目の前は真っ白だ。
 単に視覚的に目の前が真っ白なのだ。何もないことをイメージしてみる。いや、少し待とう。いきなりそんな状況を読み手に与えてしまうのは無理があるかもしれない。
 何も描いていない白いキャンバスが目の前にあったとする。現実と非現実の融合面みたいな、映画館のスクリーンのような、大きいサイズにしたいところだが、読み手がイメージしやすいように、取り敢えず、小型のキャンバスに似た、白紙が目の前にあるような、イメージに変えてみる。
 白紙ではなくノートにしよう。ここまでは決まった。目先にあるノートに文字を書くことにする。今現在、A4サイズの白紙のノートに文字が書き込まれていることにする。
 最終的にパソコンのワープロソフト内に文字を書く。ここまでの部分は下書きとして書いてあったのかもしれない。しかし、そのことは読み手には分からないことだ。事実はどうかということは触れないでおこう。当初から、白紙のノートに文字を書き、空白を埋める作業を始めていたことにする。
 後でパソコン内のワープロソフトを立ち上げたことにしよう。何も書かないと、画面は白い。白いノートの空白と似ている。冒頭に書いたようなイメージと同じなのだ。何もない白い部分に文字を連ねるのだ。
 ここまでは、文字によって白い空白を埋めていることになっている。だが、現象的な単なる目の前のことを書いているに過ぎない。
 仮定上のことだから、書き手が今、シャープペンシルを持っているか、キーボードを叩いているかの、どちらでも良かったのだ。あるいは、ノートに走り書きをして、そのメモを見ながら同時進行的にキーボードを叩いているかもしれない。そのうちのどちらかだ。
 目を閉じてみる。目の前は白い空間に近い。
 一つ目の部屋を描写して、中に入ることにする。時間の経過があったことにして、廊下から一番端の方にドアを描く。木目の合板を張ったドアだった。取っ手を回すと、軽くドアが開いた。今程、部屋の中に入った。
 一つ目の部屋の内部を今から書いてみる。窓は無い。窓がなく、照明器具も無いのに部屋は明るい。最新技術が投入さた部屋で、壁が光るようになっているのかもかもしれない。
 取調室みたいに閉塞感がある。心理的に圧迫感がある。窓が無い部屋は勘弁してほしい。窓を造ることにする。外の風景を見ることのできる、ごく普通のアルミサッシに透明ガラスがはめ込まれている方がいい。
 外は深夜なのかもしれない。漆黒の闇だ。壁にアルミサッシが取り付けられていているが、ひょっとして、窓にはめ込まれたガラスの外側に、黒紙が張り付けているだけかもしれない。
 光が全然なくて、何にも見えなくては、何か大きな物の中に閉じ込められいる可能性がある。大きな建造物の中の、例えば耐震試験用の家屋のような中に、入れられている可能性があるからだ。不安だから窓を開けてみる。窓は開いた。湿っぽい空気が流れ込んできた。遠くに明かりが見えることにする。
 窓の外の遠くの明かりは、丘の上にある街灯かもしれない。あるいは、高い位置の点滅に見えるので、高圧線鉄塔の上部から発せられている光のようにも見える。
 外に逃げられることのできる部屋であることが大事なのだ。それは、心理的なものなのだ。閉所恐怖症ではないが、誰も居なく、物音一つしない場所だと、不安になってくる。
 窓から下にある部分は暗くて良く判別できない。建物の二階部分かもしれない。大した高さでなければ飛び下りればいいのだ。
 不安な気持ちを担保するために屋根が見えることにする。そして、屋根から飛び移れる直径三五センチ程の木が立っていることにするのだ。
 高さは問題ではないのだと思う。超高層ホテルの最上階の部屋に泊まったことがある。それでも、不安はなかった。閉じ込められていないという確証がほしいのだ。
 ああ、そうだった。二階にある部屋として書かなければ問題はないのだった。一階部分にある部屋にしておこう。この部屋に居る書き手が文字を綴ると、情景が描かれるのだ。書き方が不充分でも読み手の想像力にまかせてもいいかもしれない。
