. 乳首の微かな感触が指先に残っている。乳房の真ん中で、乳輪に埋没し、皮膚に同化しそうな、僅かな突起が乳首だと分かる。今までは、乳房に触れている、その状況の間だけの感触でしかなかった。指先での感覚が記憶に刻まれるまでは、累積する長い時間の中での、行為の繰り返しと、感覚の中での反芻を要した。今まで時間を要した分、彼女の印象を記憶の中で展開しようとすると、微かな指先の感触で、蘇らすことができるようになった。
 乳首には何十回も指先で触れた筈だ。何度も何度も口に含み、唇に感触は残っている筈だ。指先で何グラム単位の加圧を試みた。あるいは、突起のない乳首を口の中に含む行為を、細心の神経を傾注させ、繰り返してきた筈だ。それなのに、残っている筈の感触は、その行為の累積した時間の割りには、乏しかった。
 昨日、何かをしたことは分かっている。行動した時点の、大体の時間帯は覚えている。だが、腕時計を見た筈だが、何時何分だと記憶していることはない。何時頃だったかのおぼれげな記憶はあるが、手帳にその都度メモ書きでもしていない限り、分刻みで行動してきたことを思い出すことは無理だ。
 当日の昼に食べたメニュー位は思い出せる。しかし、前日の昼に何を食べたか思い出せなくなる。人の名前も思い出せないことがある。一時的な記憶喪失になることもある。この頃の自分に限ってのパターンかもしれないが、一週間前の出来事であったとしても、行動と時間を記録に残しておかないと、記憶は闇の中に紛れてしまう。記録しないでいれば、その日の行動は現実から抹消されかねないのだ。
 現実にあった筈の感触を、記憶の断片に繋ぐことは不確実なのだ。今まで、彼女の特徴のある乳首は、触れている時だけの、感触でしかなかった。それが最近になって現象的に僅かな変化が起こり、記憶に残ることになった。時を経て、長い時間の累積があったからこそ、彼女の変化を見逃さなかったことになる。
 以前からぼくに不感症だと吐露していた。彼女は最近、少し感じるようになったと言っていた。その「感じる」の、少しの尺度が分からなかった。少しとはどの程度のことを言うのだろう。分からない。彼女の身体は不思議に溢れている。クリトリスの部分が少し感じる程度かなと思っていた。しかし、彼女自身になれるわけでもないので、その「感じる」が分からなかった。単に膣内にペニスを入れた状態では感じないのだろう。乳房は大きい方で、揉まれていても、以前は「くすぐったいだけで、他の女の人が何で感じるのか分からない」と言っていた。−でかい乳が、感度の悪さの要因だ−と、長い間ぼくが勝手に思い込んでいて、彼女に話すこともなかった。
 彼女は特別身長は高くない。どちらかと言えば小柄な身体なのに、身体に似合わず、不釣り合な程、大きな乳房を有していた。十代の成長期に銭湯に行って、他の多くの女性の乳房が、自分と比べて小振りなのを見て、自分のは大きい方だと分かったらしい。遺伝的なもので、母親も小柄なのに、乳房と尻が大きいらしい。
 成人式の時、振り袖の着物を、三十分着ていただけで、胸が締めつけられ、気分が悪くなったと言っていた。手にあり余る乳房を揉みだす頃から、「感じない」と自己申告している筈の彼女は、ため息に似た声を発し始める。
 その前戯から始まる一連の性行為は、パターン化され、儀式の通過点のようでもある。行為の途中から、最後まで嬌声を発する。それで、どうして感じていないのだろう。彼女のクリトリスを嘗め始めようとすると「優しくして」と彼女は言う。色白と関係ない筈だが、彼女の皮膚の弱さは熟知している。それでも無意識に唇に力が入ってしまう。
 今回、クリスマスの日に東京に出て来た。普通の恋人同志が行うように、その日のイベントが彼女の満足するように終了し、晩餐で深酒をし、ベットインした時、彼女は淫乱になった。わざと大きな声をあげ、乱れ方は演技に思える程だった。「今日は乱れているね」と聞くと、「悪い?」と言い、ぼくは「全然、悪くない」と答える。彼女の方から積極的に唇を絡ませてくるし、前戯が終わり、そのままコイトスの状態に移行しても、大きな声のトーンは高まるばかりだった。それでも、彼女は感じていなかったのだろうか。
 その彼女に変化の兆しが出た。早朝から、カーテンで締め切ってあるものの、隙間から外の日差しが漏れていた。既に部屋は薄明るくなっていた。彼女の生活パターンはぼくと正反対だった。夜型の彼女は、朝起きるのがいつも遅い。彼女と過ごせるのは、休日の前の晩からが、殆どだ。彼女と居る時間は大事だ。しかし、彼女にとっても、寝ているその午前中の時間帯は、貴重な安息時なのだ。朝と言うより、昼になろうとしているのに、ぼくに背を向けて寝ていた。
 電気剃刀で髭は剃り終えた。朝刊は読み終えた。前日分の行動メモも書き終えた。ぼくは、時間を持て余していた。やることもなかった。ホテルのチェックアウトにはまだ時間はある。彼女を起こすには忍びない。
 彼女が化粧を終えるのに、三〇分程かかるのは、承知していた。それ位の時間の余裕は確保しなければならないだろうが、まだ一一時にはなっていなかった。ベットの中で彼女といること自体悪い状況ではないが、それは一緒に過ごしたことになるのだろうか。これからの休日の、残り時間を、彼女と行動を共にして、まれにしかない時間を共有したいと、ぼくは望んでいた。
