どこかの部屋にいた。
 白っぽい人工照明の中だった。外の景色が見えないので、昼夜の区別がつかない。時間を確かめようと、身体を起こしてみた。
 金縛りにあったように、身体が動かない。頭は動くので、頭を左の方に傾けてみた。いくつものユニット機器が棚に並べられ、多数のケーブルが繋がっていて、波形を示す表示もある。大小、いろんな機械類の中には、複数の数字が並ぶように、電光掲示されていた。
 表示された数値から、時計に近いものを探した。0207と示されているものがあった。時刻であったとしても、真夜中の2時台なのか、昼間なのか、はっきりしない。
 直前まで、うたた寝をしていたのだろうか? 熟睡していたような気もする。眠りの深さがわからない。あの数字は何だったのだろう? 時刻表示だったのだろうか? 頭を動かしてみる。胴体が固定されているように、自分の意思では動かない。時計らしき表示を見たのは、錯覚だったのか? あるいは、夢の中の残像だったのだろうか。
 先ほどまで、女が身近にいた……ようだ。同じベッドの中で、女と二人で左の方向を向いて、添い寝をしていた。自分の側から腕を回し、女の背中を抱きながら、手を繋いでいた。こちらからは、こんなことを言ったような気がする。
「二人はパラレル・ワールドの一つにいるんだ。こうやって君の手を握っていないと、自分が存在しているという実感がなくなる。誰かの想像の中の、虚構の真っ只中にいる。たとえ、ここが仮の世界であったとしても、実在している」
 女の手を握りながら、寝ていたのだろうか? 定かではない時間の経過がある。少ししか時間が経っていないような気がする。手にはまだ感触が残っている。いつのことだったのだろう。曖昧だ。どこか辺境の宿で過ごした時と似ていた。身体の温もりからではない、火照りがある。自分の身体ではないような違和感がある。体調の悪さからくる微熱のようだ。
 女の声がしていた。こう聞かれた。
「わたし達のあいだで、子供ができない。そう、あなたは言った。わたし達に未来がないということなの? それって寂しいことなの?」
 布地を通して触れ合う背中や肩が柔らかかった。内部に組み込まれた、スピーカーのような音声だった。生身の人間の声ではないことが明白なのは、音の輪郭がぼけて、くぐもっていたからだ。
「寂しいという感覚は現時点での欠乏感の顕在化なんだ。定型の未来がないだけなんだ。決定した記録があるだけで、データ上では未来も過去と同じようなものだ。二人の前世は、父と娘であった時があったのだろう。最大限の接触はあったことは確かだ。今は現実のような過去や未来が見えているだけなんだ。時空を越えた二人の関係性は根源的でもっと深い」
「何を言っているのか、わからない」
「わからない方がいいかもしれない。互いの不足している部分を求めた結果、こうやって再会できた。二人で一つになれるのだし、充足感を満たすために、それはそれで良かった。信じられないかもしれないけれど、昔から二人は関わりがあったんだ」
「ここはどこ?」
 そう問われていた。そこで、改めて部屋の中を見回した。機械類は消えていて、部屋の中の全体が白っぽく見えた。部屋の周りが樹脂製のボードのようなものでできていた。継ぎ目がなく、表面がつるりとしていた。照明器具が見当たらないので、部屋の壁や床自体から発光しているように見えた。出入口となるドアがなかった。
 音声のした方向に女の背や腕があったはずだ。女の身体を、手の先で触れていることは確かだ。左手には布地を通して柔らかなものがある。それなのに、女の姿が見えない。ベッドの上には何も見えない。
 女は消えていた。
 自分を確認してみたくなった。チラリと白い袖口のようなものが目に入った。手は透き通っていて見えない。手が見えないことに気づいたので、自分の正体を知りたくなった。顔や姿を見たくなった。
 天井を見てみた。仰向けだが、手と頭は動く。正面を見た。後ろの背景が映ったようだ。隅の部分らしい不均等にゆがんだ線が見え、背後が映っている。真四角で梁と柱がない。四角い等分な部屋に不自然にゆがむ一角があり、隅々に白色の弱い部分がある。鏡だとわかった。部屋の壁が鏡に変わっていた。
 白っぽいだけの鏡には、自分の姿が映っていない。手を伸ばして自分の頭に触れてみた。見えない固いもので頭が覆われていた。意識したとたん、頭に重みが感じられた。何かを被っているようなのだ。
「あらゆる体験ができるって本当なの? ここは現実なの? 虚構なの?」
 部屋の中に女の音声がする。部屋というより、女の発した言葉が頭の中で反響する。女の問いに対して、誰か別人が答えているみたいだ。いや、自分なのだろう。
「現実の中で、過去や将来の自分を見ることができる。そのための装置なのかな? 過程を類推予測できる。ただ、決定要素が何なのか知らされていない。装置からフィードバックされた場面に対処できない。そして、主導権のないまま虚像を探求している。そしてそれは、既に結論が出ている」
