的に言えば、「労働の生産物は、対象の中に固定された、事物化された労働であり、労働の対象化(Vergegenstaendlichung)である」(87頁)。従って、生産=対象化は「労働が一つの対象に、ある外的現実的存在になる」(88頁)ことを意味する。だが、先の「事実」は、単に対象化に留らず更に生産物が「彼(労働者……大石)に対して敵対的にそして疎遠に対立する」(88頁)ことを意味している。対象化は労働者による自然の領有(Aneignung)を意味する。だがそれとは逆に、この「事実」に依れば「彼(労働者……大石)に帰属するものがますます少なくなる」(88頁)のである。そこでマルクスは、この事態を指して「労働者の、生産物における外化(Entaeusserung)」(88頁)ないし「疎外(Entfremdung)」と呼ぶ(〔表1〕参照)。

〔表1〕
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------
対象化                   外化・疎外
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------
国民経済的状態の中では、       労働の現実性剥奪(Entwirklichung)
労働のこの実現(Verwirklichung)が、   として現れ、
対象化が               対象の喪失及び対象への隷属として、
〔対象の〕領有が           疎外として、外化として現れている。
                   (87頁)
----------------------------------------------------------------------------------------------------------

 これら三次元での対比は、各々、活動、生産物、両者を含む総括次元での対比と考えられる。「領有は疎外として、外化として現われている」という規定については、「事実」分析の冒頭であるこの箇所と、末尾(105頁)にしか出てこない「総括」規定である点が注意されねばならない[14]。


 B 特定のzur Naturの分析=「労働としての私的所有の関係」の分析
  a  「疎外された労働」の第一規定
 「事実」における一切の帰結を「労働者が自分の労働生産物に対して、一つの疎遠な対象に対するようにふるまうという規定の中に」(87頁)見出したマルクスは、「より詳しく、対象化即ち生産と、そこでの……労働者の生産物の疎外、喪失とを考察」(88頁)していく。「事物の疎外」(93頁)がそれであり、労働者にとっての生産物喪失の意味を二面的に考察したものである。
マルクスに依れば、自然は
(1) 労働対象と労働手段[15]だけでなく、
(2) 「肉体的生存の手段」(89頁)をも提供する。
 従って、労働者にとって生産物の喪失は、彼が
(1) 生産手段だけでなく、
(2) 「肉体的生存の手段」をも奪われることを意味している。
 自然は生産にとって不可欠のものであるから、このことは、労働者が次の二重の意味で自然の奴隷になることを意味しよう。つまり、
(1) 仕事にありつく、
(2) 食料にありつく、
という意味においてである。
 ここで著者が強調したいことは、この「疎外された労働」概念の第一規定において、「労働と資本と土地所有との分離」が第一次的に示されている、ということである。労働者が彼の生産物を喪失しているということは、生産過程におけるその一時的な統一にも拘らず、生産手段(=資本)から分離されており、従ってまた、生産手段との統一に再び入ることを強制されている、ということを示しているからである。

  b 「疎外された労働」の第二規定
 過程とは、何かを生み出す過程であり、過程中にないものが過程の結果として生み出されることはない。「従って、労働の生産物が外化であるとすれば、生産そのものもまた活動的な外化、外化の活動であるはずだ」(98頁)。労働者のこの生産行為に対する関係は「自己疎外」(93頁)と呼ばれる。「自己疎外」とは、具体的には次の事態を指している。
(1) 「労働が労働者の本質に属していないこと、……自由な肉体的・精神的エネルギーが全く発展させられずに、彼の肉体は消耗し、彼の精神は頽廃化する」(91頁)ということ。
(2) 従って、「彼の労働は、自発的なもの……ある欲求の充足ではなく、労働以外の所で諸欲求を充足させるための手段である」(92頁)こと。
(3) 最後に、「彼が労働において自分自身にではなく他人に従属する」(92頁)こと。
 (1)と(2)では、労働者にとって労働が自分自身に属さない(nicht gehoeren)こと、自己実現ではない点に強調点があるのに対して、(3)では、そうした労働は結局、他人のための活動であることが強調されている。
「労働者の活動は、彼の自己活動ではない……それは他人に属しており、労働者自身の喪失なのである。」(92頁)
 彼の活動が属すとされる「他人」とは誰か、それは後の問題である。ここでは、労働者と彼の生産的活動の関係の、一定の歴史的姿態の意味が問題なのである。第一規定が、自己の生産物の喪失であった様に、第二規定は、自己の活動の喪失と言ってよかろう。

  c 「疎外された労働」の第三規定
 「疎外された労働」概念の第三規定(=類からの疎外)は、それをめぐって『経済学・哲学草稿』評価が分岐する[16]重要な規定である。しかし、ここで紙数と著者の能力から、対象をこの規定の経済学的内容に限定し、次の二点を確認するに止めておく。
 第一点は、この第三規定と、第一・第二規定との関係についてである。この第三規定は、第一・第二規定と並列的関係にあるのではない。それは、「これまで述べた二つの規定から……引き出さ」(98頁)れたものである。ということは、第一・第二規定と考察対象を共有しつつ、それを考察する視角が異なる、ということであろう。共有されている対象とは、異なる視角とは、一体何んであろうか。これまで生産(=対象化)は労働者の個人的生活の対象化としてのみ考察されて来た。この第三規定で新しく導入される視点は、生産は同時に、類的生活の対象化でもある、という視点である。
 「労働の対象(生産物……大石)は、人間の類生活の対象化である。」(97頁)
 従って、第三規定において新しく問題にされるのは、生産を類的生活の対象化という視角から考察した場合に、これまで考察してきた第一・第二規定が、すなわち労働者が自己の生産的活動と労働生産物を喪失しているということが、一体どのような意味を持っているのか、ということであろう。
 そこで第二点である、この第三規定の経済学的内容について考察しよう。
「疎外された労働は、第一に、類生活と個人的生活とを疎外〔互いに疎遠なものに〕し、第二に、抽象化された〔類生活から切り離された……大石〕個人生活を、同様に描象化さ、疎外された形態での類生活の目的とならせるのである。」(95頁)
 労働者にとって労働が自己実現ではなくなることによって、類的生活の対象化である生産は、彼にとっては肉体的生存の手段以外の何ものでもなくなるのである。
「疎外された労働は、自己活動を、自由なる活動を、手段にまで引き下げることによって、人間の類生活を、彼の肉体的生存の手段にしてしまう。」(97頁)
 この「人間が自己の類について持つ意識」の手段への転化を具体的に言えば、「営利活動」(28頁)が賃労働において完成すると言うことであろう[17]。「営利活動」とは、「労働の目的が富(交換価値……大石)の単なる増大にある」(26頁)ような労働であり、貨幣を獲得するために他人にとっての使用価値を生産する労働である。労働の相互補完それ自体は、人間の豊かさにとって必然的であり、人間的な意味を有する。この労働の相互補完を媒介とした人間相互の類的関係が、営利活動においては瞞着の意図を含んだ歪められた姿態で発展させられているのである。他人の欲求を抜け目なく計算に入れ、他人の欲求の対象物を生産する営利活動とは、類的活動としての生産的活動の奇形態である。

