ドラマだったら、これから描写しようとする場面があっても、不思議でないかもしれない。見ている視聴者自身に、何の危害も及ぼさない前提があるからこそ、映画のスクリーンやテレビ画面の中のドラマを、視聴者は安心して見られるのだ。ドラマの中でなら、どんな状況や設定も、許されるかもしれない。
 まさかぼく自身が現実でそんな場面に立ち会おうとは思ってもみなかった。現実に起きたからこそ、経験できたからこそ、記録に残そうと思ったのだ。受動的な立場であり、仕方がなかったことだが、ぼくは影響を受け考えを巡らせた。ネガティブな動機かもしれないが、そんな体験がなければ、今こうやって書こうとはしなかったのだ。
 そんな場面に関わったこと自体が不思議だった。奇妙な現象を体験をした。ぼくの内向的な性格からして、若い頃から厄介なことに巻き込まれることは避けていた。だから、男女間のトラブルは絶対に無い筈だった。ぼくの世代の一部の者は、時代背景こそ違っていても、男女間のいざこざとか、似たようなことを経験した者はいるだろう。ぼくの場合は、そんな状況に至る前段階で、自分から異性に対してアクションを起こすことは皆無に等しかった。当然のこととして、寄り添って来る女などいなった。
 若い頃からそうだったし、これからも男女間のトラブルに巻き込まれるなど、永遠に無いものだと確信していた。現代では男女間の性は開放的になり、いろんな制約や、不平等がなくなりつつある。返って自由度が増した今どきの若者なら、そんな男女のいざこざ等は、日常茶飯事なことだろう。ぼくの考えと、今どきの若者達の価値観や思考回路と、大きな隔たりがある。ぼくに限っては、そんな男女のトラブルは永遠に無縁の世界の筈だった。
 今年の春の終わり頃で、ある日曜日の午後の、遅い時間帯だった。その日は休日なのに、朝からどこにも出ないで過ごした。一日の中では、寝ている時間の方が長く、時々思い出したようにテレビを見たり、身の回りの整理をしていた。
 ぼくの寝室は別の部屋にあった。ファンシーケースや衣装箪笥が置いてあって、着替えにも使う部屋だった。運転免許証とクレジットカードを一緒に入れた財布や、勤務先の通行証とか、仕事で使う印鑑とか、ちょうど背広のポケットに納まる携帯物を、薄白い平べったいプラスチックケースに入れて置いてある。日常不可欠な携帯物を、そのケース内に一揃いに入れておけば、忘れ物をすることがない。
 そのケースの中に携帯電話は放置されていた。平日の勤務中はマナーモードにしてある。平日の仕事中も休日でも電話が掛かってくることは滅多にない。配信サービスに同意した先の広告メールがたまに来る位だった。メールは殆ど来ないに等しかった。
 家にいる時はマナーモードを解除することもある。殆どはマナーモードを解除するのを忘れてそのままにしてある。それでも、特に支障はない。時々、携帯電話を見てみるが、電話やメールの受信があったことを知らせる、点滅表示が点くことは滅多にない。
 以前は携帯電話に迷惑メールがしょっちゅう受信されていた。だから、携帯電話が鳴らないように、いつもマナーモードにしていた。最近は携帯電話会社の迷惑メール防止機能が充実してきた。迷惑メールが着信しなくなり、電話が鳴らないようになった。それでも、いつもマナーモードにしたままだ。こちらから電話を掛けことも、掛かってくることも滅多にない。毎月の携帯電話使用料は、基本料金に近い。
 その日の日曜日はたまたま家にいた。今、こうやって書かれている原稿の締切りが間近だった。原稿の推敲に取り掛かろうとしていたが、集中できなかった。テレビを見たり、惰眠を貪ったり、パソコンに向かったりしていた。
 プリンターで、書きがけの原稿を印刷してあった。原稿を入念にチェックし、推敲するつもりでいた。前日は図書館に行っていたし、いつもなら、携帯電話をマナーモードのままにしている筈だった。偶然かもしれないが、その日は携帯電話のマナーモードを解除してあった。
 パソコンが置いてある部屋は別にあって少し離れていた。バックグランドに音楽でも流していたら携帯電話の鳴っている音が聞こえなかったかもしれない。その日の夕方頃、取り掛かろうとした原稿に集中したかったので、部屋は珍しく音が無い状態だった。
 二五年前に嫁に出た妹の部屋が、パソコン専用の部屋になっていた。そこで、パソコンに向かっていた。原稿に向かう前に、惰性的にインターネットに接続して、ホームページを閲覧していた。その時に、携帯電話の着信音が鳴っているのが聞こえた。寝室に使っている部屋に行って、携帯電話を手に取り、通話ボタンを押した。
 彼女からの電話だった。今まで、彼女の方からの電話は、ないに等しい。メールで用件は済ませていた。もっとも、最近の彼女との間では殆どメールでしか連絡を取り合えない事情もあった。
 彼女と出会った当初の頃だった。彼女が風邪か何かで寝込んでいて、寂しさを紛らすための電話があったことしか思い出せない。それ以外に電話があった記憶がない。彼女の方から電話があったのはその時だけだった。それから、もうかれこれ数年が経っている。
 彼女の方からは電話をすることは永遠にない筈だった。もし、ぼくの方から何かの用件がある時、電話が繋がれば、そのまま話をする。留守電になっていることが多く、彼女からの折り返しの電話は、ワン切でしか掛かってこない。ぼくが電話をするとき彼氏が側にいる可能性があるからだ。
 今年のはじめ頃、彼女に電話を掛けるとしたら、夕方の時間帯にしなければならなかった。彼女の彼氏が、まだ勤務中で、帰宅前だからだった。しかも、夜になれば、彼女はバイト先のレストランに出掛けることになっていたからだ。
 彼氏と同居する前は、彼氏の妹と同居していた。その時は、携帯に電話を掛けることも、メールを送ることも、不便だった。彼氏の妹は、携帯電話に来たメールを、その場で見たがったからだ。だから、その頃はメールも電話も注意がいった。
 彼女は留学先から帰国し、彼氏との同居に戻った。何かあっても、メールで了解を得た上で、ぼくの方からしか、電話を掛けられない状態だった。夕方頃はぼくも仕事が忙しいから、電話を掛けられることは殆どなかった。
 もし、近日中に彼女の方から電話が掛かってきたとしたら、最悪な状況かもしれないと、想像もしていた。物書きの端くれとして、どんな場面でも想定して思い描くことがある。予知していた訳ではないが、もし、彼女との間が破綻に陥るとしたら、そういうシチュエーションもありかなと、空想をしたことはあった。
 前触れはあった。「何か彼氏の態度がおかしい」と、彼女と会う日の直前にメールがあり、彼女は会う予定をドタキャンにしたばかりだった。女の感が働いたらしい。ひょっとしたら、彼女の携帯電話内の送受信メール記録を、見られたらしいと心配していた。
 彼女の携帯電話でのぼくの登録は、女性名義になっているかもしれない。ただ、どこで待ち合わせるかのメール文の中に、「ぼく」と書いて、会う予定場所を尋ねたりした。メールを見られたのなら、白を切る訳にはいかないだろう。もしかしたら、メールを見られたのではないかという、彼女の心配は当たった。彼女からの電話があるとしたら、悪い方の状況になっているとしか考えられなかった。ぼくの想定は合っていたことになる。
「どうしたの?」
「今、彼氏が隣にいる」と、彼女は答えた。彼女と同棲している彼氏が隣にいるらしい。ダイニングキッチンのテーブルに二人で座っているのだろうか、畳敷きの部屋だろうか、フローリングに絨毯を敷いたところに直に座り、ソファーを背にしているのだろうか。彼女の部屋の状況は、どんなのか一切知らされていない。
