「採集禁止」に対する疑問

快傑ZWAT


第1 はじめに

 子供の頃,夏といえば昆虫採集だった。昆虫採集は宝探しである。そもそもお目当てのものが採れるかどうか分からず,何が採れるか分からないから楽しいのである。採れるまでの過程が楽しいのかもしれない。クワガタを採りに行き,結果キラキラ輝くタマムシを見つけて狂喜し,クワガタのことなどしばらく頭からなくなってしまったことを今でも思い出す。

 こんな思いを自分の子供にも感じてもらいたいと思う。クワガタを含む昆虫採集自体は一つの文化として子供らに受け継ぐべきものと考えている。しかし,私の住む町でも開発が進み,クワガタだけではなくカブトムシも,そしてホタルも少なくなった。人口の増加に伴い新たな学校が建設された。某大学附属病院も誘致された。そこに向かう道路も整備され,市民生活の利便性は格段に向上した。このような一連の開発に伴い周辺に生息する昆虫の個体数が減少したという科学的な根拠は持ち合わせていない。クワガタを含む昆虫採集が難しくなったというのは多分に直感的,感覚的なものに過ぎない。

 ところで,「自然保護のために開発を中止せよ」,「自然保護のために採集禁止」など時々耳にするが,これらはどれほど意味のあることなのだろうか。「開発」や「採集禁止」は文化としての昆虫採集に対するアンチテーゼなのだろうか?かつて本誌において,「採集禁止」について激論が展開されたことは記憶に新しいところである。これについてはいくら論じても答えの出ない問題なのかもしれないが,今回私見を述べさせていただくこととした。
 

第2 一律の規制としての採集禁止に対する根本的な疑問

 種としての生物の個体数が激減しているような場合,これを保護するために採集禁止が主張されることがある。それでは,採集を禁止あるいは制限(法令による一律な規制を念頭に置いている。)するとクワガタに限らず種としての生物は保護されるのだろうか。いわゆるレッドデータブックに絶滅危惧種として登録されている生物,これらに比肩し得る状況にある生物については個体数の減少に歯止めをかけるという見地から法令による一律の採集禁止もやむを得ないのかもしれない。

 しかし,法令による一律の規制にはどれほどの意味があるのだろうか。これにより種としての生物さらにはそれが生息する自然環境が保護される,などということは幻想に過ぎないのではないか。いささか乱暴な意見であろうか。それでは,一つ例を挙げるに我が国には「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」なる法律が存在する。一律の規制を定める代表的な法律であるが,その名称からして,この法律の目的はどのようなものと推測されるか。

  同法1条によれば,「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存を図ることにより良好な自然環境を保全し,もって現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保に寄与することを目的とする。」とある(下線筆者)。つまり,法文からすれば究極的な目標は「現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保」であり,「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存」はあくまでもそのための手段に過ぎないのである。いささかステレオタイプ的な視点ではあるが,大規模な都市開発というものは自然保護,環境保護に対立する概念と言えよう。

 しかし,現実にはそこには普遍的な正義は存在しない。唯一存在するのは利害の相違に対応する「立場の違い」だけである。そもそも大規模な都市開発の目的も「現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保」であることは疑いなく,その実施主体は人間である。大規模な開発行為に伴う自然破壊がやむを得ないと判断されるならば,開発行為が断行されるのみである。結局,「現在及び将来の国民の健康で文化的な生活の確保」のために必要な限度で自然環境は保護されれば十分であり,さらに穿った見方をすれば,自然保護(あるいはそれを目的として標榜する採集禁止)などという概念は開発行為を始めとする人間の行為を正当化するための免罪符に過ぎないのかもしれない。
 

第3 現時点における結論らしきもの

 結局,採集禁止とは,国立公園等特定の地域の自然環境を保護するための一手段以上の意味はないのではなかろうか。さらに,ミクロな視点に立ち,全国のクワガタ愛好家あるいは昆虫愛好家が採集(乱獲?)したからといって,その行為が何か重大な事態を招来する程度のものなのかという根本的な疑問(これも多分に直感的,感覚的なものであるが)を抱かざるを得ないことからすれば,クワガタ(これだけの問題ではないのであろうか。)を保護するための採集禁止なんて議論する必要性すらないのではと感じてしまう。

 そうすると,採集禁止の主張自体が根拠のないものであり,その目的として標榜する自然保護以外の目的のためになされるのではないかとすら考えてしまうところである。自然保護の大義名分の下にクワガタ愛好家が叩かれることがあるとすれば,一昔前にはオオクワガタが「黒いダイヤ」などと呼ばれ,あるいは外国産の輸入が解禁された当初は驚くような高額で売買されるなどクワガタそのものが投機の対象になっていたことに対する嫌悪感に基づくものではないだろうか。
 

第4 おわりに

 現在,筆者はその所属する職能団体の「環境保全公害対策委員会」なる会の委員に就任している。ただし,自他共に認める不良委員である。最初の投稿でこのようなまとまりのつかない拙文を寄稿してよいのか,これが果たして本誌の趣旨に沿うものかという疑問をも払拭できていない。

 職業柄批判を受けることには慣れているところでもあり(?),いかなるご意見でもいただければ幸いである。なお,関東の某政令指定都市において,とある開発行為の差し止めを求めて,ギンヤンマが某市長を相手取って提起した裁判がある。筆者の調査した限りでは,我が国で昆虫が提起した裁判はこれが最初と思われる。「こんな裁判あり?」という疑問はさておき,外国産の放虫問題の解決を求めて,外国産クワガタの輸入業者を相手取り,輸入差し止めを求める裁判を国産クワガタが起こす日も近いのか,などと妄想する今日この頃である。


 

目次へ戻る