 頭に物を乗せたような重みの中に振動が加わる。これが、何でも体験できるという装置なのかもしれない。ヘルメットを被ってるみたいなのだが、鏡には頭を覆うものが映らない。不思議なことに、手には感覚がある。透明なのに自分自身を触れられる。自分の感覚なのか、仮想なのか、判断がつかない。指先で自分の腹の透明な部分を触れてみた。皮膚ではなく、布地だった。着衣しているのだろう。その指先にあるのは、自分のものなのか、物質の一部なのか、区別できない。自分自身であるらしいのだが、見えない。手と頭には感覚がある。
 ここまでの体験を記録したいのだが、媒体するものがない。見たまま感じたままを記憶するしかない。
 誰かがデータ変更の操作指示をしている。
 ベッド付近と違い、部屋のどこかに設置してあるスピーカーから、音声が流れてきた。誰かにモニターされているのかもしれない。自動読み上げ装置から出力される、抑揚のないナレーションのように聞こえる。

 四十年前だから、今では昔のことになる。市電が通る県道は古くからの幹線道路だった。今はなくなったが、そこには喫茶店があった。今はコンビニになっている場所だった。
 若者がバイクを運転していた。幹線道路の横断歩道でない箇所を老女が渡っていた。喫茶店前に違法駐車していた車がいた。バイクが違法駐車した車を避けるかたちで道路の中ほどを走行した。
 その時、若者には「もっと、ふかせ。アクセルを全開にするのだ」という声が聞こえた。
 若者は老女と接触した。若者には柔らかい生身の人間がぶつかる感触があった。バイクに当たり、老女はアスファルトに頭を強く打ちつけた。
 救急車で近くの外科病院に運ばれた。若者は病室に見舞いに行った。事故後、ベッドで臥せっていたのに、バイクを運転していた当事者だと聞かされて、身体を起こした。どこにそんな力があるかのように、誰の介添えもなく、老女は上半身を起こしたのだ。老女は一瞬意識を取り戻して、激怒した。老女は放っておいても死期が来る。老女は事故に遭わなくても亡くなっただろう。ただ、死期を早めたかたちになった。
 気の強い人であったことには訳がある。離婚後、教師をしながらも、母子家庭で子供を育てあげた。そして、教員生活を全うしたのだと、後で関係者から聞いた。老女は若者を見て激昂しなければ、直ぐに亡くならなかったかもしれない。蝋燭の最期の火が大きくなるように、死ぬ間際の活力だったのかもしれない。結果として、若者は交通事故の加害者として、責めを負うことになった。
 不可抗力だったのだ。誰だって間の悪いことがある。それが重なったのだと、若者を慰める人がいる。別の人は、細心の注意を払っていたら、事故を回避できたのだと言う。周りからいろんなことを言われたのだが、前々から決まっていた出来事のように感じとっていた。若者が歳を重ねながら、幾度もその道路を通る。その道路を通る度に思い出すことになる。
 老女の息子も教職についていて、若者の将来を心配していた。若者の周囲も気を遣っていた。傍目には交通事故を起こした当人の気持が切れたように映った。それは、交通事故だけが原因ではなかったのだ。若者は何ごとに対しても、ネガティブな思考を持っていた。精神的な負担は少しでも軽い方がいいと思い、社会生活においては、責任を負いたくなかった。家庭を持ちたくなかったのも、同じ理屈からだった。家族を守る自信がなかった。責任を負わないことが、世間に迷惑を掛けないことだと、自分勝手に判断してしまった。交通事故を切っ掛けに、消極的な思考を倍加させた。
 そして、若者は老いていって、老年期を迎える男になっていった。人生を否定的に捉えていたかもしれないが、身体の方は健康で、性欲もあった。若い頃から、風俗くらいしか性欲を発散する場所はなかった。男が歳を重ねるのと比例するように、SNSが発展した。寂しさを埋めるため、マッチング・サイトを利用した。
 男は女が苦手だと思い込んでいた。たまたま、暇つぶしでアクセスしていた時のことだ。偶然だったのだが、年齢差を気にしないばかりか、性に奔放な若い女と出会った。最初、男は若い淫乱女として見ていた。種類の違う人間として、距離を置くつもりでいた。付き合ってみるうちに、勘違いに気づいた。知性と良識があり、論理的な話し方をした。
 その若い女は幹線道路沿いの学習塾で不定期に働いていた。高学歴の準ニートぐらいにしか男は見ていなかった。後になってその女は教員採用試験に合格した。そして、地元の教師になった。男とコンビニで待ち合わせをしてラブホテルに行ったことがある。女の嬌態を知っているだけに、表とプライベートのギャップに驚いた。学習塾の隣にコンビニがある。今はコンビニになっているが、かつてそこには喫茶店があった。事故を起こした時、道路沿いに喫茶店があった場所だ。その喫茶店の客が、違法駐車していたことは間違いない。
 男は晩年になっても、教員になった女と、逢瀬を繰り返していた。女が誰かの生まれかわりではなかったのか?
