ある日、ある公共施設の一室で会合があった。会合の後に懇親会があり、その席で酒が出た。
 夕方頃の懇親会は二時間程で終わった。懇親会が終わってからいつものメンバーで二次会に行くことが恒例となっていた。珍しいことに偶然が重なり、その日は各人の家庭に用事がある言う。それでお開きとなり、それぞれ、家路に帰って行った。
 二次会を予定していたのに、当てが外れたかたちとなった。まだ早い時間帯で、家に帰ってもつまらないと思った。付き合いでしか外には飲みに出ない。一人で飲みに行くことは滅多になかった。たまに何か飲み会があった後に寄る程度の店はあった。滅多に顔を出さないその店は音楽居酒屋と銘打った音楽バーだった。
 その店は夜から開く。週末でも時間帯が早いと、客のいない時がある。平日の夜などは貸し切り状態になることもある。そんな時はマスターと互いの近況を話し合ったりして時間を過ごす。その日は早い時間帯なのに酩酊していた。理性をなくし、しどろもどろに近く、喋れる状態ではなかった。
 その日に行われた懇親会は酒が飲み放題だった。根が貧乏根性なので、割り勘だと大酒を飲む。飲み放題なので調子にのってしまい、箍が外れたようになってしまった。懇親会が終わりに近づいた頃だった。偶然、瓶に残っていた焼酎が目に留まった。もったいないからと、瓶に半分以上残った焼酎を、一気に飲み干してしまった。だから、その日は酔いの回りが尋常でなかった。
 リミッターが切れた状態で、週末の土曜日のやや早い時間帯にその店に入った。珍しく店内は混雑していた。昼間に何かの行事が終えてから来たような集団客が来ていた。カウンター席に座り、ウィスキーの水割りを目の前にしていた。酔いが酷くて、グラスを目の前にしても、殆ど口にできないでいた。
 珍しくマスターは忙しそうに立ち回っていた。手を動かしながら、客との話も途切れる風ではなかった。マスターは他の客の対応に追われていた。
 ロックやジャズのCDが大量にある。今どき珍しいレコード盤もあり、リクエストをすれば掛けてくれる。同世代でもあるマスターとは長い付き合いがあった。普段はカウンター席が埋まれば客の多い方だ。店が込むことは殆どない。
 客のいない店内を目にしたことが何度かある。店が畳まれているのではないかと不安な気持ちで向かうことがある。店の看板の明かりを見て、ホッとしながら、二階に通じる階段を上る。儲からないのは客筋が悪いからだろう。その客の中にはたまにしか顔を出さない自分も入っている。
 マスター自身からして経営を不安視していた。他に人が来てない時など、マスターはしけた話ばかりする。だから、店を畳む日が決定したと告げられるのではないかと、いつも冷や冷やしながら聴いている。お客の来ない日は、自家消費の食料代を含む、翌日の仕入れ分の日銭が入るかどうかを、心配していた。今までテナント料金の安い場所に変えたり、工夫をしながら、危機を乗り越えてきた。細々ながらしぶとく、何とか店を続けていた。マスター自身が、良くここまで続けてこられたものだと、回想気味に語ることがある。
 マスターは客に媚びることがない。見え透いた愛想はしないので、無愛想な客扱いに見える。マスターは音楽に関しては持論を展開する。あくの強い人物であったり、音楽を語れる客なら、取り敢えずは大丈夫だろう。繁盛はしないのだろうけれど、音楽好きの固定客はいた。その客の一人に自分がいる。
 酔っていても曲のリクエストを欠かしたことがなかった。その日は飲み過ぎが祟り、喋らないまま、カウンター席に顔を埋めてしまった。今までどんなに酔っていても店に入ってからは寝ることはなかった。寝てしまうと「何しに来たのだ」とマスターに怒鳴られるからだ。
 その時は酷く酔っていた。カウンター上に顔を伏せていた。その日は珍しく早い時間帯から客が多かった。それでマスターから放っておかれたのだ。客が少なくなれば起こされただろう。カウンター席が満席になり、ボックス席もほぼ埋まっていたのかもしれない。その日に限って、集団の客の他に、馴染みの客が入れ代わり立ち代わり入って来たようなのだ。泥酔してカウンター席に顔を埋めてしまっていた。その時は、後ろの方に喧騒があった。そんなに人が集まるはずがないのだ。後ろの騒がしさから連想しただけなのかもしれない。カウンター席から後ろを振り向いて、立錐の余地ない光景を目にしたつもりになっていたのだ。

 男はカウンター席で目覚めた。店内には誰もいなかった。
 深夜ともなると店内は空いている。その店は客さえいれば、午前二時、三時でも店を開いている。深夜営業をしているので、飲み屋の店主が帰り際に飲食していく、同業者のたまり場でもある。
 いつも、タクシー代をケチっていることもあり、どんな遅くなっても、最終電車までには帰ることが殆どだ。今まで、そんなに遅くまでいたことはない。
 その店は歓楽街から少し外れた場所にあった。ビジネス街にも近かった。市街地の治安が良い場所だった。とはいえ、寝ている客を一人残してマスターがいなくなるわけがない。
 自販機かコンビニで、タバコでも買いに、少しのあいだだけ、店を空けていることも考えられる。店内はタバコの煙が充満していた。寝ているあいだ、ずっとPM2.5に晒されていたらしく、息苦しさから目覚めた。外の空気を吸いたい衝動に駆られた。
 店を出てみることにした。鍵の掛かっていない扉を開け、二階から階段を降りると道路の端に出た。道路脇で深呼吸した。冷気を含んだ空気が新鮮だった。
 その時、一階部分に扉があることに気付いた。一階に店があったのか、定かでなかった。一階に店があったとしても、出入り口はビルの反対側にあるのだろうと、思い込んでいた。二階の位置に電光式の看板がある。その看板に明かりが灯っていることを確認して、二階に上がる。上る時は酔っているから、階段を踏み外さないように足元に気をつけている。それで、一階に何があるか気付かないでいたのだろう。
 今まで、一階の店を案内する看板を見掛けたことはなかった。昼間はその一角を通ることもない。夜中の酔っている時しかその雑居ビルに近づかない。二階建てだったか、三階建てのビルだったかも、確かでなかった。道端からそのビルを見上げてみた。三階建ての造りになっていた。
