控室に男がいる。
 部屋の中には丸椅子や簡易テーブルが置いてある。一時的に物を置ける場所にもなる、多目的に使用できる部屋だ。男は衣装ではなくて普段着に近い。部屋の中には姿見もある。人手がないから、姿見で服装の乱れがないかを自分でチェックするしかない。
 翌日が公演日だ。アマチュア劇団だから、団員がそれぞれ仕事を持っている。集合しての練習時間がない。各自が時間をつくって台詞を覚えてくる。舞台での通し稽古は最初で最後だ。舞台といっても、小さなホール内でのものだ。高さが20センチのポータブルステージをいくつか繋いだ仮設舞台だ。
 他に配役が二人いる。今は舞台上にいて、台詞回しを確認している。控室で待機している男は、台詞回しのリハーサルを終えたところだ。
 舞台にいる他の二人は仕事が忙しい。台本の暗記がうまくできただろうかと、男は控室で心配そうにノートパソコンの画面を見ていた。観客席の後方にハンディ・ビデオカメラが舞台に向けられて置いてある。控室で舞台の様子をモニターできるようになっている。ビデオカメラの近くには、折り畳み椅子に座った演出担当がいる。配役の台詞回しと舞台全体の仕上がりを見ているはずだ。画面で舞台の状態を見た。男は次の出番まで少し間がありそうだと判断する。
 控室で待機している男が一番余裕がありそうだった。劇団を代表して簡単な舞台挨拶を頼まれていた。その挨拶の部分も演出に入っていると告げられていた。男には唐突だった。男は舞台挨拶を考えていた。
  さらに演出として、男には朗読シーンが入ると言われていた。原稿を見ながらでいいから、朗読役をしてほしいと指示されていた。原稿を読むだけなら、簡単だろうと男は思っていた。どっちかというと、メモを見ないで喋る冒頭の挨拶を気にしていた。
 男は舞台経験が少ない。人前でのスピーチも苦手だと思い込んでいる。舞台上での挨拶中に変な動きが身体に出ないように気をつけたかった。部屋にある姿見の前に立った。男は鏡を見て練習をしてみようと考えた。
「こんな風に喋ることになるのかな?
『皆さん、こんにちは。成り行きでぼくが冒頭の挨拶をすることになりました。これから劇の始まりです。この舞台では、ぼくも登場人物の一人です。これから始まる劇の中で登場します。それでは、よろしくお願いします。
 この劇は登場人物が少ないです。ぼくを含めて最少人数で登場します。それでは、皆さん、楽しんでいってください』
 簡単だけど、こんなもんでいいかな」
 鏡に向かって独白し続ける。
「ぼくはここで深々と頭を下げて一旦舞台の袖に消えることになっている。ついでだから、もう1回練習しておこう。状況はこうだったな」
 男は舞台ではカウンターチェアに座ることになっている。チェアに座ったまま回転して観客席側を向くことになっている。男は座りながら観客席側に向かったことにして、引き続き姿見を見ながら喋り続ける。
「さて、皆さん。今日は平日の夜です。どうして、ぼくがここにいるかを説明しましょう。ここのマスターはこの後から登場します。今、厨房に入って仕込みをしているところです。ぼくが一人で喋っているところを聞かれても特にまずいことはありません。今の時点ではこの舞台にぼく以外は誰もいないことになっています。今、ぼくは舞台上で一人で喋ることになっています」
 男の服装はそのままで、舞台挨拶に立つ。ジャケットの下は開襟した白シャツだ。
 男はまだ控室にいるところだ。
 テーブルの上には紙の束が重ねられている。男の視線は簡易テーブルの上に向けられた。
 翌日の舞台の通し台本であろうと気づいた。脚本を書いた演出担当が置いていったものだ。何冊かテーブルの上に置いてあった。配役別それぞれの台本がテーブルの上にまとめて置いてある。男の専用台本は渡されていた。当日も持って来ていた。
 配役の進行全体が載った、通しの台本は男も持っていた。そこにある通し台本は事前に男に渡されていたものと同じだった。同じ台本は家に置いてきたままだった。その台本の束が置いてある前で独り言を発する。
「あ、そうだ。追加で朗読するかもしれないって言われたっけ。その原稿はどこだろう。まだ、劇中で朗読をするか決めてないという。もし、読んだとしても、読み慣れないような演出でいいという。追加の朗読用台本がこの中にあるのかな? 敢えて練習することはないと言われたけれど、どんな内容なのだろう。確認のために見てみよう」
 テーブルの上には台本がいくつかある。台本の表紙にはそれぞれの登場人物として、男A、男B、マスターの順に重ねてあった。男が探しても、そこには朗読用の台本がなかった。
 男は他の配役との通し稽古はしていない。男は先ほどまでにリハーサルを終えていた。自分のパートはスムーズにできたと思っている。二人の役柄のリハーサルも終えることだろう。男は控室で待っているところだ。配役各々の語りだけでいいらしい。一人一人が語るだけだから、通し稽古はいらないようなものだと言われていた。
