男は、今でも裏物のコレクターなのだろうか。今の時点では、それらを所有し始めたのが「昔」となってしまった。「以前」という時の言い方が、時間を経て「昔」となってしまっただけだ。男がただ持っているだけの裏物のVHSビデオテープは、コレクションとして残っている。
 時代の変遷と共にビデオテープはDVD等のデジタル最新メディアに変わっている。男は本当の意味でのコレクターではない。男は面倒臭がり屋で、昔から持っている裏ビデオテープを分野別に分類している訳ではない。男の若い時はビデオを見ながらマスターベーションを行っていた。鑑賞後はビデオに未練はなかった。同じテープはせいぜいが二、三回、見る程度だったかもしれない。つまらないものは一回しか見ない時もあった。比較的気に入ったビデオでも、同じビデオを見てマスターベーションをしたいという気持ちにならなかった。
 男の若い頃は、鑑賞後の裏物テープに未練はなかった。知り合いに殆ど譲ってしまっていた。処分できないで残ったビデオテープは、押し入れの奥にしまい込んだままになっている。男としては、ビデオテープはどうでもいいコレクションとして残っている。今、男は年を食い、若い時のような精力はなくなっていた。精力を持て余すこともなくなった。昔程、男にとってアダルト物の必要性は、なくなってきていた。
 現在、ビデオテープでの裏物を取り扱っている販売業者はいない。裏物の全てはDVDに代わった。総ての業者はDVDの販売だけをしている。個人単位で簡単に裏DVDの販売ホームページを作成している。アメリカ経由のサーバーを開設し、裏物販売ホームページを開くことなど難しくない。サーバーをアメリカに置いていれば摘発されることはない。時々、摘発された容疑者が新聞記事に載っている。その容疑者がなぜ摘発されたかというと、幼児ポルノの取り扱いをしていたり、日本のサーバーを使っていて、売買当事者間の通販ルートが容易に特定できたからだ。
 新聞にポルノ売買で摘発された記事が掲載されていた。押収物件の写真を見て、誰もがお粗末な設備機器だと思うだろう。一人住まいのアパートの一室程度の広さがあれば、個人として誰でも開業できるのだ。専門業者への大がかりな摘発ではない。個人が少額の投資で、パソコンとかDVDのダビング機器を数台用意するだけだ。後はネット上にホームページを開設し広告を出すのみだ。ネット上で売りますと書き込みをすれば誰かが検索してくる。迷惑メールとして広告文書を、不特定多数に大量発信する厄介者もいる。新聞記事によれば、摘発を受けた者の中には、何千万単位の利益を上げている者もいた。個人の趣味の範囲程度なら許されたのだろう。度を越した売買をすれば、目立つようになってマークされるものだ。
 昔、裏本はアダルトショップで簡単に買えた。都会だったら裏通り、田舎の郊外でも幹線から少し外れた小さいスペースのアダルトショップに売っていた。今は裏本そのものがなくなった。日本の裏本は印刷技術が優れている。自然の肌色に近い写真製本は、世界的にも誇れる物だった。今は裏本の供給業者がいなくなった。
 インターネットの普及もある。デジタル媒体の裏本画像が簡単に手に入る。購入の必要性の無さから、印刷媒体としての裏本がなくなってしまった。今でも裏本が元々の供給源らしい画像データがインターネット上で公開されている。しかし、それは以前に発刊された裏本が元々の出所の画像だ。
 印刷物としての裏本の商売が成り立たたなくなってしまい、それまでアナログ媒体を利用してきたパソコンを取り扱えない高齢者の愛好家には、酷な時代になったかもしれない。もはや裏本という媒体は、過去の時代の貴重な遺物となってしまったのだろう。
 カメラ付携帯電話で撮影したプライベート画像でさえインターネット上に流布している。「ウィニー」経由で画像収集する者の、一般的な傾向が見て取れる。少女が局部を自分で押し開いたアングルで撮影する画像が流行っている。中には中高生の交際相手から撮影されただろう場面もある。鏡を使って自身の局部を撮影しているのもある。少女達の顔はハッキリ写ってるが、どこにでもいるような女の子達で誰か分からない。公の場に出たプライベート画像だが、匿名性が発揮されている。ほんの二、三年年前までは携帯電話の付属カメラは、解像度も低く、画像サイズは小さかった。今は、年々携帯電話のカメラ機能の画質が向上している。画質の基準となる画素数が、普及タイプのデジカメの性能に近くなっている。
 DVDが主流となって、裏物の仕入れルートが違っているらしい。一応、マスター媒体物の管理を行う裏物専門供給業者、あるいは卸業者が存在するのだろう。個人で撮影専門の映像媒体供給者が自営業として存在し、それら元請け業者に映像データを供給する。それに加え、販売側同士が、不足するDVD裏リスト分を、インターネット経由で、簡単にデータ交換できる。
