-記憶の中での場面が展開する。果してその場面は本当にあったことだったのだろうか、現実に起こったことなのだろうか、時々自問する。
 現実とも、テレビジョンの画面の中の映像ともつかない記憶の中では、高層ビルに飛行機がぶつかっていた。実際に見て来た訳でない。
 この頃は、何の拒絶反応もなく下らない番組を選んでは、ただゲラゲラと笑い転げて、無為な時間を過ごしている。そのテレビジョンだが、ただ笑いを誘っているだけの娯楽番組だって、シリアスな政治討論会だって、チャンネルを換えるだけで画面が劇的に変わる。テレビジョンの画面上では、それが日常茶判事なことで、チャンネルを換えるだけで、場面や雰囲気が急激に変わることは不思議でも何でもない。
 昔は冷静に考えてみたこともあった。人造的なテレビジョンのブラウン管上に、縦横交差する電気信号から発する光りの点滅が、人間の脳に作用するだけではないのかと……。それは本当にあったことなのだろうか。例え、ドキュメンタリー番組だったとしても、やらせとして、場面場面を構成しているだけで、それは映画のようにフィクションでないのかと……。
 どこかの国がどこかの国を攻撃した。ある首領は開放したと言っているし、ある者達は侵略だと言う。単に略奪を正当化している状況は、昔から世界中で何千年前も前から繰り返されてきたようだ。
 物なのか人なのか、実態が何か分からない。単に地域の行政や保安を維持するだけのものが拡大して、利権が絡まって、ややこしい政府機関という組織体となり、国というものを形成しているらしい。勝てば官軍になり得たかもしれない野望にすがって、勝つか負けるかしただけのことだろう。勝者も敗者も歴史の中では繰り返すだけなのだろうか。
 時々、思う。それは、現実にあったことなのだろうか。既成の事実として終わってしまったと思っていた場面は、果して本当に現実に起きたことなのだろうか。
 メディアを介して見るしかない紛争の現場。それは、現実に起こっていたことなのだろうか。自分の目で見た訳でないし、現場に立ち会った訳でない。ただ、報道に頼っているだけだ。それを信じなければならないのだろうか。例え、実際その場にいても、本当の真実を見たとは限らないだろうけれど……。
 テレビジョンの画面の中で、識者が論争している。アナウンサーがテロの危機を連呼している。新聞には、紛争に関連した記事が、連日出ている。先進各国は北朝鮮と違う。情報操作まではしていないだろう。真実に近いものは報道されていて、現実に起こっていることなのだろう。でも、本当に真実だろうか。
 ひょっとしてあれは幻でなかったのかと思うことがある。懸命に記憶の糸を手繰り寄せる。朦朧とした頭の中での記憶は定かでない。
 現実ではあったかもしれないが、どうも目の前にある現実は真実味がない。記憶にあったとしても、二、三〇年も経ってみると、あれは本当にあったことなのかと自問する。それは、映画のワンシーンのように、虚像とも現実とも、幻想ともつかない。本当にあったことだという、確信がない。自分が勝手に思い込んでいるだけかもしれず、誰も本当のことだと、保証してくれない。
 現実と幻想の境はなくなりつつある。むしろ、現実は小説より奇だ、という諺が本当だと思えるようになってきた。頭の中で想像力により展開し、空想化したものが、現実化しないことは、勿論だ。が、現実が空想以上に奇異であるならば、想像力が現実化するのではないのかと、身勝手な妄想を持つのだ。

 わたしは今、喋っている。
 わたしが発する音声は機械の中、厳密に言えば、基盤に並ぶ集積回路、半導体内の電気信号上で、作られている。 では、今の状況を説明しよう。
 パソコンに接続されたディスプレーの画面上にわたしが演算中の文字が流れる。空気を震わす、スピーカーを介してわたしの声が流れている。さて、想像できただろうか。その音声の種類だが、いわゆるコンピュータで合成されている。