 聞くところによると、今回の劇では配役各人との絡みはないという。順番に配役が喋るだけの形式になっているのだという。
 表紙に通し台本と書かれた、一番厚い紙の束を手に持ち、男は目を通そうとしている。
 姿見の前に立ち、
「これも練習になるかもしれない。時間がくるまで読んでみよう」

────────────────────────── 舞台が目の前にある。観客席側から見て中央から左の方に、スタンド・バーと何脚かのカウンターチェアが配置されている。年月を経た店なので全体的にくすんだ色使いとする。
 舞台の右側の壁を模した前にソファーと大きめなテーブルがある。それ以外は移動しやすいような四人用の小さめなテーブル席で、ジャズ演奏のライブ会場に変更できるようになっている。
 男が一人カウンターの前で背を向けて椅子に座っていた。肘をカウンターにつけているが、手にはグラスはない。舞台にはBGMになるような音量でジャズ音楽が流れている。
 古い店内の構えで、渋い雰囲気がある。カウンターの向こう側にシンク幅分の奥行がある。後ろの棚は、レコードジャケットが出し入れしやすいような高さになって、大量のレコード盤が置かれているように見える。
 舞台上の左部分の背景はCDしか知らない若年世代にもジャズバーとわかるような配置にしてある。カウンターの端には三脚の台座が立てられている。背広を着た黒人が描かれたレコード・ジャケットが台座に置かれている。
 レコード棚の一部にはCDが並んだ一角もある。CD棚の隣にはオーディオ・アンプ、CDプレーヤーなどの機器が整然と並んでいる。カウンター横の通路から見えやすい位置にレコードプレーヤーを置く。
 カウンターの左端には別の男が座っている。冒頭では二人の男がカウンター前に腰掛けている。
 観客側からは右に見える男がAである。東洋人に多い偏平な頭の形をしている。白いものが混じっているが、髪は豊富だ。左端の男をBとする。頭が禿げている。禿頭の髪の毛は両耳あたりしかない。だが、頭の形が良い。賢そうに見える。
 カウンターの内側には最初は誰もいなかった。少し経ってから、左の方の厨房からジャズバーのマスターが現れる。登場してくるマスターの頭にはバンダナが巻かれている。厨房から戻ってきたかのようにカウンター内側のシンクの前に立つ。マスターはスティックで氷を割るような音をたてる。舞台上には三人の男が揃うことになる。
 男Aは観客席を背にして右端のカウンターチェアに座っている。男Aがチェアから身を離して立ち上がる。男Aはジーンズにグレーのコットンジャケットを着ている。男Aが舞台の中央に出てくる。男Aは開口一番こう語る。

●男A
「皆さん、こんにちは。成り行きでぼくが冒頭の挨拶をすることになりました。これからこの劇が始まります。この舞台では、ぼくも登場人物の一人です。これから始まる劇の中で登場します。それでは、よろしくお願いします。
 この劇は登場人物が少ないです。ぼくを含めて少人数が登場します。それでは、皆さん、楽しんでいってください」
 男Aは深々と頭を下げて一旦舞台の袖に消える。
 照明が暗くなり、暗転の効果を狙っている。照明が元の明るさに戻っても舞台背景はそのままだ。男Aがカウンターチェアに座っている。チェアに座ったまま回転して観客席側を向く。男は座りながら観客席側に向かって語る。
「さて、皆さん。今日は平日の夜です。どうして、ぼくがここにいるのかを述べることにしましょう。ここのマスターはこの後で登場します。厨房に入って仕込みをしているところです。これからカウンターに座るもう一人の男もいまは登場していません。今の時点ではこの舞台にぼく以外は誰もいないことになっています。今、ぼくは舞台上で一人で喋ることになっています」
 男Aの服装は最初に登場したときと変わらない。ジャケットの下は開襟した白シャツだ。白髪交じりの頭髪で、瞳の下が腫れぼったい。顔は若々しくなく、年齢としては六十代前後といったところだ。
「ぼくは客としてジャズバーにいることになっています。このジャズバーにはたまにしか来ません。だから、ここのマスターからすれば常連客と言えないかもしれません。ぼくは何か行事があった時にしかここには来ません。年に数回というところでしょうか。常連客というよりは馴染み客と言った方がいいでしょう。いつも終電までのあいだだけここを利用します。
 昔は見栄でジャズを聴いていた頃もあります。今ではジャズはどうしても聴きたい音楽には入りません。短時間で気分が高揚するので、どっちかというとポップスが好きです。自分ではジャズのCDを買うこともなくなりました。FM放送を主に聴きます。何もしなくても聴くことができるからです。和洋問わない現代ポップスもいいけど、たまに耳にする昔のポップスも懐かしいものです。
 ここにはたまにしか来ません。昔のマイルスやコルトレーンの曲も嫌いではありません。今ではしらふでは暗く感じるので、長めの曲は聴けなくなりました。ジャズを聴くのは、この店で酒を飲んでいるときくらいです」
