「言葉……」言葉によってこの文字が書かれています。言葉が文字となってこうやって出力されています。さて、ぼくの言葉が文字となって出力されている状況を説明することにしましょう。
 目の前にパソコンがあります。パソコンの背後にあるコネクターにマイクのジャックを繋いでいます。マイクをスタンドに立てパソコンの画面に向かって喋っています。そして、今、喋ることによってぼくの言葉が音声認識ソフトを介して書かれています。パソコンに精通している人なら大体見当がつくかと思われます。パソコンにマイクを繋ぎ、そのマイクに向かって喋るとワープロソフト内に文字を書いてくれるのです。
 パソコンユーザーが遊びで使用するような安価なソフトでも語彙の適合率はほぼ80%以上あります。高価な音声認識ソフトだったら、発せられた言葉を完璧に近い文字認識率で変換します。
 最初は慣れるのに時間が掛かります。言葉に詰まってしまうと次の言葉がなかなか出てこないのです。そんな時に「え……と」と言葉を発すると「え……と」と文字が書かれてしまうのです。しかし、キーボートを打つのが遅々として進まなく、素早く言葉を発することによって頭の中に思い描いた発想を途切れなく文章に残してしまいたい場合には重宝します。
 無駄な文字は後の校正時点で修正すればいいのです。それに、最近は便利なものも出ました。手のひらサイズの超小型テープレコーダーです。録音すればその場で音声を文字に変換してくれます。テープレコーダーに装填されたカードロムメディアを介してパソコンに取り込めば文字に変換してくれます。出先で思いついた発想などを記録するにはいいかもしれません。
 晩年、病床に伏し、口述筆記で小説を書いていたある著名な作家の伝記を読んだことがあります。例えば、ワープロ嫌悪症候群に侵されている手書でしか書けない作家がいるとします。悪筆で読めない原稿だと出版社の編集者に言われたとします。そんな状態の時はワープロやパソコンが苦手な作家でもテープ起こしさえすれば小説が書けるのです。
 こんなやり方は邪道だと思います。テープ起こしから本を書いたりするのは、お喋りばかりが得意で、文章の書き方を学ばなかったアイドル達が発行する本の殆どが、この手のやり方で作られているからです。
 ぼくもこの方法を踏襲しているのです。今、マイクに向かって喋っています。キーボードも一応使うことが出来るですが、左右人指し指一本指ずつのタイピングでは遅々として文脈が進みません。だから、この音声認識ワープロソフトを試しに使ってみているのです。
 ぼくは地方の同人誌に参加しています。小説を読んでいる時、唯一孤独を忘れていられました。そんな中、どうしたら小説を書けるのだろうと思ったのです。何か漠然と何かを書けたらと思い、地元にある同人誌に加入しました。 同人誌の仲間から書けと言われているのですがなかなか進みません。他人の書いたマイナーな作品もそれなりに面白くは読めます。それと、同人誌に参加していることはこれといって趣味を持たない自分にとって無意味ではないと思います。しかし、いつまでも書かないでいると読書会員に格下げになってしまいます。
 一年に一度同人誌主催の旅行があります。皆で文学談義をしながらの旅行は毎回楽しいものです。このままでは同人でいることができなくなり旅行にも参加できなくなります。
 しかし、いざ自分が書こうとしても何をどうして書いていいのか分かりません。何か書きたいと思っていても遅々として進まないので試験的にこうやってパソコンに接続したマイクに向かって小説なるものを書こうとしているのです。架空の空間を創ろうとしているのですがなかなか状況が思い描けません。ぼくは、書けない、書けないと喋っているうちに所定の原稿枚数以上になるように何とか文章になるように努めているのです。
 ある雑誌のインタビュー記事に載っていたある流行作家はぼくが今やっているような方法で小説を書いているそうです。作品ごとに部屋が幾つかあり各部屋に備えつけのテープレコーダーのマイクに向かって喋っているとのことです。
 口述筆記の方法で、同時進行で幾つもの作品を書いているとのことです。そのテープを元に助手に手直しさせ活字にするのだけれど、作家にはテープ起こしや助手の経費等を補完する収入があり口述筆記の方法でも創作活動が維持できるのだろうと思われます。
