ぼくは机の上にあるノートを開いていた。読書をした後、感想を書くこともある。単に考え事をしていて、思い付いたことをメモ書きすることもある。今は、ノートに向かいながら、現在の状況をただ書き連ねているだけだ。手にはシャープペンシルが握られている。
 部屋の中を無音にしてまで集中することもなかった。そこで、バックグラウンドドミュージックを流すため、FM放送を入れたままにしていた。
 ザーツという音が混ざっていたので、最初は雑音に聞こえた。FMの受信状況が悪いのかと思い、チューナーが置かれている場所に行った。
 オーディオチューナーに繋いである、配線式室内簡易アンテナの、配置位置が悪いのなら、直そうと思った。チューナーのFM電波をモニターしている表示パネルを見てみた。正常な受信状態を示していた。
 受信状態に異常は見られなかった。比較的新しいチューナーなので、電波を増幅する回路が標準装備として内蔵されていた。簡易アンテナでも受信状態に問題はなく、今までどおり、FM放送を聴いていて良い筈だった。
 AM放送なら、家電品のスイッチを切ったりすると、ブツッという音が混じることがある。あるいは遠くの雷でも、ガガガという音が混じることもある。FM放送の方で、雑音に近い混信音が入ることは、あまりない筈だった。
 微かにピアノの音が聴こえた。雑音のような音の方が大きかった。ピアノの奏でるメロディは聴き取り難かった。微かなメロディだからこそ注意が向いた。メロディがより美しく感じられた。
 今の状況をノートに書いていて気づいた。
 雑音のような空間は、これまでずっとぼくが抱き続けてきた、内的な歪みに似ているのではないかと……。もし、これまで生きのびてきた中での葛藤が、その異音の世界と似ているなら、微かであっても、思い出の中に、叙情的なものがなかったのかと、イメージしてみた。

 小さい頃、近所に一つ年上の女の子がいた。その子の家は近かった。二人とも農家の子供同士だった。双方の家は一軒挟んで二軒目にあった。近所でそれぞれの家は百メートル程度は離れていた。歳も近かったし、保育園のない時代だったので、必然的にいつもその子と一緒に遊ぶことになった。
 一つ年上の女の子と一緒にしていた他愛ない遊びの記憶は殆どない。普通に行っただろう、追い掛けっこや、かくれんぼうとかの記憶もない。お医者さんごっこはしたかもしれないが、確かな記憶としてはない。今の思いからすれば、お医者さんごっこのような遊び位では、記憶として残らないと思うのだ。
 二人とも、幼稚園に上がる前だった。何歳頃の出来事だったのか正確に覚えていない。その子がいつものようにぼくの家に遊びに来ていた。幼稚園に上がる前頃の歳に、ぼくが経験した、ある場面の記憶が蘇った。
 その子は周りに人がいないことを確認してから納屋の方に向かったのかもしれないが、特にぼくを誘ったようでもなかった。用意周到な準備をしていなかったと思う。ただ、本能的に人の目を避けようとしていたかもしれない。それが、秘め事だということがその子にも分かっていたのかもしれない。
 幼かったぼくは何も知らないでその子の後を付いて行った。納屋に入って、その子はスカートと下着を、一緒に降ろして脱いだ。そして、前のめりになり、尻を突き出した。
 その子だって無意識の行為だったのかもしれない。そんな行為は誰かが教えてくれるものでない筈だ。幼かったので、最初はその子が何をしているのか分からないでいた。幼いぼくはそんな格好を見たのは初めてだった。
 どうしてそんなことをしたのかが分からないのだ。誰から教えられた訳でもない。それこそ、生まれる前から人のDNAに刻まれたもの、生来のものとしか考えられないのだ。
 彼女の方から、言葉に出して、こうしてしたら、という風に言われた訳でもない。ぼくも無意識に半ズボンとパンツを一緒に脱いだ。それまで、そんなことはしたことはないが、自然でためらいなく行ったのだろう。幼かったぼくのチンチンは、はたして勃起していたのだろうか。記憶は全然ない。
