私がアイマスクを覗くと若い女性が出てきてこちらを向いて喋り始めた。
 皆様、こんにちは。この度、リアリティ・バーチャルゲームナンバーIIをお買い求め頂いてありがとうございました。私はこのゲームの進行役です。よろしく、お願いいたします。
 これから、このゲームの説明をさせていただきます。このゲームは全自動になっています。今し方、DVDを挿入されたと思います。同時にインターネット経由でここに来場されたことになります。ここはマシンの設定の知識が全くない方でも存分にお楽しみ頂けるように設計されています。
 この全自動ゲーム機の説明をさせて頂きます。先ず、アイマスク内にあるアイセンサーがユーザーの目の動きで設定されることです。あなたは今、何もデータを入力していませんから、ここまでは再生専用のバーチャルゲーム機と変わりません。
 このゲーム機は今まで複雑で難しいとされていたユーザー設定が全自動で行われる画期的な機能を持ちました。最低限の入力はあなたがご覧になっている正面のパネルの表示している数字を見るだけでいいのです。
 では、マシンのテストを行います。私の姿が遠ざかる替りに四角いボードが見えますね。先ず四角い枠の中に標的みたいなものがあると思います。そこを見つめて下さい。はい、それで結構です。これで、このマシンの見つめる方向の微調整が完了しました。
 今回はあなたが初めてのお客さんなので説明をさせて頂きました。あなたの目の中の瞳孔を記憶しました。説明が必要ならばいつでも受けることは出来ます。とても簡単なので、この次から説明は省略します。一度体験したら次からどなたでも分かるからです。
 このゲーム機は物語を自動作成する機能を持っています。あなたの視線の動きで心理状態を解析出来ます。画面のどこを見つめたかで物語は変化します。それに、最新式の乱数データが入っていますから二度と同じ物語は体験しません。
 あなたの瞳の中の瞳孔から今現在のあなたの体調や心理状況がチェックされました。今日のあなたの体調は比較的ハイな状態だとマシンが判断しました。そうですね。違ったら瞬きを早めて下さい。
 はい、分かりました。ここで心理的にも適合していることがチェックされました。もし、あまのじゃくに逆に思い込もうと思っていてもその場合はそのように設定されるのです。今がブルーな状態だと思い込んでもアイマスク内のセンサーが脳波、心拍数や血圧ともリンクしていて、嘘は見抜けますのでご了承してください。
 あ、すみません。あくまでもこれはゲーム機なのでした。あなたのいる現実と違っていても、それはそれでいいのでした。ごめんなさい、ついついこゲーム機の多機能性を宣伝してしまいました。あなたの心理状況に適した物語だと思いますので最後までお楽しみください。
 さて、どんな物語が待っているでしょうか。誰も予想出来ません、楽しみですね。それではごゆっくりお楽しみ下さい。
 若い女性の説明が終わった。話題になっていたので買ってみたバーチャルリアリティゲームだが、今までのDVD再生専用機と違っていたので取扱説明を最後まで聞いた。マイマスクをするのは今までのDVD再生機器と変わらない。今の時代、どんな家電機器でも印刷物としての取扱説明書が付いていなかった。トータルで制御された家の中の家電製品にDVD再生装置は付属されていた。再生機器に繋げば取扱説明は受けられた。視覚的に疑問点は解消されるように出来ていた。ただ、取扱説明を受けようとする最初は必要ないものまで見てしまう。どこを開けば取扱説明を受けられるかと説明している。取扱説明のための取扱説明みたいだ。やはり、昔のように紙に印刷された取扱説明書から必要な項目だけ探すのが合理的なように感じるのは私が昔人間だからだろうか。
 アイマスクをした直後の映像で取扱説明と書かれた箇所を見れば良いだけだった。今回は、画面に何も表示されず、女性の姿と女性の声と時々の数字の並んだボードが画面に現われただけだった。説明は短時間で終わり、総てがオートマチックだった。
 いつもは再生専用DVDしか見ていなかった。当初、発売されたばかりの最新ソフトに対して私には思い込みがあった。設定が複雑であると思ったからだ。パソコンとゲーム機が普及し始めた頃からゲーム機に対する人間の主体性がなくなってきていた。年々、速度は倍加していった。最近のゲーム機は即座に応答を求めて来る。双方向にデータのやり取りが出来る最新ゲーム機は私の反応以上に急せるのだった。私に限っては機械に振り回されるのが嫌だった。
