[独占インタビュー]
ミロスラフ・クローゼ
Miroslav Klose ドイツ代表/カイザースラウテルン FW

「静かなる成功者」
シンデレラボーイがW杯後、初めて語った心境。


    「なぜこんなことが起こったのか、
    今でもよくわからない」

──2006年よりもまずは大きな目標でもある欧州選手権の予選が始まります。新しいチームによるドイツの再スタートはどんな形で進んでいくと思いますか。
クローゼ まず新しい選手が多く加入することは確実です。それらの若いプレーヤーが加わることによって、W杯とはまた別のものを作り上げていくことになりますね。新しい選手が加われば、その選手たちをいい方向に導いて、さらに大きく育て上げて、言ってみれば僕がW杯までに与えてもらったチャンスと同じ量と、同じ質のチャンスを、それだけの若い選手に与えていかなくてはならないと思いますね。

──新生ドイツでの、あなたの役割は何でしょうか。もちろん、ゴールは言うまでもありませんが。
クローゼ さあ、それはわかりません。監督に聞いてもらうのが早いでしょうか。個人的には、W杯への最終調整となった日本でのトレーニング中ですね、あのとき、本当に全力で練習での自分のプレーをアピールし続けていたことを思い出します。とにかくチームに溶け込もうと必死になって頑張り、そうしたら監督がスタメンだと言ってくれた。とてつもなく大きな夢が叶ったんです。あとは力を出し切るだけでした。ああした気持ちで日頃の練習を積んだからこそ、夢が叶ったのだとということは、絶対に忘れてはいけないと思っています。

──W杯中にはドイツの救世主、あるいはフェラー監督によれば、エリア内の聖人などという呼ばれ方もしていましたね。そうしたイメージとともにゴール後には、宙返りもするような派手なパフォーマンスも見せていました。今聞いている話とは印象が少し違いますね。
クローゼ 何かを成し遂げるための秘密なんて、ないんだと思う。僕は、いたって普通のことしかしていないし、するつもりもない。自分のサッカーにおいてのキャリアがあまりにも例外的だったために、余計にそう思うのかもしれませんね。実際のところ、今だって、何でこうなったのか、よくわからない。

──よくわからないって、本人が?
クローゼ ええ、本当にさっぱり。偉そうに言うのではなくて、僕のようなケースはドイツのシステムの中ではほとんど稀です。あり得ないとも言えるでしょう。僕はユースの代表にさえなったこともありませんでしたし、ユース以前に、地域選抜といった一番小さな単位での代表にも選ばれたことがありません。その僕がW杯に行って、それだけじゃなくて試合に先発して、得点までする。一体なぜこんなことが起きたのか、よく考えますよ。でもわからない。

──あえて要因を考えるとすれば?
クローゼ 間違いないのは、ここ2〜3年での急成長については、僕を育ててくれた監督、指導者たちの力があってのことだという点だと思いますね。僕は監督たちに恵まれました。これは何より大事なことです。普段のプレーをしているときに、それを見守ってくれている人がいるか、いないかですね。これがサッカー選手の運命の分かれ道で、本当に大きく運命を左右してしまうんじゃないでしょうか。ですから、僕は運がよかった。サッカーではどちらかひとつで何かが成功することはないでしょう。監督の戦術、それが選手にフィットすること。両方ががっちり噛み合わないと。そうした励ましとゴールによって、僕は自信を持てました。4年前まで7部リーグでプレーをしていた自分がここにたどり着けたのは、間違いなく、僕を見逃さずに発掘してくれた目があったからです。

──フェラー監督について言えば。
クローゼ 監督に言われ続けたのは、怖がる必要なんて全くない、何も気にせずに、由由にプレーをしようと、その一点でしたね。監督はそうやって話をするタイミングがいつでも絶妙でした。大勢にいっべんにたくさんのことを話す方法を決してとりません。トレーニング中も、試合中でさえ、監督は一人一人を励まして、勇気付けようとします。これは、簡単ではありませんね。特に、一人一人の選手を呼び出して、何か大切な話を持ちかけるタイミングがうまいのです。

──欧州選手権を戦い、W杯を目指していくこれから、ドイツ代表の持ち味、チームとしての魅力は何でしょうね。W杯前は、あまり高い評価は受けていませんでしたが。
クローゼ ドイツのプレスは、僕らがせいぜいグループリーグを突破するくらいが清一杯だろう、と低い評価をしていたと思う。よほどうまくいって準々決勝止まりとしか見てはいなかったでしょう。ただ、これについては、あまり反論できないんです。なぜなら、プレス、ドイツのサポーターのほかに、僕たち自身がまったく信じていなかったんで。

──これだけ期待されないなら見返してやろう、なんていう話ではなかったんですね。
クローゼ まったく。ただ、ふたつの理由があったと思います。ひとつは、あの試合のために組まれたチームだとみなわかっていたのに、非常にまとまりのいいチームだったこと。もうひとつが、試合ごとに成長した事実ですね。

