私は仮想の世界からこの文章の中に出現したことになっている女です。私を書き出したのはMと言う男です。実際はMの頭の中で語っているものが文章化しただけのことです。
 Mは同人誌の締め切りを数日後に控えているのに、書けないものだから、ページ数を稼ぎたいために、私を登場させました。しかも、同人誌への掲載費用の関係で枚数を適当なことろで抑えたいつもりでいます。
 Mの書斎代わりの場所はいつも図書館の学習室です。Mは家では机に向かう気力が沸かないみたいです。スポーツをしになら、どこへでも出掛けて行くのに、どうも机に向かってじっとしていること自体が、苦手みたいなのです。最近は困ったことに図書館の学習コーナーでも寝てしまうことがあります。Mは生活習慣病からくる肥満が影響しているのか、睡眠時無呼吸症になっているのかもしれません。寝ている間に気道が閉塞してしまい、結果、無呼吸になり、無理に息を吸うから鼾が発生するらしいのです。
 鼾をたてて仮眠していることをMは自覚していないらしいのです。顔をテーブルにうつ伏せにして寝てしまったり、時には器用なことに座ったままの姿勢で寝ることもあります。静かな学習室に鼾の音が響き渡ります。自覚していないのでMには恥ずかしいという意識がありません。それでも、Mは図書館に通うのを止めないのは、そのうちに天恵のようなものが降りてきて、何かが書けるだろうという淡い期待を持っているからです。本人は、図書館で寝てしまうこと自体はさして気にしてはいません。書けないままでも、ただ図書館にいることで安心しているみたいです。
 書く時間が全くなかったという訳でありません。一番の原因はMに切迫感が無かったからです。そして、今頃になって書けなくて焦っています。なぜ、今回はそんなに焦ってしまったかと言うと、書くためのテーマが見つかっていなかったのです。
 ノートに数行の下書きがありました。それをノートワープロに転記していました。それだけでMは仕上がったつもりでいました。Mはとても楽天的な男だと思います。実際、今までは興に乗った時に集中的に自動筆記の様に垂れ流し状態で文章を書き散らし、数時間で原文を仕上げてしまうことがあったからです。今回もそのやり方が通ると思っていたのでしょう。
 書けない言い訳は出てきます。そんな言い訳を述べるだけで一ページ分の小説が書けました。それで、一応やれるところまでやってみようと男は思い直しました。締め切り日があり切羽詰まっているのです。それで、こんな文章を書いてページ稼ぎをするのに私を登場させたのです。私に身辺雑記を語らせているのです。
 Mにとってはテーマとかストーリーがなく、しかも 思想や作為の無い文章を書くこと自体は何ともない作業です。こんな風に身辺雑記を書くだけならどれだけでも書けるみたいです。深みのある文章にする必要がないから、推敲する部分が少ないからだと思われます。今回は新しいテーマにチャレンジしようという野心がMには感じられません。今回もと言うべきでしょう。
 読書をしていて思いついたことを手書きでノートに書き残すことがあります。それが、小説の発想メモとなることもあります。未だ、文章がメモ程度の時はノートに手書きですが、次の段階として電池式の携帯型ノートワープロを持って出ます。文章が完成に近づいてから図書館にノートパソコンを持ち込むのです。Mは最初の数行を膨らませて書くタイプです。
 今回はそんな段階的な過程をふみませんでした。そこで、そんな書けない苦し紛れの情況を描くのに私が登場してきたのです。Mは自分のことを単に日記風に書いたのでは面白くはないと思ったのでしょう。
 メモ書きした下書きノートから転記した文章がノートワープロに何十行あるだけでした。Mは締め切り日を数日後に控えて、書式設定を縦書で二六文字の四八行にして、フロッピィをセットしました。そして、いきなりノートパソコンに向かい始めたのです。今までになく過程を省略しています。