 読者にハッキリしていないことが未だある。今、書かれている状況だ。机と椅子がある。やや、広めの机の上には筆記用具とA4サイズのノートと液晶タイプの大型モニターとキーボードがある。机の下には四角い形のパソコン本体が置かれていることにする。
 さて、ここは書き手のいる部屋であると同時に、頭の中の想像上の部屋でもある。別の部屋も創ることはできる。それは、書き手の頭の中の、進展次第で可能なことだ。
 だが、勝手気ままに書くと見境がつかなくなる。ある程度の節度が必要だろう。頭の中での区切りをつけなければならない。書き手が何を書いているのか分からなくなってはいけない。書き手自身もそうだが、読者も混乱するからだ。だから、これ以上部屋を創らないうようにしよう。
 一つ目の部屋はこれを書いている所にしておこう。さて、二つ目の部屋をどうするかが問題だ。二つ目の部屋に移動するつもりだ。二つ目の部屋に入ってから、どうするか考えてみてもいい。一つ目の部屋は、単純に書くだけの場所にしたい。その部屋に書き手である作者が存在していることが必要なのだ。
 最初の一行を書いてからだいぶ日にちが経っている。三カ月程経過している。事実は書き手にしか分からないことだ。書いたとしても、確認の取れないことでもある。空白の期間はここでは関係のないことなので述べないことにする。そんなことは何でもないことだ。
 一つ目の部屋がこれを書いている部屋。二つ目は何を書くか決めるために試行錯誤をする部屋にしてみようかと考えていた。しかし、それは止めた。紙面の無駄だ。二つ目の部屋から、場面が展開することにしてみる。
 一つ目の部屋でこれを書いている。二つ目の部屋は、いきなり荒唐無稽なものに出来ないだろう。二つ目の部屋で書かれるものは身辺の出来事に近いことから入った方が無難だと思う。今まで一番多く登場してきた女が出てくる。その女との会話から始める。
 二つ目の部屋ではシミュレーション的な状況を書いてみようと思う。今の時点では仮定上の話になる予定だ。駄目だったら、書いたものを元に戻すように、部屋を出て、何もなかったことにすればいいのだ。
 では、二つ目の部屋に入ろう。
 ドアを開けた。狭く薄暗い通路があった。先ずは左手に歩いた。壁があり、段ボールが積まれていて、行き止まりになっていた。仕方がないので元来た方向に戻り、ドアから右の方に行った。
 行き止まりになり壁があった。しかし、左手に空間があった。迷路のようだ。人の声が聞こえてきた。声がする方に進路をとった。厨房が見えた。スープの香りが漂っていた。若い男達が店名入りの黒いTシャツと白い前掛けをしている。どこかの飲食店に入ったことになる。
 どこかの飲食店かもしれない。周りに人々がいたかどうか一瞬判断がつかなかった。気がつくと、多くの人がいた。急に音量のスイッチが入ったみたいに周囲がざわついてきた。
 空席がポッンと一つあった。空席のあるテーブルに若い女がいた。女は前を見たままだった。テーブルには中身が半分程残った飲みかけのビールグラスが二つ並んでいた。近づいて女の隣の空席に座った。女はこちらを見た。柔和な眼差しだった。何度も見たことのある女だ。すると前から親しい女ということになる。前から知っている女らしい。それなら、ここからは「彼女」と読んでいいのだろう。
 前回会ってからだいぶ日時が経過していることになるだろう。メニュー表に店名が見えた。都会ならどこでもある名の知れた軽食レストランチェーン店だった。そのレストランでは食事とアルコール類を出している。
 田舎ではつまみや酒の種類を数多く表示したメニュー表を置いてある店をあまり見かけない。主として車を移動手段にする地域では、運転手は飲酒を慎まなければならない。
