『ドイツ・イデオロギ−』第一篇の編集問題について

拓殖大学政経学部  大石 高久

はじめに

 所謂「唯物史観」と「経済学批判」は、従来のマルクス研究の中で極めて重要な概念であった。このことは、それらを書名の一部に冠した書籍が多いことから明かである。しかし、その「唯物史観」と「経済学批判」の内実及び両者の関係がどれだけ理解されてきたかは、大いに疑問である。このことは、「唯物史観」が成立したとされる『ドイツ・イデオロギ−』「第一篇 フォイエルバッハ」ーー以後、『ドイデ』と略記ーーの編集に問題があり、1974年の広松版の出版によって始めてその科学的研究が可能となったことからも推測できよう。国際的にみれば、特に英語圏では、未だ『ドイデ』の科学的版すら与えられていないのが現実である1 。
 勿論、編集問題は『ドイデ』を構成する諸草稿の配列問題に尽きるものではない。マルクスとエンゲルスの筆跡の明示、本文と挿入された章句の区別、本文の訂正過程等の問題がある。しかし、ここでは問題を配列問題にのみ限定し、それ以外の諸問題及び『ドイデ』で成立したとされる「唯物史観」や、それと「経済学批判」の関係については、別稿に譲る他ない。


第1章 『ドイツ・イデオロギ−』第一篇の構成諸部分

 『ドイデ』(「I. フォイエルバッハ」)の原稿は、大きく分けて次の三つから成る。即ち、1)「大きな束」、2)「小さな束」、3)1962年にバ−ネが発見した三葉の原稿の内の一葉--以後、{B}と略記--(残る二葉の位置は、既に確定済みである)。

  1. 「大きな束」について

   a. 「大きな束」の構成
 「大きな束」に属す原稿には、エンゲルスによるボ−ゲン番号--以後、{}内数字で示す--とマルクスによるものと判読されている頁番号--以後、「 」 内数字で示す--が存在する。1ボ−ゲンは4頁--以後、a〜dで示す--であるが、頁によっては内容が削除され、番号が打たれていない場合もある。ボ−ゲン番号と頁番号を対応させると、次のように、ボ−ゲン番号では三ブロック、頁番号では二グル−プから成る。
 1) 第1ブロック:{6}a=[8]から{11}c=[29]まで......
 2) 第2ブロック:{20}b=[30]から{21}d=[35]まで....}第一グル−プ
 3) 第3ブロック:{84}a=[40]から{92}a=[72]まで.... 第二グル−プ

   b. ボ−ゲン番号と頁番号について
 1)の {6}〜{11}には、本文執筆後マルクスによって「フォイエルバッハ」ないし「バウア−」と欄外に書き込みがなされている5 。更に、これらのボ−ゲンで抹消されている部分は「II. 聖ブル−ノ」ないし「III. 聖マックス」の本文に再現する6 。ボ−ゲン番号があっても頁番号がない場合があり、そうした頁はこの篇の原稿としては使用しない予定であったことを示している。例えば、{11}cが[29]だが、{11}dと{20}aには頁番号がなく、{20}bが[30]という具合である。つまり、頁番号の方がボ−ゲン番号よりも後に付けられており、頁番号に最大限従う必要性があることが判明する。これらの点から、次の諸点が判明する。
 即ち、マルクス・エンゲルスは先ず「II.」及び「III.」を執筆した。その後二巻本にすることに予定を変更し、「I. フォイエルバッハ」に関係する部分のみを取り出して集め、この篇の原稿として使用するものだけに頁番号を打った。これが「大きな束」である。従って、ボ−ゲン番号に従えば、少なくとも--{93}以降を考慮しないでも--、{1}〜{5}、{12}〜{19}、{22}〜{83}が欠損していることになるが、実際には、つまり頁番号に従えば、欠損部分は最大限[1]〜[7]、[36]〜[39]の11頁相当部分でしかない。ただし、「小さい束」をも考慮した上でないと、「大きな束」の頁番号が [1]から始まっていたか否かは即断できない。

  2. 「小さな束」について

   a. 「小さな束」の構成
 「小さな束」は7葉(ボ−ゲン)の原稿から構成され、その中の5葉は{1}から{5}のボ−ゲン番号のみを有する。しかし、残る二葉にはボ−ゲン番号も頁番号もない。アドラッキ−版に倣って、これらの二葉の原稿の各々を、{1?}及び{2?}と記すことにする。

   b. {1}〜{5}について
 ただし、エンゲルスによるものは{3}と{5}のみであり、他はベルンシュタインによるものと判読されている。尤も、{3}と{4}は形式・内容上、連続していることから、事実上エンゲルスは{3}〜{5}を一体と看做していたことになる。 
   c. {1?}及び{2?}について
 {1?}a-bは、形式及び内容上、明かに{1}の下書きである。ところが、{1?}c-dと{2?}は{2}の下書きではない。

