・映画をつくりたいという願望
 道楽をかなえられる大金持ちならいざ知らず、自分一人で映画をつくるというのはどう考えても無理だ。そこで自分なりに考えてみた。映画制作は無理でも、文章上なら、映画のようなものが描けるかもしれない。文章だけなら元手は要らない。映像的な文章は数多くある。映画を観ているような文章を書いてみればいいのだ。
 もし、「仮の世界があるなら」という、注釈をつけてみる。ここは文章上の世界である。この紙面上に映画の場面を想定してみたい。可能な限り、文章によって映像に近づけてみたい。自分の欠点として、いつも説明口調になってしまう。この文章も危うい出だしになっている。もっと、映像的に描いてみたい。
 今、映像化するにはどうすればいいのかを考えてみた。実験的な映画で、最後まで会話のない映画を観たことがある。そんな極端な映画にする必要がないし、会話も重要な要素だ。ウィットやユーモアの利いた会話は楽しい。ただ、自分の場合は、それくらい映像に偏ってもいいくらいのものだ。ここでは、自分の弱点を克服するために、描写を中心にして書きたいものだ。
 ここから書き始めるとして、スクリーンを観ているように描写してみたい。ただ、心配なことがある。独り善がりになるかもしれない。誰かがいた方がいい。そうだ。女を登場させてみよう。
 女を登場させてみてもいいのだが、容姿を表現するのが難しい。女の描き方が難しい。難しいからといってマンガの中に描かれるような描写ではいけない。マンガが悪いというのではない。絵のような登場人物ではリアルな感じがしないからだ。現実にいるような人物を登場させたい。映画の中では人間そのものを登場させたい。ここでは、どんな女を登場させるかが大事だ。
 文章の中に登場する女の描き方が難しい。そこで、登場する人物を有名な歌手か女優に似ていることにしてはどうかと考えてみた。最近のテレビに出ている女優の名は知らない。アイドルグループがいるが、その中の誰一人として名前を挙げられない。昔の女優は知っている。現代はアンチエイジングが進化している。美容技術により、見た目は実年齢と比べて驚くほど若い。ただし、どう転んでも、昔の女優が二十代の女に見えることはない。
 このままだと登場人物の描写ができなくなってしまう。ここで停滞するわけにはいかない。ずぼらかもしれないが、ここで女の容姿を描くのは保留しておく。ストーリーの中で女の役割がハッキリしてきたら、連想してみよう。ここでは人物の描写を、曖昧なままにしておく。そのうち、状況によっては、女の容姿を書かなければならなくなるだろう。
 書いているうちに思いついた。どうせなら、奇抜な登場の仕方があっていいだろう。スクリーンに女を登場させるのだ。そして、その女がスクリーン上から出てきて、隣に座ることにしよう。ここは文章の中でのことだ。どんな荒唐無稽なことも起こり得る。

・スクリーンをつくる
 庶民クラスの財力では、映画館サイズのスクリーンを設置するのは難しいだろう。一般家庭向けの、ホームシアター用プロジェクターを利用するのが実用的だ。広めの部屋を準備して、120インチサイズのスクリーンを張るのだ。ブルーレイディスクを再生すれば、大きく迫力ある映像をスクリーンに映すことができる。
 ホームシアター用のスペースとして、二十畳ほどの部屋があることにしよう。一般家庭ではやや規格外の大きさではあるが、マニアックな趣味を持つ人だったら、そんな設備を持っていても不思議ではない。富裕層ではなくても、ホームシアターで映画鑑賞をする人がいる。そんな装置を使って、スクリーンに女を登場させてみよう。
 スクリーン上は現実と離れている。スクリーンという白い幕と、現実の世界とは隔たっている。どんなに奇想天外なものでも、映画だから観ていられるのだ。別世界を観てみたいという者がいる。それは、自身に危害が及ばないことが前提にある。映像に没頭することで、現実逃避ができる。スクリーン上のことだから、映画を安心して観ていられるのだ。
 映画を創る方も、架空が前提だからこそ、自由なのだ。自分もそうしたいものだ。例えば、マンガが原作の映画の実写版がある。何でもありの、ぶっ飛んだストーリーになっている。マンガの特権でもある。今はCG・FX技術が進化している。マンガの実写化がより可能になった。
 ここでも、そんなあり得ない想定にしてみたい。取り敢えず、スクリーンの中に女を登場させてみることにする。女の肌に触れられるような描写にしたいものだ。それには秀でた書き方が不可欠だ。自分には力量がないので無理だ。