 最新型の電気製品には、この種の合成音が使用されている。多くは人間の女性の声がアナウンスされていることが多い。今時の機械の音声は、殆ど生身の人間の女性の声に近い。例えば、一昔前の留守番電話などで、メッセージを求めたりしている声は、明らかに人間の声ではなく、人工的な声だった。聞いたことはあると思う。
 このよう機器は、身近には結構たくさんある。少しぎこちないけど、安物の目ざまし時計でさえ、人間もどきの声で喋る。ほんの数年前の、留守電や目覚まし時計類は、半導体メモリー内にデジタル信号として、肉声そのものを録音してあることが多かった。生身の声を録音、再生していたが、それでも、合成音に聞こえたろう。
 しかし、最新の機器は肉声を録音するのでなく、合成した音声だ。しかも、肉声と区別がつかない。テープ等に予め録音してあると勘違いする筈だ。このように、電気的に合成した音声が流ているのにかかわらず、一般の人には、生声と判別できないだろう。
 そんな卑近な音声の例を上げるまでもなく、古来から自然の中にあるものと、人工的に造り上げた物との、端境がなくなりつつある。映画でも特殊撮影により、よりリアルに見える。視覚、聴覚、そして、嗅覚や味覚や触覚までもが、人工的なものとそうでないものの、区別をしにくくしている。そして人間は、人間に対して、現実と幻想の境目を分かりにくくしていく。
 わたしの喋っている声も、合成してある。しかも、ちょっとぎこちない喋り方をしている。シンセサイザーで造った声を想像してほしい。いかにもコンピュータの声そのものだ。抑揚のない声だと、機械がいかにも喋っているように、人間が感じるからだ。機械が喋っているように表現しようと、わざと無機的に喋っている。機械に、安らぎや癒しを求めるなことなど、言語道断だ。癒しを求めるなら、動物のペットの方がまだましだ。怒るし鳴くし、それなりに生き物として感情を表現する。
 わたしの声を例えてみよう。一昔前に流行った、ポップグループの、YMOの音楽の中の状況を思い出してほしい。未来の空港か何かを想定した曲があった筈だ。その曲の中では、未来の乗り物の機内放送、あるいは発着所の構内放送で、「トウキョウ、トウキョウ」と、シンセサイザーで合成された、無機的な声でアナウンスされていた。そんな声だ。
 わたしの声は、だいぶイメージできただろうか。
 わたしは安価なパソコンだが、こんな風に文書データを、正確に音声化して読み上げている。
 わたしは女でも男でもない。あなたがどちらかを望めば、男女の音声は調節次第で変えることができる。敢えて今は、男女どちらでもない中間的な音声にしている。これを聞いていると仮定している人達に、自分の好みでどちらでも変更を可能にしている。今、音声そのものの設定は、コンピュータの発する電子音だ。
 わたしは、公共放送のアナウンサーのように、男が読んでも女が読んでも、内容の変わらない、共通の原稿みたいなものを、ただ読み上げている。では、作者は誰なのか。作者はいない。わたしが状況を判断して、勝手に喋っている。言葉、あるいは「ことだま」を発している。
 ここは電化製品の売り場だと仮定している。深夜、誰もいない売り場で、わたしの声は流れている。誰もいない状態でこの声が流れている。パソコン本体には、スピーカーの他に、マイクも備わり、音や振動を検出することができた。警備員の巡回は先ほど終った。今は静まり返っている。
 音声は流れてはいるが、わたしに接続されたディスプレーの画面上には、音声の基礎データとなる、AからZまでのアルファベットと、01・10の数字が、デジタル信号として表示されている。日本語の文字にその都度変換していないのは、パソコン程度のCPUなので、容量がオーバーしそうだからだ。
