天空に向かってスキーリフトが登っていく。スキー場の山頂上付近にはガスが掛かり黄泉の国に導かれているようだ。頂付近からは何十キロ先の海岸が見える。中部圏にあるスキー場だから雪質が重い。高低差があり同じスキー場でも、頂上と麓付近とでは雪質が違う。
 頂上付近ではさらっとした雪だが、麓付近ではべとっとして滑らない雪になる。急に足が雪に引っ掛かりスキーの滑りの変化が判別できる。ちょうど大気の雲の部分が頂上付近にあるのだろう。スキー場の頂上付近は雪で下部は雨ということがある。スキー場の頂上付近にはガスが掛かっていることがシーズン中に何度もある。
 リフトに乗っている間、心の中で葛藤を繰り返す。「彼女はぼくのものではないんだ」とか、「彼女が幸せになる方に運命は導かれている」とか、個々に生きる道を諦観したカップルを含み、良し悪しはあるかもしれないが、人間の大部分が夫婦として連れ添って人生を全うするんだ。彼女と彼女の彼氏とは「赤い糸で結ばれている」その太い糸を切ることは出来ない。
 ぼくとスキーというスポーツとの縁は切れない。彼女との間は危うく、脆く、簡単に切れるかもしれない関係だ。「切っても切れないスポーツ行動であるスキー」を手段に、「切れるかもしれない関係」へと、推移する不安から、「一時遮断行為」に使う。
 スキーをやることで、ぼくは救われている。カービングスキーの登場と共に、ぼくの人生は変わったと言っても過言でない。簡単にターン出来て止まれると言うことは、動から静にシフト出来るということである。
 簡単に言えば、止まれることが滑る基本であった。受け身から柔道を教わるようなものだ。瞬間的に危険回避が出来るようになった。止まれるようになるにつれてスピードアップできるようになった。瞬間に停止する神経は若い時からの鍛練によるものがあったかもしれないが、止まれる瞬間の判断の速さと、スピードアップは比例した。
 ぼくは中年から始めたがスピード狂になっている。車に乗ると人格が変わって「中年暴走族」に変身する人を知っている。ほく自身はゲレンデで暴走行為を行う。細心の注意を払って危険回避するマナーは持ち合わせている。迎撃ミサイル・パトリオットが射程物体に向かうのと逆で、命中しないようにスキーヤーやボーダーの軌道を感で予知しながら暴走する。後ろから衝突されたことはあるが、自分からはぶつかったことがない。
 もし、競技としてのスキーを選べと言えば、モーグルでもなし、回転でもなし、大回転でもない。スーパー大回転を選ぶだろう。圧雪され平らに慣らされた斜面を風圧に耐え疾走する。スピード、スリル、その快感は青春を取り戻してくれる。
 瘤がない斜面は転倒の危険も少ない分、スピードは出せる。加速するにつれ、転倒したら怪我をするかもしれないと言う意識で滑降面を凝視し集中する。その一瞬は現実を忘れさせてくれる。スピードが出る前までは、まだ彼女の思いは断ち切れていない。
 シーズンになれば毎週スキー場に通い続けた。年齢による体力を衰えはあるが技術も向上したと錯覚している。早朝に圧雪車が均した斜面をボーダーが荒らして雪の隆起を拵える。平坦に慣れた身体は瞬時反応し平行感覚を保つ。平坦な滑降面を、思いを断ち切れなく、滑っていたかもしれないが、突然、瘤が隆起した場所に出くわす。危険が脳の思考回路を遮断し、瞬時、思考が断絶される。
 リフトで何回も往復する。意識の逡巡は繰り返させられる。鬱状態でスキー場に来た。休日でも何もしたくない日がある。外は晴れてても布団に丸まって寝ていたいことがある。思いは断ち切れない。しかし、理性が怠惰心に鞭を入れる。重い身体を動かす。とにかく、リフトの上で考えるのだと自分に言い聞かせる。
 釣り人も岸辺でのんびりとして釣りをしているかのような風体をしながら、考え事をしているのかもしれない。厭な思いを持ちながら釣りをしているのかもしれない。ただ、のんびりと時間潰しをしているのではないのかもしれない。一瞬、糸が動き、思考が中断する。辛い思いを中断して、一瞬、獲物を捉えた快楽が身体を走る。その一瞬、現実を忘れる。そうではないかとの、仮説が成立する。
