マイ アーリーデイズ

My Early days No.3  1978秋〜1979夏


   この時期は本格的にこの世界にのめり込んでいく時期。プロシード2800を買ったこと により周波数さえ合わせれば聞こえるという状態になった事は、かなり影響があったようだ。 雑誌「短波」に出てくるような局の周波数を片っ端から入力していった。    さて、その一方でこのプロシードはSSBも受信出来る、つまりハムバンドも聞こえるわけ で、このあたりも聞くようになった。父親はハムだったので十分理解はあったのだが、とり あえずはトリオのR300の宣伝にあったようにBCL→SWL(ハム受信)→HAMという 路線を歩むようになる。JARLから準員ナンバーなんていうものをもらってSWLカード を全国に、そして世界に送ってQSLカードをもらっていた。ナンバーはJA8-4194 JA8-4194として得たQSLカード。全て1978年の受信。 JARL準員とJLAの会員証 ナンバーといえば当時もう一つの団体にも属していた。それは日本リスナーズ協会ってやつで、 毎月の会報の他に先のJARLと同じように世界の放送局にレポートを送ってくれるというもの。 返信は直接くることもあれば、協会経由でくることもあった。名前を略して「JLA」で、この 会員番号はJLA8-0739というものをもらった。実際活用したことはそれほどないが、初めてここ 経由で返信をもらったのがアンデスの声だった事は鮮明に覚えている。 日本リスナーズ協会のパンフとHCJBからの返信。JLA8-0739の文字が見える  同じ頃、当然SWLなんてやっていると実際に電波を出したくなるわけで、結局電話級の国試に 挑戦した。78年の5月期だったと思う。結局落ちたのだが、一緒に行った同じ学年の3人とも落 ちたのでそれほどショックはなかった。その秋に地元でハムの講習会ってのがあって、それに約2 週間通って免許をとった。この「講習会で免許をとる」って事は後に国試で免許をとった人間から すると「自分よりレベルが下」っていうような何か変な感覚があるようで、高校時代に何度かロー カル局から言われたので「んじゃ2アマでもとるか」ってな事で1発で合格した。もちろん電話級 の彼らを馬鹿にするような事はしなかったけど。(笑)  話は前後するがこの1978年の後半に電話級の免許をとって79年の1月に開局してからは、 すこしBCLには距離を置くようになった。「電波が遠くから飛んでくる事に魅力」を感じでBCL を始めた人間にとって電波が飛んでくるだけでなく、自分の電波がそこまで飛んでいくわけだからおも しろくない筈がない。ましてや時代はサイクルのピーク、21MHzや28MHzではオンリー 10Wで世界各国まで飛んでいくのだから、それこそ最高の感動がった。もし今BCLで、特にDX的 楽しみを持っていてハムではない方がいるならば、ぜひハムになる事をオススメします。いや、絶対に やるべきだと思う。もちろんHFに出なきゃ駄目だけど。 1978年に創刊されたCQジュニア。丁度自分がハムの免許をとる頃なんで一応第2号まで 買った。1979年1月29日に免許が来て約1週間後に初めての海外、オーストラリアと 英語でQSOした。「MOST ENJOYABLE CONTCT」なんて書かなくてもいいよなあ(笑) 当時「I'm 14 years old」とか「Junior high school student」とか言いうと必ずみん な誉めてくれて、ゆっくり英語を話してくれた。 次回は再びBCLの世界に本格的はまっていく1979年秋以降です。