 男Aが一人で喋っている。そのうちに舞台はだんだんと薄暗くなっていく。スポットライトの光が男Aだけを照らす。舞台にあるカウンターには人がいるのかどうかが判別できないほどの暗さになる。
 男Aが引き続き語る。
「今は平日の夜です。ここに来るまでのあいだは雨が降ってました。そんな日は外を行き交う人も少ないのです。通りを歩く人には雨音が寂しさを強調しているように感じることでしょう。こんな日はこの店に来る客も少ないのです。さっきからそこのカウンター席には別の男がいます」
 カウンター席にスポットライトの光が当てられる。そこには別の登場人物がいた。次に登場するのが男Bだ。男Bに照射されていたライトはしばらくすると消えて、舞台全体が明るくなる。
「その人は以前その店に寄った時に顔を見掛けたことがある程度です。その人とはすれ違いになることがあるからです。ぼくは平日の夜が多いのですが、彼は休日の夜にやって来ることが多いかもしれません。常連客なのかもしれません。以前、日曜日の夜に来た時に見掛けました。あまり顔を出さないので、顔を知っている程度でした。その人とは今までは話す機会がなかったのです。今夜はまだ早い時間帯です。
 たまたま、今日その人は一人で来ていたのです。店内には、マスターを含めて男が三人いることになります。
 その人の仲間と連れ立って話している光景を見ました。良く喋る客だなと遠巻きに見ていました。今日はマスターを交えて、彼と話す機会ができました。彼と初めて話をすることになります。それは、店にいる人が少なかったからです。その時は男達だけしか店の中にいなかったことになります。
 最近は自宅で酒を飲まなくなりました。外で会合などがある時は普段飲まない分、多めに酒を飲んでしまいます。ここに来るまでだいぶ飲みました。外で酒を飲むと深酒になることが多いのです。今のところはまだ酩酊してないつもりです。
 ぼくは酒に酔っていたので、人見知りすることもなく、フレンドリーになり、あまり遠慮することがなかったようです。その人とは初対面なのにいろいろ話をしました。
 その人の顔を見た程度だったのですが、たまたま今日はその人と同席することになりました。これから、話をすることになります。この店の近くの地元商店街では地域起こしの代表者をしているらしいのです。人望がありそうです。頭の格好もいいのです。インテリで知識や話題が豊富そうな喋りでした。今まで、この店では遠巻きに見ることがあったので印象にあります。支離滅裂なことを言うぼくと違っていました。その人は酔っているようなのですが、論理的で説得力のある喋り方をしているように見えました。いわゆる論客タイプでしょう。
 まあ、論客とまでいかなくても、良く喋る男がそこのカウンター席にいることにしておきましょう。相手に合わせて話する気配りタイプの男だということにしましょう。良識を持ち合わせていて、ほがらかに喋る男にしておきましょう。
 ぼくはその人に話し掛けました。
『ここでお顔だけお見かけしますね。一人でここに来た時に話し声は聞こえました。いつも数人で来ていますね。近所に住んでおられるみたいですね。近いから、いつでも飲みにこられていいですね』
『私もあなたのお顔は拝見したことがあります。お互いに顔だけは知っているようですが、お話したことはないですね』
『田舎の方にぼくの家があります。電車で帰るので、この店には遅くまでいることがありません』
 と言うように、当たり障りのない会話から始まりました。
 マスターはつまみの注文を受けたのか、調理のために厨房に入っていました。たまたまその人と二人きりで話すことになったのです。その人と話すのが初めてだったので、話題になりそうなことを聞いてみました。
『おたくはいつも地区の仲間らしい人たちと話をしていましたね。ある時は地元の活性化をどうするかとか、どこどこに行ってきたときはこうだったとか、話題は凄く豊富でしたね。細かいことは聞こえませんでしたが、地元商店街で尽力しているみたいですね』
『いやいや、そんなことはありません。誰もやらないので仕方なく動いているだけです。テレビを見ていてもつまらない時にはここに来ます。女房もここに何度も来ています。近くて良く知っている店だから、飲みに出掛けても、ここなら何も言いません。あなたの奥さんは飲みに出たらうるさく言う方ですか?』
『独身だから気楽です。ただ、注意してくれる人間がいないので深酒してしまいます。自制するのも難しいものですね』
 ぼくはそう答えました。
 相手は初めて話す人です。当たり障りのない会話に留めてもいました。
 ぼくは今こうやって話しています。ぼくが今、指さしている舞台は、一応それらしいですが、ベニヤ板にペイントしただけの簡単なものでできています。小さな店内で起こったことです。独り言だけで進行していきます。これからも、大きな進展はないようです」
 
 最初に登場した男Aはそこまで喋った後で、舞台の袖に入る。