 鬱のままスキーのリフトに乗りながら、今の状態を考える。どうにもならないんだ。ここまで、彼女とはいつも別れの不安が付きまとっていた。いつ、途切れても不思議でなかった。
 出会いには常に別れの運命が付きまとっている。別れの時期が来たんだと思う。短かったのか長かったのか分からない。ここまでも充分運命的だった。これ以上何を望のだ。彼女と交わった夢のような時間。麻薬中毒に似ていた。逃れられなかった。もし、彼女が心身とも成長しないまま、月日が凍結してしまっていたら、近い距離に彼女がいたらどうなっていただろう。財産も社会人としての位置も失ってもいいと思っていただろう。身を持ち崩しても関係を続けていたかもしれない。
 いい機会だったんだ。彼女は成長し、ぼくは老いていく。彼女は親からさえも離れていく。時の進行は苦しみを癒してくれる。そして、悦楽の記憶もなくなる。
 確かにあったことなのだろうと思う。彼女との貴重な肌の感触は忘れないようにしているが、女一般の肌感覚で復習しているにすぎないのだろう。他の女の情交で彼女を思い出すしかないのだろうか。
 終わってしまえば、ただの幻想に変化する。あれは本当にあったことなのか、今でもおぼろげだ。単に磁気の記録媒体でしかないデジタル画像だが、今では足跡として残っている。
 あの時、彼女は恥ずかしいと言う感覚がなかったのだろうか。彼女は小悪魔か天使か分からない。幻影でなく「即物的」な記録として残った。見た後、今もぼくをさいなめるのだから、気持ちのいいものでない。時の進行に逆らい、塩漬けされた「記録」として現存している。過去を立証できる、貴重な映像だ。
 恥ずかしさの感覚がない時期があったとすると、ずっとぼくを他人と認識していたのかな。ぼくは長い間、見ず知らずの知らない人の範疇にあったのかな。彼女との結合状態でいる場面だが、画質は悪いが動画としてデジカメの記憶媒体に残っていた。しかし、虚しい。一緒に性交場面を見て、こんな時期もあったと、二人で見て懐かしむならともかく、それが未来に繋がらない記録なら、見ても辛いものでしかない。
 オシドリ夫婦だって一方は先に死ぬ。人生に永遠に二人きりはないのだ。言われ尽くされている言葉だけど、生きる時も独りだし、死ぬ時も独りだのだ。人生に永遠はないのだ。あるとしたらあの世に行っても二人だろうと思い込んで死ねる「心中」行為かもしれない。
 ある種の幻想を抱いて死ぬのだ。自殺願望がある。韓国の地下鉄放火犯は、独りで死ぬのは寂しいからと、犯行に及んだ。日本においても、インターネットで知り合った名もしらない自殺願望者同志で「心中」行為を行う。独りで死ぬのは寂しいからと……。
 ぼくは、独りで死ぬ覚悟は出来ている。ぼく達は団塊世代から遅れてきた世代だ。生存競争に負けまいと、一生懸命になっていても、どこかで覚めて現実を見る癖がついている。
 老年期に近づきつつある今の時点でも、ぼくは楽観視する。例えば日本が団塊世代中心の高齢化社会になり、死者数が恒常的多数になり、介護はオートメーション化され、画一的に効率的に運用されているだろう。介護も採算ラインに乗っているかもしれない。
 国家財政には限度があるが、日本国には個人資産が1400兆円ある。仮にそれらの個人財源を国家負債と相殺すれば福祉予算が捻出される。猶予があるのかないのか知らないけれど、将来の日本の少子化問題だって、ぼくらが死を迎える頃はどうだっていい。
 福祉は充実していてもいなくても、死は確実にやってくる。近年に死は充満している。介護もブロイラー処分場的に充実しているだろう。コストの掛からない延命方法が確立していて、老衰でも生き長らえたとしても、最期は来る。健康体でもあったとしても、ある日ぽっくり逝くかもしれない。
 そして、ぼくは独りで死ぬのだ。ひょっとして親よりも早く死ぬ可能性だってある。流布されている生活習慣病だという流行語に甘えて、身体の対処を怠っている。血圧の薬を飲まなくなって何年になるだろう。治療を進められているが医者には掛っていない。親よりも先に死ぬ親不孝の可能性は否定できない。
 親以外にぼくの死を哀れむ者はいない。両親が死んでぼくが独りになったとしたら財産を散財し、社会に還元するだろう。その時期がスポット的に今になり、彼女に金が渡っていたと考えればいいのだ。
