ヒラヒラ_No.010




 そろそろ帰宅に向かう通勤客も増え始めてきた、ここはJR本八幡駅近くのビルの前。
 待ち合わせでもしているのか駅の近くの雑居ビルの下に、その服装から一目でサラリーマンと判る二人の男が立っていた。
 年齢は二人とも二十代、といったところだろうか。切れ長の涼しい目元を持つ、背の高いほうが比べると若く見える。
 互いに立つ遠慮のない距離の近さから、同じ会社の者のようだった。
 隣に立つ眼鏡を掛けている男のほうは、落ち着きある雰囲気から彼よりも年齢が上だろうと判る。だがやや童顔のためか、見た目だけでは眼鏡の男の正確な年齢を読むことは難しかった。
「あー…疲れた」
 独り言にしてはかなり大きさのある声に、隣に立っていた眼鏡の男…松下(まつした)は広げかけていた手帳から顔を上げずに口を開く。
「全くだ。ゴクローさんだったな、富士」
 松下の心からのねぎらいの言葉に、富士(ふじ)と呼ばれた背が高いほうの男は続けようとした愚痴を慌てて飲み込んだ。
「すんません、大変だったのは松下課長のほうだったのに。今日は本当に助かりました、申し訳ありません」
 そう言ってうなだれた富士の様子に、松下は屈託のない笑顔を見せる。
「珍しい。お前からそんな殊勝な言葉が聞けるのなら、たまにはこーゆーことがあってもいいなぁ」
「冗談じゃない、俺は二度と御免ですよ」
 彼らの持つ名刺には、コンピュータのシステムコンサルタントという肩書きがついている。
 コンピュータを導入している企業へ出向し、より効率的なネットワークシステムを開発提供・コンサルティングする仕事だ。
 出向先の企業が主な仕事現場となる富士は、請け負った仕事の大きさから同僚の三洋(さんよう)とコンビを組んでいた。
 その三洋が出向先で業務上の致命的なミスをしたため、今回彼らの上司である松下が取引先へと赴いて謝罪と共に完璧なフォローワークを行ったのだった。
 結果、出向先の会社には殆ど損害が出ない状態まで改善されたことで、三洋を担当から外すのを条件に会社へは一切おとがめなしとされている。
 この出向先の企業が以前、松下が担当して顔見知りだったことも幸いした。
 出向先の企業が大きかった分、もしこれが大きな騒ぎになっていたら算出される自社の被害総額も莫大だった。ましてや会社の信用はお金では買えないのだ。
 自分たちの仕事しかたひとつで会社が失墜するのは、まだ社会人になって日の浅い富士にとって想像するだけで恐ろしい。
 担当者である三洋と自分のクビが飛べばまだいい、上司である松下も責任をとらされることになったら、富士は松下に合わせる顔がなかっただろう。
 それほどの事態だった状況を、松下一人で全部こともなく片付けてしまったのだ。
 システム部内で松下の持つスキルは神業とも囁かれていたことは、富士も知っている。
 だが松下は普段のんびりとして穏やかな、まるで春の日だまりのような雰囲気をまとっている上司だ。
 整った顔立ちなのにもかかわらず妙に落ち着いた立ち居振る舞いのせいで、枯れているだのご隠居だのと若い女子社員たちからは厳しい評価が下されている。
 そんなことを言う女は見る目がないのだと富士は思うが、すでに松下には婚約者がいるということもあって、独身女子社員が容赦がないのだということも理解出来た。
 大学を卒業して新入社員として富士が入社した時には、松下はすでに課長席に座っていた。現場での松下を知らなかった富士にとって、伝説とまで言われていた松下の技術を目の当たりにし、同じコンピュータを扱うエンジニアとして少なからず興奮を覚えている。
 自分では考えもつかなかった発想の転換と、システム効率の高さは難しい数式を解いた達成感に近く、そしてなによりもキィボードの上を滑るように動いていた松下の指は酷く官能的だった。
 …官能的に見えたのは、松下に想いを寄せている自分の邪な心のせいだろうか。
「…」
