目の前にはモノクロのコピーが二枚あった。その二枚はグラビア・ページからコピーされたものだった。二枚のコピーに写ったその人物は、同じような位置から撮影されたようであるが、それぞれの立ち姿が違っていた。
 一枚のコピーは図書館から借りてきた昭和文学全集からのものだった。昭和文学全集の各巻の末尾に作家ごとの解説欄があった。その解説欄のグラビア・ページからコピーした。二枚のコピーに写った人物は作家だった。次のページの解説欄は堀辰雄だった。総てがそうではないが殆どは作家の生まれた順番に作品群が並べてあった。
 コピーにはその作家自身がポーズをとっている姿があった。手には箒の柄の部分が握られていた。箒の先は地面に置かれていた。おそらくは自分の記念碑の周りを掃除した後で写真に収まったのだろう。
 昭和文学全集のグラビア・ページに収まったその作家は、自分を意識してか、真っ直ぐカメラの方を向いていた。撮影されることを意識している視線がカメラに向けられていた。
 別のコピーがもう一枚あった。
 もう一枚は古本売買の全国チェーン店の「ブック・オフ」で買った作品集からコピーしたものだった。その作家は同じ場所にいたであろうが、全く違うポーズだった。そのコピーにも自分の記念碑を掃除した後らしいその作家が一人で写っていた。
 「ブック・オフ」で買った作品集からコピーした方の立ち姿は違っていた。ポーズを全くとっていなくて、箒を肩に担いでその場から離れようとしている姿だった。本人が意識していないような感じで、記録写真として撮られたように見えるのだ。
 その作家が何気なく普段通りに家を出てきたとしよう。日課にしている自分の記念碑の掃除をした後でカメラマンと遭遇した。何も聞いてないのにいきなり無遠慮にカメラを向けられたのかもしれない。
 カメラマンの行為を無視してその場を離れようとしたのかもしれない。何枚かの写真を撮るつもりでいたカメラマンは肩すかしを食った感じだったのだろうか。通り過ぎて行こうとするその作家の箒を肩に担いでいる姿を撮影したのかもしれない。
 または、正式に正面からの立ち姿を撮った後だったのかもしれない。単にカメラのフィルムが余っていたので、日常生活で過ごしている様子を撮ってみたのだろうか。箒を担いだ姿を撮ったカメラマンの意図が分からない。それとも、何かの意図を持っている、その作家の指示があったのだろうか。
 ドキュメンタリータッチの撮影を目的として、意識して撮らせた写真であるかもしれない。八mm映写機が登場した頃だ。芥川龍之介が被写体になった映像をぼくはテレビ番組の中で見たことがある。
 その作家は芥川とも親交があった。その作家は遊び心を持っていたのかもしれない。八mm映写機の被写体となるのが無理なら、そんな日常の動的なポーズの撮影を提案してみた可能性がある。
 以上、ぼくの述べたことは推測の域を出ない。真相は分からない。その作家が箒を担いで歩いている姿は、他の作家が本に囲まれた書斎の前で、意識して自分を知的に見せようとしているのとは全く違っていて、印象的だった。
 図書館で借りた昭和文学全集は手元にない。どこの出版社だったのだろう。たぶん、全集を出すとなると大手の出版社だろう。次に図書館に行った時に確認してみよう。
 その作家を撮った写真の出所が一緒の出版社だとする。すると、同じ日の写真を使い回ししたのかもしれない。見方によっては印象的な日常の姿だし、違う構図の姿として適当にグラビアに入れたのかもしれない。同じ日に撮影されたものだったのかもしれないし、別の日であったかもしれない。
 さて、前置きが長くなった。なぜ、グラビア・ページからのコピーが二枚あるのかを説明しよう。
 今年の夏にぼくが加入している同人誌の連中で旅行に行ってきた。旅行が終わった後、資料をしまおうとして、中からその二枚のコピーが出てきたのだった。
 そのコピーには思い入れがある。その作家の二つのグラビアの中の姿を見たのが動機となり、軽井沢に行って来たことになるからだ。
 単なる慰安旅行かもしれないが、文芸同人誌の仲間たちと毎年の恒例行事で、夏季研修旅行と銘打って、文学に関連した施設や場所を訪れることにしている。
