博道(はくどう)通信[PC発信・返信任意]
 昨晩、映画「リリーのすべて」を見ました。確かに良い映画でした。あの時代のことです。偏見の強い中で、本来の自分、本来の性になろうとする姿や、男女の違いを越えて、人への愛が描かれていました。医師に薦められて日記を書いているシーンがありました。書くということは自分の考えを顕在化するという行為です。自分の意志や意識を自覚することができます。男から女になる過程で、自分の意識の変化を、客観視できる効果を期待してのことだと思います。自分にとっても書くとは何かということを考えさせられました。
 うるうるとしました。ただ、ぼくの場合は涙まで出ませんでした。当日の午後と夜に二本の映画を見ました。「リリーのすべて」の前に「サウルの息子」を見ました。「サウルの息子」はアウシュヴィッツの惨劇が描かれた映画でした。その映画を見た後だったから、涙が出なかったのかもしれません。「サウルの息子」の冒頭のシーンではカメラのピントが合ってなくて、かすみを見ているようでした。登場人物が近づいてきて、顔や姿がハッキリしてきます。映像撮影の逆転の発想です。近くにある顔の表情だけを映して、周りをぼやかしているのです。残酷なシーンを見る者の想像で描くようにしたカメラワークが効果的でした。あるユダヤ人が宗教を信じて最後まで人間らしく生きようとした姿が印象的でした。これも名作に入るでしょう。
 あと、こじつけのコメントです。ぼく達には性差に加えて、考え方の違いがあります。そして、世代ギャップ(年齢差)もあります。価値観、感受性、他にも隔たりが多くあります。二人の仲の障害も人間愛で乗り越えられたらいいなと…。理想なのですが…。

 はくどう通信 追伸(二次発信)
 メールとしては長めの文章となりました。旅行案内とか、旅行後のデジカメ画像がある場合に、PCから何度か添付ファイル付のメールを発信したと思います。今回もPCからのメール発信です。これ以後も長めの文章になるので、PCからのメールとなります。メールの文字数と行数を掛けてみました。すると六百字位ありました。そちらのスマートフォンの画面では、読みにくいことはありませんか?文字数が多くても大丈夫ですか?
 以前にもPCからメールを発信したことがありましたね。携帯電話だと長い文章を書く時、文字ボタンを押すのに苦労します。キーボードで文字を入力する方が楽だったので、こんな風に博道通信の件名でメールしたと思います。前は書いているうちに言いたいことがどんどん書き加わっていきました。喋るのと似ていて、興に乗るとキリがなくなるものです。短文に収めようとしました。それでも、自制するのが難しくなっていきました。思い付きで余計なことまで書いてしまいそうでした。それに懲りて、PCからメールをしないようにしました。ぼくはルーズなのか、手間隙が掛かることは避けたい質です。読むのは一瞬だけど、書くのには時間が掛かるのです。ぼくの場合は遅筆なのか、四百字から六百字程度のメール文を書くだけでも、一時間程度掛かります。

 はくどう通信2
 そうでしたか、大丈夫でしたか。読むことに支障がなくて、良かったです。
 良く考えてみたら、そうですね。ぼくが持っているガラケーには、大手量販店などから、鮮明な画像を含んだ、凄く長い文面のメールが送られてきます。画面が小さいからか、少し読みにくい程度で、ガラケーでも、長い文章を読むのにはさして無理はないです。スマートフォンでデータをダウンロードして書籍を読む時代です。五インチが主流のスマートフォンの画面では、千文字以上あっても、何ら支障なく読める筈ですね。
 以前と同じく、前回のメールの件名は「博道通信」として送りました。初回の件名にカッコ書きに返信任意と入れておいたので、メールが来ないかもしれないと思っていました。理由として、そちらの仕事やプライベートが日々忙しいだろうと思うからです。こちらの発言でいちいち手を煩わせたくないという気持もあります。一方的な配信メールのつもりでいます。これからも、返信を強制していないので、気を遣わなくてもいいです。どうしても言いたいことがあるのなら構いませんが、これからは特に返信は要りません。
 対外的にメールを送信する時は、誰であれ相手を尊重し、こんな風な丁寧文で書くことが多いです。ぼく達の場合は通常ならもっとタメ口の入った文章ですね。親密度合からいって「ですます調」は他人行儀だと思うかもしれません。少し変だなと思われたかもしれません。ぼくがそちらにプライベートで送信するときは、いつも実名で、「××は」と書きますね。実名を出すとまずいので、ここまでは、そちらと書いています。その呼び方を、これからは「あなた」という言い方に変更したいと思います。その方が相手に読まれているという実感があるからです。
 実を言うと、ここまでの部分と、これ以降の文章を、同人誌に発表したいと思います。今までも、同人誌に発表した作品を読んだことはありますね。あなたの名をアルファベット一文字で書いていた時もありました。既に同人誌に掲載してしまってから、事後報告したこともあります。あなたが出ていると、言っていない作品もあります。あなたが特定されていないと判断したからです。今回はあなたに関係する部分が多いので、これを発表する前に、あなたの了解をとっておきたいのです。何も返答がないときは、了承されたものとして進めていきます。あなたの親族や友達が読む可能性は、限りなく零に近いですから、心配ないと思います。それでも、今まで通りプライバシーに配慮します。そして、「はくどう通信」として、何回かに分けて書いていきます。このメールの文章は一方通行の発信になります。もし、あなたから返信があった場合でも、ここには載せないつもりです。
 文章の段落ごとに一升空けています。きちんとした文章でないと同人誌に載せられないので、どうしても段落を入れることになります。それに実際のメールは横書きの筈なのに同人誌では縦書きになって掲載されます。実際のメール文としては不自然に感じるでしょう。縦書きだとメールのリアル感がなくなっているでしょう。横書きで出版される同人誌もあるみたいですが、古くからある同人誌なので、縦書きで発表されます。同人誌では、ぼく一人の作品を、横書きで掲載することが難しいからです。
