周囲を山々に囲まれた中に水辺があった。細長く水辺が延びていた。川の流れを遮った塞き止め湖のほとりのような場所にいた。
 足元を見た。少し赤味掛かった土が剥き出しになった細い道に立っていた。後ろを振り向いた。後ろの山手の方へと車が一台通れる位の細い道が続いていた。正面には澄んだみなもが見えた。二本の轍が平行に水中へと延びていた。
 道の両側には枯れる前のススキのような草が生えていた。陸地と全く同じ草が両脇に生えたまま水中に没するように道が続いていた。
 周りの森林の影になってみなもは薄暗い。前方に没して続く道の両側の草は、緑色に映えた水草のように、水中で揺れているのが見えた。
 正面のみなもを見た。水中へと続く道は途中までしか見えなかった。水中に続く道ははっきり見えないので、底の方まで延びているような錯覚を覚えた。
 足元を見た。短パンから素足が伸びていた。正面のみなもは凪いでいた。水の中に足を入れてみた。水温は特に冷たいと感じなかった。
 正面のみなもに向かい、歩みだした。足を水に浸けながら、注意深くゆっくりと足を前に出した。確認しながら進まないと水中で道が途切れているかもしれないからだ。
 空に太陽はない。時間帯も判別できない。東西南北も定かでない。ただ、雲間に青空が見えた。山間部の影に入っていて薄暗いが見通しは悪くない。
 水中へ没する道を進んでいても不安はなかった。対岸は間近にあった。水の流れはないに等しい程ゆるやかだった。周りの状況から、水没する道は上流へ向かっていた。
 水中へと没しながら進む道は上流に向かい左側に位置していた。小山の斜面が岸となり、川のうねりに沿って緩やかに左折していた。入水した最初の辺りからは見えない箇所へ左折し、道は途絶えることなく続いていた。
 道は左の岸に沿って左折していた。岸が左に折り返す辺りまで行くと、水かさは腰の位置まで達した。その時、トンネルが見えた。半円状のトンネルの上部がちょうど水面に隠れている。水は澄みきっているのでトンネルの向こう側らしい出入り口が少し見えた。
 水の中にあるトンネルは普通乗用車が通れる程だった。高さは軽四トラックが通れる程あった。背の高くない女性や子供なら難なく通れる。大人でも少し屈めば通れるほどの高さだった。
 水の中のトンネルは向こう側が見える程なので、潜っている途中で息が続かなくなることはないだろう。トンネルは小高い丘陵の下を貫いていた。丘陵が続き上部には杉林があった。
 トンネル付近の丘陵地はえぐったようになっていた。陸地から道が水没し、しかも川の蛇行が丘陵の麓に沿って後ろ側に隠れるようになっている。道が水没する辺りからトンネルが見えないようになっていた。まるで秘密基地の出入り口のようだ。
 トンネルの付近まで行くと身体は完全に水に浸かってしまう。Tシャツに短パンだ。泳ぎは苦手でない。トンネル近くまで潜ってみても構わない。トンネルの近くまで行って様子を見てみようと思った。
 トンネル近くまで進んだ時、身長よりやや低い程度の川底に爪先が浮いた。川底に爪先立つことはできるのだが、口元は水に浸かるので息ができない。道を少し戻るように片足でジャンプしながら後ずさりした。息を吸い込み再び前に進んだ。顔を水面に出しながら、平泳ぎと立ち泳ぎの中間のような泳ぎでトンネルの近くまで近づいた。
 車が通れる程のトンネルなら人も通れるだろう。それでも、確証があるわけでない。車の轍の跡がトンネル内に続いているのが見えた。雨の少ない頃なら水位が下って車が通れるのかもしれない。
 潜ってトンネルの端の方を覗いてみた。数メートル向こう側は明るかった。大きな堤防を貫いた程度の距離だった。トンネルの向こう側まで潜れるのか躊躇するところだ。トンネルを越えたとたんに道が無くなり絶壁状態になっているかもしれない。トンネルの向こう側に出ると湖の底に沈んでしまうかもしれない。
 トンネルの手前でしばらく間を置いた。トンネルの向こう側は同じ水位だろう。数メートルなら息継ぎをしないで潜ることはできる。トンネルを越えてから足が底に着かなかったら、水上に顔を出して立ち泳ぎをすればいいのだ。立ち泳ぎをしながら、しばらく周りの状況をみよう。