 同人誌の数人で群馬県内の美術館や文学館を見て回った。同じ群馬県内の温泉地に宿泊した。源泉から温泉を引いてはいたが小さな内風呂に注がれているだけだった。温泉旅館というよりは民宿に近かった。
 女将が一人でてきぱきと切り盛りしていた。大勢の客がいたら一人だけでは応対できなかっただろうと思われた。その旅館は同人たちだけの貸し切りになってしまった。
 同人らとその小さな民宿風の旅館に泊まった翌日は富山に帰ることになっていた。富山に戻る途中の行程で軽井沢に寄る予定になっていた。
 同人誌の連中の殆どは富山県の在住者が占めていた。近県の金沢市内に点在する各文学館へは同人は各自でそれぞれ行ったことはある筈だった。
 ぼく自身も金沢にあるその作家の記念館へ行ったことはあった。ただ、同じ名称で二つあるうちの一つである軽井沢の方の記念館は行ったことがなかった。他の同人も同じだった。
 旅行プランを立てている時に軽井沢にあるその作家の記念館と記念碑のことが頭に浮かんだ。昭和文学全集の解説欄のグラビア・ページのことを思い出した。自分の記念碑の前に立つその作家の姿が記憶に甦った。
 その作家名の詩の方の賞は以前からあった。最近、その作家名で、大手新聞社の高岡支社が主催して、小説部門の文学賞を設立した。
 ぼくはその作家名の文学賞に応募してみようと考えていた。応募するならその作家の作品くらいは読まなければと思ったのだ。
 そこで、近くの図書館で昭和文学全集を借りてその作家の小説を読んだ。昭和文学全集のグラビア・ページにその作家が写っていた。だから、その作家の姿がぼくの記憶に残っていたのだ。
 同人誌の旅行に行く前のことだ。せっかく関連した記念館に行くのだから、作者や作品のことを調べたいと思った。その時に昭和文学全集の解説欄に載っていたその作家の姿のことを思い出した。
 その作家が自分で建てた記念碑は軽井沢に一つしかないことに気づいた。地元は金沢なのにその作家が自分で建てた記念碑が軽井沢にしかないということは気になるところだ。
 なぜ、地元の金沢に自分で建てた文学碑がないのだろう。地元なら自分が死んだ後でも建ててくれるという自信があったのだろうか。
 そこで、ぼくは近くの図書館に出向いた。図書館で再び昭和文学全集を手にした。
 旅行で軽井沢に行く時、解説欄に載ったモノクロのグラビア・ページも参考になると思って図書館でコピーした。それが二枚の内の一枚だった。
 もう一枚のコピーのことも述べよう。
 ある時、読み終えて溜まった本が多くなり過ぎて部屋の中の本棚に置けなくなった。そこで、廊下にも本棚を置いた。その頃、「ブック・オフ」で一冊百円で買ったその作家の作品集を廊下の本棚の中に入れた。
 値段に関係なく知名度の高い作者の作品はそのうち読まなければならないと思っていた。例え、一冊百円であったとしても読もうと決めて買った本は読みたかった。
 「ブック・オフ」で前から知っている作家としてちょうど目に入った。ハードカバーや装幀が全く同じなので作品集はシリーズ物なのだろう。隣に並んだ徳田秋声作品集と一緒に二冊買った。
 そのうちに読もうと思い、一時的なつもりで廊下の本棚に二冊の作品集を置いたままにしていたのがいけなかった。そのままその作品集を読むのを忘れてしまった。部屋の中の本棚なら、その本を目にしたかもしれない。廊下の本棚に入れたままにしておいた。そのうち、その作家の作品集があることを忘れていた。
 ぼくは自費で買った本は必ず読む。ぼくはケチである。物は大切にする。金を出して買った物は最大限に有効に使い切りたいと思っている。だから、物はなかなか捨てられない。処分すべき書籍や電気製品が溜まる一方だ。
 買った本も一緒だ。身銭を切って買った本は貧乏性な性格だから必ず読む。仕事では辛い時もある。仕事が楽だと感じることもたまにあるが、それでも、仕事場では時間に拘束され、我慢しながら過ごしている。
 辛抱して稼いで苦労して残した金だ。やはり、書店で金を出して買った本は読み切りたいと思う。とても、つんどくにはできないのだ。
 だからといって、一冊百円の本を軽んじているつもりはない。図書館に行った時に興味を持った本が目に入ったとしよう。読もうという志を強く持って借りた本はたいてい読了する。例え、「ブック・オフ」で一冊百円だったとしても、読もうと決めて買ったのだから、読み終えていた筈だ。