 パソコンが普及しはじめの頃、民間人で最初にインターネットに接続してきたのは私達の世代だ。インターネットに接続するまでの複雑な設定は苦にならなかった。確かに猥褻画像の鑑賞をしたいが為の裏事情があったかもしれない。しかし、パソコンやインターネットを爆発的に普及させたのは私達の世代なのだ。ビジネスだけでインターネットインフラが整備されたのではない。趣味を含め、私達世代が一般社会にインターネットを普及させてきたのだ。だから、余りにも何もかもオートマチック化された現在の状況は好きでない。部品を寄せ集め、手作りでコンピュータを作っていた頃が懐かしかった。
 マニュアルギアチェンジの車を乗り回していた昔は、人馬一体感のある走行が味わえた。オートマ車が全盛であっても一部では根強いアンチオートマ車ファンがいた。新型車に搭載されたGPSは発達し過ぎている。操縦をしなくても見えないレールの上を走るように目的地に運ばれて行く。自分の意志で動かす車だから自動車と言うのではないか。そんな車は鉄道と何ら変わらないではないかと思うのは私だけだろうか。
 昔の映画を原画以上の超リアリティにCG化された復古版DVDが出ていた。私達世代を狙ってそれなりに売れていた。再生専用だったので安価だった。インフレ気味の景気の中で年金生活者でもある程度のコレクションが出来た。昔を懐かしんでばかりいる私たちみたいな生かされている世代には映画を見てノスタルジックな時間潰しをするしかない。
 時間が有り余っていた。映画ばかり見ていてもつまらないと感じていた。話題のゲームソフトは連日のニュースを賑わしていた。殆どマイコン内蔵で家の中の家電製品はネットリンクされていた。付属しているDVD再生装置に繋げれば個々の設定はいらなった。勿論、双方向データ交信可能なインターネット接続だった。
 新発売のゲームソフトに先入観を持ちすぎていた。今度手に入れたソフトは、手軽な割りにオートマチック過ぎるでもなく、ある程度視聴者に主体性を持たせていた。DVDソフトに別途専用アイマスクを購入すればいいだけだった。
 さて、私はアイマスクの中の場面を見続けた。タイトルは流れなかった。ただ、自動的に進行していくのだった。 昔の私の部屋の中の状況が画面に出てきた。と言うことは、二十世紀末にタイムスリップしたらしい。その部屋に仕事帰りの後輩と私が一緒がいるらしい。その後輩にインターネットで収集しプリンターで印刷した裏画像を見せていた。私は「インターネットでダウンロードした裏画像はデータ量の関係で拡大しても写真のように鮮明でない」と伝えていた。すると後輩は「印刷物のドットと言われるぶつぶつも実際の生の女性性器も元を正せばぶつぶつ状態の原子の集合体でしかないですよ」と言葉を返した。
 当時の後輩は先祖の霊が連綿と続き子孫に存続すると信じていた。そのためには好きでもない相手とでも見合い結婚したし、離婚しても子供だけは手元に残したいと言っていた。そんな古風な考えを持っている彼がそんなことを言ったのだ。
 なるほどと私はその時思った。実際に人間の皮膚に包まれる脂肪や肉は、水やタンパク質で構成され、それらが複合し性器を構成しているが、DNA配列を拡大すれば原子の塊でしかないのだ。異性の生殖器を認識した脳も元を正せば原子の集合体でしかないのだ。そのことを私の頭の中の脳は考えようとしていた。更に、それを認識している私自身の脳も原子配列へ電気信号として伝えているだけなのだ。
 仕事でもプライベートでも、思い通りにいかない時期だった。自分の存在感が職場でも希薄だった。認識するということは脳の作業のことだ。「生産性」とは「非生産性」と同義語だと必死に説得している自分の姿があった。
 当時の私は現実に負けそうな時期だった。同じ業務の反復に辟易していて、長年勤めた職場を辞めようか決断しかねていた。後輩も結婚してから元気がなくなっていた。二人で励まし合っていた感がある。
 その二人の場面を見ていたその時、私は悩みを抱いている当時の私自身の脳を見てみたいと思いついた。
