あなたはこの文章を読もうとしている。あなたと同じようにこの文章を読み始めた者がいる。その“あなたのコピー”が別の宇宙にいる。あなた本人でないが、やはり他に八つの惑星とともに太陽系を構成している、地球と呼ばれる惑星にいる。
 さらにこの“あなたのコピー”として存在するこの人の人生ときたら、あらゆる点であらゆるあなたとそっくりである。もっとも、あなたはこの記事を読み進んでいるが、「もう一人のあなた」は、すでにこの文章の載った同人誌を放り出しているかも……。

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 ぼくは、この文章を載せた「同人誌」の冒頭部分を読んだ。これは、ある科学雑誌に出ていた文章を参考に、若干の手直しをして、殆ど丸写しにして掲載したのだ。文章化して、既に数カ月経ていた。
 ある日、図書館に行った。書棚には最新号の文芸誌や各種の月刊誌が各コーナーごとに別れていた。ある一角のコーナーに、科学雑誌があった。別のコーナーに、文芸賞受賞作品が掲載されている文芸月刊誌もあった。興味もないし滅多に見ることもない。
 文芸誌類から少し離れた箇所に、サイエンスに分類されたコーナーがあった。自動車工学やコンピュータ等の最新理論が掲載された、科学雑誌等が書棚に陳列されていた。その中に、図書館に来ると気分転換に時々読んでいる、パソコン雑誌があった。ぼくが読むのはそんな庶民的なレベルのパソコン雑誌くらいだった。
 ぼくがそのパソコン雑誌の広告欄や新製品紹介記事を読む目的は、買いたい商品がある時に参考になるからだった。パソコンの利用は、インターネット接続とワープロソフトで使う程度だった。コンピュータ工学やソフト開発についての記事は、次元が高すぎて理解できない。
 ぼくは、喫茶店に入って時間潰しに週刊誌くらいは読むかもしれないが、普段は決して読まないのが科学雑誌だった。表紙に「並行宇宙は実存する」と言うタイトルが載った科学雑誌が、偶然目に入った。ちょっと興味が沸き、手に取って見ることになった。その科学雑誌から引用して書いている。
 現在、最も明快で一般的な宇宙論モデルによると、10の1028乗メートル離れたあたりに、私たちそれぞれの「もう一人の自分」が存在するらしい。ちなみに、計測可能な範囲の限界は4×1026メートルの距離らしい。これは420億光年離れた場所だ。
 最近のニュースでも報道されたばかりだが、宇宙がビッグバンによって誕生してから、141億年経っていることが立証された。この距離は天文学的などという月並みな表現を遙かに越えている。が、だからといって「もう一人の自分」がいない根拠とはならない。
 この推算値は月並みな確率計算から導かれる結果であり、不確かな前提に基づいてない。これまでの天体観測結果が示しているように、空間が無限であり、それを物質が均一に満たしていればよい。
 無限な宇宙説に反論があり、膨張していてもベクトルのように捩じれているのではないかと言う意味で、有限であるとの諸説はある。光が発して、真っ直ぐ行ったつもりが、何千、何万億光年では、空間の屈折により、円のように元に戻ってくるという説である。しかし、最近は宇宙マイクロ波背景放射の観測によって、こうした有限モデルの可能性には懐疑的になっている。
 マルチバース(多宇宙)にはレベル1から4までの仮説がある。レベル3は量子コンピュータの解析によって解明されつつあり、近年には存在がイエスかノーの、どちらかに判別されるらしい。しかし、その他のレベルの仮説を覆すだけの立証はされていない。
 レベル4に至っては、究極と言っていい程のあらゆる可能性を含む。その位置や宇宙論的な特性、量子状況が異なるだけでなく、物理法則までもが異なる宇宙の存在が考えられる。これらの宇宙は空間と時間を超えたところにあるので、目に見えるように描くのはまず困難だ。この考え方に立つと、物理学の根本に関わるさまざまな問題が解決する。
