競技場の芝師と緑の悪魔

中央公論97年5月号


    芝は、冬になれば枯れる──それが、当然だった。
    その“当然”に挑戦した男がいる……

日本の“五季”

 鈴木憲美氏を待ちながら、わたしは石灰と、ほこりの匂いが混じった国立競技場の用具置き場で、ラジオを聞いていた。薄暗い通路には、「気温は5月上旬並。都内の桜も間違って咲き始めてしまいました」という気象予報士の弾んだ声が響き、競技場のトラックには、うっすらと陽炎が立ちこめている。
 ふと、ピッチ(芝の部分)に目をやると、わずが2日前に訪れた時とは明らかに違う、緑の芝が、強い日差しに輝いていた。
「お待たせしました。この暑さと風でしょう。もうかゆくてしようがない」。その声に振り向くと、いつものように日焼けした鈴木氏が、笑顔で出迎えてくれた。花粉症のせいで目が赤い。
「おー、動きだしたな、やつら。この陽気じゃ、もう、いても立ってもいらんないんだよ。あれ、随分(芝が)伸びたなあ」
 やつら、とは人ではない。この場合、芝のことを指す。厳密に言えば、この時期を境に少しずつ力を衰えさせるはずの冬芝が、適温ともいえる気温の上昇ゆえに勢力を取り戻した、そういう状態を指している。
 事務所にはいつも、翌日の天候、気温が書き込まれ、手入れを入念にするよう徹底されている。「3月、4月は、冬芝が夏芝にスムーズにバトンタッチをするようにしてあげる、まあ忙しい時期のひとつだね。暑くなったかと思えば、雪も降る。三寒四温で気温も安定しないしねえ」。話を聞きながら、いいですか、と許可を求めると、「どうぞ」と促してくれた。靴を脱ぎ、裸足で芝生を踏んだ。ひんやりとして、柔らかな感触から離れがたくなった。
「よく日本の四季、っていうでしょ。でも四季じゃないんだよ、日本の芝にとっては。なんだと思う?」。まるでなぞなぞの答えを待つようだった。「五季、なんだよ。梅雨は芝にとってひとつの季節なんだ。だから難しいんだね」。サッカーJリーグの開幕により、1年を通じて芝が青い(通年緑化)こと、さらにサッカー、ラグビーといった冬場のスポーツの酷使にも耐えられるような、「スポーツターフ」を敷き詰めることが要求されるようになった。しかし日本には四季、梅雨、台風などがあり、芝の育成では圧倒的なハンディを負う。国立競技場はこうしたハンディに対応し、しかも真冬でも青い芝を保つために、数年前から夏芝、冬芝の両方を植え、気温の推移によって両方の芝が自然に勢力交替を行う「二毛作」を行っている。
 全国にいる「グラウンドキーパー」たち、芝に関わる何百もの人々は、この数年、緑のじゅうたんを1年中敷き詰めようという「夢」の実現にかけてきた。それは何より、日本には根づいていなかった「芝とスポーツ」というある意味での新しい文化を生むための奮闘でもあった。鈴木氏の存在は、その戦いのシンボルでもあり、国立競技場の芝は夢の形でもあった。

