今、自室にいる。ソファーに座りながらタブレット端末の画面を見ている。
 たまにしかタブレット端末を使わない。自宅では主にディスクトップパソコンを使っている。文字の入力が中心なのでキーボードやマウスを使う方がやりやすいからだ。ソファーに座って寛いでいる時など、画面上を操作する程度なら、指をタッチするだけで済むタブレット端末の方が楽だった。
 タブレット端末の画面に動画を再生させてみた。映っているのはだいぶ前の映像だった。
 その映像を撮ったのはタブレット端末を買ったばかりの時だった。彼女と会うために都会まで行った。その時に、軽くて嵩張らなかったので、タブレット端末をバックに入れて持っていった。
 買ったばかりのタブレット端末の撮影機能を試してみたいと思っていた。都会に名所は数々あるのだが、彼女と一緒に立ち寄ることもなかった。移動する電車の中では、タブレット端末で撮影することもためらわれた。
 喉が乾いたので、一休を兼ねてファストフード店に彼女と一緒に入った。コーヒーを飲む時に、特にやることもなかったので、タブレット端末を取り出した。
 ファストフード店では、殆どの人が気兼ねをする様子もなく、ノートパソコンやスマートフォンを使っていた。その時、タブレット端末を両手で持って画面を覗くようにしていた。彼女から見るとインターネットのホームページを閲覧しているように見えただろう。そのせいか、彼女はこちらを意識しているような様子はなかった。
 そのタブレット端末の裏側には標準装備でCCDカメラが付いていた。カメラのレンズ穴は気付かない程の小ささだった。脇から見ると画面にはホームページが表示されているようにしか見えないだろう。その時はタブレット端末の画面を覗いているような振りをして、こっそり彼女を被写体にしていた。
 タブレット端末のホームページが占める画面の脇に、別の小さな枠があった。カメラをモニターする小さな画面だった。そこには、撮影されている彼女の顔が映り、肉厚な下唇とそこから吐き出されるたばこの煙が漂っていた。
 今、ソファーに座っている。タブレット端末を手に持って、彼女の顔の表情が映った動画の再生をしている。彼女を写した動画データがタブレット端末のハードディスク替わりの大容量の内蔵メモリーに保存されていた。その中の一番最初の動画データを再生していた。画面に映った彼女の顔の部分を指で押し開いてみた。彼女の顔がタブレット端末の画面一杯に大写しになった。
 彼女を撮影した時は買ったばかりだったのでタブレット端末の操作に不慣れだった。東京から自宅に戻って、動画を再生してみて分かったことがある。動画と同時に話声が入っていたのだ。タブレット端末のマニュアルを見直してみた。端末上部の片隅に、マイクがあることになっていた。動画の撮影と同時に、録音の状態になっていたのだ。動画を再生してみると、彼女の顔が映り、同時に喋り声が聞こえた。彼女はたばこの煙を吐き出しながら、
「今度の小説はどんなのを書くの?」
 その問いに答える自分の声が入っていた。三十秒ほどのあいだに、粗筋にもならない思い付きの一端を喋っていた。
「そんなので小説になるの?」
「今、言ったようなイメージに、関連した思いを書いていけば仕上がると思う」
 どうしてそれだけで小説ができるのか理解できないだろう。彼女は怪訝そうな表情を浮かべていた。

 と、そんな風なタブレット端末の画面を思い出しながらこれを書いている。
 彼女に語った時点ではメインとなる一つのイメージしか伝えなかった。その時は、頭の中に漠然とした構想もなかったから、言いようがなかった。
 そこで、その発言の元となるワープロ文書が別のノートパソコンに保存してあることにする。ある自分の体験を記録してあることにする。その時点で、ストーリーとして発展できるのか、あるいはどう完結するのかは、未だ予想がつかないでいた。
 ノートパソコンにワープロソフトの文書ファイルとして書き残してあった。家に居る時にUSBメモリーを介してワープロソフトの文書ファイルをタブレット端末内蔵のメモリーにコピーしてあることにする。
