カタチのないクワガタ

リュージョン


3年前の寒い日曜日の朝だった。妻を観劇に送り、子供達を託児所に預けた私は、休日出勤前のささやか な時間を採集に充てて町外れの林に入った。初めての場所だったが、人が出入りしている気配が全く無い。 木々やイバラが覆い被さり道は今にも消えそうになっていた。それでもナラの木があちこちにある南向きの 手頃な勾配の斜面で、ヒラタ成虫幼虫の根堀り採集が楽しめそうだった。


藪を掻き分けてしばらく登るとナラの木の根元がキラリと青く光った。そこには美しいミドリシジミが今 まで飛んでいたかのように羽を拡げて死んでいた。手に取ってまじまじと見る。そしてそっともとの場所 に置く。


さらに登るとナラの古株を発見、さて掘ってみるかと思ったその時、すぐ下の斜面に人が倒れているでは ないか。「大丈夫ですか?どうしたんですか?」と何度か呼びかけるが、頭を下にしてうつ伏せになった その人から応答は無い。乾いた落ち葉で滑りながらそこに降りて揺さぶっても反応が無い。女性だ。首に 手のひらを当ててみるとすっかり冷たくなっていた。土にまみれた顔は口を少し開いたまま何も語らなか った。転がるように来た小道を戻り、民家に駆け込んだ。「人が死んでいる〜!」 心の中では「くわ馬 鹿殺人事件〜!」と叫んでいたのは言うまでもない。


民家の住人によると、その山は今では入る人も無く、猪や狸の住処となっているということだ。長い間待 って、到着した警察を現場に案内した。発見した時には動揺して全く気がつかなかったのだが、彼女が倒 れている上にはソヨゴの木が青く繁り、斜面に突き出した太枝に結んだスカーフが環状にぶら下がってい た。自殺だったのだ。死亡推定時刻は前夜から当日朝にかけてだというではないか。


警察は外傷の有無や所持品を詳しく調べ、本部と連絡を取っていた。私にも相当数の質問が浴びせられた。 第一発見者であるから当然として、ナタ、バチクワ、鋸などの凶器を豊富に所持して滅多に人の入らない 場所で死後すぐに通報をするこの男は一体何者なんだと思われてもしょうがない。クワガタを採りに来た とか言っても、真冬の朝だし採った実物も無いし、ともかくその時の私はどうしようもなくアヤシイので あった。私はバチクワで枯木の根を掘って、「ほら、こういうところにクワガタの幼虫が云々」と実演を して見せたが、そういう時に限ってコクワ一匹出ないのである。このままではマジで殺人犯くわ馬鹿にな ってしまう〜!しかし私の自宅からの足取りや整然としたクワガタ生態&採集方法の説明に警察一同は納 得、死体に外傷が無かったこともあって疑いは晴れたのである。


解放された私はナタや鋸を使って遺体の搬出経路を切り開いていた。その時「♪パラパ〜、パパパ〜ン、 パヤヤ〜♪」太陽に吠えろの着メロが木漏れ日の中に鳴りわたった。さすが警察である。事件なのである 。その本部からの連絡によると、女性は遠方に住む地位ある方の夫人で、家出後一週間、家族から捜索願 が出ていたという。


私は彼女が最後に使った木の上のスカーフを見た。鮮やかな蝶の柄だった。それは朝見たミドリシジミの 死体と重なって強い衝撃を私に与えた。紛れもない事実は、ほぼ同じ時に、彼女は初めて来たここで死を 選び、同じく初めて来た私がすぐに見つけたのである。誰も来ない場所で、予定されていたかのように。


その後、交番に寄って長い調書を作成し、日も傾いた頃に会社に行った。怪訝そうな部下の前で私は仕事 もせずにその日のことを考えていた。なぜ私は吸い寄せられるようにあの時初めてあの山へ行ったのか。 虫の知らせというやつなのか。虫とは蝶なのかクワガタなのか。そうか、蝶が彼女をそこに招き入れ、ク ワガタが私を導き発見させたのだ。その日姿を見せなかったカタチの無いクワガタが。


そのカタチの無いクワガタはいつも自在に私を動かしていたのだ。今もそうなんだろう。あなたもそうか もしれない。意識の薄らいだ時にふとその巨大な大顎の力を感じるならば。それがくわ馬鹿というものな んだろう。

rjyo@jttk.zaq.ne.jp
 

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