これからぼくは何かを書こうとしている。締切りが来るので仕方なくこの文章を書いている。当初からテーマを決めて書いている訳ではない。思い入れのある文章にしようとしている訳でもない。だから、端から見ると、行数を埋めるだけに、書いている様に感じられるかもしれない。
 ぼくが今まで書いた作品の中の男女関係は、架空の出来事のように見えるかもしれない。が、殆ど自分の体験に基づいて書いたつもりである。
 実際にあったことを造り事のように書いたのだ。それを読者が架空のことのように読んでいるのなら、自分の力量がまんざらではないのかもしれない。そのことは、肯定的なものとしてとらえたい。
 この文章は、思いついたことを並べて、書こうとしているだけなのかもしれない。それでも、読み進んでいくうちに、この文章を、フィクションだと言う人がいるかもしれない。その境目が曖昧なのだ。今まで自分が書いたものは、一応、小説というジャンルに入るらしい。しかし、今まで書いてきたものの殆どは、主に自分の体験したことを書いてきた。
 ただ、ありのままのことを書いただけでは、面白みがないと思った。読者が飽きずに読み進められるようにと、文章上、状況の一部分を誇張してみたり、時系列配分を、恣意的に前後させたりして、小説のような構成にしていたのだ。
 時々、過去の出来事を思い出す。不可思議なことや、印象に残っていることもあった。人間の行動や現象をそれなりに観察していたつもりだ。記憶を呼び戻し、ありのままを文章にし、羅列するだけなら、読み物としては成り立たなかっただろう。だから、実体験を加工せざるを得なかった。先ずは読者に読んでもらうことを優先した。
 自分の作品を読み返すことは滅多にない。それでも、何かの機会に自分の書いたものを読み返すこともある。自分の作品であるのは確かなのに、別人が書いたような違和感がある。
 こうやって振り返りながら書いていて、考えることもある。時の経過を経ながら、頭の中では、自分の都合のいい方に解釈しているのかもしれないということだ。自分を正当化しようとしたり、偏狭な思い込みにより、記憶の元にあるイメージを、歪曲しているかもしれないのだ。
 読者にどう受けとられているか、知るよしもないが、辛うじて文章に残せたことになる。読者に印象的なこととして伝えられたかどうかは定かでない。
 人間の営みの中の現象事は、普遍性があることなのか、ないことなのか、ぼくの頭の中ではずっと疑問のまま残っていることがあった。前回までの作品の中で、もし適当な箇所に該当すれば、加えるつもりのエピソードもあった。しかし、それぞれの作品に該当しないエピソードだと思えた。それで、頭の片隅に残されたままになっていた。
 分からない現象について、機会があったら、深く追求してみたいと思っていた。書きながら、同時にそれらの現象を、考察してみたいと思っていた。書き終えてから、真実を解く鍵になればいいという気でいた。しかし、ぼくの思惑通りにはならず、今までの作品の殆どは、不可思議さだけが増す展開となっている。今回もそうなるだけかもしれない。
 それらの現象は頭の中で考えていても解明できないだろう。書き終えたとしても、結論がでないことだろう。が、分からないままでも、記録しておきたかった。現実の中にある、男女の不思議さを列挙してみたかった。明確な回答が出なくても、現象を例証し、書き残すだけでもいいのだろうと思う。ぼく自身は読者には何も伝わらなくてもいいという心境でいる。
 彼女とこんなことがあった。彼女は年齢差のある若い女だった。毎回、文中に登場しているので、読者の中にはうんざりしている人もいると思う。
 彼女と久しぶりに交わることになった。熱い日が続く夏だった。その日も熱帯夜のまま日付が変わろうとしている時間帯だった。ホテルの一室で性行為が行われる前に彼女は言った。