 廊下の本棚に入れてしまい、そのうちに目にしなくなり忘れてしまったのだ。それでその作家の作品を読む機会を失っていた。
 夏の同人誌の旅行に行く少し前頃だった。廊下を通った時、掃除をしていない本棚の綿埃が目に入った。ウェットティッシュでその大きめな埃を拭おうとして、ふと本棚を見た。その時、忘れてしまっていたその作家の作品集を目にした。
 以前「ブック・オフ」で買ったその作家の作品集を見つけたのだった。その作家の作品集が自宅の廊下の本棚に置いてあった。図書館で昭和文学全集を借りて読んでからしばらく経った後だった。
 文学賞の応募を考えていた時、図書館でわざわざ借りなくても、その作家の作品集が、自宅にあったのだ。偶然、その作品集を見つけた。今考えると必然のような見つかり方だった。
 その作品集の解説欄のグラビア・ページにその作家の姿が載っていた。旅行資料用にと、巻末の解説欄に載っている、その作家の姿をコピーしておいた。コピーには箒を担いだ姿があった。
 図書館で昭和文学全集を借りたが、手間が掛かり時間を無駄にしたと言うつもりはない。いつも図書館に行っている。一週間に最低一日は図書館に行っている。いつも学習席か読書席で書き物をしたり本を読んだりしている。
 家の自室はリラックスする場所になっている。大きなテーブルを構えた、別の部屋を持っているが、書斎ではなくなり、パソコンルームと化している。家の自室では気が入らないのだ。
 部屋を掃除するのは半年に一度程度だ。片づけも全然なってない。ぼくは身の回りのをきちんとしない不精な性格だ。それで、自宅は読み書きをする場所ではないと思い込んでいるだけなのかもしれない。
 去年の同人誌の夏季研修旅行で、ある作家の文学館に行ってきた。その文学館内に作家を写した写真があった。その写真を見て感動した。作家の周りには書き損じた原稿用紙が捨てられ、どんどん周りに溜まって、ゴミの山の中で執筆している写真だった。
 その写真を見た漫画家が、漫画の登場人物のモデルにしたと、解説文に書かれていた。その写真に写った作家の、ゴミに囲まれても集中して書いている姿があった。
 ある女流作家を取り上げたテレビのドキュメント番組を見たことがある。普段の執筆場所は横積みの本の間の小さいテーブルだった。エッセイを書いている途中でも携帯電話で編集者と打ち合わせをしている。多数のテレビ番組に出演している。夜になると取材を兼ねて他分野の人達との飲み会にも頻繁に出席する。子育てもしている。
 同時に多くの小説も書いている。有名な文学賞の選考委員でもある。書くだけで生活が成り立っている作家は、日本に五十人しかいないと、その女流作家は言っていた。そんな中に自分もいるという自負があるのだろう。しかも、全力で奮闘し続けていなければその位置にいられないことをその女流作家は充分認識しているのだった。
 自宅で集中できないからと、ぼくが図書館に行くのは、単に自分の思い込みからくるのだろう。自宅ではいつも誘惑に負けてテレビの娯楽番組ばかりを見ている。克己心が足りないのだ。
 だから、環境を変えるために、自宅から離れて図書館に行く。図書館に行った時に思いつきで誰かの本が読みたいと思えばいつでも借りられる。ただ、本を借りたことは滅多にない。
 本を借りるためだけに図書館を利用したことはあまりない。半年に一回程度は本を借りる。音楽CDを借りるより、本を借りる頻度が低い。ぼくは参考文献を使って書くタイプではないので、資料としての本も借りない。
 図書館はいつも行っている場所なので、ついでに本を借りようと思えばいつでもできる。わざわざ図書館に出掛けるというのではないので、ぼくにとって図書館でその作家の小説本を借りることなど何の負担もなかった。
 自宅にその作家の作品集があった訳だが、図書館で借りた文学全集の中から、短めの作品を何編か読んだ。詳しく分からないが作品の中に時代を超えた普遍性があるように感じた。
 その作家の小説を読むにあたって、本棚に作品集があったのに図書館に借りに行った。自身の記憶力が乏しくなったことにショックを受けてはいない。むしろ、その作家の本がぼくにとっては重要度の低い作家だと思っていたことだ。