 何年か前は自分が書いている途中の文章であっても、特にこだわりもなく、成り行きで彼女に見せることもあった。彼女らしい女が登場して、描写には品位を欠くものがあったので、故意に見せなかったこともあった。
 今回と同様に次回作の内容を聞かれたことがあった。どぎまぎしたようにポケットサイズのワープロを片づけ、挙動不審な態度だったらしい。それである作品を隠し通せなかったこともある。個人のホームページに作品を載せていた。見せてない作品を彼女が探しだしたことがあった。後で「どうして、見せなかったのか分かったわ」と言われたこともある。
 スマートフォンが普及している。その気になれば検索をして簡単に各種ホームページにアクセスはできる。ただ、自分のホームページは二年ばかり更新していない。自分のホームページには元々アクセス数が極端に少なかった。だから、この頃は面倒でホームページを最新版に更新していない。短かい小説もどきの作品ができても、この頃は掲載していない。誰も見てくれないホームページに載せるような気にはならないのだ。
 だから、彼女は最新作を読む機会がないので、この頃はどんなものを書いているのか知らないでいた。彼女は文学にさして興味がない。時々、小説の魅力を語って聞かせるのだが、伝え方が下手なのか、関心を示す素振りは見られない。
 会話の中でたまに気遣う振りをする必要から、彼女の方から話を合わせようとすることもある。あの時は、会話が途切れて間があった。たまたま、次の作品のことについて尋ねられただけなのだ。
 最初の会話の部分は、実際に言葉を交わした。その場面は、辛うじて記憶に残っていた。それをワープロソフト内の文字になるようにして、再度読み直して推敲したのがここまでの文章だ。
 ここまでのワープロ文書がUSBメモリーに保存してあって、それをこうやって読み出し、文字となり、画面に表示されているという形になっている。これからはその文章の続きを書くということになる。

 場面は都会のファストフード店の中に戻る。
「喋るのが苦手なので、すらすらと次の作品のことを伝えられないんだ。ただ、文章なら曲がりなりに読み返せるから、訂正がきく。支離滅裂な喋りよりはましなんだ。こんなのがあるけど…」
 持参してきたタブレット端末をバックから取り出した。ワープロ文書ファイルを読出し、画面に表示した。画面サイズが10.1インチしかなくても文字は読める。そのタブレット端末の画面側を彼女に向けた。彼女はタブレット端末を両手で掴んで画面上の文字を読み始めた。
「題名か何かあるの?」
「未だ決めてなくて、仮にだけど『蝉の声』になっている。記録として書いたものなんだけど、読んでみる?」
 その時、カメラをオンのままにして、動画の撮影を続けておいた。タブレット端末はスマートフォンを大きくしたようなものだ。タブレット端末もスマートフォンと同じく、表と裏側にカメラが付いている。
 その時、タブレット端末の後ろ側でなくて画面側のカメラをオンにして録画しておいた。もちろん、気付かないようにモニター画面は出ないようにしておいた。無心に眺める彼女の顔を残してみたいという、いたずら心もあった。

 今、こちら側を一生懸命見つめる彼女の顔を見ている。真剣な眼差しで画面上の文字を追っていた。彼女の側から読んでいる文章がこれだ。


 猛暑もおさまりつつある八月の下旬頃のことだった。
 その年の夏は、近辺を意識することもなく過ごしてきた。ところが、ある時を境にして、そんなありふれた日常の受け止め方が違ってきたのだ。
 それは、誰も理解することはできない自分だけの感覚なのだろう。自分の外見や行動が変ったわけでないのだから、違和感を立証することは難しい。
 自分自身が深刻に捉えようとしているだけで、大したことではないのかもしれない。ただ、初めての感覚だった。もしかして、老化による聴覚異常なのかもしれない。最悪の場合、若年性痴呆の一種だということも考えられる。少し心配すべきことなのかもしれない。
 これを書いているのは、いつ頃からの兆候だったのか、後で振り返ってみる時の参考になるかもしれないと思った。自分にとってはその時の体験は普通ではなかった。そこで、こうやって記録に残しておくのだ。