 トンネルの向こう側まで潜っても溺れることはないだろうと思われた。それでも、急な水の流れに襲われるかもしれない。慎重な行動が必要だ。トンネル付近のコンクリートに手を掛けながら息継ぎをすることも考えておこう。
 前に進むことを決断し、トンネルの向こう側に出た。心配していたようなことにはならなかった。トンネル付近の水深は深かった。トンネルを離れ、顔を出したまま平泳ぎで、やや離れた陸地近くまで泳いだ。陸地に近づいてから片方の足を水中に突き出すと、爪先立つことができた。さらに前方に進むと完全に足が水中の底に届いた。呼吸の心配はなくなった。水中の轍を見ながら慎重に陸地に向けて歩いた。段々と浅瀬になっていった。
 道の先は陸地から山の方に向かって延びていた。周囲を見渡した。トンネルに入る側と全く同じ風景だった。最初に道が没していく場所のように見えた。

 ここまで、筆者は意識的に性別を表現していないつもりでいる。それでも、筆者は男であるだろうことは間違いない。書いている内容からして男性的な視点に偏っているからだ。
 もっと現実的なこともある。例えば、読者にもっとも分かりやすいことがある。この作品の最初の頁を見ればいい。タイトルと併記して作者名が出ている。女性とも男性ともつかない両性的な作者名ではない。一般的な日本人男性の作者名であるからだ。
 これを書いている筆者は、細かいことを気にし過ぎるし、かなり女々しい男だ。優柔不断で男としては多くの欠点を持っている。それでも、身体的機能上は男である。だから、ここからは男性の筆者として登場することにする。

 道が陸上に延びているからといって油断してはならない。猿やカモシカのような動物が動くような気配はなかったが、山の方に熊がいるかもしれない。
 そして、細い道を歩いた。水辺から陸地に上がると周囲は山の中だった。山林に囲まれた中に二本の轍が付いた道がさらに山の奥の方に延びていた。人気のない山中に続く一本道だった。熊に出くわすかもしれないので、周囲に気を配りながら前方に続く軽い傾斜の道を登るように進んだ。
 低い丘の一番上に立った。周りを見渡すことができた。天に向かって真っ直ぐ延びた杉の林に隠れるようにみなもは一部しか見えなくなった。
 杉の木は枝打ちされていたし、間伐された枝は放置されていなかった。広大な面積に及んでいて杉の木立は均一的な美しさを醸しだしていた。人が出入りしている杉林らしいので休憩小屋があるかもしれない。
 丘の先の道は一旦下っていた。道の先にもう一つの丘陵地があり、間に窪地があった。道の周囲に空き地はなかった。道の先は次の丘陵地に続いていた。向こう側の丘陵地のいただき付近を見た。いただき付近には周囲に同化したようにくすんだ建物が見えた。道の先の窪地を挟んで三、四百メートル程しかなかった。
 最初にいたみなも付近からススキのような緑色の草が道の両側に生えていた。トンネル付近の水中に潜っている時も同じ草が視界に入ってきた。水中の最深部にまで道が続いていた。水中の道の両側に同じような草が揺れていた。水陸の両方で自生できる植物なのだろうか。
 向こう側の丘陵地に向かい上り坂が見えた。傾斜はきつくなく、歩いてもさほど負担を感じないように見えた。坂道を下った後、再び緩い坂道を登った。清水に濡れただけなのでTシャツや短パンだけでも不快感はなかった。
 山林の中の小高い場所に来た。道沿いに、モルタル壁の簡易鉄骨二階建ての建物があった。その建物の前に立った。遠くから見ると小さい建物に見えた。実際に建物の前に立ってみると普通の民家よりはるかに大きかった。どこかの民間会社か公共団体が所有する保養所のような建物に見えた。

 「なぜ、いつも作者が出て来るの?」と女の声がした。女の声がこの文中で聞こえたことにした。ここでは表記上「彼女」と言う。「彼女」と言うのは単に呼び方でのことである。念のために言っておくが、ここの「彼女」は恋人ではない。
 この文中で女の声がした。ということは、女が出現することになる。現実ではないこの文章の中で、これから登場するかもしれない女なのだろう。