 読む前から自分と関係のない作家だと思っていたのだろうか。読んでもいないのに作品の内容を結論付けていたのだろうか。その時代の作品を知ろうとしないでいた。ぼくはそのことを悔いていた。
 ここでは、どうこうと評論はできない。分かったようなことをここで書いたとしても、多作の作家に対しては、一部を読んだからと言って、その作者がどんな傾向の作品を書くかとか、一概には述べられるものではないだろう。
 軽井沢にその作家が執筆の拠点としていた別荘があった。東京にも自宅があったが、軽井沢に住んでいる時期も長かった。想像であるが夏は避暑地として環境的に優れていたし、冬はどこにも行けない不便な場所であるからこそ、執筆に専念できたのではないかと思う。
 妻と自身の骨を、地元の金沢にある墓と、軽井沢の記念碑の二つに、分骨して納骨しているらしい。その作家の遺言でそうなったらしい。
 その作家は生きているうちに自分の記念碑を作った。作家としては、生きている間に全作品集ができたとしたら、発刊そのものが自分の墓を生前に建てたようなものだろう。自分の記念碑や墓を生前のうちに作るのと一緒のことだろう。
 詩の方のジャンルで、その作家は、生きている間に、自分の名を冠した文学賞を、自身で設立した。後世まで自分の名前を残したいという願望もあったのだろう。そして、別荘前の自分の記念碑を見ることによって、後世に名を残し、いつまでも石碑を見に来てくれる作家になりたいと、願いながら執筆していたのかもしれない。
 自分の石碑を見るたびに作品を創作する励みにしたのかもしれない。さらに、自分の名前を冠した文学賞に値する作家になろうとする気構えもあったのだろう。
 いろんな考えがぼくの頭の中で交錯した。そこで、実際に軽井沢に行って記念碑を見てみたいと思ったのだ。その頃、同人誌の旅行は、群馬方面に行くことが決定していた。毎年、ぼくが車の運転手役だ。ぼくは追加の訪問地に軽井沢を加えることにした。
 昭和文学全集の解説欄に載ったその作家の姿は、まだ写りが良かった。作品集の方に載った姿は、安価なインクジェットプリンターを使用して印刷した紙面より、画質が劣っていた。まるで点描で描いたように写りの悪いその作家の姿がグラビア・ページに掲載されていた。元々のグラビア印刷が悪いのだろう。
 猫と一緒に火鉢に当たっている有名な写真を見たことがある。そこに写った人物と同じく、丸眼鏡を掛け、鼻が高く、ぎょろ目で、河童のような顔立ちだった。
 結果的には軽井沢に行ってきたことで分かったこともある。切っ掛けがないといろいろなことを調べられないということだ。

 机の上にその作家が写ったグラビアのコピーを置いて眺めていた。
 ぼくはコピーの中の人物に話し掛けてみた。
「あなたが、誰もが知っている小説家の方ですね?」
「そうだが、君は誰かね」
「ぼくはあなたを見ている者です」
「私を見ているとは?」
「つまり、あなたが写った写真のようなものを見ていると言いますか、写真を元にしたグラビアのコピーを見ています」
「言っていることが良く分からんな」
「分からなくて良いのです。私の想像した中の登場人物とでも言っていいのでしょうか……」
「ますます、分からんのう。ところで君は私を撮影に来たのかい」
「いいえ、違います。そのことを説明しているともっと訳が分からなくなります」
 ぼくはその点描のようにぶつぶつとした人物のコピーをじっと見つめていた。じっと見つめていると、ほわりとそのモノクロの世界に覆われてしまった。
 状況からして、ぼくはコピーの中に吸い込まれたのではないみたいだ。覆い被さってきたような感じなのだ。ぼくの部屋の中を見渡してみた。それぞれ、部屋の中に置かれた物の位置はそのままだった。
 テレビのような平面を見ているのではなく部屋の中で最新型スリーDプロジェクターで投影された立体画像を見ているような感じなのだ。ぼくの目の前に遠い昔の軽井沢の一場面が現れた。ぼくの部屋の白いカーテンの前に、その人物の立ち姿と近景が現れた。
 背面は石垣のようだ。その後ろに山の斜面があって石垣が段になって見えた。やや丸みが残っている石が段になって三列に均等に並んでいた。