 「並行宇宙」は統計的な数字からも、あり得ないことではないらしい。絶対にないと証明できないらしい。それはもしかしたらあることらしい、との仮定に展開する。
 そこの「並行宇宙」の中にある、もう一つの地球に住むのは、もう一人の自分であるらしい。そこにいる自分は既に図書館の同人誌に目を通し、科学雑誌を読み終えているかもしれない。まだ、両方の表紙とも開いてないかもしれない。どちらか若干の時間の誤差はあるかもしれない。いや、もっとズレがあり、経過時間や年数、人生そのものが違っているかもしれない。
 いや、冒頭に書いたように、仮説が展開しそうな世界が出現するかもしれない。図書館のサイエンスコーナーの書棚の隣に、地元誌のコーナーがあった。俳句の小冊子もあるし、ぼくが所属している同人誌も置いてあった。ぼくは手に取った。
 そして、───あなたはこの文章を読もうとしている。あなたと同じように、この文章を読み始めた者がいる。その“あなたのコピー”が別の宇宙にいる。──と言った風に、書き出しが載っている「並行宇宙」の存在を想定して書いた、ぼくの作品を読み始める筈だった。
 ぼくは、その科学雑誌の記事の内容に触発されて、ある仮説を立てた。
 「あの世」という世界も、科学的に実存するのではないかと、思えた。「あの世」は「並行宇宙」でなかったのか言う仮説が、ぼくの頭の中で展開していった。「並行宇宙」では、ぼくの分身がいる。
 そして、同時にその「もう一人の自分」が「並行宇宙」を書いた科学雑誌の記事を読んでいて、妄想を駆り立てている。「あの世」であると仮定された「並行宇宙」の中の「もう一人の自分」が読もうとしているのだ。
 そして、ぼくは科学雑誌から目を離し、引き続き同人誌に書かかれただろう作品に、今から目を通すのだ。
 そこには、こう書かかれていた。

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 S外科医院近くの、路面電車の線路に平行して車を走らすと、その度に思い出すことがある。
 心の中で反芻する。そこでは、いつも十字架を背負っている自分がいる。もう、時効でないか。あれは事故だったのだ。そこを通る度に自分に言い聞かせている。「事故」と言葉で済ませればそれはそれで終わるのかもしれない。しかし、ぼくにとっては、忘れられない一生の起点となる出来事だった。
 すっかり忘れてしまっている一日もある。しかし、女子校近くの路面電車沿いの、その外科医院の前を通ると、いやが上でも思い出す。それがこころの原風景であり、それは総てでないが、自分の暗さの一因ではある。
 その事故を起こしたことと、ぼくが今現在も独身であることは直接的には関係のないことかもしれない。しかし、あれ以来、心の傷となっていることには違いない。ある老女の、一生最後の、何年分かの命を縮めた。その酬いがあるのかもしれないと思っていた。ひょっとして、今現在まで、傍目からは幸福そうには見えない、ぼくの人生に影を落としているのかもしれない。
 女が身近にいなかった。女を知ったのも奥手な方だった。内向的な性格で、友達も少なかった。学生生活では、サークルやクラブ活動もせず、ゼミにも加入せず、暇を持て余し、ただ時の過ぎるのを待った。
 元々、対人関係は苦手だった。仕事をやり始めて社会と関わりをもってから人間不信が遠のいた。他の人も同じようなことを考えていたり、あまり悪い人もいないし、仮に騙されて、気持ちは傷ついても、身体までは及ばなく、そんなこともあるかと、自分を客観視するような免疫を持てれば、苦手な世間にも抵抗力が発生することが分かってきた。
 想像力が働くようにもなり、騙す方にも罪悪感を持つ人のが多いことも分かった。元来信じてきた、人間性善説が正しいと確信するようになった。
 営業成績を伸ばすのに、軍隊式に命令し人間性を無視する上司もいた。そこで、鍛えられたのかもしれない。自分のペースでは仕事が出来なかった。その会社組織の末端の空間では上司の命令が絶対で、それを逃れるのは退社しかなった。苦しかった。しかし、喉元過ぎれば何とかで、その後もしたたかに生きてきた。たかが自分独りの食い縁くらい、何とでもなった。
