ぼくは、歩いています。
 今、ぼくは歩きながら、喋っています。
 歩いている状況はこうです。
 歩いているので靴音がしています。履物は革靴ではなくてウォーキングシューズです。音はカツカツではなくスタスタという感じです。人によってはパタパタと聞こえるかもしれません。
 ぼくの声はスピーカーのようなところから出ていると思ってください。その状況を思い描いてください。スピーカーからぼくの声が流れているという今の状況が可能かどうかは後で説明します。とりあえず聴いていてください。
 こうやってぼくが喋っている声は、スピーカーから聴くことになるのですが、ラジオ放送ではありません。ぼくが喋っているようなものが放送されることはないと思われます。
 放送を聴いているような場面を想定するだけなら簡単でしょう。どんな機器でもいいので、スピーカーが繋がれていると思って下さい。ここでは、若者だけをリスナーの対象とするつもりはありませんので、スピーカーに繋がれているのはアイホーンのような最新機器ではありません。誰でも想像できるようなものにしたいのです。
 最も簡単な状況にするとすれば、作者がどこかの会場で聴衆者を前に直接朗読しているという設定でも構わないのです。ただ、今後の進行を考えると、どこにでもあるような家電品から、音声が流れていることにします。
 昔は各家庭にカセットテープが普及していましたが、そんな時代は終わりました。それでも、ラジカセは未だ家にあるという方もいるでしょう。
 今回はラジカセでなく、音質的に優れているコンポーネントのステレオアンプにカセットテーププレーヤーを接続していることにしました。そして、ステレオアンプに繋いだスピーカーから、ぼくの声が出ていることにします。そんな風な様子を思い描いてください。
 作者であるぼくは自分で書いた作品を読み上げました。それをテープに録音しました。そのテープをカセットプレーヤーで再生しています。そのような場面を想像してみてください。
 ここで文章の朗読をしているような形にしたのは書き手である作者の都合です。ラジオドラマだと一人一人の配役ごとに声優が要ります。それに、実際の場面に適した効果音が多く要ります。一人だけの喋りで表現する方が都合がいいからです。
 ここまでは、ぼくが一人で喋っています。これからも一人で喋り続けるだろうと思います。効果音の換わりにぼく一人の喋りで表現することにします。そのうち、他の登場人物が出て来るかもしれません。今のところぼく一人の喋りでまかなうつもりでいます。その方が楽だからです。
 コンポーネント・ステレオの両方のスピーカーからぼくの声が出ています。例えて言えば、ラジオ番組の中で、アナウンサーがエッセイや小説を、一人で朗読している様子を思い描いてください。元々は原稿があって、その文面通りに朗読をしているのです。
 書き手は別にいるという訳ではないのです。ぼくが書き手自身である作者に代わって喋っているのです。ぼくはパソコンのディスプレーに向かい、ワープロソフト内に、文章を表示し終えた結果として、この朗読の部分があるのです。
 ここまでは作者自身が書いた文字を朗読していることになっています。そして、ここでは同時に歩いていることになっています。実際は歩いていないかもしれません。ただ、ここでは喋りながら歩いているということになっています。
 ノートか原稿用紙に書いてあるとすると、紙面上での表記になります。ディスプレーの画面上のワープロソフト内に文章を書いているとしても、文字で書かれていることには変わりません。画面上にしても紙面上にしても、文字で表現するしかないのです。手書きにするか、キーボードで打鍵するかの違いだけです。
 手書きで書いているのかもしれません。あるいはその中間で、最初は手で書いて、後で清書する時にワープロソフトを使っているのかもしれません。実際に書いているところは詳しく述べません。そんなことはリスナーの方々には関係のないことだからです。
 書き手からすると文字でしか表現できないという制限があります。ぼくは書き手の代わりに喋っています。ぼくは書き手の細かいニュアンスを努めて伝えようと喋っています。それでも、どうあがいても作者の元々の文字に頼るしかないのです。
 NHKのFM放送で、平日の夜に十五分程度の、連続ラジオドラマを聴くことがあります。休日には「FMシアター」という一時間物のラジオドラマを聴くこともあります。
 同じくNHKAMで朗読物のラジオ番組「ラジオ文芸館」というのがあります。土曜日の朝の三十分番組です。ぼくの記憶ではNHKAMで一時間物のラジオドラマの番組を聴いたことはありません。AM放送では時間的な理由で三十分番組に収めるような作品を選定をするのだろうと思われます。
 NHKの「ラジオ文芸館」は小説の原文を一人のアナウンサーが朗読します。主に主人公が男の場合は男性のアナウンサーが一人で喋っています。時に会話相手の女性役の語りを喋ったりもします。作品に登場する人物の語りをアナウンサー一人が担っています。