 そこで退屈凌ぎに、彼女の乳房に触った。最初、彼女の微かな寝息も、認めることができなかった。まだ熟睡しているのか、目覚める寸前か、分からなかった。目覚めていなくても、彼女の肉体の存在を確かめる行為だと、思っていた。最新風俗店情報が載っている、大衆向け週刊誌記事にあったのだが、男の癒しの為に、添い寝をしてくれる店があるらしい。ぼくは彼女の乳房に触れようとして、その時寝ている、若干二十歳の、女の子の乳房を弄ぶのは、金銭換算にしていくら位するのかなと、寸時アホなことを考えていた。
「起きたら」と、声を掛けるかわりに、背後から乳房に触れた。ムギュッツと、柔らかい乳房全部を揉んだりした後、乳首だけ、指の先で埃を取り除くような軽いタッチで触れた。その時、彼女は軽い吐息を発した。彼女は目覚めているらしいのだ。ぼくは彼女に「感じる?」と問いかけた。彼女は素直に「感じる」と返答した。その時、ぼくは「性感帯、みっけ」とおどけて言った。
 彼女は自分で不感症だと長い間言い張っていた。始めての性交渉から今までの長い期間、彼女の陰部は濡れたことは一度もなかった。それが、彼女の体質だった。若い今でもそうだし、更年期を迎える頃も、そのままだろう。体質を変える外科手術でもあるのならともかく、そんな情報は聞いたことがない。彼女は生まれてこの方、濡れたことはないと言う。「濡れる」という感じを持ってみたい、と言っていた。同時に「感じる」ことがないと言っていた。
 そんな彼女が自分から「感じた」と言った。微かな喘ぎ声は、人類意外の生命体が、宇宙から発する電波のように、微弱なものだった。それでも、その時点の、その瞬間、彼女にとっては、ただ「感じる」としか、言えなかった。ぼくはその時の感触を、記憶に刻み込んでいた。
 彼女は十代前半から、不特定多数の異性と交わっていた。最近はそんなことしていないと思う。安易に不特定多数と交わろうとしたのは、自分が異常体質であり、不感症でないという確信を得られる相手を、探していた期間かもしれない。彼氏はできたが、快楽は得られなかった。彼氏が出来る前も、出来た後も、不特定多数の男と交わっていた。その中の、一人の中年男性が、ぼくであった。
 その頃は、感じることのできる相手を探していた、試行期間としか推測できない。その彼女が心を開く相手を見いだした。それが、ぼくだったのなら、長い間彼女と関わった時間は、無駄ではなかったろう。ぼくは半分諦めながら、彼女の性感帯を、探してはいた。彼女の身体部位の中で、性感帯を探すのは暗中模索でしかなかった。永遠に見つからないのかもしれないと、思ってもいた。これまで、長い年月を要した。
 性感帯を探すこと自体に、熱心になれない理由もあった。性感帯を開拓出来なくても、目前にぼく自身の快楽の対象さえあれば、いいと思っていた。ぼくにとっては、相手の反応などはどうでもいい事だった。それまでも、彼女が「感じない」と言うことで、不快になったこともなく、辛抱した気持ちはなかった。それで、彼女の性感帯を探す努力もしなかったのかもしれない。感じないと言いながらでも嬌声は発していて、表面的には反応しているように見えた。それが例え、女特有の自覚のない演技サービスであったとしてもだ。
 彼女は不感症で、感じないままでいても、ぼく自身の快楽さえ満たされればそれでいいのだった。彼女の感想はどうでも良く、自分さえ満足できれば良かった。彼女の存在さえあればいいのだった。そんな独善的なぼくでも、長い時間を経て、彼女に受け入れらるようになるのだろうか。何千年も経過した、古代の蓮の実の発芽を待つように、彼女の反応を、今まで慎重に待ち続けていた。
 部屋のカーテンは、閉め切ってあった。薄明かりの中で、フィードバックする何かの手応えを感じていた。彼女は「気持ちいい」と言葉に出してぼくに伝えた。身はとっくにぼくに任せているが、これまでの彼女は、真の意味で心まで許していたのだろうか、と自問する。
 ぼくを信頼するまでは、長い時間が必要であったのかもしれないが、それは、ぼくの方も、彼女を単に快楽の対象だけでとしか考えていなかった時期と、相対的に合致していた。
 そして、ぼくの心境も変化してきていた。今では、金銭的な援助の他に、損得勘定を越え、心境的に、彼女に総てを与えてもいいと思えるようになっていた。心の持ちようが態度に出ているのだろうか。遠距離であっても、手間が掛かっても、時間が掛かっても、彼女の住む都会まで会いに行った。そんなぼくを、信頼できる相手だと、認識したのだろうか。
 世間一般の多くの人から見ると、ぼくは反社会的で許されないパートナーだろう。彼女の両親が聞いたら、卒倒するかもしない。彼女はそのうちに、社会的な良識を持って離れて行くか、そのまま関係が続くかは分からない。しかし、今の時期に限れば、ぼくを信頼していることは、言動から推察できた。
 ぼくに対しては、彼女の実の父親よりも、欲しいものをねだることに、遠慮がない。学資金の提供者である父親には、これ以上負担を掛けたくない気持があるのだろう。彼女に物欲的な要求をされても、嫌な顔は見せられない。
 彼女はぼくを騙している様には思えない。例え、騙されていたとしても、後悔はしないだろう。誤っていただろう過去も、破滅に向かうかもしれない未来も、全て承知して彼女と付き合っている。
 信頼しているからこそ、欲しいものを言葉に出して言えているように思える。素直に甘えられる相手だと思っているのだろう。それなら、それでいいと思っている。単に物質的な希求であったとしても、彼女に頼りにされる事だけで、ぼくは満足できるのだった。
 どこかの高額所得者の社長が、愛人を囲っているより、小額な出費であると考えれば、負担に感じない。彼女はある時期、コンパニオンのバイトをしていた。カラオケに、数人の仕事仲間の女性達と、仕事に行った。そこで、ある中企業建設会社の社長と、意気投合したらしい。