 自分の何気ない言葉でも傷つく人がいることも分かったし、気がつくと、性格の良い人から、ぼくが搾取していることにも気づいた。行動も言動も自覚せずに、人を傷つけている側にいた。上っ面の優しさを隠れ蓑に、慇懃無礼で強引なセールスをし、自分の成績さえ上げればいいとさえ思った時期があった。
 短所であったかもしれないが、長所にもなり得た繊細さと気弱さの影が消え、厚かましさが増したのは、「事故」の後のことだ。自分自身の図々しさに今頃気づいた。そんな自分を振り返るのに、ここまでの長い年月がいった。
 「事故」を起こした後の数年間、職場の周囲の人はぼくを気づかった。そのうちに人事異動があったり、新入社員が入ってきたりして「事故」のあった当時のことを知る人も少なくなった。ぼくが小さい時、いたずらばかりしていた。悪さをして近所の子に怪我をさせた。近所の人には報いだと思う人もいただろう。ざまあみろと思っている人もいるだろう。
 ぼくは道路の左端をバイクに乗っていた。信号が青になったのでアクセルを吹かした。その時、老女が路面電車の線路を横断してきた。夕暮れ時の薄暗い中から忽然と出てきた。なぜ老女が目の前にいたのだろうか。今思えば、あれはぼくにとって必然の出来事だったとしか思えない。
 老女は後頭部から倒れた。鮮血は出なかった。救急車が来た。近くの外科医院に運ばれた。医院の入口に担架が運ばれるところを、事故現場から眺める事ができた。あっという間の出来事だった。
 緊急に勤務先に報告した。しばらく経って上司とその病院に見舞いにいった。意識は回復していた。中年の息子が手を握っていた。後で聞くと大学の先生らしかった。老女はぼくを睨みつけた。しばらくすると急に容体が悪化した。
 その医院から施設の整った大病院に救急車で転送されて行った。その様子を一緒に見ていた上司が後で言った。死を早めたのは、激情が原因で頭に血が昇ったのではないかと、感想を述べた。ぼくもそうかなと思った。
 被害者の老女を見舞いに行ったことが最悪の結果を招いた。面会謝絶でないなら、普通は加害者側の方が被害者を、早めに見舞いに行ったりすることは当然の行為だ。終わったことだが、今さらどうしようも訂正のきかない過去の一状況だった。
 見舞いに行かなくても、「事故」の影響で数日後には亡くなったかもしれない。どうなったかは分からない。その日の晩に老女は亡くなったという事実が残った。次の日の朝刊の片隅に事故の記事が出ていた。一方的な過失ではないのか、ぼくのことは「さん」付けで実名が出ていた。上司は、もう何日か亡くなるのが遅かったら、新聞に載ることはなかったのにと、残念がった。
 翌日から営業に出なくてもいいと言われた。何日かして支店から本社勤務になった。仕事の内容も営業から内勤事務になった。若い女の子が沢山いる中に入れられたことで、その後の女性不信の原因を形づくった。女の醜さを実感させられる環境に放り込まれた。
 そして、第一線の営業活動から一時意識が離れた。学生時代に孤独を紛らす為の「文学」を回顧した。孤独だった時に何をしたか、時をやり過ごす時に何をしたかを思い出した。「小説」を読むことで「現実」から意識を一時断絶し、逃避した。
 文学を志すきっかけになったかもしれない。永遠に傑作は生み出せないし、才能もないのに「文学」を志した。永遠に結実しない到達点、砂漠に浮かぶ蜃気楼のオアシスに向かうようなものだ。何をしていても気持ちは覚めている。その時々に起きた現象と内面の心情の変化をどう残すのかと考えてしまう。冷酷で日和見的になってしまった。結実しない遙かな目標に向かう為に、生きながら死んでしまっている自分を意識するようになった。
 奇妙なこともそれなりにあった。まさか、そんな奇遇はないと思っていた。人と人との繋がりに運命的なことを感じることはある。運命に導かれていたのではないかと、後で振り返れば思うことがある。