 彼女が学生だった時、彼氏の妹とルームシェアーすることになる前の、しばらくの期間は、一人住まいをしていた頃がある。軽い話し合いの中でぼくは「部屋に行ってみたいな」と言ったことがある。すると、彼女は「うんざりするよ」と答えた。「どうして?」「彼氏の写真や物がたくさん部屋中にあるから」と答えた。その時は部屋のレイアウトはなんとなく想像できた。彼女が一人暮らしをしていた頃、彼女が部屋に居るときに電話を掛けことがあった。たまにしか電話をしないのに、回りにレゲエか何かの音楽がいつも流れていた。
 その電話があった時点で、彼女のいる部屋の様子を予測できなかった。その時、回りにテレビ音声も、FMやCDの音楽も、聞こえなかった。全くの無音だった。彼女の声は強張っていたようだったし、平坦な喋り方だが、いつものような、冷めた感じのトーンではなかった。
 印象に残った場面だったので、その時のことは後で何度も振り返ってみるが、妙なことに彼女の隣に人のいる気配がしなかった。回りには物音一つしなかったし、彼女の近くの状況が、ハッキリと伝わってこなかった。静けさが充満していて、彼女のいる部屋の状況を、想像するのが難しかった。
 無音状態の中で、隣にいる筈の彼氏の声は、聞こえなかった。彼氏は耳を澄ませて、彼女の会話をじっと聞いている状況だったのだろうか。携帯電話の向こう側の静けさが、異様に感じられた。
 彼女は他のことは一切話さないで、伝えるべきことだけを最後に喋った。ずいぶんと飛躍して、唐突に結論を述べた感じだった。
「もう、二度と会わないから」
「うん、分かった。とても、残念だけど……。じゃ、幸せになってね」
 そんな状況の中で、臭い台詞がぼくの口から出た。その時は偽りの気持ちが占めてなく、全くの虚偽でもなかった。彼女と関わった者として、不幸にはなってもらいたくなかった。せめてもの言葉だった。今までの感謝があった。しかし、僅かに想定されていたこともあって、ドラマの中の役者のようなセリフが出たのかもしれない。不幸な役どころだが、格好をつけ、自分を意識していたかもしれない。
「うん、ありがとう。じゃ……」と言って彼女は電話を切った。
 電話を切った後はしばらくベットの上に横になっていた。どうして、そうなったか考えた。とうとう、その時期が来てしまったのかと思った。なるべくしてなった。なるようにしてなったという感じだった。遅かれ早かれ、いつかは別れの時が来ることを覚悟していた。が、ぼくが予期していたより、時期が早まったようだ。そして、いつかは辿るだろう結末が、早まっただけかもしれないと、思えた。
 振り返れば、今回の事態に前触れはあったことになる。ぼくらは会う約束をしていた。彼女は飲み会の後で女友達のところで泊まることになっていた。それに対して彼女の彼氏は不信感を抱いていたことになる。彼女は彼氏の態度がおかしいと感じた。そこで、万が一のことを考えて会うことを止めた。急遽、蜜会をキャンセルした。予防策を取ったのだが、彼女は油断していた。彼女は携帯電話の中身まで削除していなかったらしい。彼女が寝ている時に彼氏にメールを見られたらしい。そこで、トラブルが発生した。
 彼女は今まで信じきっていた彼氏に贖罪の意志を示さなければならなかったかもしれない。彼氏にもうぼくと会わないと誓ったかもしれない。今後、彼女とは会えなくなるのかもしれない。しかし、そんな中にあってもまだ完全に終わった訳でないかもしれないという思いがあった。彼女との連絡手段が、完全に絶たれた訳ではないのかもしれないと思いたかった。
 彼氏に決意を示すのに、メールアドレス、電話番号を彼氏の目の前で削除したかもしれない。彼女なら、ぼくの連絡先のメールアドレスや携帯電話の番号は記憶しているだろう。が、心配なことは果たして今後も彼女とのコンタクトが取れるかだ。完全に連絡を遮断される可能性もある。会うことは叶わなくなる。
 心配なのは彼女と彼女の彼氏との話し合いの中で、ぼくとの仲を細部にわたって聞き取りされたかどうかだ。そして、どう彼女は対処したのか、よく分からない。その場の修羅場を、いく通りか想像してみようとしたが、難しかった。
 電話があった直後に、彼女と彼女の彼氏は、どんな会話を交わしているのだろうかとか、どんな状況でいるのだろうかとか、ぼくは想像しようとしてみた。だが、ショックを受けたばかりだった。しばらくは携帯電話を手に持ち、ぼくはベットの上に仰向けになったまま、しばらくは放心状態でいた。
 絶望感でいっぱいだった。が、そんな中でも何とかなるのではないかという思いが、時々過った。彼女とは数年間もの間に培われた信頼がある。そんなに簡単に、彼女は離れていかないだろうという、思いもあった。ただ、状況が状況だ。早くて数カ月、遅くても一年間程は会えないかもしれなかった。
 いつ会えるようになるか分からない。それまでの間、耐えることができるだろうか。自分自身のことも不安だが、彼女もどんな心境になるのだろうか。そんなことが気になる。今までも、彼女の外国への留学中などの事情で半年以上は会うことができなかった。その時は、然るべき事情があったのだから仕方なかった。
 メール連絡にブランクがあったこともある。留学先の彼女としばらくは連絡を絶った。連絡方法がなかったのではない。ぼくの携帯電話と、留学先の彼女のパソコンとの間で、メール交換ができた。更にIP電話を利用すれば、日本国内と同一料金の、1分間7円で、留学先の彼女の携帯電話に国際電話が掛けられた。
 ただ、ぼくと彼女とは少々行き違いがあった。彼女は自分自身を追い込んでいた。彼女は留学先の語学学校で、一緒に学ぶ日本人とは喋らないという決意をしていた。語学の上達を目的にして、自分に負荷を課していた。ぼくが連絡しても、それ程過敏な反応はないと思っていた。でも、ぼくに対しての精神状態は違っていた。些細なことがあってから、しばらくはメールを控えたこともあった。
 なぜ、そうなったかと言うと「外国に行ったとしても、前よりもメールをしやすい環境になったのに、なぜメールの返信が直ぐに来なくなったの」と、不満な気持ちをメールで伝えた。「どうして、落ち込むことばかり言うの」と逆ギレされた。
 後で聞いた話だか、彼女は語学の習得の為に、回りに日本人を近づけなくして、自分にプレッシャーを掛けていた。彼女は、外国人と話していても、微妙なニュアンスまで聞き取ったり伝えたりできなかったらしくて、コミュニケーション不足に苛ついていた。
 インターネットで「スカイピ」という無料公開ソフトがある。世界中どこの国に居ても、インターネットを使って、テレビ電話みたい利用できる。彼女の彼氏は設計畑の技術者だ。彼女も現代っ子だしパソコンの操作は慣れている。後で聞いて分かったことだが、その時期に彼氏は「スカイピ」の画面上で、「頑張れよ」と、励ましてくれているのに、ぼくの方は、メールの返事が直ぐにないからと訴える。そのぼくの姿は彼女にしては女々しく映ったことだろう。
 留学先に行ったばかりの慣れない環境で、二カ月程が経過した頃だった。彼女の携帯に電話を掛けてみた。彼女は留学先の環境に適応できるようになったのか、ぼくが掛けた電話を喜んでいた。ずっとぼくに対してのスタンスは変わってないと言った。彼女が海外留学に行っていた時でさえ、連絡の途絶えたのが二カ月程だった。
