追跡ドキュメント
  
井原正巳 / 福田正博北澤 豪
  「決断──10年目の冬」


    1993年のJリーク詔生、そしてドーハの悲劇から、10年の歳月か流れた。
    日本サッカー界の功労者たちにも戦力外を通告か言い渡される季節。
    井原と福田は新しい人生へ踏み出した。北澤はじっくりと考え続けている。

◆福田正博

 福田正博は、肩をすくめてクスッと笑った。ユニフォームを着ていない自分を思い浮かべるより、例えばディフェンダーになれ、と言われたほうがまだイメージが湧く、と。
「そうねえ、今やってみたいことは……」
 涙をこらえ、こらえきれずにハンカチでぬぐったあの日からわずか数日で、男の顔はこれほどまでに変わる。現役は永遠に続くと信じていたし、自分の可能性は生涯右肩上がりだと疑わなかったと真顔で言う。その現役生活が終わった今、「将来が不安で仕方ない」と、□にするのとは反対の、なぜか自信が満ちあふれ、視線は柔らかい。性格が変わるわけではないし、以前の表性と違うのでもない。そうではなく、本人たちが意識しようがしまいが、「競技者」という名の、信じ難いほど精密なフィルターは、微粒子のような緊張感や闘争心をも、ろ過し続けるものなのだ。

 プロとして10年、選手としてならすでに十数年ものあいだ付き合い経けてきた緊張感が、一体どれほど重いものであったのか、見たことのないような笑顔は、現役生活を長く、雄弁に振り返る言葉より私も、心に響く。

「辞めた今やってみたいのはスノボーなんだ。何だか楽しそうでしょう? スキーもね、ずっとやってみたかったけれど、怪我をしたら何もかも失うとんでもないことになるわけだから。それと、フットサル。これもとても怖くて、やったことがないんです」

 実際には、一番やりたかったことはすでに心ゆくまで楽しんでいる。
 長女・萌香(4歳)と次女・梨香(2歳)を抱っこすることだ。サッカーのために築いた全ての筋肉は、柔軟に使い続けるためである。子供を抱く瞬間、筋肉が硬直し違和感を持つのを30歳のストライカーは許せなかった。
「今はどこが痛くてもトレーナーに聞くことはないし、睡眠、食事も気にならない。子供を抱っこして、ああ肩が凝ったなあって。そんな自分が嫌でもあるんだけれど」

 こんな会話を穏やかな笑顔で続ける。
「来季はベンチに座ることが多くなる。それは君にとっていいことではないだろう」
 オフト監督からのやんわりとした言葉が、何を意味しているのかを察知して一度は引退を決断したが、9月、初のタイトルをかけたナビスコ杯に駆けつけた元チームメイトの「多数決投票」に、心は大きく揺れる。

 引退に断固反対──ブッフバルト、バイン、ペギリスクイン。つまり辞めた人。引退に大賛成──ペトロビッチ。彼は現役。この場合、多数に説得力があり、同時に目分の欲もあった。徹底的に考えることを選ぶ。悩める幸せをわかっていたからこそ、それを味わい、あえて「あがこう」と決める。欲しかったのは、オフト監督によってでも、フロントによってでもなく、「これは俺の選択だ」と言える確信であり、美しく散ろうなどとは少しも思えなかったという。

「ヤクルトの池山選手のお嬢さんとうちの娘が通っている幼稚園一緒で。悩んでいたころ、池山選手の引退試合や会見がテレビに映ったとき、うろたえてしまって。辛くてチャンネルをとっさに変えたんです。他人事ではなかった。僕も現実を見つめて、自分に問い掛けていたんだと思います。本当にいいのか、引退は自分の意志なのかと」

 問うべき現実はふたつだった。
 ひとつは、レッズのユニフォームを着たまま現役で終えるのか、オファーがあれぼ移藷考えるのかである。サラリーマン時代から着ていたユニフォームを着替えても、ゼロからやり直す気力が本当にあるのか。
 もうひとつは、ピッテで見えていた「2入の自分」の存在だ。依然なら迷うことなく縦に切れ込んでいるはずが──小柄なFWがここまで来れた最大の理由であるが──横にドリブルをしている自分に気が付く。届くはずのボールに届かない。攻撃的なスタイルが、失敗を恐れて消極的になる。オフト監督には、違う場所で違うやり方での勝負を、と中盤を任されたが、FWの技術の限界を誰よりわかっていた。

 天皇杯前、決断を妻・祥子にだけは伝えた。12月15日、福岡戦の直後は内なる引退の日として生涯忘れないと振り返る。
「天皇杯に敗れて帰宅したら、寂しさが体中に襲ってきて、一人になるのがものすごく怖かったし、話していないとどうかなりそうだった。もう二度とユニフォームを着ないことに動揺し、初めて一睡もできない夜を過ごしました」

 クラブをかわらなかったのだから良くも悪くも狭い世界で、36歳までさらに視野を狭めてきたようなものだと言う。視野を広げ、コーチ業と、最高の幸せ「レッズ」という環境をさらに可能性のあるものにするためにもクラブ経営も学びたいとすろ。