  3. {B}について
 1962年にバ−ネが発見した三葉の『ドイデ』の原稿の内、二葉がこの章の原稿と推定されている。その内の1葉は、マルクスによる頁番号[29]によってその場所が確定している。残る一葉は、正確には紙片(c〜d面)であり、欄外に「フォイエルバッハ」とあり、表面に1、裏面に2と番号が付けられている。これらの番号は、マルクスによるものと判読されている。広松版以外の諸版は、この番号を直接に頁番号([1]と[2])と看做し、「大きな束」の前に位置付けている。しかし、広松氏が指摘するように、{B}で抹消されてい る文章は「第二篇」の冒頭部分に再現することから、その頁番号も第二篇の原稿としてのそれである可能性もある。


第2章 『ドイツ・イデオロギー』「第一篇」編集問題の性格

 以上の、『ドイデ』「第一篇」を構成する諸原稿の特徴から、編集問題の中心は次の点にある。即ち、「大きな束」を基本として、「小さな束」と{B}を「大きな束」の何処に配置するかにある。先ず最初に、マルクスの頁づけに従った、当初の編集案を作成した後、原稿の指示から考えられる編集案を作成することになる。これは、結局、マルクスの頁付けを最大限生かしながら、形式及び内容から判断して、「大きな束」の何処に「小さな束」及び{B}を位置付けるかの問題である。
 勿論、大・小二つの束のボ−ゲン番号が同じ性格であり、その番号順に並べて済むのであれば、『ドイデ』の編集は殆ど問題にはならなかったであろう。問題はそれほど単純ではない。「小さな束」のボ−ゲン番号の内、{1}と{2}はベルンシュタインによるものであり、その時期を特定できず、マルクスによる頁番号もないことから、マルクスやエンゲルスの意図した順序か否かは即断できないのである。従って、この章の編集問題を考える上で、大小二つの束及び{B}のボ−ゲンおよび頁番号の関係について、次の諸点が留意されるべきである。
 1) 「小さな束」のボ−ゲン番号{1}・{2}について言えば、それがベルンシュタインによって後の時期に付けたものであること。結局、マルクスとエンゲルスは{1?}、{2?}、{1}、{2}に如何なる番号も打たなかったことになるが、それはそれらの原稿の内容、性格と関係があるかも知れない。 {1}は本篇「緒論」の清書稿であり、その下書きと思われる{1?}及び{2?}にボ−ゲン番号がないことに対応している。{2}は「A イデオロギ−一般、特にドイツ哲学」の本文と思われる。
 2) {3}・{5}(実質的には{4}も)はエンゲルスによるものであること。エンゲルスは『ル−トヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』(1888年)を単行本として「印刷にまわす前に」7 、これらの原稿を再読している。従って、エンゲルスの手によるボ−ゲン番号が『ドイデ』執筆時点のものか否か、つまりその時点でマルクスも{3}〜{5}を連続するものと看做していたか否かは即断できない。マルクス自身の筆跡による頁番号がないからである。
 3) 「大きな束」の第一グル−プ(第一・第二ブロック)は完成原稿ではない。内容上、{6}a=[8]は{11}c=[29]と連関し、テ−マが循環している。従って、大・小二つの束の位置関係が判明しただけでは、原稿は完成した状態にはならないのである。それでも、一先ず、大小二つの束の位置関係が確定されなければならない。
 4) 他方、 {B}にはマルクスによる番号付け(1、2)はあるが、エンゲルスによるボ−ゲン番号はないこと。仮にこのマルクスによる番号が「大きな束」の頁番号と一連のものだとしても、内容的には、それは「第一グル−プ」への追加を意味するに過ぎない。後に述べるように、内容的には、 {B}は「第一グル−プ:第二ブロック」の最後で実質的に展開されている。
 5) {6}の頁番号の付け方が変更されていること。マルクスは、当初、{6}をエンゲルスのボ−ゲン番号を使いながら、[6b]〜[6e]と頁付けし、{7}と{8}の第1面も各々[7a]、[8a]と頁付けした後で、それを{6}を[8]〜[11]に変更し、{7}a以降は[12]以後の連続番号に変更している。この変更をどう説明するかである。
 以下、大・小二つの束と{B}の内容を検討しつつ、編集問題に答えてみよう。