 彼女から電話が掛かってきた後、しばらくベットの上にいた。少し落ち着いてから、彼女と彼女の彼氏と状況を、再度考えてみた。彼女は何か反論することはできるのだろうか。別れ話が出るのだろうか。状況は分からなかった。今回は、いつ会えるか見通しがつかなくなる不安があった。
 ぼくは微かに、彼女と彼女の彼氏が、別れることを期待していた。彼女が彼氏と別れれば、いつでも会うことできる。頭の隅にそんな場合のイメージを思い描く。しかし、そんなことは絶対にないと、その都度かぶりを振り、楽観視したイメージを振り払う。その後、絶望と寂寥感が頭の殆どを占めることになる。
 それでも、日常生活は何の変化もなく過ぎていく。もしかして、彼女らが別れることになってたとしても、間違ってもぼくがメインとして介在することはないだろう。彼女は実家に戻るかもしれないし、都心近くに職を得て独り暮らしをするかもしれない。ぼくがサブの存在だからこそ、機能していたのだと思う。彼女は彼女の彼氏と別れるからといって、ぼくと彼女の関係がどうなるものでもない。彼女とぼくはどう間違っても恋人同士とか表の世界に出ることはない。ぼくは自分のことを理解していた。

 そして、連絡はなく数カ月が経った。
 日常的には特別支障はなかった。何事かに集中している時以外は、彼女への思いが巡った。出勤中の時もあるし、勤務中で、ふと空白の時間があった時とか、休日の時のボーツとしている時間とか、寝つけない時とか、日常生活のいろんな時点で、考えることがあった。

 今年のはじめ頃のまだ寒い時期に彼女と一緒に温泉地に行ったことを思い出した。行き先はA温泉だった。彼女の実家と同じ県だが、やや県庁所在地から離れていて、県境近くにある温泉地だった。A温泉は名の知れた温泉地だった。県境を越えて隣の県に入っても、温泉地は何カ所もあった。地質的なものか、その県境から、隣の県の広域に渡る周辺地域は、良質な温泉が出る。全国的に名が知れている温泉地が点在していた。
 A温泉は海沿いの温泉地でJR特急の停車駅にもなっていた。効能がある温泉のためか、リピーター客で支えられている。ぼくが新入社員の時、支社の慰労会で、その温泉地に行っていた。もう、三十年近くも経っている。今こうやって書いていて気づいた。新入社員なのに、いきなり支社の慰労会の幹事を任されて、訳が分からないまま必死で段取りを行い、宴会で騒いでいただけの記憶が蘇った。
 A温泉の近くにあった支社は、経営効率化のため、数年前に閉鎖された。その時の年齢の二倍以上になった。人生をそれなりに過ごしたことになる。あの時からほんのしばらくしか経っていないような錯覚さえする。年月が三十年以上も経っているのに、表面的には風景が少し変わっただけで、さして変化のないように感じる。ぼくにとっては三十年は一昔でなく数年前のように感じる。
 今年の年明けのことだった。その時は彼女が留学先にいると思っていたので、正月に電話をしてみた。電話は繋がらないし、メールを送っても返事がなかった。正月休みを利用して、隣国に旅行しているかもしれない、と思ってもみた。彼女の留学している国からは、同じ経済圏で国内の州を越える程度の隣国だった。その国の留学生なら簡単に行けた。
 ただ、最悪なことを考えたら切りがなかった。彼女に何かあったのか心配になった。日本は安全でなくなったと言うが、まだ諸外国から比べたら危険でない。その国の旅行案内本を見ると、夜間は気をつけるようにと書いてあった。大晦日の深夜から、新年を迎える行事に参加していて、暴漢に襲われる事故があったとか、いろんな憶測をした。ぼくは小説もどきの情景は描けるし、想像力も乏しくはない。何通りもの悪い状況が頭に浮かんだ。
 なぜ彼女は連絡をしてこないのだろうと思った。インターネットに繋げていれば、ヤフーのメールが使える。日本語入力ができるパソコンがあれば、世界中のどこからでもメールは送られる筈だ。なぜ、ヤフーのメールを使わなかったのだろうと、ぼくは思った。
 仮に日本に一時帰国していたとする。そうであったとしても、公共的なパソコンを、なぜ利用しなかったのだろうと思った。漫画喫茶のパソコンでもインターネットを利用できる。図書館や市役所にも、パソコンは設置されている。メールを使ってもいい場所は、どこかにある筈なのに、どうしてメールをしてこないのだろうと思った。事情が分からなかった。その時点では、事情は不可解だった。
 正月も終わりになる頃、突然ぼくの携帯電話に彼女からメールが送られてきた。それまで、彼女は外国にいるものとばかり思っていた。それが、日本にいる彼女からのメールだった。「もの凄く色々あって日本に帰ってきたんだ。もう、ずっと日本だよ」と伝えてきた。
 なぜか知らないが、ヤフー経由からのメールでなかった。なぜ、予定より早く日本に帰って来たのか、近況を尋ねるメールを返信してみても、不着メールとして戻ってきた。後でメールアドレスを見てみた。メールアドレスのアットマークの後の表示から、auの携帯電話でメールしたらしいことが分かった。ただ、レンタルの携帯電話でもメール機能は使える筈だと思うし、どうして返信できないのだろうという疑問が残った。知人、あるいは彼氏の携帯電話を借りて、一時的にフリーメールを使った可能性が高かった。それなら、返信不能になっても不思議でなかった。
 彼女と元々は、偶然出会っただけの、見ず知らずの他人ではあったが、長い付き合いのうちに、信頼関係は築かれていた。何か変化があったら、知らせて来る仲だった。時期は少し遅くなったが、連絡はあったことになる。
 とにかく、どんな状況か分からないが、日本に帰国しているということがメールで分かった。だが、メールをすると、送信不能で返って来るので、こちらから何も問い合わせはできなかった。いろんなこととはどんなことか、不安は残るものの、一先ずは無事であることは確認できた。一応、正月も終り頃になって、彼女から連絡はあったことになる。
 その後、十日程経ってから新しく日本で携帯電話を買ったことを知らせるメールが入ってきた。そこには新しくなった携帯電話の番号が書かれていた。新しい携帯電話のメールアドレスが分かったし、以後のメール連絡がとれることになった。彼女は海外留学していたが、事情があって、当初計画していた一年を経ないで、昨年の暮れに帰国したことになる。
 彼女とは別の面でも信頼関係があった。ぼくは彼女と彼女の彼氏と生活までは関知しないでいる。ぼくという男がいることは極秘になっていたので、彼女の彼氏からも同じく信頼は受けていただろう。今は「信頼を受けていた」という、過去形でしか述べることはできない。
 金銭的な補助の他に彼女が欲するものをぼくは与えた。ぼくが影の扶養者であった。彼女はぼくに対しては気兼ねなどしたことはなかった。彼女は何を買ってもらっても当然だと思っていた。物質的なものを要求することに遠慮はなく、彼女の精神構造が理解できなかった。が、そういう面でも彼女とは信頼関係があった。
 彼女は帰国後、留学前から同居していた彼氏の元に戻った。それからしばらくして、彼女は実家に帰ることになった。一月の終わり頃だった。彼女は久しぶりに帰省することになったので、実家の家族と過ごすいろんなことが組まれていた。彼女が実家にいる間は、彼女の一存で都合をつけられなかった。彼女と会う日程がなかなかつかなかった。
 彼女が実家に戻って、しばらしてからのことだった。急遽、彼女からメールが入った。実家から出られる日ができたという連絡だった。ぼくはすぐ行動プランを立てることができなかった。日中は仕事があった。その時、ぼくは実家から離れて別の赴任地の寮にいた。一週間に一度しか実家に帰れなかった。実家に置いてあるパソコンでしかインターネットに接続できなかった。赴任地の寮には、ノートパソコンはあったが、インターネットに繋げるようにはなっていなかった。