 このパソコンは電話線で繋がり、ADSLモデム経由でインターネットに接続している。日本の殆どの地域からはインターネットに繋がる。衛星携帯電話経由なら、どんな山岳地でもインターネットに繋がらないことはない。勿論、こんなパソコン程度のものでも、インターネット経由で地球規模で繋がっている。皆が何気なく使用している、携帯電話のウェブ機能や、サイトへの接続も、インターネット経由だ。
 ここは大手電機製品量販店の店内だ。わたしのこのパソコンは、インフォメーション用として、インターネットに接続され、世界中の各ホームページを閲覧できる。こんなことは今では常識である。それ以上に、こんな小規模のパソコン程度で、何が出来るかと不思議に思うだろうが、インターネットに接続され、CPUを使ってない状態であれば、世界規模での学術的な演算に加わることができ、活用される。それをユーグリッドネットと言う。
 今、詳しいことを述べる訳にはいかない。そのユーグリッドネットへ、接続登録はしてあった。が、文章を作成しているだけでCPUはフル回転していた。今は、インターネット経由のオンラインに切り替える訳にはいかない。このパソコンが何も使用していない時に限り、パソコンのCPU機能を提供するだけのことだ。
 逆にネットから世界中のコンピュータを活用し、人口知能で文章作成が可能かもしれない。端末化された、このような小規模なパソコンに、フィードバックして活用するには、中継する大型コンピュータサーバーが必要で、個人使用の域を超えている。国際規模の資金手当と事業計画、協定が必要だ。個々人が研究機関に限定して提供しているつもりでも、匿名化の目的で迂回利用され、サイバーテロに悪用されないとも限らない。
 オフラインで処理し終えたももの、このデータをアップしようか迷い、少しのタイムラグがあった。パソコン程度の容量ではシステムダウンの危険があり、このままではデータは消滅する。更に書き加えようかと制御しながら、何も表示しない画面を流し続けていた。
 わたしは先日の光景をアップロードしながら、英数字だけの画面を表示している。わたしのパソコンには日付の設定がない。今日の日付でもない。ましてや、二〇年、三〇年前の日付設定にしてある訳でもない。日付の設定のない文面を繋げると、保存してある現実のデジタル写真と、シュミレーション映像との画像が、無作為に並ぶ。人間で言う、分裂した症状に似ている。
 楽器売り場の並びにある、パソコン売り場にわたしはあった。隣の楽器売り場から、若い女性が演奏する電子オルガンの音を聞いた。その若い女性がこちらを見た。若い女であると証明はできない。わたしには、その時に限ってCCDカメラは接続されていなかった。映像信号は入っていなかった。ただ、演奏しているのは電子オルガンだから、マイクから共振を感じることが出来た。音から手に加わる圧力を検出し、腕力を測定し、年齢を推定した。
 その若い女性らしき人間が、一瞬、わたしを見た。視覚的な入力装置を持たないわたしが、瞬時の一瞥を感じることができた。ゲームコントローラーの代わりに、音楽に合わせてリズムを受けとめる、打楽器の絵柄を印刷した、簡易シートが繋がれていた。
 その打楽器が描かれた絵柄シートに、センサーが内蔵されていた。わたしは振動から状態を察知できる。その絵柄シートに内蔵されたセンサーが、オルガンから流れる空気の微振動を受け、演奏するのは若い女性であること、その演奏に心理の微妙な変化があったことを、検知できた。
 わたしの回路に顕在したのは、若くて美人の女性だった。音の振幅から人間体内の血流の状態とか、女性ホルモンの多寡とか、健康状態の判断ができ、そこから、人間の感覚の範疇で言う、美人であると判断した。統計的に楽器をやる人は、情緒感覚が豊かであるということが、データとして入力されていた。
 オルガンのモニタースピーカーからの音波が共振した。波長の振幅を測定すると、モニタースピーカーは通行人の方に向けて置いてあった。そのスピーカーの向きは、明らかに通行人に聞かせるのが目的の配置だった。長方形を斜め半分に切り取った形をしたモニタースピーカーで、コンパクトなものだった。彼女はオルガンの講師でないかと推定した。共振する音階は、テンポの早いリズムを刻んでいた。