 この前は渤海の70号と71号を読んでもらってありがとう。当事者だからストーリーに入り込めないというあなたの感想はしごくもっともです。次はそのことに関連して述べたいと思います。

 はくどう通信3
 この前会った日の翌々日に、あなたから二冊とも読んだと言うメールがありました。あなたは「なんか当事者だからかな? ストーリーに入り込めなくて、渤海70号『酔どれバー』は日記、71号『ほたるの光』は長い自己紹介文って感じ?」とメールに書いてありましたね。当事者ならではの感想です。そのメールが届いた後、ぼくから電話をして、「当然、そうだと思う」と言ったと思います。当事者だからこそ、小説がどうこうというのではなくて、書き手であるぼくの側の、受け取り方や、思考の過程や意識のあり方を、見てしまうのでしょう。
 さて、いろんなことを書いてみます。この前、見た映画「リリーのすべて」に関連したことです。同人誌で女性の書き手がいます。71号に「砂の本−花野−」を書いた作者です。あなたに会う直前のことです。合評会の後で懇親会がありました。その席でのことです。その人もその映画のことについて語りました。偶然の一致です。あなたが涙したと言う「リリーのすべて」をその人も見た後だったのです。その人からその映画を見たかと問われました。あなたが見たと言うその映画のことを聞いた時に、直前にあった同人誌の懇親会の席でも、その映画の話が出たことを、あなたに伝えましたね。図らずも、同じ日に二人同時にその映画の感想を聞いたことになります。不思議なことがあるものです。
 メールが来たのは、再会の前日のことでしたね。友達の結婚式で富山に向かっている新幹線の中からメールしているとありました。たまたまあなたに富山での用事があったから、再会することになりました。そんな機会がなければ、会うのがもっと遅くなっていたかもしれません。もし、会えたとしても、あなたが海外に行く直前になったかもしれません。ワーキング・ホリデーでカナダに行くことになっていましたね。ひょっとしたら、もっと遅くて、一年以上経って、帰国後に会うことになったかもしれません。
 最悪の場合、一年だけでなく、一生会うこともないかもしれないという、強い不安もありました。会うこともなくそのまま別れてしまう事態になっていたかもしれません。二月に行ってきた山陰地方への旅行中のことが原因です。旅行先から羽田空港に戻り、二人はそれぞれの帰路につきました。別れた後、しばらくしてあなたからメールがありました。あの時、ぼくは羽田空港内のラウンジで、富山空港行きの出発時間を待っていました。その時にメールがあったのです。
 メールの最初の方だけを読みました。ガラケーの画面なので、文字の表示が少なかったのです。腹立たしい気持が残っていたので、あなたからのメールがあった直後ですが、無視したい気持でいたのです。今まであなたから、あんなに長い文章を受け取ったことはありませんでした。前例がないから、その携帯電話の画面を、注意して見ていませんでした。メール文の続きがあることに気付いていませんでした。二画面位でちょうど文章が区切り良く終わっていました。メールはそこで終わったと思い込んでいたのです。それで、来たメールを全部読まなかったのです。旅行に連れて行ってくれたのに、ちゃんとお礼ができなくて、残念だということが書かれていました。いつにもなく丁寧な文面から始まっていました。キレた行動と暴言を吐いたことも詫びていました。そこまで読みました。そして、その後にも文章があることに気付きませんでした。不覚でした。
 後で考えてみました。その時はメールの最初の方だけを読んだことになります。その後のメールを読んだとしても、その時は何ができたでしょう。たぶん、その時点では呆然とするだけで、何もできなかったでしょう。今までにない丁寧な文章だったのです。もしかしたら、あなたの方からは、最後通牒のつもりでメールしていたのかもしれません。そんなことが書かれた、続きのメールがあるとは知る由もありませんでした。あなたはそれ以降、ぼくに連絡をするつもりはなかったのでしょう。ぼくの方でも、あなたから、暴言を受けた後だったので、傷心を引きずっていたのです。ぼくの発言が元々の原因であることは分かっていたのです。それでも、何でそんな仕打ちを受けなければならないかと、憤っていました。ぼくの方からは、頭が冷えるまで、しばらくあなたに連絡を入れないつもりでいました。
 そんな風にあなたがキレたことは前にも何回かありました。オーストラリアのケアンズでのことです。レストランで食事中なのに、携帯電話に向かい、その国の友達とメールのやりとりをしていたのです。それを注意した時のことです。あんなにキレたあなたを見るのは初めてでした。何か違うとその時は思っていました。案の定、あなたはホルモンバランスを崩していたらしく、予定していた語学留学の期間より、早まって帰国することになりました。それ以後の日本でも時々、あなたのイラつきを感じることがありました。彼氏が帰宅するかもしれないので、飲食中でも焦っているのが見え見えでした。ぼくに早く帰りたいと言い出せなかったのでしょう。一人でスタスタと先に歩いて行ったのです。あなたは地下鉄の改札口でぼくを待っていたのですが、携帯電話に連絡が入る直前まで、どこに行ったのだろうと途方にくれていました。その時、何を考えているのだろうと呆れていました。オーストラリアのシドニーでもそんな風に先に歩いて行ってしまうことがありました。何が気に入らなかったのか、良く分からなかったのです。それに良く似た理不尽さを感じることがありました。身体が浮腫んでいたので、生理前だったのでしょう。どんなことを言っても、反発されました。そんな例がいくつかありました。この前の旅行でも同じ様なことが起こったので、またかという気持でした。そのうちに治まるかもしれないという、楽観的な気持でいたのです。山陰旅行から富山の自宅に戻ってきてからも、犠牲者はぼくの方だと、不快な気分のままで過ごしていたのです。
