貨幣的現実                 

 ぼくは思った。ある場面を想い浮かべた。K監督は編集作業が
好きと言った。ぼくはどう脚色するのだろう。どうもしない。その
場面を思い出し、感想を述べるだけ。ある週刊誌の中の4コママン
ガの2場面。
 小学生4年生位かな。その女の子は生理が始まっているかもしれ
ない。何せ、世の中は総女性ホルモン時代だからで、環境ホルモン
は女性ホルモン、生まれ変わっても女性になりたいは、生まれ変わっ
ても男性になりたい割合を越えたと、アンケートの数値が語ってい
た。
 女の子はお年玉を1万円貰った。それを大人の女のように、描写
をすれば一端の主婦のように、澄ました顔をして「貯金するわ」と、
したり顔で言う。
 その光景を見た母親が同席している女友達に「しっかりしている
ようで子供なのね」と言った。近々欲しいものがあったのだろうか。
それとも、大人になるまで貯金するのだろうか。ぼくは後者と解釈
した。
 その女の子にとって1万円はどんなものだろう。使い方を知らな
いだけなのだろう。その年代の1万円は大金である。大人の女にとっ
て1万円は端金でしかないのだ。その年代に使えたら価値があるの
に、貯金して大人になって使っても何の価値があるのだろう。
 と、ぼくは思っているだけのことだ。郵便局に貯金して倍にして
株よりも投資効果を期待した方だいいのだ。でも、ぼくはその貨幣
的価値を言ってるのではないのだ。
 若い時は、箸が転がっても楽しい。将来があるが、将来を確定し
なくていいし楽天的に肯定も否定も出来る。歳を取って寂しいのは
当たり前。寂しくて辛くて、苦しくて孤独なのは当然。だから、若
い時に遊べるはその時点でしかないのも事実。若い時にそれなりに
価値がある大人の時期の数倍の価値のある金を使ったほうがいいの
かなと考えた。
 自分は使えたのかな? 昔の価値が知りたい。総ては終わったこ
とだけど、金はなかったかもしれないし、あったかもしれない。そ
の時に体験できなかったことを体験したかったと思っているだけな
のだろう。
 ここまで、遊んでいなかった。それだけのことなのか
 今も放蕩を続けたい願望だけなのか
 過ぎてしまえばただの幻影でしかないのに
 体験したと錯覚しただけの方が経済的なのに
 と……
 そう思ってるだけさ
 経験したってバブリーじゃないか

 

(渤海38号掲載)