. 以前、愛人もどきの存在である、うら若き彼女から、異変を知らせる、携帯電話からのメールが、中年男に送られてきた。
 彼女から「いきなりパパとママ来ちゃった、どおしょう…」という文面のメールが、夜中、突然、男に送られてきた。週末、彼女と一緒に温泉に行くことになっていた。彼女と温泉地に行ったりすることは、男にとって年中の行事になりつつあった。男は焦った。男が計画していた、彼女と一緒に行く温泉旅行が、無駄になると思った。
 今まで彼女は、ドタキャンを一度もしたことはなかった。今まで約束を破ったことのない点で、男は彼女を信頼していた。男にとっては、想定外のことが起こったわけだ。不可抗力的なことで、男が手だてをしようにも、どうすることもできなかった。突然、彼女のアパートに両親が訪ねて来たのだった。
 毎日、彼女に電話を掛ける程、男はまめな方ではなかった。それでも、男にはコミュニケーションを欠いたらいけないという思いで、一週間おき位のペースで定期的に携帯電話で話しをするようにしていた。温泉に行く日の一週間前、男は彼女の携帯電話に掛けてみた。元気がなく、いらついている様に感じた。
 男が長く付き合ってきた経験上、彼女が機嫌の悪い時に発する声だと分かった。機嫌の悪い様な話し方をするのは、朝、彼女の寝起きばなの時が多い。その夜、男は話しをしてみて、機嫌の悪そうな状態だと気づいた。その頃の彼女は、夜型の生活をしていた。午後七時頃で、彼女の調子が出始める時間帯になろうとしていた。男は、携帯電話の向こう側で、なぜいらついているのか、おかしいと、その時に感じなかったのか、後で後悔した。しかし、男にとっては、その時点で心理的な変化が起こるかもしれないとは、予測できる筈がなかった。
 彼女と合いびきをして長い年月が経った。その間に彼女を見る観察眼を養った筈だった。しかし、危険な兆候を見抜けなかった。結果的に彼女とは長く付き合うようになってしまったが、心理的乱調までは、予想できる様な親密さは、醸成したのだろうかと、男は自問してみた。
 会話中に、感情に溢れた笑い声を多く聞くことができたのは、彼女が高校生だった頃までだろうかと、男は振り返った。語学専攻の大学に入学してからは、笑い声を聞くことは珍しくなったなと、男は思っていた。彼女は理路整然と論理的に話すタイプに変った。笑い声の聞けないのはいつものことだが、携帯電話で話していて、彼女の声にいつもの張りがなかったことに、男は気づいた。ぶっきらぼうに話すこと自体、男は特に気にはしていなかった。話し方は、歳の差を感じさせない男女の親密さを表わし、むしろ、気兼ねのない親族に喋っている様だと、男は感じていた。
 男はその時、携帯電話での会話の雰囲気が、今までとは違っているのに気づかなければならなかった。彼女の喋りには、感情の起伏や情緒的な反応はなかった。話し声に抑揚がないような喋り方だった。男は喋り方を注意して思い起してみた。そんな予兆があったかもしれないと考えていた。
 男は彼女の携帯電話に掛ける直前に、彼女とのメールのやり取りはあった。近くて便利だと思って、男は「箱根辺りはまだ飽きてない?」とメールを送った。すぐに彼女は「全然、飽きてない」と返事を返してきた。男が居住している日本海側には、有名な温泉地は数多くあり、職場の慰安旅行では、遠方の温泉地までわざわざ出かける必要もなかった。男は太平洋側で有名な箱根温泉へは行ったことがなかった。彼女の大学の友達同士で、箱根へは行って来たことがあることを、男は知っていた。箱根は時間的、距離的に都心からアクセスが簡単で、男も一度は行ってみたい温泉地だった。
 最初、彼女は群馬県の草津温泉を希望していた。彼女は温泉マニアに近い。温泉で癒されたいと、友達同士で、全国の温泉地に行ったりしているらしい。彼女は群馬と言うと、草津温泉を先ずイメージしていたらしい。一応、男は箱根・草津、両方の温泉地をインターネットで調べた。箱根・草津とも直前の予約が難しいということと、群馬の方の温泉は、東京方面から新幹線を利用しても、交通が不便で、駅からは、バスでしか行けないと説明した内容のメールを、男は返した。
