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■文体とパスの精度 5年間の軌跡 1997〜2002
村上 龍、中田英寿/著
2002年5月 集英社 1,600円

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評者・増島みどり スポーツライター 2002.5.22 update
 村上龍氏の『フィジカル・インテンシティ』(光文社)の文庫版の解説に書いたことがある。「村上氏と中田選手のマッチングは、アウェーを生きることを理由とするではないか」と。

『文体とパスの精度』まえがきに紹介してもらったが、これはあくまでも、ほんの小さな、言ってしまえばどうでもいいきっかけに過ぎない。いくら出会ったところで、そのまま何にも発展しない人間関係は、むしろ多いのだから。
連絡しようがしまいが、サッカー選手と、作家の関係は間違いなくこうなっていたのではないかと思う。つまり、1本のパス、1行の文章への共感を関係の土台とする点において。そして、それが生まれるプロセスを、言葉以前にイメージできるという点において。

本書のスタートになるマルセイユ(97年12月、W杯抽選会、オールスター戦)には、特別な思いがある。
中田は「世界」を照準に、本格的なスタートをまさに切ろうとしている瞬間だったと思う。個人的には、ロナウド(ブラジル)ら、スーパースターと並んで、堂々とプレーをしたのをスタジアムで目撃しながら、私の心の中にいた「河川敷のサッカー小僧」としての中田が封印されたような気がする。あのとき、試合を観戦していたベッケンバウアー氏(ドイツ)に運よくコメントをしてもらうことができ、「日本の中では非常に新しいタイプの選手だと思った。強さがある」と聞いたことも懐かしい。
中田は、誰かにとか、何かにとか、ではなく、常に「現状」というものに対しての反逆児であったし、当時ベルマーレ平塚の練習場だった大神グランドにやって来た高校生のときから、川風を背中に受けて、何かに向かって突っ走っているように見えた。「河川敷のサッカー小僧」が具体的な目標と戦略を手にし、照準を定め、河川敷から世界のピッチに歩き出した、それが私にとってマルセイユのゲームだった。その後、フランスW杯に向けて始まった助走は加速し、河川敷はいくつもの海やピッチに変わり、彼のホームは、常にアウェーになった。アウェーこそホーム、ということもできる。

日本のスポーツ選手は長いこと「ホーム」という思想となかなか決別できなかった。しかし、オリジナリティをフル装備し、のびやかに、力強く戦う日本選手たちの姿を多数取材できる今となっては、「弱い日本選手」など見つけることのほうがはるかに難しくなった。
スポーツの現場では選手たちが頻繁に海外を拠点とし、さらに進んだステージとして、今度はハンマー投げの室伏広治(ミズノ、世界陸上銀メダリスト)らのように「自分のルーツを最大限に生かすことこそ、海外を相手にする一番の武器になる」とするなど、手法もさまざまになった。
哲学が生まれたことによるでのはないかと思う。
野球でも、サッカーでも、アマチュアスポーツでも、哲学不在の競技力には、進歩がない。本書では、中田のその根幹をなす「哲学」の存在が、村上氏との時系列になった対話の中で明らかになり、そして、もしかすると、ボールを蹴ること以上の何かが、そこに存在したのかもしれないと思わせる。

文章も、パスも、高い精度で相手に届かなければ無意味である。コミュニケーションの手段としての2つの言葉を思うとき、パスの精度は他人事だが、文体の精度、という言葉には、やけにドキリとする。日頃の行いのせいか。

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