 最近はAMにしてもFMの放送にしてもラジオドラマをNHK以外で聞いたことがありません。地方局ではラジオドラマのリスナーは少数派なのかもしれません。都会の方ではラジオドラマのリスナー人口が絶対数はいるのでしょう。民放の局数も多いのでAMにしてもFMにしてもラジオドラマの放送があることでしょう。
 地方局では系列元からラジオドラマの番組を選ばない理由として、スポンサーがつきにくいという事情があるのかもしれません。無難な歌番組やトーク番組を放送している方がいいのでしょう。
 話を戻しましょう。ぼくは歩いています。今までずっと歩いていることになっています。歩きながら同時に喋っています。
 歩く音がしていることになっています。先程はウォーキングシューズで歩いている場合の音を表現してみました。ここまでは効果音を入れてないので、リスナーの方の想像力に任せています。
 リスナーの方がウォーキングシューズを持たないなら、運動靴のような、ソール部分がやや厚めの履物を履いた時のことを思い出してください。それで歩いた時に、どんな音がしたかを、頭の中で再現していてほしいのです。
 ラジオドラマの効果音を喋りだけで表してみようと、書き手である作者が歩いている時に思いついたのです。さらに、ウォーキング中に、過去を振り返るようにして書くのはどうだろうかと、思いついたのです。
 そこからが問題だったのです。最初は歩いているところから、ラジオドラマのようにしようと思いました。しかし、作者は自分の発想力の乏しさを痛感しました。登場人物が確定していないのです。それと、ラジオドラマのようにすると配役やら効果音を考えなくてはなりません。いろんなことを考えて書かなくてはいけないし、脚本風に仕上げるのが億劫になりました。
 そこで、一人で朗読するように簡略化したのです。ぼくが一人で喋っていることにしたのです。NHKAMの朗読物のラジオ番組のように、効果音が入るとしても、雑踏の中のような場所とか、電車や車が走っているような音だけで済みます。後は途中に少し音楽が流れる位のものです。作者は自分の中で簡単な方に妥協したのです。
 それでも、作者であるぼくは、あまりにも安易になり過ぎてはいけないと思いました。単なる独白ではなくて、書き手であるぼくが歩きながら喋っていることにしてみたのです。そこまでは良かったのですが、そこから先を描くのに苦労しているのです。
 書き手側の状況をしばし述べることにしました。言わば時間稼ぎであります。何か面白いものが語れるまでの執行猶予の時間です。空白を埋めるような喋りと思ってもらっていいのです。
 無音の状態から少し進展するようにしてみます。簡単な効果音を追加します。ぼくは歩きながら喋っています。ぼくの喋っている声はスピーカーから出ています。この瞬間から、歩く音だけはステレオで両方のスピーカーから出るようになりました。効果音だけはバックグランドでスタスタとあるいはパタパタと単調な繰り返しで流れるようになりました。
 実際に歩いているところを録音したことにするのです。その歩く音を再生していることにすればいいのです。ラジカセで歩く音をオートリバースで再生するのです。
 別の方法もあります。インターネットの無料配信からダウンロードするのです。シンセサイザーの合成音源データで、足音のようなものを取り込めば良いのです。それをパソコンのソフトで再生するのです。足音を繰り返しの自動再生にしておくのです。足音と自分の声を同時に録音すればいいのです。ちなみにぼくの音声はモノラルです。
 作者自身が頭の中で思い描いているのは自室の狭い空間です。さっきまでは作者は机に向かっていました。椅子に腰掛けて、長いこと机の上のディスクトップパソコンに向かっていました。腰に張りを感じました。腰痛が悪化しないように休憩をするために机から離れました。
 作者のイメージとしてはこうです。ぼくの目の前に作者がベットに仰向けに寝ています。自分が書いた自分の語りを作者自身が聴いているという状況です。
 スピーカーからぼくの声が流れています。作者であるぼくは先程まで机に向かっていました。その一方で、目を閉じている書き手である作者自身が、ベットに仰向けになって聴いています。
 とにかく、ぼくは歩いていることになっているのです。とある日の夜にぼくは歩いています。ここまでの構想は歩いている時に、頭の中で思いつきました。その構想を元にここまで書いてきました。思いついたことを作者が喋り続けています。
 構想したまま温存している時期がありました。温存と言えば格好が良い言い方です。書き続けることができなかったから、放置していただけのことです。だいぶ、日にちが経過しました。また、書くことにしました。
 書き始めたのが幾日前のように書いていますが、実際は幾週間も経っています。歩きながらの喋りを再開しました。その日も歩いていました。健康維持と、腰痛の予防のための軽い運動として、歩いていたのです。
 「そうだ、ラジオドラマを自分で創ろう」と、歩いている時に思いついたのです。
