記号論的萌え学概論

”萌え絵”と言うからには、誰かが萌えなければならないわけであります。
本人だけが萌えたいために描いたのなら、そこに客観的な評価は必要ありません。
しかし、不特定多数の他人様を萌えさせたいとなると大変です。
そのためにはどうするか?

・萌え絵師として有名な人の描き方を真似る。
・描いたものを逐一他の人に見て貰い判断。

私もたくさんの有名絵師さんの絵を参考にさせていただきました。無論、真似ているばかりでは身に付かないし
その絵師さんたちを越えていくことなどできません(越える気でいるのか?
描いた絵を投稿してたくさんのコメントを頂きました。しかしそれはお優しい方達、もしくは共感してくださる方達
のもので、

「萌えねえよ」「気持ち悪いよ」

などという率直な(?)ご意見は、そうそう頂けるものではありません。

何においてもそうですが、人は普遍的なもの、絶対的なものを追求するものです。
美の基準の一つとして、黄金比なるものが考え出されました。顔のパーツの配置などには、これに従うと確かに
バランスがとれていて美しいといえるものが多々あるようです。
プラトンは物を認識する基準として「イデア」の存在を唱えました。椅子を椅子として人が認識できるのは、「椅子
のイデア」という絶対的な「何か」があるためだ、というわけです。

黄金比は一つの基準であって絶対的なものとは限りません。しかしながらそういう基準でさえ、萌え絵において
示されたのを私は見たことがありません。
「萌えの黄金比」、「萌えのイデア」というものがあるならば、是非ともそれを知りたいものです。

とりあえずは先人達のアプローチを見ていくことにいたしましょう。

                                           (かなり長くなりそうなので、次回に続く。)

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2005/2/11