 昔、地方のコマーシャルに羅漢さんの話があった。「あったかいものを感じたらそれがあなたの先祖さんだよ」と、閉じた目を開けて、その触れている羅漢さんを見ると、顔を歪めて鼻糞をほじる羅漢さんがあった。「我、複雑な心境なり」とその羅漢さんを撫でながら心境を述べて、コマーシャルは終った。
 だいぶ昔のことだが、入社試験を終えて本社ビルを出た時に、建物の外側を見た。窓と窓の間に石に似せたギリシャ彫刻風に装飾されたコンクリートの支柱部分があった。その石柱のようなものを見て、温ったかいと感じた。今では歴史的建造物として、取り壊しのできないビルとなっている。他の会社の最新式のビルには、壁面部分に一切の突起物はない。ギリシャ風に似せた、本社ビルの壁面の装飾は、無駄であるが、見るものをホッとさせる、何かがあった。
 その装飾と同じく、無駄がぼくではないかと思えるようになった。人が見てホッとさせる無駄が当時の会社には残っていた。誰もが実力があるとは限らない。能力のないものも、その組織の中で扶養される。当時は誰かが一時的に生存競争から外れても、待機する場所を確保してくれる会社だった。
 現代は実力主義、能力主義の時代だとは言う。けれど、その当時、ぼくは親のコネで今の会社の入社試験を受けた。オイルショックの後で、希望する会社は、入社試験そのものを取り止めていた時期だ。会社をより好みしている余裕はなかった。
 今までのぼくは、やりたくもない仕事を我慢してこなすだけだったのでない。発奮しなかった訳でもない。「事故」のあった後も会社の温情主義で会社に籍を与えられ続けていたかもしれないが、一時期であっても、会社に利益をもたらす業績を上げた。会社に恩返しをした時期も確かにあった。しかし、現時点では、会社のお荷物だ。ぼく自身を損得勘定上で考えてみた。損益分岐点から下回り、損失の方の存在だった。
 会社の中では、将来的に見込みはない。自分でも給与を貰いすぎていると感じる。家族がいればこずかいの少なさで、そうは感じないのかもしれないが、独り身では可処分所得が身分不相応に多く、しかも親の建てた家に住み、生活費にも困窮しない。
 ぼくには世間的には反道徳的な関係と言える女はいる。彼女にはフィアンセがいた。それを承知でぼくと彼女は付き合っていて、刹那的、享楽的な快楽を得ている。付き合った当初、彼女には温ったかいものは感じなかった。関係が切れそうなことは何度もあった。が、何とか続いている。彼女の性格は冷淡な方だった。
 携帯電話にメールを何通送っても何日も返信がない。コミュニケーションが途切れたのではないかと思える時もあった。彼女は独りでいたい時があると言っていた。ぼくも若い時期に、誰とも関わたくないこともあった。しかし、常識が無さ過ぎる女だった。
 肌の温もりは女一般に感じるもので彼女だけ特別に感じるものではなかった。ソープランド嬢も、人妻も体感温度に差はなかった。密着度も普通だった。ただ、まだ十代で体温は高かった。寝ている隣の彼女は熱かった。肌を合わせていると脂肪の燃焼で発熱しているのが体感できた。
 熱い「体温」は、「情熱」と言う言葉と反比例していた。温さでない。熱さだ。その熱さは、彼女の性格にリンクしない。若いのに独断的で自立していた。彼女の彼氏には、頼られていても、頼らないで生きていけそうにも見えた。彼女には、時々突き放され、放置される。そして、忘れようと努めようとする頃に、連絡して来る。
 ぼくと同じく、彼女には覚めてものを見る癖がある。時々、彼女は、今風の世間並みの女の子のような、甘えたような感情表現をすることはある。しかし、本質の暗さは同類だ。そして、猫みたいに気儘な性格だ。体温も猫の様に熱い。冬には湯たんぽの代わりになるが、夏は熱くらしい。
 彼女はどうしてぼくから離れないのだろうと、不思議に思った。人並み以上の器量を持つ女の子と関係を持つなど、信じられないことだった。ぼくは物書きの端くれだから、空想癖は旺盛だ。ある時、昔の雌の飼い猫「チコ」の生まれ変わりでないかと考えたこともあった。