 男は調べた結果、行き先を群馬県内のS温泉にした。インターネットの大手旅行ネットで検索したら、直前でも宿が空いていた。群馬の奥地にあるS温泉地に決定したのだった。ただ、JR等を利用したら、彼女にとっても、男ににとっても、不便なことには変わりなかった。男は考えた。自分の車で行くことした。群馬県内にある高速道路のインターで下りて、温泉地に一番近い新幹線の駅で、彼女と待ち合わせることに決めた。
 彼女からは了解したとメールが来た。そのメールが返って来た直後に、彼女の携帯に電話を掛けてみた。直前にメールが返ってきたし、在宅中なら、携帯電話で話しができると思った。直前に来たメールの内容では、大学の授業で提出させられる膨大な課題に、辟易しているみたいだった。「忙しくてホント疲れてる」というメールが送られてきた。男は少し心配になって、電話を掛けてみた。電話の、彼女の話し方や声に、少し違和感を感じた。
 その時の電話の会話でも、笑い声は含んでいなかった。暗い重たい声をしていた。だからこそ、男は温泉でも連れて行って、彼女を癒そうと思った。そして、インターネットで時間を掛けて、宿を探した。やや不便な場所にある温泉地だった。地図のルートを考え、彼女に極力不便を感じさせないようにと配慮した。彼女は新幹線の駅で降りればいいだけにした。S温泉は新幹線の駅からは草津温泉と距離的には変わらない。どちらも、特別交通アクセスがいい場所ではなかった。
 男はインターネットで宿の大体の料金は調べて知っていた。S温泉にある宿は、部屋ごとに露天風呂が付いているのに、都会に近い箱根や熱海や伊豆等の温泉地より、宿泊料はリーズナブルだった。部屋付き露天風呂のある部屋は、一泊二人で七万から十万円というのが、都会に近い温泉地の宿泊料金の相場だった。
 一流ホテルのスイートルームと比べ、宿泊料金はまだ安く上がると考えればいいのだが、男はケチだった。男にすれば、一年に数回位ならまだしも、一カ月位ごとに会いに行くための交通費や、彼女に渡す何がしの金品、トータルすると金額は少なくなかった。庶民感覚しか持たない男だったので、毎月、或いは隔月の出費としては高額に思えた。たまにリッチに過ごすより、性行為が主な目的の男にとっては、彼女と会う頻度を高めたいと思っていた。男は考えた。別に部屋に露天風呂がなくても良かった。旅館施設内の、貸し切りの露天風呂だったとしても、彼女となら充分楽しめる筈だった。彼女とはいつも一緒に風呂に入っている間柄だし、特別新鮮さはなかった。ただ、自室に露天風呂があったらいつでも気軽に入れて便利だし、彼女が喜んでくれると男は思った。事前準備は整っていた。後は日にちを待つだけになっていた。
 温泉に行くまで、後三日と迫った日の晩に、両親の到着を知らせるメールが、男へ突然送られてきた。男にはどうして彼女の両親が訪ねて来たのか、状況把握ができなかった。彼女から急なメールが来て、どうすればいいか分からなかったので、取り合えず、両親が撤退してくれる案を、男はメールで返した。そして、S温泉にいくまで後一日となった翌日の日中、彼女に送ったメールに対して、「がっかりした」いう内容のメールが送られてきた。なぜ、「がっかりした」かということを、説明してあった。
「いや、そうじゃなくて、親が会いに来た理由はどうあれ、親を迷惑扱いできないっコトょ。変な嘘までついて、追い出したくないし。そんなコトに必死になっているIにがっかりしたとゆってんのょ。まぁ、あたしの親のことまで考えろってのが無理なハナシなのかもしんないけど。でも、本当にあたしのことを思っている人ってあたしの大切な人のコトも考えてくれるから…別に普通に予定が入っているから出掛けるね、ってゆったよ。両親はそれで納得してその日に帰って行ったよ」
 そのメールがきたのは親が帰った日の翌日だった。なぜ、両親が車で何時間も掛けて彼女のアパートまで来たのかという事情は、次に会った時に聞いた。その時点では、男には事情が分かっていなかった。男は、両親が突然訪問して来たのは、どこかに行ったついでに、彼女のアパートに寄ったのだと、思い込んでいた。