 C 特定のzueinanderの産出=移行規定(「疎外された労働」の第四規定)
 これまでの展開でマルクスは「事実」を「疎外された労働」に概念化してきた。「事実」を生み出すものとしての、労働者の自然的諸条件に対する自己関係が規定されてきたのである。第一〜第三規定の、即ち「人間が彼の労働生産物から、彼の生命活から、彼の類約本質から、疎外されているということから生ずる直の帰結の一つ」(98頁)とされる第四規定(=「人間からの人間疎外」)においては、この「疎外された労働」「概念」が現実においては如何に現れざるを得ないか、が明らかにされる。
 自然が労働者を商品としては生み出さない以上、一定の疎外は必ず人間と人間との一定の関係において生じるのであり、人間の社会的関係が不可欠の媒介であろう。今や、労働者に疎遠な活動と生産物が一体誰に属するかが問われなければならない。この労働者の活動と生産物が属する存在は、神でも自然でもあり得ず、ただ人間だけであると、マルクスは明確に記している。
 では、「労働としての私的所有の関係」は如何に「資本としての私的所有の関係」を生み出すのであろうか。マルクスの展開を整理してよう(〔表2〕参照)。

〔表2〕
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------
〔労働者の側〕               〔非労働者の側〕
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
(1)「労働の生産物が労働者に属さず、 そのことはただ、この生産物が
疎遠な力として彼に対立しているならば、  労働者以外の他の人間に属する
                     ということによってのみ可能である。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
労働者の活動が彼にとって苦しみで     その活動は他の人間にとって享受で
ならば、                 あり、他の人間の生活のよろこびで                        なければならない。」(100頁)
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
(2)「人間が彼の労働の生産物……に対して、  その時彼はこの生産物に対して、
一つの疎遠な、敵対的な、力づよい、彼から  ある他の、彼には疎遠で敵対的で
独立した対象に対するようにふるまうとすれば、力づよい人間、彼から独立した
                      人間がこの対象の主人であるという                        ようにふるまっているのである。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
人間が彼自身の活動に対して、不自由な活動  彼はこの活動に対して、ある他の
に対するようにふるまうとすれば、      人間の支配や強制や桂桔のもとで、
                      この人間に奉仕する活動に対するよ                        うにふるまっているのである。」                         (100-1頁)
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
(3)「彼が彼自身の生産を、彼の現実性剥奪に、 彼は生産をしない人間の、
彼の懲罰にしてしまうように、また彼が彼自身 この生産や生産物に対する支配
の生産物を喪失に、彼に帰属しない生産物にし を生み出す。
てしまうように、
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
彼が彼自身の活動を自己から疎外するように、 彼は疎遠な他人にその人自身の
                      ものでない活動を領有させる。」                         (101頁)
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 要するに、労働者の事物の疎外・自己疎外は、労働者が他人の支配や強制の下で、他人にとっての享受である様にふるまっている時にのみ生じうるのであり、他人が彼の活動を領有し、彼の生産物を支配しうるのは、論理的には、労働者の自己関係の一帰結に過ぎない、ということである。
 マルクスが「疎外された労働」概念から導出した「私的所有[18]」とは、この「労働の外部に立つ人間の、この労働に対する関係」(102-3頁)なのである。
 最後に、以上の〔第一草稿〕後段の論理展開を、『経済学・哲学草稿』全体の中で整理してみよう。マルクスは、〔第一草稿〕前段で確定された表象としての「事実」を、生産過程における労働者の生産に対する関係から、活動と生産物の二面で分析し、その概念を「疎外された労働」と定式化した。この「疎外された労働」こそ、資本家の生産に対する関係を生み出すものであることが示されたのである。
 勿論、この資本家の生産に対する関係は導出されただけであって、実際には分析されてはいない。だが、注目すべきは次の点である。〔第一草稿〕前段〔資本利潤〕欄で、利潤の発生過程を示すためにマルクスは、資本を「労働とその生産物に対する指揮命令権能〔(Regierungsgewalt)」(40頁)と規定していたが、今やこの指揮命令権能自体が、「疎外された労働」から引き出された、ということである。資本家が利潤を請求しうる経済学的権源は、労働者の活動及び生産物からの疎外から説明されたのである。
 「疎外された労働」概念の第一・第二規定は、「資本のもとへの労働の形式的包摂」に関する命題の原型として重視されて来た様に[19]、『資本論』にも生きているところの、資本の「最も一般的・抽象的な規定[20]」なのである[21]。