 エアコンの設定温度を見ながら、「した後、汗をかくのじゃない?」と、異常な汗かきである、ぼくの体質のことを熟知しているから、出た言葉だった。
 エアコンの温度は二十六度に設定してあった。しかし、ぼくのことを気づかってか、エアコンの温度設定を下げるつもりで、そう言ったのかもしれない。その日の晩に彼女と三ヵ月ぶりの情交が行われようとしていた。
 彼女は、殆どの女性に共通し、一般症状と言える冷え性だった。ぼくも彼女のことを気づかうならば、エアコンの設定温度を下げる訳にはいかない。ぼくは「そのままでも大丈夫だよ」と言った。
 ぼくはアルコールが体内に入ると体温が上がる。逆に彼女は体温が下がる。彼女は真夏でも飲酒をした後は必ず夜食にインスタントのカップヌードルかスープを口にする。さらに彼女はバスルームのバスタブに湯を張る。彼女は湯に浸って身体を温める。ぼくが同じ湯船に一緒に入ることもある。温めの湯でも、ぼくの体温が否応なく上がる。
 腰のピストン運動がピークに達し、射精を終えた直後に、汗が治まらないのは、真夏でも真冬でも変わらなかった。情交を終えるとぼくの顔から汗が吹き出た。
 真冬は暖房で室温が高いし、冷暖房の必要のない春か秋でも、セックスの途中で汗が治まるわけではない。コイトスの最中にぼくの顔から汗が滴り落ちる。バスタオルを時々自分の顔に持っていき汗を拭き取る。それでも、油断すると汗が落ちて彼女の顔面を直撃した。ちょうどぼくの汗が彼女の顔に滴り落ちる。たまに彼女の顔に落ちた汗をぼくがタオルで拭き取ることもある。
 気が散って快楽度が下がることもあった。それでも、最近の彼女は、ぼくの汗のことを全然気にしていない様子だ。ぼく方も、自分の汗は段々と気にならなくなっている。この前、彼女は、ぼくの滴り落ちた汗が目に入ったと言って、爆笑したことがあった。
 女とはどんな感性を持った異性なのだろうか。相手が自分の感覚の範疇に入り込めば、男の汗も匂いも気にならないものだろうか。
 ぼくと彼女とは親子以上の年齢差がある。ぼくの頭には白髪の部分が多くなってきた。中年太りのメタボで腹が出ている。年は食っていても渋みのある男優やテレビタレントのような容姿を持たない。誰が見ても釣り合いの取れないカップルに映るだろう。
 彼女の感覚に取り入れられたならば、年齢差も容姿も気にならなくなるものなのだろうか。この頃彼女は、自分達の関係に自信を持っているような、堂々とした態度で、常々行動している。ぼくも彼女の態度に感化されたのか、周囲の目に晒されても、びくびくしたり、卑屈にならなくなって久しい。
 最近、テレビの芸能トピックスを見た。漫才コンビの合い方の一方が、婚約の記者会見を開いていた。婚約相手の女性タレントは、二十歳位で、漫才師とは二回り程の年齢差があった。その記者会見の時に、婚約相手の若い女性は、フィアンセの漫才師を側にして「加齢臭もいとおしい」と言って、周囲の笑いをとっていた。
 さて、最初の出会いから何回か性交を重ね、彼女とは親密度も増してきたと感じた頃だった。彼女は未だ十代だった。ラブホテルでのことだった。彼女はセックスを終えると、バスルームに向かおうとしていた。その時、ダブルベットにバスタオルが二つ置いたままになっていた。そのバスタオルが、ぼくのものか彼女のか、ハッキリ分からなくなっていた。
 彼女はぼくに近い方のバスタオルを持ってバスルームに向かおうとした。ぼくはそのことに気づいたので「ひょっとしてぼくのバスタオルじゃない?」と注意した。
 すると彼女は「どっちでもいいじゃない」と言った。ぼくは若い女の使用済のバスタオルなら彼女に限らず、全然構わない。しかし、異性でもある女の子は違うだろうと思った。