 たぶん、この文章は何かの印刷物に掲載されていると思う。同人誌のようなものに印刷されたとしよう。同人誌の連中なら合評会で意見を述べるために必ずこれを読むのだろう。未だそれはいい方だ。
 何か関係があって、同人誌を贈呈された人もいるだろう。同人誌の最新号を送って貰った後に感想を聞かれたら困るので義理立てして仕方なく読む人もいるだろう。掲載されている作者名を見て端から作品を読まない人もいるだろう。もしかして、久々に期待してこの部分を読み進めている人もいるかもしれない。この作品は今度も期待を裏切る中に入るのだろうか。
 おっと、話が脱線した。話しを戻そう。この文中では会話する者がいなかった。こちらのつまらない意見でも、時には賛同してほしい。反対意見を述べてくれたり、暴走しそうな持論を諌めてくれる者も必要だ。仮にこちら側の理論を正当化するにしても対立する対象者がいないと駄目だ。
 対立する意見があれば弁証法的に文章に広がりができるのだ。相手は誰でも良かったのだ。勿論、男でもいいのだが、人間でも、より不可解な生き物である、女を選んだ。その方がこの文中では面白いと思った。
 女は自分自身の将来の考え方などどうなっているか分からないと言っている。女は自身の感情や思考が時系列に流動的なことを自覚しているのだ。
 男は信念を曲げないのでもポリシーがあるのでもない。男は偏狭なだけだ。男女とも自分の将来が安寧だと楽観している者など殆どいないだろう。人間は思考の変遷があって当然なのだ。将来において感情の持ち方や思考がどう展開するかが分からないので当然だ。女はそれを直感的に自覚しているので利口だ。
 だから、ここでは女として登場させてみる。

 保養所のように見えたのは、玄関口が張り出していたからだ。入り口が張り出した部分はアルミ枠に嵌め殺しのガラスが入っていた。ガラスは汚れが目立ち透明度はなくなっていた。それでも、大きなガラスからは入り口の中まで見通せた。学校の下足箱のような棚が見えた。
 入り口のドアのノブを回してみた。ドアには鍵が掛かっていた。玄関口から遠ざかり建物の周囲を見渡せる位置に立ってみた。一、二階の部屋ごとに窓があった。所々にスリガラスの窓もあった。カーテンの掛かっていない透明なガラス窓もあった。カーテンの掛かっていない窓越しに見ても人の気配はなかった。
 建物の二階部分を見上げてみた。一階の屋根の部分は広めのベランダの様に見えた。一階の屋上は平坦で歩き回れる程の広さがあった。
 道の脇に枝葉の付いた松の木が立っていた。その松の木に近づいてみた。松の低い部分の幹の厚さは八十センチ程だった。人の背丈ほどの高さから枝が三方に伸びていた。まるで、登ることを促しているような枝振りだった。
 最初の枝には難なくぶら下がりよじ登ることができた。下の方の枝は人の重さに耐えるには充分の太さがあり、順番に伝って行けば上の方に上がれた。足を交互に踏み出せば簡単に登れるようになっていた。
 五本目の枝に体重をのせた時はさすがに高さもあり足元がしなった。ただ、垂れ下がっている上の枝を掴みながら歩くと足元に不安を感じなかった。松の木から汚れが目立つ白ペンキで塗った鉄柵に手を掛け、一階の屋上部分に移ることは簡単だった。一階の屋上部分が平らで、それ以外は二階部屋部分で占められていた。二階部分にドアがあった。一階の屋上への出入り口らしい。
 ドアは内側から鍵が掛けてあった。二階部分に窓があった。ドアの近くのスリガラスのその窓は開いていた。人の半身位の高さだった。窓には容易に這い上がれた。Tシャツに短パンという自身の身なりは軽装だった。寒さは感じなかった。だから、濡れていても気にすることもなかった。それでも、二階の窓に這い上がった時、濡れたままでいることを意識した。
 暑い日に夕立にあったような感じだった。人が近くにいるように思えなかったので、木陰が多くある道際で、裸になって、今まで着ていた物をきつく絞った後、乾かす手立てもあった。ただ、熊が出没しないとも限らなかったので、山中では長くいたくなかった。
 建物の中の方が安全だ。その建物の中には人がいないようだ。中に入ってしばらく休んでも咎められないだろう。二階の開いたままのスリガラスの窓は廊下の部分にあった。