 取材を終え、浦和のホテルから歩きながら駐車場へ向かう。こだわりが全くないから、そういえばスパイクもユニフォ-ムもほとんど手元にないと笑う。別れ際、福田が窓を開け、握手を交わす。そのとき、年輩の女性達か見つけ、声を上げた。
 ──レッズのフクダじゃない?
 ──辞めたのよね、でもレッズなんでしょ。

 三菱自動車入社以来13年と9か月。チームタイトル生涯無冠、95年リーグ得点王、通算ゴール91。「レッズ」であろうとし、「レッズ」であり続けるために。


◆井原正巳

 井原正巳の習慣は、相変らず続いている。
 アキレス腱、痛い。この分だと、しはらく歩けないか。首は……やっぱり痛い。坐骨はこれならまずまず。膝は大丈夫そうだ。
 目を覚ますと真っ先に、体の痛みを点検する。「5年も仲良く一緒に暮らした」両足のアキレス腱痛に、歩くこともできない朝は数え切れなかった。首は、頸椎ヘルニアの診断を受け、坐骨神経痛は気紛れな持病でもある。半月板に傷はないが、膝の内側靭帯は2度損傷した。決定的な大怪我よりも厄介な金属疲労は、重く慢性的な痛みとなって、約1時間前からストレッチをしなければ練習にも臨めないほどである。
 しかしもう、いいのだ、とふと思い出す。

「気持ちのどこかにずっと、常に張り詰めていたものがありました。シーズン中でもオフでも、体中の痛みと、それをどうすれば練習と試合を戦えるかという張り詰めたものが。引退会見を終えた翌日、気が抜けたというか、張り詰めていた重圧が体からシューッと抜けていたのを感じましたね。ああ、もうコンディショニングを考えなくてもいいんだ、やっと楽になったんだと」

 福田がかつて言った言葉を、思い出す。
「井原こそ満身創痍だつた。でもね、本当に一度も、痛い、辛いと彼がロにしたのを聞いたことがなかった」

 14年の現役生活を終えて改めて途方に暮れているとすれば、今後の針路についてではなく、必ず録画し見直していた大学時代からの、500本ものビデオの整理であり数え切れないほどのユこフォ-ムであり、さまざまな思い出の品の扱いかもしれない。妻・恵理子はそれらのために部屋を作り几帳面に整理してきたが、あまりの数にスパイクだけを車庫に移そうとした。

「唯一の商売道具なんだ。これを履いて、これで食べてきた。部屋に戻してほしい」
 そう頼んだ。

 横浜マリノス、ジュビロ磐田、浦和レッズと、297試合もプレーをしてきた35歳のディフェンダーにとって、引退はすでに2年前から現実だった。2年契約が切れる2002年に戦力外通告を受け、J1からオファーがなければその時が引き際になるだろう。だからこそ、チームにタイトルをもたらし、その上で再びレッズから、あるいはほかのクラブから、「おまえの力を措してくれ」と言われるために品質を追い求める2年なのだと腹を括った。昨夏、オフト監督からは「次のキャリアを考える時期ではないか」と言われる。頭の片隅で備えた事態が、いつかは来ると思っていた日が、来たことを悟る。

 決断したのは、ナビスコ杯決勝で鹿島に敗れた瞬間だったという。タイトルが取れれば、評価はある程度得られるはずだから。同時に経験と、あらゆる技術によってフィジカルを補い続けたおもしろさが、「苛立ち」変っていることにも気付いていた。なぜ足が出ないのか。こんなところで抜かれてしまうのか。
 何よりも、治らないとしても、やわらぐことさえなくなってしまつた痛みに対して。

「悔いがないと言えば嘘になる。日本でのW杯には出られなかったし、浦和にタイトルをもたらすこともできなかった。一方では、プロになるなんて思いもしなかった時代から、とにかく一歩でも高いところを目指そうと、できることは全てやったとも思いますし、そういうポリシーは常に持ち続けてここまで来られたことには満足している。悔いはあるが、満足もしている。それが正直な気持ちです」

 プロになると同時に、封印した夢の存在もある。指導者になることは、W杯に出場することと並んで、しかし現役である以上は叶えられない夢のひとつでもあった。過去を振り返る寂しさ以上の未来が、すでに始まっているのかもしれない。今年はコーチライセンスのC級を取得し、Jリーグの監督になるため、いつかは日本代表の監督になるため、S級を目指す。

 今度はピッチで貫いたのと同じ熱意と信念をもって、おそらく現役以上の長きにわたって、学び続けなくてはならないことに気が付いたという。技術も、語学も、マネージメントも、選手のメンタルも。14年の現役生活や、世界歴代20傑に名を連ねるAマッチ123試合出場も、マイナスではないが決して特典ではないことはわかっている。

 すでに心地良い焦燥感とでも言うべきエネルギーが心に湧いている。信頼関係を選手と監督が互いに抱き、同時に自分の色を明確に出せる指導者像も頭にはある。だから感傷に浸る気がしない。