 男にとっては、その時、なぜ彼女が精神に支障を来すまで落ち込んでいたのか、分からなかった。彼女は、凹んでいたらしい。彼女自身、一、二年に一度は、そんな風に死にたくなるような程、落ち込む状態になることを聞いたことがあった。後日、男は彼女からその時の状況を聞いて、やっと前後の事情が理解できたのだった。車で数時間も掛けて、地方から両親が彼女のもとに、駆けつけたのだった。そんなことなど男は知る由もなかった。男は知らなかっただけで、特別に変なことをしたとは思っていなかった。その時、男は、両親に彼女のアパートから撤退してもらうにはどうしたらいいかを考え、単に軽い気持ちで、例案としてメールしただけのことだった。
 外泊する為の口実を、案としてメールした。大学のゼミで合宿の予定が入っているからとか、東京にいる兄貴夫婦の方に行ってもらうとかの案だった。そして、男は深く考えもせず、メールを送った。男は、彼女のところまでわざわざ親が駆けつける程、深刻に落ち込んでいることは知らなかった。彼女は精神的にも肉体的にもボトムにあったのだろう。
 それでも、彼女は寸前まで温泉に行く意思を表わしていた。同時に直前まで、男を追い詰め、非難していた。男と彼女の間に微妙な亀裂が入りそうだった。嘘をつかないことと、約束は絶対に守ることを、彼女はポリシーとしていた。それから丸一日、二人の間は気まずいままで推移していった。それでも、彼女は約束を守るつもりでいたらしい。彼女は単に男に借りをつくりたくなかっただけかもしれない。
 温泉地に行く前日の深夜、彼女から風邪をひいたと連絡が入った。風邪が悪化しそうだとメールしてきた。男は、彼女と会うのが正直不安だった。元の信頼関係が戻るのだろうか、懸念があった。その時、男に期待感が出た。もしかしたら、彼女と会わなくていいかもしれないと思った。その時点で、彼女の風邪の症状が、回復に向かうかもしれなかったので、男の方からは断る理由はなかった。S温泉に行くかどうかは、分からなかった。男はどちらかと言うと、温泉に行けなくなる方がいいと思っていた。
 結局、予定の日、群馬の温泉地へ行けなかった。宿を予約してある当日の午前中に、肺炎を併発しそうだから、無理はできないと、彼女からメール連絡が入った。その日の午前中、男は出発直前までテニスをしていた。午前十時半頃のメール連絡で、彼女は出掛けられないことが分かった。そして、彼女から初めて受ける、ドタキャンとなった。実際、男はホッとした。それまでは、列車に乗っていても、飛行機で出掛けても、彼女と会えるまではうきうきとしていた。S温泉に行く日までの心境は、今までと違って、いつものような高揚した気分になっていなかった。
 なぜ、憂鬱になったのか、男は振り返って、考えた。一応彼女が風邪をひいたと連絡が入った時、直ぐにメールを返した。「悪化しそうだったら、行かなくてもいいから」と、伝えた。一応、彼女にしてみれば、表面的には優しく対応してくれたと思うかもしれない。そんな風に男は振るまった。相手を思いやる風にして、彼女の身体の方が大事だからと、安静にすることを勧めた。
 それは、演技でなく、内心から男は彼女を思いやってのことだった。その時は作為的なものはなかった筈だ。今振り返れば、果してそうだったのだろうかと、男自身が疑念を持っているけど、その時点での正直な心情だった。そのことによって、男に対する彼女の信頼は取り戻したように見えた。
 だが、男の中では、修復できない一つの溝が出来て、消し去れないように感じていた。例え彼女のわだかまりが消えたとしても、溝が埋まった訳でないと思っていた。火傷の後のように、彼女の心に傷痕が残ったのではないかと、男は考えた。そう考えたこと自体、男に溝を意識させてしまう結果となった。
 男は、温泉宿にキャンセルを入れた。直後の昼頃、彼女から男の携帯電話に連絡があった。電話の彼女の声は、風邪で酷くかすれていた。彼女は必死に詫びを入れていた。男にとってはいとおしくさえ感じた。男が親身になって心配していることが分ったのだろうか。男は彼女が自分の心情を理解してくれたのだったら幸いだと思った。かすれ声だったけど、彼女の声の質が明るくなっていた。風邪で体調が最悪な状態であったのに、愛想のつもりか、クスッと笑った。その笑い声を聞いて、男は少し安心した。