 チンチンは固くなったのか柔らかいままだったかは記憶にない。勿論、チンチンを大人の男のように挿入する筈がない。自分のチンチンを彼女の尻の間の窪みに押し当てただけだ。疑似的にも男女の交わりのポーズを取ったのだ。気持ち良かったのだろうか。記憶にはない。猫や犬がそうであるように、たぶん、本能的な満足感はあったのだろう。満足感があったなら、それを快楽と呼ぶのだろう。
 いくら印象的であったとしても、幼い頃の行動なんて忘れてしまっていたかもしれない。ひょっとしたら、記憶にあったかもしれないが、余程のことがなければ忘れてしまっていただろう。
 日常生活の中で、最近あったことでも、具体的に語ることができないこともある。経過年月が経っていないのに、記憶に曖昧なことが多い。だから、数十年前のことなど、確実にあったこととして、語ることなどできないことが、殆どだろう。
 記憶の中に鮮明に残ることになったのは、追体験があったからだ。だいぶ、日にちが経ってから、近くの神社の境内か、空き地のどこかで、近所の子供達と遊んでいた。その子が小学生に上がる前だったのかしれないし、後だったのかもしれない。良く覚えていない。ただ、その子の囁きがあったので、ぼくの幼い頃の記憶に留まることとなった。
 その子は、ぼくとすれ違いざまに、こそっと言った。「あの時のこと覚えている?」と言ったかもしれない。言葉そのものの記憶は曖昧だ。そんな言葉を発したのでなくて、「あの納屋でのこと覚えている?」と、言ったかもしれない。どちらだったのか、定かでない。だが、そんなニュアンスの言葉を、耳元で彼女が囁いていったことは確かだ。
 幼いときのことだ。忘れてしまうかもしれないし、彼女の囁きがなくても、印象的だったのだから、覚えていたかもしれない。ぼくにはその耳元の囁きが起点になり、幼いながらも、振り返ることになり、納屋での場面が思い起こされた。だから、確実に記憶に残ることになったのだ。
 当時の幼いぼくでも、納屋での出来事は、しばらく忘れていなかったと思う。その後、相手の女の子の行動を、日々見ていたと思う。ぼくにとっては変わった体験だったかもしれないけれど、その後は何も表情を変えないその子を見て、大した出来事でもなかったのかもしれないと、思い込んでいたかもしれない。
 無意識で、しかも無言で行ったことだし、何事もなかったこととして、時が過ぎようとしていた。その子は近くにいても、すれ違ったりしても、何事もなかったような振りしかしていなかった。ぼくは年少だったので、人に表の表情と、裏の心理があることなど、知りはしなかった。
 確かに印象的な出来事だったけれど、その子にとっては大したことではなかったことなら、ぼくにとってもどうでもいいこととして、ただ過ぎ去っていくものだったかもしれない。記憶に残らないものとして、消えていたことかもしれない。
 ぼくがなぜ忘れなかったかというと、その子の囁きがあったからだ。後で思い起こさせるに充分な囁きだった。その囁きがあったので、彼女も共通の思い出として、大事に覚えていたことだと、確信された。だから、遠い過去だが、幼い日の記憶として、鮮明に残っているのだ。
 納屋での出来事から、何カ月か経っていたのかもしれない。一年位経っていたのかもしれない。ぼくが小学生になっていた時期かもしれないが、覚えがない。一つ年上のその女の子から確かに囁きがあった。ぼくだけでなく、その子にとっても、忘れがたい記憶として残っていたのだろうということが、後で確認できたことになる。幼いながら、秘め事らしいことが分かった。その共感の強度により、記憶に刻まれたのかもしれない。
 あの囁きがなければ、ひょっとして、そんな幼い時の行動など、鮮明に覚えていなかったかもしもない。彼女がませていたのか、女の自覚しない本性なのか、今だかって分からない現象ごとの一つだ。