 介護施設に入っている時は財産を供託するだろう。死に際のぼくに、僅かばかりの金があったとして、国庫に没収されているかもしれないのだ。財産を残して死に金となるよりも、彼女が「物」という物質による喜びだろうと、生きている時に感じる喜びに代わるかもしれないものに媒介するのが、金なんだ。死に金が生き金に代わったと言えるかもしれない。
 話しが脱線した。今を楽しく生きればいいのだ。高齢になるとスキーも出来なくなる。足腰が弱ればゲレンデでは暴走ができなくなる。それと一緒なのだ。若いと言っても中年だが、その時期しか享受できない快楽があるかもしれないのだ。金を溜めても、使うのが老人施設入居後だと考えると、何の為に生きてるのだろうと思う。
 スキーは今しか滑れないのだ。自分のイメージ通りに身体が反応した時は、快楽が髄を走る。
 勿論、性行為も後何年続けられるか分からない。性機能障害症候群になっていたら、バイアグラを使ってでも、刹那的に一瞬の快楽を求めるだろう。美食、セックスの快感、そしてスポーツによる快楽、それらは瞬間にしか悦楽を感じられない。永遠に恍惚状態なら求める必要もない。瞬時だから、求めようと常に努力する。
 でも、精神的な鬱感覚や、さびしさが大部分を占めている。更年期障害を伴っていて、殆ど病気だ。
 話しがまた逸れそうだ。ぼくがスキーを始めた最初の冬を終え、その年の春に彼女と知り合った。そして、二年が経過した。今の関係は途切れるのだろうか。今年のスキーシーズンが終わった頃、結論が出ている。彼女の進路は決まっているのだ。
 「不安定の中の安定」、あるスキー好きの後輩が趣味に関しての感想を社内報に載せていた。それを読んで、なる程、言い得て妙だった。スキーは固定していない。蛇行しながらの滑りには絶対に静止はない。常に揺れている。ターンしながらの滑りでも、例え、直滑降だったとしても常に振動していてバランスをとる為に体重を常に移動させている。
 静止はしていない。不安定の中で常に前に向かう。今が不安定な日常でも、常に時が進行しているのと似ている。今の心情が不安定でも、どこかに向かっている。後で振り返って、その時点の方向や軌道が分かる。終わってみて、振り返ってみて、過程や通り過ぎた状況が捉えられる。
 彼女も受験期間は不安定の真っ只中にいた。それ以前の彼氏との安定期には、ぼくとも付き合っていた。そして、別れを選ばなければならい時期が来た。問題を先延ばしするのか、決断を今の時期をに下すのか、それは彼女自身が選択するのだ。
 ぼくはまな板に乗った魚だ。選択権は彼女にしかない。精神的不安定な中での安定はない。安定を取り戻すとしたら、彼女との関係が続くだろう幻想を持つこと。永遠はないと思うけれど、一時的にも一緒にいられるかもしれないと言う幻想を持ち、別離の先送りをすることだ。そんなものでしか心的な安定はない。
 滑り下りようとするがガス掛がかって視界不良になる。見えにくい中ではスピードダウンするしかない。
 見えにくい視界の中では、スキーで滑り降りるスピードは大幅にスローダウンするだけで、後退することはない。ガスが掛かるくらいは、何ともない。体温を奪われる吹雪の中よりましだ。コースを外れ、谷底に落ちないように気をつけるだけだ。時間は掛かっても、いつかは麓に到着する。
 彼女は東京の大学に行くだろう。依然、彼女の携帯電話のメルアドの変更の気配はない。電話番号もそのままだ。大学入学と同時にメールの返事はなくなるかもしれない。ぼくが掛けたのは分かるから、携帯電話は留守電のままにしているかもしれない。ぼくとの関わりを捨てようかどうかの決断は先送りにするかもしれないし、近日、決断するかもしれない。
 彼女は最近、携帯電話の機種変更をしたばかりだから、しばらくは買い換えしないだろう。電話番号はそのままなのかもしれない。メルアドはしょっちゅう替えるのは面倒かもしれないから、そのままにしているかもしれない。ぼくから一方通行のメールしか行かないで、返事は来ないかもしれない。返事を返さない彼女の心境変化を察知できないでいるだろう。