 いつも軽い運動として継続的にウォーキングをしています。今も喋りながらウォーキングをしていることにします。
 先ず、こう切り出すのです。
「ぼくは、歩いています。今、ぼくは歩きながら、喋っています」
 歩きながらいろんなことを考えています。健康のための運動と「思考」が同時にできるので非常に有意義です。「哲学の道」が各地にあります。「哲学」ができるのは歩行中なのです。歩行は知的なものと関連があるかもしれません。
 人間は二足歩行によって大きく重たくなっていく脳を支えられるようになったという説が有力です。類人猿から人間へと進化する過程で人間は二足歩行をすることで他の四つ足動物から格段に脳が進化していったらしいのです。
 二足歩行とともに人間は厄介なもの持ち合わせるようになったのです。太古から穀物等の耕作技術が発展しました。重い脳や上半身を支えながら、前屈みで農耕を始めた頃から、脊髄に大きな負担を掛けるようになったのです。
 農耕が機械化さても人間には悪い環境が続いています。現代人は机に向かい椅子に座るようになりました。机に向かったりパソコンを操作することで、同時に腰痛も肩こりも発生したのです。腰痛は知的な進化の過程ではないかと常々思うのです。
 人間の祖先は、環境の変化があったとしても、大地を歩き回って狩りをしていた頃から、身体の機能は格段に変化していないのでしょう。原始から極端に身体が進化していないとすると、体力的に衰えるだけの現代人は、長時間のディスクワークに耐えるような身体へと、進化していないのでしょう。
 視線の動きでワープロソフトなどへ直接文字にしたりする機械が開発されています。頭の中で考えていることが文字として変換され出力されたりするのは未だ実験段階です。
 日常レベルで使用できるのは遠い未来ではないかと思われます。近い将来、実現できたとしてもコストが掛かり過ぎるだろうと思われます。
 今では安価なパソコンソフトでもマイクを介して喋るだけで文字入力ができるようになりました。文字への変換精度も高くなりました。スマートフォンやカーナビなどの機器では音声での検索や操作が当たり前の時代になっています。マイクに向かって喋ればパソコンのワープロソフト内に文章を綴ることができます。それ位のことならだいぶ以前から普及されていることです。
 近い将来にはマウスもキーボードも要らなくなると予想されます。先程述べた音声認識機能の付いたタッチパネルのパソコンが主流となりつつあります。日常生活に活用するだけの人達ならそれでいいでしょう。
 パソコンを使って執筆している人にとっては、そんな最先端技術は、必要としていないだろうと思われます。文章の訂正、推敲段階から校正に至るまでは、未だアナログな作業が必要でしょう。文面を読み、コンピュータマウスを使ったり、キーボードを打って直す方が、自分なりに納得できるものが出来ると思います。
 時間的に早く済ませたいなら、ワープロソフトの自動修正機能を使えばいいではないか、と言う人がいるかもしれません。そんなものを使ったら、自分だけのオリジナルな作品が生まれないと思うのです。皆様はどう思われるでしょう。
 腰痛持ちのぼくには机に向かわなくても文章が書ける時代が早く来ないかと思います。自分の思い通りの文章が簡単に残せる機械が登場しないか待ち望んでいます。
 そんな見通しのつかない将来のことよりも今の現実が問題なのです。長く机に向かおうとすると腰痛は避けることができないものです。以前、思い切って寝ころがったままの姿勢でノートパソコンに向かってみました。案の定、書くことに集中ができませんでした。
 腰痛予防に腰痛体操があるらしいことは知っています。そんな体操に加えて軽い運動も必要らしいのです。その点、負担が掛からない、歩く運動が一番効果的らしいのです。ぼくにとってウォーキングは、思索と腰痛予防を兼ねた日課になっているのです。
 今、書かれているようなものを思いついたのは歩いている時です。こうやって、書かれているようなものにしてみたら、どうなるかなと思いつきました。それも、実際に歩いている時に思いついたのです。歩いているうちにこういう書き方の構想が出てきました。
 最初は、ラジオドラマのようにしてみたかったのです。いつもぼくがリラックスしてラジオドラマを聴いている状況を、逆に表現する方の立場になったら、どうなるかということを考えてみたのです。
 ぼくが頭の中で思い描いているのは、自室のコンポーネント・ステレオのアンプと、チューナとスピーカーの配置です。そんな中で、スピーカーから出る音を聴きながら想像している自分自身の姿があります。
 普段、聴いている姿勢は、ベットに仰向けになった状態で、目を閉じています。日中、ハードに身体を酷使したとしても、どんなにだるくても、ラジオドラマを聴いている間は眠くないのです。
 ウォーキングをしている間に気がついたことがあります。パソコンに向かってキーボードを打っている作者と、ベットで横になっている作者が、同一人物であるとしたら、同時進行で喋っていることは、矛盾しているのではないかという点です。