第3章 〔第二草稿〕の論理展開

 A 「資本としての私的所有の関係」の分析
 〔第二草稿〕の現存部分は、主として次の四つの部分から成る。
^ 資本制的「生産は人間を、一つの商品……として生産するばかりでなく、
_ この規定に対応して、生産は人間を、精神的にも肉体的にも非人間化された存在として生産する」(109頁)ということ。
` 「資本の文明的な勝利」(116頁)は必然的であるということ(動産と不動産との対立に関する記述)。
a 労働と資本の「両項が経過しなければならない運動」に関するスケッチ(117頁)
 これらの内、`とaについては本節C項に譲り、先ず^と_について考案しよう。
 〔第二草稿〕の現存部分は、労働と資本とが、相互の否定物であるという次の文章で始まっている。
「……労働とは自己にとって失われた人間であるということが、資本のところに客体的に存在するのと同様に、資本とは全く自己にとって失われた人間であるということが、労働者のところに主体的に存在する。(107頁)
 続いて、労働者は資本に転化する時にだけ肉体的に存続しうるのであり、また肉体的に存続しうるためには資本に転化せざるを得ないということが記されている。
「労働者は自己に対して資本として現存するようになるや否や、その時にのみ労働者として現存するのであり、また資本が労働者に対して現存するようになるや否や、その時にのみ、労働者は資本として現存するのである。」(108頁)
 労働者が資本への転化を強制された商品に過ぎないとすれば、労働者は資本に転化する他の一切の諸商品と区別されることはなく、その価値についても同様であることが示される。
「資本としては、労働者の価値は需給につれて上昇するし、彼の現存、彼の生命もまた、他の全ての商品と同様、商品の供給〈として〉物的に理解されてきたし、現在も理解されている。(107頁)
 マルクスは、資本制生産に対するこの労働者の(他の商品と区別されないという)意義から、賃金について次の様に記している。
「従って労賃は、他の一切の生産用具の維持、修繕や、資本一般の、利潤(Zinsen)[22]を伴って再生産されるのに必要な消耗……などと、全く同じ意味を持っている。たから労賃は、資本及び資本家達の必要経費に属しており、その範囲を超えてはならないのである。」(108-9頁)
 要するに、労働者は資本制的生産過程で利潤を伴って資本を再生産するだけでなく、自分自身をも商品として再生産する、というのである。
「労働者は資本を生産し、資本は労働者を生産する。従って労働者は自分自身を生産するのである。そして……商品としての人間が、全運動の産物なのである。」(107頁)
 ところで、物質的な疎外は精神的な疎外をも含んでおり、前者は後者を生み出さずにはおかない。商品人間の生産という規定に対応して、資本制的生産は「労働者や資本家の不道徳、不具、奴隷主義」(109頁)をも生み出す。だが、労働者階級はどこまでも「自己意識を持った」存在であろう。
 確かに、以上の諸点は、その結論だけから言えば既に〔第一草稿〕前段において経済学者達の言葉を通して、市民社会の表象として確定されていた。だがこの〔第二草稿〕においては、資本の生産過程の考察を通して、資本制的生産とこれらの諸点との内的連関が解明されたのであり、この点の相違は決定的であろう。このことは、〔第二草稿〕が〔第一草稿〕後段と同様資本の生産過程を分析したものであり、諸法則を概念的に把握しようとするものであったことを意味する。このことは、〔第三草稿〕の次の一節によって疑間の余地のないものとなるであろう。
「われわれはすでに、国民経済学がさまざまな仕方で労働と資本との統一を措定している状態を見てきた。
(1)資本は集積された労働である。
(2)生産の内部での資本の規定:即ち、一部は譲渡利潤(Gewinn)を伴っての資本の再生産、一部は原料(労働の素材)としての資本、一部は自ら労働する用具としての資本(機械)……。
(3)労働者は一つの資本である。
(4)労賃は資本の費用の一部である。
(5)労働者との関係においては、労働は彼の生活資本の再生産である。
(6)資本家との関係においては、労働は彼の資本の一契機である。
(7)最後に、国民経済学者はこの両者〔資本と労働と〕の本源的統一を、資本家と労働者との統一として想定するが、これは天国のような原始状態である。これらの両契機がどのようにして二人の人格として対立的に分裂するかということは、国民経済学者にとっての偶然的な……出来事である。」(159-60頁)
 完全に保存されているところの〔第一草稿〕及び〔第三草稿〕の何れにも、ここに指摘されている諸点は見出せないのであるから、冒頭部分は、〔第二草稿〕を指すものと考えられる。実際、形式的に言っても、この一節は〔第二草稿〕XXXIX頁への付論になっており、内容的にも(3)〜(6)は本節で考察した内容にほぼ一致している。だとすれば、(2)が示している様に〔第二草稿〕では「生産の内部での資本の規定」が論じられていたのであり、資本の側から資本の生産過程が考察されていたと言えよう。
 ところで、引用文末尾部分に注目すると、マルクスがこの資本の生産過程を、資本と労働との統一としてしか見ない経済学者達を批判しつつ、それが資本と労働との一時的な統一と同時に分離の再生産の過程として把握し、展開していたことが推定できよう。マルクスは〔第二草稿〕における生産過程分析を、資本−利潤、土地−地代、労働−労賃という三位一体範式に陥っている経済学者達(特にセー)を批判しつつ[23]、^土地としての土地、地代としての地代は消滅し、土地所有は「利潤(gewinn)を伴って再生産される資本の範疇に転落」(165頁、111-2頁参照)し、(2)地代は「耕作されている最劣等地の利潤(Zinsen)[24]と最優等耕作地のそれとの差額」(111頁)であること、(3)「労働者は資本を生産し、資本は労働者を(商品人間として……大石)生産する」(107頁)ことを明らかにすることによって、利潤(地代を含む)と労賃の、従ってまた資本と土地と労働との分離の必然性を展開していたと思われる。
 特に、マルクスが先の引用文中の(2)で「利潤を伴っての資本の再生産」と規定している「一部」の資本は注目されるべきである。ここでのマルクスは「資本」で「原料」と「機械」と「労働」を指している。そして、この「利潤を伴って」資本を再生産する「一部」の資本を「原料」や「機械」としての資本から明瞭に区別しているのであるから、それは資本の一契機に転化している「労働」以外の何ものでもないのである。してみれば、ここでマルクスは、労働者が資本に転化することによって「労働者は資本を生産……する」(107頁)ことを明らかにしていたか、少くとも明らかにする予定であったと言えよう。
 これはマルクスが資本を「自己増殖する価値」として捉えたことを意味する。少くとも、その実質的内容を掴んでいるということは言えよう。そこで最後に、以上の〔第二草稿〕の内容が、「私的所有の関係」の残る一面であるところの「資本としての私的所有の関係」分析と如何に整合するかについて考えてみよう。
 以上におけるマルクスの分析は、飽くまでも「生産の内部での資本の規定」に過ぎず、生産過程分析に過ぎない。従って、ここで「利潤」の発生が説かれたと言っても、その「利潤」は古典派における「一般的利潤率」としての「利潤」ではない。ここでの「利潤を伴っての資本の再生産」とは、本質的に「剰余労働」の対象化であり、資本家(地主を含む)によるその領有を意味している。とすれば、〔第二草稿〕における資本の生産過程分析は、労働者の生命活動である労働を、資本が自己の活動の一契機として包摂・領有し、その生産物の支配を通して剰余労働を領有するという点で、「資本としての私的所有の関係」(=「労働者の労働と労働生産物に対する非労働者の関係」)分析に他ならないであろう。
 以上の考察から、〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕が「私的所有の関係」の二契機の各々を分析したものであることは明らかであろう。そこで次節において、これら両部分で資本が如何に概念的に把握されているかを改めてより詳しく考察してみよう。