 決してそんなことはないと思う。前世などあるとも思えない。確信的な立証を見た訳でもない。ただ、そんな風に考えると面白いので、小説のネタにならないかと思いを巡らす。
 昔、家で飼っていた「チコ」が死んだのはいつだろうと思い出した。ぼくが会社に入って八年目に死んだ。彼女が生まれた年だった。単なる偶然だが、辻褄は合う。普通、輪廻を繰り返すから、死んですぐに現世に現れないものだと、聞いたことがある。彼女が、昔の飼い猫の生まれ変わりなどと言うことなど、絶対にあり得ないのだ。
 「チコ」は最初は近所の飼い猫だった。そこの家のばあさんにチコは虐待されたていたのかもしれない。おばあさんにとっての行為は、盗み食いする猫への仕置きで、箒を持って脅しただけなのかもしれない。でも、ぼくの家に転がり込んで来て、ぼくと妹は文字通り、猫かわいがりした。餌も不自由なく与えた。どっちの家が住みやすいか比べて、チコにとってぼくの家が心地よかったのだろう。そのまま、ぼくの家に住み着いた。
 たまたま用事で訪れた元の飼い主だった家のおばあさんが猫の安否を伺う。心配しているけれど猫を引き連れて帰らない。猫の自主性に任せた。猫は犬と違って縛っておける動物でないのは万人の知るところだからだ。連れて帰っても、いずれぼくの家に来るのは分かっていた。猫の安否を尋ねたのは、猫の幸せを祈る気持ちもあったし、なぜそうなったのか反省している風でもあった。
 猫はそのまま死ぬまでぼくの家に居ついた。妹が結婚することになった。妹が結婚して家を出ていく前、こんなことがあった。妹はその時期、チコに対しては冷酷なことをしてると思った。妹が結婚する直前の冬の間、チコは妹の部屋の前でずっと啼いていた。妹はそれまではずっと添い寝していたのに部屋には入れなかった。妹にチコを取られる前まではぼくがチコと添い寝していた。ぼくがまだ中学に入る前頃だった。寝返りする時、潰しそうだった。それで、チコを妹に譲った。家からチコが居なくなる訳でもないから、別にどういうこともなかった。
 妹は嫁に行くことが決まってから、チコの為に予備期間を与えたのだろう。急に自分がいなくなってもいいようにと、妹は考えたのだろう。冬だったし、猫は単に暖を求めただけのことだし、いくら啼いても、妹は自分の部屋のドアを開けなかった。でも、余りにも長い時間啼き続ける。うるさくてしょうがない。結局、ぼくの布団にチコを入れなければならなかった。
 蝋燭の火が消えるようにチコが死ぬ直前に元気になった。与えていないのに、マタタビを食べたにように元気になった。直後に死んだ。老衰だろう。ぼくが小学生の頃から生きていたから十八年は生きていた計算になる。最後まで毛並みも器量も良かった。身だしなみは死に際まで整えていて、汚さはなかった。失禁もしなかった。綺麗なままの死に際だった。
 妹が小さい時に捨て犬を拾ってきた。飼いたいと言ったが、情が移るからと飼わせなかった。しかし、闖入してきた猫はどうしようもなかった。それが、チコだった。母はチコが死んで以来動物は飼わなくなった。懲りたからと、これで一生飼わないと言った。有言実行で、今日まで動物の類は飼っていない。
 猫のように体温の熱い彼女が生まれたのは、チコが死んだ年だ。だから最近、彼女がチコの生まれ変わりかもしれないと思うようになった。むしろ、それまでは「事故」で死なせた老女がぼくに取りついている方を信じていた。
 ぼくが結婚しないのは、ぼくに女が近づかないのは、その老女の霊が取りついているのかと思った。その老女だって昔は若かったのだ。当初はぼくを恨んでいたかもしれない。しかし、長い間ぼくに取りついているうちに情が沸いてきたとも考えられる。悪霊でなく、ぼくに近づこうとする変な女から、守ってくれていた守護霊かもしれないのだ。
 架空話で偶然に時期が一致したように思える。チコが女の子に姿を代え、ぼくに近づいてきた? チコがずっと独りでいるぼくを哀れんだのだろうか。老女からぼくを開放しに、来世からやってきたのだろうか。