 激安の裏物DVDのタイトルを見ると、どこの業者も共通している。値段も一枚何百円の単位だ。そして、素人を専門に、援助交際に託つけて、言葉巧みに被写体にしてしまうカメラマンがいる。撮影者と出演者を兼ね、趣味で実益を得ている。街で女の子を軟派し、撮影に没頭する映像供給者としてのマニアがいる。ビデオを見る需要者がいるから、そんな供給者もいる。ビデオカメラも、ハンディタイプのハイビジョンビデオカメラが販売される時代だ。年々ビデオカメラの性能が良くなっている。画質が向上し、臨場感も増している。薄暗いラブホテル内での、悪条件下の撮影でも、視聴に耐えられるようなものに仕上がっている。
 あるいは、マニアのプライベートコレクションだった物が、販売ルートに乗って日の目を見た映像もある。あるいは、販売目的で昔からあるビデオテープを、DVD用に編集しなおして、再販売している。画質を見れば、それがアナログビデオテープからのダビングした物だと、男には分かった。ビデオテープと言う媒体がなくなった。男はこれからは裏DVDのコレクターになっていくのだろう。
 男は経験上、インターネット上で所在のハッキリしない、特にアダルトサイトのホームページには気をつけなければいけないと思っていた。迷惑メールと一緒で相手のことなどお構いなく、会員獲得の為にいろんな仕掛けを施してくる。
 殆どのアダルトサイトのホームページ上ではホームページを開かせる為に、一部の画像を無料提供している場合がある。注意しないと、見本の猥褻画像を見るために、いろんな部分をクリックしてしまう。男は一度、ホームページ上の一部分をクリックしてしまい、後々、大変な目にあった。パソコンのスイッチを入れる。すると、好むと好まざるとに関わらず、必ずそのアダルトサイトにアクセスするような仕掛けに嵌まってしまった。本人の意志とは無関係にパソコンを立ち上げる度にアクセスしてしまう。それが毎回のことなので辟易してしまい、とうとう最初からOSをインストールし直した。パソコン本体にインストールした各ソフトは、一括してバックアップを取ってなかった。仕方なく、日常的に必要な幾つかのソフトを、最初から一つ一つインストールし直した。
 その他にも危険性のあるアダルトサイトのホームページがある。その手のホームページを開いただけで、閲覧者のメールアドレスが取得されてしまう、質の悪いものがある。アダルトサイトを開いた者のところには、不当請求のメールが送信される。おかしいからと、何かの間違いでないかと、メールを返信したり、指定された所に電話を掛けたりすると、相手は言葉巧みに職場とか住所を聞きだす。実在の氏名、住所を知られると弱みを握られたことになる。苦情を言ったつもりが、逆手に取られて、アダルトサイトに接続したことを家族や職場にばらすと脅迫してくる。
 確かに比較的長い期間、無料で裏本の画像を入手できたアダルトサイトのホームページだった。アダルトサイトの会員入会用バナー広告がなかった。どこかの良心的なマニアが立ち上げたホームページかと思っていた。だから、男はそのホームページを安心して開いていた。が、ある日、いつものように画像の一つをクリックした。すると別のホームページにリンクしてしまった。リンク先から退出する時にそのホームページのどこかをクリックした。すると入会したとメッセージが出てきた。そこが罠だった。長い期間信用させておいて、ある日突然変貌し、悪質なホームページになっていた。今、被害者が急増している「ワンクリック不正請求」のホームページにリンクしてしまった。
 アダルトサイトの運営者はホームページのバナー広告だけでも利益はあるものだ。無修正の猥褻画像位は無料で見られるし、画像データのコピーもできる。常識的に考えて使用する時は会員規約等の提示をして、入会の意志を確認する。誰が考えてもいきなり料金を請求するのはおかしい。普通はお試し期間がある位のものなのに、変だと直ぐに男は気づいた。そんな変な先からの不正請求メールが送られてきても無視し続けることにした。
 男は念のために入会云々と述べているホームページを印刷に掛けて記録しておいた。それから半年以上も言われもないメールが送り続けられてきた。男は無視し続けた。最後は訴訟に訴えると述べてきたし、示談金で解決しないかというメールも送られてきた。ある日を境にぴったりとメールは来なくなった。普通はアダルトサイトと言え良識的である。有効会員数の維持を図るため、良質な画像や動画等の配信に励むものだ。アダルトサイトの会員に一度もなったことのない者や、アダルトサイトを内緒でこっそり見たりしているパソコン初心者の中には、そんな輩の餌食になる者がいるのかもしれない。
 悪質なアダルトサイト業者から発信されるメールも危険だ。メールに付属した添付ファイルを開いたりすると、ウィルスに感染する可能性がある。営利目的のホームページに誘導されるような仕掛けならまだいい方だ。ウィンドウズOSを立ち上がらなくさせる、悪性コンピューターウィルスに感染するかもしれない。すると、それまで蓄積してきた総てのデータが消えてしまいかねないことになる。もしものことに備えて、男は大事なデータは面倒でも別ディスクに小まめにバックアップを取ることした。