 石の二、三個分ほどの幅の分をとった中に平べったい石版が嵌め込まれていた。石版には縦書きにきちんとした文字が均等に刻まれていた。
 その人物は石版の前に立っていた。
 その場所の地面は土のままのように見えた。広場か通り道のようにも見えた。投影された映像の画質が悪いために立っている足元の判別が難しい。見る限りでは土の上には葉っぱが一枚も落ちていないようであった。
 住まいを作るための平らな土地の確保が必要だったのだろう。小山の裾を削ったような感じなのだ。後ろ側の山の斜面に雑木林が見えた。
「ところで、君が見ている私の姿で勘違いしていることがある」
「何でしょうか?」
「写真を撮られた時は杖を手にしていた。箒は持っていなかった。後でも写真を撮られた。その時は通りの広場を掃除した後だった。箒を手にしていたかもしれないが、箒を肩に担いではいなかった」
「あっ、そうでしたか?」
 箒を持っている姿が印象的だった。余りにも印象的だったのでもう一枚の方のコピーの立ち姿を勘違いして記憶したのかもしれない。
 目の前のコピーを確かめてみようと机の上を見た。机の上のコピーは消えていた。元に戻した覚えはないのだが……。
 もしかしたらと思い本棚を見た。
 今年の夏に同人誌仲間で行った時の、旅行行程表と一緒に綴った、資料ファイルが部屋の本棚にしまってあった。そのファイルを開いてみた。
 二枚のコピーはファイルの中にあった。そのうちの一枚のコピーを見てみた。一枚のコピーにはその作家が前をじっと見つめている立ち姿があった。手には確かに杖が握られていた。両手を杖に置き、身体を支えるようにして立っていた。もう一枚のコピーは、箒を手に持ち引きずるようにして、横向きに歩いていた。箒は肩に担いではいなかった。
「すみません。ぼくの勘違いでした」
「分かればいいのだ。しかし、君の場合、一時が万事そうだな」
「と、言いますと?」
「君は努力をしていると自分では言ってはいる。だが、努力していると自分で勝手に思い込んでいるだけじゃ。実際に行っていることは違っているのではないのかな」
「そうでしょうか。ぼくのどこが至らないのでしょうか?」
「そのコピーとか言うものは何かしらないが、私の姿が写った写真のようなものなのだろう。それならなぜ、しっかり見て確認して書かなかったのかね。君は面倒臭がりなだけなのだ。どこが努力をしていることになるかね。事実を立証する記録が残っているとしよう。それを正確に確認しようとしない君に問題がある。一時が万事と言ったことはそういうことなのだ」
「確かにおっしゃることは当たっているかもしれません。最近は書くことにも限界を感じてきました。書けるから書いているという感じなのです。同じようなものを何度も書いていると指摘されます。同じようなものを構成だけを変えて、ただ垂れ流しのように書いている気がします。ぼくは資料は一切活用しない。想像だけで書けると皆に言ってました。それと、読むより書く方が楽だともうそぶいてもいました。才能とは努力をし続けられることだと思っていました。間断なく書き続けているので、自分は努力をしているものと思い込んでいただけなのかもしれません。努力するのは当たり前のことで、書くことは容易だと軽々しく口にするものではないのかもしれません。実のところ読むのは面倒なだけでした。先人が心血を注いで書いた傑作を、読もうともしていませんでした」
「分かってきたのかもしれないが、まだまだだのう。作品を創ろうとした時に資料集めをしたり自分で取材に出掛けてみたのかい。その調子なら何もしていないのだな」
「おっしゃる通りです。間違いありません。同人誌の連中と行ってきた軽井沢の現場は確かにこれを書くのに役立ちました。それが取材をするということなのですね。今後はもっと力を入れた姿勢で臨みます」
「君には必死さがない。大成することはないだろう。私が断言する。必死さがあれば、自分から事を起こすものじゃ。才能があって、しかも努力を重ねていても、一流の作家としては認められないことがある。一発屋でも革新的なものを残した作家はいるだろう。それでも、一部の学者や作家から認められる位のものだ。優れたものを書き残したとしても寡作の作家は世間から認められないのじゃ。幾つもの賞を取って初めて世間に認められるのじゃ。君は野心を持っているのかね。だとしたら、死んでから認められたいのかね、生きてるうちに認められたいかね」