 次に舞台に出てきたのは登場人物の男Bである。カウンターチェアの左端の方に腰掛けていた男である。
 その男Bは頭が禿げている。そして、形の良い頭をしている。禿げてはいるが、誰が見ても賢そうな頭の形をしている。正岡子規の横顔の肖像と似た頭の形が、小型になった感じがする。いかにも良質な脳味噌が詰まっていそうに見える。
 冒頭に出てきた男Aは少人数しか登場しないと言った。次に二人目の語り役として男Bが登場する。

●男B
「私が次の登場人物です。服装はというと、御覧のように、水色のポロシャツを着ています。
 ここには時々やって来ます。ジャズが好きというより、近所の商店街の仲間達とわいわい話をしているのが好きです。マスターからはたまに音楽を聴けと言われます。マスターの見立てでは、女の人のお喋りと一緒で喋ることでストレスを発散していると言うのです。そんなふうにしている自覚はありませんが、ほとんどの人が私の話に引き込まれてしまうというのです。
 ジャズを聴いてもらって、客から問われればウンチクを述べたりする。納得してもらえることで、次も安心して聴きに来てもらえる。音楽の解説もマスターの仕事だと言うのです。『お前たちは喋りすぎだ。ここは何の店か知っているのか。いつも喋ってばかりいる。ちゃんとジャズを聴け』と文句をつけられたことがありました。どうして客である私がマスターから叱られなくてはいけないのでしょう。そんな言動もマスターのキャラクターとして成り立っているのです。
 マスターとは共通の趣味である映画のことでは議論することもあります。正直、ジャズには疎い方かもしれません。学生時代にクラシックを聴いていました。曲を聴いて作曲家や曲名は即座に言えます。それだけのことです。感性が乏しいのか、音楽が心地よいと感じたことはあまりありません。やっぱり、喋っている方が好きです。ここに来ても、ついつい仲間と話し込んでしまうのです。
 私は先ほどここにいた男の人と話を交わしました。今までは顔を見た程度です。話を聞いてみるとマスターとその人は一学年違うだけだったのです。ということは、偶然にもカウンター席にいる二人は歳が同じとなります。近しい同年代のメンバーが三人揃ったことになります。
 私とマスター、それに先ほどの男性が、三人して話をします。私はその中のうちの一人の役柄になっています。私の出番は少ないのです。私はもう消えることになっています」

 舞台の袖というより、控室らしい隣の部屋から、次の男が登場する。その男は、やや小柄でややむっくりしている。腕っぷしは強そうだった。禿隠しなのか頭にバンダナを巻いている。黒いTシャツに店のオリジナル文字がプリントされた前掛けをしている。その男がマスターとなる。
 三人目に語る人物がマスター役となる。マスターはカウンターの内側のシンクに立つ。スポットライトの光が当てられる中でマスターは喋り始める。

●マスター
「俺はジャズバーを経営している。地方都市にもジャズ愛好家は多い。経営者の中には楽器の演奏のできる者もいる。昔から同業者は多く、顔見知りばかりだ。経営者連中とは仲がいい。ジャズライブに有名ミュージシャンをどう呼ぶかとか、企画の善し悪しを競い合う良きライバルたちだ。今でも、同業者連中はジャズの生演奏を聴かせるバーやパブ、ライブハウスをやっている。長く続いている店もある。俺の店も長くやっているので、老舗と呼ばれることもある。
 ただ、経営者は高齢化していて、店の名前が残っている程度のところもある。週末くらいしか店を開かなかったり、雇いのマスターに営業を任せたりしている。それらの店は、商売というより、ジャズ好きな客のために、趣味の延長で続けているようなものだ。
 地元の有志だったり、都会から戻ったりした若い世代が、新しい店を出しつつある。新たな店を開いた経営者が、たまにここにやって来る。昔から付き合いのある地元ミュージシャンもいる。時々、この店ではライブもする。ジャズを通じて新しい仲間との交流はできつつある。新旧交代の時期かもしれない。ジャズ好きはいつの時代になってもいるものだ。
 バブルが弾けてから不景気になり、飲みに出てくる客足が少なくなった。経費を抑えるのに、家賃の安いビルを転々としてきた。ずっとひいきにしてくれる客も多い。ただ、不景気が長く続いているせいで、家で飲む者が多くなる傾向にある。まあ客層も高齢化している。外に出るのが億劫になるものだ。そんな気持もわかる。幸い店は暇でも従業員は俺一人だ。客がいれば、時間制限なしで営業できる。
 どちらかというと、深夜の客の方が安定している。深夜は飲み屋の店主が飲食をしていく。音楽を聴いていくというより、話をしていく。深夜2時でもお客がいれば営業時間を延長する。それが、一人で店をやりくりするメリットでもある。
 時々、ジャズライブを行うジャズバーとして商売を始めた。直前に三十周年記念パーティをやった。場所を変えて3カ所目だ。店の前には音楽居酒屋「ブルース・トレイン」という看板が置いてある。