 その流行作家は書いているのではなく喋っているのだけど、読者には苦労して書いているような印象を与えている才能がうらやましいと思います。
 普通、マイクに向かってただ喋るだけでは、つじつまの合ったまともな文章を書けないと思います。ぼくも直前の文章を読み返して、推敲を重ねるタイプで口述筆記は向いていないと思います。しかし、今の状況では文章の取り掛かりが必要なのです。
 口述筆記をしている職業作家はどうやって文章を綴っているのでしょう。文章の推敲等の枝葉末節の事などは問題ではないのかもしれない。作家が喋った粗筋とか会話とか物語の流れに基づいて、後は下請け専門のゴーストライターが文字の校正と同じように文章までも下請して書いているのかもしれないのです。
 ぼくは流行作家のような売文稼業にはなりたくないと思います。しかし、書こうともしていない自分は流行作家以下でしかない。一人でもぼくが書いたものを読んでくれたらと思う。それは微かな望みにしかすぎないかもしれません。しかし、とにかく、同人誌に掲載できるものを書かなければならないのです。
 さて、手段はどうあれ、試験的とは言え、ぼくの発する言葉によってこれが書かれています。とにかく、ぼくは書かなくてはならないのです。ぼくはマイクに向かい、文章の取り掛かりになるよう口述筆記しようと、ぼくは喋っているのです。

 ぼくは図書館に来ていた。ぼくにとって寝るのが趣味であると言っていい程、時間があれば横になっている。テレビを見ていても雑誌を読んでいても、そのままうとうと寝てしまうことが良くあった。自分の部屋の中では精神弛緩地獄に陥っていた。
 常々、病人のようにじっとしているのが一番の安息だと思っていた。それでは、精神的にも、肉体的にも不健康であるのかもしれないことは頭の中の理屈では理解していた。でも、アウトドア指向もなく適当に身体を動かすスポーツにも興味がなかった。
 ぼくの仕事は肉体的に激務というのでもなかった。ただ、精神を酷使することはあって休日はごろごろしていることが多かった。それが自分にとってリラックスすることなのだろうと自分で思い込んでいた。
 寝過ぎの状態で頭がボーツとする前に何とか克己心を働かせなければならないと決断した。何とか寝床から起きだした。部屋を出て図書館に向かった。
 ぼくは一人でいることには慣れていたし学生時代から友達が少なかった。悩みは総て自分で解決してきた。唯一、孤独を癒してくれたのが小説だった。ある時は音楽や映画を鑑賞している刹那の間だったかもしれない。
 以前のぼくにとっては小説を読んでいる時が孤独から逃れる手段だった。最近は歳を重ねるごとに集中力がなくなり、自室で音楽や映画を鑑賞しようという気持ちになれなかった。家にいるとごろごろしていてテレビを見ているだけだった。部屋の中の机に向かい名作と言われるタイトルの小説を読めなくなった。眠くなるだけだった。
 環境が悪いのだと思った。リラックス出来る場所だと言えば聞こえはいいが、自分の部屋ではボーツとしているだけだった。図書館の学習室には「気」が充満しているように感じられた。その場にいれば孤独が癒された。学生達に混じっているだけで読書をしているだけで一時的でも孤独から開放された。音楽ホールや映画館の中にいるのと同じ状態で観衆と一体になっていると錯覚しているだけかもしれない。ぼくにとって学習室にいる時、一時的に孤独は癒されるのだった。
 学習室は図書館の四階にあった。ぼくは図書館の四階から駐車場にある自分のセダンタイプの車を見た。色はシルバーだった。四階の学習室から階下の駐車場が見えた。
 ぼくは学習テーブルの二列目に座っていた。ぼくは読んでいた本を伏せ視線を階下の駐車場にある自分の車に向けた。
 もし、ワンボックスタイプの車を買ったらどうなのだろう。キャンプ等のアウトドアの趣味もない。サーフィンボードを積んで海に波乗りに行く訳ではない、スキーやスノーボードを積んでスキー場に行く訳でもない。
 ドライブそのものが好きだった。しかし、長距離運転は眠くなるので嫌だった。時間にして三十分以内が運転の限界だった。公衆道路をただ場所から場所に移動するだけの刹那の瞬間を楽しんでいるだけだった。