 B 「商品」−「私的所有」−「資本」
 「労働者は資本を生産……する」と言う記述は、われわれに次のことを思い出させる。即ち、「事実」において、労働者が生産するものは「商品」ないし「富」と規定されていたこと、そしてこの「事実」が「労働者と生産との間の直接的関係」(90頁)の視角から分析された際には、「労働者は疎外された……労働を通して、……私的所有」(101-2頁)を生み出すと再規定されていた、ということである。そこで「商品」「私的所有」「資本」が、各々「生産物」を如何なる次元で如何なるものとして規定したものであるかについて考察してみよう[25]。
 まず「商品」を考えるに際しては、「富」概念が有効であろう。『セー評註』において明確にも「富」とは「交換価値の総和」として把握されているのであり[26]、それは「商品」についても同様であろう。分析の出発点としての「事実」においては、賃労働において営利労働が完成し、生産物が「市民社会のありとあらゆる生産と運動の肢体の中にひそむ貨幣魂[27]」として生産されていることが表象として示されているのである。
 では、この「商品」が「私的所有」と再規定されたのは何故であろうか。「事実」の分析から、この「事実」の概念を「疎外された労働」と定式化した後で、この概念から「私的所有」が展開されたのであり、その展開過程はこうであった。即ち、「人間の自分自身に対する関係は、他の人間に対する彼の関係を通して、彼にとって始めて対象的・現実的であるという命題」(100頁)を媒介にして、「疎外された、外化された労働は、現実においてはどのように現われ、表現されざるを得ないかを考察」(99頁)した時、「労働者は疎外された、外化された労働を通して、労働にとって疎遠な、そして労働の外部に立つ人間の、この労働に対する関係を生み出す」(101-2頁)ことが明らかにされたのである。従って、ここでの「私的所有」概念は、この「生産をしない人間の、この生産や生産物に対する支配」(101頁)関係であり、「所有関係」(106頁)に他ならない。次の引用文で、前半と後半が「従って」で接続されていることが注目されなければならない。
「労働に対する労働者の関係は、労働に対する資本家の……関係を生み出す。従って、私的所有は、外化された労働の、即ち自然や自分自身に対する労働者の外的関係の、産物・果実であり、必然的帰結なのである。」(101頁)
 従って「私的所有(Privateigentum)」とは、具体的には「生産物」ないし「商品」としての「私的所有物」である。例えば、「外化された労働の物質的、総括的な表現としての私的所有」(106頁)という時などはそうであろう。だがその時でも、その「生産物」ないし「商品」は非労働者の手に属している点が強調された「所有関係」(106頁)なのであり、その意味で「私的所有権」でもある。
 ではそうした「商品」や「富」は、何故〔第二草稿〕において「資本」と規定されているのであろうか。マルクスの「資本」の使用法に二種類あるので、この使用法から答えてみよう。
 第一の用法は、私的所有の他の形態と比較して、生産物が自己の内容に対して完全に無関心となっていることを示す場合である。
「人間の活動の対象が資本として、即ち、そこでは対象の一切の自然的・社会的な規定性が解消され、私的所有がその自然的・社会的質を失ってしまっている(従って一切の政治的・社交的な幻想が失われて、見せかけの人間的な諸関係が全く混っていない)……そういう資本として生産されること……云々。」(110頁)
 私的所有が「自然的・社会的な規定性」あるいは「質」を喪失するとは何を意味するのであろうか。〔第二草稿〕における動産と不動産に関する比較(〔表3〕参照)からそれが資本における一切の価値関係化を意味することが判明する[28]。つまり、「資本」の第一の用法は価値化の完成した「私的所有」である。
〔表3〕
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------
不動産                 動産
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------
「地主のロマンティックな自負──    「その身分の差別を失っており、
彼の称する社会的重要性や、彼の利    何も言わないと言うよりはむしろ
益と社会の利益との同一性」(111頁)  貨幣のことだけを言う資本と利子
                    (Interesse)」(111頁)
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------
「労働はなおまだ外見上の社会的意義を、  「労働の必然的発展は、自由に放任
なおまた現実的な共同体の意義を持ってお  された産業……そして自由に放任
り、まだ自己の内容に対する無関心にまで  された資本である」(112頁)
……到達していない」(112頁)
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------
「彼の政治的重要性……彼らが、国民経済  「狡滑な、金銭ずくの……貪欲な、
的に語るとすると、農業だけが生産的であ  ……共同体からのけものにされて勝
る」(113頁)              手気ままに売買する……一切の社会                        的紐帯の解体をもたらし育て増長さ                        せる……金もち無頼漢」(113-4                         頁)
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------
「享楽欲」(116頁)           「所有欲」(116頁)
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------
「私的所有の他(貨幣以外……大石)の形態」 「貨幣」(116頁)
(116頁)
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 「資本」使用の第二の用法は、利潤を伴って再生産される「蓄積された労働」という場合である。その典型は、次の一節である。
「われわれが既に見たとうり──他の一切の所有と同様に、土地所有が、利潤を伴って再生産される資本の範疇に転落しなければならないような時期が必然的にやってくるだろう……云々。」(165-6頁)
 事実既に見た様に、「生産の内部での資本の規定」を考察して、労働者が利潤を伴って資本を再生産することが、生産過程における利潤の発生[29]が明らかにされていたのである。
 以上の考察から、次の様な結論が引き出せよう。まず第一に、〔第一草稿〕後段における「私的所有」や〔第二草稿〕における「資本」は、「生産物」ないし「商品」を、分折が労働者と生産との関係、資本家と生産との関係へと進むのに応じて、より具体的に規定したものに他ならない。つまり、〔第一草稿〕後段で予告されていた様に、「資本」は「生産の内部での資本の規定」を媒介として、「疎外された労働」と「私的所有」──活動と生産物──の二要因の「より規定された、そして発展させられた表現」(104頁)として発生的に叙述されたのである。
 第二に、〔第二草稿〕においては価値視点が導入され、資本が生産過程における「他人の労働と労働生産物に対する指揮命令権能」であることによって自己増殖することが概念的に把握されたのである。
 第三に、この労働者による利潤を伴っての資本の再生産(=商品の生産)過程は、同時に労働者が商品として再生産される過程であることが明らかにされ、資本と労働と土地所有の三者の分離が、つまり生産関係自体が、利潤(地代も含む)と労賃の分離として再生産されることが析出されたのである。従って、『経済学・哲学草稿』における「経済学批判」の内容は、資本の直接的生産過程の二面的分析を通しての「労賃」と「利潤」の発生的叙述に他ならないであろう。

 C 私的所有の頂点としての資本

 われわれはこれまで、〔第二草稿〕の現存部分の内、商品人間の生産と精神的不具の生産に関する部分(^と_)を考察してきた。そこで今度は、残る`とa(動産と不動産の対立に関する記述と、労働と資本の「両項が経過しなければならない運動」に関するスケッチ)について考察しよう。ただ、これらの箇所の理解は〔第一草稿〕後段末尾における「二つの課題」(104頁)の理解と密接な関連を持っており、歴史説もこれら三箇所を論拠としていたのであった。そこで以下においては、これら三箇所を順次検討しつつ、論理説の正しさを論証してみよう。

  a 「二つの課題」の意義・性格・答え方
 この「二つの課題」が、〔第一草稿〕前段での「二つの問い」(28頁)をより高い次元で再設定したものであることは明らかであろうが[30]、これら二箇所での課題の次元の相違を理解するためには、
^ 何故ここで再び設問されなければならなかったのか、
_ この「二つの課題」と「疎外された労働」概念とは、何処で、如何に関係しているのか、
を明らかにする必要があろう。
 マルクスが言うように、人類の発展史の中で私的所有を位置づけるためには、私的所有を単なる対象的富(=物)と看做す没概念性が止揚され、人間の存在様式・労働様式の問題として理解される必要がある。逆に言えば、経済理論としての価値論・剰余価値論によって、私的所有の歴史上の意義が解明されるのではないだろうか。
 この認識の転換は、ケネーによってその第一歩を踏み出し、スミスを経てリカードウにおいて一応の完成を見た。人間の外部に存在する貴金属だけを富と看做す重商主義に対して、ケネーの重農主義は農産物商品を対置することによって、「富の対象・素材(に)……自然の限界の中で最高の普遍性を」(122頁)与えると同時に「富の主体的本質(を)、既に労働へと移」(123頁)したのである。彼らによって、富は土地と農耕労働として捉えられたのである。しかし、ケネーにあっては富の主体的本質は農耕労働という特殊な形態でしか認められないのであり、これを「労働一般」(123頁)として始めて捉えたのがスミスであった。しかし、このスミスも時折重農主義に逆戻りしており(111頁参照)、徹底して「労働を国民経済(学)の唯一の原理にまで引きあげ」(110頁)たのは、リカードウとミルに他ならない。
 だが、リカードウにおける古典派労働価値説の完成は、同時に、スミスにおいて感得されていたところの、単純商品生産と資本制的商品生産との歴史的種差の完全な払拭でもあったのである[31]。従って、古典派の労働価値説は「資本」が「蓄積された労働」に他ならないことを明らかにしても、逆にその「蓄積された労働」が如何にして「資本」となるかという点については何の解答も与えない。これは古典派が「交換価値を措定する労働」の実体と形態を正しく捉えていないと言うことを意味する。
「彼らは私的所有をその活動的な形態において主体とし、従って正に人間を本質とすると同時に、非本質としての人間を本質としているのである。」(122頁)
 これに対して、対象化と疎外とを区別し、「事実」の概念を「疎外された労働」と定式化したマルクスは、私的所有の主体的本質を「非本質としての人間」の労働として捉えたのである。これは価値論次元では、価値の実体が労働の社会性(=類)の疎外された形態に他ならないことを掴んだことを意味するであろうし、更にこれを剰余価値論次元で見れば、資本を他人労働の領有として、自己増殖する価値として把握したことを意味するであろう。
 そこで問題になるのが、疎外されているものが何であり、この疎外の止揚が人間に何をもたらすのかである。要するに、この疎外が人類の発展史の何処に、如何なる根拠を持つかが明らかにされない限り、その疎外を止揚する可能性(諸条件)や意義もまた不明なまま終ることになる。マルクスが表象段階での「二つの問い」と答えとは別に、概念段階で新たに「二つの課題」を設定した意味は、ここにあるると思われる[32]。
 さて、以上の考察から、この課題の性格が純・理論的なものであることも判明しよう。「疎外された労働」の歴史的な生成−発展─消滅自体は〔第一草稿〕前段に属することであり、〔第一草稿〕後段ではその歴史的発展の論理的必然性が問われているのである。従って、この「二つの課題」は歴史説の論拠にはならない。
 ところで、マルクスはこの「二つの課題」に対して、少なくとも〔第一草稿〕後段においては、解答を与えてはいない。しかし、ここで著者が注目するのは、〔第一草稿〕の終わり方である。マルクスは「二つの課題」を設定した後、「(1)について」(105頁)と記しながら、これまでの考察が「私的所有」の関係の内の一面(労働と労働生産物に対する労働者の自己関係)に限定されていたので「次にわれわれは、労働と労働者にとって疎遠なこの人間の、労働者に対する関係……を考察することにしよう」(106頁)と続け、この関係の概略をメモしている。このことは、マルクスがこの残る一面の分析を通して先の課題に答えようとしていたことを示しているように思われる。
 そこで次に問題になるのは、この解答が一体何処で、如何に、「資本としての私的所有の関係」の分析と関連するかであろう。私見に依れば、〔第二草稿〕においては、「資本としての私的所有の関係」の分析から析出される「私的所有」の主体的・容体的「抽象」性の完成を基準にして、資本の、従ってまた「疎外された労働」の生成−発展−消滅の論理的必然性が開示されている。そこで著者には、資本が私的所有の発展の頂点であるという点で、そしてこの頂点から始めて生成と消滅の論理的必然性も洞察しうるというように、先の課題の解答と「資本としての私的所有の関係」との関連を押え得るように思われる。以下、動産と不動産との対立に関する記述と、資本と労働の運動に関するスケッチに即して、この点を論証してみよう。

