[独占インタビュー]
中山雅史(ジュビロ磐田)

「我が愛しのジュビロ、我が愛する日本代表」
下手で苦労している部分もあるけど、下手で幸せな部分もある。
下手なほうがオレのサッカーには、幸せなのかもしれない


──Jリーグの、日本代表の激動の10年に区切りをつける歴史的な1年が終わろうとしています。中山さんは、日本リーグでスタートし、Jリーグへの昇格、ステージ優勝、得点王獲得、完全制覇、一方、代表ではW杯にもっとも近づいた93年のドーハ、初めて予選を勝ち抜いて出場したフランス大会、そして自国開催となった今年のW杯では初の勝ち点、予選突破と、サッカー界の大きな節目すべてにかかわってきた現役です。今日は磐田と代表にかけた10年の、愛着をじっくりと聞かせてください。
中山 いやあ、がんばってきたしね。いろいろな場面にも立ち合ってきたよね。銅像でも立ててくれないかなあ。

──銅像って、まずゴンちゃんをどういう姿で固めます? 第一、どこに?
中山 オカベチョウ(実家の岡部町)かな。

──この部屋(大久保グラウンドのクラブハウス)、91年から昨年までのチーム集合写真がズラリと飾ってありまして……まさにこの10年ですね。
中山 こうやって写真を見ていると、歴史を生きたんだなって思うよね。それにしても老けてるね、昔の髪形。すごいよ、ライオネル・リチ男じゃない。あの頃は、キム・ジュソン(韓国代表FW)が好きで、ジュソンヘアとかね。まあ、長髪に憧れる時代もあるのよ。

──髪形はいいんですけれど、不思議な顔ですよね、お世辞ではなくて、10年前より今のほうが、ずっと若返っているなんて。
中山 この前、親戚のおばちゃんに、マーちゃん、しばらく見ないうちに顛のシワが増えたねえって、目の周りをさすられてね。いやいやおばちゃん、これシワじゃなくてね、目の周りの怪我や、骨折とかで手術したその縫い跡(21針)なんだ、って説明したんだけど、わかってくれたかなあ。何でしたっけ? ああ、サッカーの10年。

──そう髪形の変遷やシワの数じゃなくて、サッカーで10年を振り返るインタビュー。たとえば93年にヤマハがジュビロ磐田になり、ドーハでロスタイムの悲劇を味わう。ご自身のキャリア、代表、磐田と、みな節目がリンクするんですね。
中山 幸せ者だね。本当にこんな幸せ者いないと思う。だって、たいして上手くもないんだからね。そう考えると、自分の選択は間違っていなかったのかなと思いますよね。ヤマハを選んだのは、当時はプロなんて全く頭にないですから、とにかく地元の大企業で、まあサッカーだってどこまで続くかわからないわけだから、現役辞めてもそこで考えれば何とかなるかなと。Jリーグに参加しないとなった時も、移籍して、とは思わなかった。10年の間にはたくさんの岐路があったんですが、その度にいい選択はしてきたんだと思う。

──選択の基準は?
中山 直感と、その時、自分が何を欲していて、どこにいるのがベストかと考えたら.こうした幸せな10年になったわけです。

──Jリーグ以前を振り返ってどうですか。
中山 ここ大久保グラウンドでは、クラブハウスもない時代からやってきましたからね。昔は野球場でしょう。だから外野の芝の部分で練習。真ん中にはマウンドがあって、内野の土の部分は踏まないでサッカーの練習してくださいって、どんなサッカーですか。すごいもんですよ、土の部分には入らないようにして、芝生に沿って走っているんですから。一塁側ベンチで着替え、シャワーもないから、ホースで水浴びですしね、夏はいいんですけれど、冬は凍えるから、汗をふいてそのまま移動。大体、“クラブハウス”って言葉は知らなかったなあ。“部室”って呼んでましたから。

