2001年7月4日

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KIRIN WORLD CHALLENGE キリンカップサッカー2001
日本×ユーゴスラビア

(大分スポーツ公園総合競技場 ビッグアイ)

キックオフ:19時06分、観衆:38,147人
天候:晴れ、気温:28.0度、湿度:73%

日本 ユーゴスラビア
1 前半 1 前半 0 0
後半 0 後半 0
21分:稲本潤一

 
 

<交代出場>
●日本
HT :服部年宏(小野伸二)
68分:宮本恒靖(松田直樹)
70分:伊東輝悦(森島寛晃)
77分:久保竜彦(鈴木隆行)
89分:中山雅史(柳沢 敦)
●ユーゴスラビア
21分:クリボカビッチ(ドゥディッチ)
64分:ステバノビッチ(ボグダノビッチ)
73分:ラジェノビッチ(トロボク)
80分:チャカル(ラショビッチ)
86分:チルコビッチ(ペトコビッチ)
86分:リーストビッチ(ステバノビッチ)
 日本代表は2試合続けて同じメンバー、同じ布陣を敷いてユーゴスラビア戦に優勝をかけた。
 しかし、この日の大分は気温も34度近くまで上がり、さらに夕刻の海からの風で湿度が急上昇、試合開始時でも70%近いほどの湿度という最悪ともいえるコンディションの中での戦いを強いられた。リーグ戦での疲労も重なったためか、序盤から体が重く、加えて、左サイドの司令塔という新しいポジションに挑戦している小野伸二(浦和)のパスが前線に通らず攻撃ではチグハグな組み立てとなった。

 対するユーゴスラビアも、ストイコビッチ(名古屋)の代表引退試合という思い入れと、練習不足のために動きが悪く、ミスの多い、大味なゲームとなった。
 しかし21分、日本は前試合で2点を奪った柳沢 敦(鹿島)が、ポストとなって一度はたく攻撃を展開。柳沢と稲本潤一(G大阪)が中央でワンツーパスを交わして、稲本がミドルシュート。これが相手GKの手をかすめてゴールとなった。稲本のA代表初ゴールが貴重な先制点となったが、この後、試合はまったく動かなくなってしまった。

 後半に入ると日本はパスのタイミングが合わなかった小野を服部年宏(磐田)に代えて守備を固める。66分には鈴木隆行(鹿島)が相手GKと一対一となりシュートを放つものの右ゴールポストにはじかれるなど、何度か決定的なチャンスは作った。また、安定した守りでユーゴスラビアに押し込まれることはなく、5人の交代枠をすべて使い、フィジカル面での優位を保ち、流れをキープしたまま1−0でユーゴスラビアを下した。日本はこの大会2年連続6度目の優勝となる。

 なお、今大会のためにパラグアイから帰国した廣山望(セロ・ポルテーニョ)、1年半ぶりに招集された秋田 豊(鹿島)らの出場機会はなかった。

    試合後のコメント

試合データ
 
9 シュート 11
6 GK 9
8 CK 6
11 直接FK 20
3 間接FK 9
0 PK 0
トルシエ監督
「キリンカップを取りました。2年続けて取ったことは2002年のW杯を主催する国として価値がある。今日は優勝するに足るサッカー、攻撃的でアグレッシブなサッカーをしたのではないかと思う。コンフェデで準優勝し、今回もし勝たなければ、すぐにでもカワブチ(川淵三郎)やカマモト(釜本邦茂)といったメンバーや、テクニカルコミッティー(技術委員会)が私のところにまるで定期便のようにやってくる。そういうプレッシャーにも答えを出せたと思う。今回のディテールをしっかりと持って、次のステップを真に踏める。今回試合に出ていないが、傍にいることで非常に大きな力になってくれた選手もいる。(なぜこれだけ厳しい日程と条件で同じメンバーを組んだのか、と聞かれて)なぜかといえば、それはカップを取るというロジックのために選択したものだ。よりバランスの取れた形を取ったということになる。
(廣山のことを聞かれ)彼はまだ若すぎる。代表という(戦う)集団にはまだなっていないし、我々は今、組織だって非常に高度なプレーをしている中に入るにはまだ時間が必要だった。私たちは戦うライオンだが、彼はまだライオンではなかった。
 今日のゲームキャプテンは戸田だった。すばらしいプレーをしたと思う。稲本のアーセナルの話について、私は新しいニュースを思っていない。ベンゲルに電話をして話そうかと思っているぐらいだ。向こうでは欲しいからといって高いお金を積むわけではないので、京都や大分にいたほうが、高い給料をもらえるケースもある」(※監督は今後1か月の休暇を取り、8月15日の豪州戦に再度来日する)