 都会では軽食も食べられるが、時間待ちに軽くビールやワインを引っ掛けて時間待ちする店がどこにでもある。たぶん、人との待ち合わせや時間潰しで立ち寄る人も多いと思う。小腹のすいている者はアルコール類とつまみを注文して時間を潰すこともあるだろう。
 ビールやワインも日本や外国産のを問わず主な銘柄は一通り置いてある。つまみの種類も多い。洋食系のメニューが一揃いある。コーヒーだけで時間潰しをする者や軽くスパゲティやピラフだけで食事を済ませたい者にもそんな店は重宝する。都市部にチェーン展開するレストランだったし、全店共通のメニュー表だった。
 特別に喋りたいという状態でなかった。直前まで上手く喋っていただろうか。直前まで進行していただろう会話の内容が思い出せない。
 それでも、何かを言わなくてはならない。どうして、疲労感があるのだろう。疲労の原因を思い出そうとしてみた。疲れの原因はセックスだろうか。今までだったら、前の晩にセックスを済ませている。そして、直前までいつものように彼女のショッピングに付き合わされていたのだろうか。疲れの原因は、いろんなことの相乗作用かもしれない。なかなか思い出せないことでもあった。
 ニュートラルな感じで彼女の方から話し掛けてきたと表現すべきだろうか。彼女と距離を感じることはなかった。直前に会話があったらしい。
 段々と直前の出来事が思い出されてくることにした。二人は歩き疲れていた。フレンチ・レストランの予約時間まで彼女とその軽食レストランで時間待ちをしていたらしい。休日の繁華街はどこの飲食店も人で溢れていただろう。その店では、かろうじて空いている席に、二人は座れたのかもしれない。
 二人は時間待ちをしているらしい。時間潰しにその店に入っている。休日ともなると人出が多くなる表通り沿いの、道路を挟んで逆方向に、今から行こうとしている、フレンチ・レストランがあった。
 以前、彼女とそのフレンチ・レストランに行ったことがある。その店はいつも満席状態だった。予約が取れたとしても時間待ちをするか、カウンター席の末席になる場合が多い。店内はカジュアル形式になっていた。店内はファミリーレストランのような席の配置になっていた。リーズナブルな値段の割に本格的な味が売りのフレンチ・レストランだった。
 何かの拍子で言葉が出た。自分で意図的に喋ろうとしていた訳ではない。偶然のようにタイミング良く言葉が出てきた。後でフレンチ・レストランに行って、楽しく喋るような内容ではないのだろう。雑然としたそのレストラン内の何気ない会話には適しているようにも思える。
 「半年も会えなかったね。その間でもLのことは一日も忘れていなかったよ」 と意識しないまま、時候の挨拶のように自然に口から出た。
 「そうなの? その間、あなたは何をしていたの?」
−ぼくはこの文章を書きながら、寂しさを紛らわせていたんだよ−と言う言葉が出てきそうになった。
 店内の配置は壁側を背もたれにしたソファーベンチと二人用テーブルとは別にカウンター席が用意されていた。たまたま、座った所は三角形のテーブルだった。店内のスペースを最大限利用していて、角に設置されたテーブルだった。席の配置から、互いの顔を真っ直ぐに付き合わせるというのではなかった。
 互いが横顔を見るというような方向に二人が座っていた。互いの目を見ないで都合の良い時と悪い時がある。その時は都合が良かった。直前までの自分の行動を詳しく知らないでいる。そのことを、見透かされるようで、気分が落ち着かなかったからだ。
 実際のところ、何を話したか覚えがない。記憶にないところをみると大したことは言っていなかったと思う。彼女は明るい表情ではなかった。何か考えているようにも見えるので、直前の話の内容に彼女が何か反応していたのだろうか。
 今回、会えたのなら、昨晩二人は情事を行ったのだろう。今朝、彼女が寝ている間、ホテルに部屋に備え付けのテレビを点けたことにしよう。