 どうも最近の女達の行動が分からない。過度に清潔好きな、潔癖症タイプの女が増えたのか、女房にさえ洗濯物は別にされる夫がいるらしい。実の娘にさえ臭いと言って疎まれる父親がいると聞く。そんなご時世だ。
 それなのに、バスタオルの一件は好感を持てた。彼女はぼくに対して全くの他人でないという感覚が芽生えていたのかもしれない。世代的にも思考的にもギャップがあって当然の、赤の他人同士の男女の間に生じた、皮膚感覚から来る副産物であったのかもしれない。
 彼女の感覚が異常なのかもしれないし、女一般の感覚なのか判然としない。彼女の感覚が正常なのか、異常なのか分からないエピソードがある。
 彼女は二十歳頃で大学生だった。同じ地方出身の女友達と、副都心にある大学近くのアパートに、ルームシェアをしながら共同生活をしていた。
 二人で暮らすには、たぶん、狭い部屋であっただろう。セミダブルのベットで、女友達と一緒に寝ていた。勿論、彼女ら二人は、レスビアンではなく、各々両方に彼氏がいた。
 その時期、彼女と友達は約束ごとを決めた。その一つに、男を部屋に入れてもいいが、ベットは絶対に使わないことを条件とした。男が使ったベットは、気持ちが悪いからだという理由からだった。その点、男はだったら、若い女の使ったベットなら大体は好ましく感じると思う。
 むしろ、ぼくには同性となるが、男が使ったベットは嫌なのは分かる。シティホテルやラブホテルなら、シーツを全部替えるので問題はない。が、どんなに清潔好な男が使ったとしても、そのままにしたベットに寝るのはぼくも嫌だ。
 彼女に出会った頃から、セックスの時にキスを求めても厭わなかった。舌を絡ませるとか、ハードなものではないが、唇は互いに吸い合った。
 彼女と別れる間際のキスは挨拶代わりだった。彼女が車から降りる時、別れのキスは付き合った頃から行っていた。暗がりだったり、車内だったりで、周囲の人から見られることもなかった。
 ところがである。今では恥という感覚をなくした行動に出ている。都会では、半径五十メートル以内に、少なく見ても、百人以上が通る箇所がどこでもある。そんな公衆の面前で、ぼくは彼女と堂々とキスをする。
 ぼくは露出狂ではない。どちらかというと目立たない様に振る舞う方だ。都心の真ん中の駅や道路で、キスをすることもある。彼女の帰路方向の鉄道路線の関係で、別々になることがある。電車の乗り換え時に、駅のホームや改札口で別れのキスをする。
 公衆の面前で、今どきの若者のように、周りを全然気にしないでキスを行う。そんな時は「砂漠の様な東京」という表現のニュアンスが違ってくる。二人だけがこの世の中心となっている。キスをしている二人の僅かな空間で、大都会の時間を止めている。周囲の目も気にならない。ぼくの周りの外界は、放送が終了して、電波の受信できなくなった、深夜のテレビ画面の様に、黒白斑のブツブツした砂嵐しか映らない。
 ぼくと同じ年代の人々はどう見るだろう。果たして、もの珍しい光景として見るだろうか。大勢の中にいるカップルだからか、却ってそんな行動は無視できるのかもしれない。公衆の中では、ほぼ無感動で、ぼく達男女二人の姿はただの場面にしか見えないのだろう。
 どこかのキャバクラ嬢といい仲になった、すけべ親父位にしか映らないだろう。他人がこちらの関係をどう想像するのも勝手だという思いになる。経営者と秘書との怪しい関係か、はたまた資産家三代目の中年男と、若い愛人とのカップルと映るかもしれない。
 彼女の影響で他人の目は気にならなくなった。他者から見た意識を、自分と同じだと思い込んでしまう。他者を無視する感覚が、自分と同じだと、勝手に解釈してしまうのが「大都市東京」なのだろう。ぼくが住んでいる地方の街中では、知人とどこかで出くわすので、そんなことは絶対にできない。