 ぼくはある状況にあった。ぼくは図書館の四階から見下ろせる駐車場にある自分の車を見ているのだった。ぼくが現在乗っている車はセダンタイプだった。ぼくが車に乗り始めたばかりの頃はどっちかと言うと低く流れるような流線型のスポーティタイプの車に憧れがあった。
 憧れがあるのと実用的であるのとは違う。公道では前を走る車を何台も抜く訳にいかないし、信号ラリーをする訳でもない。最近、車は外見ではないと思えるようになってきていた。流れるように低く流れるようなスポーツタイプの車はエンジンに馬力はあるが、押し込まれたような窮屈な運転席に魅力はない。軽四ワゴンタイプの運転席の方がまだましだ。
 ぼくの車は高速回転の領域に入るまでの加速性能と街中でも扱いやすい低速トルクを両立させた、高性能であっても実用的なエンジンを搭載していた。ターボチャージャー付ダブルオーバーヘッドカム、車検が通る程度にサスペンションのスプリング間隔は低めにセッティングしていた。だから、急カーブを通過する時、極端にスピードを下げなくてもいい。但し、車体と地面の間隔は少さいので雪が降った時と段差のある道路を跨ぐ時は気をつけるようにしないと車体の底を擦る危険はあった。
 あくまでも運転そのものが、好きなのだった。瞬間的に発揮される動力性能の高さは突発的な危険に遭遇しても回避できるポテンシャルはあるかもしれない。それは安全性を重視したのではない。暴走するのではなく、あくまで公道の中で制限スピードまで瞬時の加速を楽しむ為にチューンアップしただけなのだ。
 外観である車の色も特に目立つものではない。曇り空を背景に同化する程に目立たないシルバーだった。日産スカイラインGT−Rの広告で「羊の皮を被った狼」というのがあった。別に意識をした訳でないがいつも頭にそのフレーズが過るのだった。
 どうして図書館に来ているのだろう。ぼくは若くないし受験勉強する訳でもない。生涯学習の生徒になっているいるのではないから予習も復習も必要ではない。従って図書館に来る必然性はないのだ。たまにしかない休日に恋人とデートをする訳でなく図書館に来ているのだ。
 ぼくは四階の学習室の窓際から二列目の学習テーブルに座って階下の駐車場に停めてあるシルバーのセダンタイプの自分の車を見た。その車には四年以上乗っていた。唯一の気分転換がドライブなのかもしれなかった。新車を買ってから一回目の車検時には概ねその車に飽きていた。しかし、経済的な理由で買い替えばかりしていられないから、せめて車を改造するのだった。
 今乗っている車のローンはだいぶ前に終わった。次の車の買い換えに必要な貯金も出来た。下取りに出す自分の車をいくらで引き取ってくれるか、値段しだいではワンボックスの車は買えない訳でもなかった。
 しかし、ワンボックスタイプの車の購入を考えると躊躇せざるを得なかった。商用車のバンと同じ二トン近い重量がある車体では加速も悪いだろう。ワンボックスカーからセダンタイプの高級車に戻した人が身近にいた。最悪の場合、数年間は動力性能を我慢しなくてはならない。もし、気に入らなければ乗り換え時にセダンタイプに戻せばいいのだ。しかし、ワンボックスカーを購入するのは大きな買い物だしなかなか踏ん切りがつかないだろう。
 ぼくは図書館の四階から階下の駐車場を見ている。もし、ワンボックスタイプの車を買ったらどうなるのだろう。頭の中に思い描いてみた。車の雑誌はたまに読んでいた。アウトドア派ではないし、出無精の自分であはあるけれどワンボックスタイプの車を買ったらどうなるのだろうと想像してみた。
 夏前頃、車の雑誌を読んだ。キャンピングカー仕様車特集が出ていた。ぼくは独身で妻も子供もいない。独り者なのに大人数が乗るワンボックスカーはどう考えても必要がなかった。
 しかし、後部座席に設置されたテーブルに魅力があった。後部座席のテーブルに向かって読書をしたら気持ちいいだろう。河原や海岸や山中の森林の中に場所を変えてその自然環境の中で読書をしたらどうだろ。ノートはいつも持参しているから、もし、精神状態が良ければ何か書けるかもしれない。
 そう思ったら心が揺らいだ。ワンボックスカーはセダンタイプの小形乗用車より高額だった。高性能小型車とワンボックスカーの値段はほぼ拮抗していた。なけなしの貯金を叩いて買うには決断が必要だった。