 直前まで、図書館にいて、ノートパソコンに向かっていた。ワープロソフトを開いて文章を書いていた。集中力がなくなったので、閉館前の一時間は読書に切り換えていた。
 昼過ぎまで雨が降っていた。図書館にいる間に雨が止み、時間の経過とともに道路のアスファルトは乾いていた。書いていて行き詰まった時などは、気分転換に図書館を出てしばらく歩くことがある。何かを考えながら歩いていることもある。頭が疲れきっている時は何も考えず放心状態で歩いていることもある。
 その日は、夕方になってからも曇り空で、気温も上がらず、夏の散策には適していた。雨が止んだので、近くの一級河川に掛かる橋を渡って神社の方向に歩くことにした。図書館の駐車場に車を置いたままにしておいた。そこの図書館は市の郊外に位置する。公共施設のイベントホールと一緒になっているので、図書館が閉館しても車を置いたままにできた。時々、帰宅前に歩いたりしている。
 図書館を出た直後は、神経が衰弱しているような感覚はあった。そんな時の対処方法は頭と身体のバランスを取ることだ。ただ、暑い夏の日中だと歩くだけでも体力を消耗してしまう。少し時間が掛かるかもしれないが、頭を元の状態に戻すために歩くのだ。夕方頃に歩くのは日中ほど暑くないからだ。
 直前は読書をしていた。読書をする前はしばらく文章を書いていた。執筆能力が乏しいのかもしれない。書くことに、特別時間を掛けているわけでもない。二時間ほどで集中力が切れる。ストレスとして感じるのか、書く姿勢を続けていると腰痛の症状が現れるようになった。離席して時々歩くのは腰痛を悪化させないためでもある。
 図書館から歩いて二十分ほどの所に規模の大きい神社がある。遠くからでも森の大きな木々の連なりが見える。その森の中に大きな神社と関連する建物がすっぽり隠れるようにして立っていた。
 河川に掛かる三百メートルほどの橋を渡るとその神社に着く。いくつかあるウオーキングコースの一つになっていた。橋の上から河川敷に大きく広がる扇状地の平野を眼下に一望できる。晴れて見通しの良いときは海岸線が見えることもある。
 普通の精神状態なら、いろんなことを考えながら歩いている。日常生活上での詰まらないことだったりする。時にはテレビ番組の一場面を頭の中で反芻していることもある。小説の中の状況を想像していることもある。ラジオ放送の中で、パーソナリティが語ったコメントを忘れてしまって、必死になって思い出そうとしていることもある。知人相手に語った会話の内容を思い起こそうとしていたりもする。その時々で頭の中身の様子が様々に変わる。いつも種々雑多のことを頭に思い浮かべながら歩いている。
 その日は図書館で文章を書いていた。それほど集中できないでいたのだが、そのわりに疲れを感じていた。頭を休めるのに歩こうとしていたのだ。歩き始めてから、思考能力が乏しいことが自覚できた。考え事をする余裕はなく、身体を動かすことを優先して、ただ歩いていた。
 神社の方向に向かった。ウオーキングコースや歩く時間によって、それぞれの折り返し地点がほぼ予想できた。残りの歩数を概算して、歩く時間を決める。目標値に達しそうなら早めに切り上げる。もし歩数が不足するようだったら夕食後にも歩く。その日は時間があったのでいつもより長く歩くことにした。橋を越えてから、神社の正面では折り返さずに、大きなコンクリート製の鳥居を見ながら、参道前の入り口を通り過ぎた。
 幹線道路から逸れ、緩やかに右にカーブして、道幅の狭い旧街道に入った。昔はその狭い道路の方が主要な道路だった。昔から沿道に家を構える人達の他に、今では住宅団地への通り道となっている。交通量が少ないので歩くコースに選ぶこともあった。
 その道路の右側を歩いていると、向こう側から小さい女の子が駆けて来て、また戻って行った。歩いているこちらから見て、道路の左側だった。右側の沿道に新築の家が建っていた。隣接地は空き地になっていた。その家の前を通り過ぎようとした時だった。家の前の道路で、揃いのジャージーを着た、中学生くらいの姉妹が、掌よりやや大きめのボールを投げ合っていた。