 公衆の面前で交わすキスにも違和感を持たなくなった頃だった。彼女と付き合って、ある程度の期間が経過していた。二人で何処へでも行くようになっていた。一つの皿の上の料理を二人で箸をつついて食べる。ぼくが先に箸をつけた料理でも「美味しい?」と聞きながら、彼女は躊躇なく食べてしまう。
 彼女は少し変わっているのではないかと思ったこともあった。夜の遅い時間帯に、九州に本店があり、全国展開するチェーン店で、彼女と二人でラーメンを食べたことがあった。彼女とは食べ物に対して好みが違った。ぼくは柔らかめの麺を選ぶ。彼女は硬めの麺が好みだった。
 それぞれ、自分の分のラーメンを食べ終えていた。彼女はラーメンの汁まで飲み干していた。血圧が高いぼくは、塩分を考慮して、汁は残していた。旺盛な食欲の持ち主の彼女は、ぼくに麺の追加として、替え玉の注文をして欲しいと言った。ぼくの方の皿の、残ったスープの中に、追加した麺が入った。
 既にレストランで飲食を終えていた。彼女はその日の晩のメインの食事だけでは満足していなかったらしい。ホテルに戻る前に、何かを食べて行くことになり、そのラーメン店に入ることになった。ぼくは最初の一杯目を食べ終えて、既に満腹だった。彼女は未だ食べ足りないみたいだった。二人で一杯のラーメンを食べるつもりでいたのかもしれない。が、ぼくの方は、一口食べただけで、それ以上は食が進まなかった。彼女はぼくが食べないと知ると、残り全部のラーメンを汁まで平らげた。
 彼女の父は転勤族だった。今は定年退職をして、地元の関連子会社の支社長になった。転勤がなくなったので、県庁所在地近くに、退職金を足しにして、家を構えた。JR駅からやや離れている団地に彼女の実家がある。駅からは車で行くと近いが、公共交通機関が乏しい。
 彼女の実家のある県は、蕎麦の生産地で有名な地域だった。彼女の生家は別にあって、海抜の高い地域だった。山間地が多いせいか、統計上では蕎麦の生産高が全国一だった。蕎麦の食べ方も色々あった。ある日、彼女が帰省している時、実家近くの歓楽街に行った。和食や創作料理が中心の居酒屋に入った。彼女と一緒にアルコール飲料を嗜みながら、地元の食材をふんだんに使った料理を食べていた。ぼくが頼んだ地元料理のコースメニューの中で蕎麦が出た。
 碗の中の蕎麦は冷たい汁に浸っていた。その蕎麦に大根おろしが添えられていた。ぼくは大根おろしを蕎麦に絡めて食べ始めると「美味しい?」といつものように聞いてきた。「まあまあ」と答えた。彼女はぼくが食べている蕎麦に興味を持ったらしい。彼女は地元だし、蕎麦はいつも食べているだろうと思っていた。蕎麦はぼくが全部食べるつもりでいた。半分も食べてないのに「いい?」と言って、ぼくの碗を取り上げた。ぼくの了解も取らないで、大根おろしでぐじゅぐじゅになった汁ごと、黙って全部食べてしまった。
 ラーメンと違って、大根おろしの入った汁は、見た目は吐瀉物に近い。近しい男の食べていた物とはいえ、抵抗もなく口にできるものだと、感心した出来事だった。それで、鮮明な記憶として残っている。
 ぼくは、「失楽園」と言う小説本を未だ読んでいない。その小説は同タイトルで映画化されたらしい。その映画もぼくは見ていない。ほぼ同じ配役で、テレビドラマ化されていた。偶然、そのテレビ番組の途中だけを目にした。女優の黒木瞳が出演していたのを思い出した。
 主要出演者が映画と一緒だったのかもしれない。正確なことは知らない。テレビ番組用に編集し直したものだった。偶然、チャンネルを替えたら、その「失楽園」のテレビ版をたまたま見ることができた。
 最初から見た訳でも、最後まで見終えたわけでもなかった。途中の場面をたまたま見ただけだ。その場面は、情交を終えた後らしかった。相手男優の役所浩司が、ご飯を食べている側に、黒木瞳がいるシーンだった。