  b 動産と不動産の対立に関する記述
 〔第二草稿〕は、本章A節で考察した内容に続いて、私的所有の関係が二面から成ることを確認した後、次の様に敷衍している。
「人間の活動が、労働として、従って自分に全く疎遠な、人間や自然に全く疎遠な活動として、従って意識や生命発現にとっても全く疎遠な活動として生産されること、人問が単なる労働人間として、従って毎日その充実した無から絶対的な無ヘ、彼の社会的(gesellschaftlich)な、それ故その現実的な非存在へと転落するかも知れないものとして、抽象的に実存すること、/また──他方では、人間の活動の対象が、資本として、即ちそこでは対象の一切の自然的・社会的規定性が解消され、私的所有がその自然的・社会的質を失ってしまっている……―−そういう資本として生産されること、/こうした対立が極端にまで推し進められるとき、それは必然的に〔私的所有〕の全関係の極点、頂点となり、そしてその没落となる。」(110-1頁)
 この引用文には、(1)資本関係においては、私的所有は主体的(労働)にも客体的(対象)にも抽象化が頂点にまで推し進められること、(2)その頂点は、その没落を示すこと、の二点が語られている。後者の論点は次項に譲り、今前者の「描象性」の問題について考えてみよう。
 資本関係における私的所有の一切の「規定性」ないし「質」の喪失とは、直接的には、人間の生産的活動が他の一切の機能や生産手段から分離・抽象され、単なる労働力、働き「手」と化しているのと同様に、その労働が何処に投下され、何に対象化されているかが問われなくなっていることを意味している。私的所有の歴史的発展をその主体的・客体的内容から見ると、その発展はこの内容の「抽象化」の発展に他ならない。ここで「発展」と言えるのは、歴史上の後続形態がそれに先行する諸形態を含みながら、より抽象度の高い形態に普遍化しているからである。
「土地所有と対立する産業……の主体的本質が捉えられさえすれば、この本質が自分の中に自分のあの対立物を含んでいることは、直ちに自ずから理解される。というのは、止揚された土地所有を産業が包括しているのと同様に、産業の主体的本質は同時に土地所有の主体的本質をも包括しているからである。」(124頁)
 〔第二草稿〕の現存部分の半分強を占める、動産と不動産との対立に関する記述でマルクスが展開しているものは、断じて私的所有の歴史的展開ではない。そうではなく、資本の生成−発展の論理的必然性である。即ち、資本がその抽象性故に以前の私的所有の諸本質を包括しており、発展の現実的進行において、如何に「完成せる私的所有の、未完成な中途半瑞な私的所有……に対する必然的な勝利」(116頁)が生じて来ざるを得ないかなのである(〔表3、4〕参照)。
〔表4〕
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
動産                 不動産
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
「一般的に言って、運動は       不動性に対して、
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
公然たる、自覚的な俗悪さは      隠蔽された、無意識的な俗悪さに対して、
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------
公然たる、休みない、如才のない、   地方的な、世才にたけた、愚直な、怠惰
啓蒙の利己は、            で空想的な、迷信の利己に対して、
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
また貨幣は、             私的所有の他の形態に対して勝利せずには
                   おかないのである。」(116頁)
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 〔第一草稿〕前段での「二つの問い」の場合にも「抽象的な労働」(28頁)が中心であった様に、〔第一草稿〕後段での「二つの課題」においても、〔第二草稿〕での「資本としての私的所有の関係」の分析から析出された、私的所有の主体的・客体的内容の「抽象」度が中心役割を持っている。
 私的所有の歴史的発展それ自体は、〔第一草稿〕前段の表象確定次元においてすら資本把握に基づいて展開されていたのであって、〔第一草稿〕後段以後の「概念的把握」次元では問題になり得ないのでる[33]。
 次に、資本と労働の「両項が通過しなければならない運動」に関するスケッチについて考察してみよう。

