[特別対談]
ラモス瑠偉×都並敏史
「選手にとっての名将の条件」。
Ruy Ramos × Satoshi Tsunami


ラモス瑠偉は代表も含約れは実に22人の、都並敏史も18人もの監督とともに、日本サッカーの黎明期から、劇的な変化を遂げたこの20年間戦ってきた選手たちだ。豊富な体験を持つ彼らにとって「名将の条件」とは一体何なのか。2人が率いるチームを、ファンは将来見ることができるのだろうか。彼らのキャリアから過去、現在、未来を探りながら、サッカーにおける名将の理想像を描いていく。

──引退されてみて、今、あの監督が自分にとつてNo.1だったな、と思われるのは……ラモスさん、誰を思い浮かべますか。
ラモス ネルシーニョ監督('95年川崎)が一番好きだったんです。あの人は試合を見る目が全然違っていた。ベンチ座ってるだけじゃないのね、ハーフタイムには何で負けてるか、どうして苦しい試合なのか、こういうふうにやれば勝てるから信じてくれ、と説明をきちんとできる監督だった。そういういい指導者が日本にも増えていかないと、サッカー、ダメになるね。
都並 僕もネルシーニョですね。自分が経験した監督の中ではダントツでした。
ラモス 都並やっばりすごいね。尊敬するよ、あなた。だって、ネルシーニョの時に、この人(都並)ポジションなくなったんだから。でもネルシーニョを藷めるっていう、そういぅ考え、半増じゃないね。別にネルシエーョの名前あげなくたっていいのに。
都並 ああ、そんなことは全然恨まないですょね、プロは。監督はそれが仕事ですし。それに、監督としてだけじゃなくて、人間として尊敬する人もネルシーニョと公言している。それくらい、僕は彼が好きなんですね。
ラモス そうぬ、人間としても尊敬できる監督という意味では、京都に移籍した時のオスカー('89年日産・'95年京都)も素晴らしい人だった。監督って、勝っているときよりも、負けてるとき、うまくいかないときに、本当の姿がわかるものだからね。オスカーは、ブラジル代表のキャプテンもやった人で、京都で結果が全然でないとき、チームの上の人たちも、彼のイメージや経歴を考えて、クビを切ったりすることのないように、いつ辞めてもいいんだ(辞任という形を取る)って言ってたんだ。第一、連敗もオスカーの戦術や選手起用の責任というんじゃなくて、あの時の京都には勝てる要素がなかった。選手のキャリアもないし、クラブの経験も浅かった。でもね、オスカーは絶対に尻尾巻いて逃げたりしなかったのね。あれは凄いと思った。
都並 監督って、クラブに入るときと出るときって、自分である程度考えていなければならないし、当然、打算的な部分も必要でしょう。でも、それをピッチの上では絶対に出してもらいたくないというか、グラウンドの中だけは、俺たち一緒に戦ってるんだっていう連帯感を持って欲しい。監督が、次のこと考えてると、選手も自然と、次、のこと考えちゃうもんなんですよ。
──逆に信頼できない監督とは、どういう監督でしたか。別に固有名詞じゃなくてもいいんですけれど……。
ラモス カルロス・アルベルト('90年読売クラブ)。
都並 来ましたねぇ、いきなり固有名詞。嫌いだったらしいんですよ、まあお互いさまでしょうけど。
ラモス そうそう、向こうも選手として僕が大嫌いだったね、間違いない。とにかく1年教わっても何も答えてもらった記憶がなかったんです。彼は確かに、すでにいいキャリアを持って日本に来たすごい監督だったと思う。でも、その看板ばかりに頼っていて、日本のサッカー、読売のサッカーを真剣によくしようというよりも、こちらを見下しているようなところがあったね。
都並 俺はラモスが言ったような悪い監督とは思いませんでしたね。結果はしっかり出したわけだし、中盤が読売のサッカーの中心だと、しつかり据えていたし。戦術的にも、ちょっと変則で4・2・2・2と面白かった。日本の戦術には合っているかな、とも思ったし、読売に初めて適材適所みたいな考えをもってきたのは彼でしたからね。
ラモス 都並は、まだその頃は純粋だったんだよ。全日本でも元気一杯だったもん。都並はどう? 合わない監督。
都並 う−ん、本当にそういうのはないですね。個々に、嫌な面を見たのはあるけれど、許せないとか、自分のキャリアに悪影響を与えたとか、そういう人はいない。100人いたら、100通りの指導論があると思う。でもこれだけは嫌、というなら、さっきも言いましたが、ピッチに政治的なものを持ち込んだり、選手に責任を転嫁する人ですかね。
 例えば翌日の新聞で、監督コメントなんか載ってますよね、選手は読んでますからね。あれで、選手のせいにしているのがあるじゃないですか。でも、その選手使っているのはテメエだろ、って、僕はああいうのは許せないですね。
ラモス 多いよ、そういう人の方が。あと、自分は直接やってないけど、ベンゲル監督('95年名古屋)も尊敬できる。それは、スターが揃ったわけでも何でもない、名古屋のようなチームを強くして、選手たちからも話を聞くと、やっばり監督の力って影響力があるもんだなあと思いましたね。僕とも、2回監督やったジョージ(与那城、'86年読売・'92年京都)は、チームがうまくいってないところで引き継いだ人だけど、彼なんかもすごいね。そういう難しいところで、ちゃんとまとめていける力を持ってる。
──代表ではどうでしょう。おふたりがともに大きな影響を受けた監督といえば、オフト監督('87年マツダ・'94年代表・'94年磐田・'98年京都)ではないかと。
都並 間違いないですね、尊敬しています。ネルシーニョにしても、オフトにしても、サッカーの戦術として確固たるものを持っていた。何より、人間的に素敵だったんです。
ラモス 僕は、それまで日本代表はブラジル人の監督がいい、と雑誌なんかでも言ってたのね。オフトとは喧嘩もした。でも分かり合えた。そこが凄いね。あの代表ではサブの選手だって文句なんてなかったもの。