「両方です」
「何度も言うが、無理だ。同人誌のような仲間うちだけの者たちに読ませて満足しているだけでは進歩がない」
「返す言葉がありません」
「君は私の写真の出所に疑問を持っていた。良く確認してみたまえ。私を撮ったのは確か出版社の写真部だった筈じゃ。私の姿が写ったそのコピーというものの下に提供元が印刷してあるじゃろう」
 ぼくはコピーを再度見て確認した。
「ああ、そうです。その通りでした。どうも、ご指摘ありがとうございます」
「そんなところが私の言った君の駄目さ加減なのだ。もう、これで書くことはやめてしまいなさい」
「そんな……。ぼくから書くことを取り上げないでください」
「まあ、自慰的にやっていると自覚している分には、勝手じゃがの。ところで君の名前はなんて言うのかね」
「Mです」
 目の前は白いカーテンが見えるだけとなった。
 横の板壁の方を見ると32型の液晶テレビはそのまま置かれていた。
 同人誌の旅行の資料ファイルを元に戻そうと、ふと本棚を見た。置いた記憶がないのにその本はあった。少し前に登場したその人物が書いたであろう小説の作品集があった。

 軽井沢では記念館の場所は分かりにくかった。
 同人誌仲間と旅行に出掛ける前日にホームページを見てみた。案内は軽井沢町の観光課のホームページにしか載っていなかった。
 記念館に人がいないから電話も設置されていないということなのだろう。カーナビに電話番号を入力して、ルート案内をセッティングすると、軽井沢町役場に行ってしまう。カーナビで、電話番号を入れて検索ができないだろうから、探すのが困難だろうと思われた。だから、事前にインターネットで場所を探しておいた。
 それでも、軽井沢の現地に行ってみると、記念館を見つけるまで苦労した。
 カーナビでは電話番号で探せないのは分かっていたので施設名で検索してみた。駄目だった。カーナビの地図には登録されていない記念館なので、検索すると、当地から遥か遠方の、金沢の記念館の地図が出てきた。
 実際に軽井沢に行ってみると勝手が違った。大体の案内図をホームページから印刷しておいた。旅行案内本の付録の地図も用意していた。しかし、それらは役に立たなかった。
 同人誌の代表が助手席でフォローしてくれた。結局は地元の人に聞くしかなかった。向かう方向は分かった。地図上で分かりやすく、最短で行くには、歩行者天国になっている通りを行くしかなかった。
 夏の観光客シーズンなので、繁華な通りは車両の通行止めになっていた。歩行者が多く歩いている石畳の歩行者天国の通りを、強引に無理やり通って行くしかなかった。ここら辺かなと近づいてからでも記念館の在り処は分からなかった。
 旧軽井沢の別荘地のある辺りは、一台分の車がやっと通るような道路しかなかった。ここら辺かなと思う道路を走った。車が通れなくて歩くしかないような道になった。すれ違いが出来る道路まで車を移動させて停めておいた。歩いて行くしかなかった。後は感を頼りに行くしかなかった。
 地元の人なら車での行き方や抜け道などは分かっているだろう。そのことは目的地に着いてから分かったことだ。慣れていない観光地では歩いて行くのが確実だ。歩いて行ったからこそ、小さな案内板が見えた。細い道を歩いて行くと、やっとのことで記念館に着いた。予想外に時間が掛かった。
 細い道を挟んで反対方向の建物の敷地に車が置いてあった。どうして車が入ったのかと不思議に思えた。反対方向に車一台やっと通れるような道が、どこかの別荘の脇の方に伸びていた。
 実際に軽井沢の記念館に行った時は二棟の建物があった。来客用に別に建てたらしい二棟目の建物はだいぶ時が経った戦後にでも建てたのだろう。二棟の建物の前は苔むした庭になっていた。グラビアのコピーを見ると石碑の前には何もなく、土の道だった筈だ。
 記念館は別荘だった建物を公開しているだけだった。軽井沢町の町職員が対応していた。作家の住んでいた別荘を記念館と称していた。その日は日曜日だった。記念館を案内をしてくれたのは軽井沢町役場の観光課の職員だった。観光客の少ない平日に代休をもらうのだろうか。