──ドイツチームのまとまりがよかった理由はどこにあるのでしょう。欧州選手権の予選での下馬評にも、結束、とか、団結といった言葉でドイツらしさ、強さをあげる声は多いですが、自分たちではどう見ていますか。
クローゼ 尊敬でしょうか。よく知られているように、あのチームは私のように若い選手と、ベテランと言われる選手がバランスよく混ざったチームでもありました。にもかかわらず、ベテランが若手をリードするといった部分のほかに、年齢やキャリア以前に、お互いのサッカーをとても尊敬し合っていたように感じていました。これが代表チームのような場所では、そんなに簡単にできる話ではないことは、誰もがわかっているでしょう。

「まったくさあ、ワールドカップで5点も取ったってしようがないよ」
「そうだよね、クラブで点を取ってくれなきゃどうしようもないもん」
「持ってる力、全部使っちゃったんじゃないかなあ、日本で」
「あ、韓国人でしょう? 韓国ってすごいがんばったよねえ、僕らには勝てなかったけど仕方ないよ、本当にそごかったよ」

 フランクフルトから南西、フランス国境までわずかに40キロほどの街、カイザースラウテルンにあるユース練習場は、見渡す限り、森、林に囲まれ、まるでピッチと風景が一体化してしまったような錯覚にとらわれるほど、緑が深い。米軍基地があるために、時折、轟音とともに航空機が頭上を通過していく以外は、人口10万人の小さな、どこまでも静かな環境に囲まれている。練習場の名前は「スポーツパーク、赤い悪魔」、1FCカイザースラウテルンのニックネームである。
 赤い悪魔も今季はひどくおとなしく悪魔ぶりを発揮できないまま、最下位から這い上がることができない。どこか重苦しいムードのトップの練習を見ながら、9、10歳のクラスの子供たちが「一丁前に」クローゼを評している。子供たちはこちらを見つけると、韓国からの取材だと思ったようだ。
「韓国からでしょう!」と人なつっこい笑顛で近づいて来たが、「日本人だよ」と教えると、今度は「ああニッポン、日本も凄かった! 決勝トーナメントに行ったよね」と、サッカー以上の社交上手ぶりに、大人のほうが噴き出してしまった。未来のカイザースラウテルンのエースたちに「好きなクラブ」を聞くと、「ドルトムント!」と声があがり、またも噴き出す。

 まだ蒸し暑い8月下旬、最下位に転落し、W杯でクローゼにかけられたはずの庵法の効き目も落ち始めた──子供たちのなかなか手厳しい評価は別にしても、クラブは実際、連敗によって混乱していた。
 クローゼ自身、リーグ戦1得点で取材に応じる気持ちにならなかったようだ。しかし自身もFWであったフェラー監督は「とても控え目な選手だが、彼の才能はこれまでと少しも変わることなく、ドイツ史上を代表するゴールゲッターにふさわしいものだ。彼はおそらく、長きにわたってドイツ代表を支える」とコメントし、W杯後初となるテストマッチのための代表に選抜している(8月21日、ブルガリア戦、2−2)。

 W杯中のクローゼの「声」を思い出す。ミックスゾーンでメディアに囲まれると決まって下を向いてしまい、声は聞き取れないほど小さかった。「もう少し大きな声で」と求められると、「すみません」と直そうとするが、どうしてもささやくような声になってしまう。初戦でハットトリックを果たし、リーグ戦3試合で5点、全てヘディングで奪った。ゴール後には、おそらく満点に近い宙返りも見せ、ロナウド、リバウドらブラジルの、世界のスターたちと肩を並べ、しかもドイツの威信をかけ得点王争いをしていた24歳の若者には、ドイツサッカーの現状と、彼自身の成り立ちとその両面からのサクセスストーリーが象徴されていたのではないか。

 ひとつは、低迷しかけたと言われたドイツサッカー復活のシンボルとして。わずか4年前まで街の7部リーグ、つまり草サッカーリーグに所属していたに過ぎないのだ。
 元体操選手で、跳躍、俊敏性に優れた彼を発掘したのは、国内に1000か所程度配置されている強化拠点システムの勝利、と国内では評価されている。ドイツサッカー連盟が、2002年以降にかける強化費用、人材確保、システム作りは過去最大のプロジェクトである。待望の逸材として、ドイツの若手選手育成のサクセスストーリーである。
 もつひとつは、彼の個人的な背景におけるサクセスストーリーである。ポーランド移民であり、もっとも失業率が高い地域のひとつとして知られているプファルツ地区で育った。そのことは、W杯で5得点もしながらも依然「いつ失業しても大丈夫だ」と真顔で、少しも浮かれることなく、大工の免許を保持していることを誇るような、24歳の若者の基礎になっている。
 カイザースラウテルンのフリードリッヒ会長は、現在でも、有力クラブからの移簿に関するオファーは受けないとしてい。
 弾むような肉体からゴールにたたきつけられるヘディングシュートと、宙返り。か細く小さな声と、どこまでも慎重な話。ふたつのサクセスストーリーは、ただの幻で終わらない力強さを持っている。