 知名度のあるワインバーがそこら辺りにあるとは聞いていた。ただ、同じビルにあるとは聞いていない。それまで、一階部分を注意して見ていなかった。
 店の看板はないが、道路側に面している木彫の重厚な扉はバーの雰囲気を醸しだしていた。一階にあるのは有名なワインバーであるかどうか分からない。ワインに関しては詳しくない。それでも、そこが知名度のあるワインバーなら、一度は顔を出してもいいと思っていた。あるいは、ウィスキーやカクテルとか洋酒を主に出すバーかもしれない。腕時計を見ると、午前一時だった。
 そもそも、そんな時間帯まで営業しているだろうかという思いで扉を見た。ワインバーではないかもしれない。もしかして、美人のママのいるスナックかもしれない。女好きのマスターなら、顔を出していてもおかしくない。同じビルの同業者として、マスターがその店に寄っているかもしれない。店を覗いてマスターがいるかを聞いてみるだけにしよう。
 男は扉に手を掛けてみた。扉はギーという音とともに開いた。
 店内から出迎えの言葉が聞こえなかった。店内に誰かいるだろうと思って、入口からは死角となるカウンター席の端の方まで覗いて見た。
 すると、カウンターの末席に、一人で座っている若い女がいた。半年くらい前までは会っていたので、後ろ姿に見覚えがあった。
 そんな所に彼女がいる筈がないと思った。日本にいた時は貿易会社に勤めていた。そこを辞め、英語に磨きを掛けるため、ロンドンで働いている筈だ。
 長く深く付き合った女は彼女くらいだ。援助交際が切っ掛けではあったが、腐れ縁のように長い付き合いになっていた。期限を決めずにロンドンに渡航した。彼女との親交が途切れる可能性もある。今回はそうなることも覚悟していた。
 彼女の名前はRと言った。Rという名は両親が国際的にも通用するようにと名付けた。Rと発音すると欧米人の女性名で通る。そんな彼女は期待通り、海外志向の強い女性に育った。
 大学在学中からいろんなアルバイトをしてきたし、卒業直後は語学留学を体験している。社会に出て人とも関わってきた。休暇を取っては世界各国を旅してきた。彼女は同じ年頃の女性と比べて、体験の多さを自負していた。さらに経験を積む目的でロンドンに向かった。
 彼女は外国人男性に対しても臆することはなかった。彼女は日本人の若い男には興味がないと言う。ただ、外国人男性ではどうなのだろう。外国では日本人女性がもてるらしい。現地のロンドンでフィアンセを見つけるかもしれない。彼女はそのまま外国人と結婚する可能性がある。彼女が次に日本に帰る時には外国人男性を連れて来るかもしれない。しかし、そうなるとは決まったわけではない。
 あるいは、現地に留まる可能性もある。頭が良くて何事もテキパキとこなし、交渉ごとも上手い。仕事ができるタイプだ。語学力を見込まれてロンドンの企業に採用されるかもしれない。採用されなくても支障はない。彼女にはかねてからの別のプランもあった。日本向けへ雑貨や食品の輸出を取り扱うビジネスを手掛けるのだ。日本では貿易会社に勤めていたから、英語での交渉ごとには慣れていた。外国で生活することに憧れがあるし、成功したいという野心もあった。
 日本に帰国する可能性もある。帰国したら逆に輸入を取り扱う商売を始めるかもしれない。外国住まいを続けるのか、日本に戻るのか、予想は難しい。彼女のことは、なるようにしかならないと思っている。
 その店のバーカウンターには、いる筈のない彼女がいた。
 男の方を振り向くでもなく、久し振りの再会なのに驚く様子もなかった。
「元気?」
 彼女は男の方に顔を傾け、そう言っただけだ。男も躊躇する様子はなく、彼女の隣の席に座った。
「まあまあかな。寂しいのはいつものことだよ。どうしてここにいるの? 日本に帰って来たという連絡はなかったね。東京の住まいは引き払ったのじゃなかった? 今はどこにいるの? 一時帰国しているのかな?」
 彼女は男の質問には答えなかった。
 それでも男は不思議に思わないでいた。
「台湾旅行に行ってきた時以来だね。そうそう、台湾に行って来た時はそれなりに楽しかったね」
「そうね」
「台湾に行って来た後で考えたんだけど、もっと事前に準備するべきだった。帰って来てから後悔したんだ。帰国後に旅行関連の資料を整理していてそう思ったんだ。行った先の観光パンフレットを見ていて、残念だった。ちょっと足を延ばすだけで簡単にアクセスできる観光地もあったんだ。もっと注意していれば良かった。事前準備が不足していたとしても、現地で間に合ったと思う。そのことが悔やまれるんだ」
「あなたと行った海外旅行は、台湾で何回目だったっけ?」
「えーと、五回目になるのかな」
「あなたは旅行を楽しもうとする貪欲さがないのだわ」
「Rの方から台湾に行きたいと言った。そのとき、ぼくはどこの国でも良かったんだ。一度、台湾に行ってみたいとは思っていた。ただ、言われた時は一カ月を切っていて急だった。休みは土日の二日間と祝日の一日があった。Rは休暇が取れるのは二日だけだと言ったね。Rは勤めが忙しいし、時間的に余裕のあるぼくが旅行の手配をした。一カ月前だったのでどこの旅行代理店でも空きがなかった。予約は取れないかもしれないと思った時に、グレードの高い旅行プランに飛行機の席が空いていた。予約はある意味金額で解決した。それでホッとしていて後は何もしてなかった。業者任せにして事前の下調べを入念にしなかった。結果的にはそれがネックとなってしまったのかな。安い旅行ツアーだと、飛行機とホテル代だけで、あとは現地の観光地を自分で探さなくてはいけない。そうゆうやり方にRは慣れていると思う。オプションツアーでも組まない限り、現地ガイドがつかないから、下調べも充分しないと現地で困る。頭に現地の地図を覚え込み、位置を入念に確認して、しっかりと対応しなくてはならないだろうね。もし、完全でなかったとしても、事前に準備していれば、いろんな突発的な出来事にも対応できることになる。安いかわりに大変だけど、短期間で深くその国と関われることになる。逆に、この前の台湾旅行のように、ガイド任せで済む旅行だったら、現地に行ってからでもいいのかな、というのんびりした気になる。ぼくらの時は現地でお任せだった。全行程ガイド付だったので、予め決められたコースを回るだけだった。