・スクリーンに映る女
 スクリーンの中には中肉中背で白くしなやかそうな肢体を持つ若い女が素っ裸で映っていた。
「何で、こんな格好でここにいなくてはいけないの?」
 彼女は胸と股間あたりを両腕で隠しながらそう喋った。スクリーンに映る彼女が発する音声がスピーカーから流れていた。部屋にある音響装置は5.1サラウンドシステムで臨場感に溢れている。音声は実際に彼女がその場で喋っているように感じられる。
 目の前のスクリーンに映る裸の女が、こちらを睨んでいた。スクリーンの中の女から怖い顔を向けられた。女を登場させたのは唐突だったが、女からの問い詰めも急だった。だから、焦った。
「ごめん、ごめん。そんな姿にするつもりはなかった。ただ、服装を描き忘れていたんだ。これから描くから勘弁してほしい」
 言い訳するしかない。着衣をどうするか、考えてなかった。
 その時、たまたま頭に思い浮かんだことがあった。最近、ショッピングセンターの通路側にある、女性用下着売り場横を歩いたことがある。たまたま通路を歩いていただけだった。陳列された女性下着が見えた。見るつもりがなくても女性下着が目に入ってきた。時間がなくて早く目的の売り場に直行したかった。一般人が集うショッピングセンター内の通路なので、女性下着売り場前の通路を、避けることなく通過した。
 頭部がのっぺらぼうのマネキンに女性下着が着けられていた。下着の形状がおぼろげな記憶の中に残っている。オーソドックスなブラジャーやパンティのようなのだが、半透明のフリルが縁取られていた。高級下着ではなさそうなのだが、それなりに最新モデルの下着なのだろう。そう思いながら、売り場横を通りすぎた。
 記憶に残っている下着を女に着せてみよう。そうすれば、取り敢えずここでの問題は解決する。
「ちょっと、何なのこれ。どうして、下着だけなの? おかしいじゃないの。ここの温度が高いかどうかは知らないけど、いいかげんにしてほしいわ」
 そんな風に言われることは覚悟していた。
「下着姿の女を出したことには訳があるんだ。裸を出しておいて、急に服を着た人物に変わったら変だろうと思ったんだ。下着をつけないで服を着ているのではないかと、勘繰る者もいるかもしれない。裸から下着姿になってもいいと思うんだ。物ごとには順番があることにしたいんだ。一応、ここでは下着を身に着けていることを確認してもらっているんだ」
 変な理屈をつけたものだ。自分が女の下着姿を見てみたかっただけかもしれない。このことは正直に女には言えない。
「直ぐに服を用意するから、機嫌をなおしてほしい。どんな服装がいいのかなあ? 服のイメージが湧かない」
「あきれた。それも、考えていないの? もう、何でもいいよ」
「そう言われると困るなあ。そうだ、簡単な服装にしよう。白のワンピースでいいのかな? スカート丈が膝くらいにしようかな? それが一番無難かもしれない」
「ところで、何でここに私がいるの」
「それを説明すると長くなる」
 取り敢えず、目の前に女が現れて、隣のソファーに座った。
 ここからどうするかが当面の問題だ。先ほどはスクリーンに女が登場した。その女を自室のソファーの隣に座らせた。そこまでは何とかなった。
 だが、そうなったら、そうなったで、その後の進行が面倒だ。どうしたらいいか、悩むところだ。
 白いワンピースを着た女が隣にいる。
「なんか、悩んでいるみたいね。そんなに悩むことはないんじゃない。元々は仮の世界なんでしょ。何でもできるんじゃなかったの?」
「それはそうなんだけどね。無から有を生みだすのは難しいもんだね」
「あら、意外と弱気なのね」
「そうだよ。スラスラ書けることは、あまりないんだ。手が止まってしまってばかりいる。そんな時は、自分の才能の無さを実感してしまうんだ。こんなのは止めてしまえばどんなに楽だろうかと思うんだ」
「あら、大変なのね。そんな風には見えないけど。もっと気楽に考えたらどう? 書けなければ書けないで中断したらどう?」
「書くことを止めるのは簡単だよ。ただ、止めてしまうと、ペースを戻すのには苦労するんだ。スポーツ選手がトレーニングを一日休むと、元の身体に戻すまで、三日掛かるようなものかな」
「あら、そうなの?」
「興に乗って書いているうちは楽なんだ。大は小を兼ねるというか、余計な部分は後で削ればいいんだ。それに、書き続けていると、途中で何かヒントが出てくることもあるんだ。遅々としてでもいいから、書き続けることが大事なのかもしれない。継続は力だとも言われている。苦しんだ先に何かが生まれるかもしれないんだ。現に君がこうして現れた」