──そうすると、初年度からJリーグに上がった旧日本リーグチームとは2年間対戦せずに、94年の磐田昇格から再戦。
中山 そうなんですよ、メンツだって2年で大幅に変わっているわけではないし、そんなに深刻に考えてはいなかったんです。変わったといえばお互いユニホームくらいでね。

──いざ始まるとかなりの差があった。この年、年間8位ですね。
中山 衝撃を受けたのは、ビッグアーチでのサンフレッチェ戦かなあ。0-3でやられて、何でかなあ、だってマツダでしょ、高木(琢也)や森保(一)がいたけど以前から地味だったじゃない、とね。1年目はどのゲームもこんな風でしたよね。何でかなあ、この差は、と自問自答していましたね。2年やっていない間に差が広がって、詰めの甘さ、1対1のちょっとした差が積もり積もって最終的には負けになるんだろうな、と。ジュビロにとって最初の大きな転機は、スキラッチ(イタリア、94年W杯得点王)が入った時期でしょう。

──アマからプロへの転換というか、以前と以後ではどんな部分が違いましたか。
中山 全国どこに行っても、ヤマハの営業所がありますよね。ですからありがたいことに必ず差し入れをいただくんですよね。

──泡が出るものですとか。
中山 バスの真ん中にクーラーボックスがあって、そこにどーんと差し入れてありましたね。バスの中でも試合の帰りはゲームをやって盛り上がったり、今では考えられない。ある意味では移動のバスの中が一番変わった場所かもしれません。

──イタリア大会の得点王と並んでプレーすることはどう思われました?
中山 頼ってしまっている部分がありましたよね。出さなくていいときでも、スキラッチに預けてしまう。でも、本当に技術の素晴らしい選手でした。W杯のイメージでは、ゴール前のがめつさの印象がありましたけれど、実際には、ドリブルもキープ力も当時の誰よりも上手かったですもん。タイミングと緩急、ポジション取りは抜群でした。身長が低いのにゴール前でヘディング決めていたり、スピードの変化と深さで、ありきたりのフェイントでも引っ掛かるんだね。今のタイプで近いのは、エジムンド(東京V)。それ程スピードもないのに、抜かれてしまうのは、彼らが相手の小さな体重移動も見逃さないから。プロのテクニックを、スキラッチが教えてくれた。

──そうなるとメンタルでは、やはり……。
中山 ドゥンガ(ブラジル)もファネンブルグ(オランダ)も、勝利に対する厳しさと、執念ですね。ドゥンガは、自分が嫌われてもチームが勝てばいいから、ってあそこまで徹底するのは日本人にはできなかったでしょうね。もちろん、お互いのコミュニケーションでは難しいこともありましたよ。外国人選手との言葉のやり取りって難しいですよね。

──では10年でもっとも厳しかった時期はいつでしょうね、ご自身としては。
中山 94年の怪我(そけいヘルニア)はもちろん肉体的にきつかった。ただ、自分の中で怪我はいつでもチームに戻るための強いモチベーションにもなってましたからね、我慢は当然できるわけです。ただチームとなると、もっともっと苦しかった思いが蘇る。99年でしょうね。

──名波がヴェネチアに移簿して、不在だった年ですね。この年は南米選手権に招待を受けながら、練習中に目の周りを骨折して苦労しましたよね、視力の安定までに。
中山 そう。2か月くらいブランクがあって、復帰してもチームはまだ機能していなくて、1stステージを取ったのに、名波の抜けた穴が大きくて、結局それを修正できないまま全然勝てなかった。先制しても追いつかれて逆転される。今は当たり前のように機能しているうちのプレスだって、当時は、深すぎて取られて速攻を洛びたり、守備も裏を取られたくないからズルズル下がってしまったりね。勝てなくて、皆で何度も何度もミーティングをして、飯を食って話し合って。

──結局チャンピオンシップは獲得しますね。
中山 終盤になってだんだんまとまってきて、あの年、アジアのスーパーカップを初めて取ることができたのがチームに弾みを与えてくれたかもしれませんね。