 窓はいつから開いていたのだろうか。ずっと前から窓が開いていたのなら、雨で濡れたカーペットの部分は変色している筈だ。ゴルフパターの練習台に張られているような薄緑色のカーペットに染みはなかった。
 廊下のような部分にカーペットは細長くあてがわれていた。カーペットは人の歩く部分が擦れて白っぽい緑に変色していた。カーペットには埃が全くなかった。
 廊下を歩いた。廊下から階段に続いてカーペットが敷いてあった。階段の踊り場付近にもスリガラスの窓があった。閉じた窓から入る明かりは少なくても階段の足元を照らすには充分だった。
 一階に降りた。個人所有の別荘のような建物ではなかった。予想した通り公共的利用を目的とした建物だった。外から見た通りだった。日常での利用感があった。手入れは行き届いていた。建物の内部のどこにもゴミや埃を見ることはできなかった。
 冷静になって考えてみた。ここまでの道路は途中で水没している箇所があった。道路がないのにどうやって宿泊しに来るのだろうか。それほど手間を掛けてまでこの地へ宿泊に来るのだろうか。
 通常の道路では行けない僻地にあるが人気の隠れスポットであるかもしれない。湖の中にあって遊覧船やボートでしか行けないような温泉地もある。
 渓流釣り愛好家の宿かもしれないし、有名な登山道の出入り口かもしれない。今の時期は客のやって来ない端境期に当たるのかもしれない。山奥だからといって人が来ないことはないだろう。
 先程は建物の外から玄関先らしき出入り口を見た。アルミ製のドアは道路側にあった。建物の中から見ると道路側の玄関口は大きな間取りの部屋と続いていた。その部屋の内側を見渡した。
 その時、奥の脇の方に開け放された板張りの木製ドアを発見した。勝手口のようだが通常の出入り口として利用しているみたいだ。小さいが下足箱もあった。上がり框にはスリッパも用意されていた。
 勝手口らしい所にあるドアは外側に開け放たれていた。そこは道路側から影になっていたので分からなかった。道路側の玄関口らしいドアは締め切られてた。実質的な出入りは勝手口かららしい。オーナーがいて使い勝手のいい民宿にでもリフォームしたのだろうか。
 勝手口が開いていたのなら最初からそこを通って入れば良かった。正面玄関が閉まっていたのと建物全体が寂れていたので最初から廃屋だと思い込んでいた。良く周りを見なかったのは不注意だった。
 たまたま、建物の管理者がいない時だったのかもしれない。こんな時にここの持ち主が来たら、山中で迷った。そんな時にちょうど建物があった。ドアが開いていたので覗いてみた。滞在ができそうに見えた。山中にいると熊に襲われる危険があった。身を守るために建物に入った。そんな事情を話して滞在許可を得よう。
 広めの入り口みたいな箇所が正面玄関で正式な入り口なのだろう。宿泊客が多い時には開くのかもしれないが、見る限りでは履物とかはなく、人が頻繁に出入した形跡はなかった。道路に面した正面の玄関口の内側は、外から見たのと一緒だった。
 勝手口の近くに小さいカウンターがあった。奥の方にある賄い部屋とか執務室に通じているような感じだった。その前には三人が座れるソファーがあった。
 一階にも廊下があった。二階の廊下と同じように薄緑色のカーペットが敷かれていた。その廊下を歩いてみた。体温の低下を感じないでいた。ただ、衣服が濡れたままでいるのが気になってきた。乾くまで時間が掛かるかもしれない。建物の中には服を乾かすスペース位はあるだろう。宿泊ができる場所なら脱衣場や浴場施設がある筈だ。探して見ることにした。
 建物の外は寂れて見えた。しかし、内部は良く手入れがなされていた。人が住んでいるのに違いない。そうなると勝手に人の所有物の中に入っていい訳がない。建物の持ち主がいる筈だが不在な時もあるだろう。人里離れて辺鄙な山の中の宿だ。全く宿泊客のない日もあるだろう。
 予約客がいないので川魚を捕りに行ったのかもしれない。季節がいつなのか見当がつかない。山菜かキノコ類の食材確保のために一時的に不在にしているだけかもしれない。
 ここまでの道路は途中で水没する箇所があった。どうやって宿泊しに来るのだろうかと考えてみた。逆方向はどうなんだろう。建物の前から道が山手に続いていた。車の通った轍の跡もあった。