 いつもなら、ハッキリしないながら、それなりに構想らしきものはあったみたいです。しかし、今回に限っては締め切りまでの日にちに間に合わなかったみたいで、いきなりこういう書き方になりました。私がMを代弁して書いているだけです。この冒頭からの文章は、Mが暇つぶしに文芸誌に載っている作家Tの連載記事を読んでいて、触発されて書こうという気分になった部分で、「始まりがなければ終わりもない。よって中間部分もない」。確か、そんな内容の記事が書いてありました。
 ひょっとしてこうやって曲がりなりにも書いていることが始まりであるのかもしれないのです。書くきっかけがないからと冒頭はMの身辺雑記から始まりました。そしてMが読んだ文芸雑誌の中に書かれていた作家の文章を引用してみました。そして、書けないからといいながら「文字」あるいは「言葉」の連なりとして書き残そうとしています。
 小説という形態にはほど遠いまでも、書けるようになるまでは頭に思い出た文章をただ書き連ねていました。実際はノートにメモ程度でなぐり書きしてあったものですが、ノートワープロやパソコン内のワープロソフトに転記しようとする時点で、少しは推敲されてこの文章となっています。
 Mはノートにメモ書きしている時点では自動筆記みたいに書いていました。考ながら書き進むことに躊躇はしていませんでした。どうでもいいことを書いているのだと思ったり、不適当であったり関連のない文面であったりしたとしても、後で削除すればいいのだと気楽に書き進んでいました。Mはそんな風にして自分に言い聞かせないと書き進めませんでした。気分をリラックスさせ、自分を騙しながら書いていたのです。
 と、ここまで書いた文章は読者諸君に無かった部分の文章として読まなかったことにして欲しいとMは願っています。そのことを私は代わって述べます。要はここまでの文章は始まりの部分でした。当節の話題やそれに対しての感想を述べ、時代背景から当時だったら今のこんなような情景であるかを述べ「こういう小話をやりますよ」と落語の枕みたいなものです。Mは自身が本文に入る前に読者に一応講釈している部分なのです。
 私は勿論架空の人物で、Mの頭の中では幻影にすぎません。Mの発想したイメージが元となり、私は鏡の中から出てきました。鏡を見る人間の視点からすると鏡の中では自分の右の部分が右側に見えます。自分では右に見えますが他の人から見るのと本当は逆で、実際は左の方なのです。本当の自分を左右正確に見ようとするにはテレビモニターのようなもので見るしかないのです。鏡の中は左右が逆の世界かもしれませが、Mの残像に残っていたのはそこに映った私の姿であったことは事実です。
 ある国の、ある安ホテルの、エレベーターに私はMと乗っていました。エレベーターの乗降口以外は総て鏡張りになっていたのか、出入り口開閉扉の左右だけが鏡張りになっていたのか、記憶は定かではないのです。Mの記憶が曖昧なのは、その鏡に映った私の分身の人数の多さに目を見はらされたからです。
 鏡の中にずらっと並んで私がいました。エレベーター内の鏡に映った彼女の姿を認められるのは人の目で見える範囲は何十人までが限度です。高精度な望遠鏡があり、しかも照明が可能な限り届くと仮定したなら、私の分身は何千万人、何億人と見える筈で、理論上は、無限に近い人数が見える筈です。鏡の中に同じ姿勢で立つ無数の私が映っていました。
 エレベーター内の左右二枚の鏡の間に物体が無数に映る現象が起きていました。科学の実験でやったことのない人でも、子供の頃に母親の三面鏡を覗いてみて不思議な光景を目にしたことはあると思います。三面鏡を使った経験のない人でも、後頭部の寝癖や髪形が気になって鏡を二枚使ったことがあるでしょう。その時、角度の具合で無限に写る自分の頭部があったと思います。
 高級ホテルに行くと時々エレベーター内が総て鏡張りのことがあります。ラブホテル内のエレベーターでも、鏡が付いていることがあります。高級ホテルならゴージャスさを演出するし、安ホテルなら、エレベーター内の狭さからの圧迫感を感じないように鏡を設置しているのでしょう。Mは自分の姿には無頓着な様子で、私の方ばかり見ていました。私は鏡に映った自分の顔を見て、メイクと服装のバランスがとれているかをチェックしていました。