 役所浩司の口の周りにご飯粒が付いていた。その米粒を指で取って黒木瞳が食べた。それは普通にあり得るなと思った。世間体も忘れ、互いに深く愛し合い、身を持ち崩す程の情を交わした相手なら、自分の分身のような、近さを感じるものなのかもしれない。
 ぼくの両親は既に高齢で性交渉はなくなっている筈だと思っている。性交渉はなくなっても、父と長年連れ添った母にとっては端から見るとおかしいと思える行動に出る。本人にとっては、違和感のない行動なのだろう。母自身は言動や行動を自然なものとして振る舞っているだけなのだろう。
 以前、こんなことがあった。父が農作業後にシャワーを浴びていた。父は清潔好きというのではなく、注意しなければ下着を替えないでそのままでいることがある。母が父のパンツの匂いを嗅いで、汚れているから替えるように言った。その時、居間にいたぼくにも聞こえてきた。方言かもしれないが「鼻毛嗅いでいる」と呆れたように父が言っていた。
 実を言うとぼくも彼女の下着の匂いを嗅いだことはある。彼女がシャワーを浴びている時とか、用があって外出している時のことだ。バスルームのカゴに、着替えた後の下着が置いたままになっていることがあった。彼女のバックに、前日から脱いだままの、パンティが入っていることもあった。
 ぼくはそれらの下着の匂いを嗅いでみたことが何度もある。不快な匂いは全くなかった。彼女は膣が濡れない体質だった。分泌物の出ないことと、下り物がないことが、関係あるのかもしれない。しかし、ハッキリしたことは分からない。
 女性の膣には、雑菌の繁殖を防ぐ巧妙な仕組みがそなわっているらしい。「エストロゲン」という女性ホルモンが増えると、膣内でグリコーゲン(多糖類)が合成される。するとグリコーゲンを分解して酸をつくる乳酸菌が増えて、膣内はpH4 .7の酸性に保たれる。乳酸菌以外のほとんどの菌は、この環境では生育ができないため、病原菌の繁殖を防ぐ効果があるとされる。エストロゲンは成長段階によって増減し、子供や閉経後の女性は少ないらしい。
 若い女が持っている代謝のせいなのかは分からない。彼女の体質に限っているのかもしれない。小便の匂いもしないし、体臭の残り香もなく、無臭に近かった。彼女のパンティからは、陰部を連想させる匂いは一切なくて、がっかりした覚えが何度もある。
 十代の頃にホルモンバランスが乱れて生理が止まったこともある。原因は分からないが、精神が不安定だったこともあるかもしれない。そのおかげで彼女と出会えた。その頃から性的な匂いを意識したことはなかった。
 二十代になり、大学卒業直後に海外留学し、ホルモンバランスを崩して帰国が予定より早まった。その時も精神が不安定だったみたいだ。彼女は治療として女性ホルモンの投与を受けていた。彼女の場合、ホルモンバランスと匂いとの関連はないみたいだ。
 匂いフェチというのがいるらしい。相手の下着や靴下の匂いを嗅ぐのが嗜好らしい。しかし、愛した相手でないと駄目らしい。そんな趣味には興味は湧かないが、ぼく自身の事例として、先程述べたように、彼女の下着の匂いを嗅いだことはある。匂いフェチは想像できない範囲のものではない。
 ぼくには愚直で素朴な老いた母がいる。そんな母は、以外な面を持っていた。母は合い箸を極端に嫌った。自家製の漬物を、ちゃんと小皿に取ってからでないと、食べるなと念を押される。ぼくは同じ家族なのに、合い箸くらい何も変なことはないと反論する。だが、母は極端に嫌がるのだった。