行く先々の心配をすることもなく、ただ車に乗せられて行くだけで、気持ちも身体も楽だった。ガイドに任せっきりだった。それが、却って駄目だったんだ。自分で何もしなかったんだ。それが、外国での良い意味での緊張感をなくしてしまったんだ。旅の醍醐味は多少のハラハラ感と好奇心が満たされることだと思う。オートメーションのコンベアーに乗っているだけのような旅はつまらなかったかもしれないね。ただ、それだって、切っ掛けがなければ行かなかったと思う。ぼくにとっては台湾旅行はいい経験だったよ。本当にぼくは出無精だし、家にいるとテレビを見ているか寝ているだけなんだ。出無精は年とって段々と酷くなっている気がする。この前の旅行はいい機会をもらったと思っている。行ってなければ、台湾に興味を持つこともなく人生を過ごしていたと思う。オートマチックで、主な名所しか寄らなかったけれど、現地の空気を吸ってきたし、行って来たという実感はあるよ」
「私が小さかった頃は家を出ない子だったのよ」
「え、そうなんだ」
「日本にいた時は仕事で緊張ばかりしていたので、帰る時は殆ど外で飲んでいた。海外旅行は良く行ったけど、のんびりしたくて、南国のリゾート地に行くことが多かったわ。台湾は趣が違っていて、あれはあれで良かったわ。台北から少し離れた観光地に『千と千尋の神隠し』のモデルになった飲食店があったね。そこに私が行きたいと言ったら、あなたがそこまで連れて行ってくれた。嬉しかったし、感謝している。そこに行けたから、友達にも自慢できたわ。それと、最後の日に自由時間が半日あったね。別行動しようとあなたが言ったから、早朝からずっと私一人で街を歩き回っていた。お土産を買ったり、食べ歩きをしてきた。それなりに、私も楽しかった」
 彼女は年に何回も格安ツアーで海外旅行をする。大手旅行代理店では格安の海外パックが組めるらしい。低料金なのは、直前に空きの出た飛行機の席を、安く押さえられるかららしい。格安航空会社の飛行便とは違うので、通常の機内サービスが受けられる。彼女は飲み手なので機内サービスでビールやワインを遠慮なく頼む。飛行機運賃と安宿だけの最低プラン料金で行く。英語が喋れるので行き先を訪ねることができる。食に貪欲な彼女は現地の安くて美味い穴場を自分で探す。アクティブに動いて、安上がりに楽しむのだ。
 子供の時は、家に閉じこもっている女の子だということを、彼女から初めて聞いた。現在の彼女からは想像できなかった。
 台湾旅行で行った料理店での出来事を彼女が語り始めた。ほぼ、一年前のことだった。
「あの台北の小籠包の店で、私がどんなに嫌だったか、あなたには分からなかったでしょ?」
 彼女はその時のわだかまりを語り始めた。
 男としては、台湾旅行は最初で最後かもれないと考えていたから、台湾の端まで行ってみることにした。そこで、列車や飛行機を利用して、花蓮から高雄まで足をのばした。二月でシーズンオフだったからか、高雄までは自分たち一組だけを案内してくれるかたちとなった。他の旅行者と同行することはなく、贅沢な旅となった。最後は台北観光を残すだけとなった。新幹線で高雄から台北に移動する時から、他の二組の夫婦と同行することになった。台北では、その二組の夫婦と、その日の午後まで、一緒に行動することになった。現地の大手旅行代理店の台湾支店では現地の日本語を話せるガイドを雇っていた。台北では高齢男性の現地ガイドが案内してくれた。台北に着いてから、先ずは小籠包で有名な店で昼食を取ることになった。
 彼女はそこの店で見ず知らずの人達と一緒だったことが気に入らなかったのだ。未だに不満を持っていた。
「Rが凄く気を遣っている様子はヒシヒシと伝わっていたよ」
「どうして、あの人達と一緒に食事をしなければならなかったの。本当に嫌だった。あの後、ずっと機嫌が悪かったでしょ。気付かなかったの? そのことを引きずっていたのよ。気分が悪くて、その後、しばらく旅行を楽しめなかったわ」
「仕方ないと思う。長い時間並ばないと入れない有名店だし、連休を利用して行く日本人が多かったから、いつも以上に人が多かったんだよ。だから、団体客用のテーブルに着くしかなかったのだと思う。現地のガイドは細かいそれぞれの事情なんか考えていないと思う。元々はツアー旅行だったんだよ。花蓮や高雄はたまたま行く人が少なかったので、ぼく達一組だけを案内してくれたんだ。元々は大手旅行代理店のツアーで申し込んだんだ。団体客としてまとめて案内するのが現地ガイドの役目だと思うよ。たまたま、同乗する人達がいなかったから、高雄までは専属のガイドと運転手がぼく達だけについたかたちになったんだよ。台北の台湾人ガイドは日本人同士だから一くくりで大丈夫だと考えていたのだと思う。それぞれの事情なんか考えていない筈だよ。冷静に考えても、そうするしかなかったのだと思う。店の外で三十分近くの待ったけど、そこで食べられただけでも良かっと思う。台北のツアーコースに組み入れられているし、日本人の上客だし、料理店側も融通を利かせてくれていたんだよ。個人で行ったとしたら、もっと待たされたかもしれないよ。日本語のできるスタッフが店の前で案内していたけど、事前予約があったからまだあれでも早かった方だよ。旅行代理店から複数の予約が昼時に集中しただろうし、あれはあれで仕方ないと思う」
 彼女は小籠包で有名なその台湾の店を既に知っていた。東京の老舗百貨店にテナントとして入店しているらしい。日本で支店を出したと聞いたので、彼女はその百貨店まで食べに行ったという。日本の支店で食べた小籠包は美味しくなかったと言った。彼女には美味しくないと断言できる舌を持っていた。それでも、台湾の本店の味はどうなのか、興味はあったみたいだ。ただ、他人と一緒に食事することがネックだったのだ。彼女にとっては緊張する場になっていたのだ。食通の彼女だが、そこでは小籠包を堪能する気持ちになれなかっただろう。
 彼女はその時に感じた不満をぶつけたかったのだろう。男は予約が取れない状況の中で、最善を尽くした。台湾旅行は次回に持ち越すことも検討せざるを得ない状態になり掛けた。最後まで諦めなかったので、彼女の希望する日にちに合わせて、旅行を実現することができた。男が立てたプランそのものを彼女は批判するすることはできない筈だった。
