──どうもぼくは登場人物らしい。ぼくを書いている男が別にいるらしい。──

 ある日、男は会社から休みを取っていた。
 以前は、会社の中では有給休暇が取りづらい雰囲気だった。最近は違ってきている。有給休暇の取得率が悪いと、会社のイメージが悪くなるらしかった。
 人事部の要請もあった。会社の方針で、業務に支障が出ないように、段取りや引き継ぎをして、順番に休もうということになった。休暇を取ると、その不在者の担当している仕事が、どんなものか分かるという、メリットもあった。病気や慶弔で急に休みになる者が出てもあたふたすることもなくなった。緊急時の代替者の確保にも役立った。
 数年前から段々と周りが休みを取ろうという雰囲気になり、各部署にも浸透してきた。回覧で回ってきた休暇取得日欄に、忙しくない日を選んで、自分の名前を書いた。休暇を取ろうとした日は、特別に予定がある訳ではなかった。
 休暇を取った日の朝、特に何かをやりたいとか、思い付かなかった。昼間から酒を飲むのも悪くはないと思った。多くの同僚が同時刻に殆ど働いている。昼日中から飲んでいるところを思い浮かべてみると、後ろめたい気持ちになった。男には長年の習性が染みついているらしく、働いている方が気分的に落ち着くのだった。
 なじみの飲み屋も昼間からは開いてなかった。飲むこともあるかと思って、自宅近くの駅から、電車で主要駅近くまで来た。当初の目的では、暇つぶしのために、日中は映画でも見ようと思い、繁華な街に向うつもりだった。
 どんな映画を見ようとかは決めていなかった。新聞に映画案内の欄があると思った。時間は充分あった。図書館に行けば、備え付けの新聞を、閲覧できると思った。図書館の分室が、駅の北口方向にあったのを思い出した。
 平日の昼前だからなのか、図書館には人が少なかった。地元紙を開いて、映画の案内欄を見てみた。繁華街の映画館で上映している映画のタイトルが載っていた。アーケード通りの一軒の映画館だけが新聞に載っていた。そこで上映されている映画は邦画らしかった。
 そのアーケード通りに、もう一軒あったと思っていた映画館の名は新聞の案内欄に載ってなかった。そこの映画館は潰れてしまったのかもしれないと男は思った。
 郊外にできたショッピングモールに併設されている、今流行のシネマ・コンプレックスに人が流れるようになって久しい。
 最近は男もしばらくそこのアーケード街には行ってない。この地方で、一番繁華な所にあった筈のアーケード街は、シャッター通りになっているのだろうかと、男は思った。

──男も登場人物として書かれているらしい。──

 男は図書館にしばらくいることにした。夕方頃までは時間があった。図書館の中は空調が効いているので、暖かくて快適だ。男はノートを鞄につめて家から持って来ていた。
 男の目の前に広めのテーブルがあった。図書館の読書席として利用されている。テーブルには「学習参考書などの持ち込みはご遠慮ください。図書室の資料閲覧のみに限ります」と張り紙がしてあった。
 本は男の傍らに置かれていない。男を見ると図書館内の本を読んでいる風には見えない。図書館の本を資料に、ノートに書き込みをしている様にも見えない。