    「ネルシーニョが見せた熟い演技と
    冷徹な判断力のバランス。そして、
    オフト監督が骨折していた都並敏史を
    最終予選に帯同した本当の理由とは?

──ここまで伺っていると、サッカーにおいての名将には、ひとつの共通項があるように思います。ネルシーニョ、オフトにしても、さまさまな顔を使う、いわば役者さんのような要素があったんではないでしょうか。
ラモス あるね。信頼閑係を築いたり、団結したり、その時々でいろんな演技する。
都並 いろいろとありましたよねえ。これはラモスのでも、自分の本でも出てくるんですが、川崎で、柱谷とビスマルクが大喧嘩になってハーフタイムも熱くなって収まらない。あの時、殴り合わんばかりの2人を前に、ネルシーニョは諫めるどころか、それを上回る勢いでバーンって白板ぶっ倒して、先にキレてしまった。あまりの迫力にシーンとなってみんな一瞬にして冷静になった。そう、9連敗したこともあったね。でも文句が出なかった。
ラモス 信じられないよ、読売で珍しい。
都並 連敗中、確かチンタラした練習をやったことがあった。そしたらネルシーニョ、俺はこれだけ考えていても、お前たちがプロとしてこんな有り様じゃ仕方ない。もう俺はブラジルに帰る、って本当に出て行っちゃった……あれー、ネルシーニョ、本当にあのままブラジル帰るんじゃねえか、って迫力で。
ラモス そうそう、それでみんなで集まって、後でちゃんと柱谷と謝りに行くから、今みんなで不満ぶつけ合おうって話し合った。
都並 でも、あの男らしさって、ピリッて鳥肌が立ちましたよね。
ラモス 結局、裏表がなかったということだね。自分も何度も呼ばれたし、その度に思い切り話し合った。ああいうことがうれしいよね、信頼されてるんだって。隠したりそういうこともない。監督は、最後の最後まで絶対に選手の方についていないといけないと思う。
──役者としで振舞えるということは、裏を返せば余裕があるってことでもありませんか。自信とでもいうか。
都並 心理面をしっかり把握しているということでもありますね。チームの波風をちゃんと察知する。しかも、戦術的には、確固たる理論ですよね。采配、選手起用、情熱。この3点じゃないかな。
ラモス オフトもそうだったね。役者としての部分では、ロッカーで韓国代表のメンバー表破ったりなんてこともしていたし、戦術は信頼できるものだった。理論と人間性と、グラウンドの中と外と、両方があってね、本当に尊敬できるんです。この人を男にしてあげなくちゃ、って自然とチーム全体が思い始めるんだ。そういうまとまりって、なかなか生まれない。
都並 それと、もうひとつ大事な要素が、ある意味での冷徹さじゃないかと思うんですよ。ネルシーニョも、オフトもそれは非常にはっきりしてました。
ラモス ああ、それは絶対に必要ですね。それは、選手と選手を競争させるっていうところに出てくるね。
部並 そう。ネルシーニョが日本に来たとき、3年でチームを若返らせると前評判があって、ああ、俺もばっちり入ってるなあ、とね。でもね、結局その通り3年で川崎を辞めたんですが、最後は有難うございました! って、文句どころか、ルンルンで出て行けた。選手の気持ちを大事に愛情を見せて、冷徹で、彼の手腕のまま動いていたと思いますね。
ラモス いい監督はチャンスを与えるんじゃなくて、チャンスを作っていくんだよ。
都並 競争意識と愛情のバランスとでも言いますか。例えば自分だと若い選手2人とサイドバック競り合うじゃないですか。1試合使ってもらう、よし次も、と思う。次も出て勝った。でも調子が下がったかなと思う。すると彼が部屋に来て、「都並どうした、少し落ちてるんじゃないか」っで言うでしょ。ああ、俺次外されるな、って覚悟すると先発なんですよ。ヨーシ、滅茶苦茶がんばってやろうとがんばると、4試合目はスパッと代える。もう絶妙ですよね、そのタイミングが。最後の最後まで絞り取ってからですもん。
ラモス 選手ってね、なんでこの監督このまま、あの選手使うの、何で代えてくれないの、ってそう思うのね。でも、チャンスがちゃんと平等に作られてるって思えれば、それで、なんで今自分が落ちてるか分かるんです。じゃあまたがんばれば絶対にチャンスくれる、って。そういう信頼関係がものすごく大事なんだ。サブも不満がないような。
都並 オフトもそうでしたよ、同時にある意味、非常に冷徹というか。
ラモス 都並が骨折していたのにメンバーに入れた。あの時、選手の気持ちを考えれば、もし都並を外したらみんな怒ったと思うし、バラバラになった。大事な決断だった。
都並 そうですよね。骨折してもう出られないけど、仲間じゃないか、最後まで一緒に戦うんだ、ってね。そうやってチームの結束に、いい意味で利用はしておきながら……。
ラモス だけどそれだけじゃない。
都並 そう、空港で、オフトに呼ばれて、いいか、お前の足はノーマルだ(骨折していないという意味)、新聞記者には絶対に言うな、ってね。エーッ、本当に、なんちゅう人だって、あれは忘れられないですね。
──つまり、公にしては、その是非を巡って賛否両論が沸いてしまう。だから公にはしないで、内部のモチベーションには利用するということですね。驚かれた?
都並 みんなの前で家族だから連れていくと言ったわけではないんでね。俺に言わせりゃすごい話ですよ、あの人の冷たい部分をピチッと見たわけです。逆に、すげえ監督だな、と。勝負をかけたら、何でもカードを切るんだ、と。これはいい意味で衝撃的な感じでしたね。役者に代表される人間味と、正反対の冷徹さ、これが不可欠なんでしょう。