 父もぼくも合い箸には無頓着だった。父が箸を付けた後の漬物でも別に違和感なしに食べられた。箸に病原菌が付いているとは思えなかった。父はトイレに行っても手を洗わない。農機具の整備をしていて油で手を汚すこともある。洗剤で洗っても手の油の汚れは完全に取れないのだ。それでも、箸で漬物を掴むのだ。手で漬物を掴むのでないのだ。父親が箸を付けた漬物を、気持ち悪いと思ったことは一度もない。
 母は違った。父であろうと実の息子だろうと合い箸を嫌った。その都度、小皿を各々に用意した。小皿に漬物を取り分けするのは面倒なので、母の目を盗んで、漬物が入った鉢に、直接箸を付けて口に運んだりする。
 日本にある中華料理店では、円卓を囲んで食べる中華料理を各々各人が取り皿に盛り分けしてから食べる。それが日本では普通の光景なのかもしれない。日本人は合い箸を不潔だと感じるからだろう。
 ところが、本場の中国では、合い箸はマナーの一部なのだ。自分の分は小皿に取るかもしれないが、大皿に盛り付けられた料理に、箸は付いていない。他人同士だろうが、一緒に食事をする時は、大皿の料理を各々の箸でつつく。一緒に食事をし、箸を交えることが、親睦を深めることになるのだろう。家族以外の他人だったとしても、親睦をはかるための作法の一部なのだろう。ただ、最近の中国事情は知らない。一人っ子政策で、若者のマナーも違ってきているかもしれない。
 中国の事例を母に語る。それでも、ここは日本だと言い張って、頑として合い箸を嫌う。田舎の老いた母であるが、こだわる根拠がどこに由来するのか、判断しかねるのだ。
 そんな母であっても、遠い過去に特別な記憶がある。幼かった頃のぼくは、まだ鼻タレで、二歳か三歳だったかもしれない。膿のような濃密な鼻汁を出して、納屋の辺りをよちよち歩きしていたかもしれない。
 母は農作業の合間にぼくを見つけた。ぼくの鼻に口をつけてとその鼻汁を啜った。そして、ぺっと母の口からぼくの鼻汁を吐いた。実際のところ、何才の頃の記憶か定かではない。それ以前もそれ以後も鮮明な記憶として残っている場面は特になかった。幼い時期であることは間違いなかったと思う。
 後年、あんな気持ち悪いことが、良くできたものだと、時々思い出す。母親とはそんなものなのかもしれないと思った。愛情というよりも母は血を分けた分身としてわが子を感じていたのだろう。
 そんな母はどうして合い箸を嫌うようになったのだろう。過去に何かあって合い箸が嫌いなのかもしれない。そう推理するしかなかった。祖母はそんなに自己主張の強いタイプでなかった。母に辛く当たることはなかったと思う。
 ぼくが幼かった頃は、農作業に明け暮れる母に代わって、祖母に育てられた。その点でぼくはばあちゃん子だった。ぼくが未だ小学生の低学年の頃に祖母は亡くなった。
 祖父は我が強く、倹約家、俗に言うけちだった。テレビは既に各家庭に普及していた。父は家庭団欒でいるだけでは物足りないと感じていたのだろう。度が過ぎない程度に賭け事は好きだった。
 賭け事といっても賭麻雀程度の遊びだった。母以外の女に興味を示すこともなかった。近所の付き合いで徹夜麻雀でしょっちゅう家を空けていた。けれども、どちらかと言うと父も倹約家だと思う。ぼくもけちである。けちは三代続いている。血筋だと思う。祖父は先代からの蓄えを残し、倹約を続けていたお陰で、近所からは、小金持ちの資産家に見られていた。
 少しばかりの資産を持つと、そうなるか分からないが、祖父は息子である父の家計が気になるらしかった。派手な遊びもしない父に向かって、浪費をしていると愚痴を言った。祖父も父も酒が入ると、いつも怒鳴り合いの喧嘩をしていた。喧嘩ばかりしていて、家が暗かった。祖母が早くに亡くなり、祖父は寂しかったのかもしれない。父がいない時を見計らって、祖父は気分を紛らすためにか、母に対して言葉による暴力を発していた。