 男の加入しているアダルトサイトの会費の支払いはクレジットカードでの決済しか認めていない。有効会員である限り、身元が明かされている。クレジット決済だから、匿名は効かない。だから、有害データを混入させたりする悪さはできない。男は安心だと思い加入した有料アダルトサイトだった。
 その有料アダルトサイトは日本語で表示されているので、日本人向けのホームページだった。しかし、サーバーはアメリカにあって、どこで運営しているか不明なので、摘発は無理だ。会員でないとどんな内容のものを提供しているのか分からない。そのアダルトサイトは、国際的にもシェアを拡大しようとしているのか、英語表示も選べた。クレジット決済しか扱わないし、加入期間単位別のドル料金を、その時々の為替レートで、円に換算して請求してくる。男は長期に渡って会員期間を更新し続け、何年も経っていた。
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 ぼくはパソコンのディスプレィ上の画像を見ている。金髪二人と、銀髪、茶髪の白人系の少女らが素っ裸で四人、こちらの方に尻を突き出している。アダルトサイトのホームページ上に投稿されていた画像である。
 二枚のうちの一枚は、金髪系の少女二人を含み、全員、向こう側を向いていて、顔は判別できない。尻の間にはくっきりと四人分、四本の縦の割れ目が分かる。縦筋の回りには、金髪系か銀、茶系か良く判別できないが、うっすらと恥毛が生えている。十代前半に見える。その画像は、ロリータ物の範疇に入るかもしれない。有料会員制のアダルトサイト上に投稿された画像とは言え、明らかにロリータ物であれば、サイト運営管理者が削除する。
  稀に、少女自身、何をされているか訳が分からないまま行われて、痛ましくも見える性行為場面が写った画像が見られる。そんなロリータ物の画像を載せることは、国際条約上、明白な禁止行為である。しかし、その画像の中で展開されてる行為そのものは、ぼくにとってはいささか羨ましい。ぼくにとって、その画像の中で行われているような相手とは、一生できないであろう体験かもしない。だから、見るだけでも、興味が湧く。
 新規にアップロードされた投稿画像をいつもチェックしていると、時々ラッキーな画像に出会える。東南アジア系少女であることもあるし、金髪の白人少女の時もある。問題画像が投稿されていても直ぐに削除はされない。サイト運営者が、画像を削除するまでは、タイムラグがある。いつも注意をして、投稿された直後の画像を見ていればいい。すると、僅かな確率で、投稿直後の特別な画像を取り込める。
 芸術作品のような単にポーズをとっている画像は大丈夫らしい。明らかに少女だと分かる画像であっても、芸術作品風な画像は許容されているらしい。恥毛が生えかけの局部は、ぼくみたいな者の見る意識によっては猥褻に見える。ぼくはエロチックな意識で見ている。目の前にあるパソコンのディスプレィには、四人の外国人の少女達の尻が並んだ、画像が映っている。ぼくには少女達は十代前半の年代に見える。二枚続きの画像のうち、一枚は三人の少女がカメラに顔を向ける。三人の外国人少女の顔立ちには幼さが残っている。
 それらの画像が載っていたのは会員制の有料アダルトサイトの中の会員自由投稿エリアだった。インターネット上からコレクションした画像を投稿している者もいる。ファイル交換ソフト「ウィニー」で収集し、動画上のものを静止画に加工し、画像として投稿している者もいる。普及版のデジカメでも機能の向上により、かなり高画質で撮影できる。デジカメで撮ったプライベート画像を投稿している者もいる。
 コレクター同士が交換し合ったものの中から、画像を公開しているかもしれない。ファイル交換ソフト経由で画像を公開しているかもしれないが、元の所在が明かでないから、著作権等の心配はない。その四人の少女達が写った画像は、リラックスした雰囲気の中で撮影されたように見える。欧米では日常的イベントとして開催される、ヌーディストクラブ内での、プライベートな記念写真の一コマかもしれない。
 その画像は想像力をかき立てる。中でもかわいいし、ぼくの好みな顔だちの女の子がいる。ぼくはその四人のうちの一人にぼくのペニスを突き刺したい衝動が沸き起こる。しかし、そこは単にパソコンのディスプレィ上のことで現実の世界でない。しかし、ぼくの想像の世界に組み入れることはできる。画像を見る限り、四人の少女達はその場の乗りで、4P、5Pも厭わないような雰囲気になったとする。単にヌーディストクラブでの余興の一部としては、ハードな内容にする。
 余興として性行為も許されるシチュエーションで、遊びとしてぼくはその少女達の中の一人を選んでペニスをその少女の割れ目に突き刺す。妄想の中で許されることなら、その少女の四人の陰部に、端の方から順番にぼくはペニスを挿入していく。四人のうちの一人は喘ぎ声を出している。他の三人の少女達は、その声を聞きながら興奮してくる。
 ちょっと顔を向ければ、ペニスを挿入されている一人の少女を見ることはできる。顔を極端に曲げれば、男であるぼくの顔も見ることができる。他の少女らは、自分のヴァギナに挿入してくれることを、期待している。