 朝の九時からラジオでも同時放送しているNHKの「日曜討論」がテレビでも生放送で中継されていた。詰まらないことを言っているな、当事者でないから無責任なことを言えるのだな、と思いながら聞いていた。「日曜討論」を聴きながら新聞を読んでいた。
 チャンネルを替えた。ちょうど、アニメ番組が始まっていた。子供向けの番組ではないかと思った。新聞を読むのに集中したかったので、チャンネルをそのままにしておいた。アニメ番組のテレビ音声だけだと気にならなくなった。
 新聞の載った卓上テーブルから顔を上げて斜めの方向に目をやった。彼女はダブルベットから素っ裸の上半身を起こし、布団を被ったまま、テレビを見ていた。テレビの音に反応したのか、彼女は目覚めてたらしい。
 今までになく真剣にテレビに視線を向けていた。彼女の顔を見た。微動だにしないでテレビ画面に見入られていた。いつも彼女は生意気なことを言っている。時に相手を論破する論理的思考のできる女だった。今まで、彼女の本当の姿を見ていなかったのかしれない。同居している訳でないから生活の細部を想像できなかったことになる。
 彼女は以前、「攻略できないんだよね」と独り言を言ったことを思い出した。何かのゲームの呼び名を言っていたらしい。大人だけれど、子供のような一面もある。意外に感じた。
 その場面がフラッシュバックしてきた。その場面を思い出そうとした。それは今朝のことだったのだろうか、あるいはずっと前のことだったのだろうか、定かではない。
 そのアニメはテレビゲームと関係あるみたいだ。アニメが先に登場していたのかもしれない。又は、ゲームが流行ったのでアニメ番組が後で創られたのかのどちらかだ。
 ゲームと関係しているからそのアニメ番組を真剣に見ていたのだろう。そこで、「ゲーム」という単語で思い付いたのだ。今の場面を書いていて、この文章自体をシミュレーションゲーム形式にしてみようと思い立ったのだ。
 「半年振りだなんて、会わない期間としては長すぎると思わない?」 と書き手は言った。
 「そうだね。いろんなことが重なってしまって、ハッキリ会えるという返事ができないままになってしまったの、ごめん」 と彼女は言った。
 「会えなくても、何とか我慢できた。Lを思ってマスターベーションをしていた。時には裏DVDを見てマスターベーションしていた」と言ったかもしれないが、それは嘘かもしれなかった。
 この文章が印刷され公に出るまでに、ひょっとしてソープランドに行ってくるかもしれない。いや、実際には行っていた。でも、ここでは行っていないことにしている。
「歳がいって、性欲は乏しくなった。半年も性行為をしないで良く持ったものだよ。仕事に集中している時やスポーツで身体を動かしているうちは未だ何とか気分転換しているのだけどね。ただ、セックスをしないと男でなくなるような気がするんだ」
「男って、そういうものなの。あたしはその気になれば、セックスなんてずっとしなくても平気よ。オナニーなんて生まれてこのかたしたことはないわ。十代の頃からセックスそのものに興味がないのかもしれないけど」
「その割りには男性経験が豊富だと思うけど」
 「何よ」と彼女は、膨れっ面をつくって、そっぽを向いた。以前、時々見たことのある表情だ。それなら、一応謝らなければならないだろう。
「ごめん、人のことは言えない。こちらの方も女性経験が少ない方でない。それでも、性的な経験を積んだのは中年になってのことだよ。若い頃は奥手だった。うぶで田舎者だった。女との付き合い方も知らなかった。十代、二十代の頃は女を知らないに等しかった」
「だから?」
「Lとは正反対かもしれない。肉体的な意味に限定しないなら、女を知ったと思ったのは、三十代でも四十代でもない。五十代かもしれない」
「何を言いたいの」
「女を知ったのはLの存在があったからだと思う。それまでは単に女と言えば性欲の捌け口でしかなかった。ただ、寂しさは歳を重ねるごとに増していくものなんだ。独身であるから尚更だった。お金は自由に使えた。援助交際をして、女の身体の違いを知った程度だよ。相手の女性の心理まで考えたことはなかった。こっちは女性相手に気遣いは全くしていない方なのかもしれない。マイペース振りに毎回呆れながらも、付き合ってくれているLには感謝している」