──男はノートを開いてぼくのことを書いている。どうも、男は書いている側にいるらしい。──

 男の姿が図書館の職員に子細に観察されたとする。図書館の読書席のテーブルには、資料の閲覧に限ると表示してある。男はどう見てもノートだけを見て書いている。手元には資料に当たる本などを開いている様には見えない。
 読書席を読書以外に使用しているところを図書館の職員に注意されることも男は想定していて、「そうでしたか、知らなかったもので…」と言ってとぼけてみせるつもりでいた。男は注意された時のことも考えていたのだが、図書館の職員に咎められることはなかった。
 図書館の読書席に、なぜそんな表示をしてあるのかということを、男は考えてみた。学生が試験勉強用に使うと、直ぐに席が埋まってしまう。そうすると、一般の人が使えなくなる。それで、そんな表示をしているのだと、男は思った。一般の社会人は税金を払っているのだし、大目に見てもらって当然だと思った。
 男が座っている窓際の読書席から、向かって左側に、本棚の列があった。右側にはカーテンが引かれた大きな窓があった。壁面に匹敵するような、大きな窓全てを覆い隠すように、カーテンが引かれていた。
 良く見ると全部の窓が嵌め殺しになっていた。男子の平均身長の倍以上あるのでカーテンは三メートル以上の長さがあった。レース柄の白地が、日に焼けたように、ややベージュ掛かった、大きなカーテンだった。
 男はノートにずっと向かっていた。経過した時間に気づかないでいた。同じ姿勢で男はノートに向かっていた。気づくと腰の辺りに軽い痛みを覚えた。
 男は普段から軽い腰痛持ちだった。時計を見ると二時間以上が経過していた。根をつめてノートに向かっていたらしいのだ。書くことに夢中で腰の痛みに気づかないでいた。
 男は数年前から腰痛に悩まされていた。若い頃と特に変わったことをしているわけでない。何が原因なのか、分からないでいた。加齢からくるものとしか、考えられないのだった。
 固まった腰の辺りの筋肉を延ばしてやる必要がある。腰を捻ることで腰痛が少しでも悪化しないようにするためだ。腰を捻るのに適当な場所がなかった。
 四人掛けの読書席のテーブル横には窓があった。各読書席のテーブルの間には人一人が立つスペースがある。だが、カーテン越しでは外の風景が見えない。カーテンを見ていると、他人からは違和感を持って見られる。何をボーツとしているのかと変に思われだろう。
 一見、外を見ているだけに見えるかもしれない。しかし、カーテンが掛かっていて、風景が良く見えない筈なのに、一人立ったまま窓に向かっていると、不審者に間違われるかもしれない。失業者が呆然としながら明日の当てもなく外を見ている風に勘違いされるかもしれない。男は外が見えないのに、大きなカーテンの掛かった窓の方向を、見るわけにはいかないと思った。
 失業者かもしれない人が、出入り自由な図書館で、悲観しているか、あるいは、夢遊病者のように、現実を離れて遥かな世界を見ている様に映る。男はどんな施設が入っている建物か、前から知っていた。その建物の図書館の中では、宙を見つめてボーツとしないように、なるべく気をつけるようにしていた。
 同じ建物の中に若者を対象にした職業相談室がある。その職業相談室はハローワークの関連施設として、若年者向けに特化して開設されていた。ハローワークがあるとばかり思って来た人がいるとする。若年者向けの相談室だったので、がっくりしている様子に見られるかもしれない。中年の男が窓の外を、絶望した気分で見ているのではないかと、他人が思うかもしれないのだ。
 男は背広を着てネクタイを締めていた。一見、男の身なりはしっかりしているように見える。それでも、その建物の中では失業者に見えるかもしれない。昼間から図書館をうろつくなど、怪しい者だと思われるかもしれない。中年でありながら、生活に困窮し、職探しをしていて、行く宛もないので、仕方なく図書館に来ている者と思われかねない。
 その建物は男女参画をテーマ掲げた公共施設も入っている。同じ建物の施設の一角には、ハローワークとネットワークで繋がった、パソコンが設置されている。老若男女を問わず、誰でも自由に、社員募集の要項が出されている企業名を、閲覧できるようになっていた。それらの公共施設と共に、図書館が併設されていた。
 男は喉の渇きを覚えたので、飲み物の自販機を探した。自販機は建物を出た道路の向こう側にあった。外は寒かった。外套を着て、建物の外に出るのを、男は億劫に感じた。カウンセリング室を兼ねた部屋の中に、若年者の就業斡旋相談用カウンターがあった。その横に自販機が見えた。
 カウンターもあるが、小さめのテーブルと、簡単な椅子が配置されていて、ヤングジョブコーナーと、銘打っている一角もある。雑談室のような造りにしてある。
 手軽に若者が寄って、雑談ができるような雰囲気を醸しだしている。若者には、社会に縛られたくないという理由をつけて、非正規社員という、自由な職業を、自ら望んで選択をしたのだという、プライドがあるのかもしれない。若者は、ハローワークのように、相談者の現状を、初めからしつこく問われることに、抵抗感を持っているのかもしれない。
 飲み物の自販機を探すために、建物の中を少し歩き回った後だった。自販機はその相談室にしかなった。男が顔を出すとカウンセラーが一瞥をくれた。若者ではないので関係がない者だと直ぐに分かった筈だ。カウンセラーは、男の歩みの先が自販機の方向にあることを、見て取った。
 喉の渇きを癒してから、図書館内の、本棚の方向に向かった。腰痛の悪化防止のため、図書館内の本棚の本を探す振りをしながら、腰を捻った。
 屈伸運動や腰痛体操をするわけにもいかない。男にとっては、本棚の前に立って腰に手を当て、少し身体を捻ることくらいしかできないのだ。