 ぼくは、四人それぞれの少女のバギナに順番にぼくのペニスを挿入していく。それぞれの少女の膣の具合が違う。締まり具合の違いを感じたり、下付だったり上付だったりと、少女の膣にも個人差があるだろう。もし、好みの少女がいなければ、ぼくのペニスは四人平等に均等な時間で挿入する。かわいいと感じた好みの少女には他の女の子よりは長めに、ペニスを挿入する。
 一人の少女だけにペニスを挿入している間、他の三人の少女達は聞き耳を立て、喘ぎ声を聞き、好奇心が沸き上がり、早く順番が来て、自分のヴァギナに挿入してくれないかと、期待感に満ちた心境になっている。
 膣に上付、下付があるらしいことは、昔から言われてきたことらしいが、医学的見地からは、詳しいことは知らない。ただ、単純に膣の締まり具合から来る気持ち良さだったら、下付の方がいいらしい。下付である女自身には関係なく、男だけ気持ちがいいと感じるのだろう。動物学上、哺乳類的進化の過程で、交尾のしやすいバックスタイルにとどまっているのは、膣の形状として、四本足動物や類人猿に近く、身体的には古代から進化していないのかもしれない。
 他の状況も思い描く。ぼくのペニスは一人しか挿入できないとする。少女四人より同数か一人多い四人か五人の男がいる。籤か何かで挿入する順番が決められている。しかも、挿入時間はほんの数分と決められいる。ぼくが一番先にペニスを挿入する優先順位を持ったとする。ぼく好みの少女を選ぶ。
 仮にかわいくない少女がいたとする。その少女にぼくはペニスを挿入する時間は少なくする。男の中にはぼくと同じロリータ趣味だが、少女の身体的相違に興味を示し、個々に異なる性器の具合を堪能したい欲求からか、時間的に均等にそれぞれのバギナに挿入するかもしれない。数分の挿入時間だが可愛い女の子に集中して次々と男のペニスが挿入されるかもしれない。挿入されている少女達もそのうちに誰がペニスを入れているのか分からなくなっていく。自分の性感帯も分からない少女達は、その場の異様な雰囲気から、集団催眠の状態、即ちトランス状態になって、それがエクスタシーだと勘違いしていく。
 少女は挿入されているうちに気持ちよくなっていく。十代前半の少女だし、セックスの経験は無いに等しいだろう。そんな状況で、愛液で膣が濡れることはないだろうと、誰もが思うだろう。が、そこは心配ない。何本ものペニスを交互に挿入されるだろう少女達であるが、最新のローションが塗ってある。バイアグラを開発した製薬会社が、世界中から得た莫大な利益から開発費をつぎ込み、開発した新薬の特殊ローションだ。
 性的に開発されていない少女であっても、即効で効き目がある。女性の不感症用に開発されたローションなので、効き目が違う。高齢者のセックス用にも医療実績を上げている。アメリカは多民族国家だ。混血していく過程にあって淫乱さは増し、セックスには寛大でおおらかだ。戒律の厳しいユダやカトリック教徒以外のアメリカ国民は、性行為そのものを、人生の楽しみの一部として容認している。そんな自由な国のアメリカだから、より快楽を追求していく。ターゲットとしてある程度資産を持つ、高齢者層までもが、セックス産業の対象となっていく。そんな中で、バイアグラが開発され、セックス産業のすそ野が広がった。セックス産業が経済拡大の要因となり、マーケットの地位を得ている。
 たぶん、ぼくは分裂症ではないだろう。現実と想像の世界はきちんと棲み分けが出来ている。デジタル画像の解像度は高くなっている。が、それは現実ではない。まだ、ぼくには明白に判別できる。肌の感触、匂い、気配から、動物的な感が利き、現実だと認識できる。現実の目の前のものと架空の世界は重なりっこない。幽霊とか、あの世の人も現実には見えるらしい、インチキな占い師のような能力は、ぼくにはない。他の者が想像したものは、自身の脳内幻想としてフィードバックし、ぼくなりに加工する。それは幻想だと認識している。分裂症の症状とは幻影が目の前の現実から分裂するのではない。ありもしない幻影が目の前に現実となって見えるらしい。ぼくにはそんな兆候がないことを自覚している。
 しかし、頭の中の出来事を咎められる権利は誰にもない。例え日本の総理大臣でも、アメリカの大統領でも、北朝鮮の独裁者でも、ぼくの想像していることを誰も止めることはできない。その状況はディスプレィ上の画像を見て、想像へと発展していっただけだ。誰もぼくのイマジネーションを止めることはできない。