 客が少ない日もたまにある。長く営業してきた中で、客入りが極端に少ない日もあった。そんな時は翌日の仕入れ資金にも事欠くことがあった。そんな状況で、今までよく店が持ったものだ。それでも、週末は客が多い。客の来ない日はないのだが、平日の時間帯によっては客が閑散としている。時には一人も来ない時間帯もある。天候の悪い平日の夜は特に客の入りが悪い。
 今晩は雨だ。客の出が悪そうだ。
 今のところは客は二人しかいない。カウンターにいる二人の接点は特にない。酒を飲みながら、一人でジャズを聴きたいという客も中にはいる。仕事なのか、家庭でのことなのかはわからないが、何か考えごとをしている。直ぐに出ないかもしれないが、自分なりに結論を導こうとしているのだ。そんな時は一人でいたいものだ。俺は接客業として業歴が長い。そんな客は見れば直ぐわかる。場合によっては客に話し掛けないようにする。一人で飲みたいのなら、今日みたいな日に来ればいいのにと思う。音楽を聴いていれば落ち着けるものだ。
 今のところは客がいるからまだましだとも言える。二人とも各々で来ている。最初は二人別々に接していた。
 こちらから見て左端の男とは客として長い付き合いがある。会社を定年退職している。たまに家業の手伝いをしているらしいが、ほとんど無職だ。働かなくても食っていけるなんて羨ましい。しかも、独身だ。生活費といっても高が知れている。金は自由に使える。それに、同居している高齢の親は資産家らしい。そのうちに財産を相続するだろう。金には苦労知らずの育ちをしている。母子家庭だった俺とは真逆の人生を送っている。学年は一つ違うだけだ。あいつは大学を出て地元企業を勤め上げた。
 同じ独身という共通点がある。俺はバツイチだ。たまに独身であることをネタに話をする。酔っているのでたあいのない優劣をつけたがる。この前、どっちが上かという意地の張り合いになった。あいつには結婚歴がない。俺には親権はないが子供がいる。『子供がいる分だけ俺の方が上だ』と言うと、あいつは『そうだな』と黙り込む。
 女のことを話すこともある。あいつは話の節々で若い女がいるようなことを言う。旧家らしく祖父の代に建てた家に住む。家は親が切り盛りしている。その親と同居している。個人的な借金もない。退職金も残っている。財務部門の事務をしていたので、会計や数字に明るく、在宅で資産運用をしているらしい。だから、定年後は再就職もしていない。厚生年金を満額で受給できるらしい。俺の方はというと、若い頃しばらくだけサラリーマンの時期があった。国民年金にわずかな厚生年金分が上乗せになる程度だ。だから、俺の年金額なんて少ない。食べるためにはこの店を続けなければならない。
 要するにあいつには金があるので、出会い系サイトでこづかい稼ぎの女と逢っているだけのことだ。特定の女にするのに、どれだけの投資をしたのだろう。地元の優良企業に勤めていたので給与水準も悪くなかった。子供の養育費がいるわけでない。家賃を払うこともなく、家には少しばかりの食費を入れているだけだ。稼いだ金は自由に使える。だから、若い女に金をつかえるのだ。まあ、パチンコなどの賭け事はしない。タバコは吸わない。外で酒を飲むことも少ない。女遊びが唯一の道楽なのだろう。若い女と定期的に逢っているらしいことが話の節々で窺える。
 今晩のことだ。近所の客といる時に、あいつがやってきた。定年後に始めた趣味のサークル連中で飲み会があったのだと言った。たまにしか顔は出さないが、会社勤めをしていた頃よりは、来店のペースが早くなっている。ボトルキープもするようになった。終電車までのあいだしかいないから、特に儲かるような客ではない。ただ、長い付き合いにはなった。今日のように暇な時に、こっそり現れたりするから助かる。深夜の客で稼ぎがあるのだが、その人たちも来店しないことがある。時間帯が早くても遅くても客の少ない日がある。こんな日に来てくれる客は誰であってもありがたい。最近は同じサークルの仲間を誘って来るようになった。今日は一人でこの店にやってきた。
 もう一方の端に座る男は常連客だ。月に何度か来てくれる。いつも一番隅の方の席に座る。偶然にも、左右の両端を定席としている男二人が同席することになった。こちらから見て右の男は地元の経営者の盟主的存在でもある。商店街とは近いので仲間と連れ立ってこの店に来る。週末か休日には一人で飲みにやってくる。今日は珍しく平日にやって来た。店が忙しい時は邪魔をしないように端に座るようになった。そのうちに端の席が定席になった。俺と違って優秀な家系で頭のいい紳士だ。しらふでは知識をひけらかすことはない。ただ、話好きなので、酔うと他の客と話を始める。左右二人の男の接点はない。だから、俺は最初は別々に応対していた。