男はそんな風に考えたことはなかった。
 意識の混濁の中で、脈絡のない場面を想起していたのかもしれない。自分に対して呟いてみた。
「反物質の世界には二次元的ホログラムがある。そのホログラムから投射される立体像のように、三次元は粒子の相互作用から生れている。重力を含むこの世界は、『幻』にすぎない」
 意識は時空を漂っていた。
 ある場面に男の子がいた。男の子は渓谷沿いの細い道を歩いていた。誰かの声が聞こえたかのように、男の子は歩みを止めた。すると、漬物石くらいの岩石が、道の手前を転げ落ちていった。そのまま歩いていたら、石に当たってそのまま谷の下に落ちていただろう。男の子は声がした方向を振り返った。誰の姿も見ることはなかった。こちらから、意識を男の子に向けて、「止まれ」と言ったからなのだ。
 その男の子は年少期の自分だった。
 そんなこともあった。それなのに、意識はバイクを運転していた若者に「もっと、ふかせ」と言った。その場面については、納得していることでもある。
「全ての時空と事象は繋がっている。データとしての記録が、ホログラムの役目をする。ホログラムから投影されるイメージで、実在が構成される。事象対象は、強い意識に反応することもある」

 白っぽい部屋に戻っていた。
 部屋から機械がなくなっていた。元々あったかのように、透明なガラス窓があり、張り紙が剥がされたような痕がある。ガラス窓のこちら側から、廊下のようなものを挟んで、隣部屋のドアの張り紙が見えた。
 それは、ポスターサイズの標語だった。「被験者募集
それが、どんなものなのかわからなくても、自分の想像を発起する信念が必要なのだ」と表記されている。理解できないのだが、大きな文字を見ているだけで、得心してしまう。いったい何が作用したのだろう。それを見て、被験者に応募したいと思った。
 隣の部屋に入ると、この様になっている。
 入口近くに解説図が貼られている。解説図には接続方法と説明文が載っている。部屋の中にはたくさんの機械がある。各種機器を繋ぐケーブルが何本も繋がっている。
 説明文の指示通りに実行してみる。先ず、スマートフォンで、解説図のQRコードを撮影する。すると、自動アクセスで、アプリケーション・ソフトがダウンロードされる。机の上にアタッチメントが付いた台座がある。スマートフォンから出力される、音声と表示画面に促されるように、そのアタッチメントに向かう。スマートフォンの画面側が目の前にくるように、ベルト付のアタッチメントに装着する。スマートフォンがゴーグルに変わる。それだけで準備は整うのだった。面倒な設定は一切なかった。
 そのゴーグルが目の前に置かれることになる。ゴーグルを装着してみた。ヘルメットを被ったような重さを感じる。スマートフォンの画面を見ているだけなのに、どうして立体的な画像が見られるだろう。身体が動いたように感じ、別の所へ移動したような映像が流れた。
 部屋を子細に見ることができた。目の前に等身大の女が登場した。アニメのように、目が異常に大きくて、顔が人間離れしている。平均的年齢の男を、ターゲットにしているソフトらしい。喋るつもりはないのに自分の方から話し掛けようとしていた。なぜか、自分が喋ったようなつもりになっている。
「アンドロイドを使うかどうか迷っているんだ。教えてくれないか?」
「はい、わかりました。どうぞ質問してください」
「直ぐに使うことはできるのかな?」
「はい、使えます。何を優先してやりたいのですか?」
「それがわからないんだよ。何ができるのか、答えてほしい」
「はい、わかりました。いろんなタイプのアンドロイドがあります。アンドロイド購入を政府が優先して斡旋しています。今なら、キャンペーン期間なので無料です」
「そこが、迷うところなのだ。ただほど高いものはない。必要不可欠なものかどうか、見極めなければならない」
「心配はいりません。満足度ナンバーワンという結果がでています」
「そんなこと信じられないな。それよりも、肝心なことを聞きたい。個人的嗜好かもしれないが、アンドロイドは君のようなアニメみたいになるのかな? それでは、生身の人間のようなリアリティを感じられない」
