夫婦の階段・特別編
井原正巳/井原恵里子


日本代表の主将として、チームを引っ張った夫。20歳で代表入りして以来、3度目の挑戦でつかんだワールドカップ出場を、陰で支えた妻との10年間。

日本代表主将の試合すべてを見続けた妻の10年愛

──サッカーについて2人で話すことはあるんですか。
正巳 改まってはないですね。サッカーについて夫婦で話し合うなんて気持ち悪いもんです。試合は全部録画してもらってるんで、帰宅してそれを見ながら、僕ひとりがぐだぐだと言ってることはあるかもしれないけれども、恵里子が素人目であれはどうだった、なんてことは言わないよね。
恵里子 う−ん、でも、私は特に批判的な記事を中心に、ホラ、こういうことが書いてあったよ、なんて知らせるよね。
正巳 そうそう、井原は最近衰えが日立つ、とか。まあそれも励みにさせてもらってます。
──そういえば二人のなれそめって聞いたことがありませんね。
恵里子 彼が筑波大に入ったころですね。私の友人が彼と友達で、その友達と試合を見に行ったのがきっかけでした。確かあれは、私が18歳で、彼は19歳のときだったと思うんだけど。
正巳 でも会っていきなりつきあうってわけにもいかなくて。友達になってからつきあいだしたのは、次の年になってからかな。
恵里子 自然な感じでつきあい始めたんだよね。そう、第一印象は、私の周りにいた男の子たちとはずいぶんと違う人だなあ、と。
正巳 どういう意味? それって。
恵里子 私が接していた男の子たちって、自分からどんどん話しかけてきたりとか、女の子を笑わせたりとか、いかにも大学生っていうノリで。
正巳 俺だって一応、大学生だったんだけどなあ。
恵里子 ハハハ、理想のタイプではあったけれど、あまりしゃべらなくて静かだし、けっこう人見知りするタイプでしょう。
正巳 恵里子は今と全然変わらなくて、明るくて、楽しくて。僕とはずいぶん性格が違うな、そういう印象だったね。つきあうのと、初めて日本代表に入ったのがちょうど同じころだった。'88年だから、もう10年になるのかあ。だから、代表全試合見ているんだね。

──では、デートはもっぱらグラウンドで?
正巳 僕は筑波大の寮、彼女は横浜、と離れていたから、終電を気にして……そうだ、中間点なら少しは一緒にいられる時間も稼げるつて、考え抜いて上野でデートしたりとかね、懐かしいなあ。
恵里子 常磐線の最終は確か11時50何分か、だったよね。
──上野? 似合わないですね。
正巳 恵里子が筑波まで来たときには、横浜まで送って、また筑波に帰った。いやあ、大変でしたよ、われながらよくやりました。今じゃ考えられない。
恵里子 仕送りで大学行かせてもらってるからって、デートのお金もなくて。研究の結果、ビールと枝豆の安い店は全体的な相場も安いってことになって、上野の居酒屋さんを愛用したり、わたしが筑波にお弁当を二つ持って行って、交通費分をやり〈りしたり……。
正巳 うー、貧しいなあ。海外に行くと国際電話なんて三日にいっぺんで、もっばら手紙だったね。
恵里子 遠征最後の手紙はいつも、帰って来てから届いてた。

「予選の途中からは縁起をかついでばかりでした」

──そんななかで、いつかはW杯に連れて行く、とか、夢も語り合ったんじゃないですか?
正巳 いや全然。W杯って知らなかったでしょ? あのころ。
恵里子 うん。国際試合はみーんなおんなじだと思ってた。当時国際試合も、競技場は西が丘(東京都)でガラガラだったし。
──それでJリーグが始まった'93年に結婚しましたね。W杯を二人で意識しだしたのは、やはりこのころからですか。
正巳 結婚するとき、アメリカ('94年米国大会)には一緒に行こう、と。やはり2度目のW杯挑戦からですね。
恵里子 ドーハ('93年の最終予選)のとき、身をもってサッカーの怖さを知ったんです。時差のせいで、マスコミのみなさんに試合がまだ終わる前の、予定稿っていうんですか、ほかの奥さんもなさってるとかで「お疲れさま」というようなコメントをしたら……。あのとき、彼は最悪のコンディションのなかで戦っているのに、私はなんでこんな能天気なことをやっていたのかと泣いて自己嫌悪に陥りました。
正巳 あれには懲りたみたいだね。あれ以来、もし、とか、だったら、とか、いっさい言わなくなったもんね。今じゃあ、代表の試合の切符を知人に頼まれても、その時点で代表に入るかどうかわからないから、なんて断ってる。