 そこで、ラジオ放送に似せてスピーカーから音が出ていますが、録音したテープからぼくの声が流れていることにしたのです。ぼくが創った文章を、自分の声で朗読し、それを聴いているのです。
 頭の中で、作者と聴き手であるリスナーが、イメージ的に混同しそうです。紛らわしくならないように、どうやって表すかということに苦労しています。ドラマの脚本のように明確に役割分担してみるのも一方法だと思いました。しかし、具体的には書き進められません。
 元の状態に戻ります。ぼくは一人で歩いています。効果音が聴こえるとしたら、ウォーキングシューズで歩いているような音が繰り返し聴こえることにしてください。ぼくは歩きながら、自分自身のことを考えてみました。ぼく自身の様子を実況中継しているように喋っています。これから、どうなるのかなあと、考えながら歩いています。
 田舎の道をぼくは歩いています。最近バイパスとして出来た、広めの道路を夜中に一人で歩いています。ぼくは自宅を出て、一級河川沿いの堤防近くまで往復しようと、人があまり通らないバイパス道路を一人で歩いています。広い道路なので、歩いているぼくの横を、車が高速で通り過ぎて行きます。
 ぼくはウォーキングを日課としています。日中は会社勤めをしています。時々、立ち仕事もあります。客相手の営業職でないので、精神的な負担はありません。殆どがディスクワークが中心ですが、時たま立ち仕事で重い物を持ったりします。時々重い物を持つことが腰に悪いみたいなのです。
 既に腰痛は持病みたいになっています。ただ、適度な運動も必要だと、外科や接骨院の先生からは言われます。そこで、ウォーキングをするようになったのです。
 ぼくは考え事をしながら歩いていました。その時、頭に浮かんだのはセックスのことでした。なぜかその日はセックスのことを考えながら歩いていました。その日は週が始まったばかりの月曜日でした。夕食後に暗い道路を歩いていました。
 ぼくはセックスの場面を思い出しいていました。前々日の土曜日に行ったセックスは、特に気持ちの良いものでなかったな、と思いながら歩いていました。
 土曜日はいつも健康のために行っている親睦テニスに参加しませんでした。その日はウォーキングもしませんでした。替わりにセックスをしました。カロリーを消費するのでセックスも運動のうちに入るかもしれません。陳腐で下品な駄洒落を言ってみます。テニスをしないでペニスを使っていたのです。
 ぼくは歩きながらセックスの場面を考えていました。ぼくの相手をした彼女はどっちかというとねちっこい方ではないかと思うことがあります。アッサリ系はぼくの方です。まるで、ぼくの精力が吸い取られるような吸引力なのです。年齢差はあります。ぼくは歳を食い、若い頃のような回復力がありません。セックスを行った翌日は栄養剤くらいではしゃんとしません。通常の状態に戻そうと翌日はカフェイン錠剤を飲みます。それでも、過度な倦怠感が抜けません。
 彼女と会えばセックスをします。セックスをする機会は年間でも少ない方です。彼女と会うのは年に二、三回程度のこともあります。長時間の交尾に耐えるために栄養分を体内に蓄えるのが蛇です。ぼくにとって、彼女とのセックスは蛇が絡むようにねちっこいように思えるのです。ぼくは蛇のような精力を持つはずがなく、体力の回復力は乏しいみたいです。
 「セックスは軽いものではないみたいだよ。実際は百メートルを全力で走った位のカロリーを消費するらしいんだ」と未だ彼女が十代の頃にぼくが大衆向け週刊誌か何かで覚えた豆知識の片鱗を語ってみたことがあります。
 その当時、彼女が「百メートル走る方が楽だよ」と言ったことを覚えています。当時の彼女にとって、セックスは体力を消費するだけで、見合うだけの快楽はなく、苦痛なだけのものだったのでしょう。
 歳をとってのセックスは疲労度が格段に高いのです。若い頃なら百メートルの全力疾走位はなんともないだろうと思われます。高齢になってのセックスは全力疾走と一緒で身体に負担が掛かるのです。
 どうもぼくは喋りすぎと言うか、作者は興にのって書きすぎてしょうがないのです。どうでもいいことに話がずれていくようです。作者の頭の中にあることを整理させます。
 先ずは土曜日に会った時の状況を述べてみます。その時はこうでした。彼女は実家のある地方都市に帰省していました。
 彼女と会う時は駅近くのビジネスホテルに予約を入れます。駅周辺の方が何かと都合が良いからです。最近になって、ラブホテルでセックスを済ました後、食事をすることはありません。
 だいたいは飲食後に性行為を行います。ラブホテルの周辺は裏通りが殆どです。飲食店が少ないし、飲食時に酒を飲むので車を運転できません。
 深夜になってもアルコールを提供している飲食店は駅の周辺に多いからです。酒に酔った飲食後は盛り上がってセックスに至ることがパターン化してしまいました。そんな理由から、駅近くのビジネスホテルに部屋を予約しました。