  c 両項の運動に関するスケッチ
 〔第二草稿〕未尾のスケッチとは、以下のようなものである。
「第一に、──両項の直接的な統一と媒介された統一、資本と労働は最初はまだ一つになっている。次に確かに分離され、疎外されるが、しかし積極的な諸条件として、相互に助長しあい、促進しあう。
 〔第二に〕、両項の対立、それらは相互に排斥しあう。労働者は資本家を自分の非現存として知るが、その逆もまた同様である。双方とも他方からその現存を奪い取ろうと努める。
 〔第三に〕、各自の、自己自身に対する対立。/資本=蕃積された労働=労働。このようなものとして、資本は自己とその利潤(Zinsen)とに分解し、同様にこの利潤は利子(Zinsen)利潤(Gewinn)に分解する。資本家の徹底的な犠牲。彼は労働者階級へと没落し、同様に労働者は──しかしただ例外的にのみ──資本家になる。/資本の契機、その費用としての労働。従って労賃は資本のささげる儀牲である。労働は自己と労賃とに分解する。労働者そのものは、一つの資本、一つの商品である。/相互的な諸対立の衝突。」(117-8頁)
 一見すると、このスケッチは歴史説に有利に見えるかも知れない。「第一に」、〔第二に〕や〔第三に〕の真ん中部分などを見る限りはそうである。だが〔第三に〕全体をよく読めば、この部分が諸範疇の展開順序を示すものであることが判明しよう。この部分をエンゲルスの『国民経済学批判大網』、マルクスによるその要約[34]、『ミル評註』でのスケッチ[35]等と比較・対照すれば、「資本の自己と利潤への、利潤の利子と利潤への分解」や「労働の自己と労賃への分解」は疑問の余地なく経済学的範疇の展開順序を示すものであることが判明する。そこでこのスケッチを経済学的範疇の展開順序を示すものとして解釈し直してみよう。
 〔第二に〕で示されていることは、〔第二草稿〕の内容と一致している。後者においても、「労働とは自己にとって失われた人間であるということが、資本のところに客体的に存在するのと同様に、資本とは自己にとって完全に失われた人間であるということが、労働者のところに主体的に存在する」(107頁)ことが明らかにされていたからである。更にその前頁(XXXIX頁)に対する付論でも、「所有の排除としての私的所有の主体的本質である労働と、労働の排除としての客体的労働である資本とは、その発展した矛盾関係としての私的所有……である」(126頁)と注記されていたのである。
 従って、〔第二に〕が「両項の対立」とされているのは、資本の生産過程が労働と資本との対立の過程であること、結局それは労働の自己矛盾の過程に他ならないことを要約したからであろうと思われる。
 資本の直接的生産過程とは、蓄積された。過去の労働と生きた労働との対立であり、この生産過程においては無所有と所有の対立も「私的所有そのものによって定立された」(126頁)矛盾にまで発展していると把握されるのである。
 「両項の対立」が、資本の直接的生産過程分析である〔第二草稿〕に対応するとすれば、それに先立つ「第一に」の「両項の……統一」とは、〔第二草稿〕に先行する〔第一草稿〕後段か、生産過程に先行する「資本と労働の交換」の第一過程の何れかを意味することになろう。著者は、これらの内の前者を採用したい。
 その理由は第一に、資本と労働との「統一」は、経済学者達が「生産」において見出した唯一の側面であり、この「生産」における「統一」面の中に「対立」をも「見出」たのがマルクスだったからである。
 従って第二に、当然にもエンゲルスの『国民経済学批判大綱』でも「生産」の中に「統一」を見ているからである[36]。
 第三に、〔第二に〕において〔第二草稿〕が要約されているとすれば、「第一に」が〔第一草稿〕後段の要約であると考えた方が自然な解釈だからである。
 実際また、〔第一草稿〕後段では、自然(労働対象と労働手段)は人間(労働)にとっての「非有機的身体」(94頁)であり、「人間が死なないためには、それ(自然……大石)との不断の〔交流〕過程の中に留まらねばならない」(94頁)ことが示されていたのである。
 このように考えてゆくと、資本と労働との「直接的な統一」と「媒介された統一」とは、資本制的生産過程が繰り返されるに従って労働と生産手段(資本)との分離が再生産されることを意味しているように思われる。
 最後に、〔第三に〕の真ん中部について考えてみよう。この部分の表象は〔第一草稿〕前段において、既に次のようなものとして確定されていた(49-50頁参照)。

諸資本の蓄積モ諸資本の競争激化モ利潤率・利子率の低下モ小資本家・金利生活者の没落

 従って、範疇展開としては、上記部分は利潤率・利子率の低下を意味しているように思われる。マルクスはこの利潤率の低下法則が、蓄積の結果である限りでは私的所有の関係の「極点、頂点」(111頁)であると同時に、それが資本の本来の目的である利潤の低下である限りでは「その没落」(111頁)を意味していると理解している。従って、上記部分は次の内容と理解できる。
「諸利潤(Zinsen)の低下が資本の止揚の一徴候であるのは(プルードンとは違った意味で……大石)ただ、それが資本の完成しつつある支配の一徴候、つまり完成しつつある疎外の、従って自らの止揚へと急ぎつつある疎外の一徴候である限りにおいてである。これが一般に現存するものがその反対のものを確証する唯一の仕方である。」(166-7頁)
 ここに至って、先に保留しておいた「発展の頂点は没落である」という洞察が範疇展開において実現されていることに気づく。
 このように〔第三に〕は資本制的生産の総過程での範疇展開を示しており、スケッチ全体もそれ以後の範疇展開のためのメモであると思われる。その際重要なことは、私的所有の発展の頂点である資本の生産過程の分析から剔出された私的所有の本質から、経済学的諸範疇が展開される(近代市民社会が個と類の分裂した社会として解剖される)と同時に、その範疇展開を通して資本の生成−発展−消滅の論理的必然性も開示される、ということである。
「労働が私的所有の本質として捉えられることによって始めて、国民経済的運動自体もまた、その現実的な規定性において洞察されるのである。」(168頁)
 ここにわれわれは弁証法的方法の生成を確認できるであろう。経済学的諸範疇の発生的展開を通しての近代市民社会の構造と運動の概念的把握の原理は、私的所有関係の発展の頂点としての資本関係の本質、就中、その第一規定としての「疎外された労働」概念の二つの構成部分なのである。


おわりに

 本章において著者は、『経済学・哲学草稿』〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕について、両部分の関係、『経済学・哲学草稿』中での位置、そこにおけるマルクスの論理展開を考察してきた。この基礎作業を通して、次の三点が示されたと思う。
 まず第一に、〔第一草稿〕前段は「表象」確定作業であり、〔第三草稿〕は〔第二草稿〕ヘの「付論」である。これに対して、〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕とは表象を「概念」へ加工した箇所である。従って、『経済学・哲学草稿』における「経済学批判」とは、この〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕を措いて他にはない、ということ。
 第二に、この〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕とは、資本の直接的生産過程の二契機を分析したものである。その二契機とは、「外化された労働の自分自身に対する関係(と)……その必然的結果として(の)……労働者及び労働に対する非労働者の所有関係」(105-6頁)である。この二契機の分析を通して、資本の自己増殖が「資本の本質」(=「疎外された労働」概念)から概念的に把握されると同時に、生産関係それ自身も再生産されることが解明された。従って、『経済学・哲学草稿』における「経済学批判」は、単に「絶対的剰余価値論」の成立であるばかりでなく、「蓄積論」の成立でもある。
 これは1861-3年の『経済学批判』の原稿[37]での篇別構成に似ており、その意味では、『経済学・哲学草稿』での「経済学批判」は「貨幣の資本への転化」論の成立であったと言えるかも知れない。
 第三に、この資本の本質把握は、単に近代市民社会の構造理解の要に留まるものではない。土地所有に始まる私的所有の発展の頂点である資本の本質把握は、資本の生成−発展−消滅の論理的必然性の洞察をも可能にするのである。従って、『経済学・哲学草稿』における「経済学批判」の成立は、同時に弁証法的方法の成立でもあった、ということである。
 勿論、『経済学・哲学草稿』における「経済学批判」には、資本の直接的生産過程論としても、「相対的剰余価値論」はその萌芽すら存在しないのであるから、その未熟性は明白であろう。だが逆に言えば、「絶対的剰余価値論」しか存在しないと言うことは、マルクスがこの「絶対的剰余価値論」を原理として自己の「経済学批判」を形成していったことを示しているのではないだろうか。そしてこのことが『経済学ノート』における古典派労働価値説批判を理解する一つの、しかし決定的な鍵ではなかろうか。著者には、古典派からマルクスヘの移行がスミスのcommand論の読み替えによって達成された様に思われる。しかし、この初期マルクスの古典派労働価値説批判と『経済学・哲学草稿』における「三位一体的統一」の構造の説明・展開については第三部に譲らざるを得ない。