 ところがです。広告メールか何かが入ってきたので、何気なく携帯電話の受信ボックスを開きました。ついでに前回のメールを読んでみる気になりました。広告メールが来なければ、もっと後でメールの全文を読んでいたことでしょう。たまたま、未だ見ていないメールの続きを読むことになったのです。その長いメールの後半部分に「もう、会うの止めない?」と書かれていたのです。羽田空港で別れて四日目だったのです。その時、初めてそのメールに続きがあることに気付いたのです。長い文章だけど、理路整然と書かれたメール文がありました。今まで、そんなにもきちんと書かれた文章を、見たことがありませんでした。スマートフォンやIT機器の操作では若い人達には敵いません。ただ、活字離れした若者達より、文章を書くことに関しては、少しばかり上のつもりでいました。しかし、それは全くの思い込みだということを悟りました。あなたの文章の綴り方が、ぼくより格段に上なのです。文面が流麗で論理的なのです。あなたとは今までそんな長い文章のやりとりをしたことがありませんでした。だから、そんな能力を持っていることを知らなかったのです。単なるバイリンガルな女の子だと思っていたのです。文章を読んでいて、あなたの頭の良さと、真剣さを感じました。
 タイムラグがあって、メールの続きを読んだことになります。その時点で、事の重大さを知ったことになるのです。それを読んでぼくの方から反省文を書いて送信しました。そのメールに返事がないままでした。あなたのスマートフォンに電話を掛けても、呼び出し音だけで、繋がることはなかったのです。そして、時が経過していく中で、今まで二人のあいだにあった、悲喜こもごものことが、頭を過りました。
 そして、この前の再会に至ったのです。富山に向かっているというメールをもらった時は嬉しかったと同時に、身の引き締まる気がしました。これからは言動に気をつけなければならないというプレッシャーを感じたのです。言動ばかりではなく、態度にも配慮しなければと痛感していたのです。もう、会えないかもしれないという危惧がぼくの中にはありました。思ったより早く会うことができました。二ヶ月ぶりの再会でした。
 これは、同人誌に載せてみたら、という仮定で書いています。もし、載ったとしたら、72号になるかもしれません。これは、発信していないメール文です。自分では正直に書いているつもりです。いくつかのメールとして、分けて書いてありますが、連続したそれぞれを、まとめて読んでもらえば、理解してもらえると思ったからです。あなたに関わる部分があります。紙ベースになっている行を、あなたは繰り返して読むかもしれません。それに耐えられるように書いているつもりです。
 同人誌仲間の女性作者からは、また女の人が出ていると、軽蔑されることでしょう。あなたに会うことがなければ、別のことを書くつもりでいました。また、こんな女々しいことを書くことになりました。もし、これが発表されたとして、次の合評会では、その女性を中心に、もううんざりだと批判されるでしょう。仕方がないのです。あなたは近々、外国に旅立ちます。しばらく、会えなくなるでしょう。今しか語れないこともあるのです。語りたいことが多過ぎて、この送信されない文面が、図らずも長くなってしまいました。

 はくどう通信4
 ぼくがあんな風に女の人に頭を下げたのは生涯で初めてのことです。そんなシーンを映画やテレビドラマの中では見たことがあるのですが、ぼく自身が同じようなことをするとは思ってもいませんでした。あなたはぼくがプライドの高い人間だと言い当てました。そんなぼくが、あなたの目をちゃんと見て、テーブルの上に手を突いて、深く頭を下げました。ぼくの態度をあなたはどう思ったかわかりません。あの時は演技するつもりもなく、示せるだけの精一杯の表現をしたつもりです。もし、テーブル席でなくて和室だったなら、頭を畳につけて土下座していたでしょう。そんな姿を見せても、伝わらないつもりでいました。これからも時間を掛けて、信頼関係を築き直すつもりでいました。あなたは未だにぼくの内心をいぶかっていることでしょう。女の思考は上書きするものだと言います。一度、決心したことを覆すことは難しいものだと言われています。弁明の機会を与えられたとしても、どうしようもできなかったでしょう。この前は再会が叶ったことになります。ただ、コミュニケーションの糸口が辛うじて残っているだけのことです。釈明しても、言い逃れを言っているようにしか思われないだろうということも、分かっていました。
 会えなくなることも考えていました。もし、連絡先が分かれば、ぼくの所属する同人誌を送るつもりでいました。この前はあの場で「渤海」の70号と71号を渡すことになりました。少なからずこちらにも覚悟があったのです。そして、言訳というか、どうして軽率で配慮のない発言をするに至ったかという、ぼくの心理状態を語りました。少しでもぼくの心境を伝えたかったのです。天才ではない普通の人間が、小説を書くとどうなるかを分かってもらいたかったのです。小説を書いていると、根をつめてしまい、頭がおかしくなるのです。頭が通常に切り替わっていなかったというか、戻っていなかったというか、そんな状況を伝えたかったのです。普通の能力しかない人間なら、ノイローゼになるくらいでないと、傑作は書けないのかもしれません。旅行に行くことで、71号の「ほたるの光」の後遺症から逃れられそうだったのです。旅行では解放された気分でいました。相手を考えない軽率な言動が出たとしても、仕方ないだろうという甘い考えでいました。そんな自分勝手な思いを持っていたのです。きちがいは自分のことをきちがいだと言わないように、アルツハイマー病の罹患者は、自分のことをアルツハイマー病であるとは言わないものです。気が狂いそうだと、負荷を訴えているだけで、まともな領域にいるのです。一昔前には、まだ無頼漢気取りの作家がいたらしいです。そんな作家らは、表向きの態度だけで、自分のことも相手のことも分かっている、まともな人達です。
 あなたが神社にお参りをする気になったのは、区切りをつけたいという心境になっていたのかもしれません。次のステージに向かおうとしていたかもしれないのです。それなのに、ぼくはあなたの過去の傷口に触れようとしました。今まであったことを蒸し返して聞いていました。急に機嫌が悪くなって、「喋りたくない」とあなたは突っぱねました。それでも、彼氏と別れた原因とかを、ねちねちと聞きそうになりました。ぼくは面倒くさがり屋なので、人の発言をメモ書きしたことがありません。だけど、興味のあることは覚えていることが殆どです。そして、自分なりに疑問が出たら無邪気にというか、相手のことも考えずに、無遠慮に問い掛けるのです。