 あの時の相手は一つ年上の女の子だった。彼女が幼稚園に行くようになったら、近所で女の子の遊び相手がいなくなった。母親が身近にいないと子供心に寂しいと感じることだろう。母親以外の女で、ぼくが寂しいという感情を感じたのは、ひょっとすると、その子が初めてだったかもしれない。
 その子もぼくも年ごとに成長していった。互いに異性としての対象が同級生へと向かっていった。小学生の上級に上がるにつれ、道で出会っても互いを無視するようになった。納屋での出来事は無かったことになっていった。行ったことの恥ずかしさが段々と分かるようになってきたのかもしれない。
 小学生に上がってから、歩いて行ける範囲が広がった。 小学校の帰りに、遠回りして帰ることも度々あった。ある時、クラスの女の子二人の後に付いて行った。高学年になったら異性として女の子を意識したかもしれない。低学年の頃はあまり異性として意識しなかった。
 ただ、低学年の頃ながら、異性に関して、記憶に残っていることもあった。スカートめくりの逆バージョンだった。その頃から活発なRちゃんから受けたことだった。俊敏な動作だった。全く気配を消して、ぼくの後ろに回っていた。後ろから、見事にぼくの半ズボンを脱がせたのだった。
 ぼくのチンチンは丸出しになった。そのRちゃんは、ぼくの下半身が、パンツだけになるのでなく、チンチン丸出しのすっぽんぽんになると思ってやったのだろう。たぶん、いつもやっていたことなのだろう。近所の男の子にもやっていて、成功しているのだろう。彼女は面白がってやっていただけで、悪気はなかったのだ。そのRちゃんは切れ長の目をしていて、小さい時は特に可愛いという程ではなかった。小学生の頃から足は速かった子だった。
 その子にそれ程興味はなく、一緒にいたMちゃんの方が好きだった。その頃からきれいな女の子だった。物静かで優しく、女の子らしい女の子だった。ぼくは丸出しのチンチンをMちゃんに見られた。見られたのがMちゃんでなければ何にも感じなかったかもしれない。ぼくは自分自身の姿を意識した。その時、初めて恥ずかしいという感覚が芽生えたかもしれない。
 Rちゃんは中学に上がってから陸上競技を始めた。脚がスラッとして長かった。走り高跳びの対外試合か何かで、校内か町のレベルの記録を残した。
 高校生の頃、駅近くの理髪店でMちゃんを見かけたことがある。店内で近づいても話し掛けることができなかった。ただ、お互いを意識しているらしい気配はした。そんな、Mちゃんが懐かしかった。
 Mちゃんは色白で目立つ程の美人になっていた。一言も声を交わす状況になかったが、あまりにもきれいになっていて驚いた記憶がある。小学生だった頃は一番好きな女の子だった。田舎の小学校だったので、一学年に一クラスしかなかった。卒業まで一クラスの皆は一緒に勉強した。当時からMちゃんもぼくのことは意識しているような気がしていた。ただ、遠い昔の記憶として残っている。

 ギーツとか、あるいはギャーツと聴こえたかもしれない。ギギギギ、ギギギギと変化したり、キューンという音にもなった。アッアツ、アーツと、男の絞り出すような声もした。海辺のさざ波のような音にも変化した。
 耳を澄ませて聴いていた。ずっとピアノのソロ演奏が流れていた。雑音に似た音源の対極として、ピアノで奏でられるメロディが、際立っていた。
 最初、雑音だとばかり思っていた音は、シンセサイザーの演奏らしかった。シンセサイザーの音源がバックグラウンドで流れているだけかと思って聴いていた。演奏されているのは、長い曲だった。バックグラウンドで音を流しているだけではなく、ピアノとコンビを組んで、一つの楽曲を延々と演奏していた。そのことに気づいたのは、演奏が後半部分になってからだった。