 山手の方向に行くとする。陸地のトンネルを抜ければちゃんとした舗装路が続いているのかもしれないのだ。トンネルがなくとも山の斜面に沿って道路があるのかもしれない。
 なぜ、自分が出現した場所が水辺だったのかということだ。尋常でないシチュエーションから始まり、なぜ、辺鄙な山中へ移動してきたのだろう。しかも、わざわざ木を登ってまで建物の中に入ったのだろう。
 仮に、ここが民宿だとする。ならば、一見の客でも宿泊は可能だろうと思った。ドアが開いているから入ってみた。入り口で声を掛けたが返事がなかった。誰もいないようだった。「断りもなしに悪いと思ったが衣服が濡れていたので風呂を使わせてもらうつもりで入った」と言おう。
 それで、脱衣所とか風呂を利用しても理由が立つ。風呂に入っている間に建物の持ち主が帰って来るかもしれない。不審者と勘違いされないためにカウンターの上にあるメモ帳の用紙を一枚ちぎり、備え付けのボールペンで、「誰もいませんでした。勝手ながら風呂を利用させていただきます」と書いてカウンターの中央にペン立てを重しにして置いた。
 脱衣所はフロント脇の廊下を通ってしばらく歩いた部屋にあった。脱衣所は八畳間ほどのスペースがあり圧迫感はなかった。四角く等分に仕切られた棚の中にプラスチックの籠が入っていた。
 スリガラスが組み込まれたアルミサッシの仕切りやドアが見えた。微かに水音が聞こえた。状況として風呂場としか考えられなかった。
 ドアを開いて中を覗いた。誰もいない風呂場だった。広い浴場の中央に竹の筒からの水が噴きだしているように見えた。
 脱衣所の中に全自動洗濯機が置かれていた。洗濯機の上には乾燥機が置かれていた。スイッチをオンにした。電源が入った。濡れたTシャツと短パンと下着を入れて脱水ボタンだけを選択して押した。すると、洗濯機は動いた。

 「架空は架空なんだ。その架空なことを書くのに照れがあるのかな? だから作者を登場させるのかな」と、ここの部分を筆者が考え、喋り手の言葉のように、文章化している。
「どう言う意味?」
「どうも嘘がつけないタイプなのかもしれないなあ。作者が出てくることによって架空であるとことを前もって告知しているんだ。読者には最初から分かっていることかもしれないことでもさ」
「あなたも最近分かってきたらしいのだけれど、読者自身が架空の現実離れした世界に身を置きたいという、願望を持っているのよ。だから、あたしを登場させたのではないの?」
「こちらが気づかないようにしてあるのは、そういう設定にしてあるんだ。どうせ、紙面上でのことだし、ここの世界の中を、現実だとは誰も信じていないと思う。それも重々分かっているつもりさ。君がそう言っていることは、こちらも認識した上でのことなんだ…」
「でも、何か理屈っぽい」
「そう、理屈っぽい」
「でも、こうやって制約がなくて書くのは楽しいな。それでも、風呂場から後のシーンは続けられそうにないんだ。ちょうど飽きてきたところなので止めようかなと思っている。ガラッと変化するかもしれないけれど、どう読まれるとか考えなくていいのは最高に楽しいな」
「馬鹿じゃん」
「馬鹿で結構さ。でも、ぼくには君を描写できる権限があるのさ。そう気楽にタメ口をきかない方がいいのではないかな」
「どう言う意味?」
「例えば、『今し方会話をしている相手の女は素っ裸だった』と書いたとしたらどうする?」
「嫌よ」
「でも、ぼくにはそう書ける権限がある。こんな風にね。『彼女の裸の胸を見た。小さな乳房の膨らみは少女のようだった。しかし、男かもしれなかった』なんてね」
「何よ、それ」

 裸になって風呂場に入った。風呂場は道路側からは分からなかったが自然のままの少し赤み掛かった山肌の斜面がちょうど浴場の壁になるように建てられていた。
 山の斜面をそのまま風呂の側面に利用していた。山肌を包み込むようにした造りの浴場だった。竹筒から勢い良く水のようなものが出ていた。山の斜面に直接竹の筒を差し込んであるだけのよう見えた。