 料理店は昼時で満席の状態が続いていた。現地の台湾人ガイドの思いからすると、なかなか空きが出ないので、三組六名をまとめて大きなテーブル席に案内するのが効率的だったのだろう。予約が重なり、待ち時間の長い状態だったのだ。仕方のないことだと男は思っていた。
 確かに男の方は時間的にも資金的にも余裕があった。彼女は仕事で忙しいし、旅行代理店の担当者と頻繁に連絡を取り合う暇はなかった。彼女は関連会社に異動になったばかりで、休暇がとりにくい立場だった。ただ、最低限の休暇を取ることは義務付けられていた。そこで二月に台湾旅行のプランをたてた。二日間の年休と、土日・祝日を含めて、五連休で休暇を取れることになった。男は彼女の都合に合わせて旅行プランを立てた。男がグレードの高い旅行プランを選んだのは、現地に行ってからオプションを組むのが面倒だったこともある。時には、集団行動があったとしても、止む終えないことだと思っていた。楽をしたかったのだ。事実、現地ガイドの案内のまま移動するだけだった。
 店に入ると、そんな彼女の心情も考えずに、その場の他の人々との交流を楽しもうと思ったくらいだ。彼女はぼくと違って他人には凄く気遣いをする。小さい頃、父親は転勤の多い会社に勤めていた。それで、転校も多かった。子供の時から初対面の人には敏感だった。対人環境に慣れるのにも苦労したらしい。子供の時の経験がトラウマとしてあった。
「ぼくは感受性が乏しいのかな? 初対面の相手でも、特に支障はなかった。自分を基準にしているからかな? そんなにRが他人に気を遣っていたとは気付かなかった。それでも、それなりにピリピリしている気配を感じていたよ」
「私は小さい時から他の人に気を遣うのが当たり前だと思っていた」
「ぼくは、年とともに、他人との関わりでも『何かの縁』、『袖すり合うも他生の縁』、という気持ちでいる。それに、迷惑を掛けない程度なら、少々嫌われてもいいやという気持ちもあるんだ。日本人として品位は落とさない程度に『旅の恥はかき捨て』という気持ちもある。過ぎてしまえば、楽しみも苦しみもなくなるんだ、という思いでいるんだ。年とって厚かましくなったのかもしれないね」
 男は旅先で何かトラブルが発生したとしても、それが後々には良い思い出になるという考えでいた。男の若い頃は内向的なタイプだったのに、どうしてそんな考えを持つに至ったのだろう。男のライフワークと何か関係があるのだろうか。
 彼女はしばらく沈黙を保っていた。彼女の思いは違っていた。その時に、どんな心境でいたかを、彼女が語りだした。
「それが、あなたの鈍感なところよ。私はその場を壊してしまったら、どうなるかを考えてた。他の人達の旅の楽しい思い出の場になるのよ。その場の雰囲気が台無しになったら楽しい旅行ではなくなってしまうわ。そう思いながら、その場を取り持っていたのよ。そのことまでは気付いていなかったのね」
 彼女には何かあるのだと男は感じていた。ただ、そんな風に彼女が思っていたとは知らなかった。その店で微妙な空気を感じたが、そこまで読めなかった。確かに男は無頓着だった。彼女からすると、その場の空気を読めない人間に映っただろう。しかしながら、男は男なりにその場を観察していたようなのだ。
 彼女の子供の頃は、転校時に仲間に入れるかどうかが大切なことだった。最初、自分が他の人にどう見られているかは重要なことだった。そのことが、影響しているのだ。彼女は高校生の時にも転校したことがあった。その時に生理が止まったと言っていた。海外留学していた時も、語学力向上のために、日本人同士の付き合いを閉ざし、対人関係で自分を追い込み過ぎた。ホルモンに異常を来たして予定より早く帰国した。彼女は他人に過敏な反応を示す。だから、より狭い範囲での人間関係に敏感なのだ。
「ピリピリしていているのは気付いていた。ただ、Rがその場を壊さないようにしていたなんて、そこまでは分からなかった。それは、Rの性格的なものかもしれないね」
「私は自分だけでなくて人はみんなそういうものかと思ってた。気を遣うのは親しい友達だって同じことよ。彼氏にだっていつも私は気を遣っていた。ましてや他人で初対面だと尚のこと緊張するの。前にもそんなことを言ったと思うけれど、人のいるあんな場ではとても気を遣う性格なの。自分でも情けなくなるくらいだとは自覚している。それを考えると、あなたと長く付き合えているのは、あまり気を遣わないで済む相手だからかもしれないわね。でも、あの時、あなたの言動で白けたのよ。知ってる?」
 男はその点に関しては譲れないところだった。
「ぼくはぼくなりにその場の雰囲気を和らげようとしてみたんだよ。その場が和むと思って、言ってみたんだ。結果的にはとんちんかんなことを言ってしまったけどね」
 小籠包を出す店の三階が団体客専用のフロアだった。男と彼女はテーブル席の通路側に座っていた。
 食事が始まろうとする時のことだ。一番最初は一人に一つずつ籠に入った小籠包が出てきた。皆が食べ終えた頃に、二番目のやや大きめな籠が一つだけ出てきた。若い女子店員が日本語で「海老入りです」とだけ言って立ち去って行った。
 その籠が全員に配られるのかどうか、店員からの説明がなかった。皆はどうしたらいいものかと迷っていて手を出せないでいた。満席状態の中で店員は忙しく立ち振る舞っていた。店員に話し掛けようとしても日本語が通じなかった。身振りで伝えようにも、先ほど小籠包を置いていった女子店員はテーブル席のあいだを急いで通り抜けて行った。籠の中の小籠包を取り分けていいものかも、分からずにいた。六人分の小籠包が入っているらしいのだが、誰かが先に箸を付けなければならない。
 初対面の六名が一つのテーブル席を囲んでいた。気まずい雰囲気が漂っていた。男は常々、ギャグはタイミングだと思っていた。失敗することを恐れていては何も起こらない。回りの重い沈黙を感じたので、そこで男は何かを言おうと思った。咄嗟のことだったので、あまり考えないで喋ってしまった。
「海老は高いから一人に一つずつは出ないのかもしれませんね」
 と何気なく出た言葉だった。すると、右隣にいる夫婦の旦那の方がこう言った。
「伊勢海老でも入っているのか」