 ぼくが小学生の四、五年生頃だったかもしれない。その頃、起きた出来事があった。子供の時の汚点として残っている。神社の境内で大きな杉の木の側だと言うことも覚えている。
 最近、神社の草刈り当番が、ぼくの家が属している班に回ってきた。父は高齢になってからも、神社の世話係の当番が回って来た時は、欠かさず出席していた。過去に宮総代を何度か務めたことがある。世代交代は未だしていなくて、神社の掃除や草刈り当番は父らの世代が現役で行っていた。たまたま父が、軽度の胃ガンの摘出手術で入院していた。そこで、ぼくが神社の草刈りに代理として出た。
 神社の境内での、忌まわしい出来事のあった位置は覚えていた。大きな杉の木の側だった。子供の時にあったと思う杉の木は見当たらなくなっていた。少しずれた所に細い杉の木があった。防風のための屋敷林はぼくの家を含めて近くに点在していた。屋敷林の木の方がまだ太かった。子供の時にあった杉の木はもっと大きい筈だった。記憶の中にある杉の木と同じものは境内になかった。
 確かに大きな杉の木があった筈だ。あれから年月が経っている。杉の木が大きくなり過ぎて、境内が狭くなったので、伐られてしまったのかもしれない。あった筈の所に、杉の木は無くなっていた。
 杉の木の側で事件が起きた。あまり、思い出したくない出来事だった。小学生の低学年では、そんなことができなかったと思う。中学生程度なら最悪の事態になることは想像できたかもしれない。ぼくと同じ歳の子は近所にいなかった。痛い目に遭わせてしまったのは、隣家の三歳年下の男の子だった。神社の境内になぜそんな板があったのだろう。何かに使った後、捨てたられたままになった、板の切れ端があった。
 細長い平たい板の中央の下に、ぼくは石を置いた。板はテコのようになった。板の上の端にも石を置いた。それを踏んだらどうなるのか試してみたかった。自分で板を踏んでみようとしたが、危ないと感じた。それなのに、なぜ他の子供にやらせようとしたのだろう。自分でも分からない行いだった。
 どうなるだろうという好奇心もあった。その時、自制できないでいた。どうしてそんな心境でいたのだろう。変なことになるかもしれないと、ちらっと思いつきもした。でも、完全にそうなるとは思わなかった。だからその時は未だ子供だったのだ。子供だから、残酷でもあった。
 その時、頭の中で思い巡らせてみた。成功するか失敗するか、思い通りになるのか、試してみたかった。ほんの軽い実験のつもりでいた。もしかしたら、その石が板を踏んだ者に当るかもしれないと薄々は感じていた。しかし、実際にそうなる確証もなかった。
 隣家の男の子にその板を踏むようにと言った。面白がって、力を入れて踏んだみたいだ。小さい子供が踏んだだけで確率的にそんなことが起きるのだろうか。石は男の子の額を狙ったかのように見事に命中した。
 男の子の泣き声を聞いて同じ境内にある寺の尼さんが飛んできた。額から鮮血が流れていた。尼さんはぼくに何てことをしたのだと言った。尼さんは直ぐに男の子の家に連絡を入れた。
 何針か縫ったらしい。泣き叫んでいた男の子の姿は覚えている。しばらく包帯をしていたかもしれないが、その包帯姿の男の子の記憶はない。
 その男の子はどれだけの日にちが経った後だったか忘れたが、近所の子供達が集まって遊ぶ中に加わっていた。ぼくを特に遠ざけている風でもなかった。子供達に近づいて行った時、その子の額を見た。傷の跡がなかったので、ホッとしたことを覚えている。
 その男の子は痛かったことなど忘れているみたいだった。怪我を負わせる前と変わらない無邪気さで、兄のように慕ってくる男の子を見て、心が痛んだ。その時、何か償いをしたいと、真剣に考えたものだ。
 その子の父親は当時は激怒しただろう。ぼくの両親は謝っただろうが、その場面は見ていない。ぼくが隣家に引き連れられていった覚えもない。ぼくが子供だったので大目に見られたのだろうか。単なる偶然の事故だと思われたのだろうか。その子の父親はぼくを同じような痛い目に遭わせたかっただろうと思う。