─なぜ、現実に振り回されなければならないのだ。楽しい仕事、そんなものはない。一生懸命仕事しても自分の時間の切り売りだ。人間関係? そんなことどうでもいいではないか。どうしてそんなに依怙地に考えるのだ。あいつらとは関係のないことだ。どうして人間は感情というものがあるのだ。常に私は不思議に考えていた。どうして、人を憎み、平常心を乱されるのかと……、私は無になって考え、無の存在でいたいだけなのだ。それなのに現実が私に負荷を与える。─
─その原因は何だ。─
 私は私の脳を分解したくなった。後輩は私の部屋から消えた。自分の部屋が病院の解剖室みたいな場所に換わっていた。部屋の中央に解剖台が設置されていた。
 私の身体が横たわっていた。メスは必要なかった。私はイメージした。脳外科手術で電気ノコギリを使用する訳でない。骨が砕け血が飛び散るイメージでもない。頭部が開閉式になっているロボットみたいに、ネジ回し一本で簡単に頭蓋骨が外れるイメージをした。
 脳は脳である。脳味噌は脳味噌でしかない。目の前の自分自身の脳味噌を見た。人のはらわたと見まがう鱈の精巣に似たぶよぶよの物体の中にどんな思考が隠れているのだろう。
 グロテスクな脳に自分のどんな悩みや不安、希望や夢が詰まっているのだろう。希望や夢? そんなものがはたして詰まっているだろうか。
 目の前にある自分の脳は私にとっては電源の切れたコンピュータみたいなものだ。いつも独りぼっちであって拭いきれない寂寥感。全世界から取り残された自分。どう考えても悲観的になってしまうのだった。
 脳は脳だ。希望や夢があったとしても脳は光り輝く訳でない。不安が一杯でもどす黒くなる訳でない。わたしは目の前にある自分の脳がどんな状態か見てみたいと思っていても脳は脳でしかないのだ。腹立たしい思いに浸った。わたしは自分の脳に二本の電極のような金属棒を左右の端に突っ込むイメージをした。
 電極? 細長いパソコンマウスのようにも見えた。
 私の頭の中がアイマスクへモニターされた。
 私の頭の中にあった状況はこうだ。私はインターネット上の仮想店舗を闊歩していた。一軒のDVDショップが見えたのでその店の中に入った。赤と白のチェック模様のエプロンをした女性店員がマニュアルで決められたような挨拶をしてきた。
 私は店内を巡回した。新作DVDソフトコーナーを探した。店内を回った。棚でなく女子店員のいるカウンター前の置き台に目的の新作DVDソフトが乱雑に山積みされていた。店内には私一人とカウンターの女子店員しかいなかった。
 山積みされた一番上の一枚を抜き、カウンターの女子店員の前まで持って行った。女子店員は事務的に処理した。そこはバーチャル世界のDVDショップの店内だが現実と見まがってしまう。しかし、一歩間違えると注意しなくてはならない領域に入るのだ。普通のアダルトコーナーの棚の前で興味を示すくらいならいいが、チャイルドポルノのコーナーでDVDを棚から取り出すだけで要注意人物のリストに載ってしまう。
 昔、資本主義国で共産党員の郵便物を警察官がチェックしていたように、今はサイバー監視評議会か何かがあってチェックされている。よって個人のプライバシーは殆どない。光ケーブル内を交錯する電気信号データ内には仮想世界が存在するのだ。動物の神経よりも単純な0と1のデジタル電気信号。その電気信号内で創られた仮想世界を評議委員会が常に監視していた。勿論、要注意人物の電子メールは傍受されていた。
 世界各国の女性議員が過半数を超えていた。何もかも規制が掛かっている。経済活動の国境がなくなって「規制緩和」という単語は死後になった。が、精神的な規制の網の目は益々厳しくなっている。アウトローな楽しみは皆無になってしまった。
 全人口に納税番号を兼ねた国民背番号が符番されていた。合法ドラッグやSMは容認されていたがロリコン愛好家はアブノーマルの危険人物としてマークされていた。要は女性議員らの嫌悪感によって重要度が決められていた。電子マネーで何を決済したかでその人間の嗜好や趣味が記録されてしまう。だから、チャイルドポルノを購入したりレンタルしただけで犯罪予備軍の要注意人物のリストに載ってしまうのだった。