 その観光課職員が説明してくれたところによれば、元々は別荘横の山裾に石碑はあったそうだ。別荘横にあった石碑は移設したらしい。町職員の案内係は石碑が元々あった箇所を示してくれた。
 石碑は二棟の別荘の間にあったらしい。石垣もなかった。ただ、山の登り道を遮断したような塀があるだけだった。コピーに写っていた石碑は、二棟目の別荘を建てる時に、目立たなくなってしまうので、別の場所に移したのだろうか。
 旅行の時の昼食場所は決めてなかった。同人誌の連中の平均年齢は高いので、こってりとした食べ物は合わない。前日の晩は御馳走を腹一杯食べている。翌日の朝食も普段以上に食べている。だから、いつも富山に戻る前の最後の昼食は軽い食事の蕎麦となってしまう。
 しかし、その年の夏はサプライズの意味をもあってピザ店に行くつもりでいた。他の同人にはピザ店に行くと言ってなかった。軽井沢では有名なピザ店らしかった。前もって予約は必要だろうが記念館を捜すのに時間を取られて余裕がなかった。
 昼の十二時半頃になっていた。そこのピザ店は見つけにくい場所にあった。観光シーズンだがもしかしたら席が空いているかもしれないと思った。電話を掛けてみた。空席がなかった。時間もなかった。不測の事態を想定して他のレストランを調べていなかったのは失敗だった。
 ぼくは同人誌の代表にぼくが行きたかった店の予約が取れなかったことを伝えた。そこがピザの店だと言わなかった。町の職員はぼくらのやり取りを聞いていてピザ店の名前を言い当てたのには驚いた。軽井沢では予約なしでは食べられない店で通っているのだろうか。
 ぼくはそのピザ店に、ある若い女と行ってきたことがあった。だから、同人誌の旅行でも行ってみることにしたのだ。そこのピザ店は隠れ家みたいになっていて、分からないような所にあった。
 彼女と行った時は通りに幟もなく、さらにピザ店の看板さえもなかった。しかも、入口は通りに面していなかった。一見のお客を拒んでいるようなたたずまいなのだ。別荘に住む有名人やアーティスト達が利用する店らしい。
 彼女と軽井沢に寄ったのはその年の三月だった。温泉地からの帰りに特に行く所を決めてなかった。彼女が東京に帰る時に使う新幹線の駅があるので、軽井沢駅近くのアウトレットモールに寄った。
 JRの新幹線軽井沢駅南口辺りに、アウトレットモールができてからは、オールシーズンで人が来るらしい。駐車場には長野ナンバー以外の車が多かった。高速道路を使って都市部からも近隣の地域からも多くの人が来ていて賑わっていた。
 アウトレットモールを出た後、彼女と旧軽井沢地区に行った。昼食が目的だった。当初は旧軽井沢の方に行くつもりもなかった。ぼくとしては昼食先はどこでも構わなかった。アウトレットモール内にも、周辺辺りにも、多種多様な飲食店があった。
 旧軽井沢の市街地はゴーストタウンのようだった。殆どの店は休業していた。オーナーは地元の人ではない人が多いかもしれない。厳しい寒さを凌いで都会に戻っているような感じだ。
 旧軽井沢の冬は商売に適さないだろうと思う。店員を雇っているだけでも経費が掛かるので、休業して冬の間は店を閉めているのが普通なのだろう。
 それでも、十店に一店位は店が開いていた。個人で経営する、アクセサリーなどの装飾品を取り扱う店の中が工房を兼ねていた。客は夏に集中するかもしれないが商品の制作は年間を通して行っているみたいだった。
 そのピザ店は冬の期間にどうして経営が成り立っているだろうか。不思議だった。ちょうど、その時は三月の下旬の日曜日だった。
 ぼくが行った時は、会話の様子から地元の画家達が集まっているみたいだった。会合を兼ねたランチパーティを行っていたのかもしれない。権威のある人がいるみたいで「先生」という言葉が聞こえた。
 軽井沢の冬は寒くても創作活動には都合がいいのかもしれない。用事があれば新幹線を使えば都心に直ぐに行ける。便利な立地であるかもしれない。
 とにかくそこのピザ店は味の評価が高いらしい。だから、地元の人だけを相手にしていても成り立つのだろう。ただ、彼女のようにスマートフォンを使いこなせられればそんな店もたやすく見つけられるのだ。