 彼女はアルコールが入ると急激に体温が低下します。ぼくは逆に体温が上がります。それでも、いつも彼女と一緒に風呂に入ります。彼女はコミュニケーションを取りたいのか自分から風呂に入ろうと誘ってきます。彼女と最初に出会った時でさえ、一緒に風呂に入っても構わないと言いました。最初はぼくの方が照れて断った位です。
 バスルームから彼女の背後を見ると方向が悪いのか腰にくびれがないように見えました。彼女は特に若いということもなくなりました。そのせいで腰のくびれがなくなっているのかとも思いました。
 それでも、考えてみました。太ったり痩せたりしていた彼女を見てきました。その都度彼女の腰の辺りを見ていました。正面から見る限りは腰のくびれに大きな変化はありませんでした。外見から見る限り、以前からのスタイルは保たれているようです。都会では主な交通機関は電車です。駅を往復するだけでも凄く歩きます。彼女の脚は年ごとに締まっていくように感じられます。
 しかし、彼女は従来の日本人女性に多い寸胴型のタイプだと思われます。特に背後から見る彼女の体型は魅力的ではないと常々思っています。
 しかし、セックスの時は別です。バックで絡む体位ではちょうどぼくの手の位置に腰のくびれはあります。性行為の最中にちょうど手を添える箇所が腰のくびれのボトムに当たるのです。その時の腰のくびれはまさしく女のくびれです。背中の面積は小さく、同時にくびれが強調されて見えるのです。その時の彼女の尻は極端に大きく圧倒されるのです。
 美術展覧会で若い女性の石像や彫刻の裸婦を見ることがあります。背後に回って背中から腰のラインを観察してみました。背後から見ると腰のくびれはないに等しいものでした。
 ある時、ホテルのロビーに複製品のミロのビーナスがありました。正面から見ると腰が据わり豊満な肉体に見えました。次に後ろ側に回って腰のラインを見てみました。
 前の方から見たような肉体美は感じられませんでした。後ろに回って見た時、背中から腰の辺りのラインは平行なままでした。いわゆる寸胴に近かったのです。見る位置では腰のくびれが乏しかったのです。あまりセクシーさを感じませんでした。
 勿論、こうやって書いている作者だけの感じ方です。作者が興ざめしたと感じた、くびれのない背後からのラインを、他の男が見たとします。くびれのない背後だったとしてもセクシーに感じる男がいるかもしれません。
 彼女と駅前周辺にある飲食店で大食いし深酒をしました。その後でいつものような勢いでホテルの部屋に入りました。そして彼女がいつものようにバスタブに湯を張っていました。ぼくはテレビを見ていました。彼女が呼ぶのでバスルームに向いました。
 大きめのバスタブなら向かい合って湯に浸かることもできます。ビジネスホテルクラスの小さいバスタブだと向い合ってバスタブに入ることは難しいのです。
 バスタブの中で彼女と同じ方向を向いて彼女がぼくの上に重なって同じ前の方向を向くのです。その時はどうしても両手が彼女の両方の乳房を掴むことになるのです。彼女の乳房は相変わらず重く大きかったのです。
 彼女が二十代になったばかりの学生の頃、夜のバイトをしていて生活も不規則でした。ダイエットをしていなかったと思われます。生理不順はいつものことでした。その頃、彼女の乳房が手の平に収まり、小さくなったなと感じました。乳房が小さいと感じたのはその頃だけでした。
 今、歩きながら喋っていることになっています。途中で話がまたずれていきそうです。リスナーの方が混乱しないように努めます。
 歩きながら喋っているのは前々日の深夜の話です。
 その日の続きを喋ります。ベットインした後、彼女はぼくに腕を回してきました。彼女は酒に酔っていて自制心をなくしていた訳でもないのです。
 毎日飲酒を欠かさない彼女にとって自制心をなくす程の飲酒量ではなかった筈です。彼女はぼくの後頭部に手を回してきました。それでも、ぼくにとって前々日のセックスは新鮮味がなく、快楽度も低かったのです。
 彼女と前々日に会いました。その前は二カ月前に都会で会いました。二カ月前と違いはありました。前々日は彼女の性器の周囲に陰毛がまだらに生えていました。二カ月前との違いをぼくは簡単に見つけられました。
 二カ月前のことです。彼女は、今流行りのレーザー永久脱毛処理で、美容クリニックに通い始めていました。今では、腋毛の永久脱毛は、レーザー光線の照射で簡単かつ安価にできるようになったらしいのです。それが、腋毛だけの処理ではないらしいのです。彼女はついでに陰毛の永久脱毛処理をしてもらっていたのです。
 後で知ったので、ここの部分の文章は後付けで追記します。脱毛処理は短期間で終わらないらしいのです。脱毛処理が終えるまで短くて一年掛かります。一年コースの場合は総額の支払いが安い代わりに、スケジュールにそって通わなくてはなりません。彼女の場合は勤務の関係で、自分の都合に合わせて行けるコースにしたので、脱毛処理が終わるまで、二年掛かるそうです。これは、後で彼女に会った時に聞きました。ネットでも確認しました。