 そう言われて、あっそうかと男は思った。むき身の小エビなんか安いものだ。一人で何個食べても大したことはないだろう。男は自分ながら、失言だったのかな、と思った。ただ、初対面同士の場で、男はジョークにチャレンジしたことは確かだった。笑いは出なかったので彼女の言う通り、その場は白けたのかもしれない。
 同じ大手の旅行代理店を通じたツアーで、たまたま同席となった右側の夫婦は、大阪在住で関西空港から台湾に来たらしい。男の発言を切っ掛けにそのテーブルで話が交わされた。右隣の夫婦は関西人らしく、人当たりがいい。奥さんもその旦那と同じく気さくだった。旦那の方は、店内の様子を見て、店員の対応の悪さに文句をつけていた。
 男の発言は切り出しとしては不適切だったかもしれない。が、それを切っ掛けにして、互いが打ち解けることになった。以後は、小籠包や一皿に盛られた料理を、各人が小皿に取り分けることができるようになった。
 男から見て左向かいの席の夫婦は物静かな連れ合いだった。そこの奥さんの方も、彼女と同じく、気を遣いそうなタイプだった。広島から来たというその夫婦はあまり喋らなかった。関西空港からは右隣の夫婦と同じ便の飛行機に乗ってきたのかもしれない。海外旅行に慣れていないので、初心者向きの台湾観光を選んだのかもしれなかった。
 男の発言が周りを白けさせたかもしれない。それでも、それが発端になって、話が弾んだならそれでいいと思った。結果的には男の失言も有意義だったと言える。
「失笑されるだけでもいいんだ。例えば、ある居酒屋に行ったとしよう。店員の女の子を笑わせたいと思う。つまらないオヤジギャグを言ったりする。店員は客扱いに慣れていなくて愛想笑いを返すだけかもしれないし、困ってのごまかし笑いかもしれない。それでも、その居酒屋の女の子を笑わせたい一心なんだ。Rと違ってひょっとして無心で笑ったのかもしれないんだよ。日常でも身近な人を笑わせることができなければ楽しくない。その心意気だけでも感じてほしいな。あの場では回りを笑わすことが手っ取り早いと思ったんだ。あの場では白けたかもしれない。だけど、少しはあの場を和ますことになったと思うよ」
 彼女はそれくらいのことは分かってくれていたと思っていた。理解していなかったみたいなので、一応の説明をしてみたのだ。
 彼女は初対面の他人に対しては神経質だけど、別の面もあるのではないかと思った時がある。彼女のある仕種を見たことがあるからだ。
 こんなことがあった。
 ある夏の日のことだった。伊豆のリゾートホテルに彼女と泊まったことがある。浜辺が近く海水浴ができて、淡水プールも備えていた。そこを選んだのは、その年の夏の日から、十カ月前に行った、ニューカレドニアのホテルに似ていたからだ。海で泳いだ後はそのままホテルの部屋に戻れる近さだった。プール脇のシャワーを浴びてから部屋に戻ることもできた。プールだけを利用することも可能で、波の音を聞きながらビーチチェアで寛ぐこともできる。
 彼女は酒好きだった。一緒にいても朝から晩までビールやワインをお茶代わりに飲んでいた。思い起こせば旅先ではいつもそうしている。その日も缶ビールを手放すことはなかった。彼女は酒が入った時は陽気だ。アルコールの入っていないしらふのとき、他人に対してだけは愛想がいい。が、気を許している筈のその男には、仏頂面でいることが多い。
 男は慣れてはいたが、不機嫌そうな彼女の顔を見るたびに、接し方が悪いのかと心配になることもある。親密になる程、遠慮しないで男に苦言を言うようになった。出会ってから、だいぶ年数が経ってからでも、不機嫌そうな顔が、彼女の本来の顔だと思っていた。
 彼女とレストランまで向かう時だった。阿波踊りのような仕種で通路を歩いた。エレベーターに向かう通路の途中で、彼女向かって男は言った。
「アルコールが入ると凄く楽しそうだね」
「これが、私のデフォルトなの」
「デフォルト?」
 テレビやラジオのニュースでその単語は聞いていた。
「デフォルトって、良く聞くね。えーっと、債務不履行って意味だね」
「違う。素という意味だよ」
「えっ、そうなの。てっきり、デフォルトって経済用語だと思ってた」
 英語の堪能な彼女が言ったことに違いはないのだろう。後で男はデフォルトという単語の意味を考えてみた。自国の負債を償還できなくなることが債務不履行だ。蓄積されてきた国の信用が何もなくなることを「素」と言い、元々の状態に戻ったことを示すのかもしれない。債務不履行によって国の決済機能が働かなくなることを「デフォルト」と呼ぶのだろう。男の言った単語の意味も間違いではないのだ。だが、その時の彼女の仕種に対して、適応した単語でもあったのだ。
「これが、本当の私なの」
 と、彼女は再び言った。男の前を踊りながら歩いていた。その姿が本当の彼女だと言うことになる。男にとっては信じがたい気持ちだった。男は人を笑わせるのが好きだった。ただ、彼女は手ごわかった。駄洒落も通じない。男といる時はいつも仏頂面をしていることが多い。オヤジギャグを飛ばしても無視を決め込み、表情一つ変えない。
 彼女には冗談が通じないものだと男は思い込んでいた。彼女を笑わせることを諦めていて久しい。酒を飲まなくても、いつもこうならいいのにな、と思いながらホテル内のレストランに向かった。酔ったら、陽気になって、行動にも出る。それが彼女の一面なのかもしれない。彼女はセクシーでクールな女を演じているだけなのかもしれない。
 台北にある小籠包の店に話は戻る。
 彼女はその場では浮いている若さだった。化粧は薄くても人並みのきれいさはあった。派手さはないが、その場を華やかにする自然な若さがあった。
 その店に入るなりのことだ。そのテーブル席ではこんなことがあった。
 最初に店員は急須一つと六つの湯飲みを置いて立ち去って行った。通路側に彼女は座っていたし、一番急須に近かった。成り行きから、彼女が湯飲みに茶を入れることになった。回りから恐縮する声がした。彼女は急須から各人の湯飲みにお茶を注いだ。その時右隣の奥さんが言った。
「若い子が出すお茶の方が美味しいでしょう。お願いします」
 彼女は笑い顔をつくらずにこう答えた。
「どうでしょうか。美味しいかどうか分かりませんけど」 男はその場のやり取りを思い出してこう言った。