 その社長は独身で、酒は飲めないし、趣味は女だけ、歳もぼくと同じらしい。ぼくの趣味は女だけではないが、考え様によっては、同じ寂しがり屋で、似た境遇に思える。家族がない男は、高齢になるにつれて寂しさが倍加してくる。例え金銭頼みでしかなく、愛人でしか寂しさを埋められなくても、その社長の心境は理解できる。
 ただ、その社長とぼくとは、決定的な違いがある。その社長は、何人も愛人を持っているらしい。正月は何人も愛人を引き連れてハワイに行くらしい。不況下でも、都会近辺の建設ラッシュに乗って、業績を上げている優良会社らしい。数人も愛人がいれば、その女達の間を行き来きすることで、寂しさを感じるという意識が無くなり、社長業に精力的に邁進できるのかもしれない。しがない、サラリーマンでしかないぼくとは違う。
 彼女は、その社長に気に入られて、何人目かの愛人にならないかと、誘いを受けたと言っていた。「ベンツを買ってやるよ」と言われたらしい。コンサートに彼女を誘った日に、そのことを聞かされた。後で行った、その日の晩のコンサートの演奏は、集中して聞けなかった。そのジャズコンサートに出演する、あるミュージシャンが大好きで、苦労して確保したチケットだったが、音楽は上の空で聞いていた。愛人になるのかと聞いた。翌日まで黙っていて、返事はなかった。
 後で考えると、ぼくの反応を試していたのかもしれない。「演奏、乗り乗りで聞いてたじゃん」と後で彼女は言った。
「そんなことはないよ。ずっとブルーだったんだから」彼女はぼくを確かめている節がある。
 彼女から、きっぱりと「なる訳ないじゃない」と、翌日の別れ間際に言われるまでは、心中穏やかでなかった。後が怖いので、その話には乗らないつもりだと、説明してくれた。
 ある日、雨の日に傘を持たないで彼女と二人で都心を歩いた時があった。「バックが濡れてしまう」と不機嫌に言った。「二〇万円したんだから」ポツリと言った。バイトだけで買えたのだろうか。
 その日の朝、ホテルから出ると、雨が降っていた。傘がないことで彼女は機嫌を悪くした。少し大きめで教材も多めに入りそうな、バックだった。なぜ、雨に濡らすことくらいで、不機嫌になるのか、奇妙に思えた。化繊織りの中型で、入れ物の中身が見え、手提げにも肩掛けにもなる。使用目的としては、ビニールに皮膜された、紙バックと変わらないような気がする。ぼくには、普通の女性用バックのようにしか見えない。
 留学資金を貯める為に、こつこつとバイトで貯金をしていたし、倹約もしていた。しかし、そのバックに限り、高価なブランド品だった。ぼくは、誰に買ってもらったのか、そんなことを追求する立場にない。バイトのお金で買ったと言えば、それを信じる振りをするしかない。もし、仮に例の社長から提供されたものだとしても、何も言えない。
 彼女はぼくの恋人でない。彼女にとっては、ちょっと程度の違った援助交際者だ。すけべ親爺でしかないぼくは、何も進言出来ない立場にいる。日にちが経ってから、雨の日の彼女の呟きと、以前聞いた、建設会社の社長のことを思い出した。愛人にはならなかったが、携帯電話の番号を教えたと言っていた。彼女は金持ちの社長と、愛人契約を結ぶことはないかもしれないが、一晩位は、その社長の相手をしたのではないか。ぼくの頭には妄想が蠢く。
 ぼくはどうしても、悲観的に考えてしまう。彼女にとって、ぼくは何人もいる相手のうちの、一人でしかないのかもしれない。彼女には彼氏がいる。そして、女友達も男友達も、日常的に周囲にいる。若い時の寂しさなんて、一瞬だろう。
 が、ぼくにとっては彼女は唯一の存在なのだ。彼女は、「感じる」と言った。そして、彼女はぼくの側にいた。幻想でなく、存在していた。
 早朝、光が部屋を照らしてきたので、カーテンを締め切った。一時、元の暗さに戻った。カーテンを締め切った後、深夜の状況を思い出していた。
 深夜、都会の真ん中の、ホテルの高層階の一室にいた。窓のカーテンは空け放されたままだった。外の夜景が見渡せた。彼女は既に軽い寝息を立てて寝入っていた。夜型の彼女にしては珍しく、ぼくより早く寝入っていた。
 夜景と言っても、目の前の隣の高層ビジネスビルが、窓の大部分を占めていた。最新式遮光ガラスがビルの全体を覆っていた。昼間は、林立する高層ビル群にあって、そんなに目立つこともない。ビルを覆うガラスは、内部を見えなくしているだけの、反射物でしかなかった。昼はガラス状物質で覆われ、建設物でしかないビジネスビルだ。昼間、ビルそのものを見た訳でない。おそらく、昼間は見る場所によっては、黒っぽいだけか、太陽の光が眩しく反射するだけのことだろう。
 そのビルを覆うガラス物質に、月の光が反射して、都会の中での異空間を醸しだしていた。ビルとの間の、建物の下の方に、ベイブリッジの光の点滅が見えた。巨大な壁のような向かい側のビジネスビルに、反射するこちら側のホテルのビルが、虚像として、歪んだ鏡に映したように見えた。その夜の時間帯にしか見られない光景だった。彼女はその時、寝ていた。いつもだったら彼女は起きている時間かもしれなかった。
 そのホテルに宿泊することになったのは、偶然だった。インターネットで空室を調べると、そのホテルしか空いてなかった。土曜日のクリスマスの夜は、直前の予約が取れないのが常だろう。田舎のラブ・ホテルでさえ満室状態である。