 母は祖父から精神的虐待に近い暴言を受けていた。それ故、家族皆で食事をしていて、祖父が漬物の鉢に、直接箸を付ける度に、累積していった何かの感情があるのかもしれない。そう、推理するしかない。
 ずっと前、ぼくは何人かの女と援助交際をした。どんな体位の性行為でも許す女はいた。が、キスは絶対に拒むタイプの女がいた。
 昔の売春婦がそうだったらしい。下半身は許しても本当に好きな相手しかキスをさせない。下半身は大小便と同じ感覚なのかもしれない。性欲の処理をする性器に近い場所に排泄器官がある。性器も、性欲の排泄器官なんだという考えなのかもしれない。性器を触れさせただけで、心まで売った訳ではない、という論理らしい。
 付き合っている彼氏しかキスをさせない。しかし、援助交際の相手にはキス以外で身体は許している。援助交際という売春行為を行っているのに、そうやって正当化してるのもおかしい話だ。
 ある女としばらく援助交際で付き合ったことがあった。その女に彼氏はいなかった。当時はまだ出会い系のテレホンダイヤルしかなかった。その頃に知り合った相手だった。
 その女は美人ではなかったが、特に醜い顔だちでもなかった。普通の会社勤めをしている女だった。身体は太りすぎず、痩せすぎず、ただ、学生の頃にスポーツをしていたらしく、むちむち感はあった。
 珍しく女は天然のパイパンだった。性器の周りに申し訳程度に薄い毛が数本生えているだけだった。彼女はキスも許した。クンニリングスも拒まなかった。
 前戯前にキスから始めた。性行為が進んで女の性器を嘗め回した後で、またキスをしようとすると、拒まれた。後々、どうしてそんな態度に出たのか考えてみた。要は自分の性器を嘗めた口でキスをされるのが嫌だったのだろう。自分自身の性器を、なぜ不潔に感じるのだろうかと、不思議に思った。ぼくが性器を舐め回す時、唾液を介していたことが要因だったのかもしれない。人それぞれ、身体的な感じ方に、ずれがあるのだ。愛情のある交わりでなかったことも原因なのかもしれない。
 その女と一度ラブホテルで泊まったことがあった。その女とは始めて夜を明かすことになった。女とは公にできる仲ではなかった。女の地元近くのレストランで食事を取ることはできなかった。
 慎ましい夕食だった。フライドチキンの詰め合わせと酒類を持ってラブホテルに泊まった。酔った女はぼくが近づくだけで「寄らないで」と拒絶した。アルコールが入ったら、以前の嫌な記憶が、同じ様な状況で、甦ったのかもしれない。あるいは、幼児返りをするように、我が儘な行為をしてみて、ぼくを試していたのかもしれない。その後、どんな行動に出るのか、試していたのかもしれない。最初から性行為に入るのでなく、人として受け入れてもらうこと、つまり、女として口説いて欲しかったのかもしれない。サバイバルな環境の中で、強引に力ずくで犯してもらいたかったのだろうか? パーソナルな女の精神状態までは把握できなかった。
 女は感情の生き物だと言う。相手の男を嫌いになったら、一挙手一動全てが嫌いになるらしい。どんな、気持ちかは言葉では言い表せなくて、とにかく触られるのも嫌になるらしい。そんな一端をかいま見た気がした。
 何のためにラブホテルに入ったのだろうと怪訝に感じた。何度、近づいても女は拒絶した。ベットは共にしたが、とうとうその晩は、セックスに至らなく、眠るだけにして、朝方に別れた。休日の昼間や夜に会ってセックスをする関係はその後もしばらく続いた。その女と一夜を供にして、朝まで過ごしたのも、酒を飲んだところを見たのも、その出来事があった日が、最初で最後だった。
 ぼくが未だ四十代の若い頃だった。しかし、その頃から仕事のストレスからくるEDの兆候はあった。家族を持っていなかったし、お金は自由に使えた。EDに効く薬はあったかもしれないが、一時的なものだと思って放置していた。薬も何が効くのか分からなかった。