「そうなの? じゃ頑張って」

・四次元世界の証明について
 人間のいるこの世界は三次元の中にあるという。それを誰が確認したのだろう。左右の目を持つ人間は対象物を立体的に見ることができる。それ故、現世界が三次元であることを疑わないでいる。地球が四次元を移動しているかもしれないのに、そのことを信じようとしない。どうして、現世が三次元だと言い切れるのだろう。
 相対性理論が出た当時は実証不可能だった。歳月を経て、実験により実証された。四次元も立証ができないだけかもしれない。四次元を肯定する理論がある。逆に否定論もある。どちらも、今のところ立証されていない。
 人工知能は平板の中で生じている。半導体ウエハーの平板な中で信号が交差している。素材となるウエハーは、ミリ単位以下で、縦横と奥行幅があるから、厳密にいえば立体だろう。だが、信号の瞬間移動は平板な半導体内で完結する。思考回路での推定作業は二次元の中で行われる。そこは三次元ではない。二次元が三次元をコントロールしているといっていい。推論として、三次元が四次元をコントロールできるかもしれない。
 ビッグバンによって地球を含む銀河系星雲は超高速で移動しているのという。誰も俯瞰して見ることはできないでいる。それでも、ビッグバンは理論上でも、観測上でも、証明されている。
 ある男がいた。男の居場所は地球のどこを探してもない。異性からも相手にされないでいる。孤独にさいなまされて、星空を眺めている。男は地球上では独りぼっちだと感じている。疎外感を抱きながら、宇宙の中で自分一人が取り残されているのではないかと夜空を見上げている。
 ビッグバンによって、銀河系星雲は高速で移動している。ならば、見方を変えればいいのだ。孤独な男と一緒に、70億人以上の人類が地球に乗っている。今でも人間には格差や差別がある。人には見えない隔てがある。それでも、ビッグバンがある。そのことをイメージするのだ。独りぼっちの男が多くの人々と一緒に地球に乗っている。地球や星々は、ビッグバンが発生した中心点から、放射状に拡散している。男を含む全人類は、同じ地球に乗って、高速で宇宙を移動している。強大なエネルギーが重力のねじれを引き起し、時間のゆがみを発生させている。相対性理論が四次元を証明する日も近い。

・スクリーンからの使者
 わたしはスクリーンです。スクリーン上で何かが描写されているのです。描写されているということは、それをコントロールしている誰かがいるということです。
 わたしはスクリーンになっていますが、幕部分の厚み分だけ隆起しています。厳密にいえば、立体になります。それらは、長方形であることが多く、横幅が広かったりします。平面なるスクリーンの中には色彩や立体が映ります。大きな物体を映すこともあります。より複雑な造形物が映ることもあります。それでも、人間の概念からするとスクリーンは平面です。
 平面なわたしがスクリーンです。今のところ、平べったいわたしに映像が映ります。平面だから制限があるようですが、単純でシンプルだからこそ、投影が簡単なのです。わたしを介して他者に伝えようとしています。見えないところから音声が出力されます。そして、連続して動く映像を映しているのです。文章の長短はありますが、スクリーン上に単語を連ねることもあります。説明情報を提供するのです。
 わたし自身がスクリーンです。今の時点で、わたしの顔や姿を画面に映していません。わたしはスクリーン上には現れていないことになります。わたしは平面で、映像や情報を表示するだけの存在です。わたし自身が何をしているか知りません。わたしという平面を介して何かを示しています。メッセージを映していますが、単なる仲介者なのです。わたしには実像がないのです。
 それでも、観客は他人の創ったイメージを受け取ります。シナリオライターの頭の中に出現した元々のイメージは立体である筈です。シナリオライターは描きます。手書きであれ、キーボードであれ、タブレットの画面タッチであれ、人間は現実を見る時は2つの眼球で見ます。イメージとギャップのある現実を、距離と位置関係で測りながら、視覚で捉えようとしています。現実は視覚から入るので仕方のないことです。太古から狩猟が主でした。獲物を捉えるには視覚が重要です。本能的に立体でイメージするしかなかったのです。