 高額だったが、クリスマス用特別室として空いていて、その部屋の予約が取れたのだった。そのホテルの高層階に宿泊しなければ、見ることのない夜景でもあった。しかも、その時間帯でなければ、月の位置加減で、光の反射は見られなかっただろう。その辺は、ビジネス街として再開発が進み、同じ高さのビルが林立するようになっていた。深夜、ビルにビルを、月の光で映していた。真夜なか、東京の都心にある、高層ビル群の中でしか、見られない情景を創りだしていた。
 ぼくはキリスト信者ではない。それでも、二五日のクリスマスのを祝ったのは、数時間前だった。彼女とは、別の地域にある、ショッピングが中心の、高層ビル最上階イタリアンレストランで、ディナーを取った。遠くにある筈の横浜ランドマークタワーが、近くに感じる程、空気が澄んでいて、光が列をなしていた。お台場のベイブリッジも一望できた。夜の光の束が絶景だった。平地の昼間では感じることのできない、この世とは思えない、異次元の世界だった。
 不思議なことに、レストラン内の、一人残らず総ての女性客は、窓側を向いていた。そのことは異常なことではないのだろう。女の脳は、夜景を見ることで、現実や日常を離れ、快感を得られるようになっているのだと、彼女から聞いた。
 ディナーと夜景を堪能し、淫乱になった彼女は、性行為を済ませ、満足して寝入っていた。彼女が昼近くに目覚めた時は、きっと二日酔いだろう。予防の為に二人でウコンを飲んだけれど、二日酔いの程度が、軽くなるだけのものだろう。それを認識するだろうまでの数時間、彼女は寝続けていた。
 彼女とホテルに入る直前に、駅に隣接しているデパート内の、ケーキ売り場に寄った。クリスマスデコレーションの付いた、小さいケーキを買った。部屋に入ってしばらくして、彼女はそのケーキを、カメラ付携帯電話で撮影して、一人で悦に入っていた。どうしてそんなことをするのかと聞いてみた。後で見て楽しむのだそうだ。発泡ワインを入れた、縦長のグラスをケーキの横に並べ、それらのレイアウトに神経を使い、撮影していた。その撮影した画像を、自分で見て楽しむのか、友達に見せて自慢するのか、その行為の真意が分からなかった。
 彼女の彼氏とは、前日に当る金曜日の晩のクリスマスイブに会っていた。次の土曜、ぼくとの密会兼クリスマスディナーが行われた。彼女にとっては、クリスマスに彼氏と会うことが、毎年の定例行事となっていた。ぼくにとっては、彼女とクリスマスに会うことなど、イメージが湧かなかった。ぼくは、女に持てないと自覚している。他の女性とも、今までに一度も、一緒にクリスマスを過ごしたことはない。
 数日前、二五日空くから、一緒にクリスマスを過ごさないかと、携帯電話にメール連絡が入った。今年はたまたま二五日が偶然、土曜日とクリスマスが重なっていて、仕事がなかった。例年、彼氏の方が優先だし、クリスマスを彼女と過ごすなんて、思いも寄らなかった。クリスマスの夜、彼女と一緒にいることは永遠にないと思っていた。彼女と過ごすクリスマスの夜は、最初で最後になるかもしれない。ひょっとして、今後もう二度とないことかもしれないのだ。
 彼女は部屋に入ってから、ベイブリッジの光の点滅は認めたが、反対側のビルに、こちら側のホテルが写る光景は、見ていなかった。部屋に入ってしばらく、反対側にある深夜の最新式高層ビルは、黒い壁としか見えなかった。
 彼女との出会いは、今考えると、神が導いてくれたとしか思えない。仮にここで関係が遮断されたとしても、数年間の思い出は膨大になる。今まで数年も続いたことが、縁の深さを物語っている。映るビルを見ながら、援助交際の相手でしかなかった筈なのに、ここまで発展したのは、何故だろうと思って、感慨に耽っていた。
「別にクリスチャンでないのに、何がクリスマスだ」と心の中で悪態をつきながら、アベック共を、毎年蔑視していた。今年に限っては、立場かわれば品変わる、聖なる夜に、性なる行為がセットになって、やって来た。しかも、彼氏から続いて、連日のクリスマスを過ごすことになるのに、何を考えているのか、彼女の方から誘ってきたのだった。
 窓の外の反対側には、都会でしか見られないビジネスビルが輝いていた。月の光によって反射し、ビルの部屋ごとに分割されて映る。こちら側のホテルの高層階が、月の光を反射し続けて、歪んで映っていた。
 都会の中に、二人だけしかいない錯覚に襲われた。人間関係が薄れていて、無味乾燥で、砂漠の様な大都会と、人は言う。その時、都会の真ん中のホテルの一室に、二人は寄り添っていた。無機的な夜の中にいたとしても、ぼくにとっては、砂漠の中での、オアシスのような場所であった。
 都会の人間関係は希薄であるかもしれないが、他人を詮索してくれない。自由な居場所を提供してくれる。ぼく達は、誰が見ても親子程の年齢差があるカップルだ。それでも、大手を振って闊歩できる、自由な街なのだ。その関係はおかしいと、誰も異論を唱えないし、後ろ指を指されない。快楽と煩悩が渦巻き、アナーキーで無関心が横行している大都会は、匿名が利く場所でもあるのだ。
 クリスマスの夜だった。クリスチャンではないが、その日の夜景は、彼女にとってもぼくにとっても、キリストがくれた最高のクリスマス・プレゼントだった。彼女はレストランで異次元空間を体験し、喜々としていた。ぼくは深夜のビルに映る月の光を見た。
 天体と連なる月の光を見た時、都会だけでなく、宇宙の中で二人っきりのような錯覚を覚えた。数時間後には離れ離れになるが、神の加護で、永遠にそのままでいたいと思った。
「結婚と付き合うことは別でしょ」「相手の家族の世話をしながら、一緒に暮らしているからと言って、結婚するとは限らないわ」「女ってそんなもんでしょ」