──ぼくは先程まで図書館の読書席に座っていた。ふと、振り返って、自分の座っていた席を見た。誰かがいた。ぼくかもしれない男が座っていた。
 その男はノートのような物を前にしていた。そのノートに男は何かを書いているらしかった。ぼくはその男のノートの中を覗いてみた。そこにはメモのような文章が書かれていた。──

 今は今年の末月となる十二月なのだが、ここまでの文章は書き始めたばかりだ。この散文を書き上げるまで二カ月位は掛かるかもしれないと思っていた。しかし、文章を書き始めようとして、既に一カ月が経っているのだ。
 これで良いと納得できるまで推敲を繰り返し、修正、校正作業の時間を考えると、文章がまとまった後でも、さらに一カ月は余計に掛かるだろう。過去には四百字詰め原稿用紙にして三十枚程度の散文を実質一カ月未満で書いたこともある。
 だから、二カ月もあれば土日の休日と平日の少しの時間を加えて着想から完成までこぎ着けることはできるかもしれないと思っていた。しかし、段々と焦りが出てきた。短時間で仕上がったのは書くべきモチーフが頭の中に前からあったからだと思う。今回、テーマが思い浮かばないので困っている。
 一日に三頁は書けた時もあった。全然、書けない日々が続くこともあった。三頁と言っても四百字詰め原稿用紙のことでなく、二六文字×四八行のフォーマット紙上のことだ。二六文字×四八行×三枚=三七四四字÷四〇〇字で計算すると、四百字詰め原稿用紙で一日約十枚程度は書いたことになる。その三倍の三十枚位書くことなど、何ともないと思うかもしれない。だが、ただ書けばいいというものでもない。
 読み返してみて、適合しないなら、例え二六文字×四八行で、三枚程度書けたとしても、削除する。活用できそうな文章は殆どなくて、つまらないと思った文章なら、全部削除することもある。三枚の中で、良くて何行かが残ったらいい方だ。
 はたして、文章で残したものの中から、取捨選択するのが好きだ、と言う者がいるのだろうか。有名な芸人の映画監督は映画の編集作業が好きだと言っていた。編集するだけの撮影フィルムのストックがあるのかしれない。
 最近の技術は進歩していて、Vシネマのように、ビデオ録画機器だけでも、カメラフィルムで撮影されたような画質になるらしい。映画の内容さえ良ければ、B級シネマ程度の低予算で、鑑賞に堪えうるものが、それなりにできるらしい。
 膨大なストックされた映像があるなら、家庭用ビデオの編集作業のように、パソコン上の動画だけで、本格的な映像の編集が、簡単にできるらしい。だから、映像のストックが大量にあって、編集作業が簡単なら、楽しいと思えるのかもしれない。

──ぼくには大量と言えるような、文章のストックがあるのかと、振り返ってみた。実際には文章のストックなど無いに等しいのだった。書き始めた後、削除した文章が数える程度しかない。それに該当するのが直前の文章だ。
 以前、まともに書こうとして取り組んだのはエッセイ位のものだ。だが、それさえもまともに書き終えることができなかった。論理的に考えを纏めようとしてみたが、不完全なままの文章が残っている。
 ここでは、文章のストックがあることにしておこう。
 男は他のページを捲った。ノートの枠の中に、文字が連なっていた。そこの部分をこうやってなぞるようにして、ぼくは見ている。そうすることで、こうやって、文字として羅列され、表示されている。──