 昔から私は携帯電話が嫌いだった。携帯電話は進化し身体の一部に同化するように小型化されていた。殆どの人間の片方の耳にイヤホンみたいなものが差し込こまれていた。それが携帯電話だった。法人に所属していた時は常に監視を受けその組織体からいつも呼び出しをくらっていた。
 一部の開発途上区域には家族という形態はかろうじて残っていた。地球人の殆どは、国家も法人も家族も意識内だけの所属感識になっていた。家族からも法人からも離れて久しい私には関係のないものだった。が、自分の家の部屋に戻りたいと思った。家? バーチャル世界に自分の家はあるのだろうか。

 私は部屋の中にいた。私の目の前に女がいた。私の理想のタイプの女性ではなかった。日本人か欧米人か判別出来ないのが最近の傾向だった。何世代前に逆上っても両親が日本人だし、ずっと日本に育ち、海外に一度も旅行さえもしたこともない経歴の筈なのに巷にはハーフのような顔立ちが溢れていた。世界的な傾向として東洋系の偏平な顔立ちがかえって個性的と持て囃されていた。
 私の好みとは関係なしに出現した女は誰だろう。そうだ、思い出した。DVDショップにいた女だった。なぜ、そんな女が出てきたのだ。わたしは自分を分析してみた。
 そうか、最近私は生身の女を見たことがなかった。アイマスクの中の映像は現実以上の臨場感があった。バーチャル世界から出現した目の前の女と生身の女の区別が出来なかった。
 アイマスクはローコストで超現実的な映像を見ることが出来た。それなりに対価を支払えば等身大に映すことの出来る大型立体ハイビジョン装置で鑑賞出来た。しかし、それは公共施設等や富豪に所有は限られた。
 一瞬、現実かとどうか見紛うことがある。現実でないことを立証するには、アイマスクをしているかどうか、自分の頭を少し振ってみるしかなかった。軽いアイマスクの重みを目の回りに感じることでしか、現実と虚構の違いを判別する手だてがなかった。目の回りの重さを若干の違和感として感じることで、目の前の映像が非現実であることを察知するのだった。
 私は瞬きを早めた。目の前の女は幽霊のようにスーツと消えた。私は大衆受けする女などどうでも良いのだ。消そうと強く念じた。
 じっと私はイメージした。
 目の前に全裸の女がいた。顔はのっぺらぼうだった。これがわたし好みの顔だち? なかなかイメージが湧いてこなかった。顔かたちは一つに確定しなくてはならなかった。無から有を作ることがいかに難しいことなのか私は認識させられた。
 歳になると昔のことが懐かしく思い出される。私は試しに思春期時代の初恋の彼女を思い浮かべようとしたが、結局、駄目だった。手元に昔の彼女の写真は残っていなかった。
 数分間、私は頭の中に彼女の顔だちをイメージしてみたがとうとう初恋の彼女の顔は思い描けなかった。彼女は女優のS・W子に似ていた。彼女は長年、その年代の歳相応の役柄を演じている私と同世代の女優だった。今もそれなりに女性らしさを感じ同世代の女性にしては若々しかった。しかし、私の記憶の中にある若い頃のS・W子はもっと美しかった。
 初恋の彼女は今の女優のS・W子ではなく若い頃のS・W子に似ていた。
 私は瞬きを早め当初の設定画面に戻した。データ収集のための検索ボタンを見つめた。部屋の回線からネットしていて家にいなくても過去のどんなデータともリンクしていた。女優のS・W子の作品のプロフィールファイルを引き出した。若い頃のS・W子の顔かたちの映像が出てきた。 空白のままの顔の部分に一時前に見た若き日のS・W子の顔をイメージした。昔の初恋の彼女の顔だちは思い出せないが、S・W子の顔の輪郭は記憶に残った。単にリンクしたデータが当てはまっただけなのかは、定かでない。
 思春期の淡い記憶ではなく、もっとどろどろとしたものでなかったのか。性欲を隠すために純愛としてカモフラージュしていたのだ。恋愛に自信がないからと純愛と思い込もうとしていた。
 彼女は私の頼りなさに嫌気がさして遠ざかっていったのだ。もし、肉体関係を結んでいたとしても同じだったろう。却って肉体の交わりだけの目的を達成したのなら後悔の念はなかったと思う。
 当時、性欲の捌け口がなかったので鬱くつとした澱のような意識が潜在意識にあった。若い頃の強烈な性欲を抑えきれなかった筈だ。頭の中で想像した彼女の裸体はどのヌード写真より鮮烈で強烈な印象があった。