 空き地は雨上がりだったので土がぬかるんでいた。だからか、早く乾いたアスファルトの道路を練習場所にしていた。道路にいる二人の姉妹のうちの一人が「こんにちは」と挨拶をくれた。二人を玄関先で見ている父親らしき人も、同じく屈託のない挨拶をしてきた。つられて小さい声で挨拶を返した。学校の部活帰りらしく、夕食までに時間があるので、家の前でボール投げをしていたのだろう。
 昔は主要道路だったのだが、バイパス道路が幹線道路となってからは車の通行が極端に少なくなった。統廃合でなくなったが、十年近く前までは法務局の支所があり、その道路を通らなければ行けなかった。今では部外者の通り抜けを禁止する看板まで出ている。次の駅付近まで行くつもりでいた。その駅は古いので映画のロケにも使われた。山手に向かう電車の乗り換え駅であり、かっては交通の要所でもあった。
 図書館からは、途中にある一駅を通過して、二駅目の駅に近づきつつあった。たまに運動不足だと感じる時は一時間以上歩くことがある。その日は駅の近くまで行ってから折り返し、図書館に戻るつもりでいた。唐突だったが、折り返し地点の駅近くまで来てから思い付いた。神社の裏手の参道側から境内を抜けてみたくなったのだ。
 歩き始めてから二五分が経過していた。少し近道になるかもしれないが、駅の近くまで行ってから折り返すのではなくて、時間も大して変わらないので、神社の境内を通って図書館まで戻ろうと、進路を変えた。
 その時、進路を変えたのは、過去のことが思い起こされたからだ。途中で急に進路変更したことになる。導かれたわけではないのが、結果的にそうなった。
 車の御祓いをしてもらいにその神社の裏手の道路を通ったことがある。車に乗って一度だけ通っただけなので、歩くのは初めてのことになる。その時は懐かしさを感じたので、裏の参道を歩いてみたい気持ちになったのだ。初詣の時などは山手の方角の駅から神社に向かうための参道となる。
 車の御祓いをしてもらったのは十数年前のことだ。神社の正面も裏手も関係なく、本殿で玉串を捧げ、お参りを済ませた後、最後に神主が車のところまでやって来て、御祓いをする。車一台が、やっと通れる幅の道路だと感じながら、車を走らせた記憶がある。裏手なら通行人も少ないだろうし、やや大きめなワンボックスの新車だったので、目立たちたくない気持ちがあったのかもしれない。
 川を越えた神社側は市町村合併に加わらなかった別の行政区にあたり、依然として町の名称のままだ。しかし、町の域内に三千m級の山々とその山麓を含んでいるので、広い面積を有していた。
 初詣をしにその神社に多くの参拝者がやって来る。電車で来る人達は、下手の市側の駅から橋を渡って神社に向かう。山手の駅から裏手側の参道を歩いて神社に向かう人達もいる。正面側には多くの台数を止められる駐車場がある。初詣の時などは臨時に川原が駐車場になる。参拝者が多いのは露天商が出ている正面側だろう。もっとも、正月時に裏手の参道を通ったことがないので、露天商が出ているかどうかは、不明なことだ。
 歩いていると、裏手側に駐車場が見えた。前回、車で通った時は、境内に接する裏門まで直接乗り込んだ。裏手にも駐車場があることに気付かなかった。参拝目的だけでなく、神社に関係する用事で来る人のためなのかもしれない。神社で働く人の駐車場も兼ねているのもしれない。
 神社の境内に入ろうとした時だった。神社の裏手の門扉が閉まっていた。立て看板が見えた。午後六時から午前六時までは通り抜けを禁ずると書いてあった。正月以外は表側も裏側もなく、要するに開門時間以外は神社の境内に入れないのだろうと思った。
 神社の正面側から境内に入るには距離がある。先ずは参道を歩き、鳥居を潜ってから階段を登り、さらに距離のある石畳を歩かなければ手水舎まで行けない。神社の裏手の門扉が閉じられていたので、仕方なく元来た道を戻ることにした。裏門近くの大きな一本の樹木を見上げた。その大きな樹を見ると同時に、周りの木々を意識することになった。
 その時、前日の両親の会話を思い出した。そして、神社の裏門辺りの木々に、何気なく聞き耳を立てた。