 それらの言葉は、他所にいる女友達の場合を想定してディナーの時に喋られていて、彼女自身のことを喋ってはいなかった。彼氏と長く付き合っていて、どう経過していったかと彼女に聞いてみた。
「時間が経って、段々と嫌いになるところもあるし、急に嫌になるとこもある」と言った。直前に聞いた「女ってそんなもんでしょ」その言葉が頭の中で繰り返さる。女ってどんなものなのだろう。彼女は自分で意識するしないに関わらず、彼女の彼氏ばかりでなく、ひょっとしてぼくも見ているだろうか。人間は考えていることが時として行動に現れる。女は怖い。ぼくも、ふとした行いにも気をつけなければ、と思った。
 彼氏との交際は、既に双方の親が認めている。この前、結婚するのかと聞いた。「そんなことは分からない」と言った。他所にいる女友達のことだけでなかった。
 数時間前、彼女の膣の中に指を入れると温かかった。そこを、彼女と彼氏の間に出来た子どもが、通過するのだろうか。何億という精子から、一つだけ彼女の卵子と結びついた結果として、子どもが出来て、膣内を通過して、この世に生まれて来る。その精子と卵子の結びつく確率は何億分の一だ。そんな確率でないと子どもは生まれない。これは人心の決められることでない。神の領域でしかないと考えるのは、ぼくだけだろうか。
 人と人、男女の結びつきの確率はどんなものなのだろう。国際結婚も増加している。何十億という男女が、考えられないような確率で出会い、精子と卵子もまた、それに比した程の確率で、結合する。男女の出会う確率の中に、神は彼女とぼくを入れたのだろうか。
 時々、地獄に落とされたような、疎外感や孤独感を感じる。元々、彼女と出会わなければ良かったと思うこともある。彼女と会ってから知った、悦楽故の寂しさがある。彼女だって愛を受けられない時は、死にたくなるような寂しさを感じると言う。
 男女の感じ方は若干違う。男は昔から与える対象があればいいと言う。女は愛情を感じられれば生きていける。男女は違うが、お互い違うからこそ引き合う。そういう意味で、男女一対で考えれば、人間として一緒のようなものなのかな、と思うことはある。寂しさを感じるという感覚自体が、帰巣本能だと言う人もいる。
 彼女の膣の中に指を入れられる男としては、全世界の人口のうち、どれだけの確率だろう。そして、懐かしさと癒しの対象として、膣の温もりを感じ取る者は、もっと少ない確率だろう。彼女の膣の中に指を入れたのは、何十回以上になるだろう。
 女の膣に指を入れる行為自体は、通算すると、少なくとも一〇〇回は越えているだろう。同じ女一人に、複数回以上、膣内に指を入れた時もあった。殆どが馴染みになった商売女だった。今はソープランドと言うが、昔はトルコ風呂と言った。そんな場所で、サービスとして膣内に指を入れさせることなど、レストランの前菜メニューのようなものだった。
 彼女と付き合う少し前までは、テレクラや伝言で、援助交際目的の素人達と会っていた。多数の膣内に指を入れた。指を一本入れても反応する女もいたし、指二本入れても全く声を立てない女もいた。
 彼女と知り合う数年前から、ソープランドに行く必要はなくなっていた。素人相手であったとしても、女性性器の仕組みを、時間制限なしで、じっくり体感できる位に指を挿入していた。衛生面では管理された売春場所の方がいいのかもしれない。電話で知り合った見ず知らずの素人相手では、美醜の当て外れを、覚悟しなければならなかった。エイズ感染者に対しも、注意が必要だった。それは、快楽を得る為のリスクでもあった。
 幸いなことに、エイズ感染者を相手にすることもなく、皮膚病にも感染しなかった。多少気に入らなくても次々と相手を換えるのではなく、相手の素性が分かるまで我慢して付き合い、性交を繰り返した。だが、性格的に合致しない場合が殆で、長続きしなかった。女の方の携帯の電話番号が変わると、それっきり会えなかった。それで、いいと思った。それ以上深入りしたくはなかった。単に性欲を満たすだけが目的だったし、後腐れのない関係で満足していた。危ない環境であったかもしれないが、過度に不特定な女と交わらないようにしていた。
 今までたくさんの膣に指を入れてきた。その中でも、彼女の膣は、感覚が違って感じる。彼女の膣の中は温かい。他の女性達に膣内の体温を感じなかった訳でない。彼女のそれは、懐かしいような安堵感のある温かみなのだ。
 彼女の膣に、ただ入れればいいものでなく、デリケートさが必要だった。一度、異例なことを試しにやってみた。バックで、尻を突き出した姿勢の彼女の膣に、親指を入れてみた。その時だけ痛がっただけでなかった。「どうやって指を入れたの?」と詰問され、しばらく痛みが引かなかったと、彼女は訴えた。
 ぼくとの行為とは直接関係ないのかもしれないが、彼女が高校卒業の頃、膣内に雑菌が入ったらしく、婦人科に治療に行った経験がある。だから、あくまでも慎重に、動かないように自然な折れ方の中指を、膣の方向に沿って挿入しなければならなかった。しかも、膣と小陰唇の下部が合流する部分に、唾液かローションで充分に潤わさなければ、後の経過に不安を覚えるのだった。
 性器周辺の性感が増したのか、定かではないままだ。彼女が「感じる」と言ったことと、ぼくが「身」を預ける、或いは「信頼」する行動に出たことと、因果関係があるのだろうか、クリスマスの日から、数週間前にこんなことがあった。
 彼女が運転免許を取得して一週間しか経たない時だった。免許取得の祝いも兼ねて、彼女の運転する車に同乗することになった。都市近郊の温泉地までドライブしようかという話が持ち上がった。最初は躊躇し、直ぐに返答はできなかった。初心者は慎重な運転をする場合が殆どだろうと、思い直した。一緒に行くことにした。