「やっと、それが分かったの」
「そうそう、思い出したけど、Lは中学生の頃から彼氏がいたらしいね。男を知っているということは、異性の魅力も知ったし、失望も経験したということだと思う」
「何か関係があるの?」
「異性である相手が何を考えているのか分からなかった。Lの様にハッキリと自分の意志で喋っているのを聞いて、やっと相手が何を今考えているのか分かったのかもしれない。勿論、個人差はあると思う。女の心理は今でも分からない。Lが考えていることも時々分からなくなる。ただ、Lのことは一個人の女として観察できた。そのことだけがメリットだったかもしれない」
「それって、あたしと会えたことを肯定しているの否定しているの?」
「さあ、分からない。ところで、仕事の方は順調?」
「まあ、忙しいだけね。三年勤めたら正社員になれるのだけど、今の職場は残業が多くてオーバーワーク気味だから、派遣会社と再契約しないつもりだよ」
「Lの仕事は生活を維持するための手段に過ぎないし、理想の職種とは言えないかもしれない。けれど、それでも、職場という最小単位のコミュニケーションが確保されている。住む所と職場があり、二つの場所での自分の位置が確認できる。派遣社員だから、自分の替えはどれだけでもいるという気持ちでいるし、社会的に有意義な仕事をしているのだという自負心もないのかもしれない。時給単価の低い労働条件の中で、過剰な時間外労働に及んでいるのかもしれない。それでも、生活の糧というよりは、より豊かな生活を求めているんじゃないかな。格安海外ツアーかもしれないけど、南国リゾート地を中心に一年に二、三回は海外旅行している。今は若いから長時間労働をしても未だ体力的に耐えられる。それに、楽しみとしての海外リゾート地への旅行をするという目的で働ける。それなりに充実しているし、寂しいことはないのかもしれない。それに比べて、こっちはどうなんだろう。仕事はルーチンワークみたいな作業的なものもある。農民が畑を耕しているみたいなもんだよ。労働は快楽ではないが、身体を動かしている限りは寂しさを軽減させてくれる。ミスや応急的な問題点が出てくると否応なしに集中力を発揮しなければならなくなる。Lのいない寂しさを感じている暇がなくなる。Lのことを忘れていられる時間が確保できるんだ。そのことは悪いことではないと思う」
 −Lはいいよ。彼氏と一緒に住んでいるという意識があれば寂しいこともない。都会にいても疎外感はないと思う。−と言ったらどう思うだろう。嫉妬交じりの言動だと思われるのが嫌だったので止めた。
 彼女は過去にこんなことを言ったことがある。彼女の彼氏に対してだ。彼女が未だ二十歳前頃のことだ。
 「もし、浮気したら、あたしもそれと一緒のことをする」 と言ってたことを思い出した。そんな言動を発することによって、彼氏の浮気を防止するためだったのだろう。その前から彼女は援助交際を行っていた。L自身のことを棚に上げて、良くそんなことが言えるなと思った。
 彼女は彼氏に書き手である作者との密会がばれたことがあった。それでも、彼氏は離れていかなかった。そして、今でも凝りもしないで時々作者と密会している。
 単に性風俗のたぐいであるソープランドに行ったっていいのだ。一々報告することもないし、行ったとしても何の後ろめたさはない筈だ。彼女にソープランドに行ったと言わなければいいんだ。そんなこと位はどうでもいいことなのだとも思う。
 だが、ソープランドで行うセックスは味気ない。彼女とのセックスと比べると気持ちがいいとは思えないのだ。格段の差がある。ただ、彼女とは連絡がつかない時は寂しさが倍加する。そんな時はどんな女とでもいいから側にいて話を交わしたいと思ってしまう。