──98年の得点王のタイトルですが。
中山 もう1stステージが終わった時点で行けるな、と思ってましたね。だけど、あれだけの厚い中盤が揃っていて、あんなにいいボールを出してくれるわけでしょう。別にオレでなくたって、FWに誰が入っても点を取れたと思いますよ。

──今年の完全制覇にたどり着く道のりですが、歴史を振り返ったうえで、最強チームだと思われますか。
中山 いや、98年のほうが、今よりは強かったんではないかと思う。それは2チームを比べるのではなくて、Jリーグ全体の中での話ですけれど、あの頃は各チームとの格差というのがありましたから、言ってみれば楽に勝てるゲームもありましたよね。
 でも今は、例えば今年を見てもチーム力は接近していて、ひとつ間違えばやられてしまう。ですから、98年と比較すると強さの類が違うんでしょうね。あの時は、強かった。今年は、接近した非常に苦しい中で勝ち続けて行くことで、結果的に強くなった、そういう違いですね。

──何となくわかる表現のように思いますね。そうすると優勝を決めた試合はその象徴ともいえるゲームだったんですね。今季最低の試合、ひどい試合、ミスだらけ……選手それぞれが違う表現で反省されていましたが、それでも勝ちにこだわる、この10年で作り上げたチームの完成形であったかもしれませんね。
中山 チャンピオンシップというシステムは、悪いわけではなくて、何度もリーグを盛り上げる機会ができるわけですから、そこには意味がある。ただ、今回のジュビロは、この盛り上げのシステムを自分たちで壊して、強さを証明することになったわけです。

    トルシエ監督の一年間で
    選手たちは大人になった

──では、中山選手をここまで疾走させてきたもう片方の車輪、日本代表について。最初に意識をしたのは?
中山 井原の存在からですね。

──筑波大学2年、15年前。
中山 そうです、90年のイタリア大会の予選に大学生で呼ばれて行った。同じチームで、同じ年齢でそういうところに呼ばれて行った井原をまず、純粋にすごいなあ、と。もうひとつは、それでも1次予選敗退っていう、アジアでのポジションですよね。こりゃ、アジアで勝つことは相当苦しいんだとね。あの感覚を思い出すと、10年でここまで変わったことが信じられませんね。プロ化って、なんてすごいことなんだろう。制度ができたからって、プレーをしている人間自体が大きく変わるわけではないですからね。意識、目標が選手を劇的に変えていくんだとわかりますね。

──ご自分の中でJリーグと代表、プロと世界が完全につながったのはいつ頃ですか。
中山 どうだろう? やはりオフト監督に呼ばれてからかな。ダイナスティ杯で韓国に勝ってからですね、目標がどんどん、どんどん高くなっていった。リーグで頑張ることが代表につながる感覚を持てるようになって、それで代表に行くと、今度はスピードも技術も非常に高いわけで、自分には足りないものを、まあ宿題みたいに持ち帰ってくる。それでまたリーグで頑張る。この繰り返しでしょう。

──初めての合宿は?
中山 確か千葉の検見川の合宿棟で。2人部屋だったかなあ。90年のダイナスティの前ですよね、ブラジル留学(モジミリン)から帰ってきたばかりで呼ばれて。環境の差といっても、当時はそれしか知らないんですから、誰も文句など言いませんよ。そういうものだと。ただ、オフトになって、ラモス(瑠偉)さん、カズ(三浦和良、神戸)さんがいろいろと要求をしていく中で大きく変わって行ったと思いますよ。