 その安ホテルのエレベーターの鏡にはMの姿は映っていませんでした。たまたま、Mのいた位置が悪く、鏡の角度から死角となっていたのか、ずらりと並んだ私しか、鏡に映っていませんでした。Mは仮想の世界でさえ、私と一緒にいられないことが頭に過ったのか、私にこう言いました。「あの一人だけでいいからぼくは連れて帰りたいな」
 私は笑って反応しましたが、何て答えたかは覚えていません。Mもそんな風に私に語ったと思い込んでいますが、果たしてハッキリと言葉に出して喋ったのか記憶は定かではない筈です。後付けの記憶でそう喋ったと思い込んでいる節があり、事実は定かではない筈です。でも、残像としての私の姿は記憶に留めていることは事実です。
 でも、その残像はと言うと、私との情事の場面を思い描くようなものだというような、危うい記憶にMは頼っています。私と交わったことさえも幻影に近い過去のことだと思っています。私の身体の温もりも嬌声も肌の感触も幻影に過ぎなかったのかもしれないと疑っています。
 Mは思い描こうとしますが情事の記憶が薄れています。今の時点では情事の情況は性能の悪いデジカメで動画撮影した映像を見るようなものでした。私とMが出会った頃でした。Mはデジカメを三脚に据えつけ、カメラ機能の一部である動画撮影で私と交わっている場面を撮りました。私は拒まみませんでした。写されているのが私一人だけではないし、仮に照明の下で撮られたとしても、それはどうでも良いことだったのです。
 事が終わって私とMはデジカメの小さい液晶画面に映る動画の映像を一緒に見ました。デジカメの小さい液晶画面の中で、私とMではない、他の男女が絡み合っているみたいでした。女一般かもしれないけど、私は視覚による性的興奮を覚えなかったので、そんな動画には興味がなかったのでしょう。その当時、私はデジカメで撮られても、特に恥ずかしいと思いませんでした。
 Mには以前から男女の性器が結合した状態を撮影する「はめ撮り」の趣味はなかったようです。私が特別嫌がらなかったのでMは撮影してみる気になっただけです。彼はその動画をインターネットを使って不特定多数に配信する気もないみたいでした。Mは何をするにも面倒くさがり屋なのでした。それに、誰が映っているかハッキリ分からないようなものだから、プライバシーには影響はないと思います。Mは、プライベートなコレクションとして保存しているのでしょう。それよりも裏物のDVDを集めるのが主体みたいです。年中、私と会える訳でないし、裏物のアダルト関係のコレクションは、マスターベーションをする時に最適なものらしいです。
 私が写され保存されるだろう映像そのものにあまり興味はなかったです。デジカメに動画として記録したのはMP3というデータだとMは言っていました。そのデータは何にでも変換できて、CD−Rに焼いてパソコンで見ることもできたし、家庭用のVHSビデオテープに録画もできたそうです。他人が見たら、誰かだと特定するのは難しく、当事者しか分からないものでした。
 数年以上経っても媒体物は記録され、保存してあるらしいのです。どこかにある筈だとMは言っていました。一応、カラー撮影らしのですが、薄暗い照明の中では、白黒の世界に近いらしいのです。その情景を見たとしても、セピア色の遠い記憶の中みたいで、Mにとっては感慨は若干あるかもしれません。私と近い将来、完全に会えなくなると仮定すると、虚しい思い出としてしか残らないから、映像として保存はしているけれど、積極的には見ないつもりでいるらしいのです。発展性のない無機質な記録として映像は残っているみたいです。
 私にはMと出会う前から、ずっと付き合っている彼氏がいます。今は都心近くに彼氏と同居しています。Mがいなくても、私には何の支障もないことです。今の彼氏との関係が続いていくだけのことです。このまま、今の彼氏とずっと添い遂げるかもしれないし、もしかして何かあって分かれることになるかもしれません。どうなったとしても、Mとの関係は続くかもしれませんが、正式なパートナーとはなり得ません。そのことはM自身も分かっていると思います。それと、その気になれば、過去からのMとの関係は、最初から何にもなかったことにできます。