 他の女と交わると、呪縛から開放されると同時に、彼女の存在が消えてしまうような気がした。だから、どうしても他の女とセックスをする気になれなかった。
 援助交際の相手にしても、当たり外れはもちろんある。下手な鉄砲も数打てば当たる。彼女が、宝くじに当たったような相手だったのだ。彼女の魔力的な呪縛から開放されないまま現在に至っているのだ。
 彼女と出会ってから十年になる。良く持ったものだ。しかも、今でも未だ未練がましく彼女の暮らしている都会まで追い掛けている。彼女に執着し、現状維持を図ろうとしている。援助交際から、始まったのに過ぎないのに、彼女を失うことを怖がっているのだ。
 彼女には同棲期間も長くなり互いの両親も認め合っている事実婚に近い彼氏がいる。彼氏の子どもを産むのが先か、結婚が先かのどちらかだ。
 そうしたら、彼女と会えなくなる。どうしたらいいのだろう。心配になる。今では一年に二度、三度会えればいい方だ。なかなか彼女とは会えない。会えない寂しさに耐えながらも、再会を望んでいたことになる。一縷の望みは将来も快楽の対象として彼女との関係が継続していることだった。
 そのうち彼女と連絡が取れなくなるかもしれない。そんな懸念はある。「亡くなったら墓参りに行ってあげる」と作者の実家の電話番号を聞き取ってメモしていた。真剣なしぐさだった。会えなくなることも想定して、先のことも考えているのだろうか、Lの考えていることは分からない。
 それに似た外交辞令的な言葉を何度か聞いた。しかし、人生を通じてどこまで関わり合いを持つ覚悟があるのか、本心がどんなものか知りたい気分だった。
 今回、彼女の反応を見るために意を決して聞いてみることにした。
 「誰か他に付き合ってくれそうな女の人を探していいかな? 最初は茶飲み友達から始まって食事を伴にする程度の付き合いでいいのだけど」 反応を見てみたが顔の表情に特に変化はない。
 「頑張って、探したら」 彼女はそっけなく言う。力が抜けてきた。
「相手にしてくれると思う? 自分のこと考えてみたら」「知り合いで六〇歳の人を知っている。最近、その年齢で子供をつくったんだよ。相手は三十代の女性で、再婚だったらしいけど」
 「じゃ、頑張ったら」 と少し呆れたようでもあり、軽蔑した感じもある。含みのある喋り方だった。これ以上、彼女の反応を見てもしょうがない。
 独白しても何の支障はないのだろう。
「じゃ、これからこんな風になったらいいなという非現実的な作り話へとなっていくんだ。勤め先の職場に人材派遣会社から派遣された女性社員がいるんだ。その人が少し気になっているんだ。その人は一日中目一杯に働きづめではないとは思うけれど、一度に大量の伝票処理をしなければならないこともある。適度な量の時はいいが、集中した場合は楽でもない仕事だと思う。五時過ぎには帰っていくので家族を持っている女性なら至極当然な時間帯での退社となる。未だ三十代に見える。朝の九時から午後の五時までのフルタイムで働いているとはいえ、どうして時給の安い派遣社員でいるのだろう。やっぱり既婚者だろうか。時々、勤務時間が長くなる正社員が嫌だったのだろうか。それとも、責任の重くなる仕事を避けたかっただろうか。分からない。別の派遣社員を知っている。その人も同じく、系列会社からの派遣社員だった。近くの部署だったので、独身だということは周囲の情報で知っていた。なぜ、独身でいるのだろう。その女の子とつるんで週末などは同行しているのを見た。食事に行くのかもしれなかった。実際はどうか知らないが二人は酒を飲みに行くようなタイプに見えない。二人は生真面目そうな女友達同士に見えた。片方は独身だが、二人とも独身とは限らない。二人とも独身だという確証は取れていない。二人とも独身かもしれないと、何となく感みたいなものでしか察知できなかった。ただ、機会があったとしたら、物書きの端くれとして、話を交わすだけで、だいたいその人の生活状況は判断できるだろう。