巻末注********************************

[1]. 「概念」の意味については、『経済学・哲学草稿』岩波文庫、258-9頁、青木文庫、130頁参照。

[2]. Lapin, N. I., Vergleichende Analyse der drei Quellen des Einkommen in den "Oekomisch-philosophischen Manuskripten" von Karl Marx, in Deutsche Zeitschrift fuer Philosophie, Heft 2, 17. Jahrgang, 1969. 細見訳「マルクス『経済学・哲学草稿』における所得の三源泉の対比的分析」『思想』(1971年3月号)。

[3]. 水谷謙治『労働疎外とマルクス経済学』(青木書店、1974年)、Lapin, N. I., Der junge Marx, Diez, Berlin, 1974、バガトゥーリヤ著、岡田・中野訳『マルクスと経済学の方法』(下巻)(1978年、大月書店)、Sozialistische Studiengruppen, Entfremdung und Arbeit, VSA Verlag, Hamburg, 1980等を代表者としている。だが、ここではMarx, K., Oekonomisch-philosophische Manusckripte, Philipp Reclam, 1974の編集者の様な論理=歴史説も含めて考えている。何故なら、この立場も〔第二草稿〕の内容を私的所有の諸形態を歴史的に展開したものと看做しているからである。

[4]. 畑孝一「『経済学・哲学草稿』 1」(『マルクス・コンメンタール氈x現代の理論社、1972年)、服部文男「『経済学・哲学手稿』の『第二手稿』および『第三手稿』をめぐって」(『社会科学と諸思想の展開』創文社,1977年)、橋本直樹「<経済学批判>の端緒的形成」(『商学論集』48-2)等を代表者とする。

[5]. 水谷謙治前掲書、39頁。

[6]. バガトゥーリヤ著、岡田・中野訳『マルクスと経済学の方法 下』(大月書店、1978年)、70頁。

[7]. この推定は『ミル評註』ロシア語版編集者によるものであり、その内容については、服部文男「『経済学・哲学手稿』の『第二手稿』および『第三手稿』をめぐって」、『社会科学と諸思想の展開』(創文社、1977年)、63-4頁を参照。

[8]. この箇所の重要性は古くから注目されていたと言える。例えば、Benary, A., Graul, H., Zur Entstehung der oeconomischen Lehre von Karl Marx, in Wirtschaftswissenschaft, Berlin, Heft 3, S. 326。
 しかし、これまでのところ、この箇所から〔第二草稿〕の内容を推定したのは、橋本直樹「<経済学批判>の端緒的形成」(『商学論集』48-2号)だけであろう。ただし、氏においてもラーピンの推定執筆順序が前提されており、この部分は十分活用されないまま終わっている。

[9]. もともと論理説の立場に立つ研究者が少い上に、畑氏もこの点では歴史説に近く、論理説からの歴史説批判としては、この服部氏の見解ぐらいしか見出せない。

[10]. 服部文男「『経済学・哲学手稿』の『第二手稿』および『第三手稿』をめぐって」、『社会科学と諸思想の展開』(創文社、1977年)、69頁。

[11]. 'die wahre Einbuerderung'の訳は、「真の市民権の獲得」(岩波・青木文庫)、「真の〔同胞市民にする〕帰化」(国民文庫)、「真の同化」(『全集』版)、'becoming a citizen'(Marx, K., Economic and Philosophic Manuscripts of 1844, Progress Publishers, Moscow, 1974.)と雑多である。この訳語の相違は、この箇所全体についての解釈の相違から生したものである。岩波文庫(259、310頁)と国民文庫(「仏訳者の脚注から」の注4)は、この箇所を疎外の克服に関する記述と解釈し、Progress Publishers版は「諸個人の、市民社会の一成員への転化」(p.187)、Marx, K., Oekonomisch-philosophische Manusckripte(Philipp Reclam, 1974)は「私的諸労働の社会的諸労働への転化」(S.305)と解説している。
 このEinbuergerungには「市民権の獲得」以外にEingewoehnung fremder Tiere u. Pflanzen in einem anderen Land (Duden, Das grosse Woerterbuch der Deutschen Sprache)の意味があり、これに対応するのはnaturalization(英)であり、「馴化」ないし「順化」(「気候の異なる土地に移された生物が、次第にその環境に適合するような体質に変しること」(『広辞苑』)であろう。
 本章の様に、この規定を「資本家の、労働者の労働と生産物に対する関係」に関する規定と解釈するとき、この関係について記されている次の一節も生きてこよう。
「労働者が自分自身〔の意〕に反して行なうすべてのことを、非労働者は労働者〔の意〕に反して行なう。しかし、労働者〔の意〕に反して行なうことを、非労働者は自分〔の意〕に反して行なうことはない。」(106頁)

[12]. 著者が〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕との表裏一体説の基本的モチーフを得た当時(1977年3月に横浜国立大学へ提出した修士論文)、著者はバガトゥーリヤ論文(この原著は1976年)の存在を知らず、著者の見解を書誌的に裏付けることはできなかった。しかし、今や、彼の研究の中に、著者は自己の書誌的裏付けを見出す。〔第二草稿〕ヘの付論である〔第三草稿〕で、〔第二草稿〕のXXXVI頁とXXXIX頁への付論しかないことは、バガトゥーリヤも推定している様に、〔第二草稿〕が(〔第一草稿〕の続き番号である)XXVIIから始まっていたと考える方が自然であろう(バガトゥーリヤ著、岡田・中野訳『マルクスと経済学の方法 下』、63-4頁)。ただし、〔第二草稿〕の内容推定に関しては、著者は彼に同意するものではないことは、「節で示されよう。

[13]. その典型は、スミスのcommand論であり、この点については、本書前章を参照。

[14]. 本章注11及びその本文を参照。

[15]. 初期マルクスにおいては「労働手段」の持つ意義が重視されていなかった、という議論(大井正『唯物史観の形成過程』未来社、1968年、115頁)があるが、これには疑問がある。なるほど、〔第一草稿〕後段と〔第二草稿〕で「労働手段」に直接に触れているのは、次の二箇所に過ぎない。
「自然……は、労働者の労働がそこにおいて実現され、……それを手段として(mittelst)生産する素材である。」(88頁)
「人間の普遍性は、実践的には正に、自然が……人間の生命活動の素材と対象と道具であるその範囲において……現われる。」(94頁)
 しかし、労働者の生産諸手段(資本と土地)からの分離が、賃金、利潤、地代の分離として如何に再生産されるかは、これら両部分での中心テーマであることを忘れてはならない。問題は、論理の次元で問われているのである。

[16]. 物象化論者に依れば、「疎外された」ということは「疎外されない労働」(加藤栄一「疎外と物化」『思想』1962年10月号、19頁)や本源的な「共同体的に現われる労働」(清水正徳『人間疎外論』紀伊國屋新書、1971年、50頁)を前提する立論とされる。例えば清水氏は、当時のマルクスは疎外するものである資本を見なかったと述べている(同上書、52-5頁)。
 だが、その「資本」を概念的に把握することこそがここでの課題なのである。