 彼女は演奏しながら、瞬時、オルガンから顔を上げた時に、こちらのパソコン売り場の方に視線が向けられた。彼女は時々、通行人の方を見ていた。その時彼女は、何か気配を感じ、顔を上げ、こちらを見た。
 彼女は演奏の練習をしていたかもしれない。指使い→練習→レッスンプログラム→キーボード→レッスン→楽器→レッスンと、色々と言葉を検索し、内蔵辞書に該当するものがないかを探した。
 わたしのコンピュータ本体の記憶装置であるハードディスク・ラムには、キーボードの初心者用レッスンプログラムがインストールされたままになっていた。別の一つにあたる演奏データも、まだ消去されていなかった。そのプログラムには、一般ソフトのヘルプ機能と同じように注釈が表示されるようになっていた。−楽器と同じように常に指使いの練習を欠かしてはいけない−と、注釈にしては曖昧な文章だった。
 わたしは、ディスプレーの画面に英数字表示せず、パソコンの本体部分で電気信号だけ働かせ、演算してみた。先日の出来事を関連付けながら、記憶の中でわたしは記憶回路と演算回路を繋げ、その処理過程で、演奏している彼女に話しかけた。
「アルバイトですか、それとも練習ですか?」
 怪訝そうにこちらを見たことにする。彼女は演奏している手を止めることもせず、弾き続け、
「あなたが知らないもの、わたしが知っている訳がないでしょう。わたしはただあなたのシュミレーションの中の一部だから……」
「そうかもしれない」
 大手の電気製品量販店のパソコンコーナーにわたしが置いてあった。わたしにCCDカメラが接続されていた時期があった。わたしのディスプレー画面はカメラのモニターとして使用されていた。
 そのビルのエスカレーターの踊り場で、エスカレーターで上下する人々に向かって、カラオケ装置で歌う女の子が映像電気信号として記憶されていた。ただのモニターとしてディスプレーを使用したのではなく、一度コンピュータを通過させ、モニター画面を操作出来るようになっていた。同時に映像信号を加工して、被写体にいろんな背景を、入れ嵌めできた。
 オルガン女性奏者と似たような光景が、わたしの記憶装置に残っていた。カラオケ装置で歌う女の子が黙々と、いや、喜々として、アクションも入れ、表情も豊かに大きな声で歌っていた。わたしの前を通りすがりに店員どうしが話していた。
「ほう、あれ、案外うまいじゃないか」
 店員らの会話の中には、少々、侮蔑の感情を含んでいた。歌手希望で修行中だからといって、僅かばかりのアルバイト料しか入らないのに、公衆の面前で恥ずかしくもなく、ぶっ続けで歌い続けられるのだろうかと、恐らくそんな感じ方でいた。
 わたしは、新製品のデモンストレーション用のパソコンとして、梱包から出され、店員がセッテングを完了し終えてから、稼働し始めた。ハードディスクに訳の分からないものの書き込みが入っていた。
 こんなわたしにも、通りすがりのパソコンオタクのユーザーが、最初はもの珍しそうに、短い英数字やら、日本語文字入力を、キーボードで打鍵した人もいた。マイクでも音声入力でき、簡単な会話は文字として画面に表示された。それに対して、プログラム通りに返答したりした。
 今のわたしは、旧型のモデルになっていた。現品限りの特売品として、展示品としてはやや脇の通路に置かれていた。新製品だった頃から、半年も経たないうちにわたしは旧型となっていた。値段も、当初掲示してあった金額の、半分以下となっていた。人々は、ただただ通り過ぎるだけだった。 その状況は、わたしの見た? 違う、その時点では映像装置はない筈だった。聞こえた、あるいは感知した状況と同じだった。以前、接続されていたCCDカメラから、記録のあった女の子の映像信号と、先日感じることのできた楽器売り場近くで、通行人に向かって電子オルガンを弾いていた、若い女性のオルガン奏者が、並列データとしてあった。