──先ほどは、試合帰りのバスの中、と激変した場所を表現してくれましたが、代表ではどうですかね。
中山 パッキング。

──遠征の荷作り……。
中山 そうそう。最初の頃は、自分で練習着から、ソックスからもう全部持ち歩くわけですからね。トランクに詰めるのだって容易じゃないですよ、もうパンパンに膨れ上がってしまってね。それが今では、私物だけでいいわけでしょう。楽ですよ、もうパッキングでウンウン言わなくてもいいんだもの。あの当時の選手たちって、そういう意味では不満なんてなかったと思う。改善されるばかりなわけですから。あの頃はあの頃で楽しかった。でもオフト監督は厳しかったですよ。宿泊先のホテルでも、外出させないようにちゃーんと見張ろうと、わざとロビーでトランプしてるの。カズさんとオレは、エレベーターで地下から抜けて外のコンビニに行ったりしてね。とにかくあの頃から少しずつまとまって、ドーハに入って……ああいう結果にはなったけれど大学の時に井原を通して、予選突破は無理だと思ったことは、振り払えましたよね。ヨシッ、アジアで抜けられるって手応えを持てたんですから。

──個人的なプレーの資質ではどうですか。あの当時と今を比較してみると。
中山 あの当時はもう勢いだけで。今はあの頃より多少は考えてますよね。ドーハの頃は、走りたいように走っていれば、そのうちボールが出てくるだろうって。

──行き当りばったり。
中山 実際、ラモスさんがこう言ってたもの。いいか、ゴン、考えるな、考えなくていいからとにかく勢いで走れ、ボール出すからって。だから、ハイ、じゃあそうします、考えません! なんて。でも本当にボールが来ましたからね。そういうサッカーでしたね、個人的には。スター選手の陰でサブでしたから立場的にも、好き放題言ってました、あの頃は自由で楽しかった。

──あの頃から、ムードメーカーと言われ、常に盛り上げ役を担うことに。
中山 チームを鼓舞するのにも内容の変化はありますね。10年前は自由気ままに、自分自身を盛り上げるためにいろいろと言っていたんで、それが結果的には、チームのムードも盛り上げる要素に転じていったんですけれど、今回のW杯は初めて、自分以上にチーム全体を鼓舞する言葉を口にしていましたね。
 ただ、みんな大人でした。トルシエ監督になってからの4年間で、選手は大変な成長をしたと思う。もちろん戦術は重要だけれど、何より選手ありき、という部分で。トルシエ監督がナーバスな時でも、選手は落ち着いていましたね。練習でもマスコミのみなさんは見ていましたよね。監督がああしてガーっと僕らに怒鳴っていても、選手にはそれを受け流せるだけの安定感がありましたから。もちろん技術的な面で、海外でプレーをしている選手が持ち帰ってくれた刺激は大きかった。けれどもそれだけではなくて、国内にいる選手、海外にいる選手それぞれが持ち寄ったいろいろな経験によって、どんな試合でも落ち着いて自分たちのプレーを最大限に発揮できる、そういう心の部分での落ち着きは重要でしたね。最低のノルマが予選の突破でしたから、そこまではかなりピリピリしてましたけれどね。

──代表の位置付けはどう考えてきましたか。例えば以前、カズは、代表とはどこかがどんなに痛くても、どれほどの犠牲を自分に払ってでもやり抜かなければいけないと言っていましたね。北澤 豪選手(東京V)は、代表だけは損得でも金勘定でもない。家族として皆で目標を純粋に追い、誰の利益のためでもないもののために戦う場所だ、と。
中山 いやあ、かっこいいこと言いますねえ、2人とも。上手いんだよね、表現が。僕も足してください、2人の表現を。

──そうはいかない。
中山 何だろう。だって日の丸ですからね、国を代表して、さらにそれをみんなが後押ししてくれるわけですから、意気に感じないはずがない。幸せですよ、代表に呼ばれるのは。これでも一応Jリーグ選手会長ですから、お金の交渉はやりますよ、全員の利益のために。ただ、個人的にはそれを抜きにしても、呼ばれればいつだって行く。逆に、そういう場所から呼ばれなくなったら、ものすごく寂しいでしょうね。