 本人が隣にいるのに邪なことを思い出してバツが悪くて口を閉じた富士の様子に、彼が落ち込んでいるとでも思ったのか松下は言葉を重ねた。
「ま、気にしなさんな。部下の不始末をフォローするのも役付手当てのうちだから」
「…はあ」
 無防備な笑顔を向けられ、下心のある富士はますます良心が痛む。
 そんな富士の胸中など知らない松下の胸元で、ケイタイが鳴る。
「はい、松下です」
 松下の電話を待つ間、手持ち無沙汰の富士は取り出した煙草に火をつけた。
「うん…判った。はい、お疲れさん」
 簡単な相槌だけで短い通話を終えた松下は、ケイタイを切りながら口を開く。
「三洋、やっぱりもう少しかかるって。どうせ直帰だし、二人でどっかに寄ってくか?」
 松下が何でもなく告げた二人で、と言った言葉に、富士ははからずもときめいてしまう。
 自分がどんな想いで彼を見ているのかなど、松下は知りもしないのだ。
 知られれば、こんな穏やかな時間も過ごせなくなってしまうだろう。
 それに松下には、すでに共に将来を決めた婚約者がいる。今更自分がどう抗おうとも、彼の人生に干渉できるだけのカードを持ち合わせていない。
 松下にとって自分はどんなにあがいても「ただの部下」でしかないのだ。
 たとえ片想いでも、富士はこうして松下の近くにいたかった。そのためにはただの部下だってかまわない。…部下という場所以外、彼に近付く術がないのなら仕方がなかった。
 そんな自分の状況を承知している富士は、咥え煙草のままにやりと笑った。
「課長からのお誘い、ということは今日は課長の奢りってことでイイっすよね?」
「え?」
 ちょっと待て、と松下の言葉を富士は最後まで言わせない。
「ごちそーさまっス!」
「しょうがないなぁ、今日は富士も頑張ったし。今日は御馳走してやる」
 強引な富士に、松下も苦笑で応じるばかりだ。この年下の部下には弱いらしいと、松下は自分でも自覚がある。
「やったー! 本八幡なら、あそこの『甘太郎』に行きませんか? さっき割引券もらったんですよ」
 ほら、と富士はロングコートのポケットから飲み物の割引券を松下に見せた。
「ヒトが禁煙してるってのに、目の前で吸ってる奴に御馳走してやらなければならないとは。俺も出来た上司だねぇ」
 富士はすかさず煙草の箱を取りだし、一本差し出す。
「はい、どうぞ。今日だけ、ってことで。一服吸ったら、行きましょう」
「う…」
 出された煙草を目前に、一瞬口を引き結んだ松下は何度か躊躇したあとに手をのばし、無言のまま煙草を口に咥えた。すぐタイミングよく出されたライターに軽く手をあげて礼をすると、松下は火を点す。
「あー、仕事の後の一服は旨いな」
 松下の肺の中を満たすのは、久し振りの煙草の重さだ。
 しみじみと呟く松下に、ヘビースモーカーである富士は何度も頷く。
「そう思うくせに禁煙しようっていう松下課長の気が知れませんよ、俺は」
「そうか?」
「そうです」
 松下に背を向けて大仰に頷いてみせる富士のコートが、後ろスリットから急に通り抜けた風にひらり、と舞う。
 背の高い富士に良く似合う、ロングコートだ。
 学生時分剣道の経験があると聞いたことがあるが、富士ののばされた背筋もロングコートのよさを引き立てているのだろうと、松下はぼんやりと眺めながら思う。
 いつも真っ直ぐな富士の姿勢は、潔い彼の性格を具現化しているようだ。
「…」
 再びひらり。富士のコートはスリットが長めに入っているので、風が吹くたびに裾がひらりとはためく。強い風にもけして下品に煽られないのは、生地だけでなくコートの仕立て自体もいいのだろう。
 コートを弄ぶ風の暖かみが、もう冬のそれではない。
「…もう、春だな」
「春ですね」
 翻る裾を面白く眺めながら呟いた松下の言葉に、富士もまたのんびりと相槌をうった。

                              2003.03.
                              YOSHINO.S.