 山肌に直接竹筒を差し込んで湧き水を飲み水として提供している場所がある。山道を歩いていて時々見掛けることがある。それに似ていた。竹筒から流れる液体は掛け流しの温泉のようにも見えた。夏場で室温が高いからか、あるいは熱い湯ではないのか、風呂場には湯気が立っていなかった。
 風呂の湯を手ですくってみるとぬるっとしていたので温泉なのかもしれない。お湯の温度は低いが温泉の成分が含まれているのかもしれない。手を浸した感じでは温めのお湯という感じだった。
 自分の短パン姿からすると寒い季節ではないらしい。真冬は熱い湯になるように加熱しているのかもしれない。当日は人がいないので源泉に加熱をしないでいるのかもしれない。人はいないが湯治場の趣があった。お湯はぬるくて適温ではないような感じもした。
 竹の筒から出る水流に手を当てた。筒から出ているのはお湯だった。湯はぬるかった。浴槽の湯量は充分にあった。冷たいというのではなく、二十五度前後の水温があり、じっと湯に浸かっていると、それ程ぬるく感じないのかもしれない。
 山の奥の秘湯でリピーターの湯治客がいるのかもしれない。何か特別な効能を持つ温泉で、薬湯かもしれない。効能を引き出すために湯を沸かさないでいるのかもしれない。
 浴槽はいくつかに区切られていた。四人が詰めれば入れないことはないが二人用であろう小さい浴槽が二つあった。大きい方は鮨詰め状態なら十五人でも同時に入れる位の浴槽が二つ並んでいた。
 大きい二つの浴槽に仕切りがあった。タイル張りの仕切りには湯が巡るように、水没する程度の窪みがあった。浴槽の底は浅かった。大きい浴槽の両方へ移ることは容易に見えた。大きい方と小さい方の両方の浴槽に手を入れてみたがどちらも同じようなぬるさだった。
 最初は大きい方の浴槽に入った。山の斜面を背にしてぬるい湯に全身を沈めた。湯の温度は思った程低くなかった。逆に、長くじっとしていても、湯あたりすることはないと思われた。
 試しに小さい方の浴槽にも入ってみた。湯は浴槽の中で循環していた。小さい方の浴槽の中に湯の流れを感じた。竹の筒と同じ湯だが別の筒を伝って浴槽の中に引き込んだだけかもしれない。動力の電源が入っていないのか、ジャグジーのように泡は出ていなかった。

「この前、ある温泉施設内でのことだったんだ。腰痛気味なので養生のために温泉を良く利用するんだ。そこの施設は山の中にあって遠いけれど、車だと三十分程で行けるんだ。公衆浴場程度の料金で入浴できるから、温泉に浸かりに行ったんだ。その施設の入浴時間が終わる頃だったかな。腰痛に効くような気がするので、ジャグジーの泡の噴出口が腰に当たるようにしていたんだ。二人が並んで使えるジャグジーの噴出口があった。ジャグジーは二つあった。その時、隣のジャグジーに人がいた。男風呂だから男しかいないだろうし、隣にいるのは当然男だと思っていた。ポニーテールに結んだ髪の長い者が隣のジャグジーにいたんだ。昔から男の長髪は珍しくなく、男がポニーテールにすることなど違和感がない。画家や彫刻家達の中で芸術家気取りの恰好を好む者もいるだろう。昔、ミュージシャンやヒッピーがポニーテールに長髪を結んでいた。最近では普通の男でも長髪やポニーテールにしている。そのジャグジーに入っている時、横を見てハッとしたんだ。髪をポニーテールにしている横顔を見た。ふっくらとした頬をしていて、若くてきれいな女のような顔立ちをしていたんだ。顔だけを見ると女でも通用すると思った。そこの温泉施設は混浴ではない。浴場の入り口には男女別の大きな暖簾が掛かっている。『男』は青で『女』は赤の布地に白く大きな文字が染め抜きで入っている。間違う筈がないのだ。女が間違って男風呂に入る訳がない。回りは皆男だ。その美形な顔立ちの者はジャグジーの噴出口に身体の正面を向けていた。あまり見たことのない光景だった。普通の人達だったら、ジャグジーの噴出口に身体の背面を向けて肩や腰に泡が当たるようにしている。顔の向きを変えて再度その正面横にいる姿を見てみた。するとその者は身体をジャグジーの噴出口に正面を向けるような姿勢を取って、自然な振る舞いのようにしていた。後で考えてもどうしてそんな姿勢をしていたのか違和感が残った。後で考えたんだ。人それぞれだしそんな姿勢もありかなと思った。