 それほど強い吸引力だった。今では曖昧な記憶もない。感情の塊だった衝動的なものは何も残っていない。性欲と減退とともに昔の激情は忘れてしまった。学生時代の同級生と久しぶりに再会し、昔の微かな面影を探しているのと似ている。
 自分自身は変わらず相手だけが変わったように感じるように錯覚するのは、若き日のイメージが修正されず脳に記憶されているだけなのだ。

 ある部屋に私がいた。
 三メートル四方の小さな部屋に似合わず、広々と見えるのは、真ん中に置かれた椅子が一つあるだけで、他に何にもなかった。
 夕食時が近づく。私は朝からまだ何も食べていなかった。椅子に腰掛けて臭い生あくびを三度立て続けにした。
 何かが指先に触れた筈だ。おや、何だろう? パソコン用ペンタイプ無線式携帯マウスだった。実際は筆記用具の様に手にするが、ゲーム機のガンスロットルを兼ねたペンタイプに小型化したものだった。親指一つで右クイック、左クイックが出来た。
 突然、目の前の白壁に大型のスクリーンが現れた。部屋に窓らしいものは廊下側と思われる方向にあった。光を投影させたスクリーンが部屋の白壁に現れた。マウスの動きに連動し、矢印がスクリーンを移動した。思わず、そして何気なく、私はそのマウスで壁にいたずら書きをはじめていた。
 考えることは食べ物のことだけだった。先ず、パンの図を書いた。ごくっと生唾を飲み込み、野球のグローブのようなジャムパン、バター入りのロールパン、それから大人の頭ほどもある食パンを描いた。
 食パンのうまそうな割れ目、艶やかな肌。ついでにその横に煉瓦ほどもあるバターの塊。ついでにホットミルクを描いた。ほのかな湯気の出ているジョッキのような大きいマグカップ。
 微かな記憶では、誰かが訪問してくれて食事を運んでくれていたようだったが、その日に限ってやってこなかった。椅子から身を起こすことができない程、空腹感は頂点に達していた。
 次第に意識が暗闇の中にめり込み、スクリーンの向こうのパンのジャングル、寿司の盛り合わせ、ミルクの海、牛肉とチーズの山……と駆けめぐるうちに疲れて彼はうとうととしてしまった。
 何か重量感のあるものが床に落ちた音と、瀬戸物が割れる音に目を覚ますと、すでに日が暮れ、夜中だった。部屋の中は真っ暗だった。何事だろうと音のしたあたりに目をやって息をひそめた。
 割れたマグカップ。その辺りにこぼれ、まだ湯気をたてているのはたしかにミルクである。さらにその付近一面に、パン、バター、スプーン、それに運良く割れなかった受け皿。そして、スクリーンにマウスで描いた絵は消えていた。
 まさか……と全身の血管が鳴りはじめた。。私が椅子から忍び足で近づいた。嘘だ、嘘だ、こんなことがあってたまるものか。しかし、それは実物だった。むせかえるようなミルクの甘い香のどこに偽りがあるのか。パンの肌をすべってゆく指の感触。 
 思い切って口にした。その舌触り、これでも信じられないと言うのか。本当だ。信じようにも怖かった。
 怖くても、本当なんだ。食えるんだ。パンはパンの味、バターはマーガリンでなくバターの味。全部、本物の味だ。スプーンは光っていて、顔がうつる。
 気がつくといつの間にか食べおわっていて私はホッとしていた。しかし、なぜホッとしたのか、その理由を思い出すと、また慌てだした。例のパソコンマウスを手にとって、しげしげと観察する。いくら眺めても分からないことは分からない。
 確かめてみようと思えば、もう一度繰り返してみることだ。二度繰り返して成功すれば、それは現実であったというべきだろう。何か変わったものでも試してみようと思ったが、気が焦るのでもう一度描きなれたパンの図。描きあげたと思うと同時に、ころっとスクリーンが映った壁から離れてころげ落ちた。やはり本当だった。これは、繰り返されうる事実なのだ。
 世界の法則が変わったのだ。突然,歓喜が全身を硬直させる。神経の末端が伸び拡がった。息を切らして笑いだした。満腹し、しばらくして私は眠くなっていた。
 それではと、ベットを描いた。ベットというやつは、満腹すれば必ずいるものだし、別に減るものでないのだから、そうけちけちする必要はない。
 片目はすぐに眠ったが、片目は容易に寝つかれなかった。それは、その日の満足に比べて、まだ試みていない明日への懸念のせいなのだ。そのうちに片目も眠ってしまった。くい違った両目で一晩中まだらな夢を見た。