「だいじょうぶです。会話のやり取りをしているだけで、相手の好みがわかります。自動でバージョン・アップしていきます」
 対話形式になっていて、覗いている側が、決断を躊躇している。最初から、設定がそうなっている。開発会社のネット広告に誘導されているようだ。購入を迷っている者のための、アプリケーション・ソフトで、体験版なのだろう。
 コスト・パフォーマンスを考えて開発されたソフトだった。多額の補助金が交付されたと聞いた。無料配付したとたんに拡散したらしい。スマートフォンの小さいスピーカーとバイブだけで機能する。頭や指に音が伝わり、バーチャル体験がしやすい。
 画面上においては、実像と虚像の区別がつきにくい。そのことを念頭においた方がいいだろう。そうしないと、現実との境界判断がつかなくなる。その点、頭の重みがあることは必要なことだ。頭にゴーグルの重みがあると、そのあいだはバーチャルであることを認識できている。重みを感じているうちは、現実でないことを、きちんと認識できている。ただ、夢中になってしまえば、頭の重みは関係なくなる。それが、人間の特性だからだ。
 スマートフォンを介して、バーチャルがどんな風に映るのだろう? アンドロイドはどう見えるのだろう? 
 そういえば、実際にアンドロイドを使用した人がいた。そんな人がいることを思い出した。その人のレポート記事を目にしたことがある。その中の使用体験を参考にしてみる。
 アンドロイドを使うにあたり、深入りするつもりがないなら、オプションなしのタイプを選べばいいとある。オプションなしタイプは頭から胴体部分までしかない。最初の印象は異様な物体に見える。そんなものだと思いながら見ていると、時間が経つうちに、アンドロイドの姿や形に慣れてしまい、違和感がなくなるらしい。人間と同じように美醜は慣れてしまう。案外、そんなものかもしれない。
 最新型のアンドロイドだと、混乱する場合がある。目の前にあるものが、機械であるという認識が必要だ。機械は機械であり、人間ではない。機械と人間の区別がいる。明確にする必要があり、その境目はきちんとしなければならない。現実から逃避するためのツールになりやすいので、人間そっくりにコピーしたものは避けた方がいい。依存症になりやすい人間には、注意が必要だ。
 そのことを使用する側にハッキリと注意喚起してある。それを考慮していくと、オプションなしがお勧めとなる。下半身がなく、部品が剥き出しになっている。胴体部分を見ると、機械であることを強く印象づけられる。
 アンドロイドの電源を入れると、質問形式で会話が始まる。元はといえば、人間の音声だけで各種電化製品の電源のオン・オフをしたり、タイマーを設定したり、温度管理をするためのAIスピーカーだった。生活の一部のように、人間がスピーカーに対して、主体的に質問を投げ掛けていた。最初はスピーカーが答えてくれるだけのものだった。時代が進み、アンドロイドがAIスピーカーにとってかわった。アンドロイドにデータが上書きされる。それに従い、中央のクラウド・コンピュータに解析される。フィードバックされることによって、人間の思考の中に組み入れられていく。かつて、機械は人間の道具だった。昨今は、人間が機械の一部に組み入れられている。
 アンドロイドの購入には危険がある。

 レポートを書かなければいけないのだと、白衣を着た人から説明を受けた。データとしていろんなことに活用できるらしい。白衣の着用は政府機関への従属を意味していた。ならば、あちら側ではなく、こちら側に権威があることになる。
 ゴーグルを装着して、スイッチ・オンにしなければアンドロイドは登場しない。画面が仮想現実を映す仕掛けになっている。単なるスマートフォン上の画面を見ているわけだ。それなのに、その映像を見て記録しろというのだ。
 これはその記録の一部だ。レポートへの記述が前後する。
 ある部屋があった。
 自分用の机と椅子があるだけだ。一人分のスペースしかなかった。そこでゴーグルを付けることになっていた。