 二カ月前の状況を、作者であるぼくは書き残し、かつ喋ってみたいと思ったのです。ここからは、クライマックスなので、少し変化を加えてみたいと思います。部屋の内部を変えてみます。
 目の前では依然として作者がベットに横になって自分自身の語りを聴いています。スピーカーから発せられる自分自身の音声を、ベットで仰向けに横たわって聴いている姿勢に変わりはありません。
 元々は文字であるけれど、ぼくが言葉として発すれば部屋の状況が変わるのです。コンポ・ステレオが配置されている作者の部屋の広さは十畳程でした。その部屋が広がり、三倍程度の大きさの、ホテルの一室になりました。
 ぼくの声が出ている、こちら側の方から見ても、その部屋のベットの位置は変わりません。ただ、ホテルの一室にあるベットに変わりました。二つのベットの右側の方のベットに作者は横たわっています。
 ベットから見る位置にはコンポ・ステレオの換わりにディスプレーが置かれています。そのディスプレーはインターネットにも接続できる多用途の機能がついた液晶タイプのディスプレーです。テレビ放送は無料ですが、有料で映画鑑賞もできるようになっています。
 スピーカーは別に置いてありません。音声はディスプレー内のスピーカーから出ていることにしてください。薄型のディスプレーに収まる省スペースの内蔵スピーカーです。それでも、最新型なので音質は劣ることはありません。ぼくの生声に近い音質レベルは確保しています。ぼくの声はインターネット経由で自宅から転送されていることにでもしておきます。
 部屋が二カ月前のシティホテルにタイム・スリップしたような感じになりました。ただ、作者であるぼくは相変わらずベットに仰向けに横たわったままです。
 二カ月前のことです。その時は彼女と会うのは直前に決まりました。ホテルの空きをネットで検索しました。空きあるホテルは都心に近く便利でした。直前の予約だったのに、部屋の空きがありました。それで、そのホテルに予約を入れました。
 いつもはダブルベットが備えてある部屋を用意することが多いのですが、その日は値段の割に広めの部屋だったので、ツインベットの部屋に予約を入れました。当日、そのホテルに入って分かったことですが、値段が安めだったのは、ホテルがやや古かったからでした。
 目の前にいる作者はさっきまで彼女と一緒に風呂に入っていました。部屋の大きさと比例して、バスルームも広く、バスタブも大きかったです。バスルームで彼女の股間を見ました。全くの無毛だったのです。
 いつもと違う彼女の無毛の陰部を目にして、いつも通りのように話し掛けられませんでした。彼女の陰部を見てどぎまぎしたからかもしれません。少し緊張もしていました。
 その時は彼女と約半年振りに会いました。それまでは、携帯電話で会話をしていませんでした。メールのやり取りも直前までありませんでした。久しぶりだったので単に間が持てなかっただけかもしれません。
 「あれ、毛がない」とぼくは言いました。彼女は訳を話してくれました。永久脱毛で美容クリニックに通い始めたらしいのです。
 水着を着る夏だけでなく、普段でも下着からはみ出る毛は処理するそうです。その手間がなくなるらしいのです。腋毛の永久脱毛と同時にすると、割安になので、陰毛の方も頼んだらしいのです。
 彼女曰く、「みんなやっている」らしいのです。今どきの流行なのでしょう。さすがにバスルームで無遠慮に脱毛した無毛状態の陰部に触れるのは躊躇われました。
 それでも、駄目もとのつもりで彼女に向い「見せて」と言ってみました。「後で見られるじゃない」と答えました。「横になっているのを見るのはいつもと一緒じゃない。普通に立っているままのを見たいんだ」とぼくは言いました。すると彼女は黙り込んで返事をしませんでした。気がのらないのかと思って、それ以上は言いませんでした。
 毛深い女は情が厚いと言いますが本当でしょうか。煌々と照らす部屋の照明の下で陰部を押し広げられていても彼女は厭う様子は全然ありません。毛が多くても全くなくても、押し広がれた陰部の内側にあまり変わりはない筈だと思われます。
 レーザー照射をする時に陰毛が邪魔になるので、事前の準備段階で、全部の陰毛を剃らなくてはならないのだと思います。美容クリニックのアシスタントが同性の女性とはいえ、陰毛を剃ってくれたりはしないだろうと思われます。自分で陰毛を完全に取り除いた状態で美容クリニックに行くのでしょう。たぶん、自分できれいに剃刀で剃るのでしよう。
 レーザー照射をする箇所は水着から毛がはみ出さない程度の脱毛処理をするのだと思います。性器の周辺の毛の殆どは残すのでしよう。後日、ネット広告を見てみました。正式名称はないみたいです。「Vライン脱毛」とか「ビキニライン脱毛」と出ていました。