 あなたの心の中にある闇の部分に触れているのに、気に掛ける素振りも見せず、しつこく追求しているぼくに気付きました。無視すれば済むことなのに、どっちに振れようかと、ぼくの方も曖昧だったのです。そんな自分を意識はしていたのです。そんなどっち付かずで、優柔不断な自分に制限を与えようとしたこともありました。互いに分かり合えないし、共感できないでいるだろうし、ワザと自分の心に壁を作っているのだからと、酔った勢いで、自己分析をしたようなことを言っているぼくがいました。そのことも、自分に都合のいい口実なのです。旅行の中程から、あなたのキレるのが治まらなく、大噴火が続きました。決定的な絶望感を与えたのは、全てぼくのせいなのです。だから、絶縁しようとしたあなたの決意の方が正しいのです。

 はくどう通信5
 前回のメールでも書いたけど、こんなに早く会えるとは思っていませんでした。元々は一般で言う、不適切な男女の交際から始まったのです。けじめをつけるとするなら、あなたの方から、一方的に連絡を絶って良かったのです。いつまでも、続けるべきではなかったのです。あなたが地元を離れて都会の大学に行ってからのことです。何事にだって、いつかは終わりがあるものです。それが早いか遅いかだけの違いなのです。あの時点で逢瀬を止めておけば、あなたにとって、若気の至りで済んだ筈なのです。
 それは、随分前のことになります。あなたが進学のため地元を離れてからのことです。連絡ができなくなってから、再会は永遠に叶わないものだと、諦めるつもりでいました。あの時期の記憶を辿ってみました。春の新学期から再会したのは、夏の真っ盛りではなく、六月頃だった筈です。実際は三ヶ月弱程度のブランクしかなかったのです。少し前のぼくの心境と似ています。あの頃は、連絡がつかない期間が半年間以上に感じられました。あの時は、もう終わるのだと思っていました。それが、今現在まで二人の関係が続いていることは、奇跡に近いことなのです。後でもう一回の危機がありました。あなたの彼氏にぼく達二人の関係がばれた時です。あの時も終わりだと思っていました。今回は三度目だから慣れているというのではありません。性格が楽観的でも、異性に関しては悲観的で寂しい気持でいます。歳を重ねると寂しさは減るどころか増すばかりです。
 この頃では自分の歳が平均寿命に近づくにつれて、死の影がチラつくようになりました。親戚の近しい人の死なのに、普段は交流がないせいか、あまり悲しみを感じませんでした。自分と同世代の死であったとして、若くして亡くなったことに、哀れさを感じることもありません。世間では生きづらく思っていただろうし、解放されて良かったと思っているくらいです。近所の人の死も同じことです。高齢で、家族に慕われながら亡くなったとしたら、天寿を全うしたということになるのでしょう。配偶者も子供もいない身だからか、余計にそう感じます。人に感じる死を悼む気持が薄いということは、そのまま自分に返ってくるのです。親戚だったとしても知人であったとしても、ぼく一人の死くらいでは、悼む気持が薄いだろうと思われるのです。所詮は哀れみも悲しみも人ごとなのです。悲しむ対象の人がいたとしても、時を経るにつれて、思い出すこともなくなっていくのです。
 どんなに楽天的だとしても、今後のことを考えてしまう自分がいます。だから、死んだ後のことも考えてしまうのです。更年期障害もあるのでしょう。心の乱れもあります。認知症にならないという保証もありません。身寄りが全くないということはないのですが、たぶん一人で死んでいくでしょう。それで71号に「ほたるの光」を書きました。小説を書くこととは別で、日常生活では努めて平常心でいなくてはなりません。はくどう通信の1回目で「リリーのすべて」の中で主人公のリリーが日記を書いているシーンが印象的だったと述べました。書くことにメリットがあるとしたら、ということを述べました。いろんな人がいます。人によっては書くことによって意識の均衡を保てるのではないかということです。しかし、創作は別です。小説を書いたりすることは、意識的に意識から逸れることになるのです。意識のバランスが崩れる場合があるかもしれないということです。
 進学の機会に都会に出て行ったあなたと、連絡が途絶えてからのことです。あなたとの関係が、まともでないことを認識できていました。それまでも、それからも、ストーカーになることはなかったのです。書いていると、善くも悪くも、あなたのことを思い出してしまいます。過去の出来事として無に葬るのではなく、ある人間が実際に経験した偏狭な心象記録として、文章にしようとしたのです。体験したことを無駄にしたくなくて、何かを残そうとしたのです。そんなずうずうしいぼくがいたのです。ぼくがあなたのことをネタにして作品にしていました。
 拙い文章がまとまり、小説まがいのものができました。一応、同人誌掲載の了解をとるために、あなた宛にメールを発信しました。返信はないものと諦めていて、一方的な通知のつもりでいました。可否の返事がないつもりのメールでした。ところが、思いがけなく返信があったのです。掲載応諾のことではなくて、「会わない?」という思いがけない内容のメールでした。それ以後、現在に至っているということになります。あれから、ずいぶん長い付き合いになりました。
 今回もあなたと会えない空白期間のあいだに、考えることがありました。いろんなことを想像してしまいました。今後、会えなくなった場合のシチュエーションが、いく通りも出てきました。今後もここにあなたが登場してくることになるのです。

 はくどう通信6
 ぼくの作品には女の人ばかりが出てくる、そう合評会で言われたことを伝えましたね。今回もそうなりそうです。具体的なイメージで人物像を描いていなくて、単なる架空の相手へのメールだったとしても、あなたかもしれない女の人が出てきます。この前、ぼくからあなたへの電話で「また、同人誌のあの人に言われてしまう。次の作品は異性が対象ではなくて、もっと観念的な世界にチャレンジしてみたい」とぼくは話しました。その目的が叶わなくなりそうです。有言実行は難しいものです。書きやすいからと、またしても身近なことが中心です。似たような別バージョンで構想もしていました。あなたと連絡が取れなくなり、相手に届かないメールを独白形式で、延々と書き続けるという設定でした。今、書いている原型かもしれません。