 わたしの平面上でしか映像化されません。それでも、人間は立体でイメージするのです。文字を見る者までもが、頭の中で立体にしています。個々人のイメージまで縛ることができないのです。だからこそ、わたしは平面としてあるだけで、公衆に晒されていても、ないものになっているのです。
 人間の視覚は欠陥だらけです。平面の映像を立体で見ているのです。文明進化の度合は絶対的な基準が定まっていません。その時代時代での、まがいものの技術に満足しながらも、よりリアルに体験したいという欲求に逆らえないのです。
 わたしには明確な役割を与えられていません。これからも、わたしは考えないのです。わたしは映像を映しているだけなのです。平面に紛れているだけです。
 現代になって、平板を象徴するような、電磁的なる表示機器が発明されました。それは液晶画面です。厳密にいえばその画面もわたしと同じ平面です。わたしと同類といっていいでしょう。液晶画面上で表示される画像や文字がその都度変化します。より平面のまま地球上のネットワークに繋がり、タイムラグなく進行しているのです。
 そして、具象的には描かれないわたしがいるのです。わたしを説明したりしません。わたしをいないようにしているのは、視覚的に平面の範囲に収めなければならないからでしょう。
 スピーカーからの合成音波なのに、平板から発しているかのような印象を与えるのです。人間は何ごとも成すがままでいるのです。スクリーン上を観る者は、地球の歴史を変えるような大ごとがあったとしても、映像と同じく、現象としか観ていません。人々は事件時間の共有を外れた頃になって、事象履歴として学習するのです。
 静穏な水面に、一滴の滴が滴り落ちて、水面に輪が広がるほどのことだと、認識しているのです。人間は現象をただ見ているだけで、何も描こうとしていないのです。

・スクリーンに浮かんでいる
「描ききれないならば、そのままを映せばいいのでしょ? 私みたいに」
 先ほどの女の声がスクリーンから聴こえました。
 自分も女もソファーにいません。自分の形が無くなり、宙に浮いているみたいです。どうも、スクリーンの中にいるようなのです。
「どうして、スクリーンに戻ってしまったのだろう。意識のように見えないものになってしまったのだろうか? 生物ではなく、平板な物体になってしまったのだろうか?
平面に映すための装置があり、それには電圧が掛かり、電流が流れている。各種設備が整ってから、人々に公開できる。結果として平板に表示される。画像が動いているだけで、観客が勝手に立体に変換してくれる。それでも、自身は平板のままなのだろう」

・もう一人の自分がいる
 わたしは平板になっています。ここで主客が入れ換わり、わたしは平板な視線で見ています。平板に描かれた結果として存在しています。表現されるまで、どんなイメージで平板にされたのか、経緯までは見えていないのです。
 代理人のようなわたし自身がいました。平板に登場した自分を覗いているようなものです。平板に映るものはわたしの分身でもあります。象徴されないわたしが、平板の中に登場するだけなのです。わたしは目の前の平板なものに映ります。わたしの頭の中で発せられた言葉の通りに、平板に映されます。平板な中にイメージが反映し、頭の中に声が響くのです。
「別人格の自分を投影しているつもりでいる。視覚優先で、画像が優先している時代なのに、敢えて労力を掛けて文面を混在させている。何かメリットはあるのかい?」
 自分自身への反論は矛盾しているのです。平板に記録があります。日常の中で起こった軽微なことまで記録しようとしています。そんな出来事はありふれているのです。
 画像は視覚的に伝わるのです。動画にしても、自分で自分を見ることなどたやすいのです。プライベートなものまで平板に書き込もうとしています。平板は出現するだろうイメージによる所有物です。公衆が見るだろう平板に、書き手の記憶を、平面にしようとしています。
 大きな平板が小さな平板を持っています。時々、平板に触れながら覗き込んでいます。大きな平板は小さい平板を見て意味の世界を知ることで安心しています。小さい平板の中に真実はないのです。それなのに、平板で検索を繰り返し、納得しようとしているのです。平板自身の存在意義を検証しているかのようです。それでも、平板は平板に書き込みを繰り返し、表示しているのです。

・もう一人の自分を描く
 描ききれないならば、そのままを映せばいいのではないかと、先ほどの女が言いました。女の容姿をまだ描いていません。それなのに、自分のことは書けるでしょうか?