 日本海側はもうすぐ波が荒れ、コバルト色の海になるという初冬に近い週末、本州の反対側に位置する太平洋側の地域まで、飛行機と鉄道を乗り継いで、待ち合わせ場所の駅までやってきて、彼女と落ち合った。彼女の車の助手席に乗って、伊豆半島の入り口にある、伊東温泉に一泊後、帰り道でのことだった。
 山岳ドライブコースから、幹線道路への合流地点は、車で渋滞していた。伊東沖地震があった時、当地の宿泊施設は閑散としていた筈だ。何年か前のニュースを思い出した。昨晩、飲み食いした連中は、走る車の中に乗っている。その辺で地震があったことを既に忘れてしまっているのだろうか。そこら辺は絶対に地震は起こらないとでも思っているのだろうか。でも、その連中の一人に、ぼくも含まれている。
 人々はその頃のことを忘れてしまったのだろうか。日本人は熱しやすく覚めやすいという。過去にあった出来事を忘れるのも早い。来客の少ない温泉地は、質の高いサービスが受けられると思う。かえって地震の前触れのない地域の方が、突発的な大地震がないとも限らない。日本中どこでも地震の可能性がある。危険度においてはどこでも一緒だ。そんなことを考えていたら、どこにも行けなくなるけど……。
 だいぶ余震が治まって、時期が経っているにもかかわらず、都会の人々は、新潟地方を避けていた。伊東半島への行楽へ、徒党を組んで大移動していた。予想以上の車が渋滞に巻き込まれていた。
 彼女は、蹴飛ばしてもとがめられないような、ポンコツ車に乗ってきた。車に張り付けられた初心者マークだけが、異様に目立って真新しかった。運転免許を取得して初めての遠乗りだった。夕方前に、彼女の運転する車に同乗し、夜中の運転で、温泉施設のある旅館に向かった。次の日の朝は快晴だったので、海岸線を望む山岳ドライブコースで、帰路に向うことにした。半島からは富士山頂上の雪の冠が、凛として見えた。
 彼女は大学の授業の傍ら、自動車学校に通った。実地講習は平日を中心にして組んであったので、飛び飛びの日程で、しかも長期に渡った。そんな関係で、路上の実地講習を受ける期間は、結果的に長くなった。だから、運転には支障はないと、彼女自身は言う。
 一度、仮免中に、車の持ち主の男友達を乗せて、神奈川から伊東直前まで、ドライブしたと言っていた。長距離運転も大丈夫だと彼女は言っていた。ただ、前の晩、夜中の運転は始めてで、対向車の明かりが眩しくて、見にくいと言っていた。地元にいた頃の、彼女とのドライブ中の会話を思い出した。助手席に乗っていた彼女は、高速道路脇の反射盤の光が眩しいと言っていた。ぼくは、夜中の運転の方が、見る視界が限られていて、注意度も低いし、運転としては楽な方だと、先輩ドライバーとして進言したつもりでいたけど、眩しいのは、目が利くことであるし、単に慣れないだけかもしれない。
 山岳のドライブコースから幹線道路に合流する箇所で、直前を走っていた車、フェアレディZが話題になった。最新型のフェアレディZだった。彼女は、そのフェアレディZのスタイルは、嫌いだと断言した。ぼくにとっては、特別嫌いなデザインでなかった。どちらかと言うと一度は乗り回したいと思う部類のスポーツカーで、好感は持っていた。彼女との好みは違うことは前からのことだし、別にどうでもいいことで、口論するつもりはなかった。
 ただ、ブランド品に対しての評価の厳しさに比べると、車のデザインに対しては、どういう感覚を持っているのだろうかと、考えさせられる。ブランド品を見る目とは全く逆の一面を持っていて、幼児に向ける視線や、ディズニーグッズを見る目は優かった。車も、それらと同じように見るのだろうか。単に興味の種類が違うだけかもしれないけれど……。
 こんなこともあった。街角で、ぼくが見たことがないデザインの車が、停まっていた。どこのメーカーの車か分からなかった。「あのスポーツカーはいいね」と彼女に伝えて、その車に近づいて、ボンネットかリアに表示された、エンブレムを見に行こうとすると「あの車はポルシェだよ」、彼女は事も無げに言う。彼女は車種にも詳しい。女にしては珍しく、車には詳しい方なのに、なぜかフェラーリのデザインには無関心だった。
 フェラーリのデザインは官能的なデザインと言っていいし、ぼくは大好きだった。フェラーリに関しては、何かの雑誌に出ていた、金沢の医者の家の、紹介記事を思い出した。何千万円するフェラーリを所有するにあたって、家の居間に車が乗り入れられるように特注で設計し、フェラーリとほぼ同額の金額を掛けて家を造ったらしい。日常の生活空間にフェラーリが乗り入れられように、ガレージと居間が兼用され、いつでも眺めていられるように家の設計にこだわったらしい。
 運転している間は自分の車を見ることはできない訳だ。高額所得者で、使い道に困る金を持ってさえいれば、そうしたい気持ちも分かるような気がする。
 ファッションと似ている。着ている服は、自分では見られない。姿見の大鏡をいつも持って行く訳にもいかず、光の加減で、ショーウィンドーか、ビルの窓に映る自分の姿くらいしか、見ることはできない。
 ファッションも車も、考えようによっては、同じようなものかもしれない。新しく買った服を部屋に出しておいて、しばらく置いて、眺めてから着るという芸能人がいた。自分が着た時のイメージを持って眺め、違和感がなくなって、初めて着用するという。乗らなくても、車をいつも眺めていたい気持ちも分かる。見ていて飽きないのがフェラーリのデザインの魅力だと思う。