 ぼくは図書館の四階からワンボックスカーに乗った自分を思い描いていた。学習室で一時、空想を巡らすことが出来る状況にぼくはいた。河原や林の中では奇抜な色は自然との釣り合いも保てない。車の色は目立たないモスグリーン辺りが無難だと思う。
 ぼくは図書館の学習室のテーブルの前で今まで読書していた。ノートを持参していた。階下にある自分の車がセダンタイプからワンボックスタイプに変わったらどうなるのだろう。そうなったらどうなるのかノートに書いてみたかった。書いてみているうちに小説の一部分が書けるかもしれないと思った。
 ワンボックスカー内の状況を思い描きながら書こうとしていた。二列目の間にテーブルを設置したらどんな状況になるのだろうと考えた。
 野外キャンプにも使用出来るワンボックスカーは三列シートになっていた。二列目シートを進行方向と逆の後部に向けて三列目と向かい合わせの対座シートにすることが出来た。それと、二列目と三列目のシートをフルフラットのベットにも出来た。運転席と助手席は一列目にあった。一列目シートの脇にカーテンが縛られていた。一列目以降の空間は、室内カーテンで仕切ることが出来た。側面と後部の窓にもカーテンが装備され、外部からは覗くことは出来なかった。
 ぼくは将来買うであろう自分の車が階下の駐車場にあるものとして見ていた。図書館の四階から見ていた。駐車場にはワンボックスカーがあるものとして見ていた。
 ぼくは三列目のシートを最後部に押しやった。二列目のシートがレール上を移動できるようになっていて後側に位置をずらした。一列目と二列目にスペースが出来た。折り畳み式簡易テーブルを開いた。パイプがX字に組み合わさった上に横が90センチ、縦が50センチ程のボードを乗せただけのものだ。
 キャンピング専用に使えるメーカーオプションのテーブルは高額だった。たまにしか使わないだろうに数万円の出費は勿体ない。時々、車の雑誌にキャンピング特集の記事が載ることがあった。キャンピングカーの室内テーブルの自作方法が掲載されていた。
 ぼくはホームセンターに行きパイプが交差した支柱の簡易型テーブルを買うだろう。そして一番手間の掛からない方法を取るだろう。パイプ部分が長すぎてシートの位置には適さない。そこで下部のパイプ部分を金鋸で切断するだろう。
 ノートを開いて書けるスペースが出来た。ノートや本が辛うじて開ける位の狭いスペースだった。ぼくは、そこで読書をするのだろうか。ただ、読書をするだけでなくノートを開いて何かを書けばいいのだうか。ノートよりノートパソコンの方が今風かもしれない。
 後部座席に設置されたテーブルに向かっていた。ノートを開こうとしていた。ぼくはそうなるだろう状況をノートに書こうとしていた。「言葉……」言葉によってこの文字が書かれていますと喋っているような状況にあるが、シャープペンによって書こうとしていた。
 ワープロやパソコン機器で書くのが主流であるのに、シャープペンシルで書いていた。書かれている中では、喋って書いているように表現されていた。こうやって書かれていること、こうやって文字になってこと、その発端は音声で発せられた言葉であるかのように表現していた。
 ぼくの今の状況では後部座席に簡易テーブルを設置し、その上にノートを広げ、そのノートに向かって書いていた。
 ぼくは車の後部座席のテーブルに肘をついてノートに向かっていた。ノートを開き、シャープペンシルで書こうとしていた。目の前にある簡易型テーブルの上にノートを開いた。
 どうして、そんな所で書かなくてはならないんだ。自問した。そんなことに利用するならぼくが占有している広い部屋の中に占める大きめの机の存在価値は何なのか。自宅の部屋の机に向かえるよう、精神を鍛えた方が得策でないかと……。
 購買意欲を萎縮させる訳にはいかない。ワンボックスカーを買うメリットを追求してみようとした。せっかくのフルフラットシートの活用方法がないのだろうかと更に自問した。家族を持っている訳でないから、利用するとしたら旅に出て車中泊することぐらいだろう。
 もし利用できるならそして、その車の中のシートをフルフラットにしてカーセックスをしたらどうなるだろう。ぼくは思った。恋人が出来てもラブホテルを利用出来ない程経済的に困窮していなかった。ぼくは恋人と肉体関係を結ぶ状況になったとしても、多分、カーセックスをする状況にならないだろう。