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 最近のある時、アダルトサイトのホームページからダウンロードした動画を、男は何気なく見ていた。その動画にちらっと出演していた甲高い声に男は聞き覚えがあった。男は声に懐かしさを感じた。女優と打ち合わせをしている場面に出ていたのは、知る人ぞ知る、あのM監督だった。まだ、現役なのかと思い、びっくりした。一時、アダルトビデオ界で一斉を風靡したM監督だった。一時期、レンタルビデオショップのアダルトビデオコーナーでは、M監督のテープ作品群はアダルトコーナーを席巻していた。他の業者制作のアダルトビデオを、隅の方に追いやっていた。 ビデオオタクでは絶対に相手にしてくれない、美人の女とセックスをしているような、視聴者を意識したカメラアングルは、手法的に革新的だった。ビデオを見ている者がセックスを疑似体験しているような作品に仕上がっていた。常に男の視点でエクスタシーを考えていた。他にもいろんな新しい手法を試していた。女子高生の制服を女優に着せ、コスプレの演出では先駆者だった。
 女優の片足にパンティを引っ掛けておいてセックスを行う場面があった。そんな視覚的効果に男達はそそられた筈だ。今やその手法はアマチュアのプライベート作品にまで定石として用いられている。出演している女優が笛を吹いている。女優は性感帯を弄られている。女優はそのうちに笛を吹こうとして、息が荒くなる。そのうち、笛が吹けなくなる。女優が読書をしている作品もあった。女優は読み上げている官能小説本が、身体の反応で読めなくなっていく。
 それらの作品群には、何よりも暗さがない。昔のブルーフィルムの時代には考えられなかったことかもしれない。作品が陽気で明るい。犬の交尾のようなバックスタイルに心情的嫌悪感を抱いているのか、極端に拒絶する女優がいた。バックスタイルでペニスを挿入されそうになり、嫌がって部屋中を逃げている。作品の中では、逃げる女優と追いかける膝歩きの男優を、回りのカメラスタッフ達をも同時に映し、ぞろぞろと女優についていく。監督はその光景が面白かったのだろう。段々とエスカレートしていって、後の作品ではバックスタイルで階段を男女の性器を結合したまま登る、滑稽な作品も別にできていた。ちょっと脱線気味ぎみだと思った。「もっとまじめにやってくれよ。快楽の追求だけでいいんだ。笑いはいらないから」と、男はビデオテープを再生しているテレビ画面上の光景を見て呟いた。
 M監督は欧州のどこか人通りの多い大きな都市の駅前かどこかを、ストリーキングしたらしい。それも、駅弁スタイルで女を抱えたM監督が、素っ裸同士の相手と、性器を結合したまま人込みの中を走った。実話の武勇伝として、成人向き娯楽漫画週刊誌に掲載されていた。真偽の程は分からない。でも、M監督ならやりかねない。
 いわゆる表のアダルトビデオテープ程度であっても男女の性器を結合させ実際にコイトスをしていた。レンタルビデオショップで貸し出しをしているアダルトテープでは結合場面だけで性器は見せられない。実際の性器を見るよりも視聴者の想像力に訴えるような手法だが、裏物のビデオのように実際に性器を見なくても、充分にエロチックだった。
 裏物には美人のモデルが少ない。裏物には顔もスタイルも抜群だとか、若くピチピチだとか、セクシーで官能的だとかと言う、女優をタイプ別に選択する余地はない。裏物はせいぜいがヤンキー程度の色気のない女しか出演していなかった。鑑賞に堪え得たのは、一般社会人の間でも全国的に話題になった裏ビデオ「洗濯屋ケンちゃん」位だった。
 最近はインターネットで簡単に動画配信される。女優は素人の女の子が中心で、新鮮ではあるけれど、それは素材としていいだけのことだった。主に金銭目的の素人モデルが次々と供給されるようになった。都会には風俗嬢が履いて捨てる程いるだろう。例え風俗関連の仕事に関わってなくても、羞恥心を持たない素人モデルはどこにでもいる。出演モデルの供給源には事欠かないだろう。
 それでも、出演している素人出演者自身が、作為的な演出に反応して、性的に翻弄されている、初々しい光景は面白い。相手の男優を、好きとか嫌いとかの感情は抜きにして、身体的に感じてしまうのは、女の性だろう。情緒や精神の機微を微妙に現わしているエロチックなものではない。そうかと言って動物的と言うのでもない。男には、ディスプレィ上で絡み合う男女が、即物的に見てくるようになった。
 アダルト業界で活躍した頃、莫大な富をM監督は築いたのだろう。更に、現在のインターネット時代を見越して投資していたのだろう。過去の作品群は独創的で実験精神も持ち合わせていた。今となってみるとM監督は、利益を生み出すものを見抜く、先験的な才能も、持ち合わせていたことになる。男は一昔前、良く見たレンタルビデオの作品群だったが、今現在もインターネットの世界で世話になっているとは思ってもみなかった。男はこの前、アダルトサイト内から収集し終えた動画を見ていた。アドバイザーみたいな役で、冒頭にちらっと出ていた。M監督に間違いがないと男は確信した。
 法律の抜け穴と言うか、ホームページのサーバーは日本にない、アメリカのどこの地区にあるのかも分からないし、摘発は無理だ。猥褻な媒体を提供するホームページだと分かっていても、サーバーをチェックする為に監視官が国民の税金を元手に、法人クレジットカードを使用するという馬鹿げたことをするだろうか。