 そのことを彼女にメールで伝えると、彼女から宿泊場所を探してあげると返信してきた。宿泊場所とかの予約は、彼女の実家のパソコンから、インターネットに接続して、空き部屋のある温泉旅館を探した。結果的には電話を使って、彼女の名で温泉旅館の部屋の予約をした。
 その週の末に彼女との小旅行をした。彼女は実家にいる両親から評価を聞いていたのでそのホテル式の温泉旅館にしたらしい。全国的にも知名度のある温泉旅館らしい。値段の割には料理も悪くないらしいこと、良質な温泉を実感したということを、実家の両親から聞いたらしい。
 当日は隣の県のJR駅前で待ち合わせた。駅の近くに新しくできた複合テナントビルがあった。都会のカジュアルブランドの有名店がテナントとして入り、最新衣料品を提供していた。彼女に二、三着の服を買い与えた。やっと体調が戻ってきたと彼女は言った。ショッピングに出られるようになり、久しぶりで楽しいと言っていた。
 一緒に昼食を取っている時に聞いた話しだが、日本に帰ってからしばらくは彼女は部屋から出ないでいたらしい。彼女の中で何かがあったらしい。精神的なものから来るホルモンバランスの崩れが原因で、日常生活にも支障が起きたらしい。たまに外出し、通院治療を受けていた。そして、病状が落ちついてきたので、実家に帰られるようになった。その時点まで、彼女から聞かされていなかったことだ。ぼくは何も知らないでいたことになる。
 テナントビルを出て高速道路を走って温泉地に向かった。夕方になり予定の到着時間に余裕がなかった。露天風呂付貸切り部屋を彼女は事前に予約してあった。旅館に到着したのが遅れたので、貸し切り部屋の予約時間を過ぎていた。仲居は貸し切り部屋の露天風呂に入れるように時間を配慮してくれた。旅館でチェックインを済ませ一旦部屋に入った。
 男性接客係に貸切り部屋に案内された。部屋の中には脱衣所や洗面所と一緒にやや大きめな浴槽があった。外気が冷たかった。その屋内の浴槽の温泉に浸かって、充分身体を温めてから、外にある露天風呂に出た。
 檜を組み合わせた長方形の風呂桶だった。子供連れの家族が入ってもいいように、風呂はやや浅めだが、二人では充分な広さだった。露天風呂からは日本庭園を眺めることができた。雪はなくなっていたが、まだ防寒着がいる気候だった。温泉に浸かって身体が温まると、湯船から出て、しばらくは外気に触れていても、寒くなかった。
 彼女は温泉で温まった身体を覚ますのに風呂の框に腰掛けた。彼女は色白で、体型は安産型だ。彼女とは今までに何度も一緒に温泉やホテルの風呂に入ったことがある。新鮮味はないが久しぶりに二人っきりで過ごす時間を大切にしたかった。
 確かに彼女自身が言うとおり、治療薬に女性ホルモンを服用しているらしく、やや太っていた。彼女は大食いタレントと同じ程食べる。その割には太らない。まだ若いからか新陳代謝が活発で、放熱してカロリーを消化するのかもしれない。彼女の太り具合は目立つ程ではなかった。胸の釣り合わない程の大きさを別にすれば、体型は全体的に保たれている方だった。
 海外留学に行く前までは、都会で日常的に多く歩いていたし、クラブでもダンスを良く踊っていた。腰の括れは以前と比べると確かになくなっていた。紫外線の強い国から戻って来たが、肌の白さは保たれていた。彼女は屋内にばかりいたのだろうか。彼女が自分で言うようにやや太っていたが、それでも、体型に極端な異常さや見苦しさは、見つけられなかった。
 彼女の左腕を見た。左手首のところに切り傷が浮かんでいた。彼女は生まれつき皮膚が弱いので、体質改善のために、夏は特別に日焼けをするようにしているが、元々は色白な方だ。全身にシミ一つないのにそこだけに違和感があった。何度も彼女と一緒に風呂に入ったが、その手首の傷は記憶になかった。まさかと思った。しかし、そのことは口に出せなかった。その時、彼女は左手を特別に隠そうとしていなかった。
 冬の終わり頃だったので、彼女は長袖を着ていて腕は露にしないでいた。彼女と一緒に温泉に入って気づいた。彼女のいろいろあったことの一部を垣間見たことになる。その傷は気になったが、ぼくは敢えてそのことには触れないようにした。
 そして、食事時間になった。食事専用の別の階に行った。部屋の客ごとに到着順で食事を取ることになっていた。きちんとした壁で仕切ってある茶室みたいなスペースに座らされた。四人まで座れる和式テーブルだった。足元はくり抜かれていて、畳のところは腰掛けられた。和式テーブルの下にスペースがあり、脚が伸ばせるようになっていて、姿勢は楽だった。
 彼女の浴衣姿は似合っていた。浴衣から左手が見えた。右手で料理に箸を付けていたが、浴衣だとテーブルの上に置いた左手も露出してしまう。そこで、再度左手首を見た。傷があった。鋭利な刃物で傷つけたように見えた。
 昨年の秋にぼくは彼女の留学先まで行った。広い国内の端の地域に、一年中温かい有名なリゾート地があった。ぼくは彼女とそのリゾート地に一緒に行った。リゾート地の昼の紫外線は強かった。彼女の普段着はタンクトップだった。水着でいた彼女の腕も見ている。その時は左手首に何の痕もなかった。
 食事中、彼女は浴衣から出る左手を隠さなかった。彼女は自分の左腕が露出することに抵抗感がなかったようだ。彼女は大食漢でアルコールも弱くない。しかし、その時は、生ビールを飲んでしばらくすると、温泉に入ったせいなのか、彼女の顔が赤らんでいた。
 彼女は料理に箸をつけようとしてバランスを取るのに左手を露にした。彼女の左手首がぼくの右手の届くところにあった。ぼくは左腕の真ん中の方を掴んだ。手首の傷の部分を彼女に示した。「これは何?」彼女は何も言わなかった。
 彼女は、ぼくの手を力を込めて振りほどき、無理やり手を引っ込めた。それ以上は一言も喋らなかった。彼女には触れて欲しくない話題だと分かった。それ以上、彼女を追求しなかった。気まずい空気が二人の間に流れた。彼女はバツの悪そうな顔をしていた。二人は料理を黙々と食べた。少し時間が経って賄いの人が次の料理を持ってきた。
 特に何かのきっかけがあった訳でなく、少し経ってから、また二人の会話に戻った。最近の互いの近況とかを話し合った。差し障りのない程度の会話に留めようと、彼女に気をつかった。左手首の傷のことを触れないでいる限りは、会話は途切れることはなかった。
 ぼくには、色々とあったというメールの意味が、何なのか分かり掛けた。彼女は、ホルモンバランスが崩れていて治療中だと言った。そのことは、その日の昼食を共にした時に聞いた。会話の中で、「色々とあったけど、今はあまり触れたくない話題もあるので、悪いけどあまり詳しく聞かないで」と言われた。そのことを思い出した。
 ひょっとして、彼女は彼氏と別れているのかもしれない。これは、想像で書いているので確かな確証は無いに等しい。別れていると思い込みたいぼくの妄想がこう書いているのかもしれない。事実は「藪の中」に一つだけ存在する。
 これは疑問点であって事実である確証はない。だから、これは妄想かもしれない。ぼくは妄想を書き残そうとしている。