 取材を終えて次の予定を話そうと見ると、大きなシステム手帳を開いていた。

    ──前も使っていた?
     悪いが、噴き出してしまった。
    「使ってましたよ。でも、これからは練習と試合以外の予定を書き込むわけですから」
    ──500本のビデオで1本だけ見てほしいと頼まれたとしたら、どれを?
    「ドーハのを、頭から。全てのビデオを録画して研究と反省のために観てきたのに、じつはあれだけは一度も観られなかった。何百回と見せられた同点のシーンだけではなくて、どういうサッカーをしていたのか、頭からすべて、やっと」

 抱き続けた指導者の夢と、ビデオと、両方の封印が静かに解かれて。


◆北澤 豪

 仲間の結婚式からホテルの部屋に駆け込んできた北澤 豪は、握手をするなり謝った。
 引退するとは言っていないし、現役を東京Vで続行するとも決めてはいない。熟慮の最中で、申し訳ない、と。
 東京Vのロリ監督(ブラジル)が選手としての自分を必ずしも起用しようとは考えていないことも、クラブの姿勢も、自分がヴェルディの生え抜きとして何をすべきで、どう振る舞うべきかも認識しているつもりでいる。90分戦えるフィジカルもメンタルも依然高いレベルでキープできていると確信しているし、サッカーへの情熱は留まることがない。ただし、サッカー選手として考えることはできても、そうでない自分を想定して考えこと事はできない。だからこそ、どちらにしても、契約期間の1月一杯は率直に、素直にとことん考えたい。

 現役か引退か、どちらかではない。契約が切れ、オファーがなく、周囲の期待に答える姿勢とは裏腹に酷使し続けた肉体の悲鳴に、ようやく答えようと考え出すことは、敗北とは無関係である。福田が「レッズ」を体現し続けたように、井原が別の夢をスタートさせたように、プレーヤーでなくなることは結果的には、終わりでも、直線の断絶でもない。サッカー界という大きな枠の、どこに立つかが変わるだけである。問われているのが、すでにプレーだけではなく、生き方でもあることを、北澤はわかっている。

「ここまで来たら、続けるにしても、辞めるにしても、誰かや何かを恨んだりするような根性ではできっこないですからね。いつかはピッチに立たない日が来ることは本当に長い間、高いレベルでの緊張感を支えてくれたけれど、言い方を変えれば、同じサッカーのピッチのどこに立つかが変わるだけで、サッカーを手放すわけではない。選手でなくてもたくさんの関わり方がある。増え続ける選択肢こそ、先輩の方々が整えてくれた環境であり、もしかすると僕らが新しく築こうとしたプロのサッカー界の理想でしょう。日本リーグには選手と監督と、20人程のお客さんしか登場しませんでしたからね。今は数え切れない人々が、サッカーを盛り立てています」

 振り返ると全てが楽しい。奇しくも成田空港でのふたつのシーンを思い浮かべて笑い出した。日本代表のオフト監督時代、米国W杯の予選を目指してスペイン最終合宿に出発する日(93年9月10日)、オフト監督には、遠征メンバー24人中24番目だ、と宣告された。

「えー、22人にするのにもう行きたくないですよ、勘弁してください、帰りますよ成田で、と。そうしたらテモスさんや柱谷さんが、何言ってんだ、ここで諦めてどうするって怒り出すしね」

 98年6月5日、フランスW杯メンバーから外れた三浦知良(神戸)と2人で、成田空港に降り立ったときには、なぜか岡田武史監督を恨む気持ちはなく、「ちっくしよう、監督になりてえな。こうなったら俺が日本代表の監督になってやる」と、妙に闘志が湧いたという。彼と一緒に笑いながら、選手達はこれほどの思い出を、一体どうやって、「引退します」という一言で整理できるのだろうかと、ふと考えてみた。無理に決まっている。

 引退とは、クラブを決めることも、ポジションも、起用方法も、移籍も「自分で決められない」プロ選手に、唯一自由を許される決断である。それならばどれだけ考え抜いても、悪かろうはずはない。せめて存分に悩むくらいの自由を使い切ってもバチは当たらない。

 20歳の頃、自分は何にでもなれると思える。そのうち限界を知り、別の意味での可能性を知り、チームプレーの意味がわかり、ワンプレーを愛せるようになる。サッカーに対して思慮深くなればなるほど、選手としてのエゴを扱えるバランスが養われ、結果がどこについていくのかが理解できるようにもなる。そうわかったとき、深いところで、現役を良く終えようとする努力が、すでに次へのホップであることに気がついたという。
 今こそ、過去を振り返ることのできる唯一の休息なのかもしれない。そして、次に始まる試合への、もしかすると「贅沢な準備期間」である幸福にも。

◇   ◆   ◇

 2003年1月31日、契約期間を前に、すでに引退を決めたJリーガーはおおよそ100人。福田、井原ら「ドーハの悲劇」経験者で残る現役は6人。ドーハから、Jリーグ開幕から、10年目に訪れた決断の、冬。

(「SPORTS Yeah!」No.059・2003.1.20より再録)

 
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