 案外、プライベートでは、教員、警官等の公務員が入会していたりするかもしれない。既にインターネットでの猥褻媒体物は普及しつくしている。猥褻物咎に問えないばかりでなく、既に大衆に広がり、市民権を得ている。普通の大人ならホームページの画像や動画を見たからと言って犯罪を起こすわけではないし、反社会勢力、暴力団の資金源になっている訳でもない。普通の大人なら長い間見ていると、飽きるのが常というものだ。男は会員の更新をしてアダルトサイトの会員であり続けていた。男も最近のマンネリ傾向の動画に飽きていた。それでも、惰性でそのまま会員であり続けていた。
 男は、現実世界では女相手からフェラチオ自体をしてもらうのはどっちかと言うと嫌いではなかった。しかし、現実感のある素人のプライベート実写であったとしても、女の子がペニスをしゃぶっている場面を男は見たくないと思っていた。男はそんな画像を鑑賞するのは趣味の範疇ではないから、これからもフェラチオ場面は収集しないだろう。
 男はインターネットが普及する前からパソコン通信を行っていた。当初、男はアダルト関連は眼中になく、純粋にメカニックなことに興味があった。リアルタイムで電話線を通って文字のやりとりをすることができること自体が不思議だった。少し年数が経ち、インターネットの黎明期を迎えた。その頃から、インターネットと性の開放に先進的な、アメリカからのアダルトデータ収集に腐心した。男は九十年代から始めたアダルト関連の雑多な収集物のコレクションを止めてない。
 男は二千年代に入ってから、有料アダルトサイトの会員になった。会員の投稿写真はインターネット上で流布されたデジタル静止画像だ。元は、投稿された画像の中に、ファイル交換ソフト「ウィニー」経由から流失したものも含んでいるかもしれないが、会員の素性が知れているから、投稿される画像そのものにウィルスの感染の危険性はない。プライベート物であっても、ファイル交換ソフトを介して出回った画像らしいから、著作権の問題などもない。
 男の住む家は祖父が建てた。家は父から遺産相続し、いずれ自分の所有物となる。引っ越しの必要もなく、何のトラブルもなければ死ぬまで住み続けるだろう。裏物VHSビデオテープが主流だった時期のものを、これからも押し入れの奥に保管し続け、更に年月が経つだろう。ビデオテープは人に譲ったりして少なくなったが、それでも押し入れの奥に時代の遺物としてビデオテープが眠っている。
 何度もの視聴に耐えられるエロの極上作品は滅多にない。今現在はアダルトサイトの有料会員であり、動画のダウンロードをしたものを、CD−R等にデジタルデータ保存している。が、それらもただ、惰性的にコレクションしているだけで、二回目は見たいと思わない。それらの映像は、殆どがストーリー的要素がない。昔の日活ロマンポルノのように作品内での実験精神もない。
 番茶も出花、若いのが取り柄の素人モデルばかりだ。視聴者の男側の好みの判断基準が違う。痩せている方がいいとか、グラマーなのがいいとか、出演する女へもそれぞれタイプ別に好みもあるだろう。男は好みの女の子が出ていたとしても、何度も見たいと思わない。それらの女たちの性器やコイトスの場面が映るだけだ。男が会員であり続けるのは、アダルトサイトから配信される新規の動画に、いつも違った顔だちの若いモデルが、新たに登場してくるからだ。それぞれの顔だちと肢体に、どんな性器が伴っているのか、興味が湧くからだ。
 男のコレクション数は極めて膨大な容量となった。裏本物は紙ベースの製本物でなく、無料や有料提供されているホームページから、デジタル画像として収集をしていた。有料会員のホームページからのデジタル画像群を含めると膨大な枚数となった。
 男の裏本画像集だけでも、千タイトルに迫ろうとしていた。男は、必要に迫られてビジネス集計ソフト「エクセル」を使いだした。数値の集計とかカルク機能とか、高度なものには使用しないで、単にタイトルの名寄せ整理に使用しているだけだ。そのビジネス用ソフトを使うまでは、無駄な労力を費やすこともあった。既に収集し終えたものだったのに、また同じタイトルの画像を集めることがなくなった。男はタイトル名までは覚えていないことが多い。それに、収集し終えた筈のモデルの顔もすっかり忘れてしまっている。同じタイトルを再び収集してしまわない為の予防的措置だ。
 昔、Aと言うグループの一員で、今はメジャー歌手になったTだって、裏本マニアとして名が知れている。その歌手は歌がベストセラーになり、カラオケの自分の持ち歌として十八番にしている人もいるだろう。結婚式の披露宴で誰かが歌うのを時々耳にすることもあるだろう。それ程の名作を作った有名歌手である。Tと言う歌手が名歌を残している。そんな歌手でも裏本マニアを公言している。ラジオのパーソナリティを務め、対談や司会進行の会話の中でも、オープンに自称裏本コレクターであることを公言している。