試合後、優勝を喜ぶ選手たち
サビチェビッチ監督「今日は魅力のあるとてもいいゲームだった。ユーゴについては満足している。あの1点だけが悔やまれるが、あれ(稲本の1点)はGKが取るべきボール。しかし、本当にいい経験になったと思う」

浦和に戻って移籍の詰めをする小野伸二(浦和)「今回はベストチームではなかったという声もあったけれど、緊張感のある中でプレーできたことが非常にいい経験となった。自信を持ってやれるようになったと思う。(オランダへの移籍については)長い目で見てレベルアップができる環境でやりたいと思ったし、新しく環境が変わってリフレッシュしてどうなるかを自分でもやってみたいと思っていた。とはいっても、2002年もすぐにあるし(長いことばかりでなく)自分を高めたい」

運動量では踏ん張ってチームを機能させた森島寛晃(C大阪)「DFラインが踏ん張ってくれたことがとても大きいと思う。今回の2ゲームで、ああいうトップ下の前めに貼って、しっかりとプレーすることができるという少しの自信にはなった。また7日からJですから(現在最下位)、気持ちを引き締めて行かなくてはならない」


前半21分、先制点を決めた稲本潤一
代表初ゴールが優勝への決勝ゴールとなった稲本潤一(G大阪)「ロングのワンツーとしてはうまく行った。ヤナギさんがうまく落としてくれたのでよかった。ちゃんと枠にいった感触はあったけれど、入ったとは思わなかった。森島さんが、前にスペースを見つけていくのが得意なので、その空いたスペースを埋めるのが僕の仕事。戸田さんとはやりやすいし、安心して上がっていける。攻撃に参加しないとチャンスができない。序盤から真ん中が開いていたので中央突破を狙っていた。2点目のノーマークのシュートは、2点目、と思って欲が出てしまった」

後半から投入された服部年宏(磐田)「守備的に1点を守るというのではなくて、普通に、出られるチャンスは出てもいいということだったので自由な裁量でプレーはした。ただあれだけのチャンスがあってそれをものにできないのはやっぱり詰めの甘さ。もう少し意識を高く持ってやらないと、国際試合は甘くない」

出場でもっとも歓声を集めた中山雅史(磐田)「チームに帰ったら気持ちを切り替えなくてはならないので、今日までのことはこれで切り替えたい。今日のゲームに関していえば、かなり湿度が高く、コンディションは厳しかった。最後のところ、(ロスタイムでのチャンスは)あれは決めてもっとしっかりとって、詰めをしっかりしなくてはいけない」

出場チャンスのなかった廣山 望(セロ・ポルテーニョ)「あれだけのお客さんの前でプレーできなかったのは、本当に残念だった。なぜ出られなかったか、何が足りないのか、自分でわかれば知りたいのですが。今回は戦術、対人練習にはまったく練習にも加わることができなくて、サッカーでは何か進歩することができずに終わってしまった。でもそれ以前のところで、自分を評価してもらい、ここに加われたことは本当に勉強になった。あと1年ある、自分をもう一度見つめ直して行きたい。合宿の雰囲気はすごくよかった。みんなが気を使って、自分にパラグアイのことを聞いてくれた」


「立ちくらみサッカーでも」

 各地で最高気温が軒並み30度を越えるような日、日本代表は、思い切り冷房の効いた室内から一歩外に出たときの、うだるような、あのムッとする「立ちくらみ」のような感覚でサッカーをせざるを得なかったのではないか。前回の札幌でのゲームが気温も23度、湿度も60%程度と空調でコントロールされたのに対して、この日は70%を越え、インジュリータイムの度に全員がピッチの外で水を飲んでいた。