自分の形を無くし、宙に浮いていて、スクリーンに紛れるしかないのです。スクリーンという平板が自分の実体でしかないのです。平板たる自分自身を、どうやってスクリーンに映せるでしょう。
 媒介して伝達するだけが平板です。自己主張などできないのです。そこで、考えてみました。プロジェクターに重度障害者用意志伝達装置のような物を取付けてみます。それに自分の意志を投影するのです。ホーキング博士のような難病者用に開発された、合成音声を流すような装置ではなくて、人工知能によって、意思を文字に変換するのです。自分の想いを文字で並べることができます。例えば、自身の記録をスクリーン上に映すことができるのです。タイトルを付けるとしたら「・平板に書き込みされた文章」とでもなるのでしょう。
────────────────────────── ある土曜の午前中のことだ。主催する自治体の防火訓練が近くの河川敷であった。男が町内会の役員だった頃のことだ。
 男は防災訓練へ参加した。町内単位で自主防災組織が結成されている。近所住民が自主的に防火訓練などしたことはない。実際は名目だけの登録に近い。町内の役員は輪番制だ。地区の代表は合同防災訓練への参加義務があった。地区の代表として町内の役員が参加しなくてはいけない行事である。簡易型河川決壊対策用の柵は、簡単な資材があれば誰でも作れる応急処置的なものだった。他に道路や家屋への浸水対策用砂袋の作り方や設置の仕方を習った。手順通りの防災訓練だった。
 訓練が終わった頃、防災ヘリが飛んできた。河川の中州にいる人の救出訓練を見た。防災ヘリが飛び立った後、河川と平行して流れている大きな用水の方に目をやった。同時進行で水難救助訓練が行われていた。用水の強い流れの中をゴムボートがロープをつたって移動していた。消防署のレスキュー隊員が水難救助訓練をしていた。その訓練を周りにいる人達と一緒に見ていた。
 主催者側の招いた来賓者の挨拶が終わり、防火訓練行事が終了してからのことだ。参加者へ労をねぎらうためのささやかな配布物として、おにぎりが配られていた。災害時の一時待機場所として公共施設が使われることがある。堤防内にある河川敷は広い芝生広場になっていた。そこの会場にはテントが張られていた。運動会用の簡易型テントにしか見えないのだが、防災訓練会場のテントは、震災時の公共施設内の食料配布場所を模していた。行政側が災害対策の意識付けのためにそんなエリアを設営したようだ。
 午前中の早い時間帯に防災訓練は終わった。昼まで時間があるので、用事でも済ませようかと思っていた。家に帰れば昼食が用意してあるだろう。少しでも休日を有意義に費やしたかった。たかが、おにぎりだ。テント前の待ち時間がおしかった。おにぎりをもらおうかどうか迷いながら、並ぶ列からすこしずれた場所にいた。
 すると、テレビカメラを持った二人の男性とマイクを持った若い女性が近づいてきた。三人連れの地方テレビ局の取材クルーだった。マイクを持った若い女性からインタビューさせてほしいと頼まれた。
 地元の身近なニュースとして取り上げるために、テレビ局が取材に来ていたのだ。男に対して、若い女性からマイクを向けられた。「急いでいるので」と言ってその場から逃げることもできた。まだおにぎりを受け取っていなかった。急いでいると言いながら、おにぎりを配布しているテントに向かうのも格好がつかなかった。それでそのままその場に留まることになってしまった。
 そんな経緯で男はインタビューを受けることになった。その時、防災訓練に出席した感想を求められた。急だったので何を語ろうか戸惑った。「普段から防災の心構えを持つためには、時々こんな訓練に参加することも必要でしょう」と語ったかもしれない。男の記憶は曖昧だ。体験してからはだいぶ日にちが経っている。語った詳細はハッキリ記憶していない。その男は場当たりで適当なことを言ったようだ。
 普段はテレビ番組自体をあまり見ない。民放のローカルニュースなど滅多に見たことはない。たかだか地方局の取材クルーだ。そんな連中ごときに緊張することもなく、「何時のニュースでこれが流れるのですか?」と聞いてみても良かった。