 デジカメ内に二人の情事の模様が収められていました。デジカメの液晶画面上に二人が動画として一緒に映っていました。情事そのものの情景は、外部の光線から遮断され、部屋の中は人口的な照明だけだったので、ぼんやりと映るだけのものでした。当時なら、フラッシュを焚く位にして、一枚一枚の制止画像として撮らないと、鮮明には残せませんでした。
 デジカメは当時の物としては性能の悪いタイプではありませんでしたが、薄暗い場所で動画を記録するために、ライトが無くても写せるような補正機能は付いていませんでした。当時のデジカメは性能が向上していたとは言え、ビデオカメラの代わりにはなりませんでした。
 デジカメの動画を見ると、小さい液晶画面上に、別世界の中のこととして映っていました。モニター画面を拡大すると、輪郭がぼやけてしまうように、情事の場面は、Mの記憶に鮮明なものとして残っていません。
 室内を照明が照らしていたかもしれません。しかし、Mが記憶している中でのラブホテル内の光景は、薄暗いものでしか思い描けないのです。真昼でも、ラブホテル内では、強い日差しを遮るのに、カーテンを引いているのが常だっからです。
 薄暗い部屋の中での私とMの情事の様子は見えにくいのです。見えにくいことが、かえってMにとっては想像を駆り立てエロチックなものに映るのでしょうか、本人でないと心境は分かなりません。Mは今まで記録した二、三本の保存映像を他の者に見せたことはない筈で、これからも見せる機会はないでしょう。
 私の先祖もその光景を見ているのでしょうか。私が行っていたのは誰もが行っている性行為です。それを見苦しい行為として見るのでしょうか。当初、Mと関係を持ったのは私が十代の半ばを過ぎた頃でした。
 万物の主な動物が行う行為です。それを疎ましい行為として皆が思うのでしょう。少なくとも、反社会的な淫行行為の場面として、一般の人々は認めません。そして、その性行為そのものは何の価値をも認められないことなのです。
 その当時、私の彼氏は遠くの大学にいて遠距離恋愛中でした。学期間の休みの時にしか会えませんでした。会えない間は寂しかったものです。今考えると、彼氏と会えない間の空白を埋めるのに、Mで代用したことになります。
 勿論、私と彼氏とのセックスの回数は一番多いです。そして、今まで彼氏以外で私が関係した男の中では、Mと交わった回数が次に多くなっています。現在、私は彼氏と一緒に暮らしていています。Mとは田舎の実家に戻る時の半年に一回程度しか会えないかもしれません。それでも、関係は途切れていません。
 所帯を持たないばかりか、うだつの上がらない中年の独身男のMは私とは全く異次元の人でした。私のお父さんと違って、仕事人間でないみたいだし、私の関心のあることとは別のことを喋っていました。文学か何かに興味があるらしかったけど、私があまり関心を示さないので、共通の話題にしませんでした。当時、私には明るい将来が約束されている訳でありませんでしたが、留学に備えてアルバイトに精を出していました。私の彼氏は大学在学中にたくさんの資格を取っていました。大学は理系だったし、就職先は心配していませんでした。
 Mは世代だけではなく、彼氏とは性格も考え方も違っていました。Mと私の二人の親密度は増しても、優柔不断で頼りないMに時々私はイライラして愚痴を言いました。それでも、Mは大人の寛容さで軽く受け流しているように感じました。情事の後で、私はMと言う異質なものに融合させられたことになります。Mも私に征服されたのかもしれません。それは、説明のできない男女間の妙かもしれません。親子程の年齢差を考えれば、反社会で倒錯した関係です。私が喫煙から逃れられないように、止めようと思っても、意識していない部分で、のめり込んでいくものがありました。いつでも止められと思いながら、ずるずるとここまで来てしまったのです。