グラウンド着色、という発想

 鈴木氏は、芝を「緑の悪魔」と呼ぶ。
 例えば、異常気象で猛暑が続けば夏芝の新芽はつぎつぎに枯れ、ピシウム、というカビにやられて死んでしまう。サッカーグラウンドなどでは太陽が均一に当たるために例は少ないものの、日当たりが原因だ起こる「ブラウンパッチ」病などにかかったら、信じられないことに、たった一晩でグラウンドの広さ程度の芝が枯れてしまう。悪魔の仕業である。
 夏、冬の芝を合わせて使っているため、葉の太さ、クキの大きさなど、芝の性質がどんどん変化してしまうこともある。慌ててDNA鑑定に持ち込んで調べると、いつの間にか購入した時とは違う性質に変化している。つまり手入れの仕方も根本から変えなくてはならない。そんな失敗もある。雪が降りそうならば、競技場の通路下にある4畳半ほどの部屋に泊まり込み、雪が固まらないうちに処理しなくてはならない。夏と冬の芝のバランスを見て、芝を間引きすることも欠かせない。スタッフ全員が、こうした日々の、わずかな、それは本当に小さな変化に神経を使っている。
 日本の芝は、冬になれば枯れる、それが当然だった。青々とした芝の上で年中スポーツを楽しむ、そんな習慣はなかったからだ。しかし、国立競技場で行われたサッカーのクラブ世界一決定戦、トヨタ杯が、挑戦への第一歩となった。
 サッカーの欧州No.1クラブと南米No.1クラブが対戦する、「クラブ世界一決定戦」トヨタ杯が、1981年、国立競技場で始まった。世界のスーパースターが集まり、両大陸には衛星中継されるというイベントの大きさとは裏腹に、舞台は最高のフィールドとは言い難かった。当時の国立競技場は、いわゆる日本芝の高麗芝を敷いていた。10月を過ぎると、低温に弱いというその特性から一気に枯れてしまう、そんな状態にあり、内外のマスコミに批判された。
 実は見た目を気にするあまり、緑色の塗料を混ぜた肥料を撒いて、グラウンドに少しずつ着色していたのだ。当時のビデオを見れば、その「緑」の不自然さに思わず吹き出したくもなる。しかし、枯れた芝に着色する、という見かけ倒しの発想こそが、当時の日本スポーツ界と、芝の関わりの「現実の姿」でもあった。
 鈴木氏が、何より堪えたのは、選手の反応だったという。
 彼自身もサッカーファンである。憧れのW杯で活躍し、当時、夢のまた夢、そんな存在だったスーパースターたちが、競技場に脚を踏み入れたとたん、あきれた表情を見せる。「おい、ここがナショナルスタジアムかい?」、「練習用のフィールドだろう。で、本物はどこだい?」。自分の傍らで選手がそんな会話をするたびに一言一言が、グサッ、グサッと胸に突き刺さっていく。「そのうち、こんな中途半端な仕事、グラウンドキーパーとして自分にはずかしいじゃねえか、って思い直したんだね」。よし、枯れた芝なら枯れた芝で、まずは手入れの行き届いた芝を提供しよう、土台も水たまりや埃もあがらないような構造にして、いうか真冬にも緑の芝を敷けるようにしよう、そう決心した。

“緑の悪魔”との戦い

 実はまったく同じ時、同じように決心した男がいた。タネなどの販売業者でもある東洋グリーンの柳久社長(当時)も、海外出張帰りの機内で、偶然、トヨタ杯が放送された際、外国人に「あなたの国は世界一の金持ちなのに、青い芝のグラウンドひとつ持っていないんですか」と嘲笑された。「彼も、もう完全に頭きたよ、絶対に最高のグラウンド作って見返してやろう、ってね。何だって協力するから、まずは現場から変えていこう、と言ってくれましたね」。2人を中心にした強力な「タッグ」は、日本の「スポーツターフ」に大きな変化をもたらすきっかでとなった。
 芝、とひと口に言っても、イネ科の植物としてその種類は40種類にも及ぶ。芝草の分類は夏芝(暖地型と中間型)、冬芝(寒地型)の3つに分かれ、日本では従来、中間型の高麗芝や、ヒメコウライ芝などが敷かれていた。丈夫ではあるが、気温が10度を下回ると枯れる。逆に寒地型の西洋芝は冬場に青々としているものの、湿度と暑さに弱いため病気にやれれてしまう。そこで、両者の長所を生かす「二毛作」が採用された。
 日本では、芝といえば「見る」ものであり、イギリスで生まれたスポーツに代表されるように、芝を「使う」ような習慣はなかった。日本に芝生を用いた庭園が作られたのは、明治36年の日比谷公園が最初と、かなり新しい輸入庭園の形であったことがわかる。その2年前の明治34年に、神戸、六甲にゴルフクラブができるなど、日本の「スポーツターフ」の歴史は主にゴルフとともに始まり研究されてきた。鈴木氏らも、当初はゴルフ場、競技場、野球場と各施設を回った。
 どこも主に二毛作をとって通年緑化をはかるようになった。ゴルフは見た目より刈り込みといった技術が優先され、競場は青々とした芝が、ギャンブルのイメージを大きく変えることにもつながる。国立競技場は、芝を真冬に酷使するなど、それぞれ違う条件を負う。そんな中、静岡の名門クラブのグリーンキーパーにも教えを受けた。当時を楽しそうにふりかえる。
「なにもやる前から、どうしたらいいか、なんて心配してるようじゃ、到底、年中青い芝なんて育てられない、って叱られてさ。やるのか、やらねえのか。後戻りはないんだ、芝を育てるっていうのは、前進あるのみ、なんだって迫られたよ」。「やります」と応えた瞬間、「悪魔」との終わりなき戦いが始まった。今ではその必要もなくなったが、千葉の自宅の庭に芝を持ち込んで変化を研究したこともある。