しばらくして、その者はジャグジーを出て隣の大きい方の浴槽に移動するか迷っている風だった。その者の胸を見た。きれいな形の乳房はBカップの大きさに近かった。乳房は少女のような膨らみだった。ロリコン趣味のある男にはとても魅力的だろう。同時に股間を見た。陰毛もあるしペニスも垂れている。男であった。その男を見て『それがそういう種類の男かもしれない』と思った。その男のことが後になっても気になっていた。温泉から上がった後、脱衣所に別の二人の男がいた。一人はショート気味の髪でマッシュルームカットに近かった。もう一人の男は長い髪をしていた。合計三人のおかま友達かもしれないと思った。その男たちを特別奇異な対象として見ようとしていた訳ではない。特別目で追うのではなく、ロッカー前で着替えをしている時にその男を視界の片隅で捕らえていた。三人組の男の友達同志に見えた。どんな関係があってそこの温泉に来たのだろう。温泉には宿泊施設も併設されていた。そのメンバーで宿泊に来たのだろうか。それとも外来の客として温泉だけを利用しに来たのだろうか。それは分からない。そこの施設の入浴時間は午後九時までだった。宿泊客だったらもう少し入浴時間に余裕があるのかもしれない。仮に宿泊客だったとする。深酒をしない連中かもしれない。食事が終わった後、温泉を利用しているのかもしれなかった。おかまグループが都会から帰省していたとする。田舎の方では奇異に見られるかもしれないと、そのおかま友達らは自分たちの容姿を自覚していたとする。偏見を持って見られてもいけないと思って気をつかっているのかもしれない。辺鄙な場所を選び、そのおかまグループは、一般客として、温泉施設が閉まる直前に、入浴したのだろうか。都会では偏見の眼差しがあったとしても、人々の無関心さに助けられているだろう。男色系のマニアックな愛好家が通う風俗店で愛でられいるのかもしれない。都会なら需要と供給のバランスが取れていて、それなりに彼らも生計が成り立っているかもしれない。但し、田舎では生家の手前もあるし肩身が狭いだろう。性同一性症候群とかいう少数派の若者達の仲良しグループかもしれないのだ。あるいはこういう例もあるかもしれない。たまたま、十代頃にその三人が同じ学校にいたのかもしれない。後の二人の裸の胸は見られなかった。二人に乳房の膨らみがあるかどうかは確認できなかった。ハードな男色同士というものではなく、おかまの気はなくて、一緒にいると気持ちが安らぐという心優しい男が混じっているのかもしれない。単にネットで知り合った同じ境遇の若者達のグループかもしれない。温泉を利用しに、温泉施設の閉館間際の、入浴客が少なくなる時間帯を目掛けて来たのだろうか。先程の話しに戻ろう。三人組の彼らのうち、二人は長髪だった。マッシュルームカットの男もいた。先程の美形の男もその中の一人だった。若者が順番に洗面台にやって来た。それぞれの髪をドライヤーで乾かしていた。その光景を視線の片隅で捉えていた。わざと洗面台を振り返るわけではない。着替える時に身体を捻る。その時にちらっと見る程度に観察をしてみた。三人とも裸でも下着姿でなく服を着込んでいた。それより少し前、風呂場でのことだ。ジャグジーから水風呂に移動する時、その美形の男の洗い場にいる後ろ姿を見た。子細に見ようとしたのではなく、通りすがりにちらっと見ただけなのだ。目の前の現象として、どうなのかな、という感じだった。特別、色白の女性でなくとも、普通に生活しているだけで、下着を身につけている部分が白くなることが多い。美形の男は美白美人に近かった。ブラジャーの後はあるだろうかとその若い男の背中を見てみた。水着を着た後のようなクロスした白い部分があった。ビキニタイプの水着でなくワンピースタイプの水着を着た後のように白く日焼けしない部分が残っていた。水着ではなくておかまバーで働く時にドレスを着ていたのだろうか。それ以上は想像できない。今まで述べたのもこれから話すことも、全て仮定の話だ。話は前後する。若者の三人グループの内、他の二人の声は成人男子の声だった。その美形の若者だけは特殊な声をしていた。女性ホルモンを服用しているのかもしれない。その美形の若者は子供のような高音域の声を出していた。