    引き出しにたっぶり詰まっている
    選手時代の経験をいかに活用するか。
    課題は表現力と実地指導の方法論。

──選手が監督をどう見るのか、というテーマですと、現役ではなかなか難しいし、逆に監督を一度でもやってしまうと、これまた選手の目ではなくなります。ですからきょうのような話はなかなか出て来にくいと言えます。ほかの種目、例えば野球などで興味を持つ監督さんは、いますか。
ラモス 僕は星野さん(中日監督)、すごい興味がありますね。選手の使い方とか、選手がグラウンドに出るまでの環境作りっていうか試合に出るっていうことの意味を選手に分からせようとしてると思いますね。ベンチ蹴ったりね、あれいいですよ、すごく。伝わってくるよ、こっちに、今回ベンチだけど、今度はお前の脚行くよ、この野郎、ってね「も選手はちゃんとついて行くもの。
都並 僕は、アビスパ(裔)で、ホテルがオリツクスの常宿と一緒で、何度か話を聞くチャンスがありましたね。監督というか、コーチの存在を学ぶものとして、中西太さんですね。中西さんがチームで何をしてるかって、ずいぶん聞いたんです。
──仰本監督、ではなくて。
都並 ええ、コーチとの連携ですか。オリックスは一応、食事の時間が区切ってあるらしいんですが、監督は帰ってくるとすぐに飲みに行っちゃうらしいんですよ、噂通り。選手も出かけていいらしいんですが、でも一度はその食事の時間に席につかないといけない。中西さんだけは、1人でずーっと食堂にいて、入れかわり立ちかわり入って来る選手をつかまえて、いろいろと細かな話をされるんだそうです。サッカーとはちょっと違いますよね、野球のやり方は。でも、監督がコーチに全幅の信頼を遣いているというのが前提でしょう。
ラモス そうそう、あとは選手にとってもコーチのほうが話しやすいというのもあるかもしれない。それすごく大事なことだよね、コーチをちゃんと立てて、うまく起用していくってこと。例えば、私が監督で都並にコーチ頼む。そしたら監督と同じだよ、っていうくらいのポジションと力を与えなきゃ。そのとき、俺より上じゃ困るとかね、そういうんじゃ絶対にダメ、何だそれ、ってなる。
都並 同じ価値観のもと、最後まで一緒、という人とやらなくてはいけませんからね。自分の理想と違う、価値観も違う、だけどとにかくコーチと監督だっていうんじや、お互いストレスが溜まるだけてすよ。
──指導者としての青写真のようなもの、すでに描いているんですか。
ラモス 条件が揃えばということね。私の出す条件に合わせてもらえるんだったら、高校生だって見てみたい。それより都並だよ、きょうここで話を聞くまでは、自分のほうが先に監督になるんだろうから、都並にコーチお願いしてやってもらいたいな、つてずっと思ってきたんだけれど、この人のほうが可能性がある。考えが変わったね。
都並 自分もそうなりたいって言ってはいますけどね。でも周りが言っていたり、いまのとこは口先だけですよ。
ラモス そんなことない。監督同士ピッチの上で、なんで都並きょう勝ったの? 教えてよって聞いたりしてね。
都並 まだねぇ。ラモスなんて監督というより、プレーしてる夢見るっていうんだからね、信じられないよ。