『独身ですか』などとセクハラになるような言動を発しなくても、それとなく、家族構成を間接的に聞けば分かるものだ。今どき、花嫁修行のために会社を辞める女性は皆無に近いと思う。話は変わるけれど、いつも行っている親睦のテニスクラブにたまたま同じ職場で階が違う部署にいる派遣のパート社員がいる。バツイチで子持ちらしい。今は独身だが同棲している相手がいる。相手は隣町の前から知っている男だった。テニスの練習試合で一緒にプレーしたことが何度もある。そいつはいつの間にか離婚していたらしい。その女性パート社員は同じビル内にいるが階と部署が違っていた。顔を見たかもしれないという程度で、街中ですれ違っても同じビルにいる社員だと思わないでいただろう。その女性が同じ職場にいるパート社員だと気づかないでいた。しかも、隣町の男と同棲していること、その男のパートナーが、同じ職場にいるパート社員の女性だと言うことが、後で分かった。テニスクラブに男がそのパートナーを連れてきて同じ職場で働く女性だということが分かった。たぶん、二人はテニスを通じて知り合ったのだろう。同棲しているのが分かったのは親睦のテニスクラブの他のメンバーから聞いたからだ。そんな例もあると言うことだ。ここから話を戻そう。気になっているその女性社員はどんな事情で派遣社員のままでいるのか聞いてみないと分からない。そこで、聞けるような状況になるんだ。その日は早帰りに制定されていた。通常、正社員は定時に退社することはない。若干のサービス残業はつきものだ。どんなに早くても工場勤務者みたいにタイムカードを押して帰るような訳にはいかない。時間外に及ばないとしても、六時頃に帰るのが普通だ。その女性は特別なことがない限り五時には退社する。その女性と帰る時間帯が一緒になることはない。その女性はやや面長だった。特別な美人でない。女性の平均身長より高い、一メートル六十センチほどの身長があるかもしれない。彼女は車で通っているのではないらしい。朝方、会社の入り口前の交通量の多い道路を横断する姿を見た。駅の方からだった。時々、見かけても同じ方向から来る。駅の方からだと電車で通勤しているのかもしれない。近所から歩いて通勤しているのではないみたいだった。両親と同居しているのかは分からない。もしかして、既婚者で、早く退社しているのかもしれない。何度も言うがこれは分からない。だから、聞いてみたいんだ。独身だということの確認をするのに話し掛けるんだ。Lは『人妻でも誘ったら』と言った。それは茶飲み友達程度のことを言っているのか、肉体関係に及んでもいいことも想定して言ってるのだろうか。人妻にアタックしてもいいのだけど、Lはこっちのことを内向的で行動的でない者だと決めつけていて、人妻になんて絶対に手が出せないと思って発した言葉なのだろうか。良く、分からない。独身者を相手にしてはいけないのかな。彼氏のいるLに何か制限できる権限はあるのかな。Lは密会相手も独占状態におきたいのではないのかと勘繰りたくなるんだ。Lの心理は分からない。さて、また話を戻そう。こちらが働いている部署は時間外労働はないことになっている。それでも、五時ちょうどに退社することは殆どない。その日は、朝礼で早帰り日だと公表された。早く退社しようと念押しされた。たまたま、その日は段取りが上手くいった。五時退社が出来た。そこで、五時を過ぎて会社の外に出た。その時、その派遣社員である彼女と遭遇した。彼女の名前は知っていた。彼女はたまに各部署に書面を持参する。顔は互いに知っている。『いつも、この時間に帰られるのですか? Oさんでしたね?』彼女の名前は書面に押印してある係印を見て知っていた。以前、コピーでいい筈の書面を原本で持って来たことがあった。とっさに気づいて−Oさんってどなたですか。すると彼女は−私ですけど−と返事をした。−これは原本ですね−と言うと−ああ、そうだ。−と答え、間違いに気づいた。それで、名前は知っている。