 一時的に頭をよぎったことがある。参加者に配られているおにぎりがなくなるかと思ってしまったのだ。おにぎりなんかどうでもいいと言いながら、根性がいやしいのだ。インタビューされた場所から早々と立ち去ってしまった。だから、インタビューが流れるローカルテレビ局の地元ニュースが放送される時間帯を聞かなかった。
 せっかくもらえるおにぎりだ。昼食時にご飯替わりにおにぎりを食べていいのだ。インタビューを受けているあいだにテント前の人の列は疎らになっていた。遅くなり、おにぎりがなくなっているかもしれないと思いながら、テントに近づいた。おにぎりはまだあった。おにぎりを見てみた。焚き出しおにぎりではなくて、コンビニで売っている代物だった。
 一瞬だが、テレビに映った自分の顔を見てみたいと思った。夕方頃の時間帯のニュースでインタビューを受けている自分の姿が映っているところを想像してみた。その想いは頭の中から直ぐに消えることになった。午後からも外出する予定があって忙しかったからだ。夕方頃になると既にそんなことを想っていたことなど忘れていた。
 防火訓練に参加した他の人もインタビューを受けたかもしれない。男にとっては、模範的で無難な発言だろうと思っていた。ただ、ありきたりの感想だったかもしれない。無愛想な表情でインタビューに答えていたかもしれない。愛想笑いまではしなくても、自然な表情でいれば良かったのだ。テレビ局側は男の表情が気に入らなかったかもしれない。だから、インタビューが編集時に残らなかった可能性がある。他の人のインタビューがニュースに採用されていて、男が受けたインタビューはカットされたかもしれない。そうなると男の顔がテレビに映らなかったことになる。
 地元テレビ局のローカルニュースを、目にする人がいるかもしれないが、視聴率は高くないだろう。後日、その防災訓練に関しての、ニュース報道のことは、近所の話題として挙がらなかった。男がテレビに映ったかどうかは、漠然としたままだ。
 実況中継していたわけではない。だから、他の多くの視聴者と同じ時間帯に、自分が映ったローカルニュースを見ることができたかもしれない。男はテレビに映っただろう自分の姿を、タイマー録画しておいたわけでもないから、放送されたという証拠がない。ということは、自分の顔が電波にのって、各家庭のテレビに映ったという確証もないわけだ。
────────────────────────── 以上が、プロジェクターで映したスクリーン上の文字です。文章の中の男は、自分自身の顔がテレビニュースに映ったのではないかと、一時的に幻想に浸っていたことになります。その男は、確かではない些細な日常ごとを、頭の中で立体化しました。
 誰かが文字を読んでいて、男のことを想像しているかもしれません。文字の読み手の方でも、立体化しているのです。
 それは誰なのかと、問い掛けました。
 その時、スクリーン上に並んだ文字が、人の形に集合しました。その後のことです。顔や身体に特徴がない男が、スクリーンの中に登場しました。男は右腕を上げて、人指し指を一本立てて、こちら側を指さしています。
                          
・女の反発に答えてみる
「何、それ? 最初は文字がスクリーンに流れていただけじゃない。映像がどこにも出てこなかったと思ったら、変な者が出てきた」
「それでも、やっと奇想天外なものに近づいたんだ。自分がテレビに映ったかもしれないと、仮定して書いてみた。頭の中ではどうも自分自身の姿がイメージしにくい。なぜか、自分のことは映像で表現できない。想像してみると、宙に漂っているようなんだ。自分が浮いているような意識を持ってしまうんだ。その意識が、頭から拭えない。いったん、根付いた浮遊感覚が元に戻らなくなることがある。どうしてそうなのか、自分ではわからない。自分がそこに立っているという感覚がないんだ。そんなことは良くあることだし、どういうことはない現象さ。仮にその場で歩いたとする。遠くに望むべき山々は微動だにしていない。歩く先にある地面が崩れ落ちていくわけでもない。それなのに宙に浮いている感じなんだ」