散水百年

 芝の文化、とはどんなものなのだろう。ニコス・カザンキナという人が書いた『イギリス』という本の中に、こんな文章を見つけたことがある。「イギリス人の心臓を解剖すると、そのちょうどど真ん中に、一片の刈り込んだ芝が見つかるに違いない。(中略)そして、イギリス人の天国は芝生で飾られている」。生活に、まさに芝が根づいている。
 イギリスで生まれ育ったスポーツにはサッカー、ラグビー、テニス、クリケット、ポロ、競馬、ゴルフがあり、すべて芝の上で成り立つスポーツである。ポロ競技を観戦した時、ハーフタイムに観客全員で荒れた芝を踏み固めている姿を見たこともある。それが、ルールである、という。
 イギリスにはサッカーの聖地、と言われる「ウエンブレー・スタジアム」がある。ここでは、代表の試合、もしくは、国内トーナメントの準決勝か決勝のみが行われることから「イングランドのプライド」とも呼ばれる。聖地の威厳を保つ芝は、10人ものグラウンドキーパーの手により、常に最高の状態にある。95年、日本代表が初めてこの聖地で試合を行った時、グラウンドキーパーに会うことができた。「特別なことは何もないね。気温、日当たり、水、適切な刈り込み、それと時間、だね」。気が抜けてしまうほど、特別なものは何もない。実は、イギリス人とアメリカ人の違いを表現するのにも、よく使われる、芝のこんなたとえ話がある。
 イギリスのどこにもある美しい芝を見て、「一体どうすれば、こんなに青い芝を育てられるのですか」と、アメリカ人が聞く。
「毎日ただ、水をやっているだけですよ」と、イギリス人が答える。
「たったそれだけなら簡単ですね」とアメリカ人が念を押すと、イギリス人は一言。
「ええ、ただし百年前、からね」
 聖地のグラウンドキーパーが言いたかったのは、1923年のスタジアム創立以来70年あまり、そうやって芝を育て続けてきた「時間の重み」だった。
 芝の存在自体が、スポーツにさまざまな影響をもたらす。サッカー日本代表のあるGKは「日本に芝のグラウンドが増えればもっといい選手が育つよ」と、芝と人材発掘の関係を解説してくれた。こどもがサッカーを始めた時、GKとしてまず最初に教えられる技術は、砂や土の固いグラウンドでけがをしないよう、一種の「受け身」をすることだという。当然人気はなくなる。もし転んでも痛くない、柔らかな芝の上ならば、思い切ったセービングの練習もできる。ラグビーでも同じことが言えるだろう。
 サッカーでは、自軍のスタジアムを「ホーム」と呼ぶ。自分たちにとって有利な状況を示すことばでもあり、その中には無論、一番やりやすい芝である、そういう意味も含まれている。例えば、南米の芝は一般的に3センチ以上と長い。芝が長ければボールは止まり、その分、技術的な見せ場が多くなる。しかし、欧州などでは一般的に短く、ボールが早く流れる分、展開もスピーディになる。国立競技場は、サッカー専用ではないことから中間的な2センチ程度にしてある。95年トヨタ杯ではこの芝にちょっとしたクレームがついた。
 欧州のクラブNo.1だったオランダのアヤックスが、PK戦にもつれ込んで勝利した後「ひどい芝だった。芝の性質のせいで、自分たちのサッカーができなかった」と酷評したのだ。
 その年、芝の性質がめまぐるしく変わる変化があり、色ムラは生じてはいた。しかし、イレギュラーをするとか、柔らかすぎて足をとられるとか、そういったものではなく、苦戦のせいで起きた「八つ当たり」のようなものだった。負けはしたが、大健闘したブラジル、グレミオの監督は「芝はすばらしかった」と絶賛している。
 Jリーグには、ブラジルのトップ選手が多く在籍している。昨年パリ・サンジェルマンに移籍した、前鹿島アントラーズのレオナルドに「ぼくは国立競技場の芝の、柔らかすぎない、でも痛くない、あの感触がとても好きだ。選手にとって、芝は激しい戦いを見守ってくれる神聖なものなんだ」と、聞いたことがある。海外のサッカー選手は、ピッチに入る時、また出る時、必ず芝をひとつつかんで十字を切る。クリスチャン、ということだけではなく、芝を通して、神に祈っているのだと、レオナルドは教えてくれた。