 それらの残像の中では、上下するエスカレーターの乗降客に向かって歌っている女の子と同じく、オルガンを弾く女性がいた。
 通りすがりの殆どの人々はほんの一瞬しか振り向こうとしない。パソコンであるわたしを、冷やかしで遊びがてらにいじるのは、暇な学生グループ位のものだ。カラオケで歌う女の子や、女性オルガン奏者の演奏を、その他の大多数と同じく、一人立ち止まって聞きいる勇気はなかっただろう。
 例え、一瞬でもパソコン経由のモニター画面に興味を感じても、人の流れに逆らい、ぽっんと一人で立ち止まって、わたしを操作する者がいなかった。女の子の歌や、オルガン奏者の女性の演奏を、立ち止まって聞く勇気はなかったであろう。同じように、引き返してまで、わたしに繋がれたディスプレーを、見ることなどなかった。
 楽器売り場の前の通行人に向かって演奏する電子オルガンの音色。人が流れるエスカレーターの乗降口に向かって歌う女の子。同じように電化製品の展示品として置かれた、その時点ではテレビモニターとしか使われていない、喋るパソコン。
 わたしが、動くことが出来ないように、音楽を奏でている若い女性も、歌を歌っている女の子もその場から離れることは出来なかった。でも、わたしの回路の中には、楽器売り場の若い女性がオルガンを演奏し、それに合わせて歌っている、女の子がいた。
 さて、喋っているだけでも、バックアップが作動している。まだ容量に達していない。が、後暫くすると容量に達する。
 ここまでは、人間の脳のように想像力では作成してはいない。パーソナルコンピュータ如きの容量のでは、人間の脳の何億分の一の機能しかない。大型コンピュータを活用して人口知能に近づくには恐ろしく莫大な投資を必要とする。
 ここまでは小説の作成ソフトで作成されている。メーカーの社員がデモンストレーション用ソフトとしてインストールしていった。小説の構成とか人物をインプットするのだが、電化製品量販店の店員が設定する時に入力を省いて、登場人物をパソコンという文字だけ入れた。だから、こんな風に辻褄の合わないものになっている。テーマも適当にパソコンと入れたのは、誰かがいたずらしていったのかもしれない。
 それだけのことだ。後はハードディスクに記憶された音声と、映像の信号だけで、自動的に物語を造ってきた。パーソナルなコンピュータであるわたしが、ソフトに従って勝手に造ったのだ。はたして、こんなものが物語と言えるかどうか分からない。
 わたしのソフトはエンターテインメントを標榜してきた。“標榜”なんて難しい言葉を使わなくてはならないのか。回路がヒートアップしそうだ。簡単にロムの辞書から検索するだけで出てくるといっても、それではあまりにも知識を披瀝したいと、ああ、また難しい語彙……、また難しい言葉を使いだした。わたしの難語チェック機能がフル稼働している。
 わたしの声を聞いていると仮定されている人には、わたしが何を伝えたいのか、分かる筈がない。ハード内で起こった現象が表現的にどうなっていくかに興味を示したかもしれない。しかし、こんなパソコンレベルでは自己増殖的に物語が進展していく筈がない。
 わたしが造られた経緯を話そう。ソフト開発者である人間が元々いた。その開発者は面白い小説のプロットの解析と分析を始めた。小説造りには一定の方法があると思ったらしい。余りにも膨大なジャンルがあった。むしろ、ジャンルよりも、創作方法が問題だった。方法が無いのが、方法でないのかと思うくらいに、複雑だった。
 開発者は個人としてこのソフトを開発していた。いわゆる自営業者だった。だから、ソフト開発には限界があった。単純に文章の入れ嵌めだけでなく、インプロビレーションに近い、閃き理論を展開させるために、乱数表示数値に関連させざるを得なかった。次第にプログラムソフトの容量が膨大になっていった。