洗面台で長い髪にドライヤーの温風を当てて乾かす様子を通りすがりに見た。白いブラウスと黒いカーディガンを着て黒いパンタロン掛かったスラックスを穿いていた。地味な感じの服装だった。その美形の男は女性ホルモンを服用して女に近づきたいのだろうか。ジャクジーで泡の圧力に逆らうように股間を水流に当てて何をしたかったのだろうか。まるで、ペニスをジャグジーの泡に当てているようだ。ペニスに泡を当てると萎びたようになるのだろうか。ペニスを縮める効果でもあるのだろうか。泡を股間に当てるとどんな効果があるのだろう。その行為を見た限りでは想像できる域を外れている。目の前の現実の中であったことだ。事実だったんだ。美形な顔立ちと乳房の膨らみと男のペニスを同時に見たのははじめての経験だった。それが、君になるかもしれないんだ」
「変なの…。それにしても、長い喋りだったね。御苦労様。それに比べると、あたしの話の部分は極端に字数が少ないのね」
「延々と喋るのが面白いと思ってね。そう言われてみると偏り過ぎているかな? アイディア倒れかも…。それにしても一方的に喋り過ぎた。ここらで、収めることにしよう」

 ふと、隣の方を向いた。人がいた。
 この場面は以前見たことがある。
 幻だろうか。若い女がいるように見えた。顔を見るとかなりの美形だった。浴槽で湯の流れに身体を抗うような姿勢でいた。浴場内に露出している山肌の斜面の方を向いていた。
 こちら側からは斜め向かいで体面していることになる。斜めから横顔を見ていることになる。整った顔立ちをしていた。髪を束ねてポニーテールにしていた。ここの浴場は男女の別がない混浴となっているのだろうか。
 この場面は以前見たことがあった。

 一応、ここまでは毎日間断なく書いていたことにする。一日原稿用紙一枚分の行数を書くいう目標を自分に課している。それが自分の文学修業になると思い込んでいるからだ。何とかその行為が続いていることにしておく。
 今日は書くことが思い浮かばない。苦し紛れに、ここまでと、この先が、どうなるか分からないと言うことをネタにしながら、書こうとしている。そんな日もあるだろう。書けない日があったとしても「継続は力」なのだ。内容はともかく書き残している。
 ここでは変な終わり方の作品になろうとしている。この後も、何か話の続きを考えていたと思う。元々、書こうとするものがなかった。テーマを見つけるために書いているようなものだ。抑制の効かない文章はこうなるのだ。予想の範囲内だったと思う。
 しばらくの時間の猶予があったことにして、最初のページから読み返したことにする。山の中のような場所を、何の目的に描いているのか分からない。女のような相手との会話もあった。女のような男が語られたようだ。どれも、後が続いていない。
 今はだるいし眠いのだ。自宅で入浴した後だ。長風呂が影響した。今は疲労感がある。入浴中にうたた寝していたかもしれないが、定かではない。だからといって、入浴中の夢の中の出来事として無理にこじつけはしない。
 いくら、架空の世界のことだとしても、あれだけの行数を、夢想したと同時に、書かれているという設定は難しいだろう。
 今は惰性で書いているのに近い。文字を並べればいいと思っているだけだ。行数を稼ぐのに腐心している。下手な鉄砲も数打ちゃ当たる。こんな文章の中にも、後で読み返してみて、今後の執筆のヒントとなるものが見つかるかもしれないと、思って書いている。ただ、自由に書いても、成功するとは限らない。
 粗と密ということを聞いたことある。粗の部分もなければ、密の部分も引き立たないということだ。が、そんな高度なことは考えていない。
 ユーモアを交えた部分もある。おちゃらけにして、テーマをあやふやにしようとした。気になるという読者は削除する文章としてほしい。読んで損をしたと思う読者もいるかもしれない。当初から、無かった文章として捉えてほしい。
 後、少しだ。ここで今日のノルマの行数を書き終えることができる。同時に、この作品もこうやって終えることができる。
 後、少しだ。
 こうやって、少ない文字数で改行して行を稼ぐ。
 こうやって、インチキをすれば、ほらもう最終の行に達する。