    「手に職をつけてから
    プロサッカー選手になった」

──ポーランド出身ですね。
クローゼ ええ、ポーランドで(オッペン)、その後フランスで6年間暮らし(オセール)、二重国籍について21歳でドイツを選びました。ポーランドは大好きですから今でも必ず1年に一度は遊びに行きますが、それ以外は特に結びつきはありませんね。
──ご両親とも運動選手だったそうですね。

クローゼ 父(ヨセフ)はサッカー選手(フランスの2部オセールでプレー)で、母はハンドポールの代表選手として国際試合に出場した選手(国内最優秀選手賞を2度獲得)でした。もちろんサッカーは好きでしたが、父は、むしろサッカーで食べていくことには慎重でした。僕に、プロサッカー選手というのはものすごくきつい仕事だから、よくよく考えて決めなさい、とアドバイスしてくれましたからね。そこで、手に職をつけたんです。それからプロになろうと思いました。

──手に職ですか、どんな?
クローゼ 大工です。

──待ってください、W杯で5点も取っているのに、手に職があるって。
クローゼ いやぁ、これもなかなかいい職業だと思いますよ。サッカーがうまくいかなくなったら、いつでも仕事に戻ることができますからね。25歳になってから、新たに職業を探して、まして手に職をつけるのは容易ではありませんから。

──誰にも真似のできないヘディングですが、子供の頃から練習をしていたのですか。そして今も?
クローゼ 体操も得意でしたから、もともとジャンプ力はありました。

──ジャンプ力って測ったことはありますか。日本では垂直飛げって学校で測るんですけれど。
クローゼ ないですねえ。今度日本に行ったら測ってもらおうっと。とにかくヘディングは好きでした。小さい頃からロープにボールを下げて、頭でぶつかっていくようなことを繰り返していましたね。今も、トレーニングの一環として振り子にしたボールで練習はしますが、昔ほどじゃありません。

──FWとして、あれだけの舞台でハットトリックしたときの感想は。
クローゼ あの(サウジアラビア戦、8−0)気分は最高のものでしたね。ドーピング(検査)がさらに幸せでした。

──ドーピングが最高って、どういう意味ですか。みんな嫌がるでしょう?
クローゼ いやー、僕には最高。まず長時間かかったんで記者がいなくなってしまった! インタビューが苦手なんで。2時間もドーピングルームにいさせてもらって、テレビもあったんで、自分のゴールをリプレーで何度も見ることができたんですよ。おまけに、両親にまで電話できましたからね。すごく喜んでくれましたし、ビデオで反省はできるし、静かで、日本で過ごしたW杯の思い出の中で最高のものでしたね。

──準優勝は個人的にどんな感覚でしたか。
クローゼ もちろん決勝に出られるチャンスなどそうあるものではないから、残念だったと思いました。でも、勝つために戦ったわけですから。試合後1時間で、非常にハッピーな気持ちになったことを覚えています。ロナウド、リバウドといった、ずば抜けたフットボーラー、ついこの間まで憧れだった選手とプレーしたことは素晴らしい体験でしたね。僕には彼らのようなタイトルも知名度もなかったけれど、彼らに敬意を抱きながら脅威はなかった。

──チームの状況はよくないのですが、目標はどこに置いていますか。
クローゼ まず、日本から戻ったあと、誰もがみな、クローゼは移簿して戻っては来ない、と言っていたと思います。でも僕はいつでもこのクラブのことを考えていたし、居心地のよさを気に入って、両親と家を建て引越しもした。ですからここに留まって、今はリーグ戦で勝つこと、そして今年はUEFA杯で外国の強豪とプレーをすること、これを短期と中期の目標にします。

 ボールの代りにカンナやかなづちを使う必要は、まずないと思うのだが。

■ミロスラフ・クローゼ/1978年6月9日、ポーランド・オッペン生まれ。24歳。8歳のときにドイツへ移住し、10歳でサッカーを始める。99年、7部リーグからいきなリ1部のカイザースラウテルンに移籍するが、中盤のプレーヤーとしては伸び悩んだ。2000年、FWにコンバートされるや才能が開花。ゴールを量産し、2001年にドイツ国籍を取得すると代表にも招集された。W林での5得点で世界的注自を集める。しかし今季のブンデスリーガではまだ1得点にとどまっている。182cm、74kg。

(「SPORTS Yeah!」No.051・2002.9.27より再録)

 
HOME