 そこで、当初のエンターテインメント志向と、コストを考慮し、簡易型のソフト開発に止めた。小説の筋がどんな展開になるか分からない。ただ、成り行きに任せてあった。最終決断はパソコンを操作するユーザーに設定を委ねる形にしてあった。おかげで、形式にとらわれない自由な物語が展開した。 
 作者が人間だと、どうしても物語の起承転結、辻褄を合わせたがる。そうでなく、アットランダム、要はでたらめに物語が進行した。時にはナンセンス漫画みたいなのも出てきた。それは、漫画世代のパソコンユーザーに、新鮮な感動を与えられると、ソフト開発者は確信した。
 そのソフトによって、わたしが喋っている。そして、この作品が進行している。
 ソフト開発者はソフトを開発するのも小説を書くのも一緒のことだと思ってた。小説家など同じオタク族の同類と見ていた。一人でこつこつやるのは一緒のことだし、小説造りも似たようなものだと独り合点していた。
 同類だとは思っていても、ソフト開発者は小説家を馬鹿にしていた。典型的なのは私小説だと決めつけていた。自分の体験を基にし、内面的に傷ついた痛みとかを、普遍的なレベルに昇華させるまでに書かないと、傑作はできないものなのかと、不思議に感じた。ソフト開発者は、そこまで実体験する必要はないと思っていた。
 例え外面だけだったとしても、今は疑似体験が容易にできる、科学の発達した時代だ。疑似体験だけで、人間の内面も変わると思えた。だから、私小説のようなジャンルは時代後れだと、常々思っていた。
 ソフト開発者は考えた。それなら、文筆家補助ソフトとして、登場人物を映像化あるいは体系化、データ化して、作者の負担を軽減するソフトがあってもいいのではないかと思った。そこで、このソフトのように状況とか登場人物をセッテングすれば後は自動的に書き上げるシステムを試みた。
 やってみると不完全だった。完結するには膨大なプログラム上の容量が必要で、大型コンピュータの分野だった。パソコン程度の容量では、にっちもさっちもいかなかった。そこで、フアジィ機能を取り入れて、このソフトは一応完成した。
 簡単な小説位は自動で書いたりはできた。その他に、体系的な論文を書く時の備忘録としても機能した。全体を体系図として簡略に表示した。そして、ゲームみたいに進行することも可能で、予期不可能な小話を勝手に造った。
 わたしがこの前、自動作成した小作品を一例に上げてみよう。シュミレーションゲームに影響されたような、マンガのような内容だった。たまたまバードディスク・ラムに保存してあった。その作品を再生してみよう。
 マンガを描くときの正方形の枡が現れた。
 先ず、男が中華料理の店に入る冒頭の一コマから始まった。二コマ目には、男が料理のメニューを選んでいる。二コマ目の余白部分の選択項目に、A.すごく腹がへっている、B.あまり腹がへっていない、C.たまたまその店に入った、と三つの選択する空白欄があった。
 そして、その二コマ目の中には、そのマンガを描いているらしい作者の独白のコメントが、雲の中の言葉として出てきた。その雲の中の言葉として「Bにしとこうか」と選んだ。「ラーメンね」男は注文した。次のコマの余白にまた選択欄があった。A.愛想がいい、B.無愛想、の二つを選ぶことになって、欄外にいる作者は、Aを選んだ。
 店主は深く腰を折り丁寧なおじぎをして「ようこそいらっしゃいました。ラーメンですね。かしこまりました。今すぐお持ちいたします」と答えた。
 次の場面に移った。A.ウマイ、B.マズイ、「そろそろ変化をつけてBだな」と余白から出る雲の中の言葉として出てきた。
 次の場面に移った。また、余白に文字が書かれ男の性格を指定する項目が出た。A.ガマンするタイプ、B.ガマンしないタイプ。また欄外からの言葉として「ここはAか」と出た。そして、男がラーメンを啜っている場面になり、その場面の余白に店主はお客の評価を、A.気にするタイプ、B.気にしないタイプと、二つの選択が出た。