 ゴーグルを付けて部屋を見てみた。あの部屋の中だった。目の前の椅子にマネキンが置いてあるように見えた。女の上半身を模していて、ダッチワイフにそっくりだった。良く見ると、剥き出しの部品に、型番が付いている。アンドロイドの旧式タイプのようだ。胴体の部分は金属ではなかった。安っぽい合成樹脂のようなものに、服が着せてある。
 一瞬のことだった。椅子に置いてあるはずのアンドロイドが消えた。
 ゴーグルの視界の中に、均一な目盛が付された、ゲージのようなものが表れた。同時に、ダッチワイフのようなアンドロイドが、ベッドに移動していた。ベッドで添い寝できるようになっていた。そのように、設定の変更があったらしい。リアルタイムに被験者側の体感データを取るのだろう。
 現状を振り返ってみる。
 自身が狂人ならば、論理が破綻していて、ここまでのような、思考過程や観察眼がないはずだ。重篤な病人であるならば、このような言葉にまとめられないはずだ。言い間違い一つなくて、混乱なく推移している。矛盾のないことが、矛盾していることになる。編集ソフトが機能している可能性がある。
 こうやって自己認識し、指摘までしている。このことが、コントロールに抗おうとしていることになる。予測するに、以降は狂言が発生するレベルに変えられるだろう。
 そうだった。そのことは、最初に説明されていたのだった。段々と、思い出されてきた。
 以前、その誰もいない部屋に入ったことがある。そこは、一人用の個室部屋だった。部屋の仕切が取り払われると、スペースができて、大部屋に変わる。そして、大量の機器が搬入できるようになっている。
 その部屋で、白っぽい服を着た人がレポートを書こうとしている。

 あれは、始まりの終わりで、終わりの始まりだった。あの時、部屋の中にいる自分の姿をイメージしていた。
 部屋にいて、ベッドに仰向けになりながら、頭の中に思い描いていることがある。想像しようとしているのは、部屋の中の、ベッドに横たわっている自分の姿だった。
 目の前に自分がいる。白い明かりで横たわる輪郭が見える。部屋の中に自分の姿が透けながら浮かび上がった。身体と部屋の壁が、二重写しに見えていた。
 自分の姿が目の前にある。死体が横たわっているように寝ている。窓から隣の部屋が見える。隣の部屋には白衣を着た人がこちらを見ていた。ベッドには表示板が置いてある。表示板には「死因・睡眠時無呼吸症候群との合併症の場合」とある。
 表情を見ると、苦しむこともなく、眠るように死ぬことができたようだ。それは、亡者にとって理想的な死に方でもあろう。
 死後の世界では意識がなくなっている。死んでしまえば全てがリセットする。死んでいる本人が、死後の世界にいることを認識していないのだ。生存者側の、死者という概念に含まれてしまう。欠けたピースの存在になっている。本人にとっての生き死にが、関係なくなる。死後の世界が虚像ではなく、現実との主客が逆転することだった。それはあの日、あの時からだと言っていい。
 死後の世界は生きていた時に思い描いた範囲でしか存在しない。死者は死ぬ前にイメージしたものしか認めない。宗教を信じる者にとって、自分が思い描いた通りの世界に身を置きたいと念じる。既成概念の世界があるのだと追い込みたかったのだ。
 微かな覚醒のあいだに、目には見えない催眠作用を受けた。気を失ったように眠りに陥った。それでも、意識は何度もリセットする。
 いつ、歩けるようになったのだろう。昨晩はスムーズに寝ついた。尿意を感じ、目覚めたので、2度トイレに立った。いつものように朝方まで寝ていた。そうなると、昨晩から数えて3度も意識を失ったことになる。
 その間に起こったことなのかもしれない。得体のしれないものから脳に作用があった。その作用に基づいて行動しているだけなのだ。目の前に起こっているのは、白っぽく透明に見えている状況だ。目前の現象は夢とは別物のはずだ。
 昼寝の時間が長かったこともある。寝過ぎで頭がクリアでない。気持ちも沈みがちだ。寝過ぎると、さらに眠くなる。その時、うとうとしながら、死について考えていたかもしれない。
 心身とも痛みがなく、翌日まで夢を一切見ないでいるなら、記憶に残ることもないだろう。意識がないなら、死んでいる状態と同じなのだ。自身を顧みる面倒な感情がない。