 物の発展形として貨幣への私的考察

 書くためのテーマが見つからないけれど、書いているうちに見つかる可能性はあるかもしれない。最近、思うことがある。大震災があった時とか、人が窮地に立たされた時に、先ずは何を欲するのだろう。
 自分がその立場だったら何を求めるのか考えてみた。先ず要るのは飲み水だろう。水があれば食べ物がなくてもしばらくは持つだろう。
 日本にいる限りは水道水でも我慢すれば飲める。子供の時は喉が乾いた時は水道水を良く飲んだものだ。お茶とかを飲むようになってから、水道水を飲まなくなっただけだ。飲み水にも困窮すれば、水道水がありがたいと思う筈だろう。
 水道水を飲めなくなっても、川さえあれば、水に困ることはないだろうと思う。川の水を煮沸すれば飲めないこともない。琵琶湖の水はそのまま飲めるそうだ。清流が流れていないとしても、飲める水の流れている河川は日本には至る所にある。日本にいる限りは水の心配はないかもしれない。
 次に、何が必要なのか考えてみた。何を差し置いても食べ物だろう。食物があれば急場は凌げる。
 小さい時から一日三食を食べるのが当たり前の生活をしてきた。朝食を抜く人もいるだろう。自分の場合は朝食を抜くと頭の回転が悪くなるのが自覚できる。二日酔いで食べ物が喉を通らない時もあった。そんな大酒を食らうのは年に二、三度あるかどうかというところだ。
 仮に食物が得られたとする。その次に何が必要なのだろう。衣食住は必要だが、最低限の必需品から段々と良いものに欲求はランクアップしていくのだろう。次はシャワーだけでなく、湯船に浸かりたいとか、広い個室のベットで寝たいとか言いだす。
 太古の時代に人類の祖先の生活があった。風呂に入る習慣はなかっただろうし、髪も洗わなかった筈だ。それなのに、類人猿の想像図を見ても、禿はいない。
 人間の祖先は知能が発達したので道具を使えるようになったのかもしれない。逆に、道具を使うようになって知能が発達したのかもしれない。両方が双方に作用しているのかもしれない。
 霊長類の知能を実験している場面を見たことがあるだろう。チンパンジーが棒を使ったりして、食べ物を取ろうとしている映像を、誰もが目にしているだろう。棒という道具を使う原始の知能は、チンパンジーでさえあるのだ。
 狩りや牧畜や、農産に道具を使用し、効率的に食物を手に入れられようになった。道具の活用で、より便利になり、生産性も上がっていった。道具の利用と人類の進歩は比例しているのだ。道具は人間に必要不可欠なものとなっていった。
 そして、道具を含んだ物を持つようになっていった。人類の進化と共に物を交換する媒体物として貨幣が誕生した。貨幣制度では長い間、金本位制だった。金に交換できる兌換紙幣でないと、意味がない時代があった。
 ユダヤ人は古代から流浪の民だった。どこの国に移っても、資産価値を持つ金を溜め込んだ。金は万国共通の価値を持ち、いざとなれば、生活の根底を支える物資と、交換できる媒体だ。大昔から、人は金に価値を見いだしていた。
 金は日常社会には直接的に必要ではないのかもしれない。平穏な社会では貨幣があれば人の営みは事足りる。だが、国が破綻した時、紙幣は紙切れとなる。すると、衣食住に交換できない紙幣は役に立たないのだ。その時、金は有効となる。
 金に頼るとしても、食物の供給源があることが前提となる。穀物の備蓄と共に、人口の急激な増加が始まった。
 人はその頃から物の蓄財を目的とするようになってしまった。物そのものが欲求の対象となっていった。人類が食欲以外の欲望を持つに至ったことも関連するだろう。