「あの大阪から来た奥さんが、ああ言ったのは当然だよ。男女年齢を越えてお茶を出してもらうのは若い女の人に限ると思う。誰だって若い女性からお茶を出してもらった方が美味しく感じると思う。考えることは一緒だよ。あの奥さんの言ったことはお世辞でないと思うけど」
「私が、『あらそうですか、ありがとうございます』なんて答えたら、馬鹿な女だと思われてしまうでしょ。そんな女を見ると、同性は不快に感じるものなのよ。その場の雰囲気を壊すことになるのよ。そんなことも分からないの」 彼女はその場の心境を説明した。その時の彼女は、別のことを考えていたことが分かった。
 彼女はみんなが過ごす楽しいその場の雰囲気を壊したくなかったのだ。一期一会の精神からくる、しごく当然なもてなしの心を持っていた。彼女は自分の若さをひけらかさない慎ましい女を演じていたらしい。それは、パートナーである男に対しての配慮だったのかもしれない。程度の悪い女を連れているとパートナーの品格を落としてしまう。彼女はそこまで思って、周りに心を砕いていた。男が思う以上の細やかさがあったのだ。それを気付かないでいた。彼女なりに気配りしていたのに、その後、男は思い付きのようなことを喋ってしまったのだ。
 右隣の夫婦は社交的だった。店の前で並んで待っている時だった。彼女に対して、ナンパのように、どこから来たのかと、気さくに話し掛けていたのは、その大阪から来た夫婦の、旦那の方だった。話し掛けているところを見ても、隣にいる奥さんは気に留めている様子はなかった。
 その旦那が右隣のテーブル席の若い女の子のグループの方を向いて話し掛けた。特に若い女の子に興味があるというのではなさそうだった。日本語で話し合う声が聞こえたので気になり、小籠包が出て来るまでの、待ち時間に話し掛けた様に見えた。
「おたくら、どこから来たの?」
 女の子は四人で、全員が二十歳前後に見えた。初めての外国なのかもしれない。手軽なので初めての旅行を台湾にしたような感じに見えた。女の子の四人全員が黙り込んでしまった。どう答えていいのか分からない様子だった。田舎から来た学生達なので、その後の会話を続けられないからだろうか。最低限の言葉のやり取りも拒んでいた。会話そのものを拒否する態度で全員が黙り込んでしまった。沈黙だけが続いた。何も返事がないのでその旦那はこう言った。
「日本語が通じないみたいだな」
 フレンドリーで開放的な右隣の夫婦連れとは違って左隣の広島から来た夫婦は寡黙だった。そんな夫婦だが、静かにしている奥さんの方が却って観察眼が鋭いかもしれない。だから、不気味でもあった。その左側の奥さんと男とは、年齢が近いように見えた。その左隣の奥さんの旦那は、退職を記念して、海外旅行をしているのかもしれない。その場では、その旦那の声を最後まで聞くことはなかった。
 右隣の奥さんの方は通路側の年齢差のあるカップルを当たり前のように見ていた。都会に住むので、年齢差のあるカップルとの交流があるのもしれない。自然体で接していた。左隣の夫婦の奥さんからは男をどう見ていたのだろう。ドリンクメニューや店の案内を見る時は男はメガネを外す。老眼なのは一目瞭然だ。四十代からでも老眼になる。ただ、左側の奥さんは、男が還暦を過ぎた歳であることを、既に見破っていたかもしれないのだ。左隣の奥さんは通路側の男女カップルをどう詮索していたのだろう。
 男には怪しげな落ち着きがあり、若くないことは確かだった。男は銀縁メガネをしている。メガネを掛けているからインテリに見えたかもしれない。変なことを言ったから、大学の先生ではなさそうだ。人当たりは悪くない。医者と看護婦のカップルだろうか。はたまた、自営業の社長と愛人だろうか。左側の奥さんはそんな風にでも見ているのだろうか。
「Rは気を遣っているのは分かったよ。でも、あんなのは未だいい方だよ。じゃ、ぼくがどう見られているかを考えてみたことがある? ずっと前のことだけど、ぼくがRに引き回されてショッピングに付き合わされた最初の頃と比べると何ともない。あの頃のぼくは周囲の視線を気にしていた。どう見られているのか恥ずかしい気持ちで一杯だった。都会人は他人のことを無視するし、互いに干渉しない。目の前にいる人の行動には関心を示さない振りをする。それが都会での救いだった。免疫が段々とできて、どう見られても構わないという、厚かましさを備えたのかな? 今回は、テリトリーを侵されるような、狭い範囲でのシチュエーションだったから、ちょっと戸惑ったのかもしれないね。まあ、終わったことだし、こうやって語られるようにもなったのだし、思い出になったのだと、割り切るしかないんじゃない」
 男は会話に熱中していて、そこが深夜のバーであることを忘れていた。
 そんなつもりではなかったのだが、そのバーのカウンター席で彼女と喋り続けていたことになる。彼女がなぜそのバーにいるのかという疑問が涌かないままでいたのだ。疑心暗鬼になってないこと自体、別次元の当事者になりきっていることになるのだろうか。
 誰もいないバーを彼女と一緒に出た。一階のバーを出て、階段のあった方を見た。道路側から二階に上る階段はなくなっていた。どこに階段があるのだろうと、見直してみた。
 同じ位置には、地下に降りる階段があった。
「あれ、このビルに地下なんかあったっけ。しかも、見覚えがある。地下に通じる階段は、二人で一緒に行った所と似てるね」
「ええ、同じ店よ」
 彼女は確信があるかのような語り口だった。
「何で、ここにあの店があるんだろう。とにかく、入ってみよう」
 階段と同じ角度で天井が沿うよう地下に続いていた。白いペンキで塗られた天井が、階段を降りる時に目の前に迫ってきた。男の後について彼女は降りてきた。
 打ちっぱなしのコンクリートの壁に古くて頑丈そうな扉が取り付けてあった。その扉を開けて、店の中ほどに入るまでは、薄暗く狭い通路を通っていかなければならなかった。店内の様子を見て男の記憶が甦ってきた。
 そこの店構えらからして、前に来たことのある「文壇バー」と言われる店だった。