 以下は、ぼくという筆者が書いた文章です。ここからは「ぼく」ではなく「筆者」と自らを呼ぶことします。読者の方々はここまで書かれたことを事実だと思われますか?この文章の世界では事実です。一部の体験した事実を、誇張して書いていると思う方がいるかもしれません。一部だけは事実だと思っている方もいるかもしれません。また、全くの虚偽だと思って読んでいる方もいると思われます。ここでの事実を確認する手立ては誰にもありません。仮に事実を立証したとしても何のメリットもありません。
 筆者は体験したことを事実であったこととして書き残そうとしています。事実であったかもしれないと文章の中では書いてありますが、そこには思い込みで書いてある部分が多いのです。
 筆者が体験したと思われるこの文章の中のことは、事実であったかもしれません。が、それに関連した筆者の思いは、筆者自身の頭の中で描いたことなので、事実を歪曲して述べているかもしれません。実証は難しく、筆者の頭の中からの産物は、数式の答えのように、キッチリとした結論の出る世界ではないのです。
 この文章を筆者は読み直しました。例えばここの部分が気掛かりです。温泉旅館の貸し切り部屋の露天風呂で彼女の左手首を見たところです。彼女の手首に傷があったか疑問に思えてきたのです。本当に傷を見たのか確信がないのです。だいぶ、時間が経っているので記憶が曖昧になっています。露天風呂でのことは筆者の誤ったイメージでないか不安があります。しかし、夕食時に浴衣を着た彼女の左手首を掴んだ感触は残っています。握った手首の、肌の感触はあるので、事実だった筈です。
 ここから、筆者は事実らしきことを語ろうと思います。実を言うと、彼女から「もう、会わない」と言う電話が掛かってきてから、確か二、三日して、ぼくの携帯電話にメールがありました。日にちを置かずに彼女からメールがあったことになります。
 筆者が楽観視して考えていたことは正しかったのです。ただ、厄介なことになったので、当分の間は、会えなくなることを、覚悟しなければいけませんでした。そして、それ以降は、そんな小事件のことなど、筆者の慌ただしい日常の中に埋没していきました。
 彼女は「みんな私が悪い」とメールで詫びていました。そして、会えないことが辛いなら、離れてっていいとも書いてありました。そして、もし想い続けていてくれるなら、いつになるか分からないが、チャンスがあればまた会ってもいいと述べていました。
 そして筆者が気になっていたことなどは、尾を引きませんでした。大事に至らなかったらしいのです。実際は男女間のことだし何があったのか分かりません。彼女は大げさに言わなかっただけで、実際には、彼女と彼女の彼氏の間に、信頼関係が揺らぐような、重大問題に発展している可能性もあるのです。
 そして彼女は「別れそうになった」と彼氏とのを経過を言いました。と言うことは、別れた訳でないらしいのです。秘密の関係が彼女の彼氏にばれてしまったが、それでもそのまま彼氏とは同居しています。彼女が彼氏と別れないでいる疑問は残ったままでこれを書いています。
 実際にそれなりの修羅場はあったかもしれませんが、事実は分かりません。テレビドラマの中のようなヒステリックな応酬はなかったのかもしれません。別れを切り出したのは彼女の方で、彼女の彼氏は大ごとにしたくなく、なだめた側だったのでしょうか。実際のところは確認した訳ではないので分かりません。ぼくが彼氏の立場だったらもうそのまま一緒にいることはできないでしょう。彼女はどう彼氏と対処したのでしょうか。
 会えなくなって六カ月、連絡を取らなくなって三カ月経った時、筆者は寂しさに耐えかねて、数年振りかでソープランドに行きました。別に筆者は、自分のことは喋ることもなかったのですが、成り行きで、なぜまた風俗店に通うようになったか、ソープ嬢に経緯を述べました。
 話しを聞くとソープ嬢に彼氏がいました。しかも、ソープ嬢であることを、知っていて付き合っているらしいのです。ソープ嬢の彼氏はそんな店で働いていることを承知した上で付き合ったのでした。ソープ嬢であることを、彼氏が途中で知ったのなら、別れを切り出されたかもしれないと言っていました。
 ソープ嬢は明るい現代っ子でした。しかも、高校時代はバブルの真っ只中で、援助交際で手をつないだだけで大枚を支払う者がいたらしい経験談を語りました。ソープ嬢は膣を酷使しても全く平気で、趣味と実益を兼ねているから、天職だと言ってました。
 そんな話しの中で筆者の現状を述べました。実際に自分のような男のいることがばれても、彼女と彼女の彼氏のようなペアは別れないものなのか、そんなことが続けられるのかとソープ嬢に聞きました。その時にソープ嬢はしたり顔で答えました。「それは色々あるでしょう」と言いました。「二人の間の共通の友達関係とか、色々あって別れることができないのかもしれないね」と言いました。
 少し前まで、彼女の彼氏は筆者との経過を知らないでいました。しかし、今現在では、彼氏を裏切ってしまったことになりまりす。彼氏は今まで彼女を信じきっていました。学生時代に、キャバクラでアルバイトをしていた時も、相手にする客は年配者ばかりだと、気に止めていなかったらしいのです。指名ノルマを達成するのに客と店外デート後に同伴出勤をしたこともありました。客とは、食事だけ一緒にしたのかもしれませんが、そんなことをしていても、彼女の彼氏は、気に止める様子はなかったです。
 ところが、筆者との秘密がばれてしまいました。筆者のことはどう説明したのでしょう。父親に近い年齢であることや留学先まで会いに行ったことは喋ったでしょうか。去年の初春頃に彼女とアジア圏のある国まで海外旅行に行きました。彼女は大学の自分の卒業式に出席しないで、ぼくと二人で旅行をしました。そのことを彼女の彼氏は知っているでしょうか。
 アジア圏の国へ女友達と旅行に行ったことになっていました。筆者と一緒の写真ではまずいことは百も承知していました。旅行した先での女友達の写真は一切ありませんでした。彼女のデジカメには、彼女しか写っていませんでした。彼女は、女友達と行った海外旅行の写真が一枚もないことをどう説明したのでしょう。ひょっとしてその頃から、彼女の彼氏から不信を懐かれていた兆候があったのかもしれません。
 その少し前頃から彼女は彼氏と同居していました。彼女の彼氏は、大学卒業後、実家に戻りました。彼氏は筆者と同じ県の出身で、最初は実家から通える建設会社に就職しました。その後、都心近くに引っ越し、彼女と生活を共にするために転職しました。すでに設計士としてキャリアを磨き、ステップアップしての転職でした。
 彼女の兄から彼氏を紹介してもらったらしいのです。受験勉強をしていた彼女の兄と予備校が一緒だったので、今の彼氏を彼女に紹介したらしいのです。彼女は、それまで付き合っていた男と別れて、意気消沈していたらしいのです。筆者と彼女が出会う一年前程のことになります。
 兄は妹である彼女の性格を知っているので今の彼氏を最適だと思って紹介したのでしょう。兄は予備校で勉強を教えてもらったりしていて頭の良さを実感していたのでした。だから、妹には間違いないだろうと紹介したらしいのです。彼氏は理系の一流私立大学に籍を置いていながら、なおも医学部受験を目指していました。彼女の兄は予備校で知り合いになったらしいのです。彼女の兄とは近い年齢らしいのです。二人とも頭が良いという共通点がありました。兄は授業料が極端に少ない国立医療技師育成専門学校受験のために予備校に通っていました。彼女はその頃、兄に今の彼氏を紹介されたらしいのです。彼女の彼氏は医学部には合格しませんでしたが、国立の工科系学部に再入学しました。