ラモス マジな夢だよ。
都並 経験はぼくら十分あるんです。それは絶対に有利ですね。でもね今、巡回コーチなんてやらせてもらってるんですが、もうこれが、恥のかきっ放しで。真っ赤になって帰ってきますよ。
ラモス 何で? コーチの経験、スクールで何百人だって一度に教えてたじゃない。
都並 いやいや、例えば、DFの4バックの絞りが甘いんで、きようはそこを修正する方法を教えていただきまししょう、なんてね。そぅいう非常にポイントを絞った要望なのに40人も参加してる。
ラモス ウワー、それは辛いね。そうか、そぅいう教え方ってしたことないもんね、私だって40人にそんなポイント絞って教えられないよ。まずは時間が必要になっちゃう。なるほどね、何百人じゃなくてそういう難しいのをスクールでやってみたいね。
都並 要するに経験の引き出しはあるんだけど、これを出して広げる表現方法がまだ足りなさ過ぎる。僕は新米コーチなんで、と向こうの先生に謝っても、いやいや、もう都並さんですからって。方法論がないんですよ。
ラモス そこが一番大事。選手への伝え方が本当にすべてなのね。いくら頭良くて分かってても、いくらサッカーよく知ってても、伝えないとダメ。だから今、あえて外から見ていたいんだ。
──最後に監督になるとすれば、どんな監督になると思いますか。おふたりとも厳しいのでは、と思うのですが。
ラモス でも夜は、優しい監督。
都並 僕の理想は、とにかく切れ目なくオファーをもらえるような監督ですか。クビになっても、理論がしっかりしていれば、またどこかで請われるわけです。
ラモス とにかく大事なのは、自分の決断が、どうできるかってこと。さっきも出ていた、心を鬼にできるか、冷徹な人間にもなれるか、ってことなんだ。今の自分には、まだそこまでの決断ができない。もし指導者を目指して、ってことになった場合には……あなたも同じだよ。監督として、心を鬼にする覚悟が、できたかということなんだよ。

●つなみさとし/1961年8月14日、東京都生まれ。37歳。'80年読売クラブ(現・ヴェルディ川崎)に入団、'96年アビスパ福岡に移籍。'97年ベルマーレ平塚こ移籍後、'98年引退。読売では相川亮−、千葉進、グーテンドルフ、与那城ジョージ、カルロス・アルベルト、ジョゼ・マシア(ペペ)、松木安太郎、ネルシーニョ、福岡では清水秀彦、パチャメ、平塚では植木繁晴、代表では森孝慈、石井義信、ハンス・オフトなど、多数の監督を経験した。

●らもするい/1957年2月9日、ブラジル・リオデジャネイロ生まれ。42歳。'77年に来日し、読売クラブに入団。'96年京都バープルサンガに移籍するが、翌年ヴェルデイ川崎に復帰。'98年引退。読売では都並敏史と同様の監督たちに加え、エスピノーザ、ニカノール、川勝良一らも経験。また京都移籍後はオスカー、与那城ジョージ、ベドロ・ローシャの下でプレー。'89年に帰化した後、代表入りし、横山謙三、ハンス・オフトらの監督も経験。

Number 472号より再録)

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