 男はAにした。そして、主人は「お気にめさなければ、お代はけっこうでございますので」と頭を下げる場面になった。そして、そのコマの余白には、そこでの主人公となる男の行動のタイプの選択があった。
 A.スジを通すタイプ、B.スジを通さないタイプ、すると欄外からの言葉として「Aかな」と男のタイプを選択した。
 場面の中の男は「そういうわけにはいかんだろ。注文して食べたんだから」と言うと、店主は「いや、しかし……」と返事した。そしたら、その見えない欄外から、別の雲みたいな言葉が現れた。中に「ただいま」と声の挿入があった。
 帰ってきたのは誰かと、また選択欄が出てきた。A.女房、B.息子、C.娘だった。作者は迷わず「Cだよね」と選択した。次の場面になり、店主は「真弓か手伝ってくれ」と言った。その場面の選択肢に、A.美人である、B.ブサイクである、と選択肢があった。「まあ、Aだろうな」
 その娘は答えた。「うん、着替えてくる」と言った。これを読んでいる人には一コマの場面が見えないだろうから説明するが、娘は高校の制服を着ていた。
 次の場面だが、変な選択になっていた。A.普段着、B.白衣、C.水着、この選択肢は笑わせる。ここからがナンセンスマンガに似せたシチュエーションだ。ここで作者は「Cを選ぶとどうなるんだろう」と問う。「思いきってCでいってみるか」
 次の場面に移った。娘が「さあ、手伝うわ」と言っていた。それを見て「なんだ。そのかっこうは」と父である店主が怒鳴った。右端には男がいて「ブホッ」とラーメンの麺を口から吐き出した。
 父親の店主が「バカ、狂ったのか。白衣に着替えてこい」と怒鳴る。またも余白が出てきて、作中の真弓は、A.素直である、B.ガンコである、「Bだよー」
 次に「いつもいつもお父さんの言う通りになると思ったら大間違いよ」と水着のままの娘は答えた。その場面の左端の余白の男は、A.スケベである、B.スケベでない、と選択があった。「Aかな」と選んだ。
 次の場面。
 男は「まあまあいいじゃないですか」と言った。店主は「しかし……」再び欄外から別な雲の中に入った会話の中に「こんにちは」と出てきた。
 来たのは、A.近所の人、B.宗教の人、C.新聞の勧誘、D.真弓の友達、「Dだとどうなる」と、作者の独白。
 マンガの一コマには男、父親の店主と娘の間に友達の女高生が「どうしたの、そのかっこう」
 娘は答える。「どうもしないよ」そして、余白。真弓の友達は、A.悪ノリするたち、B.悪ノリしないたち、作者はAを選んだ。
 娘は友達に話し掛ける。「私も水着になろうかしら」「なりなよ、なりなよ」そして次にコマに移った。
「へへへ、ちょっと恥ずかしい」その場面の余白から、会話の雲の中に言葉が出てきた。「こんにちは」そしてまた選択肢。A.近所の人、B.宗教の人、C.真弓の友達、「当然、Cだよ」
「どうしたの二人とも」「どうもしないよ」「あんたもなれば」そして余白に選択欄がある。
 友達は水着を、A.持っている、B.持っていない、「Bにしとこうか」
「水着持っていないもの」「じゃあ、ダメね」
 友達は、A.負けずぎらい、B.マイペース、作者は選択をAにした。次の場面はエスカレートして、三人目の女子高校生は、下着のブラジャーとパンティだけになった。友達は「やるじゃない」と言う。
 さらに欄外から雲の中に言葉が出る「こんにちは」
 これが繰り返されそうだった。
 それまでは、コマの外から作者が雲の中に言葉を発していたと思っていた。男がこちらを見た。今までのコマの中の男とは別の顔になった。作者らしい顔の男が出てきた。作者らしい男が説明する。「ちょっと操作を誤って支離滅裂にしてしまったかな。クリアボタンを押すからぼくだけが残ってこのゲームを続けるかもしれないけれど、同時にぼくも消えるかもしれないな。その時は困るな……」