[17]. 本書前章参照。

[18]. 梯氏はこの「私的所有」を無媒介に「資本」と解釈している(梯明秀『ヘーゲル哲学と資本論』未来社、1970年、195-6頁)。だが、マルクスは「疎外された労働」と「私的所有」から「資本」を展開すると述べている(104頁)のであるから、この解釈は問題である。ところが、通常は、この梯氏の理解に立って、マルクスにおける資本と私的所有一般の混同が言われる(例えば、遊部久蔵『マルクス経済学』未来社、1968年、30頁)。「私的所有としての資本」(畑孝一「『経済学・哲学草稿』 1」、『マルクス・コンメンタール 氈x現代の理論社、1972年、132頁)、「商品資本」(内田弘「マルクスにおける市民社会と国家」『経済評論』、1980年6月号、86頁)と言われるが、こうした解釈にも、この段階では「資本」として積極的に展開されていない理由が示されていない。廣松氏に至っては、「私有財産制」(廣松渉『マルクス主義の地平』勁草書房、1969、244頁)とされる。ここでの「私的所有」を正しく捉えているのは藤森氏だけではなかろうか(藤森俊輔「唯物史観の形成過程」『法経学会雑誌』18-3号、232頁)。

[19]. 富塚良三『蓄積論研究』未来社、1965年、352-3頁参照。岡崎氏は、正しくもこの両規定を『資本論』第一巻 第三篇 第五章 「第一節 労働過程」末尾の、労働過程が資本家による労働力の消費過程として行なわれるときに呈する「二つの独自的現象」の萌芽として捉えている(岡崎栄松『資本論研究序説』日本評論社、1968年、129頁)。

[20]. 坂本和一「『資本論』における産業資本の直接的生産過程論」『立命館経済学』21-3・4合併号、101頁。

[21]. 『資本論』の「労働過程」全体が超歴史的であるとする通説的理解に対しては、坂本和一「『資本論』における産業資本の直接的生産過程論」『立命館経済学』(21-3・4合併号)、表三郎「労働と所有の分離(下)」『現代の理論』123号、中村尚司氏等の批判がある。著者も後者の立場に立っている。
 坂本氏は前注の「二つの独自的現象」を資本の第一規定とされている。表論文、69頁の注^も参照。

[22]. マルクスは「資本は自己と利潤(Zinsen)とに分解し、同様にまた利潤(Zinsen)は利子(Zinsen)利潤(Gewinn)に分解する」(117頁)と記している。このZinsenとGewinnの使用法は『国民経済学批判大綱』におけるエンゲルスのそれ(KARL MARX‐FRIEDRICH ENGELS WERKE, Bd. 1, S. 511)とは逆である。この逆転は、多分「地代」の捉え方の相違に依るものであろう。

[23]. この視角によって、〔第一草稿〕前段でのProfitやGrundrenteに替えてGewinn, Zinsen, Interesseを使用し、「労賃」すら労働者の「資本のZinsen」と呼んでいることについての疑問(服部文男「『経済学・哲学手稿』の『第二手稿』および『第三手稿』をめぐって」、『社会科学と諸思想の展開』創文社、1977年、70頁、注5)も解かれ得るのではないだろうか。Rosenberg, D. I., 副島訳『初期マルクス経済学説の形成 下 』(大月書店、1971年)、188頁も参照。

[24]. 「賃料」(岩波文庫)、「利子」(青木文庫)、「賃貸料」(国民文庫および全集版)は訳語としては不十分であろう。というのは、この箇所はリカードウの差額地代論の要約であり、内容的に「超過利潤」と「一般的利潤」との差額となるぺきであること、更にまた土地所有は資本に転化しているというのがマルクスの主張だからである。前掲Dudenにもdas Kapital bringt, traegt Zinsenという用例があり、「利潤」という訳語が使われるべきであろう。

[25]. この使い分けに対応して、「非労働者」、「他人」は「資本家」と再規定される。福岡氏は〔第一草稿〕後段の「ある他人(ein anderes)」を「物象」と理解されている(福岡安則『マルクを〈読む〉』三一書房、1979年、80-6頁)が、これは「疎外された労働」概念の「第四規定」を無視するものであろう。〔第一草稿〕後段でも「資本家」(102、104頁)「財産家」(90頁)は使われているが、労働者と彼の労働および生産物の関係に強調点があるので、「他人」、「非労働者」の方が圧倒的に多いのである。

[26]. Karl Marx‐Friedrich Engels: Gesamtausgabe, Ab. IV, Bd. 2, Berlin, 1981.杉原・重田訳『経済学ノート』未来社、1962年、36頁参照。

[27]. 同前、90訳頁。

[28]. Marx, K.,村田腸一訳「フリーヒドリヒ・リストの著書『政治経済学の国民的体系』について」『経済』(1972年9月号)(1845年3月頃の執筆と推定されている)において、「交換価値は、『物質的財』の特殊な性質にはまったくかかわりがない。それは、物質的財の質にも、その量にもかかわりがない」(219-20頁)と述べ、このことを裏書きしている。参考までに、『経済学批判』の原初稿断片でも「特殊性の解消」即ち「政治的諸関係の解消」とは「交換価値」(Grundrisse der Kritik der politischen Oeconomie, Berlin, 1974, S. 873)化を意味している。〔表3〕及び『経済学・哲学草稿』岩波文庫、77-8頁も参照。

[29]. Vgl., Engels, F., Umrisse zu einer Kritik der Nationaloekonomie, in KARL MARX‐FRIEDRICH ENGELS WERKE, Bd. 1 (Berlin, 1961), S.511.

[30]. 〔第一草稿〕前段における「二つの問い」に対する解答については、前章参照。

[31]. この点については中村廣治「リカァドウの『不変の価値尺度』について」『経済論集』29-1・2合併号、16頁参照。

[32]. この課題の意義については、梅本克己『唯物史観と経済学』現代の理論社、1971年に負う所が多い。

[33]. 歴史説は〔第二草稿〕の紛失部分で、資本関係以前の私的所有の諸形態が扱われていたであろううと推測する。だが、「資本と土地との区別……工業と農業との、不動産と動産との区別は、事物の本質の内に根拠づけられていないなおまだ歴史釣な区別」(111頁)に過ぎないと見るマルクスに、そのような解釈を許す余地はないであろう。

[34]. KARL MARX‐FRIEDRICH ENGELS: GESAMTAUSGABE, Abt. II, Bd. 3, Teil 1, (Berlin, 1976), SS. 101-2.前掲『経済学ノート』、29-30訳頁。

[35]. 同前、訳106頁。

[36]. Vgl., Engels, F., Umrisse zu einer Kritik der Nationaloekonomie, in KARL MARX‐FRIEDRICH ENGELS WERKE, Bd. 1 (Berlin, 1961), S. 511.ただしエンゲルスの場合には「両項の対立」が欠如しており、「統一」と「分裂」しかない。これは、彼に「生産の内部での資本の規定」分析がないことと無関係ではあるまい。

[37]. KARL MARX‐FRIEDRICH ENGELS: GESAMTAUSGABE, Abt. II, Bd. 3, Teil 1, (『資本論草稿集 3』大月書店), SS. 101-2.