 男は、彼女から風邪が悪化するかもしれないと聞かされた時、ドタキャンになるかもしれない予感があった。そう考えると安堵する気持ちになったのは何故だろうと振り返った。男は彼女に同調した様に、精神が不安定になっていた。
「大切な人と思っている人の大切なものも大切に思う筈」と、そう言われたことが気になっていた。今まで、ずっと男は彼女のことを大切に思っていた。しかし、両親の強い思いには叶わないと思った。後で男は彼女から聞いた。彼女の神経を逆撫でしたメールを送った日の数時間前、彼女の両親が、勘違いをしていて駆けつけていた。娘が誘拐されたか、予測不可能な事態が発生したらしいと、思ったらしい。
「何と大げさに考えるものだなあ」とは、男の感慨だった。親は大事な娘を考える時、最悪の事態を想定するものかもしれないと、男は思ってみた。
 彼女は実家に電話もしないし、メールも送らなかった。親の方からすれば、アパートの固定電話にも、彼女の携帯電話にも繋がらない。メールの返信もない。心配するのは無理がない。彼女は体調が悪いか何かで、ずっとテレビを点けっぱなしにして、寝てたらしい。焦った母親は、アパートの大家さんに電話をした。彼女の部屋の点けっぱなしのテレビの音声は聞こえる。しかし、彼女を呼んでも返事がない。部屋の明かりは点いていたが、本人は出てこない。管理人は、電話で彼女の母親に、その状況をありのままに伝えた。心配して、居ても立ってもおられない母親は、その状況を父親に伝えたらしい。そこで、仕事を早引きにした父親を伴って、急遽彼女のアパートに車で向かったのだった。
 彼女はボトムの精神状態にあった。実家に連絡を入れなければならない頃だと、彼女自身、自覚していたのだと、後で聞いた。毎日のように実家にメールや電話の往信をしていたのに、突如、連絡しなくなり、日にちが経った。彼女自身も連絡を入れなければ「もう、やばい」と思っていたらしい。「連絡しなければ」と、思った矢先、彼女のアパートまで両親がやって来たのだった。顔を見たら両親は安心したらしく、その日の深夜に帰って行った。
 彼女の彼氏にしてみても、連絡が途切れることはいつものことだし、そんなことは慣れっこになっていた。男から連絡しても、彼女に電話の繋がらないことや、メールの返信のないことは、いつものことだった。だから、特別突飛な現象でないと思っていた。連絡がつかないことは過去に何度もあったし、男はあまり深刻に考えていなかったことも事実だった。
 だから今回、男は彼女の両親程は心配をしなかった。親でもないけど、男はそれまでは深く関わってきたと思い込んでいた。が今回、真剣に彼女のことを思っていないように誤解された。世間的には表に出ない関係だから、仕方ないと男は思いながらも、彼女の内面を理解しようとしなかったことで、彼女の信頼を失ったんじゃないかと、心配していた。
 そして、「がっかりした」と言われ、男は心配になってきた。彼女は男を嫌う理由を探していたのではないかと、心配している。嫌いになるきっかけを、彼女が探しているのではないかという、不安を感じていた。
 男は彼女のことを大事にしてきたつもりだった。メールでの誤解があった時、今までの思いの強さは、彼女に届いていないと思った。今までは、日常、恒常的に、心配してもきりがないと思っていた。男女間にとって愛とは、互いの日常の行動を制約することでなく、互いに生産的になるよう仕向けることだと思っていた。例え理想であれ、人間同士の関係としても、互いを高め合うことが、本当の意味での思いやりではないのかと、男は考えていた。男は理想に近づく努力をしてきたつもりだった。
 彼女の大切な対象も、男は気遣いしてきたつもりだった。彼女が彼女の彼氏と会うことを優先するなら、無理強いをして逢い引きしなかった。たまに過ごす両親との時間を大事にしたいと言えば、男は従ってきただろう。事情さえ分かれば、今回の温泉地に行けなかったことぐらいで、約束を破ったと相手をなじるつもりはなかった。それなのに今回、男はなぜ無理解者の汚名を受けたのだろうかと、男は運の悪さを悟った。