 彼女の着信記録にはぼくが電話した記録は残っている筈だ。しかし、電話は掛かってこないかもしれない。どれだけ彼女と交わったろう。彼女はぼくとの情を排除して新生活に適応しようとするかもしれない。
 ぼくはいつもテニスが面白いと語っていた。最後に会った日、彼女は大学に入学したらテニス同好会に入ろうかと話していた。未経験で初心者だけど、出来るようになれるかと、問うてきた。町の初心者テニス教室から、ぼくの所属しているテニスクラブに加わって来る、高齢者の人がいる例を上げて、ちゃんとステップアップさえしていけば誰でも出来るとアドバイスした。
 それは、ぼくに話しを合わせるのに言ったその場限りのお愛想だったのかもしれない。大学生活を送る、彼女の携帯電話の留守電に、メッセージを残す気はない。彼女さえ承諾すれば東京まで行くつもりだ。しかし、往信はなくなるかもしれない。
 ガスが掛かる雲の中へと昇っていくが、そこは黄泉の国ではない。現実の暗雲の中だ。U斜面で反対側に勢いで登ることはあるかもしれないが、一般にスキーは坂を滑り降りるものだ。ぼくは暗雲の中からもがいても逃れられない。精神的にも肉体的にも昇華せず、愚行を繰り返えす。後退していく自分しかいない。
 また、別の相手と援助交際を始めようとしている。彼氏のいる彼女の立場を考えると、ぼくは彼女を裏切った訳でない。
 肉体関係の相手は、人妻だった。二度目なのに身体が妙に反応する。三度目の反応は二度目に比べると弱かった。おそらく一度目は、初対面の緊張の中だから、そんなものかもしれない。二度目は何か抑えているものを解き放す感じがした。
 人妻は特別の美人でもなく、特別醜くくもなかった。指に匂いがまとわりつかなかったので、初対面から人妻の性器を嘗めた。高校生だった彼女を懐かしんだのか、同じ行為をしてしまった。
 二回目に会った時は指だけで人妻は反応した。細かく観察してみると、性器の周辺は濡れなかった。膣内に限っては分泌体液は潤沢だったのかは、まだ判別できない。確かなことは、内陰茎付近は濡れてなかった。
 それでも、人妻は身悶えした。その時々のコンディションはどうなのか女の身体は分からない。人妻は徹夜をした後で、一時間程しか寝てないと言う。
 その人妻は結婚して一年に満たないと答えた。「落ちついたから」と、人妻は「顧客」と会うことを、実行したと言う。彼女はツーショット伝言ダイヤル業者のサクラをしていた。サクラのアルバイト業務から離れて、その顧客である相手と会うことになった。その初めての相手が、ぼくであった。
 サクラとして喋るのは疲れるだろうと聞くと、そうだと答えた。ぼくはツーショットダイヤルに電話をしたことがあるが、初めて喋る相手には、確かに疲れた。サクラをしてたら、何人もと喋るのだから疲れるのは当然だろう。
 でも、彼女の良心的なのは「顧客」と待ち合わせの約束を取り交わさなかったことだ。それを聞いてぼくは人妻を人間的に信頼した。
 ぼくは簡単に約束が取れて行ってみてすっぽかされた経験は何度もある。ああサクラだったんだと後で分かった。冷静に考えれば判断出来ることだ。業務とは言え、人を騙すなんて許せないと思うけど、すぐ後にそれに乗った自分のすけべ心を恥じた。でも、そんな簡単にコンタクトできるなんてことはあり得ないことと、直ぐに判断すべきだった。サクラをやっている女の方だって、相手は分かるだろうと思って喋っているかもしれないんだ。瞬間的にも、意気投合する場面を創った努力に、敬意を払うべきだ。と、今なら思える。
 サクラの女から考えると、そんなこと知ったことでない。アルバイトの時給を稼ぐのだ。まさか、もしそれで会いに行く女がいたら、その方が危険な相手だ。そんなに簡単に会う女なんている筈がないと思い知るだろう。女はそんなに甘いものではないと諭しているだろう。
 それらを考えるとその人妻は「良心的」であった。ぼくの伝言ボックスにはメッセージが入ってた。最初は聞き取りにくいからと、接続時間を延長させる常套手段で返事が来た。何を思ったか本当に会うつもりでバイトの人妻はぼくにメッセージを返した。
 しかし、運が良かったのか悪かったのか……。新婚から一年が経過し、「落ちついた」時期に遭遇し、彼女は言葉の応酬のバイトだけでは飽き足らず、「会う」という行動に出た。