 音楽好きな常連客の中には女連れでやって来ることもある。普通だったら、女がいる所では下ネタを話すには無理がある。俺の店の客は癖がある。女の前でも堂々と猥談をする。連れの女性は寛容な客が多い。却ってエロ話を面白がる。常連の女性客は俺のことを知っているからまだいい。たまにインターネットで調べたのか、しゃれた飲み屋と勘違いしたのか、若い女性が連れ立ってやって来る。そんな時は女性達の気分を害さないように良識的に振る舞う。一見の客には注意が必要だ。下ネタには気をつけているつもりだ。店の中で普段の会話をしていて『マスター、それセクハラだよ』と客から注意される。面倒な時代になったものだ。
 今は男しか店にいない。目の前の左端の男はエロい冗談話が好きだ。今日は女性客がいないから、話をするにしても配慮しなくていい。客が少ないし、焼酎でも飲みながら、目の前にいる男同士で屈託のない会話でも楽しもう。共通点は近しい歳の三人だということだ。俺は場を和ますつもりで言ってみた。
『最近、俺、女とやってないなあ。まあ、Mさんは違うらしいけど』
『いや、性欲がなくなって良かったと思っている。性欲がなくなるということはセックスに向う気力もなくなるということだよ。女の人から、生理がなくなって楽になったと言うのを聞いたことがある。月のものの処置のことだと思う。ただ、それだけでないらしい。女性は更年期障害を自覚する人が多いとも聞くね。生理がなくって更年期障害から解放されることになるらしい。男は体力とか精力の衰えは感じるけど、更年期障害として自覚しにくいという。ぼくも同感だよ。あ、何を言いたいかというと、女が生理がなくなって楽になったのと同じで、性欲がなくなり、内側からせき立てられることがなくなった。それが楽になったということ。そう思わない、マスター』
『そうだね。それはある』
 と、俺はそう答えるしかない。
 さらにあいつは喋る。
『若い頃は金がなかったし、性欲が強かったのでオナニーばかりしていた。今は若い頃と比べて金があっても、セックスをしょっちゅうしたいとは思わない。ぼくにはたまたま相手をしてくれる女はいるけど元手がいる。金がなくなったら縁が切れる相手ばかりだよ』
『いいなあ。俺なんて金もないし、それに立たないしなあ』
『えっ、本当』
『いや、こんな商売だろ。明け方ちかくまで働いている。慣れたとはいえ、年取ってからは身体に堪える。深夜遅くまで、長い時間立ちっぱなしも、しんどいもんだよ。あそこは立たなくても、店には立たなくてはいけない。なんちゃってね。知ってるかどうかしらないけれど、店をしばらく休んで入院したこともある。一週間ほどで退院したけど、一人で店の切り盛りしていくのも大変だよ』
 その時だった。もう一方のカウンター脇で飲んでいた一方の彼も話に加わってきたんだ。
『ところで、おたくは元気なんですか?』
『まあ、何とか工夫してやっています』
 俺は二人の中ほどにいて、あいだを取り持つことになった。
『そうだ、二人とも俺と一つ違いの同い年だね。あんたはどうかい』
『いやはや、同感です。あまり、する機会はなくなりました』
 あいつは彼に話した。
『ぼくは元々精力は乏しい方です。四十代になろうかという頃から仮性インポになったこともあります。初対面の女性相手では緊張するというか、立たなくなることがありました。たぶん、その頃は苦手な営業に回された頃です。内向的なので難儀しました。その頃のインポテンツはストレスがたまっていて、精神的な部分が占めていたんだと思います』
『それが、どうして今は大丈夫なんですか?』
『バイアグラは知っているでしょう。最近は勃起不全の治療薬ができたからです。医者で処方箋を書いてもらえれば誰だって安く手に入りますよ。あ、ぼくは格好悪いから医者から処方してもらったことはありません。あ、そうか。そんなものおたくにはまだ必要ないのですね』
『まあ、今のところは……』
『薬なしでも現役なのは羨ましい限りです。ぼくの場合はずっと前からインターネットの通販を利用しています』
『簡単なんですか?』
『とても簡単です。ED薬でもジェネリック薬があるんですよ。医者に処方箋を書いてもらうのと変わらない程度の金額で済みます。日本でも医薬品販売業者がインターネット通販サイトを運営しています。ジェネリック薬を取り扱う通販サイトも多くあります。為替の関係で利益が出やすい東南アジア経由で薬が送られて来ることが多いです』
『へえ、そうなんですか?』
 彼は頭が禿げている。俺も頭が禿ている。禿は男性ホルモンの分泌が多いという。俺は禿で助平だ。禿は助平であるというのは当たっているかもしれない。
 俺は猥褻なものに興味が強かった。子供の時からこっそりエロ本を見ていた。団鬼六などの官能小説を十代の頃から読んでいた。
 俺はあいつのことを彼に喋った。
『この男は独身貴族で金が自由につかえるんだ』