 裏本コレクターと公言しても、CDの売上や興行のコンサート回数が減る訳でもなく、その人のプライベートな趣味として、尊敬はされないかもしれないが、蔑視もされていない。公然と裏本コレクターを自認し、そしてオープンに話しをしている。求めがあれば誰にでも裏本は進呈してしまって、手元には殆ど残っていないとのことである。そのことは著名な歌手の人格を損なうこともなく、あくまでも個人的趣味として、歌の世界とは別のこととして認知されている。テレビニュースで見たのだが、皇室の園遊会に招かれて、天皇陛下と喋っていた。
 聞かれてもあっけらかんとオープンにすれば何も後ろめたさはない。隠そうとするから疑念を持たれるのだ。昔の裏物の陰画を見ると、芸術作品として程遠いが、時代の雰囲気が感じられる。それなりにその時代の隠微さを現わし、時代の影を写す媒体として価値はあるのだろう。別の国ではどうだろう。大衆には日の目を見ない裏世界のエロ媒体があっただろうか。陰部が写った写真を所持したことが見つかり、摘発されると、昔の中国共産党配下なら、投獄されたかもしれない。
 アメリカ並に性に開放的になった日本のモデル達は、スポーツ感覚でセックスを行い、見られても羞恥心が無いようだ。ある女達は複数の男と3P、4Pと乱交場面でも応じる。個人同士の愛のあるセックスではなく、見知らぬ不特定多数と交わっても快感を覚える淫乱な女となる。登場モデルの心中を察するに、男女一対一のプライベートセックスでなければ、快楽に集中できないでいるかもしれないが、映像の中の場面を見る限りは、抵抗なく楽しんでいるように映る。
 オープンにするから、そんなことも許されてきた。快楽をより高める手段として、性行為自体が目的になる。子孫を残すことを目的としない無宗教に近い国民である日本人に罪悪感はない。不道徳でもモラルに反することでもなくなってしまった。例えば、肌が接触するまでの過程を大事にしたりする、情緒のあるものでなくなっている。即、性器と性器が結合するような感じだ。
 昔の日活ロマンポルノの初期の時代は男のペニスを実際はモデルの女優に挿入していなかったらしい。たまたま、女性の喘ぎ声が小さくてマイクに集音ができなかった。それで、スタッフが男優に「じゃ、仕方ないから入れてくれませんか」と頼んだらしい。それでも、作品上では実際に男性の性器を女性の膣内に挿入しているかは判別できない。その後、実際に臨場感を上げる為に女性性器へのペニス挿入は公然の事実となったらしい。日本の成人映画にもそれなりのプロセスや経緯があったのだ。
 皮肉なもので、実際に入れていないと言い張ればいいだけで、公然猥褻罪での立証が不可能だ。そして、時代は進んだ。性行為は大衆化され、貞操感はなくなり、日本でも欧米のようにセックスはオープンになっていった。巷にはエイズは蔓延し、リスク的に見れば、プロの売春婦の方が安全だったりもする。
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 照明が煌々と照らされている部屋のベットの上で、彼女は何の抵抗もなく脚を開いている。目の前には彼女の陰部がある。皮膚の弱い彼女の為に、小陰茎周辺に入念にローションを塗りたくってある。親指の腹で同時に陰核を刺激しながら、挿入した中指を振幅させる。感じないと言って憚らない彼女が喘ぎ声を出している。
 彼女の膣内の温もりが心地よい。セオリーのようないつもの行いだ。彼女は何をされていても、子供がおしめを替えてもらっているように安心しきって開脚している。ぼくとは、どう考えても他人同士でしかない筈なのに、彼女は信頼しきって身を任せているのは何故だろう。
 彼女が十代の頃、彼女はこう言った。
「全然知らない人なら裸を見られてもどうってことないけど、知っている人だと恥ずかしい」
 ある程度深い関係になろうとした時に聞いた言葉だ。あの頃から、ぼくが彼女の知っている人になったのかなと、思い返す。あれから何年も経っていた。ぼくの存在が彼女の意識に入り込んだ度合いが深まった筈なのに、羞恥心はあの言葉を発した頃から比べると、無いに等しい。
 彼女との付き合いは長い。たまたま偶然、見ず知らずの相手同士として電話で知り合った。他人であるだけの彼女とどうして関係が長く続いたのだろう。彼女とは何度も別れのタイミングがあった。
 ぼくと彼女は身体の交わりから始まった。身体の接触を重ねるうちに段々と情が沸いていった。普通の恋愛とは逆のパターンだ。出会いは不純だったが、ぼくと彼女の関係はまだ続いている。男女の妙だ。彼氏持ちの彼女にとってはぼくとの秘密を自分の墓まで持っていくだろう。特定の女の性器と長く関わっていることが不思議だった。そして、今まで飽きていないことも不思議なことだ。
 彼女とは数えきれない程交わった。彼女の膣にぼくのペニスを挿入し、激しく腰を振りながらも、いつまで経っても射精しないことが時々ある。そのままでいたいようでいて、何でフィニッシュしないのだろうかという気分になる。運動量が増し汗をかく。行為後、皮膚の弱い彼女は陰部の痛みに耐えられないだろう。彼女は隣部屋に聞こえそうな嬌声を出している筈なのに、痛いだけだと、事後に言う。腰の水平振動は益々速度を挙げて、行為は止まらない。事前に飲んだ媚薬と酒が影響し、更に彼女の陰部に塗りたくったローションがペニスと膣の摩擦をなくし、射精させなくする。