 彼女は既にキャバクラを辞めていた。キャバクラでバイトしていた頃があった。高校の時から付き合っている彼氏には、報告済のバイトだった。キャバクラ嬢だった時、お客には、彼氏がいないと嘘をつくしかなかった。常連になって、指名を多くしてもらうには、嘘をつくことが必要だったらしい。
 彼女は初対面のお客と話すのが苦手だと言っていた。しかも、最初に嘘をついたまま顔なじみになって、好きにもなれない相手に、言い寄られることがあると言う。そんな場合、友達か知人以上の感情しか湧かないのに、なびいた風に、それらしく振る舞うのは、相手を騙しているようで辛いと言う。
 同伴出勤をするまでになった客がいたらしい。真面目な男で、それ以上嘘をつけなかったらしい。相手の男に彼氏がいることを告げた。すると相手の男は「彼氏がいるなんて、聞かなかった方が良かった。そのまま嘘を突き通してくれれば良かったのに……」と、そう言われたそうだ。
 要は嘘はつけないのが彼女の性格なのだ。最初は、自分の都合で出勤の日にちを予め決められるし、短時間で効率のいいアルバイトだと思って、選んだキャバクラ嬢のアルバイトだったらしい。が、勤めてみてどういう職業か分かったらしい。彼女はキャバクラは自分に合ってないと悟ったらしい。
 キャバクラ勤めのアルバイトは辞めたが、夜型の彼女は、深夜労働であるダイニングバーの、ウェイトレスのアルバイトをするようになった。しかし、今でも時々、キャバクラにいた時の客から、電話が掛かってくる。隣にいても携帯電話の会話が聞こえることがあった。
 山岳ドライブウェーから下りる途中、運転している彼女との会話で、
「ぼくは最近のキャバクラには行ったことがない。今度、行ってみようかな」と彼女に言った。次に彼女と会える時間帯は、遅くなるみたいだった。だから、待ち時間を利用してキャバクラに行ってみようと思っていた。彼女の言うように、健全な娯楽施設なのか、見学してみようと思い、問いかけてみたのだった。
 彼女は特に何も答えなかった。
「お客さんと肉体関係を持つ子もいるかな、週刊誌には時々そんな記事が書いてあるよ」
 以前、インターネットの有料アダルトサイトの投稿コーナーを見た。そこには〔お持ち帰りしたキャバクラ嬢の局部写真です〕と、デジカメ撮影の、女性性器が掲載されていた。それに、大衆向け週刊誌には、風俗関連施設に関連した記事が多い。
「お持ち帰りできるキャバクラ嬢もいるって、週刊誌に書いてあったよ」とカマをかけて聞いてみた。
「それはたくさんいるギャバクラ嬢には何パーセントかはそんな子もいるでしょ」と答えた。「でも、そんなこと、続けていられない」と続けた。
 そう返答した彼女だが、キャバクラ嬢だった頃に、親しくなったお客さんと、今でも付き合いがあり、食事をしたりしているらしい。暇な時に携帯電話に連絡が入れば、飲みに行ったりする程度だと言う。初対面のお客さんは苦手なのに、友達みたいになったら、公私の区別なく親密になる、変な女だ。
 そのこととは別に、その時に乗っていたクラウンが問題だ。窪みや傷だらけで、室内は荷物入れ代わりに、漫画本を山積みにしているだけの、廃車寸前の車だった。その車は、以前勤めていたキャバクラで、アルバイトのウェーターをしていた、男友達から借りたものだった。友達、友達と言うし、乗るまでは、女友達所有の車かと思っていた。仮免許期間中の路上運転で、伊東直前まで同乗したのは、その男だった。
「キャバクラみたいな所は数年前に行ったことはあるけど、その頃はキャバレーのことと思っていた。その頃からキャバクラって言っていたかな、店の呼び方は忘れた。外国人のいるキャバレーで、ロシアやブルガリアの女の子がいたっけ」彼女は「へえー」と言っていた。
「この前、会社の慰安旅行があったけど、自由時間があった時、一人でストリップ劇場に入ってみた。支社長なんかはぼくと同世代だけど、ソープランドに行って来たらしい。ぼくはストリップで若い女の子を見ても全然息子が立たなかった。それに、回りは高齢者ばかりだった。ただ、若い女の子の裸を見て、回春しているのだろうと思う。ぼくもそれと同じ心境かな」
「最近は女に対して興味はなくなったし、これが女の閉経後は楽だと言う感じと、同じなのかな」途中気づいて、
「R子は別だよ。女はR子しかいない。それと、R子にしか身体が反応しなくなった。R子で充分満足しているから」と、ちょっと言い訳気味に言葉を付け足した。
「でも、老人ホームでアダルトビデオを見せたりしているそうよ。異性に興味を持つことは、大事じゃない」
「そうだね、ぼくも同感だよ。ストリップ劇場で見た老人達は、まさにそれだね」
 恋人でなく、彼女とは愛人に近いが、父親のような気持ちにもなる。しかも、遠距離援助交際だ。金が無くなったら、旅行だって出来ないし、彼女へのプレゼントもできなくなる。金の切れ目は、縁の切れ目になり、後は他人となり、繋がりは消える。そんな薄皮一つの関係なのに、彼女といることが唯一の楽しみになっている。
「キャバクラに行って、そこの女の子に聞いてみるんだ」「何を?」
「キャバクラ嬢を辞めても、キャバクラのお客さんだった人と、食事したり飲みに行ったりしている子を知っているけど、そんなことってあるのかなって」
 天気がいいし、外気を取り入れる為に、車の運転席側の窓を、少し空けていたから、彼女は聞こえにくかったのかもしれない。彼女はハンドルを片手で握りながら「よく聞こえない」と答えた。