 翌朝がくるのか、わからないのに、目覚めると同時に生き返るつもりでいる。そして、翌日の予定に向かって行動を起こそうとしている。そんな気力が満ちている。生きるための努力を惜しまないつもりでいる。意識が戻らないことを望まない者はいない。ただ、情緒不安定に陥っているようだ。安楽なものであるならば、眠るように意識を失い、翌日の死を受け入れるかもしれない。
 一瞬のことだった。うとうとしている時に、自分が自分を見ている姿があった。
 さて、翌日の予定だが……。ベッドにいる被験者は机に向かうことをイメージしていた。あるレポートを作成しようとしている。そのイメージはというと……。
 別の世界を描くために、イメージを膨らませ、レポートの記録をとっている。初めての体験なのに既視感がある。目の前に並行して現れるイメージを書き留めている。並行した世界の数だけ、現象や事例が重なっている。
 現実ではないと思いながらも、架空の部屋を出現させる。机の上のレポートを見ることができた。紙面の冒頭に目を通す。そこにはこんなタイトルが記されるのだ。
「ダーク・マター=暗黒物質←→霊界物質」
 そこは、何でもあり得て、何もない世界だった。紙に描かれたような真っ暗な世界が見える。同時多発的に事象が発生する。何もないところから、並行世界が発生する。紙面と霊界と繋がっていて、リアルな現実を映す。真理が、紙面の中に収まっている。紙面となったホログラムには、現世も来世も詰まっている。
 前世から関わっているのだ。二人の出会いの切っ掛けは後付した意味付にすぎない。双方が求め合っているだろう意思表示は言葉ではない。求めるものは互いの存在そのものなのだ。好意を伝えたかもしれないが、意志とは違う言葉を発してしまう。現世で二人が出逢えたことになるのだが、それには代償と負荷があった。前世が親子であるとするならば、生物学的な禁忌や公約数的な倫理観がある。突然変異の可能性がある。ただし、H博士のように、宇宙のパワーを、享受することはできないだろう。通常ならば、劣性遺伝のままになる確立が高い。圧倒的にリスクの方が高い。現時点では子供はつくれない。有形無形の定めが既に決められているのだ。
 元々一つだったものが二つに引き裂かれたようなものだった。前世から縁ある二人がやっと現世で巡り逢えた。時間を惜しむように固く抱き合っていた。抱き合っていることによって、進行し、退行するのだ。それまでは、二人は遠い時空を彷徨っていた。二人の互いの強い想いがあったから、導かれたように出逢えたのだ。
 離れている二人の魂はすれちがいになっていたはずだ。もっと輪廻の反復が必要だった。前例を破って短い期間で二人は巡り逢えた。意識の関わりでこの世に出現できた。それは、一人の老女を生贄にすることによって実現した。あの時、自分に向かって「止まれ」と言わなかったからだ。

 通路に面している窓に見えた。
 違う。窓ではない。ディスプレイに映る反射光だった。一瞬、二次元の暗黒世界を覗いているように見える。休止状態にある黒いディスプレイには映像がない。スピーカーから発せられる音声だけが流れる。
「スイッチ・オフと言えば終わります」
 自分の意識を集中させて、念じてみた。
−スイッチ・オフ−
「それでは、スイッチ・オフにします。では、どちらの方を消すのですか?」
「どちらって?」
「こちらの方ですか、あなたの方ですか? 言葉が意思と反するなら、手元のスイッチを押すイメージを持ってください。それを押せばあなたと同時に消えます」
 人工照明の光しかない。密室になっていくような部屋は狭く白い。部屋の中を見続けようとする意識がなくなっていく。
 機器を繋ぐコードだけのはずだ。それなのに、点滴の管のようにも見える。少し前から楽になった。心身の痛みを軽くする液体が流れているようだ。幻覚を見たのかもしれない。
「合併症をお望みなら、楽に眠られるかもしれません。ただ、黄泉の国へと言われても、天国か地獄かはわかりません」
 機械の示す数字が、昼下がりを示した時刻だと思いたい。一瞬のうたた寝に似た、軽い眠りにつきたいのだ。短い眠りにしか、考えられないのは、今の心地よさがあるからだ。
 目の前は、白から、次第に黒くなっていく。