 男は別のことも考えた。もっと最悪のシナリオも想像した。男に絡んだのは、嫌う切っ掛けを潜在意識の中で探しているのではないかと、疑った。男の発した言葉尻を捕らえ、いちゃもんをつけられている様にも感じた。彼女の様子を見る限り、この機会を千載一遇のチャンスとして、待ち構えている様にしか思えなかった。だから、男は余計不安に陥っていた。
 彼女の彼氏は、日本の南端にある国立大学を卒業し、男と同じ県の、実家に戻ったのだった。その彼女の彼氏は、ある中小企業の設計技師として就職した。彼女と彼氏の距離は、近くなった。遠距離交際だけど、その気になればいつでも会うことができる。彼女の彼氏は、休日に会おうと思えば、彼女のアパートに行くことが出来る。毎週は叶わないとしても、隔週や一カ月に一度位は会えるようになった。彼女からは、熱愛期間や安定期の段階は、とうに過ぎていると、男は聞ていた。肉体関係も飽きているというよりは、長い時期、交わらないほうが新鮮さがあると、彼女は言い切った。
 彼女が彼氏と連絡しあう時、ヤフーのIP電話同士だから、通話料金は掛からないと言っていた。いつも長電話はできた。会わなくても寂しくはないのだろう。電話の会話だけで、不満のない仲になっていた。直接会わなくても、一緒にいなくても、お互いに常に信頼しあっていた。互いを縛らない仲でもあった。男は羨ましいと思った。男は部外者というより、彼女らの当事者間同士では、存在しない者であった。
 彼女が男と会うのは金品を得る為だった。それと、ある程度金銭的に余裕がなくては楽しめない場所に行けるからだった。男の頭には邪念が生まれた。男は今まで彼女の寂しさを埋める代替かもしないことに気づいた。だから、会いやすくなった彼氏といつでもコンタクトを取れるようになり、離れるきっかけを待っているのではないかと、男は疑っていた。
 そんな状態の中で、今回のことばかりでなく、いつかは、些細なことで、嫌う口実をつくろうとしていたのではないかと、男は仮定してみた。男は、そんな心理状態の彼女と会うことになったら、最悪だと思った。張り巡らされたクモの糸の中に、自ら飛び込んでいく虫のような存在が、自分だと思えた。男は既に、「がっかりした」と宣告されて、今まで築いてきた信頼を、失ったと感じていた。そして、直後に会う不安があった。男は、ブルーな気持ちでいた。「がっかりした」と言う彼女を、どうやって説得し、元の状態に修復できるのだろうかと、考えていた。
 男は両親が来た翌日に、「がっかりした」というメールを受け、彼女に、言い訳を返した。「そんな事情だとは知らなかったと…、知っていたら、そんなメールは送らなかったと…」。「凹んでいた」と言ってたけど、程度がどんなものかも知らなかったことと、「両親が心配してやって来る位のことだったなら、温泉地行きの旅行なんか取消したって良かったんだ」と、伝えた。信じてほしいと必死に説明し、懇願するしかないと、その時は思っていた。しかし、彼女を大切に思わない相手だと、一方的に彼女に思い込まれたと感じた男は、信頼を回復できる自信はなくなっていた。
「段々嫌いになることもあるし、急に嫌になることもある」。この言葉は、長いこと一緒に過ごした彼氏に関して、彼女から発せられた言葉だった。今までその言葉を、男は人ごとのように聞いていた。「がっかりした」というメールを読んだ時、男は自分のことも暗示していることに気づいた。いつも一行かそこらで、現代っ子風に、絵文字が入っているメールでしか、返信したことのない彼女だったのに、「がっかりした」、から続く内容のメールには、感情が含まれていた。その時書かれたメールは、カタカナが入ってまともな日本語ではないかもしれないが、珍しく絵文字なしで、句読点をつけて、まだ纏まりのある文章だった。彼女はいつも短いメールしか男に送らなかった。短くないメールを送ってきた時があった。男にとっては、苦い思い出しか残っていなかった。