 彼女は外国のヌード雑誌の表紙を飾っている若い女性モデルがやっているような陰毛のカットをしない筈でしょう。モデルは少しの毛を割れ目に沿って残しているのです。最初にその表紙を見た時は割れ目がそのまま露出しているように見えました。
 まるでパイパン女性のヌードかと思いました。そんな極端に毛を無くするまでの脱毛をしないと思います。もし、可能性があるとしたら、彼女は毛深い方なので薄毛に近いようにするだけかもしれません。極端に走り、無毛にしたりはしないでしょう。
 銭湯や温泉地のような公共の場で裸になることもあるでしょう。そんな時は意識してタオルで前を隠さなくてはいけないでしょう。無毛にしてしまった場合に大人の女性としてどう見られるかという自覚はあるでしょう。
 無毛状態の女性性器など、ネットの裏画像とかで、嫌と言うほど見てきました。飽きてきたので最近は全然見ていません。ただ、実物のパイパンの女は過去に実際に見た記憶があるようなないような感じです。
 今、喋っていて思い出しました。ストリップ劇場でパイパンのストリップ嬢がいました。ソープ嬢でもいました。パイパン女性の性器を見たことはあります。その時は珍しいものが見られたなという感じでした。生まれつき陰毛のない女性もいるでしょう。処理をしてわざと無毛状態にしている女性もいるでしょう。だからと言って特に興奮はしなかったのです。
 それでも、彼女の無毛の陰部は今しか見られないと思いました。色白な肌をしていますが、陰毛は毛深い方です。無毛状態は滅多に見られないと思ったのです。
 残念だけど彼女が嫌がるのなら、まあいいやと思いながら、目の前にいる作者であるぼくは、ベットに横になっていました。その時は仰向けの姿勢でなく、肘で頭を支えながら、前方のテレビ放送を見ていました。
 すると黙って彼女はぼくの側に近づいてきました。ぼくが横になっているベット脇にやって来て、そのまま立ち止まりました。
 部屋の照明の下でハッキリと陰部が見えました。裏DVDやインターネットで見たのと一緒でした。毛を剃った辺りが黒ずんで見えたのです。色白な方なのにどうして割れ目のあたりが黒ずんで見えるのか不思議でした。
 単語では恥ずかしい丘と表記するから「恥丘」と呼ぶのでしょう。幼女のようなふっくらとした恥丘ではなくて、縦筋の割れ目の周りは黒ずんで見えました。大人でもふっくらと丸みをおびたように見える筈なのに、どうしてか黒ずんいたので、逆に窪んで見えました。
 ぼくはベットの端に腰掛けるように座り直しました。立ったままの彼女の毛の無い割れ目あたりを少し押し広げたりしてしばらく触っていました。
 「珍しいもの見せてもらったよ。ありがとう」と言って満足したことを言葉に出して伝えました。彼女もぼくに与えられた気持ちになったことでしょう。
 彼女とは良い意味で信頼関係ができていることなのでしょう。悪く言えばもう恥じらいもない仲になってしまったと言うことなのでしょう。
 彼女と出会ってから二年目くらいの時でした。気心が知れて互いに慣れてきた頃でした。明るい部屋でぼくに着衣を一枚一枚脱がされるという場面を想定してください。そんな事が成り行きであったということにしてください。
 彼女はその時、「知らない人なら裸を見られても何ともないけど、知っている人に裸を見られるは恥ずかしい」と言いました。そんなものなのかないう思いがあったので、そのことを覚えています。
 その頃からぼくが「知っている人」になったのです。それが時が経つにつれ、彼女は恥ずかしいという意識をなくしたのです。
 恥ずかしさを意識することが肝心だと思います。恥ずかしいという感覚を持つということは他者から見られるということを自覚することでもあります。
 中世の欧州で貴族の何人かが室内で腰掛けている風刺画を見たことがあります。部屋の中央には貴族達に囲まれて若い女が素っ裸で屈んでいました。その若い女は下女か娼婦かもしれません。その若い女は脚を揃えて陰部を隠すように屈んでいました。その若い女を貴族達は眺めていました。
 その若い女にサクランボか何かを取ろうとさせていました。その時に脚を動かします。若い女は陰部を隠すために脚を揃えて動かざるを得ません。同時に恥じらんでいます。そのしぐさを見て周りの貴族は楽しんでいるのです。
 その風刺画を見てなるほどと思いました。隠したり恥ずかしがる姿に、興奮するのが男と言うものだろうと思うのです。
 アフリカの開発途上のある国では女性達は少し前まで上半身裸で過ごしていました。最近になって若い女の子がブラジャーをするようになりました。それからは、女の子達は胸を露わにすることが恥ずかしいことだと思うようになったとのことです。隠すことが恥ずかしいという意識を持たせることになったのでしょう。
 彼女が異常に恥じらったことを二つ覚えています。一つはこうです。彼女が高校生の時です。彼女は出会った頃から高価な下着を身に着けていました。援助交際で得た金を自分の身につけるために使っていたのかもしれません。