 あいつはカルチャーセンターの文章教室のOB連中でサークル活動をしているらしい。会誌を発表することがある。その会誌をもらったことがある。その会誌は店に来てくれるという義理があるので読んでいる。印象に乏しいエッセイが載っていた。どうでもいい内容の文章だ。俺は本も読む。子供の頃からエロ小説が好きでこっそり読んでいた。エロ小説を読んでいたせいか、学生時代は国語だけは成績が良かった。それで、文章の読解力だけはあるのだと思う。読書と関係があるのかわからないが、俺は理屈っぽい。暴言を浴びたとしても直ぐに反論できる。まあ、酔っぱらい相手の水商売をやっているので、自分の商売を守るために必要な能力だともいえる。
 あいつには、エッセイのように刺激のないものではなくて、自分の体験談を小説で書いてみればいいのにと、進言したことがある。自分の女性体験を記録すれば、面白いものが書けるのではないのかと俺は思っている。あいつは俺が冗談で言っているとしか感じとっていない。
 男三人の会話が続くことになった。あいつは引き続き喋った。
『最近は便利なものができました。日本では処方箋でもらえるED薬としてはバイアグラくらいしかありませんでした。今は医者に指定すれば三大ED薬の一つを選べるかもしれません。それぞれのED薬には副作用があります。バイアグラと違って、シリアスという商品名のものは、顔がほてったりするような副作用が少ないです。それに、効果が長持ちします。服用してから、二十四時間以上経過した後でも、効き目が残っていることもあります。通のあいだではシリアスの方が主流になりつつあります。相手の女次第で便利に使えるはずです』
『へえ、そうなんですか』
 カウンターの右端に座る男は妻帯者だ。彼は知識欲が旺盛で何でも興味深く聞く。注意深くあいつの説明を聞いていた。あいつは俺と彼にレクチャーしているつもりだ。その日は客入りの寂しい店内だった。どうでもいい男同士の会話が続いた」
──────────────────────────
「と、ここまでの内容はぼくの持っている通しの台本とほぼ同じだ。ただ台本の一番最初のページが最後にある。そこのページだけが違う。内容はというと」

──────────────────────────《登場人物》
 男A
 男B
 マスター
 わたし(未定)

 プロローグ  控室にて 男A独白
 第一話 以降、舞台にて 男A独白
 第二話         男B独白
 第三話         マスター独白
 第四話         男Aの朗読
 最終話         男Aの独白
──────────────────────────
「引き続きぼくは通しの台本を見ながら、こうやって喋っている。
 あれ、台本の内容がぼくのと違う。登場人物には『わたし』とあり、カッコの中には『未定』とある。第四話の男Aの朗読って何だ。今、こうやって台本を手にしている。これが、ぼくの朗読シーンということなのか? さらに、目次にはプロローグと第四話以降が手書きで追加になっている。それと、最終話に『男Aの独白』とある。男Aとはぼくのことだろう。
 どうも、おかしい。
 登場人物と目次が載っているページは、元々プリンターで印刷してあった。目次に手書きで文章が挿入されている。
 おや、最終ページの後にも手書きした『追記』の欄がある。
 その台本の最後の方を、こうやってぼくは見ながら喋っている」

────────────────────────── 追記
・男Aの独白が変形していくようにする。
 鏡があり、それに向かって舞台の練習をするまでは変わらない。演出担当者から、舞台挨拶をしてほしいと指示される。その後、演出の内容が変化する。出だしは男Aが鏡を見て台本通りに演ずる。舞台上での出だしは練習と同じ台詞で始まる。最初は鏡の前と同じように語るが、舞台上では段々と変化し、元のものと違ったかたちで進行していく。

・シナリオとしては弱い。
 ここでは女が全く登場しないことにしていい。あくまでも、語りの中の抽象的な女でいい。ただ、もう少し観客の想像力を刺激してみたい。それには、背景を変えてみることだ。男Aの独白の中で変化をつけてみる。

・こんなのはどうだろう。
 ジャズバー内での、たあいのない話だけで終わらない。男はカウンターがセットされた舞台から右側の舞台に移る。立ってばかりで疲れているように男は振る舞う。客用のやや大きめなサイズのテーブル席があった。そこには長椅子もある。男はくつろぐように長椅子に座る。
 男は長椅子に両手をだらりと垂らして座る。長椅子に背をもたれる。すると、背面あたりに違和感を覚える。背面を手の平で触れる。平らだったので、変だと感じた男は肘掛け部分を見る。
 すると肘掛けの下にレバーのようなものを見つける。そのレバーを引いてみた。その長椅子は背もたれ部分が倒せるようになっていた。背もたれと同時に男も一緒に後ろ側に倒れる。長椅子がソファ・ベッドになる。それはベッドにもなる長椅子だった。
 男はどうしてこんなものがあるのだろうという表情をする。ベッドになったところに腰掛けたまま男は語る。
 男Aの独白
「何でこんなところにソファ・ベッドがあるのだろう。マスターは酔い潰れた時は家に帰らないでここで寝るのだろうか? ベッドとして使うことがあるのだろうか?