ハンマー投げの穴埋め

 鈴木氏をはじめ5人のスタッフは、国立競技場と隣接するラグビーのメッカ、秩父宮ラグビー場を管理している。そんなことから年に1回、国立競技場チームとラグビー協会、サッカー協会の関係者たちとが交流試合を行なう。試合をする、転ぶ、滑る、そして芝の感触や、土の固さ、柔らかさを実感する。こういう体験を常に持つことがグラウンドキーパーにも欠かせないのだと言う。鈴木氏の「原点」もまた、スポーツを愛する心にある。
 68年のメキシコ五輪サッカーのアジア予選、韓国と出場権をかけた試合が国立競技場で、行われた。鈴木氏はハーフタイムに豪雨で消えかけた白線を引き直すためにグラウンドに入った。「線を引くだけなのに、競技場全体の熱気で鳥肌が立って、足が震えるんだね。ああ、選手はこういう中でプレーしているんだ、自分もこういう感動を一緒に味わってるんだ、と」。常に、選手の気持ちを前提にする。
 例えばこんなこともあった。国立競技場で行われる大会のひとつに陸上日本選手権、学生選手権がある。サッカーブームに沸く4年前、大きな穴を開けてしまうハンマー投げにサッカー選手から「あれでは試合ができない。国立競技場でハンマーはやるべきでない」といった批判が相次いだ。
 そんな時でも“超マイナー競技”の選手に「やっぱり芝の上がいいだろう」と、聞いて歩いていた。「緑の芝の上に、自分のハンマーがゆっくり落ちていくあの感覚は、本当にたまらないんです、って、うれしそうでねえ。そういう声を聞けば手伝ってやりたいじゃないですか」。そこで競技場の入口に、長さ数メートルの芝の養生所を増設した。穴があいても、ここから同じ状態に育成した芝を植え替え、補修すれば、サッカーにも支障がない。このアイディアのおかげで、ハンマー投げは今、国立競技場で行われている。
 鈴木氏には今も忘れることができない光景がある。メキシコ五輪の代表の中に、渡辺正氏(故人)がいた。日本代表監督の任期途中、体を壊し闘病生活を余儀なくされたが、真冬の国立競技場の芝が初めて青々と輝いた89年12月、久しぶりにスタジアムにやってきた。
 青々とした芝を見るなり、再会を喜ぼうと駆け寄った鈴木氏の前で正座をし、手を合わせ、人目もはばからず泣き出した。
「ありがとう、ありがとう、こんな緑の芝が夢だったんだ、って。こっちは、日本代表が正座なんて、やめてください、って2人でグラウンドに座ってね。渡辺さんは亡くなったけれど、スポーツを愛する心を、教えてもらった。芝は彼らのためにある、そのための役割を果たす、ってことが、自分のたったひとつの信念だろうね」。芝を管理し、守る、などと決して大上段に構えたりはしない。選手とともにスポーツを感じ、愛するおおらかな心が、国立競技場の芝を育てている。
 98年のフランスW杯出場権をかけたアジア予選が3月23日、オマーンでスタートした。6月には、「ホーム」国立競技場でオマーン、マカオ、ネパールを迎え撃つ。奇しくもこの試合を最後に、芝の全面張り替えが行われることになった。芝の寿命は、用途、環境によってまったく違う。今回は芝の品質をより高めるために張り替えを決断した。通年緑化を果たした国立競技場は、新たな時代を迎えることになる。
 また忙しくなりますね、と聞くと、“芝師“”は笑った。
「なーに、前進あるのみ、だよ」

(中央公論・'97年5月号より再録)

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