第3章 『ドイツ・イデオロギー』の構造

  1. 「小さな束」

   a. {1?}・{2?}と{1}・{2}について
 {1?}a~bは、内容上・形式上、明かに{1}の下書き稿である。{1?}c~d・{2?}は、歴史の 唯物論的基礎が展開されると同時に、「生産様式」概念が見られる短い下書き稿である。その内容は、清書稿である{1}・{2}に再現せず、実質上、{6}c~d=<10>〜<11>で展開されていると思われる。しかし、その内容の重要性から、これを削除することには抵抗があろう。他方、{2}は{1?}b~cの抹消された箇所で予告されているところの、ドイツ・イデオロギ−一般に関する若干の考察である。従って、この部分は{1?}と{2?}の執筆段階には存在していなかった、新たな追加であり、その内容上、{1}からの{3}〜{5}からも独立している。{1?}b~cの抹消された箇所によれば、この論評が直ちにフォイエルバッハに向けられることになっている。
 MEGA2 は、{2}−{1}の順番に配列しているが、{1}−{2}の順に配列すべきである。その理由は、 {1}末尾の「一端ドイツの外部から眺めて見ることが必要である」に対応して、{2}で「ドイツ的批判は最近時に至まで、哲学の地盤を離れていない」ことが展開されているからである。

   b. {3}〜{5}について
この部分は一連のものと判断され得る。先ず第一に、{3}・{4}は形式的にも内容的にも連続している。第二に、 {5}は{3}・{4}の結論的部分であり、実質的には7頁分である。即ち、{5}aは次の文章で始まっている。
「事実はかくして、一定の諸個人、一定の様式で生産的に活動している諸個人が、この一定の社会的・政治的諸関係に入り込む。経験的観察は、どの個別的ケ−スにおいても社会的・政治的編成と生産との関連を、経験的に、一切のごまかしや思弁ぬきに提示するはずである」。
 {3}・{4}では、この生産と社会編成との関連が、所謂「資本家的生産様式に先行する諸形態」に即して提示されているからである。幾つかの例を上げれると、「一国民の他国民に対する関連のみでなく、当の国民そのものの内的編成もまた、総じて、その生産の発展段階ならびにその内部的、対外的な発展段階に依存している」({3}a)、「社会の編成は従って、、家族の拡張といったものに限定されており....」({3}b)、「これを土台にしている社会の編成全体」({3}c)、「土地占有のヒエラルヒ−的編成並びにこれと連関する武装従士制が農奴を支配する威力を貴族に与えた」({3}d)等である。従って、{3}〜{4}と{5}の連関を看過し、これを無関係とする広松氏の解釈には賛成できない8 。

   c. {1?}・{2?}および{1}・{2}と{3}〜{5}について
 元来{1?}・{2?}に{3}〜{5}が続くものと判断される。即ち、{3}・{4}で展開されているの内容(「当の国民そのものの内部編成も....総じて、それの生産の発展段階並びにそれの内部的・対外的な交通の発展段階に依存する」こと)は、{2?}末尾の文言(「諸個人が何であるかということは、彼らの生産の物質的諸条件に依存する。この生産は、....諸個人相互の交通を前提している」)に対応している。
 従って、「小さな束」の配列は、元来、{1?}・{2?}−{3}〜{5}であったと推定される。しかし、{1}が清書され、{2}が追加された段階では、必ずしも{3}〜{5}が続くものとはなっていない。

  2. 「大きな束」
 
  a. 第一ブロック:{6}〜{21}
 この第一ブロックでは、歴史記述において一切の前提を否定し、「天上から地上へと舞い降りる」({5}c)観念論的な歴史解釈に対して、現実に社会的活動している諸個人という現実的な前提から、「地上から天上へと上向する」({5}c)するマルクスとエンゲルスの歴史記述が対置される。

   b. {6}〜{8}:歴史記述の唯物論的基礎 (1)
 一定の社会的協働関係にある現実的諸個人の生の生産の分析。歴史における生産の意味をその内包、外延の全体において考察したもの。ここでは生産の次の五契機が考察される。即ち、@欲求充足手段の生産、A新たな欲求の生産、B他人の生産(生殖)、C自然的および社会的関係としての生産、D人間が意識を有すること。