 あなたと再会できて、シナリオのイメージのかたちが、現実から修正を余儀なくされたことになります。事実の部分が出てくると、自由に想像する部分が狭められます。何通りかのシナリオの中には、全く会えなくなるのと並行して、途中で会えたらどうなるか、というのもありました。連絡が取れるかもしれないという期待もあったからです。長い付き合いです。自分がそう簡単に忘れられないのに、あなたの方もそうではないかという、思いがありました。一方で、長い付き合いの、腐れ縁みたいなものを断ち切って、新たなスタート位置に立とうとするあなたを、追い掛けてはいけないのでは、という思いもありました。ある部分では腹を括っていたのです。富山に来たあなたと、再会することになりました。少し予想より早かったことになります。
 現時点において、このメール用の文章は、読まれていることを前提に書いています。ぼくが渡した「渤海」70号と71号を、翌々日に読み終えたとメールが届きました。その中のメールにぼくの作品の感想がありました。その次のメールの中で、他に面白い作品がないかということも書かれていました。全部読めないから、同人誌の中で面白い小説があったら、教えて欲しいというものでした。ぼく達二人は映画を一緒に見て共感できる位のものです。今まで、全然興味を示さなかった小説に、関心が向いたことを、嬉しく思います。音楽ジャンルの好みに、互いの違いがあります。酒や食の探究心に、開きがあります。共通に語れるものが増えたことは、喜ばしいことです。
 それだけでは、二人の結末が明るいものではないのです。いつもの習慣でいろんなことを考えてしまうのです。先の文章でも少し触れましたが、最悪のケースも考えました。会えないし、連絡が全く取れないという状況です。そして、メールが読まれないような状況になるのです。そんなシナリオを述べてみましょう。
 このメールはGメールで発信されています。Gメールは知っての通り、インターネット経由なら、ガラケー、スマートフォン、PCを問わず、どんな端末でも、共用できる送受信ツールです。Gメールやヤフー・メールなどは、迷惑メール対策として、アダルト関連の単語があったら、自動で迷惑メールに分類されるようになっています。さらに、受け取り側の判断として、チェックを入れれば、常時送られてくる興味のない広告メールなどを、迷惑メールに仕分けられるように設定することができます。見なくていいメールを事前に振り分けしてくれるのです。迷惑メールに分類されたメールは、消去されていき、二度と読むことはないのです。ぼくが発信したメールが、あなたの方で迷惑メールとして、チェックを入れられたとします。ぼくのメールは永遠に読まれないことになります。そんな状況を描こうとしていたのです。
 最悪なシナリオはこんなものです。Gメールはインターネットに繋がっているPCやスマートフォンなら世界中で送受信できます。もし、会えないまま、あなたが外国に旅立ったとします。外国の地にいたとしてもGメールで連絡が取れます。しかし、返信する意思がないと、一方通行になるだけで、やり取りが成立しません。そのうちに、音信がなくなります。あなたのGメールの受信設定で、ぼくのメールアドレスを、迷惑メールの設定にしているのではないかと、疑心暗鬼になるのです。そうなった原因を過去の記憶から探るというものです。思い当たるいろんな場面をシナリオに挿入するのです。そして、ああすれば良かった、こうすれば良かったのではないかと、懺悔しながら、一方通行のメールを発信し続けるのです。一方で微かな期待もしているのです。あなたが迷惑メール扱いにしていないことを信じながら、健気にも返事のないメールを送り続けるという悲しい物語です。仮のタイトルは「読まれないかもしれないメール」です。その話を少し前まで書いていました。虚しくて、悲しくなってしまいました。憂鬱な状態から回復しなかったので、途中から書くのを止めて、中断したままになっています。
 ぼくの方からは山陰旅行の後、初回は長めな詫びのメールを送りました。その後の二ヶ月のあいだは、体調や環境の変化がないかどうかの、「元気でやっている?」程度の、短いメールを二、三回程度送信しました。固執しているような内容の書き込みや、返事を求めているようなものではありませんでした。そうしているうちに、新幹線に乗ったあなたから、「想っていてくれてありがとう」というメールが来たのです。あなたに送ったメールは確かに届いていたことになるのです。この前の旅行直後のメールには「繋がっていた糸がプツンと切れてしまったみたい。互いに理解できないようだし、この先も見通せないなら、止めにしよう」とありました。そんなメールがあったのに、ぼく達の関係は辛うじて繋がっていたことになります。
 現実ではあなたにメールが読まれていることになり、最悪のシナリオの一つが消えました。それはそれで良かったのかもしれません。モチベーションが弱いと書き続けることが難しいものですね。

 はくどう通信7
 二人が再会したあの日、あなたに同人誌を渡した時に言った言葉を覚えていますか? 「渤海の70号は台湾旅行と新宿の文壇バーに行ってきた時の話だよ。71号はずっと前、『亡くなったら、墓参りに行ってあげる』とぼくに言った言葉から発想したんだ。71号の登場人物は抽象化していて誰か分からないけれど、70号は殆ど実際にあったことを書いている。でも、そんなのは読者には分からないから…。全くの嘘っぱちだと思っているから、心配ないよ」と言って同人誌を渡しましたね。渡しながら、「嘘のような現実と現実のような嘘」という言葉を添えた筈です。嘘を本当のように書いて、本当にあったことを嘘のように書くというのは、小説を書く上で基本的なことです。「嘘のような現実と現実のような嘘」は最近見た映画の中で繰り返されたフレーズです。それが頭に残っていたので自然に出たのでしょう。
 二人で行った台湾の、旅行先での出来事も、新宿の文壇バーでのやり取りも、実際に体験したことです。あの中にあるのは、殆ど実際にあったことを記録しただけのことで、あなたが日記のようだと言ったのは、当事者ならではの感想です。この場合は本当にあったことを嘘のように書いてあるので、「現実のような嘘」のように描いています。でも、本当は逆で「嘘のような現実」だったのです。