──現役であるうちは常に代表を狙う、そういう気持ちですか。それともあるところで、代表は引退と線引きをされるか。
中山 代表は自分を熱くし、奮い立たせてくれますね。現役である以上は、常に追いかけて行きたい。確かに、よく代表はもう引退します、という選手もいる。それは、厳しくて激しいプレッシャーの中で戦い続けた人たちだからこそ、そういう選手たちにこそ、言うことのできる権利みたいなものですよね。ただ、自分の場合、自ら代表は引退だよ、なんて言える立場にないから。そういうのは、上手い人たちだから言えることで、彼らには厳しい戦いをした分、その権利も与えられている。ただ、オレはそういう権利は与えられていないですよ。そんなことを口にできるような実績の持ち主ではないから。

──決してそんなことは……。
中山 例えば、怪我をしてまったく呼ばれないとわかっている時期ってありましたよね。でも自分がどんな立場にいるときでも、絶えず緊張感を持って、気持ちをまっすぐにして代表の発表は見ることにしてきましたね。選ばれないってわかっているのに、もしも選ばれていたらうれしいな、と。

──そういう意味ではジーコ監督の選考基準はクリアですね。30歳以上をベテランと呼ばないでくれ、彼らも戦っているんだ、と話したり、その時、もっともコンディションのいい選手を選ぶと明確にしています。
中山 ジーコ監督になって、年齢云々が問題にされないというのは本当に大きな励みになると思う。その時々でいい選手を、というのは、僕らだけではなくて、若い選手にも励みになるわけでしょう。もちろん逆に考えれば、ジーコはその時々が重要で、実績には頼るな、と言っているんで非常に厳しくもある。みんなが狙える、みんなの代表。公平な感じを持っていますね。第一ベテランがもし落ち着きだっていうのなら、オレはベテランじゃないから。だって、落ち着きは全然ないもの。練習でも、飯の時間も、落ち着きがないからね。

    40歳までやると、協会の人には
    本気半分、冗談半分で言ってる

──磐田のユニホームへも、代表のユニホームへも歴史と歩んだ愛着がにじんでいます。最後は、どちらのユニホームも着ていない、一人のサッカー選手としてのこれからについて伺います。この10年、一度でもギブアップを考えたことは?
中山 ないね。

──大きな怪我もありましたが。
中山 ないですね。怪我をしても治る、代表から落ちても再編はいくらでもある。だから次を目指す、次を目指すという感じで走り続けて来ましたから。諦めようなんて思ったことは一度もなかった。

──40歳までやりたいと以前話していた現役プランは、今も変更はありませんか?
中山 協会の方たちには、40歳までやりますよ、と常々言ってますからね。半分冗談で、半分本気です。でもこればっかりは人任せではなくて、自分の問題だから。同年代の選手たちが現役を退く状況にあって、自分だけは大丈夫なんて思えるはずはありませんしね。常に、明日は我が身で、以前カズさんともいろいろ話をしていて、スランプはもう許されない、スランプはイコール必要のない人材だと。そんなことを認めさせたくないし、そのためには常に緊張感を持って、目の前の90分を戦い抜かねば。

──選手会会長の仕事もありますからね。
中山 移籍を楽にするため移籍係数を引き下げる交渉はしているんです。イタリアみたいに、チームの核となる選手が頻繁に移簿しているでしょう。ああいうこともリーグをさらにおもしろくするかなと思いますし、今は年俸だって野球のはうがはるかにいいですしね。中村(紀洋)選手、6年36億円、1分1000円ですよ。

──今年は非常にいいコンディションで臨んだ一年なのではないでしょうか。
中山 いや、今年の夏は本当にきつかった。半端じゃなくしんどかったね。市原戦は特に。終わってロッカーに戻ったとき、ここでこのまま寝てしまいたい、1時間仮眠取ってもいい? というくらい、本当に苦しかったの。結果も結果(2-2)だったからだけれど、オレは年だからきついんだろうかって、若い選手に聞いたんですよ、平気かって。そうしたら、みんなきついです、って。安心しましたよ、オレだけじゃないんだとね。