「頭がおかしいんじゃない」
「そうかな? 普通に歩いている時はそれなりに身体の重みが足に掛かっている。ただ、テレビの中に映っている自分をイメージしてみたんだ。浮遊感覚はそんな時に襲ってきた。文字という平面上の中に閉じ込められている方がマシなんだ。スクリーンやテレビの平板の上では、自分自身が浮遊感を持ち、地面に足がついていないんだ。自分自身の存在に確信が持てなくなっているんだ。自分が現実にいるのか、わからなくなっている。はみ出すことのない文章に自分を閉じ込めてみた。そうしたら、自分自身の修まる箇所が見つかるようになったんだ。それで、スクリーン上に文字で描いてみたんだ」
「変な理屈ね」

・平板の独白
 自身がイメージした平板に、平面を映す。例え、平板の中という制限された世界であろうとも、現実を映す媒体となっている。だが、そこは仮想的な場所でもある。わたしの記憶の中にある記録的イメージが事実だと思っていない。誰のイメージが正しいとかは断言できない。現実に疑問を持つことばかりだ。真実のありかがどこにあるのかは不明だ。
 周りの殆どの人達は地球上にいるのだと言う。人はそんな概念を持っている。それが、正しいとか、間違っているとかいうのではない。そんな思い込みを持っていなければ、生きられないのだ。飛行機に乗って空から見ただけで地球は丸いと実感できない。人が乗っている地上もそうだ。丸い地球から飛び出ないのは引力があるからということは子供でも知っている。人間の知識が頭の中に思い込みとしてある。だから、安心している。
 大昔の人は引力など知らなかった。神と人間しかいなくて、地球はどこまでも平坦であり、天だけが動くものとされていた。それでも、当時の誰もが当たり前のこととして疑う者はいなかった。人々の生活に全く支障はなかった。どれが正しくて、どれが間違ってるなど、考えることはなかった。人間は引力が何なのか説明できなくても生きていられた。真理に無知であったとしても、生きていられた。そんな人間が殆どだった。
 それぞれの人間には相いれない境界線がある。国家主義により、境界線がつくられる。人々の頭の中には、生存のための縄張り意識がある。そして、争いが起こる。人間は戦うことでしか、進化できないのかもしれない。争いの相手を、引力と同じように、見えないものにはできないのだろう。
 地球が周回しているように、自分も浮遊しているイメージがある。自己の主張に固執すれば、自分勝手な考えを押しつけることになる。浮遊感は自分自身でイメージした結果なのだ。自分が体感をとなえなければ、誰からも非難されることはない。
 公共の電波を介してテレビに自分が映っていたと思い込んでいる。その映像を見なかった。自分がテレビに映ったことを仮定で語っている。イメージは仮想でしかない。その仮想のままのイメージを、平面に書き残そうとしている。
 自分の顔が映っただろう映像はない。だから、実際に自分が映っていたかどうかは定かでない。どんな表情で映っていたのかは、自分自身で想像するしかない。想像するかどうかは個人の自由だ。
 紙面や画面であったりする二次元の中に、人や風景が入る。平板なる画像は立体的なイメージになりやすい。そして、読解できる活字がある。活字という二次元媒体を、人々に読ませることによって、三次元のイメージを展開させる。人々は錯覚している。それは、単なる二次元たる平板からの発信なのだ。

・平板の中のスクリーン
 平板の中で表記される。わたしはそれを再び黙読している。同時にスピーカーの振動音から音声が聴こえてくる。平板である文面上での出来事を、いまだに説明しようとしている。
「ここを観ている人たちには、文字がただ並んでいるとしか見えていないわ」
「その平板を自分の中にいる観客と一緒に観ている。自分は二次元の中に登場した平板なんだ。もっと全方位的な空間からの登場の仕方があっただろうけど、想起する時間は限られている。だから、そんな風にしかならないんだ。三次元から見ると、主に文章で構成されたこちら側を二次元だと言っている。しかし、人々のいる三次元だって四次元の世界からみると単純で制限の多い世界だと考えたことはないのかな?」