「事故」を起こした日、チコはその状況を知らない筈だ。いつもと同じく、丸まってそこら辺に寝ていただろう。猫と違い母の記憶は鮮明だ。ぼくが「事故」起こして帰宅した時の、憔悴しきった顔を、母は忘れないと、時々言う。単に遅く帰って来ても、その時を思い出すと言う。
 死なせた老女は元女子校の英語教師だった。東京の大学に行っている彼女も、外国語を専攻している。将来、教師の職にはつかないと言っているが、卒業の時点で心境が変化しているかもしれない。共通点は今書いていて気づいた。
 彼女に彼氏がいる。彼女は決してこちらには深入りしないだろう。ぼくは彼女と彼女の彼氏との隙間を埋める影の存在でしかない。しばらくの時間に限っては、彼女といても違和感はない。
 しかし、現実には彼女は親の金で大学に通う扶養家族の一員でしかない。英語の単位を短期間に取得する為に外国留学を彼女は望んでいた。資金が必要で、親に内緒で手っとり早く高収入の得られる夜の水商売のバイトをしている。彼氏の方は、年寄り相手だからと、心配している風はないと、彼女から聞いた。かえってぼくの方が親のように心配している。
 ぼくは水商売のバイトなんか辞めてほしいと伝えた。無理をしないで勉強だけに専念してほしかった。そこで、ぼくは資金援助を申し出た。彼女は黙っていた。暗に他人であるぼくがお金を出す理由はないと、言っているように思えた。
 親の負担に、気遣いを見せる。が、長い間帰省しない程の、独立心の高い女の子だった。ぼくの方は、彼女に対して他人と思っていない感覚なのに、彼女の方は、なぜぼくが資金提供するのか、心境を疑っていた。
 電車に乗っていて、向かい側に座る女の子の姉妹を、一緒に見ていた。彼女は「かわいいね」と言って眺めていた。「どう見える?」と問われた。「あんな子供欲しくない?」ぼくは黙っていた。「欲しい」と言っても彼女にはどう伝わるのだろう。君の子供なら欲しいと答えたかったが、周囲の耳があった。
 彼女は寝起きからだいぶ時間が経っている筈なのに、夜のバイトに身体が馴染んでしまったのだろうか、彼女は「テンションを上げる為」だと、一言付け加えてから喋った。ぼくが黙っているのにじれて、容赦ない言葉を浴びせた。「エロ親父だし、あんな子でも犯してしまうかもね」と言った。冗談半分で言ったことだと分かっていたけれど、そんな風にしかぼくを見てなかったのかと思うと、悲しかった。
 彼女とは釣り合わないとことは自覚していた。二回り以上違う世代だ。一緒になれる程現実は甘くない。世間が許さないことが明白だったし、それを自覚できる常識は持っていた。彼女の彼氏とアクシデントがあった時に表に出ることの出来るスーパーサブであるとも思っていない。このまま、波瀾が起こらなく彼氏と添えとげて欲しい。今、論理では述べられるが、感情の中ではぼくのそばにいてほしいという欲求が渦巻いている。彼女の父親もそんな心境だろう。
 常々、ぼくと彼女が世間体を気にしないで表に出られるのはいつだろうと考えている。今の彼氏と何かのトラブルで別れたとしてもまだぼくの出る幕ではないだろう。次の彼氏が出来た後、上手くいかなくなったとして、その連れ子も面倒を見る。しかし、籍は入れない。生活や心的な援助をするだけだ。そこでやっと彼女とのバランスがとれると思っている。
 そんな無償の愛を貫こうとした決意に、彼女の言動が水を差す。彼女は人が沢山いる電車の中で、ぼくに暴言を吐いた。ぼくはわざわざ東京まで会いに行ったのに、現実のぼくは、水商売の女と同伴出勤する客の男、というシチュエーションになっていた。
「事故」に遇わせた老女も、まだ若い彼女の存在も、ぼくに関係するようで、繋がりはないのかもしれない。自分の中での幻影でしかないのかもしれない。ある仮説を述べたまでだ。彼女にこの文章を見せてどうなるものでもない。面白い創り話だと、一笑に付すだろう。
 彼女はそんなことがあった事など言われるまでは気づかないだろう。既に忘れてしまっているかもしれない。彼女と一緒にシティホテルの一室を出て、最上階にあるラウンジに向かう時、彼女は早足にぼくを追い抜いて行った。そしてエレベーター乗り場から廊下を覗き込んだ。身体は隠して顔だけぬっと出した。かくれんぼしている子供が顔を出しているような、茶目っ気のある仕種だった。