 その瞬間のことだった。
 意識したとたん、耳の中に蝉の鳴き声が飛び込んできた。静寂の仕切りが取り払われたように、頭の中に音が解き放されてきた。蝉の鳴き声が大きく鳴り響き、押し迫ってきた。
 不思議な思いを抱きながら図書館まで戻った。
 蝉の鳴き声が急に意識の中に入ってきたような感じなのだ。蝉の声が気になりだし、図書館まで歩いている間は周囲の音だけが気になっていた。帰りの道すがら、周辺の蝉の鳴き声を確認しながら歩いていた。周囲は暗くなりかけているのに、蝉の鳴き声は決して小さくはなかった。
 神社の裏手に着く前までは蝉の声は一切聞こえていなかった。周りの音を聞こうとした瞬間から、急に蝉の声が聞こえてきた。耳に異状がなく、音が聞こえていた証拠に、道路ですれ違った親子から掛けられた挨拶は、聞こえていたからだ。
 なぜ、そのときに蝉の鳴き声に聞き耳を立てたかということだ。きっかけはあった。同居している両親の話を側で聞いていたからだ。父が母に向かって「今年は蝉の鳴いているのを聞かないなあ」と言っているのを思い出したのだ。その時は蝉のことなど思いもしなかった。両親が会話を交わしていたのは朝方だった。雨が降っていたのかもしれないが、その時は蝉の鳴き声は聞こえていなかった。自分では蝉の鳴き声などどうでも良かった。外に向かって聞き耳を立てる気もなかった。
 父は若い頃から地声が大きかった。声の大きい人は耳が遠くなりやすいと聞いたことがある。父は歳を取ってから耳が遠くなった。父と会話するときは大声を上げなければならない。普通の会話だとしても、近くにいる他の人が聞いたとしたら、親子喧嘩をしているように聞こえたかもしれない。
 父の耳の悪さだったら、蝉の鳴き声が聞こえなくても不思議ではないのだ。母の耳は正常だった。母も蝉の声が聞いてないことに同意していた。自分自身も蝉の声など全然意識することはなかった。そう言われれば、今年は蝉の声を聞いてないなと思った。意識の中に蝉の声などなかったからだ。日常生活に必要でない音だからか、注意しなかっただけなのかもしれない。
 図書館に戻るまで、自分自身の状態のことを考えながら歩いた。その時までは突発的な発作などもなく神経障害もないと思っていた。それでも、直前までは蝉の鳴き声が聞こえなかった現象に対して、冷静に振り返ってみた。正常な精神状態だったのか自分を疑ってみた。
 両親の会話を思い出さなかったなら、その年は蝉の鳴き声を聞いていなかったかもしれない。

 なぜ、ワープロソフト内に文章を書いていたか説明しよう。
 その日の夜は寝つけなかった。季節は移り、夏と秋が重なる時期の深夜だった。布団に入り、横になっている時は何も音がしなかった。寝つけなかったので周囲の音に注意が向いた。
 外の音を意識したと同時に、虫の鳴き音が聞こえた。全くの無音だった筈なのに、急に頭の中に虫とも蝉の音とも区別のつかない「ジー」という音が鳴り響いた。
 夏の終わりでもあるが秋の始まりでもある。先程まで虫の音が全く聞こえなかった。突然、「ジー」という音が聞こえた。それが「ミーン」という蝉の声に変わっていったのだ。そんなことがあるかと思っているうちに段々と蝉の声が大きくなって頭を中に入り込んできた。不安になったので、部屋の明かりを点けて時計を見てみた。午前零時を過ぎて、翌日となる何日の何曜日、時刻の表示が正しいと認識はできる。冷静に自分自身を客観視しようと試みた。それでも、蝉の鳴く声が鳴り響いて聞こえた。
 深夜にもかかわらず「油蝉」や「つくつく法師」、「みんみん蝉」、他に「スイッチョ、スイッチョ」という鳴き声も聞こえた。部屋の照明を消して、何もしないでじっとしていた。窓の外を見ると深い闇のままだった。それでも、意識しているあいだは蝉しぐれのような鳴き声が聞えてくるのだった。
 自分にとっては不可解な体験だった。それで、正常な状態だったのか、疑念を持つに至った。経過を記録しておく必要に迫られた。だから、ここに書き残している。


 彼女がタブレット端末のカメラに写されていた。同時に、画面上の動画の中で、彼女の顔が映され、こちら側を見ていた。画面に表示される文字から視線を外したところだった。読むスピードは異常に早い。しばらくしてから、彼女は言った。