「前半はかなりきつかった。後半になってやっと要領を得て、少し涼しくできるように感じたけれど」と稲本は話したが、後半30分以降、選手の脚は止まってしまい、ほとんど機能していなかった。ロスタイムで3回もの決定的なチャンスを外したことも、服部が「あれではまだ詰めが甘い。課題が残る」と反省する。

 ある意味では、こうしたある一定の環境、条件から一歩足を踏み出そうというとき、あるいは変化が訪れたとき、どうやって「立ちくらみ」と付き合うか、日本代表の残り1年を象徴するような試合だったのかもしれない。監督は、相次ぐ「ヒロヤマ・コール」を気にも留めずに、パラグアイから呼んだ廣山を起用はしなかった。「戦う日本代表のライオンの目ではなかった」と試合後理由を説明。廣山が、気後れしていた部分を指摘していた。

 湿度によるコンディション不良や疲労は当然で、1−0の結果だけでこの日は十分である。しかし、今後はそうはいかない。
「修羅場はいつでも自分たちの心の中に」
 3年前、胃の痛むような、痺れる予選を戦った服部は試合後に話した。
 真夏がやってきて、あのムっとした感覚にたとえられるあの違和感、脱力感を今後どう消化していくか、大分の湿度がそれを認識させたのではないか。


「胸が一杯で」

 代表を引退するストイコビッチは会見で言葉を選びながら話した。
「まずは日本代表におめでとうを言いたい。こんなにきれいなスタジアムでサポーターの声援を受けて優勝できたことはすばらしいし、私も感謝を伝えたい。正直に言うと、後半は私の集中力が落ちてしまった。そして、この試合が早く終わらないかと思いだした。何よりも、私は日本で7年もプレーをしていたわけで、特別な思いがあるのは当然のことだろう。胸が一杯になってしまい、前半は何とかがんばって耐えたけれども後半はダメだった。集中力が途切れてしまった」

 グランパスで7年、世界一級品の技を見せ続けた妖精の代表引退試合として、文字通りの花束もなかったし、ある意味の「華やかさ」も欠いていた。会見を終えると、息子と手をつないでミックスゾーンを引き上げたが、どの質問にも答えることはなく、うつむき黙ったまま、大きなつい立ての後ろに去って行っただけである。あれだけの「物悲しさ」が漂う引退試合は、逆に胸を打たれるものがあった。

 92年、その技の絶頂期とも言える時期に、母国ユーゴスラビアの内戦によって、国際舞台からスポイルされることになった。その年の欧州選手権、94年のW杯、自分が母国・セルビアを愛すれば愛するほど、その政策は彼と愛するサッカーを裏切ったことになる。93年以降は、ボスニア・ヘルツェゴビナの紛争、アルバニア系住民への弾圧……、と出場停止期間は絶望的な長さとなり、足も心も腐りかけた。「胸が一杯」と言った短い言葉は、そんな時期にひとつの救いとなった日本のサッカーへの愛情、そして沈黙してきた政治とスポーツへの恨みなのか、それとも心からの理解なのか、こうした複雑な心境すべてを、この晩、ストイコビッチは心の奥に封印したのではないかと思う。
 彼のあの短気さは、おそらく悲しさの表われだった。

 会見で取り上げられることはまったくなかったが、その彼の祖国では、当時のユーゴでの戦争犯罪責任を問われたミロシェビッチ前大統領がハーグ(オランダ)の国際法廷で、国家元首としては初めて法廷にかけられるという、かつてない裁判が始まった。国際的には、これがこの日のトップニュースである。
 祖国の「大統領」が、あるいは、サッカーでの舞台を失う遠因になった「政策」が裁かれる日、ストイコビッチが代表を引退する偶然は、あまりに劇的で、とても悲しい。何の言葉も残さなかったが、胸が一杯というコメントは重すぎる。交換しなかったユニホームは、息子の右手に抱えられていた。

■キリンカップサッカー2001 結果
順位   勝点 得失
点差
1 日本 ── ○2-0 ○1-0 6 2 0 +3
2 パラグアイ ●0-2 ── ○2-0 3 1 1 0
3 ユーゴスラビア ●0-1 ●0-2 ── 0 0 2 -3


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