 彼女が酒に酔って口を滑らせ、聞いてしまった出来事に、男は落ち込んだことがある。少し長め文章は、その時に受け取ったメール文以来だった。彼女は大学の新入生の時、外国人の英語教師の誕生パーティに、生徒達の一員として招かれた。他の生徒たちは翌日のバイトがあるからと帰って行った。彼女一人が帰らないで、一人だけ酔いつぶれて泊まってしまった。その英語教師に犯されたことの言い訳を述べたメール文は、句読点のついたまともな文章だった。「わたしの中では無かったことになっているから、もう、触れないで、お願い…」と続く、どうしようもなかったと補足説明した、メール文が送られて来た。彼女の誕生日の祝いをした都会から、離れて行く列車内で受信した、メールだった。
 帰路の新幹線の自由席は満席で、通路まで人が溢れていて、列車内の乗降口で、立ちっぱなしでいた。立ちっぱなしで、肉体的な苦痛を感じながら、彼女の犯されている状況を想像していた。立ちっぱなしの状態でも、身体の苦痛の方がまだましだと思いながら男は列車内で立っていた。身体の苦痛の方に神経が向かっているうちは、まだ救われていた。新幹線から在来線に乗り換えて、地元の駅に向かうまでは、列車の席に座ることはできた。そうすると、それまで想像していたことが、また思い出されてきて、苦痛が倍加した。落胆した気持を、男は彼女宛にメールした。すると、長めのメール文が返ってきた。
 帰ってきたメールはハッキリとした意思を持って書かれていた。真剣に書いてあった。彼女は書こうと思えば、ちゃんとした文章で表現できることが、男に分かった。それは悲しい現実を突きつけられた時にばかり分かる、彼女の能力の発見だった。
 男には彼女はいらつく原因は何となく分かっていた。それは長い春休みが明けてからすぐに五月の連休に入った。その時期は授業で与えられた課題を無難に消化していた。連休直後は割安料金の団体客として、友達同士で九州に旅行に行ったりしていた。その後、息つく間もない膨大なレポート提出義務が負担になっていた。温泉に行く日の一週間前に聞いた声の元気のなさは、そのせいだと思っていた。毎日、三時間位しか寝ていないと、彼女は言っていた。S温泉に行く前の、事前連絡のメールに返事がなかったりしたのは、多忙の為だと思い込んでいた。男は彼女が危機的な精神状態にあることが想像できなかった。
 母親はそんな彼女の、いつもと違う状況を察知した。誰とも話したくない精神状態にあっただけの彼女だったのに、母は誘拐されたのかと、最悪の事態を想定したらしい。母は最悪の場合を考え、父に伝えた。両親は仕事を放り出して娘の所に行った。そんな事情は、時が経過してから男に伝えられた。
 そして、時間が経過してからも、ずっと男は過ぎ去った出来事として、考察し続けている。
 こうも考えられた。彼女は人間としての根源的な何かを渇望していたのでないかと…。複雑な現代社会の中で、人によっては親からのまともな愛を受けられない娘はいるかもしれない。彼女に限っては、両親からは愛情を豊かに受けて育てられてきた。今現在も溺愛されている。
 親は手元にいない娘であるから余計に心配なのだ。親だから当然かもしれない。五月のゴールデンウィークの連休は、一日だけ友達の結婚式に出るのに実家に帰って来ただけで、すぐに大学に戻って行った。
 男もおかしな感覚を持った。男にとって、彼女と別れた直後の方が気になる存在なのだ。親愛の情が増し、些細なことでも心配になる。彼女と会った直後は心配でかなわなかった。一ヵ月が経ち、二ヵ月経ち、時の経過とともにどうでも良くなってくるのはどういうことなのだろうかと、不思議に感じた。遠くの親戚よりも、近くの友達とは良く言ったものだ。男は同僚とともに、仕事に没頭している方が、心情的に安定していることと、似ているかもしれないと考えた。
 彼女は彼氏と三ヵ月以上も会っていなかった。その頃、突然、親の来訪があった。そして、S温泉キャンセル事件の後も、男と会っていた。それ以後、彼女は立ち直ったように、表面的には見えている。そのボトムの精神状態にあった時、肉親からの愛と似ているようで、別な情愛的なものを欲していたのではと、男は仮定している。