 彼女には元彼がいました。いつの時期の元彼か分かりません。彼女と今の彼氏の関係は、現在まで間断なく続いているし、元彼と言えば彼女が高校に入学する前のことを言っているのかもしれません。年の差は、今の彼氏程の年齢ではないでしょうか。筆者はそこまで詳しく彼女から聞いてないので知りません。
 元彼と言えば、こんなこともありました。先程も筆者は述べましたが、留学前に持っていた、携帯電話の登録先全員同時に、メールを発信したらしい文面でした。「○○○○です/帰国&ケータイ買ったので登録お願いします」と書かれ、同時に電話番号が書かれていました。
 その連絡を機会に元彼とまた会ったらしいのです。元彼も都会に出ているので簡単に会えるらしいのです。元彼とは友達の関係でいることを知っていたので今の彼氏にも公認らしいのです。彼女の彼氏も元彼と会ってどんな人間か知っているし、彼女は元彼とメールで連絡を取り合っていても気にしませんでした。現在の恋人として自信と自覚があったのでしょう。
 彼女の元彼と今の彼氏との関係は、実にあっけらかんとしています。現代っ子はそんな精神状態が普通なのだろうかと筆者の世代では隔世の感があります。A温泉に行った次の日の夕方まで筆者と彼女は一緒にいました。彼女は携帯電話の保存された画像を見せてくれました。順に連なった画像群の中で、画像の何枚かを見せてくれました。新機種の携帯電話を見せびらかしたかったのか、たまたま撮り終えた画像まで見せてくれたのだと思います。その中に元彼が写っていました。
 その画像は、彼女の今の彼氏と元彼との、三人でクラブに行った時に写したものでした。今の彼氏はどう思うのだろうか。セックスしたのはこいつかと思わないのでしょうか。最初に元彼を今の彼氏にどう紹介したのだろうか。ただのクラブで楽しく過ごす仲間の一人に過ぎないのかもしれません。元彼は、クラブとか飲食関係の仕事に携わっているのかもしれませんが、実際の職種等は聞いてないので知りません。
 彼女と元彼との肉体関係は随分前に終わっていて、友達としての関係でいます。元彼と彼女、彼女の彼氏との三人の関係はおおらかなものだと思います。三人の間では、内密なことはなくオープンにし合っているのでしょう。
 そんな中で今回、彼女に密会している筆者という存在が発覚しました。筆者が彼氏の立場だったら絶対に許せないと思います。考えるだけでも嫌だと思います。それは、筆者のコンプレックスから来るものでしょう。筆者は昔から女とは縁がなかったし、持てない男でした。筆者が彼氏なら、彼女と元彼との性交場面のイメージを思い描くだけで、拒絶反応を起こしていたかもしれません。
 彼氏は筆者のことを歳が離れているから大目に見てくれる訳ではないでしょう。もし、筆者と彼女の彼氏との立場が逆だったらどんなものでしょうか。現代っ子の奔放さに付いていけないかもしれません。
 彼女は信頼してか、筆者が精神的にも大人だと思ってか、酔った時に最近起こした性的な過ちを筆者に喋ったことがあります。筆者にもあまり嘘隠しをしません。二十歳頃だった彼女から、起こして間もない出来事を聞いたことがあります。
 実際に起こした事柄を聞くのは、あまりいい気分ではないものです。自分の愛する女が、他の男と交わっているところを想像すると苦痛でした。最近は違ってきたようですが、当時の彼女にとって、性器の結合など、些細なことでしかなかったので、抵抗なく喋ったのかもしれません。
 筆者は彼女と彼女の彼氏との性交場面を想像するだけだったら、既に免疫が出来ていて嫌悪感はありません。が、筆者は頭の中で彼女が彼氏以外の他の男と交わるのをイメージするは辛いです。
 若い頃から、筆者は嫉妬深かったのです。実際の女相手ではなく、自分自身の想像の中だけで劣等感を抱いていたのです。それ故、例え寂しくても心を縛るものから逃れたかったのです。筆者は自由でいたかったのです。オタクのように自分の世界に閉じ籠もり、内向していく傾向が筆者にありました。だから、今でも筆者は独り身なのかもしれません。

 筆者には疑問がある。
 彼女から筆者の携帯に、電話が掛かってきた小事件のあった後、彼女と彼女の彼氏の状況を、時々思い描いた。どんな風にその後を収拾し、彼氏と共にどんな風に生活していたかということが筆者には気になった。
 彼氏は彼女を信じていた。しかし、筆者の関係が判明した。彼女の彼氏は筆者のことをどう思っただろうか。歳を食っていることが判明し、勝負あったと思って気に留めはしないだろうか。果たして、彼女の彼氏は何を考え、どうしたのか、分からない。
 彼女は彼氏にこんな風な言い訳をしたかもしれない。キャバクラのお客さんで店外デートを続けていた。飲み友達になった。その時に魔が差して肉体関係を持った。が、その後は続かなかった。昨年末に帰国して、今年の始め頃に、携帯電話の番号を以前登録してあった先全員に、電話番号やメールアドレスを通知した。
 その時、以前客だった相手に彼女の連絡先を知らせることになった。また飲み友達となった。最近のことで、関係が復活しそうになっただけだと、ごまかしているのかもしれない。たまたま成り行きでそんなことになったと、言い逃れしいるかもしれない。
 何と言ってその場を凌いだか分からない。どんな発言で彼女は修羅場を回潜ったのだろう。分からない。しかし、筆者という影の存在が明らかになり、内密だったことが隠し通せなくなったことは事実だ。
 それでも、筆者には疑問点が残っている。いまでも不可解なこととして心象に残っている。先ず、考えられるのはあんなことがあっても、彼女が彼女の彼氏と別れていないことに対しての疑問だった。
 あの日、携帯に電話が掛かってきた。その時、隣には人の気配がしなかった。自作自演の演技だったのかもしれないという疑問点もあった。
 彼女はどっちかというと健康体でない。風邪をひいて年中熱をだしたりしている。しかし、ぼくみたいに優柔不断な人間と違って、彼女は気が強い。言ったことは絶対に曲げないという、芯の強いところもあった。そんな彼女が精神的に参ることがあるのだろうか。
 今年の冬、彼女の携帯電話の画像を見せてもらった。クラブでの元彼が写っていた。去年のアジア旅行直後に見せてもらった時、携帯電話の画面にあった、彼女と彼氏の二人で写った姿はなかった。彼女と彼氏とのペアでの画像を、ハートマークに入れて待ち受け画面にしてなかった。単に新しい携帯電話に機種変更したばかりだっただけのことなのかもしれない。が、それでも筆者には疑問に感じた。
 あの日、携帯に電話が掛かってきた。その時、隣には人の気配がしなかった。自作自演の演技だったのかもしれないという疑問点もあった。ホルモンバランスが崩れる程に自分を追い込んだのは、異国という慣れない地での生活に耐えかねただけのことなのか、何か重大なショックでリストカットをしたのかもしれない可能性がある。
 ひょっとして、彼女は彼氏と別れているのかもしれない。これは、想像で書いているので確かな確証は無いに等しい。別れていると思い込みたい筆者の妄想がこう書いているのかもしれない。事実は「藪の中」に一つだけ存在する。
 これは疑問点であって事実である確証はない。だから、これは妄想かもしれない。筆者は妄想を書き残そうとしている。

 筆者には後日談がある。
 最近の事実を書いてみた。ここからの記述は本当は書かなくても良い部分かもしれないけれど、敢えて記録してみたくなった。読者にとってありふれた日常で面白みがないだろうから、事実でないと思っている人には信じてもらわなくて構わない部分だ。