 その子の父親は高齢となった。ぼくの父親と歳は近い。ぼくの方から大きな声で挨拶でもしない限り、すれ違った時にぼくが黙礼する程度では、挨拶を返さない。たぶん、その時のことを今でも引きずっているのだろう。その子の父親は、ぼくの家に来た時でも、玄関の上がり口に座って、ずっと話を途絶えさせない程の話好きな面もある。それなのに、ぼくには、何十年経った今でも、話し掛けてはこない。今でも、わだかまりを持っているのだ。見えないバリアがいつも漂っている。

 演奏されているピアノの演奏曲は、定番のクラシック音楽だと思って聴いていた。どこかで聴いたことのあるような曲だった。だが、聴いているうちに、段々とクラシックとは違っているようにも感じられた。有名な曲をアレンジしてあったのかもしれない。原曲は分からないが、ピアノのソロ曲として、聴いていて心地よかった。
 シンセサイザーの音が絡むと、全くのオリジナル曲に変わっていった。オーソドックスなピアノ奏法だが、初めて聴くような曲にも感じられた。
 最初、バックの音源で流れているシンセサイザーは、雑音だと思って聴いていた。そのうち、環境音楽でも通用する音源に変わっていった。現代音楽のジャンルに入る楽曲かもしれなかった。
 シンセサイザーは、まともな音楽を演奏するようになっていった。しばらくは、主要なパートのメロディを、ピアノソロが奏でていた。途中から、シンセサイザーとの共演になった。シンセサイザーとハーモニーを奏でるパートもあった。
 クラシックの定番の曲で、ショパンかモーツァルトの曲かと思ったりもしていた。ジャズのスタンダード曲なら聞き覚えはあるのだが、クラシックは、どの作曲者に該当する曲なのか、見当がつかない。クラシック音楽には疎いので明確に述べられない。まったく、別の可能性もある。もしかしたら、即興曲として演奏されているのかもしれなかった。

 こんなことも記憶にある。ぼくが小さい時には、家屋は新しく、築十年に満たなかった。祖父が建てた、大きな農家の家で、作りがしっかりしている。大雪になっても何ら影響がなかった。ぼくが小さい時に○○豪雪と言う大雪の年があった。さすがにその時は雪下ろしをしている父の姿があった。近年になってから、雪下ろしをしたことはない。ぼくは子供の時からずっと住み続けていて、早何十年が経っていることになる。
 そんなぼくの家には玄関が二つある。その二つ目の玄関のことを何と言うのか未だ調べたことはない。昔の大きい家はそんな造りだったのかもしれないし、ぼくのいる地方だけの建築様式かもしれない。地域によっても、第一と第二の玄関の大きさは違っているのかもしれない。
 ぼくの家はそんなに昔の造りでなかった。第二の玄関は、使う機会が殆どないので、無駄だと考えられるようになったのかもしれない。ぼくの家に限ってかもしれないが、第一の玄関の方は大きく、第二の玄関は小さかった。
 祖母の葬式とか、滅多にない家の行事で、その第二の玄関を使っていたような気もする。それも、ぼくが小さい時の頼りない記憶の中でのことだ。その二つ目の玄関は、当時でも日常的に無駄なスペースとしてあった。
 第二の玄関の正式名称も、何のために使用するのかも知らない。単に裕福さを誇示するための、見栄としてそんな造りになっていたのかもしれない。調べれば所以も分かったかもしれない。しかし、ぼくにとっては、古い家の造りのことなど、どうでもいいことだ。
 いつも頻繁に使っている訳でないから、その第二玄関は仮の物置になったりしていた。ぼくの家は建て替えしないでずっと古いままで残っている。風通しは良い。だから、冬は寒いが、夏は涼しく、エアコンの必要はない。部屋の全部の敷居戸が外せるようになっていて、座敷と広間だけの敷居戸を外しても、何十畳にもなり、旅館の大広間のようなスペースができることになる。