 バイアグラが開発される以前だった。結局、そのことが女と別れる原因になった。性行為に至っても、ぼくのペニスの勃起力がなくなり、挿入できなくなることがあった。それ以後、どちらからも連絡しなくなり、会うこともなくなった。女も単に金銭的なものだけで付き合っていたのではなかったのだろう。愛情のある交わりとまで言えなかったので、会わなくなっても支障はなかった。
 休日の昼下がりに民放のテレビ番組を見ていた。離婚歴がある有名歌手が、ゴシップネタを取り上げて、解説をしていた。その時に女心を自分自身と重ね合わせて語っていた。女は自分でも分からない感情の起伏があると言っていた。離婚に至る寸前の状態は頭で考えるのでなく、感覚的、生理的な範疇まで及んで、嫌いになるらしい。
 彼女のことで思い付くこともある。さっきまで仲良く一緒に行動を伴にしていたかと思うと、何を考えているのか分からない行動を示すことがある。気に入らないことがあっても、口にできないもどかしさがあったのかもしれない。自分の思いを伝えられないでいたのか、一人ですたすたと先に歩いて行ってしまったことがあった。
 その時は何を考えているのか分からなかった。今になって考えれば、そんなわがままな自分も受け入れられるか試していたのかもしれない。どんなことをしていても、自分のことを揺るぎなく愛しているのかどうか、試しているとしか考えられない行動だった。
 前回会ったのはだいぶ前だ。その時、彼女はぼくに対して、嫌悪感を抱いていないないみたいだった。だが、どこで、どうなるかわからない。気分が読めないことは多々あった。女という生き物は分からない。彼女は「自分自身でも分からない」と言っていた。「将来のその時点ではまた考えが違っているかもしれない。その時になってみないと分からない」と言っていた。
 彼女自身も分からないものがぼくに分かる筈がない。最近、分かったことは「女は分からないものだ」と言うことだ。女性心理の分析がどうとか言う。最小公約数的な共通点があるのかもしれないが、個々の女は千差万別なものだ。女を語っても、総じて女の総てに当てはまることではない筈だ。
 遺伝や生い立ち、生活環境は総て違っている。それらは複雑に関連するものだ。「女とは」と、一絡げで論ずるものでない。
 彼女との関係は続いているようにここでは書いている。以前は彼女と付き合っていた。しかし、彼女とは終わっている間柄かもしれない。現に、過去のこととして語っている。
 本当はずっと彼女と音信がないのかもしれない。それでも、こうやって彼女のことを書いている。今のところ、彼女との間に破綻した兆候はないようなことにして、こうやって書いている。第三者的に、自分がそうありたいという思いに駆られて、語っているだけなのかもしれないのだ。もう、終わってしまっているのかもしれないのだ。事実は誰も分からない。
 ぼくが勝手に快楽の対象先が未だ存在していると錯覚しているのかもしれないのだ。彼女との間では危機は何度も乗り越えてきたつもりでいた。だが、一瞬にして、消え去る要素もある。現に彼女とは何カ月も会えていない。連絡も取っていない。彼女の存在が消えそうなのだ。彼女から見てもぼくの存在が消えてしまっているかもしれない。存在感のないのは、互いに同じ状況なのかもしれない。
 そんな状況をこれ以後も書くのは切なくもある。だから、これで書くのを止める。そして、今後に対して楽観的な期待を持たないようにする。だからといって、悲観的な未来像も描かないようにする。なるようにしかならないのだ。彼女とのことも、自分のことも、どう展開するのかは、分からないからだ。今後も起こったことしか書かない。
 時とともに過ぎていくのだ。今まで通り、時ともに、全てはただ過ぎていくのだ。