 夫との夫婦生活には何の支障もないと人妻は言う。生活サイクルが一定となったのだろうか。空間や時間の進行が「定番」となったのだろうか。どうして彼女がぼくと会う気になったのか、思いのうちまでは想像できない。ぼくを選んだのは、たぶん変なことをしない普通そうな話しぶりだったからだろうことは、仮定できる。
 その人妻である女がどうしてそんな状況になるのか、人間模様が知りたかった。最初は根掘り葉掘り聞いても答えてくれなかった。失敗した。割り切った関係だし、特にこちらから聞かないようにした。二度目に交わってから、人妻は、支障のないことから喋りだした。
 人妻の身体は均整がとれスタイルがいい方だと思った。煙草を吸っている割りには若いからか肌に張りがあった。何かスポーツをやっていたのかと問うと、人妻は中学の時、バトミントンの選手で何とかの大会で3位に入ったと言った。二の腕を見せて太いことを気にしていた。足も短い方だと自分で決めつけていたが、ぼくが見る限りは、それなりにミニスカートは似合っていた。
 二度目となると、ソフトタッチに弱いと直ぐに悶え、良がり始めた。Gスポットは企業秘密だと言った。体位では女性上位はやらないと言った。最初にあった警戒感は薄れたのだろうか。交わる中で彼女は二度目でもうぼくの背中に腕を絡ませてきた。淫乱なのか、今までも男に抵抗なく接しているのか、分からない。
 高校生だった彼女の場合は半年経過してからやっとだった。結合状態がクライマックスに近づくと手を背中に這わせてきた。
 男との親密な陸み合いの動作は彼氏との行為の中から派生したのだろう。女として成長過程は普通なのかもしれない。昔だったら、或いは貞淑でモラリストの妻であったなら、理性を持った女なら、新婚生活での性生活の過程でもそんな行為をしたか、しなかった。分からない。逆に日常から解き放され淫乱になったのかもしれない。いろんなタイプの女がいるのだろう。
 高校生だった彼女は彼氏に開拓されたのだ。その二番煎じがぼくなのかもしれない。腕を回してきたのも彼氏との睦み合いで覚えた。彼氏がデープキスを嫌うからと、ぼくにもさせなかった。ぼくが彼女に影響したことは何もなかった。成長期にも何も影響しなかった。高校生の頃の彼女を思い出した。女友達同志で、朝帰りをした。次の日に寝不足のままぼくと会った。ロフトクラブでの飲酒も喫煙も、そして、公言はしなかっだろうが、ぼくと援助交際もやった。ぼくと知り合う以前は、不特定多数の男達とも交わっていた。
 それでも彼女は勉強もした。ぼくが影響したことがあったとしても、それは十代の頃の二度とない青春をエンジョイする為に、必要不可欠な軍資金供給源としての存在だったのだ。
 大学生になる彼女は耐えられる範囲の勉強をして時を待つ。彼氏が大学を卒業した時点で、学生結婚したい願望が、彼女にある。が、親は反対するだろうと彼女は言っていた。現時点で、彼女への携帯電話は着信拒否になってなく、留守電になっている。離れないと言ったぼくとの約束はまだ不履行にはなっていない。しかし、メールの返信はないままだ。
 そして、ぼくは人妻と肉体関係を続けるだろう。多分、寂しさに耐えかねて、理性とは別のところにぼくは走るだろう。肉だけの交わりだ。人妻の身体の反応はいい方だ。別に不可も、支障もない。人妻は普通に反応する。人妻は高校生だった頃の彼女と同じく陰部は濡れない。ひょっとして人妻もハイティーンの時から性交していることが影響しているのかもしれない。大学に進学する彼女の言っていた、自身の陰部が濡れないという身体的現象と類似している。彼女の言っていたことは本当なのかもしれない。
 しかし、アスリートだった人妻は、セックスもスポーツ感覚なのか、乾いたままの挿入でも痛がらない。普通に反応する。5Pをやったことがあると言う。3P経験者の女に、どうだったと聞いたことがあった。集中出来ないと答えた。ぼくは同じことを人妻にも質問した。人妻はそうだと答えた。
 男は視覚の動物だから、隣で結合し交わっているのを見て、ぼくだったら興奮するかもしれない。しかし、女は違うのだろう。隣で結合しているカップルがいても、ああ頑張っているなという程度で、何とも思わなかったと、人妻は言った。