 昔からあるぼくの家の第二玄関での出来事だった。その第二玄関はいつも開かずの間の部屋のようだった。今は物置部屋代わりになっている。昔から、めったに使われない空間だった。
 昔、ぼくの家は地主だった。戦前まで、ぼくの家の小作をしていた農家があった。その家に女の子がいた。ぼくは子供だったから、戦後の農地改革直後のことなど知らないことだ。家の造りの違いや、元小作農家の人達の、ぼくに対する態度から、格差が残っているらしいことが、薄々感じられた。
 ぼくより学級が上の子供達は、同級生の数が多く、群れをつくって遊び回っていた。ぼくの同級生は近所にたまたまいなかった。近所の子供達でグループをつくった中では、ぼくが年長だっただけで、がき大将と言うのではなかった。以前、小作農だった家の女の子は、ぼくがいる子供達の中にいつもいた。
 元小作農だった家の女の子にぼくは魅力を感じなかった。その子の家は、裕福でないのに子沢山だった。四人兄弟の末っ子だった。その第二の玄関での記憶が残っている。その元小作農の女の子にあることをさせたのだった。相手は隣家の三つ下の男の子だった。
 隣家の男の子もぼくに従順だった。その男の子に怪我をさせる前だったのかもしれないし、後だったかもしれない。良く覚えていないのだ。察するに、その男の子に怪我をさせる前だったかもしれない。その隣家の男の子は、怪我を負わされた後、両親から、ぼくの家への、頻繁な出入りを、とがめられていたと思うからだ。
 ある時、その二人が偶然いた。他に近所の子供がいたか覚えがない。記憶が定かでないのだ。そんな行為をさせるのにちょうど従順だった二人がいたからで、他の子供はいなかったと考える方が適当だろう。
 その末っ子の女の子と、隣家の三つ年下の男の子を、第二玄関に誘った。女の子と男の子に、穿いているのものを脱ぐように言った。二人は抵抗なく、各々のスカートや半ズボンを脱いだ。そして、ぼくは二人に、チンチンを割れ目にくっつけてみたら、と言った。
 第二玄関は普段は使用しないでいた。第二玄関と広間を仕切っている戸はいつも閉められたままだった。ぼくはその場から離れるから、そんな遊びをしてみたら、と言ってみたのだろう。強い命令で指示した訳ではない。変わった遊びのつもりで、試してみたら、というような感じだったと思う。何も知らない二人を第二玄関に入れて、実際は戸の隙間から面白い光景としてぼくが覗いていたことになる。
 二人とも初めての経験だったのかもしれない。突っ立って股間を前に迫り出している姿は滑稽だった。やり難そうに姿勢を保ちながら、互いの股間を近づけていた。
 二人には好奇心もあっただろうし、拒否する理由もなかった。子供だし恥ずかしいという感覚もなかったと思う。ぼくに言われるままにやっていたのだ。
 男の子の方のチンチンは立っていたような気もする。本当にチンチンが立っていたのか確信はない。子供の日の記憶から、年月が経ち、大人になるまでに、歪曲されて脳に残ったのかもしれない。真実としてあったのかもしれないし、なかったのかもしれない。記憶は、あやふやだ。ただ、ぼくのイメージの中ではチンチンは立っていた。
 戸の隙間から覗き見られる場面で、女の子の顔を見た。女の子の視線は、男の子のピンピンに立っていただろうチンチンへ向けられ、凝視していた。目を剥いたというのがピッタリの表情で、真剣に見入っていた。自分の下半身のことより、そのチンチンの状態に強い関心が沸いていたのだろう。
 その子の家は、母親以外は男ばかりだった。男兄弟の中で、唯一の女の子だった。男ばかりがいるからといって、男のチンチンがそそり立っている状態を見られるものではない。その女の子は立ったチンチンを初めて見たのかもしれない。どうしてそんな風になるのか、不思議だったのかもしれない。