 最近見た映画の中で、リフレーンのように繰り返されたフレーズだったので、無意識に「嘘のような現実と現実のような嘘」と言ったのでしょう。「嘘のような現実と現実のような嘘」だったのか、「現実のような嘘と嘘のような現実」だったのか、忘れました。どちらも同じだと思いますが、二つのうちのどちらかの筈です。最近、記憶力が衰えてしまいました。どっちのフレーズだったか、ハッキリしていないのです。映画館は暗くてメモ書きができません。もっとも、携帯電話のメールに未発信でメモ書きできたかもしれませんが、映画の世界に没頭しているので、印象的な言葉があっても、メモは取らないと思います。
 その映画について触れてみます。シナリオライターから映画学校の講師に転身した主人公の男がいました。ぼくと同世代とおぼしい、還暦を少し過ぎたくらいの男が、ストーカーとして女子高生に気付かれないようにつきまとうのです。女子高生が本屋に入りました。女子高生にしては珍しく小説のコーナーに立ち寄るのです。本棚で手に取った小説本が何であるか、近くで見ていた主人公の男が、後で確認するために、小説コーナーに行きます。覚えていた表紙の絵柄から、女子高生が手にしたのと同じ本を手に取りました。本のタイトルが目に留まりました。その小説が武田泰淳の「富士」だったのです。そして、ページを繰ると、一節にそのフレーズが載っていたのです。それ以降、そのフレーズが映画の中で何度も流れます。自らが、そのフレーズに影響されたように、上映中の映画の冒頭から続くストーリーを、その主人公の男がシナリオとして書くのです。その男の書かれたシナリオ通りに、女子高生とのあいだの、エロチックな妄想が入り乱れて、現実のような場面が出現するのです。映画の中で、シナリオ通りに、ストーカーとなった主人公が、虚構と現実の中を、交互に移動しながら展開していくのです。
 たまたま、図書館に行く機会がありました。映画を見終えた後、そのフレーズのことを、しばらく忘れていました。図書館に行った時に、ふと思い出しました。映画の中のフレーズが「嘘のような」で始まるのか「現実のような」で始まるのか気に掛かってきました。映画の中では、どちらのフレーズだったのか、確認したくなりました。めったに読まれる小説ではないのでしょう。日本の小説が並ぶ棚にはありませんでした。そこで、受付に特別に頼んで、書庫から武田泰淳の「富士」を出してもらい、調べました。富士が見える精神病院を描いた小説でした。全ページをくまなく流し読みして、そのフレーズを探しました。何度も繰り返し、行を指差してみました。どうしてなのか、どのページにも、そのフレーズが見当たらなかったのです。もしかしたら、見落としたのかもしれません。
 「その『富士』は知っている、そのフレーズは確かにある、なんで良く見て探さなかったのだ」と言う人がいるかもしれません。ただ、ぼくにはそのフレーズを見付けることはできませんでした。後で考えました。そもそもそんなフレーズが小説の中にあったのだろうかということです。元から、そのフレーズがなかったのではないかと疑うようになりました。映画のシナリオのために、そのフレーズを創作した可能性があるのです。もし、そうだったとしたら、「嘘のような現実と現実のような嘘」あるいは「現実のような嘘と嘘のような現実」のいずれかのフレーズが、小説の中に元々なかったので、探しても無駄だったことになります。あると思い込んで調べていたこと自体が、「嘘のような現実」の中にいるみたいでした。

 はくどう通信8
 山陰地方の神社に行ったことにも触れましょう。八重垣、須佐と出雲大社の三つの神社に行ってきましたね。山奥にある小さなものから、中程度の神社と大社までありました。出雲大社のように、広大な敷地内にあり、警官が警護しているような、あんなに規模の大きい神社に行ったのは久しぶりです。
 山陰地方には行ったことがなかったので、一度は旅行してみたいと思っていました。ぼくがあなたに何で今さら縁結びの神社に行くのかと尋ねることはしませんでした。彼氏と別れた後なので、次の相手を探しているのではないのかと、勘繰っている訳でもありません。それならそれで仕方ないという思いもありました。新しい恋人や結婚相手を望んでいるのだとしても、何もやましいことはないのです。親しい友達にも言えないぼくのような男は、元々存在していないことになっているのです。周りの友達がポツポツと結婚していることも知っています。縁結びの神社に神頼みする気持も分かるような気もします。それで、ぼくは敢えて聞きもしませんでした。
 あなたの方から、神社に行く理由を述べましたね。神社に行くのは縁結びだけではないと言いました。前の派遣会社にいた頃の、今も交流のある先輩社員の例を挙げました。島根の神社に行って来た後、今まで希望していても無理だった正社員に採用されたことを話しました。その先輩社員がお参りしたのが、出雲大社だったのか、須佐神社だったのか、上の空で聞いたので、忘れてしまいました。どちらかの神社だったのでしょう。いい加減に人の話を聞いていると怒るかもしれませんね。先輩社員の転機となった話と、友達の友達が行ったという須佐神社の話は、ちゃんと覚えています。須佐神社は旅行の目的先として、最優先にしていましたね。その神社に着く直前に「その杉の木から強い霊気が出ていて、霊感の強い人は、その場にいられなくなるくらいだって」と言いましたね。その話を聞いてから須佐神社の境内に入りました。そこの神社には大きな杉の木がパワースポットとしてありました。ぼくは鈍いのか、杉の木の下にいても、霊気みたいなものは、少しも感じませんでした。