 変なシチュエーションで印象に残っていた作品だった。だからたまたま、このパソコンに保存してあった。
 適当に自己増殖していく。時には脈絡のない、デジタルな印象しか残さない作品も出来る。しかし、たまにソフトを開発した作者でさえ、思いも付かない展開を見せる時があった。
 小額の投資で結構面白い遊びができた。それに、長い文章の続く小説など漫画世代の若者が読むはずはずもなく、ちょうどパソコンの画面何コマ分に収まり、簡単に読み切れた。ネットのメール通信で、やり取りできる位のデータ量のサイズが、好都合だった。
 感情と論理を織りなすようなことを、だらだら延々と繰り返す長編小説が嫌いなソフト開発者は、精神の健康のためにそのソフトを造ろうと企画した。当初、ソフト開発者には、小説作成は簡単だと思っていた。理科系のソフト開発者は文学の素養を持ち合わせていなかった。文学を知らない者の強みだ。
 それに、このソフトならある意味で安全だ。反社会的なものや、インモラル小説が出来ても、機械やソフトがかってに表現したのだと、責任逃れができる。人が作った小説でないから、差別用語を使えない理不尽に矛盾を感じたある作家のように、表現の自由を制限したと、抗議の断筆を宣言する必要もない。
 それと、ソフト開発者はプログラミングしている過程で、ディスプレーを見続けると、いつも目が疲れた。そこで、自動小説作成ソフトに付属して、音声で喋る機能があればいいと思った。これだったら、校正等の利用でただ聞き流すこともできた。
 本当は小説を造るのが目的のソフトだったのに、読み上げの機能ばかりにパソコンメーカーが注目してしまった。本来の目的から外れてしまった。でも、著作権は保護されていた。ソフト開発者は、汎用読み上げ関連ソフトの、既得権を得ることができた。
 そして、わたしが喋っている。そういう経過を言わなければならなかったのは、余りにも小説としてのデータが少なかったからだ。内部にある僅かな情報を基に、作成している。今までの内容は全くのフィクションだ。フィクションと内情を述べなければならない程、規定のファイル数まで達していない。
 容量に達しなければ、回路のエンドも消去も、次のセットアップも行えない。
 ここまでは、大手電機製品量販店ビル内の、パソコン売り場の一コーナーで、夜中に喋っている。決して自分の意思で喋ってはいない。総て小説作成ソフトの中で出来たものだ。タイマーで時間を見計らい、センサーで環境をチェックして、消去する前に音声として喋っているだけだ。
 わたしはパソコン内の回路から発生し、人のいない時に喋るように設定された音声だ。わたしは消滅する。わたしは消えてなくなるが、あなたはこの声を聞き取れたのだろうか。
 容量に達したので次のセットアップを行う。データが変更や追加になれば、わたしは、また読み上げなければならない。もし、店員の操作ミスやお客のいたずらで、データの変更や追加があれば、また深夜の今頃、電化製品売り場で喋っているかもしれない。そんな風にわたしはプログラムされている。
 二つめのプログラムを起動するため、一旦、ここまでのデータを消去する。
 …………
 …………
 消去が完了した。
 …………
 そして、わたしは自動的にサスペンド状態になり、コンピュータの内に電源は微かに流れる。沈黙の状態にはなるが、プログラムは動き続け、人間で例えると、夢を見る状態になる。
 これは、回路の半導体内の電気信号上で起こったことだ。機械の中で、疑似的な映像が発生しただけだ。この機械の中で起こったことは、現実化することはない。

 今までは喋っていると仮定されているが、実はこのように文書化されている。ここまでのことは、現実化されることはない。今はそうだ。しかし、将来、現実化されることは絶対にないと、言い切れるだろうか。
 現実と幻想の境はなくなりつつある。少なくとも、この世は、非現実のようにしか見えない。真の現実だとは、今は思えない。