 そんな情況下にある時は、一瞬、自分の身体なのに自分の身体でないような、奇妙な感覚に襲われる。腰だけが勝手に動いている。例え、人間としての正常位であったとしても、下半身だけは動物にとっての普遍的な交尾状態になる。彼女の顔はぼくの正面にある。が、下半身はペニスを突きたてて彼女の背面を這っている。犬のように猫のように牛のように馬のように、同時に、それらの哺乳類とは別の、爬虫類の蛇のように、長く接合している。
 コンドームをしているから彼女は妊娠をすることはなかった。彼女と彼女の彼氏も同じ避妊具を使う。彼女は少し前まで学生だったし、彼女の彼氏は親元の地方の会社に就職したてだった。今は彼女の住む都会に押しかけ同居している。彼女のために条件のいい会社に再就職した。子供ができたら遊べなくなったり、近い将来彼女も就職すると、彼女が仕事に専念できなくなる。それで当面は子供はつくらないつもりらしい。以前、ぼくは彼女に聞いた。「もし妊娠したら子供は下ろす?」。彼女の無言の沈黙が続いた。黙っていたから生むつもりでいるのだろう。
 小さなものに関心を示す、彼女はごく普通の女の子だ。子供も好きだが可愛いキャラクターグッズのぬいぐるみ類も、生き物の小型犬も好きだ。とりわけ、子供が大好きだ。赤ちゃんや小さい子供を見ている視線は柔らかい。いつも小さい子供見つけては「可愛い」と連呼する。子供ができたらできたで、覚悟は決めるだろう。彼女の兄貴も「出来ちゃった婚」らしい。自分で生み育てる子供も欲しいのだろう。
 ぼくの指は動く。その温もりのある膣を通過してその膣の中を彼女の子供が通るだろう。彼女と彼女の彼氏と血のつながった子供が生まれる。ぼくと彼女は、たくさん、肌を密着させた。もし、性行為が肌の違和感をなくすためのコミュニケーションなら、彼女の赤ん坊に触れる事前行動は充分終えた。彼女の膣からぼくとは血のつながっていない子供が彼女の膣を通り生まれる。だが、心情的には赤の他人の子供とは思えないでいる。
 飽くこともなく長い年月と回数、たくさん彼女と交わった。生まれてくるだろうフィアンセの子供であろうとも、彼女の赤ん坊の三分の一はぼくの分身であると認識してもいい程だ。
 今年、ぼくは日本人の男性平均年齢の、三分の二を過ぎた歳になった。この年齢まで子供は欲しいと思わなかった。自分の子供が、世の中に存在しようとするかもしれないなど、今まで考えられなかったことだ。でも、彼女との間の子供なら、それはそれで成り行き任せでいいと思うようになった。
 彼女にとっては有難迷惑かもしれないが、今のぼくの心境だ。ぼくみたいなケチな者が全財産を彼女に投げ打ってもいいと思っている。しかし、相手のあることだ。彼女は夫となる彼氏の子供を身ごもったら、世の中のしきたりに従い、結婚をして子育てに専念するだろう。その時こそ彼女との別れが来るだろう。
 彼女には今まで関わってもらって感謝はしている。出無精なぼくだが、彼女と一緒だから、いろんな所に旅行に行けた。いい思い出がたくさんできた。同時に喧嘩もたくさんした。言い合いをし、互いの意見をぶつけ合った。悦楽に比例した嫉妬と寂しさに打ちひしがれながら、年月が経った。彼女というものをほんの少しだけ理解もした。
 ディスプレィの画面上では今まで何千という女性性器を見てきた。画面上の光の濃淡で表されるものを、頭の中のイメージで、あたかもそこにあるように錯覚し、実際にあるもののように感じようとした。興奮しようとしたのは虚構の性器のシルエットだ。
 そして、現実の女性性器は、彼女のを筆頭に、数えきれない程見てきた。実際の女性器にどこに魅力があるのか分からない。あんなグロテスクな陰部のどこに引かれるのか分からない。性欲は本当に喚起されたのだろうか。性欲は湧くのだと思い込んでいるだけではないのか。どう見ても女性性器は美しくはない。
 孤独を忘れられるのは性行為で交わっているその瞬間だったり、コイトスに至るまでのキスだったり抱擁だったりする。その行為、その性器、ともども、単に何かへの通過点だけなのなのだろうが、子孫を残したいがための手段にすぎないのだったら、本能的動物的要素から脱却できていないと思うのは、ぼくだけなのだろうか。
 彼女や女一般の性器は人生みたいなものだ。みんな同じようなものなのに、引かれたり離れたり、撞着したり、固執したりする。どうしてなのだろう。疑問が陰圧となる。膣の中へとぼくの指が吸い込まれる。そして、子供が生まれ落ち、反撃を受ける。ぼくの人生は何だったのだろうか。ぼくの人生は類型的だったのか?
 彼女と他の女性の性器。頭の中のイメージとしての性器。現実で見た性器。それぞれの女の人生が違うように、その性器の形は微妙に違う。女性性器も分類的に同形があり、細かい相違がある。
 たくさんの陰部を目にしてきた。頭の中でイメージできる彼女の陰部は、確かに現実上のものだった。ぼく自身がイメージする陰部は、ディスプレィ上のものと、似ていないようで似ている。似ているようで似てない。同じくないようで同じい。同じようで同じくない。