 例えば、男から見て結合している相手の女が口に別の男のペニスを加えている。そんなところを見て男は興奮するだろうか。人によってはそんなフェチもいるかもしれない。人それぞれだ。ぼくはそんなもの見て興奮しない。人妻もぼくと同感だと言っていた。ぼくだってそんなものは見たくはない。
 そして目の前でソフトタッチに弱いと言っている人妻は、触られることで性的な興奮を高めていた。快楽を求めるために集中力を発揮しようとしていた。女の生理や感覚は、今でもぼくには分からない。
 ずっと前にサブの援助交際相手がいた。名はSと言った。半年以上もすれ違いや時間的なずれで肉体関係はなくなっていた。Sの方がより精神に昇華した相手かもしれない。メールの返信も度重なると興に乗るのか、とても文学的な表現をする。今風の若者にはない、日本語的にもまともな文章を返してきた。援助交際していた元短大生で今は地元に就職し、今現在、Sは単にメル友でしかない。肉体関係は復活しそうにない。就職してまともになったのかもしれない。仕事も、事実、忙しそうだ。
 ジュディ・オングの歌で男に抱かれながらも別の男を思うという歌詞を思い出した。「女は海」? 何で女だけ海なのだろう。男でもそんな感覚はある。最近、そう思う。人妻と交わり、射精の瞬間は大学に行くだろう彼女の名前を呼んだだろうか。いや、サブだったSと言ったかもしれない。定かでない。覚えていない。
 大学生になる彼女を思い出すと、切なくなるので、射精時に意識して、Sと無理やり呼んでいたかもしれない。逆に、彼女は彼氏に抱かれながらも、ぼくを思い出しただろうか。半年前の夏休み中、彼女は彼氏と一緒だった。夏休み明け、生理中だったにも関わらず、生で挿入を受け入れてくれたのは、ぼくを受け入れたことでもあったのか。それまでになかった肉体的心的変貌だった。
 人妻と交わり、射精の瞬間に大学に行く彼女の名前を呼んだか、Sと言ったか定かでない。女体を抱きながら心的な支えの女の名が、射精の瞬間に思い出た。相手をする人妻の名前は知らない。人妻は急速に心を開いていく。学校の成績良くなかったかもしれないが、アスリートだった人妻は状況判断が早い。そして、肉体的に親密になるスピードも早い。
 名前は聞かない方だいいのだ。大学に行く彼女や元短大生のSのように、なまじっか嘘偽りのない相手の生活を知ると情が沸く。相手のことは知らない方がいいのだ。これからも人妻の名前は聞かないことにする。人妻は人妻だ。旦那と別れて自分の方に来てトラブルに巻き込まれるのも面倒だ。割り切った関係のままでいたい。深入りしたくない。単に肉欲の捌け口だ。しかし、そんな相手でも別れる時は身体の一部を切られるように感じるのだろうか。
 単に肉と肉の交わりなのだ。それでも、男女間の最小公約数的な関係があるのだろうか。その睦み合う空間では疑似の恋人のようになれるのだろうか。獣のようにと表現するが、実際の動物の性行為は淡白だ。獣は単に性器だけの結合だ。人間は欲深く、肌も性器も相手の心さえも、触れ合っていたいと念じるのだ。
 そして、過去から今に至るまで記憶下で、連綿として共通化、普遍化した牝の肌をなぞり、宗教的にまで昇華したかと覚醒し、Sの名を射精時に呼ぶ。そして、大学に行く彼女を忘却の彼方に追いやろうと努め、深層心理下には深く傷ついていく。
 ぼくと彼女とは、彼女から見ればサブで、肉体的には一時通過点で、彼女と彼女の彼とは将来的に結びついていく。それは既成事実なのだ。彼女と彼女の彼氏の肉体は朽ちるが、精神的残像として、現世から未来に残るのだ。
 ぼくとの肉体関係でも揺るがなかった、精神的情緒的な見えない「絆」で、彼女と彼女の彼氏は、これからも「愛」を育む。未来に向かって……。
 彼女は「落ちついたから」と、揺るぎない彼女と彼氏の「関係」を持って、彼女はぼくの前に戻って来るのだろうか。
 リフトに乗り、暗雲に似たブラックホールに取り込まれていく。非現実のようで現実なのだ。黄泉の国のようであっても、地獄への時のずれ、タイムトライアングルなのだ。