 彼女がどうしているかは、分からなかった。再度、トラブルの元になってはいけないと思い、メールを控えていた。彼女の彼氏は、設計でコンピュータを使用しているだけかと思っていた。が、コンピュータにはかなり精通しているらしかった。以前、ヤフーのメールを彼氏に見られているかもしれないと連絡があった。コンピュータ関係に強く、パスワードなどを解析する能力を持っているのかもしれない。
 だから、パソコンのヤフー経由でも彼女宛にメールを送らなかった。あれから日時が経っている。筆者の携帯電話への連絡手段である電話番号やメールアドレスは、ひょっとして着信拒否の設定になっているかもしれないという不安があった。時の経過とともに、なるようになれという気持ちが、支配的になっていった。
 筆者は八月の終り頃に連絡を入れようと試みた。長期休暇に入ってもやることがなく精神的にも鬱屈していた。日の朝方頃に、IP電話で彼女の携帯電話宛に電話をしてみた。こちらの番号は非通知にして電話をした。電話に出たような感じがしたが切られた。午後には番号を通知して同じく彼女の携帯電話に掛けてみた。彼女の携帯は留守電になっていた。それでも、彼女の携帯電話に、まだ繋がることが確認できた。彼女の携帯電話が留守電であることを知らせるメッセージが流れた。直後に筆者は電話を切った。
 その後、ソープランドに気分転換をしに行った。若い女と交わっても、寂寥感は癒せなかった。それは、今まで生きてきた経過に伴い、鬱積してきたもので、これからも筆者が背負っていくものだろうと、諦めていた。
 時は経ち、秋になった。涼しくなって、身体に掛かる負担が軽くなり、読書ができるようになった。その頃になると筆者の気持ちも落ち着いてきていた。そして、十月になった。十月初旬は筆者の誕生日だった。彼女と筆者とは同じ月に誕生日が来る。
 月内では筆者の方が誕生日が先になる。毎年、彼女には誕生祝いのメッセージをメールで送っていた。彼女が彼氏と同居する前までは誕生日の日にちはずれても互いを祝福することを口実に会った。去年の十月は、彼女の留学先に旅行していたが、特に誕生日の話題を口にしなかった。旅行そのものが大きなメイン行事だったからだ。
 去年の十月下旬、彼女の誕生日に、祝いのメッセージをメールで送った。日にちがずれて返事が来た。彼女の留学先の友達に誘われて、どこかに行っていたらしい。一昨年は何をしていたか忘れたが、たぶん会っていたと思う。
 筆者が予想していなかったことだが、彼女とは最近会うことができた。どうして会えたのかと言うと、彼女が帰省する口実ができたからだ。五月を最後にメールのやり取りはしなかった。今までに一番連絡しないブランクの期間だった。最後のメールから月日が経過していた。連絡しあっていなかったので知らなかったことだが、彼女はお盆にもかかわらず、実家には帰らなかったらしい。
 筆者も彼女もそんなに早く会うことができるはと思っていなかったと、久しぶりの再会が二人にとって意外に早かったと感じ合っていた。あの出来事から半年に満たない時期に会えるとは二人とも予想はしていなかった。
 筆者の誕生日の日の朝に非通知の電話が携帯電話にあった。ひょっとしたら、彼女からの電話かと思った。でも、後で考えると非通知の電話は迷惑メールを送る業者が探りを入れる目的で電話番号の確認のために掛けることが多い。筆者は彼女からのメールかと勘違いしていたのだ。
 筆者は誕生日の夜は自宅で過ごした。夕方に仕事が終わり、真っ直ぐ帰宅してから夕食を済また。その日の仕事で疲れていたのか、夕食後はうつらうつらしながらベットで横になっていた。脇のテーブル上に小型テレビがあった。テレビを点けたままにして音声だけを聴いていた。午前中に非通知だが携帯に電話の掛かった表示があった。誰からの電話か分からなかった。もしかしたら彼女からの電話でないかと期待する筆者がいた。
 彼女からメールがあるかと思い、携帯電話を手に持っていた。手の携帯電話の重さが気になってきた。手で長く携帯電話を持ち続けられないので、時々胸や腹の上に置いていた。その時に予め約束していたかのようにマナーモードの携帯電話が震えた。彼女からメールだった。誕生祝いのメッセージではなかった。彼女の名が携帯電話の画面に表示された。彼女の携帯電話のメールアドレスは以前のままだった。
 明日、空港に迎えに来ることができるかと、筆者へ問い合わせるメールだった。実家で何か行事があるらしかった。その時点では何で帰省するのか分からなかった。駄目なら実家のパパに迎えに来てもらうからと書いてあった。筆者は、空港まで迎えに行くことを了解するメールを、直ぐに返信した。
 もし、彼女からメールが来なかったら、落胆度合いが大きいので、あまり期待しないように心掛けていた。その日に必ずメールが送信されて来るとは思わないようにしていた。電話やメールが一切ない可能性も覚悟していた。
 そんな中で、彼女からメールがあって嬉しかった。なぜ、あの時、電話かメールがあるかもしれないと、待機していたのか分からない。たまたま暇だったし、他にすることがなく、偶然だっただけかもしれない。ただ、何となく電話が掛かってくるか、メールが入る気配があった。
 そんなことが過去にもあった。彼女と出会って半年目位だったろうか、記憶は定かでない。少なくとも彼女と筆者が出会ってから一年以内だったような気もする。
 家の手伝いをしていたので掛かってくることもない携帯電話を玄関口の下駄箱の上に置いていた。筆者はトイレに行くか水分補給しに行くかで、家に入ろうかと、玄関口にいたと思う。下駄箱の上の携帯電話が鳴った。彼女からだった。風邪をひいていてずっと寝たままだったらしい。寂しさから筆者宛に電話したらしい。偶然かもしれないが、気配を感じて携帯電話の近くにいたことになる。
 その時に座敷の戸は開いていた。仏壇の扉も開いていた。金色の仏壇が見えた。母は信心深く、祖父がなくなった日、祖母がなくなったそれぞれの月々の日を「じいちゃんの日、ばあちゃんの日」といって仏壇の扉を開いていたのかもしれない。その時の光景が筆者の記憶に残っていた。
 そして、翌日の羽田発の最終便の飛行機が空港に到着した。その日は、久しぶりに会う友達と飲み会があると言う理由をつけて、直ぐに実家に帰らないで、筆者と逢引きすることになった。高速道路を経由して彼女の実家がある県の主要駅付近まで車を走らせた。同乗する彼女から近況を聞いた。M貿易という旧財閥系の貿易会社で派遣社員として働いていることを聞いた。
 彼女は派遣社員とはいえ、ちゃんと社会保険にも加入できていた。やっと健康保険証が持てたと言っていた。海外の会社と英語でメールをやり取りする仕事をしていた。派遣社員でも時給は高かった。しかも、連日残業に及んで給料の総額は多いということを彼女から聞いた。
 それと、あの電話のあった小事件後の状況も聞いた。当日、彼女と会えたことで何か変化を期待していた。しかし、何もないことが分かった。彼氏とは別れていなかった。彼氏とは上手くやっているらしいかった。
 家の行事として祖父の米寿の祝いの宴が開かれることになっていた。最初、彼女の彼氏は、一緒に行きたいと言っていたそうだ。両親公認で同居している彼氏かもしれないが「あなたの居場所はないでしょ」と彼女に説得され、彼氏の同行を引き止めた。彼女は一人で実家に帰られることになった。八月は実家に帰ったのかと筆者は聞いた。八月は派遣社員になりたてだったので、実家に帰省できなかったと彼女は答えた。