 精神が弱っている状態の時は、誰でも側にいてほしかったのかもしれないと男は考えた。どっちかと言えば、女友達でない、もっと動物的でスキンシップを伴う情愛が彼女に必要だったかもしれないと男は思った。直接的に皮膚感覚に訴えるものを望んでいたのかもしれないと、男は考えた。肉体的に自分の存在を認めてくれる相手、直接的に肌を必要とされる相手、異性から切望されている証が必要であったのかもしれないと、男は考えた。彼女はレスビアンでないのだから、男からの性的なスキンシップが必要だったのかもしれないと、男は自分勝手な想像を巡らしていた。
 その役割を果して男が担えていたのだろうか自問してみた。彼女にとって、男から大切にされているかどうか、懸念を持って見ていたとしか、考えられなかった。その点、彼女の彼氏とは違う。彼女の彼氏は、土曜日に休みがない会社に就職した。それでも、そのつもりになればいつでも会うことができる。彼女は就職したての彼氏を思いやって、環境に適応させる為に、無理をして会いに来させないようにしているのかもしれない。そして、彼女は彼氏の精神的な支えとなっている。逆に男へは日常的なものを含めて心配りはしてない。そんな風に二重の相手がいる状況でも、男とは定期的に会ってはいた。
 例えば、男が彼氏の代替えだったとしたら、彼女の最悪な精神状態を埋め合わせて、癒すべき存在となったかもしれないし、彼女の生活実態を軽視した男として、失態を埋め合わせできなかったかもしれない。どちらとも言えないだろうと、男は思っていた。
 今まで類似した出来事があった。現象的に男は経験していた。男は彼女を観察していた。男と会う前はいらついていることが多かった。男と肉体的に交わった後は、穏やかになっていた。完璧でなくても、代替えにはなっていた可能性は高いと男は思っていた。
 たまにしか会わなくても、彼女とは長い年月が経過した。たまにしか会えなくても、彼女の心情変化を見逃していないと、男は錯覚していた。いつか、関係の終わりは来るのだろうと、男は覚悟していた。男の願いとしては、出来るかぎり長く続く関係でいたいと思っていた。
 あの時、いらついていても、分かってもらいたいと、一瞬でも彼女は思っていたのかもしれない。男に少しは愛情を欲しようとしたかもしれない。男に「大切な人」として取り扱ってほしいと、彼女は望んだかもしれない。男の存在を少しは必要としたのかもしれない。
 現代社会は人間同士の関係を深めない風潮になっていて、人間関係も、男女間の精神的な関わり合いも、希薄になりつつあると、世間の人々は流布していると、男は認識していた。男も互いに拘束される関係は望まない。だから、男には友達が少ない。男女間の関わりは薄くなったと言っても、どこまでが表面的で、どこまで内面的なのだろうと、時代時代にある男女間の、永遠の不思議さを男は考えていた。
 男は今回のことで彼女を理解したのか、個の女から一般の女を類推できたのかと、男は振り返ってみた。男にとって女の謎は深まるばかりとなった。ただ、少しの変化を男は見逃さなかった。彼女は男を精神的な対象から除外しなかった。深いところまで関わろうとする微かな兆候と、象徴的な出来事があった。単に表面的な現象だけでなかった。今までの、トータルとしての長い間のスキンシップがあったからこそ、気持ちに変化が起こったのだと思った。心理的なことは、男が面倒で考えようとしないままできた、ツケが来たのだ。彼女の気持は不明なままで、男には彼女の心の中には立ち入れないと思っている。が、彼女自身も分からないことかもしれなけど、彼女の心に微妙な変化があったことは、事実ではなかったのかと男は考えた。
 彼女は一時的にも、男の深部へ立ち入ろうとしたのではないかと…、それは、彼女にとっても引き返せない危険な場所であったかもしれないと…、男女間の溝の淵まで近づこうとした痕跡があったのでないのかと…、男は仮定してみた。男にとっては、不安感の真っ只中にいることになってしまったが、喜ぶべきことではなかったのかと……。