 見方によっては猫が外を伺う仕種でもあった。そして、エレベーターに乗る直前に「ニャーゴ」と言った。単に自分が自由奔放な猫になった気分だったのかもしれない。エレベーターの中でも嬉しさを表現して「ニャーゴ」と言った。一瞬、背筋に冷たいものが走った。ゾッとした。何でだろうと思った。ぼくの中では、薄々感じていたが、そんことはないだろうと、考えないように無意識に努めていた節がある。
 後で昔の飼い猫がいつ死んだか、年度を逆上って計算してみた。彼女の年から生まれた年度を考えた。彼女の猫の啼き真似を聞いた後、頭の中で換算してみた。偶然、飼い猫のチコが死んだ年度と彼女の生まれた年が一致した。彼女の誕生月は十月で、チコが死んだのは夏だった。偶然の一致にしては不思議だった。
 このことを言うと単なる偶然だと彼女は言うだろう。前世の存在を信じるかは、分からない。ぼくのことは好きだと言ったけど、今の彼氏とは別れる気配は微塵もない。彼女は現状をありのままに受入れ、猫のように自己チュウに行動している。そして、この飼い猫との関連話を彼女には内緒にしているだろう。この文章を公開している段階で知られる可能性がある。その時、彼女には単に想像で書いたのだよと、言い逃れるのだ。
 ぼくが勝手に重要なこととして書いているだけだ。ぼくと性行為をしたとしても、彼女にとっては軽い接触であって、特別なことはないのだ。それを裏付けるこんなこともあった。
 彼女が大学に入学してしばらくは音信が不通だった。その間の出来事らしい。最近聞いてショックな話だった。ぼくと彼女が部屋のテレビを一緒に見ていて、ぼくが画面に映る欧米女性を見ながら「まだ外人としたことがない」と言ったことに対しての返答で「わたし、あるよ」「いつ?」と問うた。追求するとほんの数カ月前だった。今年になって、彼氏とぼくとその外人講師の三人しかセックスをしてないと付け加え、釈明した。
 ある外人講師の誕生パーティに行った。他の女の子達は翌日にバイトがあるからと早めに帰って行った。彼女は次の日の休日は特別予定もないからと泊まっていくことになった。そして、外人講師と二人きりになった。彼女は先生だからと信頼していたのだろう。その時の状況を彼女と別れて地元に帰るときの汽車の中で考えてしまった。
 彼女に聞かなければ良かったとメールで伝えた。酒に酔って吐きそうな状態だったから抵抗できなかったと、今ではわたしの中ではなかったことになっていると、言い訳が返信されてきた。
 性行為も彼女にとっては握手みたいなもので特別な行為でないのかもしれない。酒で酔い潰されている状況での、人間性を無視された行いに対して、動じないでいた。却って外国人と交わることで肌の違和感が無くなり、語学意識にプラスになり彼女自身には良かったのかもしれない。
 ぼくが実体験できないことを彼女は経験していた。他人が聞けば興味本位で聞いているかもしれないが、当人を知るぼくに取っては、いつものことながら、切なさを味わされる。
 チコとの間の変な体験を思い出した。外国人以上に猫は別の生き物の筈だ。いつものようにチコの毛並みに添って撫でていた。突然、チコが尻尾を上げ、膝を屈め、股を開いて交尾の態勢をとった。こいつ何を考えているだと気持ち悪い思いをした。チコが単に勘違いをしたのだろうか。それとも、ぼくを挑発していたのかは、定かでない。猫も錯乱するかと思った。淫乱になれる人間の女のように、その娼婦性は雌のさがなのか、分からない。
 猫だったと知られることで、彼女は鶴の恩返しの物語のように、本当の姿を見られたと、ぼくの元から去っていくだろうか。或いは、老女の霊からぼくを開放する使命を全うするだろうか。そして、今度は彼女がぼくの死に際を見届けるだろうか。彼女がペット犬のチワワが飼いたいと常々言っていたのを思い出した。彼女にまとわりついているけれど、従順で素直なぼくは、時を空けずにすぐに犬になって現世に現れるかもしれない。