──年だからだ、とは思わないように。
中山 大事ですよ。それに地球の温度って毎年上がっているわけでしょう。これから3年後はさらに暑いんで、気温も年齢も上がって激しい中でどこまでできるか、これはもう計算が立たない。

──地球温暖化と戦うFW。
中山 弱気になるとすれば、やっぱり疲れ ている時でしょうね。相田みつをも言ってますからね、人間だもの、しようがないよ。

──あまり弱気には見えませんが。
中山 ひとつは、こういう選択をするんですね。体のコンディションを整えるか、心のコンディションを準えるか、と。それがベストのコンディションにつながるかはわからないけれど、体を動かすことと、やり過ぎないこと、かわっていても難しいものですから。この前も、解説者のミシェルさん(宮沢)に、中山はこの年でもまだまだ上手くなっているって解鋭者の間でも評価されていると解説者の間でも評価されていると……言っていただくのはもちろん嬉しいけれど、例えば、自分のプレーが必然なのか、偶然なのかといつも思うところでね。やろう、やろうと考えてできれば必然で、たまたまできてしまったら偶然で、では、反復練習していたことが無意識のうちにできたプレーはどっちなんだろうと。

──サッカーを始めたばかりの少年のような感覚ですねえ。それが、最大の敵でもあるマンネリを一切、感じさせないプレーの源なんでしょうか。
中山 物事って慣れるもんでしょう。サッカーはもう30年近くやっているんだけれど、これがまた全然慣れないんだな。慣れるとは安定でしょ。安定したいんだよ、本当はね。でも安定しないから慣れない、だって下手クソだから。決定的なチャンスを確実に決める。そんな選手になりたいんだけど、それができないからいつも不安定で、慣れない。だからマンネリにもならない。

──不思議な三段論法だけど、言っていることはわかります。
中山 だからいろんな欲求が出てくる。下手で苦労している部分もあるけれど、下手で幸せな部分もある。でも、下手で幸せなわけはないよね。幸せなんだけど、サッカーでは幸せが足りてない部分があって、本当はサッカーが上手くて幸せ、が一番いいんだよね。でもそうすると、今度はマンネリするかもしれないし向上心は沸かなくなるかもしれない。

──幸せか、不幸せかどっちにしますか。
中山 うーん、下手なほうがオレのサッカーには幸せなのかもしれない。ただし、これは楽しくないね。イライラする日が続く。

──大きな目標を、10年という長い年月をかけて達成されましたが、フランスが終わった直後、2002年は予選がない、だから2006年の予選をもう一度やってみたいと、すでに話していましたよね。「またぁ、8年後の話なんてして」と思いましたけれど、すみませんでした。あと3年です。
中山 あ、そう言ってた? まあ4年4年ですね、今は次の4年が引退の節目にならないようにと考えている。考えたくないけれど、もう次のことを考える時期に来ているのかもしれないね。この前もテレビで引退するいろいろな競技の選手達の会見を見ていたら、みんな泣いてるんだよ。ああ、やっぱりなんだかんだ言っても、どんな形でも現役が一番なのかなと思う。

──先ほど、岐路でどちらかを選んだのは直感だったと。最後に残る岐路は何をもって?
中山 情熱でしょう。本当はこんなことを考えずに、サッカーってどこまでやれるのか、まっとうしてみたい気持ちもありますね。

──やり残したことはない、と。
中山 それは無理無理。だって理想の山がこの高さなら、今この辺だもの。

──そこじゃあベースキャンプの位置。
中山 そうそう。頂上見えてないから、もう、もやもやで。こういうルートでこう順序立てて行けばたどり着けるっていうレベルの登山じゃないからね。

──相当厳しい登山ですね。
中山 行けないんだろうなあ、頂上。理想の標高がやたらと高いばかりに、どこを歩いているのかもわからない。でも上を目指す気持ちがなくなったらダメだからね。とにかく行きましょう、1センチでもいいから上へ、未開拓のルートを、分け入って、分け入ってでも。

(「SPORTS Yeah!」No.056・2002.12.6より再録)

 
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