 そして、物が人類に便利さと、それに伴う幸福感を与えた。物がないよりあった方が格段に幸せと感じた。人間の大多数は物を求める。自分の方から敢えて、一切の物を遠ざけようとする人間は、いないに等しいのだ。
 物が全くなくて孤独なのと、物があってそう感じるのと、どちらを選ぶだろう。大多数は物があっての孤独を選ぶだろう。
 寂しい人間がいたとする。衣食住が完備しているとする。同じ条件で、物がなくて貧乏であるよりは、物的に豊富な生活を選ぶだろう。物に溢れているなら、自分の望む物を手に入れられるなら、不幸だという気持ちも少しは和らぐのではないかと思う。しかし、そんな単純な考えで豊かさを求めようとする時代は、終わりつつあるのかもしれない。
 物が貨幣に変わった。貨幣は価値と交換できる機能も持つ。貨幣よって得られただろう対象物がある。得られるものによって心を満たされるかもしれない。心を癒されるかもしれない。元気を得られるものを見つけられるかもしれない。
 貨幣があれば異性との触れ合いもできる。一抹の寂しさを忘れさせてくれる。孤独感から少しは回避できるのではないかと思う。音楽や演劇、映画も、貨幣があれば鑑賞できる。
 異性と肉体上の接触を得ようとするだけなら、金銭で解決する場合もある。求めようとする異性が街娼であっても、ホストであっても、金次第だ。一抹の寂しさを忘れさせられる。CDやネット配信からの音楽を聴くだけでも、快楽は得られるだろう。貨幣自体は何の価値もない。ニッケルや銅は大量に出回っているのであまり価値がない。
 ただ、金はコンピュータの部品に必要な稀少金属だ。それも、電子部品に加工され、基盤上で機能して、初めて役にたつ。紙幣は非常時に何にも役立たない物だろう。トイレットペーパーの代わりになる程度のものだ。
 物を媒体する機能を持つのが貨幣である。視覚的、聴覚的なものを得られるように仲介するのも貨幣である。物質でなく、人的サービスや目に見えないものを仲介するのも貨幣である。どれだけの貨幣を所持するのが適量か、感じ方には個人差があるだろう。そのため人は貯蓄し、将来の安心を得ようと励むのだ。
 皆も経験があるだろう。将来のためにと貯蓄に回しても将来的に価値が無くなる場合もある。必要な時点で有効に使うのは適度な投資時期に金を回すのと一緒だ。若い時期に語学留学を兼ねた旅をするのと、定年後リタイヤし余裕金で旅をするのとは訳が違う。高齢にならなくても、持病持ちになることもあるだろう。必要な介護を受けても、有り余る金はあったとする。それでも、単なる物見遊山の旅行さえ、行けない身体になっているかもしれないのだ。
 金融工学という言語が生まれた。数学上のロジックとレバレッジ(テコ)を組み合わせることによって何百倍の投資額が鬼っ子のように生まれた。その複雑さを隠蔽する金融商品が生まれた。同時に金融商品から派生した資金は実態経済と無関係に投資会社へ投入されていくのだ。
 自由な金融市場形成と言う名目の下で、国境を超えて投資会社のマネーパワーが、標的とする国々の債券や通貨のレートを上げ下げして、利潤を掠め取る。ゲームのようにマネーパワーが独走して行く。
 一部の人間たちによって、操作されたマネーパワーは、金融市場から国家財政の危機をあおり、経世在民をも脅かすことになるのだ。
 そのことを責める訳にはいかない。それらのシステムを造った基となるものが、人の飽くなき欲望だからだ。