 その時、「いらっしゃいませ」と、奥から女の声がした。最初はどこから声が掛けられたのかと思った。カウンター席と奥の厨房の間の方に総白髪の老婦人が椅子に座っていた。挨拶の主はその店のママらしかった。負担が掛かるのか椅子に腰掛けたままだった。こちらの方を見てから立ち上がった。後で分かったが、カウンター席の内側にも椅子があった。立ち仕事が辛いらしい。酒を準備したり、お通しやつまみ類を出す時以外は座ったままだった。歳としてはかなり高齢には違いなかった。昔からある「文壇バー」だ。そこの店のママを務めて、長い年月を経ていたのだ。高齢のママは何歳になるのか検討がつかなかった。
 歴史という上品な言葉は似合わない店だった。小説家が出入りしているなら、たくさんの本が寄贈されている筈だ。小さく粗末な造りの飾り棚には数冊の本しかなかった。それらの背表紙を見ても小説本はなかった。店内に見栄えのするアンティークな調度品もなく、改装しないまま古くなった安酒場と何らかわりはなかった。疲弊した古さを感じさせるだけだった。日本各地にあるションベン横町が注目されるようになってきた。そんな所にある場末の安酒場をイメージさせた。
 そんな店に懐古的風情を感じて、落ち着くという人もいるかもしれない。だが、そんな古くて暗いイメージの店に若者が好んで来るとは思えなかった。昔は作家の溜まり場だったかもしれない。高級店でないから、酔っぱらった作家が、長い時間ぐだぐだと議論していたとしても、許される場所だったのかもしれない。今はどうなのだろう。文学に憧れを抱いた時期もある、物好きな人間が、興味本意で寄るだけ店なのかもしれない。男もそのうちの一人だった。
 前に来た時、インターネットのホームページから印刷した簡易地図を見ながらその店を探したのだった。都会の繁華街の中では東西南北も分からない。大きなランドマーク的な超高層建築物は、通りを囲むビルに隠れて見えなかった。彼女も一緒になってその店を探してくれたので、やっと見つけることができた。気を遣うこともなさそうな店でホッとしたが、そんな古めかしい所に彼女が良く付いてきてくれたと思う。男は若い女を同伴してくる作家はいるのだろうかと考えてみた。
 ある時、都会に出掛ける直前のことだった。スクラップブックに貼る前の、未整理にしている新聞の切り抜きが机の上に置いてあった。たまたま、その切り抜きが目についた。新聞記事に「文壇バー」のことが載っていた。ある女性執筆者が書いたその記事に興味はあったが、一人で行く勇気もなかった。彼女とレストランで食事をしている時に、何気なく男の希望を語った。彼女は一緒に行ってもいいと言った。
 高齢のママに寄り添い、まじめそうで無口な女性がいた。息子の嫁かもしれないし、ママの孫かもしれない。親族ではなくて、アルバイトかもしれない。そこで働いている人の事情は聞けなかった。
 時々、そこそこ名の通った作家やマスコミ関係の人も来るらしい。作家の中には安らぎを感じられるという場所なのかもしれない。そこの店に来たという新聞記事を書いた執筆者のことをママは覚えていた。「ああ、あの人は取材だと言ってやって来た」とママはそのときのことを思い出したようだ。それ以来、その女性は来ていないとも言った。
 ちゃんとその状況を忘れていないでいるのは感服する。高齢なのにそれなりに記憶はしっかりしていると思った。高齢のママだが客扱いと記憶力は衰えていなかった。さすが長く商売を続けているだけのことはあると思った。
 新聞記事によると、たまたま憧れの女流作家がその店にいたという。「あなたは、作家なの、エッセイストなの、一体何者なの?」と問われたという。「ただの雑文書きですけど」と答えると「そうね、あなたからは生涯をかけて書きたいというテーマが見当たらないわね」と酔いの洗礼を受けたと書かれていた。
 儲けようという雰囲気の店ではなかった。昔からのお客が来るし、話をするのが好きだから続けているという感じだった。新聞の記事で、共通の話題ができて、男は良かったと思った。
 その日は土曜日の夜だというのにお客は少なかった。ボックス席でグロッキーになっている一人の男性がいた。最初はお客だと思っていた。後で話を聞くとママの息子だった。その息子に店の経営を譲りたいらしかった。しかし、息子に任せられない事情が分かった。そこの店にはまだまだ母親の存在が必要だったのだ。
 もし、その店に有名な作家がいたら、ラッキーだろうな、という期待があった。残念ながら、小説を書いているような人は来なかった。今の世代の作家はインターネットで投稿する時代だ。作家仲間でつるんだりしないのだろう。昔みたいに酒場で無頼ぶり、大声で暴れたりする作家もいなくなったのだろう。酒を飲まなくなり、議論もしないで、ただ自分が書きたいことのために引きこもるような作家が多くなったのだろうか。男はそんなたぐいの人と話をしたことがないので、想像が及ばないことでもあった。
 その「文壇バー」に行くまでは心細かった。それが杞憂であると分かった。店の雰囲気にも慣れたので、男はママに「中上健次と西村賢太は体型が似てませんか」と何気なく聞いてみた。聞いてみて男は驚いた。その二人の作家とも、その店に来たことがあるらしい。それを聞くだけでも価値はあったかもしれない。男は両者の作品をたまたま読んでいたからそんな素人的な質問ができたのだ。両者の小説の中身は違っていた。男は良く分からないまま成り行きで喋っていた。男は若い頃、中上健次の小説を読んだことがあった。その頃は良さが分からないでいた。最近になって中上健次の小説を再び読んでみた。歳を重ねたからだろうか、名作と言われる意味が分かってきたようなのだ。ママと話が通じたので調子にのってさらに聞いてみた。「中上健次と西村賢太の体つきを見ると、肉体労働をやっている感じがしますね」と言ってみた。するとママは答えてくれた。西村賢太のことではなく、亡くなった中上健次のことだろうと思って聞いていた。その当時のことを語ってくれた。
「あの人の実家は建設会社を経営していて、裕福な育ちだったんですよ。少しは実家の仕事を手伝ったかもしれないけど、肉体労働なんか本気でやっていないですよ。だって、手を見れば分かるもの。きれいな手をしてましたよ」
 その時、男はなるほどと思った。すると肉体労働をしているようなポーズを取っているだけのことかもしれないと思った。作家自身を売り込む、セールスポイントにしていたのだろう。昔のことを振り返るように語っていたので、西村賢太ではなく中上健次のことを言っていたのだろう。考えてみると、ポーズをとることに関しては、西村賢太だって似たようなものだろう。
