マイ アーリーデイズ

My Early days No.2  1977夏〜1978夏


 もう少し本格的なラジオが欲しいと感じたのはおそらくラジオ関係のいろいろな本を見たか らだと思う。毎日にように見ていたのが「BCLマガジン」、月刊フォーク別冊というにも時代 「BCLマガジン」と「ぼくらのアマチュア無線」 を物語っているけど、この本はかなり見ていた。そしていわゆるBCLというのものが一体何なのか? というのを教えてくれた本でもある。このBCLマガジンを手にするまで、いわゆるBCLのノウハウ本は 持っていなかった。ベリカード、そしてログといった関係は父が持っていた「ぼくらのアマチュア無線」 という本があって、その中にBCLとは?みたいコーナーがあり、それを見てログをつけて報告書 を送りはじめた。その本のスタンスというのはBCL→SWL(HAM受信)→HAMというもので、最終目標を ハムとしているところがおもしろい。確かトリオのR300くらいの宣伝でもそんな図式があったと思う。 通信機メーカーだからあたりまえだな。しかしBCLは「通過点」という認識が一般論としてもあったと 思うし、前回のEarly daysに書いたように私の友人関係も多くがハムになった。私もまさにその路線 である。こんな事を言ったら語弊があるあるかもしれないが、関係者外(BCL以外)の人は「アマチュア 無線の方がBCLより上の存在で偉い」、というのはあったんだろうな。もっともBCLそのものの認識も なかったし。その認識を上げる上でハムを利用するのは決して悪い事ではないと思う。「深夜放送を 聞きたい」というよりは「ハムの親戚のBCLというのがあって、海外からの短波放送で世界の文化を知 りたい」と言った方が子供が親にラジオを買ってもらう言い訳には良かったろう。私は中学の頃 「いいわねえ、おたくのお子さんはハムやってるんでしょう、勉強にになって。うちの息子なんで 野球ばかりやって全然勉強しないのよ」ってのは良く聞いた。今の時代なら「お前の家の子供は オタクで危ないんじゃない?」の裏返しと思う事も可能であろうが、当時は純粋に「ハムは勉強に なる」て認識があった。テレビドラマでもクラスの秀才はハムをやってる場面を見たように思う。 もっとも「暗い奴」というイメージは当時からあった。   BCLの話に戻そう。その「ぼくらのアマチュア無線」という本で具体的にログをつけて、はじめて モスクワ放送からべリカードをもらった。 これが初めて書いたログ 1977年の7月22日。 5900全盛時のソニー、プロシード発売時の松下、トライX2000登場 時の東芝、各家電メーカーのBCLラジオのカタログ。 先のBCLマガジンの頃を熟読する頃にはまわりの人間も5900を買ったり2200を買ったりしていたので 自分も、もちろん何を買うか迷っていた。父はR-300あたりをすすめていたが、丁度そんな時にプロ シードが発売となり、当時まわりには誰も持っている人がいなかったので、小学生からためた全貯金 をおろして通信販売でX1からカプラや3m垂直アンテナがセットになっていたものを購入することに なる。 「短波」以外の雑誌では何といっても「ラジオの製作」が一番勉強になったかもしれない。 1977年当時?の「ラ製」BCL切抜記事とだいぶ後であるが、1979年の300号。 「初歩のラジオ」よりは「ラジオの製作」の方が圧倒的にBCL記事は多かった。しかし「短波」 と「ラジオの製作」2冊を購入するのは、中学1年生の私にとってはかなり負担だったので、 ラジオの製作は特集の内容を見て、興味がありそうなものを買っていたと思う。丁度、中波放送 が9kHzセパレーションになる時で、ラ製ではかなり気合いをいれて特集をやっていた記憶がある。 それに、そそのかされて、というわけでもないが、私もいろいろ国内の放送も同時に聞き始めた。 当時の私のまわりのBCLは国内放送→海外放送というパターンであったが、私の場合は海外→国内 放送ってパターンである。 1978年の秋のログ。この頃から英語放送にレポートするようになった。 英語レポートの参考になった「ベリカードコレクション」、全般的に楽しめた「新BCL マニュアル」、国内中波受信の参考にした「Run Radio」。 次回はBCL、SWL(ハム受信)、ハムと三つどもえで忙しく、電波の世界にはまっていく 1978年秋以降です。