75ミリのオオクワガタ
by えいもん


  「想い出の/思い入れのクワガタ」とは、自分にとってどのようなクワガタのことだろうか。自ら採集したクワガタには、どれもそれぞれの思い入れがあって、なかなか甲乙つけがたい。産卵から羽化まで飼育したクワガタには、すぐに他人に譲ってしまうものも多いが、手元に残っているものは、やはりどれにも愛着がある。
  そこでここでは、自分が手にすることのないまま記憶に強く残っており、自分のクワガタ飼育の原点となった、「想い出のクワガタ」の話を書こうと思う。

  3年前、大阪に単身赴任していたときの秋のある晴天の日、紅葉が色鮮やかという報せに誘われて、箕面に出掛けた。実は、箕面には以前から行きたかった昆虫館があり、そこを訪問するのが主目的であった。
  箕面は、小さな峡谷の川沿いにモミジなどの紅葉が美しく映える景観で有名なところで、その週末はちょうど頃合いがよく、大勢の人でごったがえしていた。駅からその川沿いの道にたどりつくまでに、細い参道があり、小さな土産物屋が軒を連ねて並んでいた。そうした店の一つに、園芸店があり、そこには「くわがた」という看板が掲げられていた。
  こんなところでクワガタ屋を見つけるのは意外な感もあったが、奈良の橿原の昆虫館の傍らにも、小さなクワガタ屋があったことを思い出した。箕面でも、昆虫館を訪れる昆虫好きな人達に目をつけて、商売を行っているのだろう。私も誘蛾灯に引き寄せられるかのように、ふらっとその店に立ち寄った。

  その店では、表側は花などの園芸用品が売られていたが、奥の方にケースやマット、産卵木などのクワガタ用品が売られていた。一番奥の棚には、成虫入りのケースや幼虫入りの菌糸瓶がいくつか並べられていた。それらには、「オオクワガタ」というラベルと値段が記されてあった。
  オオクワガタは、当時の私にとって、手の届かない憧憬の対象であった。大阪に赴任して間もなく、時間のあいた週末には、独りで能勢に出掛けた。それは、オオクワガタの産地として有名なところを実際に歩いてみたい、という動機からにほかならなかった。もちろん、オオクワガタ自体には、そんな簡単に出会えるはずもなかった。
  一方、当時もデパートなどでオオクワガタが売られているのを見かけたことはあった。しかし、ケースの中を覗こうとしても、夜行性のためか、けっしてその黒い個体を目にすることはできなかった。店員に頼めば見せてくれたのかも知れないが、当時はクワガタを金で買おうという気持ちがなかったこともあり、そこまでする気にはなれなかった。したがって、その時点の私は、写真などでさんざん見ているオオクワガタの実際に生きた個体を、未だ目にしたり触れてみたりすることがなかったのである。
  そのオオクワガタが、今、目の前の棚の上のケースに入っている。しかも、そこには、「75ミリ 10万円」との記載があった。自分にとっては、とてつもない値段だ。と言うことは、とてつもない個体がそのケース内に潜んでいるということだ。75ミリとは何たることか。是非、見てみたい。胸が高鳴りはじめていた。
  しかし、結局その場では、見せてほしいと頼む勇気が出なかった。冷やかしで見せてもらうには、あまりに高価なもののような気がした。また、晩秋の季節だったので、もう冬眠中だろうから見せてもらえないのではないか、とも思った。いったん店を出て、そのまま紅葉狩りと昆虫館に向かった。

  昆虫館を見て回っている間も、75ミリのオオクワガタのことが気になって仕方がなかった。昆虫館を訪問し終えて駅に戻る道すがら、当然、再びその「くわがた屋」の前を通る。こんどは意を決するようにして立ち寄った。すぐに店員と目が合った。売られていたマットについて、何か質問をしてみた。次に、菌糸瓶について、また質問。そして、ついに、棚の上の例のケースの中味について尋ねてみた。すると、見せてくれるという。心の中で小躍りした。
  小ケースの青い蓋を開けると、薄く敷かれたマットの中央に大きな餌台があった。それを店員は無造作に持ち上げた。すると、餌台の下には、黒光りする、大きな、きわめて大きなクワガタが鎮座していた。何という存在感。何という迫力。
  早速、店員が手に取って見せる。眠っていたのか、そのオオクワガタの動作は緩慢であったが、触角がぴくぴくと動いている。体にどっしりとした厚みがあり、青龍刀のような大顎に凄みがある。何といっても、圧倒されるほどに大きい。そもそも生きたオオクワガタを初めて目の前にする当時の自分にとって、75ミリの体長というのは、とんでもないボリュームであった。凄い、凄い。心の中は小躍りから緊張、そして驚愕、感動へと移っていった。
  「ちょっと前まで77ミリがいたのだけれど、ちょうど先日、買われていったところ」と、店員が教えてくれた。つい、その値段を聞いてしまうと、30万円との答えだったと記憶している。

  その帰り道、そのオオクワガタの姿を何度も繰り返し心の中に浮かべてみた。そしてついに、その数日後、オオクワガタの幼虫を初めて購入し、飼育を始めた。普通種以外の初めての飼育であった。

  今は、我が家にも75ミリを超えるオオクワガタが羽化している。もっと大きなクワガタも、いろいろな機会に何度も目にしている。しかし、あの時初めて見た75ミリの個体は、あたかも永遠の大型個体として、自分の心の奥に刻み込まれている。そして何よりも、あの時の感動は、この先もけっして忘れることはないだろう。クワガタ飼育がややもすると惰性に陥りがちな昨今、箕面の小さな店でのあの感動を、あるいは感動した自分を、折にふれ思い起こすこととしている。


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