 カーセックスの体験のある知人が言っていた。カーセックスは臭いと言っていた。多分想像するに、カーセックスに及ぶ直前に風呂に行くことはないからそうなるのだろう。でも、一度は体験してみたい。その時の為のシュミレーションをしてみたいと思った。ノートに状況を書き残したいと思った。
 ぼくは車の中で、ノートを開いて書こうとしていた。カーセックスは今まで体験したことはない。しかし、その状況は書けるかもしれないとノートに向かって書こうとしていた。
 その状況を書こうとしている自分があった。二列目に座り簡易テーブルに向かっている自分がノートを開こうとしていた。
 ぼくはラブホテルの中でのセックスの体験はあった。しかし、車の中でのセックスの体験はなかった。ぼくの数少ないセックスの体験から、類推してカーセックスの場面に適用してみることにした。
 大体の女は嫌がるものだが、部屋を最大限に明かるくした。彼女は拒絶することはなかった。おかげで女性性器の仕組みを産科医並みに詳しく観察出来きることはありがたかった。艶かしくも煌々と照らす照明の中でも体位はなすがままに出来た。バックは勿論、騎乗位、アダルトビデオでやっているようなアクロバット的な体位も試せた。
 彼女はフリーターだった。定職を持たない女は頭が良くないのではないかとぼくは思った。喋っていても頭の回転の悪さを感じた。ぼくは寡黙な方なのになぜかぼくの方がリード役になっている。会話でもぼくが筒っ込み、彼女は返答するだけでだった。ぼくが今まで付き合った女達と比べるとぼくがリード役になるのは珍しい方だ。セックスに対してもぼくがリード役になるなど考えてもみなかった。 ぼくと彼女の年齢差から彼女が遠慮しているのかとも思った。肉体を交え親近感のある雰囲気になったこともあった。しかし、ぼくとの会話は続かなかった。付き合っている彼氏との会話は間断なく続くのだろうか。援助交際であることの後ろめたさが彼女を寡黙にさせるのだろうか。ぼくと彼女の間には肉体的には溶け合っても心理的に深い溝があった
 顔は普通だった。特にブスでなく、また美人でもなかった。髪は茶色に染めていた。伝言ダイヤルで知り合った女だった。切れ長の目をして面長な顔だちだった。細めな身体はぼくの好みだった。女独自の曲線を対話するように堪能できた。彼女にはつきあっている彼氏がいるのだった。彼氏がいるのに伝言ダイヤルで知り合った不特定多数の男と交わり、金を稼いでいた。つきあっている彼氏との遊行費に当てるのだそうだ。
 彼女が二台持っている携帯電話のうち、彼氏には内密な方の番号を教えてもらい定期的にセックスをしていた。ある日、行きつけのラブホテルに向かわなかった。海岸線に向かった。
 車窓のオプションカーテンを引いた。海岸沿いの駐車場は海水浴シーズンも終わり人がいなかった。薄暗くなりはじめる夕暮れ時だった。
 彼女はシルクに似た化繊織ブラウスを着てジーパンを履いていた。彼女はいつものホテルに行くと思っていただろう。車の中でセックスすると予知していたのだろうか。ブラジャーのホックの近くにほつれがあった。彼女はカーセックスは予知していなかったのかもしれない。下着を脱がされるのなら新品を身に付けてきただろう。
 ホテルでも行為が終わった後に自分がシャワーを浴びる時、その気になれば彼女の下着を観察することは出来た。着衣を入れた籠の下着を盗み見したことはある。使いこなされた下着の温もりを感じた。彼女はバイトの収入しかなく経済的に裕福ではないと思われた。下着はその都度新品とはいかないだろう。
 新品でない使いこなされた下着には肉体の記録があった。下着のレース状のほつれは生活感と湿っぽい肉感があった。
 車内に匂いは充満しなかった。彼女はシャワーを浴びてから外出すると、以前言っていたのを思い出した。最近の若い女性ならエチケットとして当然なのかもしれない。
 その女はなぜ喘ぎ声を出さないのかと思った。いろんなタイプの女と交わったが声を出さない女の記憶をたぐり寄せてもなかなか思い出せなかった。大小の差はあれ殆どの女は喘ぎ声が出ていたようだ。喘ぎ声が出るのは女の神秘だった。男の方は体力を使うし呼吸を乱すこともあるからうめき声に似た声はでるだろう。女は男からのし掛かられて重さから最低限声を出すかとも思う。