 さて、心配な翌朝は次のようにして明けた。
 誰かに追われて崖から落っこちた夢。ベットから落っこちたのではなかった。目を覚ますと、ベットなどどこにもなかった。相変わらず、あるのは椅子ひとつだった。では、昨晩の出来事は? 私はおずおずと壁のスクリーンを見回し、首をかしげた。
 そこにはマウスで描かれた下手な絵が残っていた。食べ残しのパンとミルクの雫が付いているスプーン、半分になったバターを包む銀紙と空箱。その下にベット、彼が落っこちたはずのベットの図。
 昨夜描いたもののうち、食べられなかったものだけが、再び絵になって壁に戻っていたわけだ。不意に腰と肩に痛みを感じる。確かにベットから落ちたとしたら感じるようであろう痛みを感じた。
 試しに新しいパンを描いてみた。しかし、それは本物のパンになって転げ落ちるどころかマウスがパンの絵をなぞるとパンの輪郭は消えていった。
 それから私は考えていた。
 マウスを握りしめ、椅子にもたれて、空想にふけっていると次第に期待が結晶しはじめた。夕暮れ時が近づいた時、日没とともにあの効力が発するかもしれないという予想がほとんど確信にめいたものに変わっていた。
 私はマウスで壁のスクリーンにパンとバターとビーフ缶、それにコーヒーを描いた。昨晩のように落ちて割れたりするくことのないように忘れずにその下にテーブルを描きそえた。そして待った。
 陽が沈んだらしい。闇が部屋に充満した。室内灯のスイッチを入れに部屋の壁に近づいた。電灯の光は関係ないみたいだった。壁のスクリーンと目の間には靄が掛かっているようだ。壁のスクリーン上の絵はますます淡くなり、靄はますます濃くなっていった。やがて靄が凝縮され、物質の形態をとったかと思うと忽然、絵の内容が実体として現れるのだった。
 コーヒーはうまそうに湯気をたてていた。パンは焼き立てでまだ熱い。そうだ、缶切りを忘れていた。描いていくと、描くはしから実体になって現れた。文字通りの抽出であった。
 椅子の前から歩こうとすると、何かに立ちふさがれた。昨晩のベットが、再び存在しているのだ。その上にバターの包む銀紙と割れたマグカップがころがっていた。
 空腹が満たされると私はベットに横になり、さて、これからどうしたものかと思案した。描き出した物は日光に当たれば消えてしまう。実体のあるものに変換しようとしても太陽の光の前では無効であることが明瞭だった。明日になればまた辛い思いをしなければならない。何とか切り抜ける工夫がないものか? 名案を思いついた。窓を塞ぐことだ。
 押し入れに黒布があったので廊下側の窓を塞いだ。安堵感からかベットにうつ伏せになりしばらく眠った。
 息苦しさを感じて起きだした。息苦しさはなぜかと考えた。黒布で窓を塞いでしまっていたからだった。スクリーン上に窓を描いた。おや、どうしたのだろう。窓はいつまでも絵のままで、本物の窓にならなかった。
 ちょっと当惑した。考えついた結論はすぐその窓が外の風景を持たないため、つまり窓として十分な条件を備えていないために、実体を獲得できないでいるのだと気づいた。では、窓の外を描こうかと彼は思った。
 山々をアルプス連峰のように描こうか、地中海のような海にしようか、静かな田園風景も悪くないだろうと迷った。絵ハガキや旅行案内でみた美しい風景がちらちら飛び交った。だが、その中の一つを選ばなくてはならず、一つしか選べないと思うと、なかなか決まらなかった。
 まあ、楽しみは先に取っておいたほうが賢明とウィスキーとチーズを描いてちびちびやりながらゆっくり考えることにした。
 だが、考えれば考えるほど分からなくなってきた。どうやら容易なことではなさそうだと思われた。
 よく考えてみると、単に山や小川や果樹園や、そんな目を楽しませるものを描いただけでは駄目なのだ。仮に、山を描いたとする。しかし、自分が描いたのは単なる山ではなくなるのだ。
 その山の向こうはどうなるのだろう。町があるのか、海があるのか、どんな人間が住んでいるのか。どんな獣がいるのか? 知らずに自分はそれらを決定してしまうことになるのだ。
 この窓に風景を与える作業は窓を窓にする付属的な作業ではない。世界の創造に関わることなのだ。自分の一筆が世界を決定するのだった。そんなことを偶然に任せていいものだろうか?