──読んでみて自分、つまりぼくの書いたものらしいことが、分かってきた。その文章をボツにしようと決断した記憶が蘇ってきた。別のページに移動した。その部分にも文字が連なっていた。──

 男には長く関係が続いている歳の差のある若い女がいる。彼女は二十代後半になったところだ。この文章を書くにあたって振り返ってみた。彼女と出会ってから月日を計算してみるとちょうど十年の節目を迎える。彼女とはこの年の七月末に会ったきりだ。
 そんな彼女とは、男女間の危機は何度か乗り越えてもきた。彼女の彼氏には、一度男の存在が影のようにあるらしいことを嗅ぎつけられた。彼女は、何でもない相手だと言い逃れをして、男と二度と会わないと、彼女は彼氏に約束をした。それでも、懲りないで、彼女は男と今でも逢瀬を繰り返している。
 この前、彼女と会った時、ちょうど彼女は生理が始まった。どうしてそうなるのか分からない。彼女は生理が止まることが時々ある。彼女の生理は不定期にやってくる。男は自分と会うことで、ホルモンが正常に戻るのだと思いたかった。男は自分の存在が影響したのではないのかと思いたかった。しかし、彼女の生理がただ始まったいう事実があっただけだ。日常茶飯事の現象があっただけなのだ。
 彼女と会ってから、あまり日を置いていないと思っていたが、今の時点で結構月日が経っている。ある副都心の蕎麦屋内でのことだ。食事の最中に彼女と会話があった。
 男は「できなかったことが残念だけど」と言った。少しの挿入はあった。全く、できなかったことではなかった。彼女が痛がったので行為を止めた。そのことを彼女は気にしていたのだ。
 「なりたくてなったんじゃないんだから、そんなに責めないで」と彼女は顔を背けて言った。ぼくには顔の表情を見せなかった。どうしてそんなしぐさをしたのか分からない。
 一番の原因は不可抗力的なものだった。元々の原因は、二つの県でしか起こらなかった局地豪雨が影響したのだった。公共交通機関を利用していて、遭遇する確率が高いと思う。天候の影響で、目的地に予定通りに着かなかったりすることは、誰でも経験していることかもしれない。ことさら、大げさに言うこともないのかもしれない。
 N県は何年か振りの集中豪雨で、地方都市の中心市街地でも冠水が起こっていた。そんな中でN駅経由で会いに行った。大雨の影響で、新幹線の乗換駅の、N駅に到着する寸前で停車した。列車内で車中泊もした。
 男は、最初から異常気象が起こることを予想していなかった。想定外の出来事だった。そんなアクシデントがあるなら元々都心まで行かなかった。それこそ、一日早かったら彼女は生理になるまで一日の猶予があり、完全な性行為をなし遂げられたかもしれない。結果的にそんな労力を掛けてまで彼女と会いに行ったことになる。
 それなのに、男にとっては完全な射精まで至らなかった。男は完全な性行為を済ませられなかった。苦労してやって来た男に対して、彼女は気づかっていたのだろう。
 男は「別に責めているわけではないよ」と言った。事実、それで、これから彼女とは二度と性行為ができなくなるのではないし、前にも何度か、彼女の生理と重なる日もあった。過去にそんな状況は何度も経験していた。その時は、特に気にしてはいなかった。
 悲しげな顔の表情を読み取られないように顔を背けたのだろうか。彼女の表情は読み取れなかった。彼女は顔を隠して自身の心理の何を悟られたくなかったのだろう。何を読み取られたくなかったのだろう。

──秘め事は男女のかすがいだ。彼女がぼくに与えることのできる、唯一と言ってもいいものが肉体だ。それに、精神的な機微が加わった。ぼくは今、書いていても彼女の心理状況は分からないと思った。
 ひょっとして彼女が顔を背けながら舌をペロリと出していたかもしれないのだ。実際にぼくは見ていないので脚本を書くようにどちらかに決められない。彼女と会うのには金がいった。彼女との関係を続けるにはそれなりに金銭の余裕がいる。──

 毎回、彼女と会うのに、男はトータルして十三万円前後の費用を掛けている。都会までの往復の交通費はJRだと二万五千円程だ。飛行機だともう少し掛かる。それにホテル代が安くて二万円程度だ。中程度のクラスでは三万円以上は掛かる。更に、彼女のショッピングに付き合う時、五万円以上の出費は覚悟していなければならない。
 その他に、彼女には援助交際をしていた時からきっちり三万円を渡している。出会った時からそうだった。生理で性行為ができなくても、彼女に一定額を渡した。
 会ってくれたことの対価として男は一定額を渡していた。習慣化してしまい、彼女に金銭を渡さなかったことは一度もなかった。男は金があるところを見せつけたいというような、見栄っ張りではなかった。ケチな男なのだが、良く続いている。
 彼女には、ショッピングでの支出もあるのだから、それ以上の金品を渡すこともないと、男は思ってみたこともある。だが、男にとっては、それまでの習慣が途絶えることで、何かのリスクが発生するかもしれないと、心配なのだ。金の切れ目が縁の切れ目ということもある。何かの切っ掛けで彼女が去って行くことが怖かったのだ。
 男は、彼女の物欲を満たすこと位でしか、愛情表現を示せないでいる。そんな形でしか、愛情の表現を表せないのは、歪曲した行動かもしれない。男は、そんな方法でしか、彼女に与えるということが、できないでいるのだ。

──ぼくが思春期の頃、夢見ていたことがある。物置部屋をオーディオルームに改築して、良い音楽を聴くことだった。結果として、元の物置部屋のままではオーディオルームにならなかった。──