 少し異様な光景だったから、記憶として残っているのだ。他の子供にそんな行為をさせる位だから、自分でも幼い頃にそんなことをしたのではないかと推察する。そんなことをするとしたら、一つ年上の近所の女の子だろう。その子と、納屋での記憶があるので、相手として確実性が高い。
 ぼくが幼い頃、無意識に似たような行いをやっていたかもしれない。思い出せないことだし、根拠はない。ただ、その二人の子供に、ためらうことなくやらせたのは、自分でもしたことがあったからかもしれないからだ。全く経験なしで、他の子供にやり方の指示までできるとは考えられない。戸の隙間から、覗き見たのと同じことを、一つ年上の女の子と、納屋かどこかで、やっていたとしか、考えられないのだ。

 演奏の音が消えた。しばらくの静寂の後、パチパチと拍手がした。FM放送で、ライブ演奏を行っていたらしい。音楽は終わった。ぼくは、一曲として、長い時間を掛けて演奏しているように感じていた。もしかして、何曲かの分を繋いで、連続して演奏したのかもしれない。
 ノートに向かったままの姿勢でいた。書いている手を止めて、ずっと音楽に聞き入っていた。コマーシャルがなかったので、NHKFMの音楽番組らしかった。音楽番組はどこかの地方局が主催していたらしい。どこかの地方局が借りた会場での、ライブ演奏だった。
 音楽番組の女性司会者が「会場の観客の方に演奏の感想を聞いてみます」と言った。「会場の一番前の席にいるSさんはどうですか」と司会者は尋ねた。当初からその人にインタビューする予定だったらしい。
 Sの名前は知っていた。Sは芥川賞を受賞してからも、コンスタントに作品を出し続けていて、誰もが知っている著名な作家の一人だった。そのSが「すばらしい演奏ですね」と喋った。その会場の一角にSが観客としていることに驚いた。音楽に造詣が深いのではないかと注意して耳をそばだてた。
 演奏に対してSの感想を聞いても特に印象的なものではなかった。常套的な感想しか述べなかった。Sがどう喋ったか全く覚えていない。女性司会者は自分の感想を述べた。「ピアノとシンセサイザーのコラボレーションは、自然の中で聴いているようにも、感じられますね」と、司会者の方が的確に感想を述べていたように思えた。
 FM放送で流れていた音楽の、曲の最初から聴いていたことになる。音楽番組の初めの方で、司会者が演奏者の略歴とか、二人組の演奏者の楽器編成を、述べたかもしれない。ぼくは何も知らずに聴いていた。同時に曲紹介も聞かないでいた。ぼくは先入観なしに、曲のほぼ全部を聴いていたことになる。
 演奏に集中していたことになる。音楽が流れている中でも、ノートに向かっていた。最初は雑音かと思った。異音が混入しているために、FM放送の受信状態が悪いのかと思った。それが、結果的に最後まで音楽に耳を傾け続けることになった。
 音の世界として感じていた。たぶん、今後は二度と聴かない音楽になるだろう。その音楽の曲調は今の時点で忘れている。ライブ演奏を聴き終えた直後だったので、FM放送の中で述べた、女性司会者の感想に納得できた。自分はどう感じたかと問われても、書けるようなものでないのかもしれない。
 状況としては、ノートに向っていた。音楽を聴いていただけなら、ノートにシャープペンシルで、何も文章を書いていなかったことになる。
 最近になって、男子の平均寿命から、残りの年月がどれだけあるのかを、数えるようになってきた。あっと言う間に歳をとった。幼なかった日々のことを思い出したりするのは死に際に幻覚を見るようなものなのかもしれない。
 ぼくはノートに向かってはいたが、何も書けないままでいたことになる。そうすると、この文章の冒頭からここまではどうなるのだろう。子供の頃の、おぼろげな記憶を書き留めていなかったことになる。生まれてから年少の頃までの、微かな跡も消えてしまうことになる。
 音楽に触発されたかもしれないが、回想のように、頭の中で、場面が現れたり消えたりを繰り返しているだけのことになる。