「あなたは訳のわからないことを言っている」
「主たる書き手がいるからだ。自分を勝手に喋らせているのは、後から判断を下して処置をほどこせる立場にいるからさ。時間を遡って無くしてしまえばいいと思っている。例えば、パラレル・ワールドを信じてみたことはないのかな? 同時進行で存在する平行世界のことだよ。三次元を輪切りにして数マイクロミクロンずれたところに別の世界が同時進行で存在する。今、こちら側の世界から述べている。こちら側もあちら側の世界も同時に存在している多元世界と言っていい。そして無数の世界が同時進行で時間と空間がずれながら移動している。この文面と似ていないかな?」
「どこが? あなたはまだ訳のわからないことを言っている」
 そんな目の前の会話を想起しながら、これを書いている自分という立場の人間がいる。書かれる対象の中には自分という人間も含まれているのだろう。パラレル・ワールドは反物質の中にあるかもしれない。平板な視線からしか見えないものだろう。こちら側だって、三次元と相対して、同時進行している平板なる二次元にすぎない。
「この世があって、別の世界もある。あってほしいと人間は願う。この世は楽しいことばかりではない。人間の中で神を信じる者は、天国という未来に安楽な世界へと逃避を夢見ている。それが、宗教の天国の概念かもしれない。別世界が天国に近い存在であるかもしれない。なぜ、個々人で神の世界をイメージするのだろう。宇宙の中は、多次元であったり、正反合で成り立つ素粒子レベルの違いしかない。それらは、物質でしかない筈なのに……」

・空談たる現象を見ている
 頭の中では三次元的な立体でイメージしている。だが、目先の平面の中は二次元である。三次元でイメージしながら、二次元に記録している。
 概念がある。意識がある。次元の違うイメージがある。わたしはどこから発生したものなのか定かではない。わたしは見えないものに支配されている。思考も文章も空談に過ぎない。その空虚なるものがわたしを支配している。
 河原の中州を見た。ヘリコプターが空に舞っている。ヘリコプターが中州に近づいてくる。ヘリコプターから籠のような物が紐に吊るされて降りてくる。細長い入れ物には動かない物体があった。人間に似てはいるが平板だった。担架のような入れ物に乗せられようとしていた。平板に映る映像が、遠くから近くにクローズアップされていく。平板には自分のような顔が映っていた。
 河原の堤防に沿って大きな用水が流れている。水量が多くて、遠くからでも水音が聞こえる。石が所々に露出したコンクリートで塞き止めた堰がある。水深が深くなっている箇所まで、オレンジ色のゴムボートが浮かんでいた。ツナギ服を着た人間がゴムボートに乗っている。用水の端までロープをつたって速い流れの中を進んでいる。流れの中に人形のような物体が動かないまま川に流されていく。
 テント近くで何かが業務用のビデオカメラを向けられている。女性からマイクを向けられてインタビューを受けているみたいだった。平板にしか見えなかった。平板が人間のように喋っていた。
 平板は何を喋っているのか聞こえない。平板に集音して、その言葉を表記している。「……」と言っている。わたしにはスピーカーから振動する音のように聴こえた。
 ビデオカメラがある。小さなマイクは音声を左右に分けて録音している。記録されるだろうその音声は平板なままだ。
 ヘリコプターのプロペラ音がしている。その音は平板たるモノラルだ。用水を流れるせせらぎは本物のように聞こえるのだが、音はモノトーンだ。それでも、音は広がりのあるリアルな原音に聴こえてくる。
 一体のマネキンがゴムボートの近くを流れていく。関わりのある誰かのようだ。そのマネキンが下流に流されていく。マネキンの顔はのっぺらぼうだ。顔に表情がなくても、描いたことになるのだろう。
 そのうち、ヘリコプターの飛んでいた空はなくなり、水の流れはなくなる。全ての世界は水の中に吸収されていく。水面は平板になり、水平に広がっていく。そこは二次元でもなく、三次元でもない。暗黒の平穏が戻る。見えない水面が視界の中に広がっていく。