 Mは中年男にしてはセックスは淡泊な方です。独身でお金を自由に使っています。私はそれなりに重宝していたんだと思います。最初は、身体の関係だけで割り切ることができると、安易に考えていました。若い時期の過ちで済むものだと軽く思っていました。
 束の間の関係だと思っていました。それが、どうしてか、今でもMとの関係は続いています。私が都会の大学に入学しようとする時に連絡方法を遮断すれば良かったのです。私が情に脆いのかきっぱりと切り捨てることはできませんでした。大学入学前に携帯電話を変えた時、電話番号もメルアドも教えました。今思えば、私にも未練があったのかもしれません。
 それでも、入学してからは二カ月程はメールが送信されて来ても返信はしませんでした。Mからは一方通行でメールはずっと送られてきました。それで、Mの心がまだ私から離れていないことを確認しました。二カ月を過ぎた頃にメールを送りました。それからまた付き合いだしました。そして、大学の在学中はずっと関係が続きました。卒業までに二度程海外旅行に行く間柄にまでなりました。
 大学を卒業して外国への留学のために日本を離れました。Mはわざわざ私の留学先までやってきました。留学先の有名地を数日で回る旅行に一緒に行きました。安ホテルでの宿泊となりましたが、私は半年も留学先の地方都市から出ていませんでしたので、その国の主要都市やリゾート地を旅するのは新鮮でした。安ホテルでの滞在でも充分満足でした。その時、安ホテルのエレベーター内の鏡に私が映っていたのです。
 私は目の前の性行為を見ている。
 私は架空の人物として目の前の状況を眺めている。私を何に例えると言うと、幽霊みたいな者としか表現できない。私の目の前にはMでなく私と彼氏がいる。目の前には私と私の彼氏がいて絡み合っている。
 私と彼氏は薄暗い部屋のベットにいる。私は彼氏の股間に顔を埋めている。私は彼氏にフェラチオを行っている。私は彼氏が喜ぶからとその行為を行っている。だいぶ前の時期の情景が私の目の前にある。その時期からは数年が経ている。親密になればなる程、女の方の立場が強くなるのが世の中の常で、私は最近、彼氏に対してフェラチオをあまりしていない。
 元々は私はフェラチオを行うのは嫌いだった。十代の頃、無知だったので周りの女の子達からは付き合っている男女間の当然の行為だと聞いていた。その頃の私には、フェラチオは恋人同士で行うものなのだと言う、固定概念があった。付き合った当初は彼氏に気を遣っていた。当時の私には彼氏に喜んで貰いたいという気持でいた。今では彼氏との関係は男女間として安定期をとうに過ぎているし、同棲も長くなると、刺激は少なくなってきている。
 子供ができるまでは結婚をする必要もない。彼氏と常々話し合っていて、籍を入れないことで互いに納得はしている。だから、結婚もしない。一緒に住んでいるし、半夫婦状態でいる。Mみたいな男がいることは彼氏は知らない。私は私自身のことは棚に上げて、浮気をすれば自分も同じことをすると、彼氏には脅し文句で牽制している。私の独占欲を満たしているのではない。そうした彼氏への独占欲という形で愛情表現を示すことで、Mという存在をカムフラージュしている。
 Mにも、今では彼氏にはフェラチオをしてないと言っている。Mに対しては元々私はフェラチオをするのは嫌いだと伝えてある。だから、Mの方からフェラチオを強制したことはなかった。でも、Mにはそう言っているだけで、実際は彼氏の求めに応じてフェラチオを何カ月か前に行っている。彼氏がフェラチオを要求する時、断ってはいるが、何カ月に一度は仕方なく聞き入れている。彼氏が望むから、気持ち良くさせてあげている。
 そこは以前に良く通ったラブホテルのベットの上だ。そこに彼氏と私がいる。薄暗くてよく見えないがそのやり方は良く知っている。口の吸引力でペニス部分や睾丸とそれを包む皮の部分を同時に強く吸い込む。私は彼氏が刺激を強く感じるというやり方でフェラチオをしている。
 私が十代の頃、彼氏にこういう風にしていると、一度だけMに実演してみせたことがある。Mからの話から、そのやり方は、マニアックな一方法で、プロのソープ嬢が使うテクニックらしい。素人っぽいデリバリーヘルス嬢が行うような、ペニスを包む皮を剥いだ鬼頭の部分を舌で嘗めたり、唇全体を使い、喉元まで含んで往復するような、常套的なフェラチオのやり方とは違う。