 成り行きだ。成り行きで若い彼女と巡り会った。そして老女と関わった。あの「事故」も成り行きだった。注意散漫なぼくがいけなかったが、車が頻繁に往来し、暗くなりかけた道路を人が渡るなんて、普通の人は予想するだろうか。万全の注意を払うのが運転手の義務と言えばそれまでだが……。
 その瞬間だけ、注意がおろそかになったのも偶然だ。「事故」も不可抗力の偶然だった。老女を跳ねたのも、彼女と出会ったのも、「偶然」なんだ。物書きになりたいと底無し沼に足を取られた。人と同じことはしたくないと思っていた。結局、世間と同じような、平凡な現実の渦中にいるだけの、ぼくの人生だった。

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 同人誌から目を離した。そして、ぼくは想像する。若干の誤差はあったとしても、ぼくは「あの世」に住んでいるかもしれない自分を想像する。
 独りでないかもしれない。「並行宇宙」でも自分がいる。しばらくして自分は死んでいるかもしれない。しかし、今思っている瞬間は「並行宇宙」での自分も生きていて、同時にもう一人のぼくがこちらのぼくのことを認識したかもしれない。
 彼女はぼくと関わりは終えてしまって、彼女はもう二度とぼくの前に姿を現さないかもしれない。でも、あの宇宙の彼方の「並行宇宙」には自分がいる。「あの世」と同義語の「並行宇宙」に一心同体の自分がいる。
 もう一つの宇宙での、もう一人の自分は「事故」を起こさないで、結婚もしているかもしれない。ぼくの方は結婚してないから実際には不倫でなく、彼女の方が二股だから不倫だ。こちらと同じく、その別のもう一人の自分は、一生涯、独りだったのかもしれない。同じように、心を乱す彼女と出会ったか、出会わなかったか。
 身近にある出来事を思い出してみる。暗示あるいは啓示されたもののようだった。近年の彼女との交わりは夢のような時間でもあったし、その後の空白期間は、地獄の日々で悶々としている。
 もう一人の自分は果たして男なのか、もしかして、女ではないのかとも考える。ぼくの性格は女のように保守的だが、彼女は男のように気っぷがいい。見ず知らずの男とも交わることのできる度胸もあった。酒の飲みっ振りもいい。
 夜のバイトでは、客から飲まされるが、酔わないと言っていた。酔った振りをして良く笑うという。酔っていると商売にならないから、酔えないのだろう。
 彼女は、コンパなんかで皆で飲んでいる時、酔うにつれ興ざめすると言っていた。場を白けさせる言動を放つと言っていた。ぼくと同類だった。ぼくは仕事のことを話しながら酒を飲むのは楽しいとは思わないし、白けてくる。
 この頃の彼女とのプライベートでは別だ。彼女はぼくとは酔っていられるとも言った。ぼくも同感だった。この歳になって初めて彼女と飲んでいて楽しいと感じた。彼女は個人に対しての接客が天職なのではないかと思える。
 一瞬、思った。地球上に、ひょっとしてもう一人の自分がいるかもしれないと……、この世の、すごく近い場所で、男女の別はあるかもしれないが、年齢や世代や環境を越え、身近に感じられる人がいる。それは異性そのものが宇宙みたなものかもしれないが、思いはその存在に捕らわれ、現存している。
 この広い地球で彼女と知り合った。不思議な現象だ。何かに導かれているとしか思えない。
 人間の男女の差は肉体だけでなく脳の構造も違うらしい。雌雄の別は、子孫を残すことに関しては合理的で、生命の存続率に関しても、効率がいいらしい。雌・雄のどちらかが餌を調達できるし、どちらか片親が死んでも子供を育てることができる。
 子孫を残さない自分に価値はあるのだろうか。将来、彼女は誰かの子供を残すだろう。ぼくの援助はいらない。ぼくは影であり続けるしかない。そんな時に思う。遥かな宇宙。身の回りの不思議。予知夢、予言、そして物語以上のストーリーがある現実。
 それらは「並行宇宙」という「あの世」とリンクしていないのだろうか。
 遠い宇宙でなく、至近な日常という空間に、いないのだろうか、もう一人の自分が……。