 そうだ、うかつに窓に外を与えるようなことをしてはいけないのだ。自分はまだどんな人間も描いたことのない絵を描かなくてはならないのだ。
 私は考え込んだ。
 私はその無限性をはらんだ世界の設計を思ってもんもんの時間を過ごした。数時間は酒で乗り切った。
 しかし私はついに決定した。ほとんどやけくそ気味に決めた。窓に自分の手で外を与える責任から逃れるために、万事を偶然にまかせる賭を試みることにした。スクリーンにドアだけを描いた。それが失敗に終わったとしてもそれは部屋の外に出るだけで大した負担ではないだろう。こわばった手つきのマウス操作でドアと把手の絵を描いた。身を乗り出しドアの把手に手を掛けた。
 とにかく、未知の「ドアの外」を見ることは最大の期待かもしれない。一歩下がってドアを開けた。
 目の前で閃光が炸裂した。……ややあってこわごわと目を開くと、恐ろしいような荒野がぎらぎらとした太陽が輝いていた。見渡す限り地平線以外、影一つなかった。空は黒ずんで見えるほど雲一つなかった。地平線がそのまま景色になったようなものだ。
 ドアは何の解決にもならなかった。やはり、すべてをはじめから創らなければねばならないのだ。山を描き、雲を描き、草木を描き、鳥や獣を描き、町を描いてこの荒野に与えなければならないのだ。
 再び世界を描かねばならないのだ。私はがっかりしてベットにひれ伏した。カサッと手に触れるものがあった。昔のCD盤よりやや大きめのDVDソフトのパッケージだった。
 パソコンマウスで描き取り出したのはいいが、DVDソフト再生機までは描いていなかった。そのまま放置されていたパッケージの中でS・W子に似た女が笑顔を振りまいていた。DVDソフトのパッケージを裏返してみた。なぜかS・W子のヌードが写っていた。
 私はその半裸のヌードが写ったパッケージを見ていた。細めな身体なのに出るところは出ていて何と足の長い現代的なスタイルだろう。言い表せない郷愁を感じた。ここに忘れられていたものがあった。
 そうだ、現実に足りなかったのはそれだ。目の前に女性を描いてみよう。顔はDVDソフトのパッケージにある女の顔立ちを模して描いてみた。数分後、全裸の女が私の前に立っていた。女は驚いてあたりを見回した。
「あら、どなた? 私、どうしたのかしら? まあ、私、裸だわ」
「ぼくはMです。あなたはここの中の登場人物です」
「私が登場人物ですって? でも、どうして私だけが裸なの。あなただけどうして服を着ているの?」
 女は急に語調を変えた。
「嘘つき! 私、登場人物なんかじゃないことよ。忙しいモデルよ」
「登場人物ですよ。本当ですよ」
「あなただけが服を着ているし、こんなベットと椅子しかない部屋の中にいる人の言うことなんて、私信用しないわ。さあ、早く服を返してよ。変ねえ、私こんなところにいる筈がないんだわ。これから写真集の撮影でカメラマンと予約してあるよ」
「まあ、とにかくぼくの言うことを聞いてください。そこに掛けて。万事はそれから。……ところで、何か召し上がりますか?」
「分かったわ。喉が乾いたわ。それではコーヒーでももらうわ。あなたは本当は何をしているの? 職業は何?」
「ぼくにも分からない。だから、絶望しているんです」
 そう言いながら、マウスでコーヒーカップとテーブルを描くと壁の前に現れた。
「あら、凄い。凄いわねえ。これなら、何でも取り出せるわね。きっと大金持ちにもなれるかもしれないわね」
「それでは聞いてください」
 そして私は寂しい声で今までの状況を一部始終を語り、最後にこう付け加えた。
「……そんな訳で、ぼくはあなたの協力を得て、一緒に世界の設計をしなければならないのです。お金なんか問題ではないのです。ぼくたちは一切を最初から始めなければならないのです」