   c. {9}〜{11}:歴史記述の唯物論的基礎 (2)
 歴史が世代の継承関係でしかないことが考察される。各々の世代は、先行する世代から引き継いだ生産諸条件のものと生産、再生産を行なうが、その再生産自体が生産諸条件の変革を生み出すことが記される。それと同時に、ドイツ・イデオロギ−の諸概念、例えば、老ヘ−ゲル派の「実体とか自己意識」や青年ヘ−ゲル派の「類とか唯一者とか人間」({2})等が現実的諸個人の歴史的発展からの「抽象」でしかないことが暴露される。
   d. 第二ブロック:{20}・{21}:補論。
   e. 第三ブロック:{84}〜{92}
    (1) {84}〜{91} 中世の土地所有以後の私的所有の発展段階を、分業の発展段階として、生産諸力と交通形態の発展段階として、「事物が現実に如何にあり、それは如何に生起したものであるかに即して事物を捉え」({6}b=[9])る。
    (2) {91}・{92}:補論:国家及び法の所有に対する関係

  3. 「小さな束」と「大きな束」の関係

   a. 頁づけ変更の意味するもの
 ここで、マルクスの頁番号変更問題を検討してみよう。既に述べたように、エンゲルスが6とボ−ゲン番号を付けた原稿を、マルクスは当初そのボ−ゲン番号を生かしながら[6b]〜[6e]と頁づけをした後、それらを [8]〜[11]に変更している。このことから、次の諸点が明かとなる。
 先ず第一に、[6b]〜[6e]と頁付けした時点で、{6}の前に5ボ−ゲン存在していたこと 。さもなければ、ボ−ゲン番号を生かす必要がなかったからである。
 第二に、その他に{6}の直前に1頁分の原稿が存在していたこと。でなければ、{6}の頁付けを[6b]から始める必要がなかったからである。
 第三に、新しい頁付けが [8]から始まっていることは、それに先立つ部分が5ボ−ゲンと1頁の原稿が7頁相当分であったこと。
 第四に、 {6}の最終頁を[6e]、{7}と{8}の各々の第一面を[7a]、[8a]と頁付けした後でその頁番号を変更したことは、その原因が[6e](=[11])にある可能性が強いことである 。つまり、当初[6a]に予定していた頁の内容を[6e]で発見した可能性が高いこと。

   b. 「小さな束」と「大きな束」の配列順序
 ところで、清書稿{1}・{2}が作成された段階で、清書されることなくそのまま残されていた{1?}c~d ・{2?}は、実質的に1頁相当分であり、[6e]と同様に「歴史記述」の「唯物論的土台」が展開されている。そこで、次のような推定が成り立つ。
 即ち、当初の「聖ブル−ノ」と「聖マックス」から『ドイデ』に使えそうな諸原稿を抜き出し、{1?}・{2?}・{3}〜{5}を追加した段階では、それらの諸原稿は、{1?}・{2?}・{3}〜{5}・{6}〜{21}({84}〜{92}については後述)の順序として予定されていた。
 次に、{1?}b~cの抹消された部分で予告した、「ドイツ哲学並びにイデオロギ−総体に関する若干の一般的論評」を書き足した。この段階で、原稿は{1}・{2}にフォイエルバッハに向けた論評が、即ち{1?}c~d・{2?}、{3}〜{5}、{6}以降が「B フォイエルバッハ」章として続く形となり9、「歴史記述」の「唯物論的土台」を展開した{1?}c~d・{2?}の一頁相当部分を{6}の冒頭に、即ち[6a]として予定した。
 ところが、{6}に[6b]~[6e]と頁付けたところで、[6e]以降でも「歴史記述」の「唯物論的土台」が展開されていることを発見し、{6}を[8]〜[11]に変更した、と。もしそうだとすれば、{1?}c~d・{2?}は実質的に放棄されたことになる。この場合、{1}・{2}に頁番号がないのは、{1}と{2}が「A」章の「緒論」と「本文」と想定されているからと考えられる。
 勿論、単なる可能性としては、同じく一頁相当分の {B}が[6a]として予定されていたことも考えられる。しかし、これには二つの問題が生じる。先ず第一に、この推定は、{B}表裏面の番号が1・2であって[6]・[7]ではないこと。第二に、この推定はマルクスが何故頁づけを変更したのか説明できないこと。
 これに対して、[8]に先立つ[1]〜[7]の7頁相当分が全部紛失したと仮定しても、次の点は説明されない。即ち、第一に、その紛失した7頁が、偶然にも5ボ−ゲンと1頁から成っていたこと。更に、何故マルクスが[6e]に来て、突然それを変更したのか。
 以上の形式・内容上の検討から、次のような推定が一番妥当であると思われる。即ち、この章を構成する諸原稿を集めた段階では、
    {1?}・{2?}・{3}〜{5}・{6}〜{11}・{20}・{21} 
の順序が想定されていた。しかし、{1?}a~bを{1}に清書し、{2}を追加し、頁番号を変更 したた時点でのマルクスのプラン(頁番号を打っているのは彼だから)は、
    {1}・{2}・{3}〜{5}・{6}〜{11}・{20}・{21}  
であったと考えられる。ただし、 {6}以降は、未整備な原稿であり、清書段階では多少の順序変更が予定されていた。当初マルクスが予定していた[6a]({1?}c~d・{2?}の内容)は、{6}e=[11]以後で展開されている、と。