名前を知っていることで不信感を持たれることはない。Oさんであることは覚えていた。『どちらに行かれるのですか?』『そこの店に寄っていきます』顔を向けた方向にドラッグストアーがあった。ぼくは従業員専用駐車場に行くのにいつもそこのドラッグストアーの広い駐車場を近道として横切って行く。彼女に声を掛けたのはそこの駐車場の一角だった。『この方向ですか、駅の方向に向かっているを見たことがありますけど、駅の方に行くのかと思っていました』とそこまでは聞けた。しかし、どこの駅で降りるのかとか、どうしてうちの関連会社の派遣会社に登録したのかとか、そこまでの経緯は聞けなかった」
 一方的に喋り続けていて気づかなかった。彼女は横にいた筈だ。彼女はトイレに行ったのだろうか。横にいた筈の彼女はいなかった。
 どれだけ待っても彼女は戻って来なかった。意識して周囲を見回してみた。なぜか回りの人達も誰一人としていなくなっていた。そんな設定にした筈はない。
 Lの姿が見えない。ということは、レストランから出て行ったのだろうか。すると、彼女はここにいない可能性が大だ。彼女はここから出てしまったらしい。いや、状況自体がリセットされた可能性がある。それではここにいる意味はない。ここを出て元の廊下に出てからまたこの場所に戻ったら、場面も同じくリスタートできるかもしれない。それとも、リセットされたままかもしれない。それでも、やり直しは利くのかどうかは、戻ってからでないと分からないのだ。
 取り敢えず、ここの場所から立ち去ろうと思った。厨房の方に歩いた。厨房には誰もいなかった。スープの香りが未だ残っていた。厨房脇の狭い通路の奥は暗かった。非常口らしき表示もなかった。
 厨房の奥の壁に段ボールがあった。段ボールをどけようとした。食品会社名が印刷された段ボールは重くてびくともしなかった。良く見ると段ボールの後ろは煤けた壁だった。
 右手に通路のようなものはなくなっていた。元に戻れなくなったらどうなるのだろう。元のレストランに戻って、通路がないのか探してみよう。
 通路らしきものはなかった。ただ、厨房の近くに白い陶器の手洗いが見えた。そちら側に見過ごしたらしいドアがあった。ドアの側に手洗いとペーパータオルの容器が置いてあったので、そのドアは男女兼用のトイレらしかった。ドアらしいのものはそこしかなかった。再度、見回すと、レストランの出入り口も見当たらなかった。彼女はどこに消えたのだろう。
 ひょっとしてと思ってトイレの取っ手を回してドアを開いた。
 トイレではなかった。廊下でもなかった。部屋になっていた。ドアの内側に入ると一つ目の部屋に近いことが分かった。部屋は明るかった。パソコンのモニターがあった。覗いてみた。画面には、文字が連なっていた。モニターの左隅にはこう書いてあった。
 −目の前は真っ白だ。
 単に視覚的に目の前が真っ白なのだ。何もないことをイメージしてみる。……−
 当初と違う部屋になってしまっている。一つ目の部屋なのだろうか、定かではない。その部屋を出ようかとも思う。廊下をなくすつもりはなかった。それでも、廊下は消えたことになっている。ただ、状況の変化があることになったとしても、二つ目の部屋に戻りたい気持ちはあった。
 彼女と一緒にいたのは自分の分身とも言える書き手だった筈だ。もし、変えられるものなら、彼女が十歳年取っていて書き手が十歳若かったら、という設定にしてみたかった。いや、互いの年齢が五歳ずつ近づく形でもいい。そこの世界でやり直しが利くのかもしれないからだ。
 Lでもいい。五時で帰る派遣社員が相手でもいい。人妻でもいい。どちらかが先に死んでも、一方の意識の中に存在しているような相手がほしい。こっちの世界は寂しいだけだ。
 だが、待てよ。やり直せたとしても、迷いはある。ひょっとして不安定だからこそ、成立している世界だったのかもしれないからだ。じっとしていられる場所が欲しい。別の部屋でもいい。廊下でもいい。考える場所が欲しい。