 しかし、彼女は全く呼吸音さえも出さないのだ。こちらが汗をかきながら行為に及んでいても全くの無反応なのだった。一度、室内を無音状態にしてセックスをしたことがあった。有線の室内音楽もテレビの音も何もかも消した。無音状態の中での交わりは不気味だった。
 不思議に思った。何気なく彼女に不感症なのかと問うた。声が出ないのは感じないからなのかと聞いた。すると彼女は困った顔をし、言葉を詰まらせた。彼女は動揺し返答に窮していた。
 自分さえ気持ち良ければいいのだし、これ以上聞くと彼女の気分を害しそうだったのでこの話題は避けた。会えなくなるのが怖かったのでぼくはそれ以上追求しなかった。 何度か彼女と交わる中で唯一見逃しそうな反応を見つけた。彼女の顔に頬擦りしながら、彼女のちょうど腰のくびれ辺りを手の平で摩るとスーハーと呼吸が荒くなった。その程度だった。それが音に関した彼女の反応の総てだった。巨大アンテナで宇宙人からのメッセージを探すようなものだった。
 ラブホテルのベットの上でなく、車の中をフルフラットのベット状にしていた。
 その後、ぼくの中指を彼女の膣内に入れると、荒い呼吸はピタリと止まった。膣内が緩くなって二本の指を入れても無音だった。ペニスを入れても呼吸音さえも聞こえなかった。
 膣は細身の身体と比例しきつめだった。愛液は出ていた。きつめの膣に挿入して圧迫感はある筈だ。しかし、その圧迫感にも反応がなかった。彼女は耐えているから声が出ないのだろうか、分からない。珍しいタイプの女だった。
 若く新陳代謝が激しいからとか、男性経験が多いからとか、体質によって愛液の分量の多寡の差異はある。しかし、総じて女の膣内の匂いは同じだと思えるようになってきた。
 分泌する女の愛液の匂いと自分のペニスの匂いと同じだった。女一般の膣内から発生する愛液の匂いと自分のペニスの亀頭部分の皮を押し広げる時に発生する恥垢の匂いは同じだった。男女間の精神構造に深い溝があっても、表面上の性器の違いはあっても、性器に共通した匂いは同じだった。
 ぼくは匂いを嗅ぐために指に付着した愛液を鼻に近づけた。その程度の潤いでは車の中には匂いは充満しないかった。彼女は車の中でも声は立てなかった。声を出さない希有な女なのだ。付き合っている彼氏以外には声を出さないようにと健気な忠誠心を現しているのだろうか、分からない。
 いつものようにコンドームはしなく膣外射精だった。彼女の腹部から自分の精液をティシューで拭った。
 ぼくの目の前のフルフラットのベットが元に戻っていた。一列目との間のスペースには簡易式のテーブルがセッティングされていた。机の上にノートが開いてあった。しかし、何も書かれていなかった。
 ふと、目を上げた。目の前には深緑の木立の木々が見えた。学習室の中にいた。テーブルの上にあるノートには何も書かれていなかった。ぼくは二人掛の学習テーブルの二列目にいた。学習室には社会人専用エリアが設けられていた。
 社会人専用学習テーブルにはさまざまな人間が来ていた。老人が暇つぶしに来ることもある。ある老人などはいつも同じ席で決まって新聞を広げていた。税理士が法律の改正点を学びに来ていた。検定試験の勉強に来ている者もいた。ぼくはただ読書の為だけに来ていた。
 その中に顔見知りがいた。ぼくと同じく読書をしに来たのだろうか。彼は他の同人誌に加入していた。上の姓は忘れた。しかし、忍と言う下の名前は印象的だったので覚えていた。噂に聞くと彼は小説を書く為に東南アジアのどこかの国に行っているのだそうだ。その彼がどうしてここにいるのだろうか。
 彼は小説を書く為に定職を持たずフリーターに甘んじていた。ある同人誌の代表がそれ程の意志がなければ小説は書けないとほめていた。それ位のことをしなくてはならないのだろうか。ぼくは会社勤めの片手間で書こうといていた。それほどに没頭するべきものが小説ごときにあるのだろうか。
 どこにいても小説は書けると思う。事実、ここの田舎の地域でも推理小説を書く若者が現れ、中央の出版社から本が出て、そこそこ売れているらしい。でも、定職は持っていない共通点はあった。高校を卒業してから大志を抱いていたらしい。小説家になる意志は強いと思った。懸賞に応募したり、出版社への売り込みだけでメジャーになり、安定した読者を掴かもうとしていた。