 息子はお客さんの相手をして酒を飲んでいたのだろうか。ボックス席で、ソファーにもたれて延びていた。その息子の姿を見たママが、小さい時から鍛えたのに、酒が強くならないことに嘆き、昔のことを話題に上げた。
 ママは昔のことを振り返りこんなことを言った。カウンターの上を指差しながら、お客さんがいる中でも、息子をそこでハイハイをさせていたと言った。その頃、息子にしたことも話し始めた。ミルクに薄めた酒を混ぜて飲ませていたと言う。父親は下戸だった。幼少の時から酒を飲ませておけば、アルコールに強くなるだろうという、思いがあったからだ。
 推測してみると、ママは今で言う「シングルマザー」だったらしい。息子の父親は酒が飲めなかったので、母親は考えたらしい。行く行くは息子に店を任せたかった。父親みたいにならないように、息子が小さい時から、酒が強くなるように鍛えていたのだ。
「そんなことをしても無理でしょう。酒の弱いのは生まれつきのものですよ。アルコールを分解する酵素が少ないのは遺伝子によるものだから仕方ないですよ」
 そう男が言うと、息子の父親のことでも思い出したのだろうか、ママは諦めのつかないような顔をして黙ってしまった。父親は下戸の作家だったのだろうか。そこのママはある小説の中に店のマスコット的な登場人物で描かれているらしい。若い頃のママを口説きに酒の飲めない作家が通って来たのだろうか。男はママの表情を見ながら下世話なことを考えていた。
 新聞記事の中にもその小説のことが触れられていた。小説の中にも登場したママだと紹介されていた。「文壇バー」への入店は一見さまでも大丈夫だと書かれていた。新聞記事を読んで来たと言えば、入りやすいだろうとも、書いてあった。
 酒に弱いのが分かっている筈なのに、息子はお客の相手をして酒を飲んでしまったのだろう。そして、泥酔していたのだ。店に入ったばかりの時に酔い潰れた息子がいた。その様子を男は見ていた。他に高齢男性がボックス席に座っていた。そのお客の相手でもしていたのだろうか。ママとは演劇か何かの話題を交えていた。昔は羽振りの良かった文化人という感じだ。昔からの馴染みとして、何か用事があるついでに寄ったのだろう。
 その時、こちら側に向けられた視線を感じた。酔い潰れていた息子が起きてきて、カウンター席の端に座った。ママは息子だと紹介した。よっぽど、酒がこたえていたのだろう。最初のうちは、寝起きのように虚ろな顔をしていた。カウンター席の端から、こちらに話し掛けてきた。
 こちら側のカウンター席にいる彼女に向かって、「おきれいですね」と言った。何を想像しているのか、その後、「いいですね」と言った。男は若く見えたかもしれない。それでも、親子ぐらいの年齢差は隠せないだろう。そのうちにママも二人のことに興味を示しだした。「どうして、ここに来られたのですか」と男の隣にいる彼女に話題を振ってきた。彼女はママにこう答えた。
「この人、この店のことを新聞で見てから、ずっと来たいと思ってたんですって。一人ではなかなか来られなかったらしくて、私が一緒に付いてきたのです。やっと念願が叶ったらしいの」
 同伴する男がその店に来たかった理由を正直に語ってしまった。
 カウンター席の端の方にいる息子から、男に向かって、「小説には興味があるのですか」と言った。
「いえ、最近になって若い頃に読んだ小説を読み直してみた程度です。この歳になってやっと小説の面白さに気付いたのです。読むペースは昔から遅いです。最近の作家の作品はあまり読んでません。昔の作家は生き方が破天荒だった人が多かったみたいですね。命懸けと言うか、書き残していかなければ、という緊迫感がありました。そんな作家に憧れはあります。そんな作家が来たことのある店の雰囲気を知りたかったのです」
 そう男は答えたが、変な勘繰りを入れられないように、彼女と話していない内容を取り繕うように言ってしまった。
「今はここで彼女の取材をしているです。今では食べられるようになったのですが、彼女は十代まで肉が食べられなかったそうなのです。どうしてかなと思ったので聞こうと思ってました」
「へえー、肉が嫌いだったんですか」
 息子が反応した。彼女は子供の時はニンジンも嫌いだった。しかし、魚は食べれたらしい。同じ生き物なのにおかしいなという気持ちが男にあった。彼女にだけ聞こえるように「思い込みから来る食わず嫌いじゃない」男は推測を述べてみた。「食わず嫌いというのじゃないの。何て言うか、命を奪うことに対して抵抗があったの」
 彼女は神仏を問わずに信心深かった。幼少の頃から宗教心の厚いおばあちゃんから殺生をしてはいけないという仏教の教えでも聞かされていたのだろうか。何の影響を受けたのか原因は定かではない。子供なのに、家畜の命のことまで考えて、肉が食べられなくなるのは、変だなという思いで男はいた。
 そこの店は、もう来ることもないかな、という思いで過ごしていた。楽しい時間というのではなく、その場を体験できて良かったという程度のものだった。男は「文壇バー」の探索を終えることにした。二人はその場を後にした。階段は狭いので男が先に上った。一階に上がり、彼女を待った。
 男は後ろを振り返った。彼女の姿はなかった。地下へ通じる階段そのものがなくなり、彼女と一緒に消えていた。男は、当然でもあり、必然でもあるように感じていた。
 換わりに、元からあった二階に通じる階段が見えた。ビルの一階の、道路側にあった筈の、店の辺りも見てみた。扉は跡形なく消えていた。
 二階部分には電光式の看板が明かりを放っていた。やけに煌々として、店名だけが浮き上がっていた。看板の明かりが点いているということは、まだ店が開いているということだ。
 階段から二階へと上った。踊り場を過ぎて、階段を上り切ると、平坦になった通路の中ほどで、行く手を塞ぐように、扉が開いたままになっていた。
 締め切った内側の扉を開いた。店内の明かりは点いていた。カウンター席に顔を埋めて男が鼾をかいていた。厨房を仕切る暖簾の隙間から、奥の方を見てみた。マスターはいなかった。男がカウンター席に一人いるだけだった。
 その男は誰だ。

 ああ、そうか。その男は自分だった。