  4. {B}の位置
 ところで、{B}の表裏(c・d面)には1・2の番号があり、マルクス自身の筆跡と判読されている。この原稿は、[3]〜[7]の原稿がないこと、 [8]以降も完成稿ではないために、その位置付けは非常に困難である。この紙片の抹消部分が、「第二編」冒頭に再現することから、広松氏が指摘するように、これらの番号が「第二編」の原稿としての番号である可能性が高い。
 更に、{B}の1・2を、 [1]・[2]と看做し、「大きな束」([8])の前に挿入する(広松版以外の殆どの版)ことには、内容的にも次の問題がある。つまり、「大きな束」の第一ブロックは、現実的諸個人の協働連関を展開した{6}〜{8}と、歴史を現実諸個人の世代的継起として展開した{9}以降に区分されるが、「哲学的解放と現実的解放」を扱っている{B}を{6}の前に配列することは、この{9}以前と以後の次元の区別を不明確にすることになる。他方、内容上{B}は「大きな束」の「第一グル−プ」の{11}c=[29]で実質的に展開されていると思われる。従って、『全集』版が{B}を[29]の後に追加していることは、内容的には問題ない。しかし、これは形式上二重の問題を生み出す。即ち、何故{B}が[1]・[2]で あって[30]・[31]となっていないかである。
 以上の形式・内容上の考察から、{B}の場所を確定することは困難である。従って、「
付録」にしておくのが妥当と思われる。

  5. [36]〜[39]の欠落部分
 この部分は、第二ブロックよりも第三ブロックに属すると思われる。形式上、[35]が完結しているのに対して、[40]は明かに、文章の途中から始まっていること。内容上、[40]は「自然発生的な生産用具(耕地、水、等)」と「文明によって創出された生産用具」を比較した一連の結論的記述で始まっており、この頁の頁番号はその前文を利用する意図があったことを示している。とすれば、当然にも、それに先立つ部分での、分業(=私的所有)発展史も利用される予定であったと推定される。つまり、[36]〜[39]は紛失した可能性が高い。
 ところが、ここで注意すべき点が一つある。{1?}・{2?}の段階では、これに{3}以降が続くことで、それなりに整合的であった。ところが、清書稿 {1}・{2}の段階では、{3}〜・{5}が必ずしも{1}・{2}に連続するものとは想定されていないことである。従って、マ ルクスとエンゲルスの間に存在する多少の理論的差違が{3}・{4}と{84}以降との整合性を乱していることは事実である(後述)が、マルクスが{3}・{4}(実質四頁相当分)を[36]〜[39]として動かすことを考えていた可能性も否定できない(広松版)。頁数も実質的に4頁とぴったりである。ただし、この場合、次のような問題が発生する。
 先ず第一に、{3}・{4}に頁番号がなく、ましてや[36]〜[39]とはなっていないこと。第二に、{3}・{4}はそれでもまだ良いが、それと一体の{5}を切り離さざるをえなくなる。例えば、広松版は{5}を実質的に{7}の異稿としている。しかし、これでは順序が逆であろう。{5}は{7}よりも後に書かれており、もし{7}を{5}の清書稿とするならば、先ず{6}から清書が開始されてしかるべきであろう。従って、{3}・{4}を{84}の前に配置する広松版には無理がある。
 以上の考察から、次の二種類の編集案を提起したい。
 1) 執筆順序とボ−ゲン・頁番号を最大限に生かした、オリジナルとして:
{1?}・{2?}・ {1}・{2}・{3}〜{5}・{6}〜{11}・{20}・{21}・
{84}〜{92}({B})
 2) 清書稿{1}・{2}執筆以後の、第二期の編集案として: 
  {1}・{2}・{3}〜{5}・{6}({1?}c~d・{2?})〜{11}・{20}・{21}・
{84}〜{92}({B})
 勿論、この配列によって『ドイデ』が完成稿になる訳ではないことは急ぎ付言しておかなければならない。更に、内容の重複を考慮して2)を一層発展させることは可能ではあるが、それは「改竄」と紙一重であることから、この程度を限度とすべきであろう。 