 スマートフォンで店を検索する。次にその店のレビューを見るのだ。店の味とか雰囲気とかが載っている。評価の高い店に行くのだ。初めて行く時にはその方法が効率的なのか、彼女はいつもスマートフォンを利用している。
 そこのピザ店のある場所は、スマートフォンの地図情報登録が不完全で、着くまで分かりにくかった。カーナビでも分かりにくかったし、結局は何度か電話で問い合わせ、店の位置を確認して、何とかたどり着いた。
 彼女は食に関しては貪欲だ。たぶん、探しにくい欠点も店の評価欄に書いてあっただろう。だから、困難を覚悟して行ったのだ。諦めることはできなかったのだ。ぼくが記念館を探すのと一緒だった。
 彼女が気に入った店なら間違いはないのだ。彼女が実家に戻って来た時のことだ。一緒に食事を取るために地元の鮮魚料理店に入った。極めて鮮度が高くなければ食せない、ノドグロの刺身ができるのかを、板前さんに問いかけていた。彼女はグルメレポーター並の舌を持っている。
 昼食には遅い時間帯で、オーダーストップになる直前の、一時半頃にそのピザ店に入った。彼女は美味しそうにビールを飲んでいた。ピザそのものは都会の有名店以上の味がした。
 そんないきさつから、夏の同人誌の旅行でそのピザ店へ行くことにしていたのだ。夏の観光シーズンの、予約の取れないピザ店のことを考えてみた。ぼくは行ったことがあったのでそこのピザ店の大体の場所は分かっていた。だが、店の看板もなく、入り口が通りに面していないピザ店が、どうして観光客に分かってしまうのだろうと思った。
 軽井沢は避暑地だ。有名人の別荘もある。夏の盛りの日曜日だ。別荘からやって来る金持ちも多いのだろう。軽井沢のピザ店は冬でも経営が成り立っているみたいだった。軽井沢のホテルには、世界的な賞を獲得したシェフがいる位だ。だから、予約が取れなくても不思議なことではないかもしれない。
 リピーターも多いのだろう。地元の人でなくて、たまに軽井沢を通過する近県の人々もいるだろう。そして、観光に来た若者だったら人気のある店をスマートフォンで捜す位はわけがないことだろう。
 記念館から離れる時、予定時間より遅くなった。新たに昼食場所を探す時間もなかった。記念館には行けた。しかし、ピザ店に行けなくなった。昼食の場所をどうするか迷った。今年も蕎麦屋で昼食を取るしかないと思った。
 その時、記念館の前にレストランが見えた。昔からの由緒ある別荘を改装したらしいレストランがあった。地元の富裕層が利用するような感じのレストランだった。記念館も分かり難かったが、そのレストランも遠くから来た観光客には分かりづらい場所となるだろう。
 そのレストランも主に地元の利用客を相手にしている感じだった。記念館の前のレストランに入った。旧軽井沢の中心市街地の通りから、少しはなれた木立の中の静寂の中にあり、雰囲気が良かった。結果的にはそこのレストランに入って正解だった。
 そして、軽井沢を出て富山までの帰路についた。最近のカーナビは、渋滞回避だけでなく、高速料金と到着時間を、自動で比較計算して、割安で最適なルートを捜す。カーナビから碓氷軽井沢インターではなくて小諸インターまで国道を通るように指示されたのでその通りに運転した。
 高速道路ではなくて国道を通った。同人誌の連中を乗せて車を運転していて思い出してきた。以前通った道路だった。彼女と一緒に来た時は冬が終わろうとしていた頃だった。同人誌の連中と行った時は真夏に季節が変わっていた。
 軽井沢から三十分以上経過していた。国道沿いの木立の中に、ラブホテルが点在している地域だった。ラブホテルの看板は興味のない人には目に入らないのだろう。ぼくには見覚えのある木立がなつかしかった。
 高原の広葉樹の葉は見方によっては夏の強い光を浴びて緑が濃く映える。記念館の前の鬱蒼とした丈の長い苔の深い緑と似ていた。樹木を覆う葉は滑らかな曲線を描いている。丈の長い苔の塊とイメージが重なるのだ。
 車の運転をしながらも、ラブホテルのあった辺りが気になった。国道脇の木立に隠れてラブホテルは見えなかった。車の運転をしながら進行方向の右側を向いた。そこら辺りに彼女と過ごしたラブホテルがあった筈だと思った。見えないが意識の中に迫ってくるものがあった。