 マスターは立たないなんか言っているが、それは女を油断させるためかもしれない。男にもカモフラージュで言っているのかもしれない。マスターは助平だ。客商売だし、出会う人も多いだろう。影ではやることはやっているかもしれない。ここにベッドがあるということは……。
 例えばだ。ここには男の店主ばかりが来るというわけではない。スナック帰りのホステスだって寄っていく。都会ではないので、歓楽街近くでは明け方まで営業しているファミレスがない。屋台も出ていない。明け方近くまでやっている食べ物屋は、あるにはあるが、簡単に見つからない。その点、ここの店は暑さ寒さが凌げるばかりでなく、賑やかで楽しい深夜営業の居酒屋となる。
 ホステスは接客している時、緊張しているかもしれないが、ここでは気が緩んで、酒の回りが早くなるかもしれない。客が帰って誰もいなくなった店のカウンターに顔を伏せて目覚めないホステスだっているかもしれない。『あたし、寂しいの。この頃、ご無沙汰しているの。マスター慰めて』なんて言われたら、どうするんだろう。ごひいきさんで、魅力的な相手から言われたら、据え膳食わねば何とかと……。いやいや、そんなことはないだろう。立たないと言うマスターの言葉を信じよう。
 あの時、バイアグラのことを言った時はそんなに驚くような顔をしなかった。実際に悪さをしているものは自身を語らないものだ。
 マスターは、
『俺、知っているよ。でも、バイアグラしか使ってないな』と言う。続けて、
『内科で処方してもらっているんだ。掛かりつけの医者だって、ちゃんと理由を言えば薬はもらえる。独身だってパートナーがいると言えばいいんだ。どういうことないさ』と言う。マスターはパソコンを使えないアナログ人間だ。スマートフォンではなくてガラケーの携帯電話だ。インターネット通販でED薬は買えなくても医者から処方してもらえる。保険適用だから価格は負担にならない。
 前期高齢者にはまだ性欲がある。昔は年寄りに性欲があるなんて想像できなかった。自分がその歳になってみてわかった。性的に経験豊富だから厄介なのだ。金で解決できるものもある。金のない者でも百戦錬磨の知恵がある。マスターのように男気のある高圧的な物言いに弱い女もいることだろう。そんな女に対して独特の口説き方があるのかもしれない。
 ぼくの経験談なんて高が知れている。マスターがバイアグラを使ってみたらと、想像したことを語ってみただけのことだ」
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「最後、ぼくはこんな風に語って終える。
 ここまで、ぼくは控室で台本を読んでいることになっている。

 今、ここは舞台上で、語りを終えたところです。
 ぼくはホールの観客席に向かって手を振ります。
 Mさん、どうでしたか?」


 わたしはつられて手を上げてしまった。10メートル先に小さい舞台がある。今まで男が台本を見ながらずっと一人で喋っていた。わたしは仮設舞台にいる男に話し掛けた。
「一人だけでも、できないことはないんだなあ。それがわかって良かった。ただ、最後の追記部分はどうなのかなあ? お客の受け取り方はどうだろう?」
 台本はハイブリッド型になっている。少し手を加えれば複数人でも演劇ができる。舞台上の男の手には台本がある。最初から台本を見ながら、一人だけで朗読していた。一人だけの朗読劇として、成り立つことが確認できた。これなら、公民館や地区センターのような狭い場所でもできる。
 ただ、内容がイマイチだ。メンバーや関係者に、もう一度台本を見てもらって、アドバイスを受けよう。いろんな意見を聞いて台本は書き直すことにしよう。
 そう、わたしは思った。


 と、
 ここまでの文章が、台本の追記欄の最後に書いてある。