 私はフェラチオを行うプロではない。彼氏以外の誰かに指示された訳でもなく、そんなフェラチオの方法を彼氏以外の人に教えてもらった訳ではない。彼氏がそんなやり方が気持ちいいと言うから行っている。普通のフェラチオのやり方を知っている訳がない。彼氏が私にリクエストしているフェラチオのやり方が、普通のやり方でないと知らないでいる。
 私と彼氏の性行為を私は何の感慨もなく見ている。そして、フェラチオを行う時間に制限がなく「これでいいよ」と彼氏が言うまで続けようとしている。
 どこにでもいる男女の睦事が行われる。
 目の前にいるのは、彼氏だろうか、Mという男だろうか。私と彼氏かMらしい男女が性器を結合させている。私と相手は身体の正面を向き合わせて絡み合っている。
 それは、愛情溢れ親密に見える交わり方だった。そこでの私の身の任せ方は相手に対して信頼に満ちている。そこに私がいる。私は相手に腕を回している。Mか彼氏か判別ができないくらいに私は理性をなくしている。女はみんなそんなものなのかもしれないとMも私も思ってしまう。最近まで感じるとはどういうものか知らないでいた。そんな情況でも、愛情のあるなしに関係なく身体は別に反応する。
 彼氏へも、Mへも、私の反応の仕方は一緒に見える。その相手が長年交わった彼氏やMだったとしても見ず知らずの男だったとしても、行為はみんな一緒に見える。もしかして、相手によってセックスのやり方は違っているのかもしれないが、私は今のように自分の性行為を自分で眺めることはできない。
 ペニスが挿入されると私は自分の方から腰を動かす。どうして腰を動かすのかとMから聞かれた。自分ではどうしてそうしているのか意識がない。意識しなくても私の下半身が勝手に動く。聞かれたから仕方なく「気持ちいいかと思って」と答えた。気持ち良くさせるのは、私の相手の方に、という意味。私は女だし、自分が無意識にしている行為だとは、恥ずかしくて言えない。
 それでも、自分では気持ち良いという感覚はない。そして相手の男は、Mかもしれないし、彼氏かもしれない。男の方の腰の動きは激しくなる。私の腰の動きは激しく突き動かされるにつれて止まる。射精に向けて一気に振幅が激しくなるのだ。それは若くないMでも、若い彼氏であっても、同じ突き動かす行為となる。私はただ喘いでいる。そして、腰の振幅が激しくなると私の腕は意識のないまま相手の首に巻きついていく。そして、相手の男は私の腕の中で果てる。最後に見せた私の表情は満足している。
 Mへの話では、私は最近は彼氏にフェラチオをしていないことになっている。Mという男にフェラチオをやらないのは恋人ではないからだ。たまにしか会わないし、いてもいなくても特別に支障がないけど、そんな相手でもお金をもらっているのだし、一応幻滅感を持たせないように嘘をついている。Mは、そうなんだと、私のことを信じきっているみたいなのが救いだけど、罪悪感はない。援助交際そのものが反社会的なことだし、公にできないことは認識している。たまに私が私の彼氏から、フェラチオをしてほしいという要求を聞き入れるのは、償いの意味があるのかもしれない。
 Mには彼氏には言えない男女の機微的なことも話す。Mは父親と同じ年代だし、いくら女性経験が少ないと言っても人生をそれなりに長く生きてきたのだし、会話の中で参考になることはある。
 私は身体に欠陥がある。私はセックスでは感じたことがないとMには言う。ただし、今まで唯一感じたことも伝えた。それは彼氏とマリファナを吸って行ったセックスのことだ。それを聞いたMは落胆していた。
 最初、Mはマリファナを吸って誰とセックスしたのかと聞いた。「彼氏に決まっているじゃない」と私は答えた。Mはマリファナを吸ってからセックスに至るまでの前後の状況を細かく聞いてきた。マリファナなんかクラブで簡単に手に入ると私はMに答えた。
 Mはマリファナを吸った後で行ったセックスを思い描いている。私の恍惚としている様子を想像している。私から聞いた後で、これを書いている。
