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中田英寿


彼が表現したいのは
自由に対する“強い意志”だ

 中田に、「言葉」はいらない。
 例えばメディアにひと言もコメントしなくても、サインや写真に応じるファン・サービスをしなくても、彼がどんなプレーヤーであるか、何を言いたいのか、あるいは、どんな人間であるのか、グラウンドでの姿を見ていればわかるからだ。
 そして性別を問わず、年齢を問わず、彼のプレーが多くの人を惹きつける理由があるとすれば、それは彼がグラウンドで見せる「何か」に対する強い意志のせいではないか。
「Jリーグに入ることを選んでから、自分はいわばサーカスに入ったんだ、と思うようになった。観ている人々をアッ、と驚かす。楽しませる。良い意味でいつでも皆の、それはもちろん対戦相手も含めてだけど、彼らの予想を裏切るプレーをする。でも、裏舞台はいっさい明かされない。サッカー選手として、そういうプロになりたいと思う」
 日本代表の中心準手となるずっと以前から、中田は、サッカーは発想の勝負なのだと話していた。
 だから、発想を新鮮に保てないことや、面白い冒険──それは決してトリッキーということではなく──に挑戦できなくなる硬直した思想を嫌う。それを思うあまり、あえて競技とは離れた日常浸る。いかに忠実にサッカーを追い求めているか、と言って良いだろう。
 彼とW杯のことを話した中で、唯一印象に残っているのは、ヨハン・クライフ(オランダ)についてのものだ。
 '94年のアメリカ大会期間中も、彼はW杯は寝不足をガマンして観るようなものではないと笑い、とちらかといえば無関心だった。それを観るくらいなら、過去、現在を問わず、ダイジェスト版のビデオを観た方がずっと参考になると話し、そのころに観たビデオのことを解説してくれた。
「自分は観客ではないから、人のプレーをビデオで研究することなんて、あり得ないんだ。その発想は世界に1つしかない、つまり真似できないからね。でも、あのクライフっていう人のプレーは面白かった。プレーが、ということではなく、あれだけのアイデアを枯らさない頭の中身が、という意味で。ウールドカップって、ああいう人達が勝負するところなんだろうね」
 後にも先にも、W杯への具体的な思いを聞いたのは、これが、ただ一度のような気がする。と同時に、これだけで、もう十分な気もする。
 あれから4年。そういう人達が勝負するところと表現した舞台に自分も立つ。
 フィジカル・コンタクトは苦手だから嫌だ、と話していたミッドフィールダーは、当初の決心を貫き通した。サーカスの魔法のように、「舞台裏」を決して人々に明かすことなく、いつの間にか肉体を変え、ポールを蹴ることのできるポイントを増やし、視野を広げた。相手のファウルに倒れることもなければ、審判に文句を言うことも一切ない。
 中田がグラウンドで見せる「何か」とは、多分「自由」だ。誰にも真似できない、(戦術とは別に)誰にも強制されたものではない、その自由な発想こそ、サッカーを通して彼が最も表現したいものであり、性別、年齢を問わず、多くの人々が彼のプレーに惹きつけられる最大の理由ではないだろうか。
 そして、その自由さゆえに、サッカーは人種を超え、世界中を熱狂させるのではないだろうか。
「サッカーとは、内なる自由の品評会のようなものである」
 クライフは、かつてそう言ったという。
 ならば中田は、内なる自由の大品評会・W杯で、いったい何を見せようとするのだろう。

(『ぐぁんばれ! サッカー日本代表 '98フランス・ワールドカップ観戦読本』・より再録)

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