 それ以上、ぼくから聞き直さなかったことから、彼女には聞こえていたのだろう。理解力のある子だから、誰のことを言っているのかすぐに分かって、惚けたのだ。
 彼女と長く付き合っている彼氏は、キャバクラでアルバイトしていていたことは知っていても、ぼくという援助交際相手の男がいることを知らない。彼女の彼氏に秘密を持ち、それを数年も隠し通していて、何も罪悪感を持っていない。そんな彼女をぼくは完全に信用できるだろうか。
 お客に嘘はつけないからと、キャバクラの店を辞めたのに、一番肝心な彼氏に、ぼくのような男がいる実情を話せる訳もなく、嘘を突き通している。女性心理は分からない。彼女には、彼氏も友達も愛人みたいな者も同時にあって、心地良い相手であれば、浮気をしている感覚がないのかもしれない。女一般の心理なのか、特別彼女だけが変わっているか、分からない。ぼくには、変な女としか思えない。
 その時に乗っていたクラウンだって、友達だからと、簡単に貸してくれるのだろうか。いくら廃車寸前の車だって免許取り立ての女の子に車を貸すだろうか。利害関係のない男友達なのだろうか。男女間に友情なんて育つのだろうか。
 前日、温泉地に行く途中、その男友達から彼女のケータイに電話が掛かってきた。男友達は、キャバクラにいた時、アルバイトのウエイターとして勤めていた。本業は教材のセールスマンだった。給与が歩合制なので、収入が不安定だった。そこで副業を深夜に行っていた。その男友達によると、廃車にする予定の車は、壊してもいいと言っている。心配していたのは、ポンコツ車のぶつかる場所のことだった。任意保険は入っているらしいが、パチンコ店とかに突っ込んで、高額の物損賠償金を請求させられないか、心配していた。パチンコ店だと、賠償金は途轍もなく多額らしい。そのことを心配して、電話を掛けてきたらしい。
 その男友達と肉体関係はないのだろうか。ぼくは、その関係を、どうこう言えない。ぼくはただの愛人もどきの存在でしかないのだし、若い者同士の交遊関係まで進言できる立場ではない。それは、重々分かっている。
 しかし、理性と感情は別なのだ。男友達にしても、元キャバクラのお客さんの男にしても、ぼくの心配が募る。性感のない彼女にとって、セックスは神聖なものでないのかもしれない。成り行きで性行為に及ぶかもしれない。そうなったとしても、彼女にとっては、そこに情合の念がなければ、一抹の肌の触れ合い、粘膜と粘膜の接触でしかないのだろう。しかし、友達や知人だとしたら、肉体関係に及んでしまうと、自然に感情移入していくと思うが……。
 知らない相手だからこそ、二度と会うこともない相手だからこそ、十代の頃は不特定の異性とも交われたのかもしれない。大学生になり二十歳になり、分別がきくようなっただろうか。今でも、安易に性行為に及ぶのだろうか。
 最近、夜型になって、更に肌が敏感になり、皮膚が弱くなっているように感じる。元々、局部が濡れない彼女は、ローション無しでは性交ができない。彼女の肉体の特質を熟知した者でしか、肉体関係に入れない筈だが……。
 この前、「肉体関係があっても友達なのかな、セックスフレンドという言葉があるくらいだし」と、誰のこととは想定しないで、彼女にそれとなく聞いてみた。
「そんな関係があったら、友達でないじゃん」
 −それじゃ、ぼくらの関係はどう言うんだ−と、聞き返したい気持ちだった。友達でもなく 愛人契約を結んでいる訳でなく、援助交際の延長にあるだけだ。
 彼女が都心に帰る途中、ぼくは小田原駅から新幹線に乗ることにした。彼女にとって、小田原駅周辺は初めてだそうで、一緒に駅前を散策した。駅前商店街を歩いた。昼食を取ろうと思った。なかなか店が決まらなかった。直観で決めて蕎麦屋に入った。少し寂れているが、美味い蕎麦が出そうな雰囲気の店だった。昼食としてはやや遅い時間帯だった。店内には人が多かった。
 蕎麦屋の店内で、彼女にいつもと同じ額を渡した。彼女に聞くと、借りた車のガソリンは、満タンにして返すと言っていた。彼女にガソリン代は幾ら位かと聞いた。いつも渡す金額に、ガソリン代を付け加えることにした。その時、彼女にぼくは言った。
「ガソリン代以外のもので返せと言われてもこまるし」と言って紙幣を渡した。すると、「ただの友達だと言っているじゃない」蕎麦屋の店内の奥まで聞こえるような大声を発した。自分でも意識しないで大声が出た様に見えた。
 ぼくの言っている意味をすぐに理解する子だった。蕎麦屋に大勢お客がいる中で発した大声は、それが演技に見えなかった。ぼくには判別できないが、安心させるための演技だったのだろうか。ぼくは大きな声に圧倒され、恐縮してしまって、それ以後はその話題に触れるのはやめた。
 そして、小田原駅前のパーキングで彼女と別れた。そこまで、免許取得一週間目の彼女の運転する車に、ぼくの「身」を預けていた訳だ。
 女は、相手の男を最低限信じなければ、性行為に及ばないないだろう。男に「身」を委ねる性行為自体が、体力的に劣り、無防備な姿勢をとらざるを得ない女には「命」を預けることに近いかもしれない。女にとっては、ある程度の思い切りも必要だろう。
 ぼくは免許取り立ての彼女の運転する車に「身」を置いていた。「身」を委ねることとはどういうことか、少しだけ心情的に理解できたような気がする。事故を起こしたとても、責任を取るつもりでいた。彼女に「命」を絶たれたとしても、その時はその時だと思っていた。最悪、彼女となら一緒に死んでもいいと覚悟していた。
 いや、そうでない筈だ。彼女だけが生き甲斐だ。生きていたいと、思った。
 その時も、その後も……。