「それって、アルコールの影響じゃないの?」
「その日は飲んでなかったよ」
「あなたは飲まない日もあるらしいけど、一日空けたら二日分飲むし、六日空けたら一週間分を飲むじゃない。自分ではアルコール依存症ではないと言っているけど、アルコールを飲む量が明らかに多すぎる。飲み過ぎは脳を萎縮させるそうよ。アルツハイマー病はアルコールの大量摂取で罹る確率が高くなるという説もあるわ。酔っぱらうと私に対しての暴言を吐くことが最近多くなった。私も黙っていないから直ぐにあなたの発言を非難するわ。倍返しするから、それを聞くあなただって傷つくでしょう。これから三度言ったらもうあなたとは別れると伝えたわね。この前から自分を抑えているようだけど、いつまで続くやら」
「うん……」
「蝉の声がそんな風に聞こえたのは、アルコールによる脳障害の幻聴としか考えられないわ」
 彼女に見せたのは、図書館を出て神社までを往復する間に起こったことと、その当日の深夜のことを記録したものだった。最後の部分は夜中に自宅で書いたかのようになっている。
 実際は自宅では書いていなかった。蝉の声に関した文章は図書館でノートパソコンに向かって書いていた。深夜に蝉の声が聞こえた翌日のことだ。
 そして、書き終えてから、閉館時間まで時間があるので読書をする。その後は図書館を出て神社の方向に歩きに出る。
 それは、前日のことなのだろうか、当日のことになるのだろうか。その日も、外に出る。はたして蝉の鳴き声が聞こえるのだろうか。

 ソファーに座って、タブレット端末で動画を再生していた。彼女の顔は画面から消えていた。
 目の前のテーブルの上にはUSBメモリーが置いてあった。先程までの動画データをUSBメモリーにバックアップするためのものだった。そのUSBメモリーをタブレット端末の挿入口に差し込んだ。
 動画のバックアップを終えたので、USBメモリーの中身を確認することにした。以前のデータの中には動画の他に文書データもそのUSBメモリーに保存されていた。
 タブレット端末の画面にUSBメモリー内の文書データの題名リストを開いてみた。後で忘れないようにと必ず題名を付けるようにしていた。そのワープロソフトのリストの中に、何やら思い出せない題名のファイルがあった。そこで、その文書を開いてみた。


 男はノートパソコンの画面から目を離した。コネクターの挿入口を見ると、一本のUSBメモリーが差し込まれていた。
 今まで書いていたワープロソフトを閉じた。ずっとノートパソコンに向かっていたので目の疲れを感じた。画面から目を外した。その時に、USBメモリーに目がいったので、パソコン本体から抜いてみた。
 そのUSBメモリーを男はしばらく見ていた。ずっと前から持っている地味な黒色の、何の変哲もない普通のUSBメモリーだった。
 じっとUSBメモリーを見ていた。
 何の特長もないただのUSBメモリーの中に、どうしたら、一生掛かっても書き切れない数の文字が、保存できるのかと思った。果てしない字数だろう。
 目の前のUSBメモリーの中には文字情報があるのだ。その中にどうして大量の文字情報が入るのか、男にとっては不思議に思えたのだ。
 そんなちっぽけな物の中に、例えば文章による架空の世界があったとする。その文章には人間の営みを描けているとは思えなかった。USBメモリーの中には男が書いた文書データが入っている。他者に対して、文字だけで、疑似体験や感情移入ができるように、導けるのだろうか。分からない。男はUSBメモリーの内部を窺い知り、物事の推移をどうやって確認できるのかを考えた。
 男は、USBメモリーの黒色のプラスチックカバーを見つめ、透視を試みた。板状の樹脂に均等にチップが並び、さらにその等分に配分された中身を見つめた。
 メモリーの回路の内部が四角く等分に区切られ、斑な幾何学模様の配列に見えた。半導体の中身が、帯電しているか絶縁しているかは、外見だけでは分からない。
