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■わたし革命
有森裕子/著
2003年11月 岩波書店 1,500円(本体)
ISBN:4-00-002646-1

 
 
評者・増島みどり(スポーツライター)  2003.11.5 update

「きっとウマく いく」

 ボルダーを拠点にする有森はビジネスのために帰国すると、実にマメに連絡をくれる。山下佐知子(第一生命監督)と連絡網を飛ばして、いつも急に食事をするが、3人とも(多分2人は反論すると思うが)あまりに声が大きいので、店で「浮く」こともしょちゅうだ。「今日は静かに行きましょうね」と、確認し合うのだが果たせない。よく行く店では、気を遣ってくれるんだね、とずっと思っていたのだが、最近、私たちが通される「個室」がじつは屋根裏だったことを知り、「これって、個室に見せかけた隔離?」と大笑いした。
 競技者時代にはできないが、ともに現役を退いた今、そういう時間を共有する、わたしにとって大切な友人たちである。

 2人の取材は、91年、東京世界陸上で山下が銀、有森が4位となった頃からなので、もう10年を越える。92年のバルセロナ五輪では、今度は有森が銀、山下が4位と結果を出す。2人が2年で4回の入賞、2つのメダルを獲得したことは、現在の女子マラソンの世界的飛躍を思えば、間違いなく、スピード感溢れる見事な助走であった。

『わたし革命』では、なぜ、それほど高い身体才能に恵まれていなかった有森が、2度の五輪で2つのメダルを獲得できたのか、といった革命の根拠が、幼少時代から細かく振り返られている。本人の言葉にはいつにも増して説得力がある。

 運動選手の才能、と表現するとき、99%が身体能力のレベルを評価しているはずである。足の速さに代表される瞬発力、体の使いこなし、柔軟性や、パワー、持久力が問題となる。しかし、彼女の競技生活を振り返ると、身体能力をはるか上回る「何か」があること、それを見出し、活用することがいかに困難なことかを教えられたと思う。

「心の才能」を一言で表現すると、事にあたるうえでの「丁寧さ」である。もっとドロ臭く「しつこさ」「諦めの悪さ」とい言ってもいい。「一流」にはどの選手も「努力」でなれるが、そこから生じる「一流」と「超一流」の分岐点には、それこそ大河ほどの差が横たわる。彼女の場合は、身体能力よりも、彼女しか持ち得なかった「心の能力」をもって、大河を渡る橋に変えたと理解している。彼女のような選手を近くで取材したことは、のちに、多くの競技、多くの種目で選手を取材するうえでも重要な起点となった。

 稀有な「丁寧さ」は、例えば、腹筋たった1回でわかる。この動きで、どれとどの筋肉を動かし、角度を少しでもずらしてしまうと負担になり効果が半減するか、といった「道筋」すべてを、彼女は知ったうえでしか、というより知らなければ、練習をしない。腹筋1回がこの様子だから、走る際にはさらにレベルが上がる。回数をやらされるメニューを、単に消化し、目の前から消し去るのではない。

 日々の仕事でも、目前の山を片付けるあまり丁寧さを欠くことはよく起きる。だが、なぜやるか、やり抜けば何が可能になり、できなければどこまでで終わるのか、といった、じつに明確な「きっとできるはずだから」とポジティブに前提した「未来予想図」を、有森はいつでも持とうとしていた。よく言われる、がむしゃらな努力、が根拠ではない。

 だから、わたしは彼女のランニングフォームが、人間の集大成であるように見えて好きだった。誰にも癖や特徴はあるが、彼女のフォームには、スピードのなさ、体の硬さや運動神経の足りない点を補って、いわば欠点を誰より繊細に、丁寧に磨き上げて築いた独特の「美しさ」があった。その点で、彼女のマラソンは、常に目に見える「タイム」より、「芸術点」が存在していた。

 なぜ速く走れたか、よりも、なぜ速く走りたかったか、に焦点があたる本書は、スポーツと無関係で、ランニングなど無関心な人でも、どんな立場の読者でも、共感できる内容である。

 つい最近も、変わらぬ、ユーモアたっぷりの「丁寧さ」に笑った
 山下の誕生日に、「何かお祝いをしなきゃ」と彼女から連絡があった。「私は出張先から直行するので時間がない。適当なものをお願いします。あとで分担するから」と、頼んだが、彼女は「適当」にはしなかった。自身も収集の趣味を持つコーヒーカップを時間をかけて選んだそうで、包みを開けると、「さあ、なんでこのカップなんでしょう?」と私たちに謎かけをする。カップには、メリーゴーラウンドで9頭の馬。極めてカンの鈍い私たちは、早々にギブアップした。
 彼女は「もう、2人とも全然ダメなんだからあ!」と、「山下さんの将来が、きっと、ウマ(馬)く(九)いくように、ってわからないかなあ」と口を尖らせていた。

 次回の会食は未定だが、出版祝いと、話題は、この本の出来になるだろうか。
 一応、静かにいこう、と確認はするが、どうなることやら。


●有森裕子/1966年岡山生まれ。岡山就実高校から教員を目指して日本体育大学へ進学するが、実業団での競技続行を希望して当時リクルート監督だった小出義雄氏に直談判し、入社を果たす。90年に初マラソンの日本最高をマーク(大阪)し、91年には日本最高で東京世界陸上代表となる。本大会は4位でバルセロナ五輪代表も決め、銀メダルを獲得した。続くアトランタ五輪でも銅メダルを手にし、99年ボストンで2時間26分39秒の自己記録を出した。2001年に一線を退き、国際陸連女子委員、国連親善大使など勤める。

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