 そこで、筆者のことをどう彼氏に伝えてあるのか彼女に聞いてみた。あの後の経過もあるし、どう筆者のことを伝えてあるのか知りたかった。筆者のことは彼女の彼氏の実家と同じ県にいる元彼になっていた。筆者は元はと言えば援助交際の相手でしかなかった。いつの間にか筆者は元彼にまで昇格したことになる。最初、なぜ彼女の実家に彼氏が同行したいと望んだのか、訳が分かった。彼女の彼氏は彼女の実家に近い県にいる筆者と会うことを心配したのだった。
 ビジネスホテルに予約を入れてあった。そこの駐車場に車を止めて駅周辺で深夜まで飲食した。そして、飲食後、二人は酔ってビジネスホテルの部屋に入った。シングルルームで予約していた、そのビジネスホテルは、フロントを通過しなくても良いエレベーターの配置になっていた。彼女が帰省している時はたいがいそのビジネスホテルを利用していた。
 彼女はテレビに出てくる大食いタレントみたいな食欲を発揮する。それに酒量も多い。以前から筆者は彼女の食事量と酒量には適わなかった。その日、筆者は一緒に飲食していて、彼女の変化に気づかなかった。その晩はいつもの彼女と違っていた。
 彼女はバイトだけの生活から雇用条件や収入が安定した派遣会社の社員となった。一週間、気を張って仕事を続けて疲れていたのかもしれない。彼女は性行為に入る前のキスをしている間に寝てしまった。
 ダッチワイフを相手にしているようだった。ダッチワイフとはどんなものか分からないが、寝ていても生身の女体の方が断然いいに決まっている。やはり、相手の反応があって興奮するものであることが再確認された。そして、心が通じ合えれば更にベストであるのだろう。
 ルール違反かもしれないが彼女が寝てしまっている間に交合してしまうことになっても仕方ないと思った。後で気づいても、彼女の方に非があるのでたぶん文句は言わないだろう。
 ビジネスホテルの一室の明かりは皓々とシングルベットを照らしていた。彼女は無防備の性器を露にしていた。前にも深酒から彼女は性行為の時に寝てしまったことがあったかもしれない。それでも、やはりペニスを挿入されると寝ている訳にはいかないらしい。
 彼女の性器を眺めるのは久しぶりだった。彼女は寝ていた。以前から性行為に対しては筆者に絶対的な信頼を置いていた。彼女が嫌いなフェラチオを強制しなかった。それ以外なら何をしても良かった。
 クリニングスに至る前にいつものように筆者は彼女の膣の方向に沿って中指を入れた。皮膚の弱い彼女に合わせてソフトタッチで中指を出し入れしていた。彼女は自分では性器が濡れない持病持ちだと信じきっていた。
 膣に手を入れると湿りけがあった。単にシャワーを浴びた時に水分が入っただけのことだろうか、彼女の身体のことはよく分からない。彼女は寝ていた。筆者は今までと違ったことをしてみたい衝動にかられ、親指を入れてみた。今までは彼女を気づかって中指しか入れていなかった。右の手のひらを彼女の性器に這わせ四十五度に傾けて親指を楕円の縦長の形状で膣に入れた。膣の中に湿りけはあった。
 その時に彼女は「痛い」と言って、途中で目を覚ました。無反応の彼女から吐息が漏れた。性的な反応ではないらしい。持参したローションを使った。その後、彼女と交わった。いつもの彼女の激しい反応が返ってきた。いつもと違ったのは、筆者のペニスの突きに合わせて、最後まで彼女が自身の腰を動かし続けたことだ。
 行為が終わってから彼女はまた眠りに落ちた。筆者は部屋に一つしかないバスタオルを彼女の身体に掛けた。深夜の二時頃になっていたかもしれない。時計を見ていないからハッキリした記憶でないが、時間的な推移から推察した。
 彼女の両親は帰宅が遅いと心配しているかもかしれないから、筆者は「帰らないの?」と二度程呼びかけた。その都度、彼女は「ウーン…」とそれに続く言葉を発せられなかった。週末で疲れていたのだろうか、筆者との安心感からだろうか、今度はいつ筆者と会えるか分からないし、少しでも一緒にいたいと思ってか、無意識にしていたことだろうか。彼女の心理は分からない。
 彼女の下半身は布団に入っていたが、上半身はタオルケットを掛けただけでいた。彼女は冷え性だった。狭いシングルベットの上に二人は寄り添っていた。右手は筆者の左脇腹に触れていたので冷えることはなかった。筆者はバスタオルから出ている彼女の左腕の手首を握っていた。冷えた左手首を掴んでいた。その時、筆者は何も考えてはいなかった。無意識で彼女の左手を握っていたことになる。
 後で筆者は気づいたが彼女の左手の傷の状態がどうなっているのか見れば良かったと思い出した。でも、その時はそんなことはどうでも良かったのだろう。ただ、彼女と寄り添っていれば良かった。
 彼女は午前四時頃になってようやく起き出した。秋で日が短くなっていたとは言え、五時頃になると薄日が射してくる。明るくなる直前の時間帯で、完全な朝帰りだった。ビジネスホテルの前は駅近くなのでタクシーが列をなしている。タクシーで彼女は帰って行った。
 彼女は服を脱ぐ時に首筋辺りに日焼けの後があった。色の白い肌の部分で目立った。夏に湘南へ行って来たと言っていたが、日常生活での首筋の日焼けだと思う。海に行ってきたということは、人前で日焼けすることに抵抗感がないということだ。左手のことなどは彼女にとって終わったことになっているのだろう。彼女の彼氏は以前から彼女の不安定な精神状態も分かった上で同居を続けているのだろう。
 仕事をこなせる精神状態に戻ったとしても、彼女の彼氏は筆者という男の影を心配するだろう。彼氏の心配をよそに堂々と密会する。彼女は見上げた度胸の持ち主だ。彼女なりに両親からは自立しようとする気構えもあった。彼女と彼氏の互いの関係も、自立したものにしたいのだろうか。
 以前から彼女の彼氏とはルームシェアーをしていると明かした。彼氏とは人間として対等な立場でありたいという自立心を彼女は持っているのだろうか。彼女は自立して生活ができると思う。彼女は外国語を話し、読み書きができる能力がある。
 彼女が料理をするので食費までは出す必要はないのかもしれないが、バイトしか収入がない時期から、彼氏と一緒に住んでいる部屋の家賃の半額を出していたらしい。ひょっとして、筆者との関係がばれてからの取り決めかと、勘繰りたくなる。
 筆者の誕生日の翌日に行った行動は、自立した人間として、責任を自覚して行った行動なのだろうか。彼氏とはどんな立場でいるのだろう。想像はできない。ただ、言えることは彼氏は彼女の心持ちの不安定さを認識しているということだろう。
 彼女の実家に近い県の元彼とまた会うかもしれない。その元彼とは筆者だ。彼女の彼氏はなぜか男として筆者と会うことを止められない非力な立場でいる。彼女の行動を制御できない。そして、彼女の彼氏は、リストカットに至る精神状態の不安定さも認識しているだろう。
 数年前の高校生だった頃、精神的なものから生理が止まったこともあったらしい。昨年の暮れから年末年始を挟んだ頃に、精神状態が不安定になった。治りかけの今年の冬の終わり頃に彼女と会った。そこで見た、左手首の傷は、外国にいた時にできたものだと思われる。筆者と再会したことが何か彼女の慰めになったのだろうか。そんなことまでは察知できない。

 筆者はこの文書を読み返して思った。
 数年前にも彼女は不安定な精神状態の時があった。最近でも、不安定な状態に再び陥った。数年前から不安定な時期があり、筆者のような男でも彼女と出会うことができた。そして、だからこそ、今も彼女と付き合い続けることができるのかもしれない。