おわりに

 以上の考察から、次の二種類の編集案を提起したい。
 1) 執筆順序とボ−ゲン・頁番号を最大限に生かした、オリジナルとして:
 {1?}・{2?}・ {1}・{2}・{3}〜{5}・{6}〜{11}・{20}・{21}・{84}〜{92}({B})
 2) 清書稿{1}・{2}執筆以後の、第二期の編集案として: 
 {1}・{2}・{3}〜{5}・{6}({1?}c~d・{2?})〜{11}・{20}・{21}・{84}〜{92}({B})
 勿論、内容の重複を考慮してAを一層発展させることは可能ではあるが、それは「改竄」と紙一重であることから、この程度を限度とすべきであろう。ただし、この配列によって『ドイデ』が完成稿になる訳ではないことは付言しておかなければならない。 


【注】
1) 英語の選集版 (Marx-Engls Collected Works, Vol.5)はバガトゥ−リヤ版に基づいており、諸草稿の配列自体は無難である。しかし、マルクスとエンゲルスの筆跡、本文と挿入の区別等が基本的に示されていないことは言うまでもない。C.J.Arthur, The Germ an Ideology: STUDENTS EDITION (Lawrence & Wishert, 1970)は、アドラツキ−版のように、ノリと鋏で切り張りしたものである。至る所で数パラグラフ削除されている他、[27]はそっくり削除されている。
2) 後に述べるように、正確には二葉半である。
3) {B}と「大きな束」の第一ブロックに限られている([8]、[9]、[10]、[24]に「フォイエルバ ッハ」、頁番号を打たれていない{10}aに「バウア−」、[28]に「フォイエルバッハ」および「バウア−」)。
4) 『マルクス・エンゲルス全集』第三巻の原頁を3 MEC の順序で示すと。例えば、[28]は 3 MEW 89-90、[29]は3 MEW 91、{20}aは3 MEW 158、{21}cは3 MEW 159-169に再現する。林真左事氏によると、原稿段階では、3 MEW 91の「三 聖ブル−ノ対『聖家族』の著者たち」の直前に{10}a が存在するが、結果的に抹消されている、という。編集問題の近年の業績として、同氏「『ド・イデ』第一篇の編集をめぐる諸問題」『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』16号(33頁と36頁が入れ替わっている)がある。
5) 『マルクス・エンゲルス全集』第二一巻、 254原頁。エンゲルスは「共産主義社同盟の歴史によせて」の「まえがき」及び本文で「唯物史観」の「最終的で精密な定式化」がマルクスのものである( 291原頁)と記している。これは、単なる謙遜ではない。エンゲルスにとって「唯物史観」とは、「これまでの歴史記述では何の役割も演じていないか、あるいはとるに足らない役割を演じているに過ぎない経済的事実が、少なくとも近代世界では決定的な歴史的力であるということ、この経済的諸事実が今日の階級対立の成り立つ土台であること、大工業のおかげでこれらの階級対立が十分に発達した国々、従って、とりわけイギリスでは、この階級対立は更に政党形成の、党派逃走の土台となっており、こうしてまた全政治史の土台になっているということ」(『マルクス・エンゲルス全集』第八巻、 582原頁)を意味するに過ぎない。
6) 広松氏は{3}・{4}と{5}を、形式上・内容上、無関係と看做す(『マルクス主義の成立 過程』至誠堂、190-191頁)。尚、氏は {1}と{2}を「大きな束」の冒頭欠落部分の改訂 新稿と推定している(『ヘ−ゲルそしてマルクス』青土社、 238頁)。
7) 『ドイデ』の篇別構成にかんする広松氏の推定によれば、「B」章の内実は分業の歴史的展開であるという(同上『成立過程』、194-198頁)。つまり、『ドイデ』は「I フォイエルバッハ」というタイトルにも拘らず、フォイエルバッハに関する章は存在しないことになる。ここに氏の編集案の最大の問題が語られている。