 物質でしかない半導体があるとする。半導体のある領域が帯電するかしないかで文字が決まる。しかし、それだけでは意識の中に意味を伝えることはできない。
 一個のUSBメモリーを介してタブレット端末の画面に文字が羅列されるのだ。メモリー内のデジタル信号が、ワープロソフト内に、文字変換されて表記され、解読できるようになる。メモリーのデータファイル一覧を開いてみた。「USBメモリー」というファイル名があった。男にはそのファイル名に覚えがないのだった。
 ならば、登場人物として描かれている男が書いたことにする。図書館でノートパソコンに向かって書いている男の姿が、頭の中にイメージとして現れた。
 ここの文章から、男の記憶が甦ってくるのだ。男は春先に見たことを記録していた。その男が書いている文章がこれだ。
 男が見ているUSBメモリーの中の世界はシリコン樹脂の物体であり、最初は幾何学模様にしか見えなかった。男はそのUSBメモリー内の幾何学模様を見て、異次元空間に浮遊している自分を想像してしまった。
 見つめていると、メモリーの中の情景が変わっていった。幾何学模様が歪んで、崖のように見えるのだった。それは見覚えのある風景だった。
 男はいくつかあるウオーキングコースの一つである川原の堰堤の上を歩いていた。堰堤を歩きながら正面の山沿いに向かい、ふと斜め上空を見上げた。男には点々と緑の塊が崖にへばりついている様に見えたのだ。
 人間だったら、ロッククライミングでもしなければ、登ることのできない、切り立つ崖だった。遠くから見ているので、小さな木々に育つ葉なのか、蔦が絡まっているのか、良く分からない。
 川原の堰堤から見上げる崖だった。新緑の木々から芽吹く葉っぱのようにも見えた。あるいは枯れ木に蔦が絡まっているだけのようにも見えた。
 それを見上げて男は歩いていた。
 新緑が崖にポツリポツリとあった。遠くからみると崖には春先から芽生えた木々の枝葉に見える。何年も前に種が飛来し根を張ったのだろう。春先に雨が降らない時期が長かった。そんな場所に雨水が留まるのかと思った。根の張る部分に周辺の山々から伏流水の通る箇所があるのかもしれない。なぜそんな悪条件の場所に根を張らなければならなかったのだろう。木々の成長には条件が厳しい、中空に浮ぶような位置にある。考え様によっては、葉を食う天敵の虫が鳥によって阻まれるために寄ってこないのかもしれない。快適とは言えないまでも最悪の条件下にあると言えないかもしれないのだ。
 動物も植物も「生きている」ということでは同じ生物である。移動しなければ生命を維持できないのが殆どの動物だ。植物はその地に根を張って生き延びなければならない。動物も植物も同じ生物ではあるが、優劣を決めることができない。
 痛覚は進化の進んだ動物にある。痛覚のない植物であっても切り取られる木々から悲痛な叫びを聞き取ることがある。
 男の記憶の中に透視した風景が出現した。
 崖の上の平坦な地域の風景が見えたのだ。崖の下からは窺い知ることのできなような平地が広がっていた。その場に行ってきた者しか、そこに広い敷地があることを認めないのだ。昔はそこの高台に何集落も入れるような平坦な土地が広がっていた。
 歩いている男の方からは死角となる崖の向こう側にある高台をイメージしながら崖の部分を見た。崖を透かして向こう側を見ようとした。
 想像の中ではあるが崖を透して高台が展望できたのだ。広大で平坦な土地は雑木林に変貌していた。以前、大きな規模の遊園地があった場所だ。廃園となって長い年月が経過していた。
 男の視線を元の緑の塊に向けた。高台にある風景が遮られて崖だけしか見えなくなった。その瞬間に、緑の塊が屍に見えた。
 一瞬であるが崖にある緑の塊の一つ一つが腐敗を終えた屍に見えた。緑の葉の一塊ごとに一つの屍に見えた。有機物が末期へと近づいている姿だった。腐敗が終わった屍は骸骨に近い。生命も思考能力も持たない単なる物質に戻っていた。
 腐敗を終えて白骨化している。ドクロに少しの髪がへばりついているだけで男女の区別はつかない。
 まばたきをすると緑の塊に戻った。
 木々の緑の塊が屍に見えたのは一瞬の間だけだった。遠く何百メートルも離れている緑の葉の塊が屍に見えたのは、男の錯覚に違いない。