 目の前の世界は架空の世界。左右対称が逆に映る鏡の世界ではない。Mの頭の中のイメージの世界で私が語る。それは明らかに現実ではない。視神経から脳へ伝達して発生したイメージでもない。脳内独自で発したイメージ。
 Mはこう思っている。
 ぼくはこの瞬間のために何千キロを移動してきた。この後は、いつもの虚しさに戻ることはないのだろう。そこにいることは仕方のないことなのだ。自分で望み、自発的に行動してきたことなのに、誰かに動かされているような受動的な錯覚に陥っている。
 彼女と軽い約束があった。約束を実行に移さないからと特にペナルティはない。彼女との仲が険悪になることもない。休暇をツアーの海外旅行に合わせる苦労があったし、それなりの渡航費用が掛った。正しい選択だったのか分からない。何かに突き動かされてやってきた。彼女の性器に接合してフィニッシュを迎えようとしている自分を、正当づけられるのかは、疑問なままでいる。
 何かに導かれてやって来た。ぼくはぼくでしかないのだろうけれど、本当にここにいるのはぼくなのだろうか。ぼくは不鮮明な意識の中でコイトスを終えようとして、最後に射精するだろう。愛情を感じない相手とはこの瞬間に興醒めするだろう。覚めた意識は何度も味わった。彼女とはその瞬間を迎えても、余韻に浸れるだろうが、どうしてその場所にいるのか、不思議に感じてしまうだろう。
 ぼくの頬に彼女の頬が触れ合い、喘ぎ声も耳元なので大きく聞こえる。先程、ぼくの唇は彼女の性器をなめ尽くした。その唇が彼女の唇を這う。ぼくも彼女もその瞬間は理性を失っているように感じる。いや、その瞬間は現実を忘れようしている。それでも、彼女が正直に語るように感じてはいないのだろうか。
 と、Mは考えている。
 これはMの脳で発生したイメージを文字にしています。脳細胞で発生したイメージで。視神経からのものではありません。が、もし視神経を通ったとしてもそれが現実かとは誰も証明はできません。人間の頭の中では、ニュースソースに似て、発信者側が意図したようなイメージになるように、情報を取捨しているのです。Mだけじゃなくて、誰もが映画やドラマで見たことに関連づけてイメージしているかもしれないのです。架空の世界に現実はありません。ここは、現実でないのです。が、皆さんも、現実の世界であったとしても、真実でない世界に身を置いていないでしょうか。
 現実を見てから視神経を通って脳にイメージとして残ります。それを再現しようとすると朧げなイメージでしか残らない筈です。一応、神経細胞を通って脳まで届きます。神経細胞を通ったものと、電波や回線や光ケーブルを通った信号と何の違いがあるのでしょう。その中に真実が通るのでしょうか。
 この目の前の架空の世界。Mの想像した架空の世界。鏡に映るような左右が逆の世界。モニターに映るような場面。この文章の中のような男女が逆に語るような情況。
 神経や脳細胞や電気信号や電波の中を通ったものに現実があると信じられますか。勿論、架空の登場人物の私は現実にいません。でも、絶対に私はいないと断言できますか。
 現実にいないからと言って架空の世界なのでしょうか。頭の中には脳細胞があり、そこの中で発せられたイメージを真実だと思い込もうとしていませんか。危うい信念で動いている人間達から、同じ人間であるあなたに向かって、強固なイメージ造りを強いられていませんか。あなたはそんなあやふやな人間の神経を通ったイメージを正当なものと信じるのでしょうか。ここの架空の世界の中のことと同じように、あやふななままのものを、です。
 目の前に私がいます。鏡の中には私がいます。Mがいます。いつもMに語っている私の彼氏がいます。私がMに語ったイメージから造り上げた、お父さんがいます。お母さんが、おじいちゃんが、おばあちゃんがいます。みんな私が語るMのイメージの中にいます。目の前の朧げな男女の蠢きは、私と彼氏かもしれないし、私とMかもしれません。もしかしたら、その人は以前に関係した不特定多数の一人かもしれません。私の相手は誰とは特定できないでいます。