 定期的に会うようになってからのことです。彼女は何らかの事情でその日は高級下着を身につけて来ませんでした。その日に自分がたまたま身につけていたのは普通の白の木綿の下着でした。見られている下着姿を恥じらっていました。ぼくはロリコン趣味を持っていません。それでも、普通の女子高生が身につける、白の木綿のパンティの方が、清楚でいいと思っていました。
 ただ、彼女の中では独善的とも言える美意識がありました。彼女は男の嗜好を知らないのでした。彼女が身につけていたのは高級ファッション下着でした。そのまま下着のファッションショーに出ても恥ずかしくないようなものでした。まるで最新水着のように洗練されていました。
 とにかくその時の彼女は、普段の下着姿を見られて恥ずかしがっていました。いつもと違うぎこちないしぐさだったのです。だから今でも覚えているのです。
 もう一つは数年前のことです。彼女はうっかりして忘れたのか腋毛の処理をしてこなかたった日がありました。バスルームでいつもと違う表情をした彼女がいました。何かいつもと違い、そわそわしていて、顔にも焦りが出ていました。
 何かがあったのかと聞いてみたら腋毛処理をしてこなかったと言いました。言わなければぼくは気がつかなかったと思います。異常に気にしている様子を見てぼくはいたずら心が出ました。隠そうとする脇を位置や角度を変えて見ようとしました。彼女は気分を損ねたらしく、終いには怒ってしまいました。
 昔の婦人方は暑い時に脇を出した衣服を着用していました。腋毛を出したままの婦人を見ても周りの人達は違和感を持たなかったそうです。隠すような意識を持たなかったので恥ずかしさもなかったのでしょう。
 また、話しがずれそうです。ひょっとして喋ることがなくなったのかもしれません。ネタが限界に近づいてきているのかもしれません。このまま続けても詰まらない喋りになるだけかもしれません。
 そんな時のために終わる方法は既に考えてあります。これも、歩いている時に思いついたことです。当初は録音してあるぼく自身の音声が喋りとして流れているという設定でした。それなら、カセットテープは三十分で終わることにすればいいのです。
 朗読を三十分ちょうどに収めるつもりでいました。ところが、書いているうちに体験したことを詳細に述べたくなりました。それで書き過ぎてしまったのです。そうだとしても、ここらで三十分テープが終わることにします。
 結果的に下品な下ネタ話になってしまいました。朗読用の作品として、ラジオ放送に採用されることは、絶対にないと思われます。
 それにしても、短編としては落ちのない作品となりました。ある程度、予想されたことでもあります。書いている時は面白いものが書けるのでないかと思って興にのっていただけでした。
 考えてみました。彼女曰く「みんなやっている」と言ったのは、今の流行りであるということなのです。彼女らの世代では脱毛は当たり前なのかもしれません。ムダ毛が恥であることも共通認識なのかもしれません。
 後日、歩いている時に思いました。安価に行え、流行になっていると言うことは、脱毛処理を受けようとする女性が大勢いて、当然商売として成り立っているということなのでしょう。
 今どきの男女は簡単にセックスをする時代になったと言われます。脱毛が流行りなら、同時に無毛の性器を見たり触ったりする男も無数にいるということです。
 「現実は小説より奇なり」と言います。ぼくが特別な体験したように書いていますが、大したことではないのかもしれません。
 若い世代では、紙面に向い、読んだり書いたする機会が少なくなっていることでしょう。世代がかわり、ツイッターやインターネットのような、公的な空間で発言する人々が多くなっていると思われます。当然なこととして猥褻な発言は控えているでしょう。
 下らない下ネタ話を書いてみました。もしかして、世の中の男女間ではぼくが書いたようなことは珍しいことではなくなっているのでしょう。ぼくが喋ったようなことは、既に多くの男女間で陳腐な出来事で済まされている可能性があるのです。
 ぼくは破廉恥なことを書いたつもりで粋がっています。しかし、現実の方が先に行っているようです。発禁になるようなものは実力不足で到底書けないでしょう。寂しい限りです。
 もうしばらくするとテープの再生が終わります。同時にぼくの喋りも終わります。もしかして、原文となる作品が印刷されているかもしれません。もし、ここまで読んで頂けているなら、作者として感謝いたします。
 ぼくは相変わらず歩きながら喋っています。同時に、今も目の前にぼくである作者がベットに仰向けに横たわっています。二カ月前のホテルの一室は、元通りのむさ苦しい作者の部屋に戻りました。
 そして、ぼくは夜中の道路を一人で歩いています。
 さて、テープはあともう少しで終わります。しばらくすると、無声状態になります。その時、目の前でぼくの喋りを聴いている作者も消えてしまうことにしましょう。
 三十分のテープは終わる直前です。目の前のぼくも部屋ごと消えてしまいます。
 それでも、ウォーキングシューズで歩く音が、部屋の中でまだ聴こえるのです。