 崖にへばり付く緑の葉の塊が、樹木なのか、蔦なのか、判然としていない。両方とも生物であることに違いがない。生きているのだ。悪条件の中でも、その場に根を張らなければ成長し続けることはできなかったのだ。
 屍は肉が腐敗し、バクテリアによって分解し自然界に戻る。骨の形は残るかもしれないが、そのうちに人畜無害なカルシウム含有物を多く含む土に戻るのだ。
 その時だった。
 男にはUSBメモリーを透視した時とイメージがダブった。そこにはメモリーを組成する珪素でできた半導体の斑が歪んでいた。
 男にはそこの光景も崖にある屍の連なりに見えたのだ。それはその男の意識内だけのことだ。一瞬のあいだであった。見えた筈の錯覚を書いてみただけなのだ。
 屍が人間だった時はいつの頃で何をしていたのだろう。男の頭の中で緑の塊が屍のイメージに変わってしまった原因は何なのだ。
 屍は物体だ。が、男にとっては屍は単なる物質には見えなかった。男の目には生きている植物と死んでいる人間が重なって映っていた。
 崖一面の所々に緑の葉の塊がある。それは亡くなった者達のほんの一部なのだろう。男の視野には限界がある。男の側から見える範囲でしか屍が点在してはいない。その崖を見渡した。数にして十何個という単位に留まっているのだ。男が見ている緑の塊の数と、関わってきた人の数と同じだった。
 有機物から無機物に戻ろうとしている屍には元の人間からの痕跡がある。動物であり生命体だった時の、生きていたという実感もあった筈だ。それが、「痛覚」だ。
 死に至るまでに、人間には「痛覚」があった。かって屍には「痛覚」があったのだ。「痛み」は精神的にも肉体的にも生きてきたことの証だったのだ。


 今、ソファーに座りながら、タブレット端末を操作している。元の動画再生に戻していた。そして、ソファーに座りながらタブレット端末の画面に浮き上がっている彼女の顔を見た。
 同時にカメラは部屋の中を写している。タブレット端末の裏面のカメラが目の前の光景を撮影し、画面上に部屋が映されていた。画面上に現実の部屋が背景として映っていた。同時にタブレット端末の内蔵メモリーから読出した動画を再生している。部屋の中に彼女がいて顔を近づけているように見える。
 現実にある映像内に、彼女の動画上の顔を、画面上にダブらせて映していた。目の前に彼女の顔がある。画面上のことではあるが、部屋の中に彼女が一緒にいるように見えるのだ。
 現在の被写体と過去の動画を融合させるアプリケーションソフトを立ち上げてみただけなのだ。彼女の大写しになった顔が一旦遠ざかり、床に吸い込まれていった。再度、現れた時には、全身が骸骨に変わって立ち上がった。骸骨がダンスをしながら宙を舞った。
 グーグルの地図が出てきた。写真画像に切り替えた。タブレット端末の画面横に目盛りがある。最初は指をタブレット端末の画面に当ててマイナスにする。上空からの航空写真のような画像となる。さらに、限度一杯にマイナスにする。画面の中に地球の端が映り、青い水平線が丸くなって見えた。そしてプラスに目盛りを上げる。段々と拡大されて日本列島に限定される。さらに日本海側の自分のいる地域に拡大される。画面上には男が歩いている映像が映るのだ。男は上空を見上げていた。
 崖にある、一体の屍のドクロから発する視線が、こちらを向いていた。それはタブレット端末のCCDカメラでフォーカスされたように写されていた。高所の崖から、ドクロの視線で、クローズアップされたように眺められている。真上の衛星からのカメラではなくて、斜め上空の崖から見られている。崖にあるドクロの視線がこちらを見ているのだ。
 タブレット端末の画面上に自分の部屋が映る。部屋の床に骸骨が立っている。さっきまでの彼女の顔が、立体像のドクロに変わって現れた。「今の言葉最低! どうして笑ってごまかすの。どうしてそんなことを言ったの? ちゃんとこっちを見て説明して!」とドクロから発する声がした。ドクロの窪みの黒い影のあたりから怒りと圧力に満ちた視線を感じた。

 単に画面上のことなのだ。幻覚でも幻聴でもないようなのだ。