 男は彼女に払った年間分の金額を家電品に換算すると多額の物が買えるだろうと考えたこともあった。ここ数カ月は、彼女と会う機会に恵まれなかった。すると、物品を買う回数が増えた。家の物置部屋には、買った時の梱包用段ボールが溜まっていく。
 ハードディスクコンポを買った。ディスクトップパソコンを二台も買った。更に、デジタルテレビをサラウンドシステムにするのに、追加してオーディオ装置を買い増していった。
 段ボールは溜まるばかりだ。段ボールの空箱ばかりだ。男は物持ちがいい。二十年前から取ってある段ボールもある。転売する時に、段ボールがあると便利だと思って、保管していたのだ。
 買った後、段ボールに入っていたオーディオ装置類の本体は、廃品回収業者に出したり、オーディオの買い取り専門店に、段ボール箱なしで売却して、もう無い。
 今年はエスカレートして電化製品を買い揃えることになった。家電量販店とネット販売業者との価格を比較した。全ネット販売業者の価格調査をするホームページがあった。価格の比較後は、必然的にネット業者で買うことになった。
 宅配便業者が送ってきた段ボールがどんどん溜まっていった。青春時代に夢見た物置部屋をオーディオルームに改造する夢は霧散した状態だ。替わりに段ボールが溜まっていくだけだ。
 男は彼女とセックスをして、金銭を使う代わりに、主にオーディオ装置を次々に買い揃えた。彼女と会ったとしても快楽は残らないだろう。残らないものだから、求め続けるのかもれない。物でしかないオーディオ装置から流れる音楽で、快楽に浸れる瞬間がある。そして、物品として残っていく。
 男は思い出はどうなのだろうと考えてみる。仮に彼女の思い出がイメージとして残ったとしよう。一緒に過ごした時間は覚えている。どこに行ったかもそれなりに覚えている。それがどうなるものでもないことを男は認識している。
 男は彼女の肌の感触は、感覚的に再現できないものだと思ってもいる。過去のこととして消えている。刹那的で、将来のない、虚しい思い出に変わっている。男は多額の金銭を掛けたのだが、寂しさだけが募っている。

──ぼくは図書館内の本棚を見た。「ジャズ」と言うタイトルの本だった。その本を手に取ってみた。音楽と関係するタイトルだが、一ページ目の冒頭に格言のような文面が綴られていた。難解な文面だった。音楽と関係のない文面に思われる。著者の意図した文章なのだろうか、良く分からない。
 冒頭の格言のような文章は、音楽のように感覚的なものでなく、理知的なものだった。どう「ジャズ」と関係するのだろうと考えた。パラパラと本を捲るとその本は小説だった。巻末を見てみた。
 トニ・モリソン。アメリカの黒人女流作家で九三年にノーベル文学賞を受賞したとある。たまたま偶然、本棚に陳列されている本を抜いただけだが、そんな作家がいるとは知らなかった。
 黒人でしかも女流作家だ。しかもノーベル文学賞を受賞している作家だった。知らなかった。その本を読むべきだろうか。そのままにしておくべきか瞬間的に迷った。
 これまでのように、ぼくは敢えて知ろうとしないで、放置しておくのだろうか。その本を読むことで、ひょっとして、未知の世界に踏み出せるかもしれないのにだ。
 それを読むかどうかは、自分なりの課題としておくのだろうか。今回もぼくは課題を留め置きにしておくのだろうか。
 そんな留め置きのままのものが、自分の中に多くある。決断は先延ばしにしてしまうのだ。ぼくは考えてみた。そのままにしてしまうと、人生がそのまま留め置きされて、終えてしまうかもしれないと思った。
 数日で、いや、今日中に結論を出そう。映画を見ないで、腰痛に耐えながらでも、その本を読むべきか、あるいは、図書館で借りて、自宅に持ち帰るかしよう。決断は今日中に下すのだ。
 一旦、手に持った本を棚に返した。すると、手の甲が見えなかった。自分の手が消えていた。ぼくは意識の塊となって宙に浮かんでいるのだろうか。
 男として登場していたぼくは、先程まで図書館の読書席に座って、ノートらしき物に向かっていた。ふと、自分の座っていた席を見た。ぼくかもしれない男も消えていた。──