 目の錯覚だった。一列目にいるのは顔見知りの……忍でなかった。色白で宮崎勉と似ていた。読んでいる「ロリータ○○」と書かれたタイトルの全文を見たかった。良く見えなくて目を凝らした。目の前の斜め向かいに着座する男の読んでいる文庫本のタイトルを見ようとした。
 窓から差し込む逆光で白く眩しかった。

 暗室の中で眼底検査を受けた時のように、真っ暗な中でも眩しさで目の前が真っ白になっています。真っ白の後には真っ暗な部屋が見えます。
 暗い部屋の中に微かな明かりが見えてきます。それはディスプレィからの明かりです。目の前にパソコンがあり、マイクが置いてあるように見え、長時間マウスを触らなかったので自動的にパソコンの電源が切れたと勘違いしています。パソコンのディスプレィは電源が切たように殆ど黒ずんで見えますが、文字程度が画面に出力されています。それが、微かな明かりとして認識できています。
 パソコンに接続されたマイクに向かって今まで喋っているつもりです。
 ディスプレィの後ろの奥まったところにはスポットライトを受けたような空間があります。大きなロッカーのようなものが見えます。その横に大きなガラスのビーカーような透明な筒に誰かの脳が浮遊しています。時々、泡が立ち上がります。透明な液体に脳が浸かっています。浮かぶその脳に無数の電極のようなものが差し込まれ細い線が出ています。その脳から出た複雑な配線が束ねられ、横にある大きな縦長のロッカーのような大型コンピュータに繋がれています。
 他人、又はひょっとすると自分の摘出後の脳組織が復元されているのです。どんなに技術が進んでも冷凍保存では脳細胞を破壊してしまいます。液体は脳に栄養分を補給し活性化させるようになっています。
 それは、脳なのです。その脳の中の意識が、コンピュータを介して喋っているように書かれています。脳内で意識し、喋った端から文字となってディスプレィに表示されています。文字になって出力されています。それは更にモニターされています。
 手や足を支える胴体は無いのですが、脳内の意識から流れるイメージがあり、それを喋ることによって文字が出力されます。コンピュータだけでは膨大な設備投資が必要で、脳と連動して実験されています。
 過去の状況をイメージでなく言葉で羅列しているだけなのです。イメージを映像としてでなく言葉としてディスプレィで出力されています。予知等を映像としてでなく言葉だけで出力されています。意識していても、寝ていても脳は脳なのです。夢を見ても映像としてではなく、文字としてしか出力されていません。
 ぼくの、或いは誰かの脳の中の主人公がパソコンに接続されたマイクに向かって口述筆記しようとしています。図書館の学習室で、ノートを開こうとしている主人公である自分を思い出そうとしています。主人公が学習室から見る階下の自分の車を買い換えしたらどうなるかを予想し、ノートに書いていますが、その状況を今、パソコンのマイクに向かって喋っていることになっています。
 目の前のディスプレィを見ています。ディスプレィには、文字が羅列されています。「言葉……」言葉によってこの文字が書かれています。言葉が文字となってこうやって出力されています。さて、ぼくの言葉が文字となって出力されている状況を説明することにしましょう……と。
 さて、読者の皆様。ここまで、喋って書いていたのでしょうか。何か違うように感じています。キーボードに向かって書いていたのでしょうか。あるいは箇条書き程度のノートのメモから原稿用紙に清書しているのでしょうか。今現在、修正、加除、校正された後の文章として、読者の皆様には活字の文章として読まれているでしょう。それだけは事実です。
 多分、これはモニターされています。もし、活字になったとしてそれを訂正する者がいます。自分の意志に反し同人誌の編集長に訂正を強要されます。
 それをあなたは読んでイメージしています。ぼくのイメージを大胆に、或いは若干、補正されてあなたの頭の中へとイメージが移動しています。読みやすいように編集された文章で、ぼくのイメージは過大に歪曲され、増幅されています。
 ぼくは目の前のディスプレィを見ています。脳が生きていれば電源は切れることはないのです。ディスプレィが黒ずんでいると思い込んでいるいるのは、ぼくの意識内のことだけなのです。
 さて読者の皆様、活字になるまでの過程はとにかく、ぼくの意識が顕在化していることは、……間違いないのです。