──昨年のフランス大会の予選中は、お互い相当つらかったのでは?
恵里子 それがけっこう前向きで。何言われても、絶対に結果を出すから心配するなって、私には。いつもとあまり変わらなかったね.
正巳 でも報道陣にそれを言ったら、井原は楽観的だって叩かれ、沈んでいたら、主将がもうあきらめたのかって。いったいどうすればいいんだよって感じで。でもあのころのカズさんらFWの選手の苦しさに比べれば、「主将として」なんて、外に言うのも嫌だった。家ではそう言ってたな。
恵里子 そう、なかでも中央アジアだよね。ウズベキスタン戦、テレビで見ていて、試合終了5分前までもうダメだ、どうしよう、どうしよう、ってずっと泣いてたんですよ。だけど、毎年参拝して二人とも持っている筑波山のお守りを引っ張り出して、握りしめて応援してるうちに点が入っちやって。縁起かつぐのが嫌いなのに、それ以降、今度は離せなくなって……だからいつも持ってた。
正巳 不調だった10月、来月になればツキ(月)も変わるから、運も変わるさ、なんて恵里子が話していたよね。11月に入って韓国に勝って、ほーら、言ってたとおりだってことになって。
恵里子 あのへんから、もう縁起かつぎの他力本願状態! ソウルでの韓国戦には、エコノミーで行ったからって、ジョホールバルもエコノミーで、お守り握って。それまで黄色だったキャプテンマークを韓国戦から赤に変えたんだけど、それで勝つと黄色に戻せなくなって、それにユニホームも、韓国で着ていて勝ったからって、もう小道具だらけ。
正巳 でもジョホールバルでは、僕のユニホーム、かばんに入れて最初は着てなかったんだ。
恵里子 そしたら、1−2にされちゃって、これはマズイ、って、私、おもむろにかばんから出して着て。でも周りに人がいて私ずかしいから、トイレとかではまた脱いで。あれは疲れた。
正巳 今回は決まった瞬間というか、夢が実現したとき、同じ場所にいられたからうれしかったな。それにしても恵里子の応援は人様にはお見せできないらしいよ。友達に聞くと、ギャーギャー言ってて、うるさいって。
恵里子 あの予選はみんなそういう応援でしたよねえ。とにかくよかった。みなさんの応援のお陰です。それと、国際電話代!
正巳 そうそう。めちゃくちゃ高い。わかっていながら長電話で。帰ってから莫大な料金眺めながら、これだけ使うんだったら、電話はやめて、何か買おうや、っていつも話すんだけどな。
恵里子 私は遠征に行っているときの電話代は、仕方ないかなって、もうあきらめてます。

「ドーハのときの写真、いまでも台所に貼ってます」

──健康管理など、日常生活で気にすることはある? 食事には気を使うんじゃないですか。
恵里子 私は神経質にならないことにいちばん気をつけてるんですよ。けがだって、私が騒いでも仕方ない。ふだんは、気持ちにゆとりのある生活をしてもらえるよう、それだけ心がけてます。睡眠も大切にしてますね。食事は、魚中心で、はとんど菜食という感じの献立。でも何でも食べますよ。
正巳 結婚してからは、魚が好きになって、食べ方もうまくなったんです。今、肉を食べるのは、みんなで焼き肉に行こう、っていうときくらいだね。
──そういえば、リック(ゴールデンレトリバー)は?
恵里子 飼い始めたのが、マリノスがリーグ初優勝した'95年。それでW杯にも連れて行ってくれた。なかなか運のある犬です。
正巳 犬といると、心が安らぐよね。気分転換にもなるし。うちでは、僕より偉いんだ。恵里子に何か頼んでも、先にリックの用があるから、なんてね。おいおい、おれじゃあないのか、って思うときもあるんだけどな。
恵里子 スネないでください。

──ところで、ドーハの後、この悔しさを忘れまい、って、台所に張っていたロスタイム同点直後の茫然自失の写真、どうしました?
正巳 もうそろそろいいんじゃないかと思ったけれど、とりあえずもう一回貼っておこうやって、そのままです。
恵里子 そう。あの写真見ると、すごく大変だったんだなあ、って私も思うんです。お互い忙しいと、きついこと言ってしまったりするでしょう。そんなとき、あの写真を見て、そうだ、私が家のこと全部やってしっかりしなくちゃって初心に帰る気がするんです。
正巳 あの日があってここまで来られたって、よく話すよね。ハングリーさを思い起こさせてくれる。
──代表として100試合出場も達成し、W杯の夢も実現し、そろそろ引退なんて考えませんか。これからの夢って何ですか。
正巳 気持ちがだめになったら、潔く引こう、と思ってます。でも気持ちさえ続くなら、自信があるなら、ずっと代表でいることにこだわりたい。でも精神的な葛藤がしんどいんでしょうね、きっと。俺もうだめなのかな、って。
恵里子 私は引退なんて全然考えてません。サッカーをしてるときがいちはんカヮコいいし ここまでジャージの似合う人はいませんよ。
正巳 それって褒めてる?
恵里子 もちろん。続けられるところまで続けてほしいですね。Aマッチ出場の記録は、もう誰も抜けないぞ、っていうくらいまでやってほしい。
正巳 フランスに行けたことで、たしかに夢のひとつはかなったし、それはとてもうれしいことだけど、自分の競技生活はこれからが正念場なのかな、とも思ってる。夢、ですか。何だろう、いつかのんぴり旅行することかな。恵里子は?
恵里子 家のローンを返すこと。
正巳 それって夢じゃなくて超現実じゃない。
恵里子 でも忙しくしているうちが華でしょう。本当の夢は、フランスでの勝利。またお守り持って応援に行くから、できれば、得点も取ってください。
正巳 それはまた難しい注文だなあ。僕の夢も、やっばり決勝トーナメント進出、ということにして、また一緒のグラウンドで、同じ夢を見たいね。

週刊朝日・'98.5.20号より再録)

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