 女はきょとんとした顔した。
「まあ、お金が問題ではないんですって? 分からないわ。断然分からない」
「そんなにおっしゃるのなら、まあ、このドアの外の景色をごらんなさい」
 私は先程から半開きにしたままのドアに近づき恐る恐るドアの外を覗いた。
「まあ、いやだ!」
 叩きつけるようにドアを占めると私を睨んだ。
「でも、こっちのドアは……」と黒布に半分隠れたドアを指して、「違うんでしょ」と女は言った。      「いけない。そっちは駄目です。もとの世界は一切を消してしまいます。そのコーヒーや机や、ベットも、そして、あなた自身も……。ぼくらはこれから世界を創らなければならないのです」
「私は私、消えるなんて、なんておかしなことを言う人なんでしょう」
「君は知らないんだ。世界を創りかえなければぼくらを待っているのは無なんだ。世界を獲得しなければ、結局は架空の存在なのだ。無と同じなんだ」
「ちんぷんかんぷん。おしゃべりはもう結構。さあ、早く服を返してよ。私はもう帰るわよ。どう考えたってここにいるはずはないのよ。さあ、早くして。きっとマネージャーが待ちくたびれているわよ」
「馬鹿、そんなわけにはいかないんだ」
 急に激しい口調に、女は驚いて私の顔を見た。二人はじっと見合ったまま、しばしの沈黙。やがて何を思ったか、女は穏やかな調子で、「いいわ、私、ずっとここにいていいわ。その代わり、条件があるの聞いてくれる?」「どんなこと? 君がずっとここにいてくれるというなら、どんなことでも聞いてあげるよ」
「私、あなたのパソコンマウスを貸して欲しいの」
「それは無理さ。だって君は絵を描けないだろう。何にもならないじゃないか」
「描けるわよ。これでも、もとデザイナー志望だったのよ」
 一瞬、首を傾げていたが、私は姿勢を正し、きっぱり言った。
「分かった、君を信用しよう」
 そして、マウスを女に渡した。女は受け取ると、すぐに壁のスクリーンに分かって何やら描き始めた。
 ピストルだった。
「よすんだ。そんなもの、何するんだ」
「死……死を創るの。世界を創るには、まず物事のけじめが大事でしょう」
「駄目だ。そりゃ終わりだよ。およしよ。一番必要のないものだ」
 しかし、もう遅く、女の手には小型のピストルが握られ、私の胸元に狙いがつけられていた。
「動くと打つわよ。手を上げて。誓いは偽りの始まりというのを知らないの。私に嘘をつかせるように仕向けたのはあなたよ」
「何だ、また何を描くんだ!」
「ハンマーよ。ドアを打ち破るの」
「駄目だ!」
「動くと打つわよ」
 私が飛び掛かると同時に、ピストルが鳴った。私は胸をおさえ、膝を折り、床に倒れた。不思議に血が出なかった。
「お馬鹿さんね」と女は笑った。それからハンマーを振り上げてドアを打った。
 さっと光が差し込んだ。それほど強い光ではなかった。それは本当の光だった。太陽から出た光だった。女の姿は霧のように吸収されてしまった。机もベットも何もかもなくなってしまった。倒れていた私も何もかもすべて消えてしまった。

 目の前に白い空間が現れた。DVDソフトが自動作成した目前の物語は終わったみたいだった。今まで見ていたのは架空なのだろうか。見ていて何度も現実かどうか見紛う場面や映像があった。
 現実でないことを立証するのに、アイマスクがあるかどうか、自分の頭を少し振ってみた。現実と虚構の違いを判別する手だてとしてアイマスクの重みを目の回りに感じとろうとした。目の前の映像が非現実だったという確証を得たかった。
 ずっと前から頭に違和感を憶えていた。何か脳味噌に杭を打たれているように感じていた。アイマスクを外そうと両手を近づけた。手に触れるものは何も無かった。
 目の前を覆っている筈のアイマスクは無かった。