 その話に反応するかたちで、前にも言ったことだけど、とことわって、東京の愛宕神社の話をしました。ぼくはアメリカ在住の若い女性ジャズピアニスト・山中千尋が、パーソナリティを務めるFM放送の音楽番組で、語っていた例を出しました。そのピアニストの友達は同じくアメリカに在住していて、現地の会計事務所に勤めています。その友達は、アメリカからインターネットを使って、日本では出世の神社で有名な、愛宕神社のホームページ上にアクセスして、毎日作法通りに参拝していたそうです。すると、通常では絶対に起こり得ないことが実現したらしいのです。あなたも宝くじの三億円が当たったらアメリカ国籍を取得すると言っていましたから、直ぐに国籍を取得するには、投資金名目で大金がいることは知っての通りです。ただ、グリーンカードという制度を使って永住権を取得することができるらしいのです。アメリカの政府機関が、世界中から地域を均一にして、公平に偏らないように希望者を募って、グリーンカードを抽選で与えるのだそうです。そのアメリカ在住の友達は会計士の資格は持ってはいるでしょう。が、会計事務所に勤めている位の一般人です。グリーンカードを得ることは難しいことでしょう。日本からグリーンカードの希望人数が少なかったということもないでしょう。プライベートや仕事で、アメリカに行く多くの日本人が、グリーンカードを希望しています。おそらく、倍率は非常に高いものでしょう。グリーンカードが取得できることは、通常では有り得ないことだと言っていました。東京にある、出世の逸話で有名な、愛宕神社のホームページにお参りしただけで、通常では考えられないことが起こったという例を、その女性ジャズピアニストが語っていました。バークリー音楽大学を首席で卒業して、現在は世界で活躍している有名な若手女性ピアニストです。公共の電波を使って、嘘を言ったりはしないと思います。
 「ぼくは、彼女のその話を信じるよ。宝くじに当たったようなものかもしれないけれど、全く有り得ないことでもないと思う。そんなこともあるかもしれないね。だけど、たまたまではなかったのかな。人事を尽くして、天命を待つという方が肝心じゃないのかな? 努力をしても結果が伴わないことがあると思う。だから、せめて努力をした後の、好結果を期待しての、神頼みではないのかな?」と言いました。その話は覚えているでしょうか? 再度、ここで述べたことになります。二人が語り合った神社のエピソードは、嘘のような本当の話かもしれません。

 はくどう通信9
 旅行先の三つの神社では、二人並んで一緒にお参りしました。ぼくは日本人の平均的な宗教観の持ち主です。日本の仏教は葬式仏教だと言いながら、自分では排斥したい気持はありません。宗教心の強い方ではないのですが、神社にも寺にもお参りします。自然にある巨石や大木にも神が存在するという物神崇拝の面も持っています。神の存在を過信していない人でも、自分の人生の中で運命的な出会いを感じる人も多くいると思います。ぼくがあなたに感じることでもあります。
 少し前の号になりますが「北向観音」という作品を書きました。あなたはこの作品を読んでいないと思います。その作品の中では、善光寺と北向観音堂に、あなたと二人で行ったことになっていて、一人称で語る男がぼくです。そこでは、その二カ所であなたの幸せを祈っています。現実にある寺社などを一人で参拝するときなら、自分の願い事を優先します。例えば「良い作品が書けますように」と祈っています。作品の「北向観音」の中でお参りした状況と同じく、三つの神社でも、自分のことよりあなたの幸せを一番目に祈りました。神社をお参りする時、「××が幸せになれますように」と言いました。いいカッコしいだと思うことでしょう。が、内心では策略があるのです。ここではそのことについて、正直に話をします。
 「花さかじいさん」を筆頭に、善人であることの大切さを教えるための、昔話や童話が数多くあります。正直者とか、人に親切な行いを施したりする善人に対して、神様は褒美を与えるのです。昔話なのか童話なのか、定かではありませんが、池に鍬を落とした農夫の話があります。農夫が鍬を池に落として途方に暮れていました。するとそれを見かねた池の神様が出てきてどんな鍬だったと尋ねるのです。農夫は正直に鉄の鍬だと答えます。正直者だと神様が褒めて金の鍬を授けるのでした。それを聞いた性根の悪い農夫はわざと鍬を池に落とします。困った振りをして神様にすがります。金の鍬だったと神様に伝えました。嘘を見抜いた神様は、何もしませんでした。その性悪な農民は嘘をついたばかりに大事な鍬も失ったという話です。嘘つきは得をしないという戒めになります。
 神様は利己的な栄誉とか、自分のことばかり求めていては、何もしてくれないのではないのかと、頭の中では打算があったのです。この場合はパートナーであるあなたの幸せを祈った方が得策かもしれないという心理が働いていたのです。でも、そんな策を用いていること自体が神様にはお見通しなのです。そんな画策をしているようでは願いを叶えられないと言うことです。人の幸せを祈っているような振りをして、自分のことを打算的に考えていたのです。だから、この前の旅行では、お参りした神社から、神罰が下ったのかもしれません。
 自分には若い女を手に入れたいという下心があります。できるならメジャーになって名声を得たいという野心もあります。今まで馬鹿にしてきた人々を見返してやりたいという反骨心もあります。人間が生きる上で必要な食欲と同じく、それらの欲求は、人を動かす動機として、自然なものだと言う人もいます。それでも、ぼくは穏やかな平和主義者で、我が強くないのです。敵をつくり、人を押し退けてでも、のし上がるような才覚もありません。神頼みをしているだけの、善良な一市民なのです。
 あなたに再会するまでは懺悔の日々を過ごしていました。いろいろと考える機会がありました。ある神社のことをラジオ放送で聞きました。FMかAMか、自宅だったのか、車の中だったのかも忘れました。ある縁結びの神社のことでした。その神社のお参りの順番としては、先ずは縁切りの社にお参りするのだそうです。今までの縁を切らないと新しい縁に出会えないということらしいです。そこの神社の作法や順序に従って、縁を切る社にお参りをした後、縁結びの社にお参りするらしいのです。再会した日もその神社のことを話しましたね。ぼく達にも関係することかもしれないからです。山陰旅行中の二日目の朝から二人のあいだに不穏な空気が流れました。最初に寄った神社は一日目の八重垣神社でした。翌日の午前中に寄ったのは須佐神社でした。どちらかの神社が、二人の縁を切ろうとしたのではないかとしか思えません。どちらかの神社から、何らかの作用を受けたとしか考えられないのです。あの須佐神社の杉の大木から影響を受けたのでしょうか? 神様が二人を、幸せに導くために、縁切りを施したのかもしれません。その効力が働いたのなら、以後の状況が納得できるのです。
 あの後、何をやっても二人の仲がおかしくなりました。何を言っても、どんな態度をとっても喧嘩の原因となりました。言動も行動も、まるで何かの力が働いたように、運命的に導かれているようでした。見えない不思議なパワーが働いたとしか考えられなかったのです。人が多く見ている食事処で食器をぼくに投げつけようとしましたね。あんなにキレたあなたを見たことがありません。あんな風なことは初めてでした。あなたは本当に何かに操られているようでした。周囲の側からは、破局を迎える仲の二人に見えたでしょう。しかしです。未来から振り返ったとすると、互いが望むところに到達するまでの、現象上のエポックだったのかもしれないのです。

 はくどう通信10
 さて、もうそろそろ書くのを止めたいと思います。同人誌は作品の枚数を多く書く分だけ、原稿掲載料の負担が増えます。四百字詰め原稿用紙一枚につき千円です。三十枚書いたら三万円です。原稿用紙三十枚だったら、同人誌の十ページ位になります。三十枚程度で済まそうと思っていたのに、ここの時点で、大幅に予定枚数を超過しています。再会したあの席で、次の外国旅行の話が出ました。ワーキング・ホリデーでカナダに行く前のついでだから、二人で二、三日だけニューヨークに行かないかという提案でした。簡単に言うけど、そうなると資金的なものが必要になります。贅沢をしないで、生活費を切り詰めれば、何とかなるかもしれません。それでも、予算的には厳しいので、ここでは書き過ぎを慎まなければなりません。だから、もうここらで止めたいと思います。
 心配事もあります。この文章自体が発表されているかということです。同人誌とはいうものの、編集長の審査を通らないと掲載されないのです。こんなメールの延長のような作品は駄目だと言われているかもしれません。厳しい編集長なので、書き直しか、別の作品の再提出を促されているかもしれません。そうなると、提出期限があるので、72号には掲載されていないかもしれません。すると、この文章が公の目に触れていないことになります。
 同人誌に掲載されない事態が想定されます。別の方法で発表できないかを考えてみました。同人誌への掲載が無理なら、ホームページに載せるという方法が残っていました。個人でホームページを持っていると言ったことがありますね。それは事実です。虚実が含まれているものの、この文章が作品と呼べるか分かりません。それでも、これをあなたに読んでもらいたかったのです。ここまでの文章を、自分のホームページに載せられます。今までは、誰も読まないホームページなど、更新する気にならなかったのです。それでも、あなたに読んでもらうためなら、手間は惜しまないつもりでいます。
 面倒で更新しないまま放置していたホームページですが、活用してみようと思います。そうすれば、これからも追加して書けます。あなたが外国の地に行ったとしても、続きは読めるでしょう。ホームページを更新しないまま長い月日が経っています。そのあいだにデスクトップパソコンを買い換えました。ホームページのデータをアップロードするために、FTPソフトをインストールしなければなりません。今ほど、前回のホームページの更新時期が、いつだったか調べてみました。最後にホームページを更新したのは三年半前でした。
 この文章をメールで送らなかったけれど、あなたにはまとめて読んで欲しかったのです。たとえ、外国にいたとしても、「むらい はくどう」で検索すればホームページを見つけることができます。そのホームページで、今まで書いていた文章と、他の作品群を見てください。すれ違いで以後は会えなくなることも想定しているからです。
 最後のシナリオも用意してあります。ホームページに掲載してもあなたに読まれないというものです。そうなると、今から、こんなことになるのです。
 さて、これを読んでいるメールの相手先であるあなたが虚構の人物だとしたら、どうなのでしょう。あるいは、実際に実在したのかもしれませんが、遠い過去に音信不通になっている人物かもしれないのです。もし、そうであったとしても、この文章をあなたに読んでもらいたかったのです。そのうち、この文章があなたの目に止まることがあるかもしれないという、微かな希望が、ぼくを動かしているのです。そういう幻想を持っていないと書き続けられなかったのです。あなたが架空の相手だったとしたら、この作品を掲載するために、ホームページを更新するという手間は、必要ないのかもしれません。ホームページを更新するかどうかは未だ決めていません。が、そんな想定をしてみたのは、あなたに読まれることに、一縷の希望を持ち続けているからです。
 さて、ここまで書いた中で、あなたと会ったということは事実なのでしょうか? 本当にあったことなのでしょうか? ぼくが書いていることですから、どうもうさん臭いことです。そもそも、冒頭にあった1回目のメールにしても、あなたが存在しないなら、送信していないことも考えられるのです。
 すると、この文章を読んでいる相手がいないことになります。そうすると、読者の方々に嘘を書いていたことになります。読者の皆様を疑心暗鬼にさせるかもしれないけれど、この文章はひょっとして最初から嘘っぱちであるかもしれないのです。実際にあったかのようなことを書いた虚構かもしれないのです。事情があって、わざとそういうことにしているのかもしれませんが、この文章の真偽は半信半疑でいてください。こんな文章でも、ここまで読んで頂いたとしたら、敬意を表します。
 これは作品と言えるかどうか分かりませんが、一応、枚数だけは足りています。ホームページに載せない作品として、もしかしたらパソコンのハードディスク内に未発表文章として残るかもしれません。パソコンを買い換えて処分したら、ハードディスクと共にこの文章は廃棄されて消えてしまいます。
 せっかく書いたのだから、ここまでの文章をUSBメモリーにバックアップしておきます。USBメモリーにバックアップしても、単なる習作のような文章が残るだけで、誰にも読まれないままになっているかもしれません。目の前にあるちっぽけなUSBメモリーを見ています。その小さな物の中に、嘘か真かわからないようなことが書かれた文章の記録が残るのです。その中にあるだろう文章を、果たして今後見る者がいるのでしょうか? そして、その内容の真偽を詮索する者がいるのでしょうか?
 この作品のタイトルは識別程度でいいでしょう。冒頭の行をそのままタイトルにします。そうしたら、後で見たとしても思い出しやすいでしょう。
 USBメモリー内のワープロ文書に、タイトルとして、博道(はくどう)通信[PC発信・返信任意]と入れます。