土曜日の昼過ぎのことだった。特にやることもなかったのでテレビを見ていた。面白いテレビ番組がなければ、録画した番組か、DVDでも見るつもりでいた。先ずはどんな番組が入っているのか、テレビを見ながら決めようと、何気なくリモコンのボタンを押してみた。
 テレビの画面には見慣れない光景が映っていた。ソファーに座っている男の後ろ姿が映っていた。後頭部に見覚えがある。床屋に散髪に行くと、目前の大型の鏡に、理容師が手に持った鏡で映し、仕上がり具合を見せられる時の頭だった。絶壁型というか、東洋人の典型的な頭の形だった。床屋で見ているので覚えがある。どうも自分の後頭部らしい。テレビの画面には自分らしき男の後ろ姿が映っていた。
 テレビ画面の左端上部に、灰色の四角い部分があった。ラインのビデオ通話の画面状態と同じだった。もしかしたらと思って、後ろを振り返った。背丈程の高さの本棚がある。一番上の単行本の列に、長方形の物体が横置きに立て掛けてあった。良く見ると、自分のタブレット端末だった。タブレット端末をそこに置いた覚えはない。すると、誰がそこにタブレット端末を置いたのだろう。判然としないまま、タブレット端末を見た。画面側ではなくて背面側がこちらに向けられていた。そこには、注意して見ないと分からないような、小さい点があった。その点のようなCCDカメラの穴が、こちら側に向けられていた。画面左端上部の四角い部分が、なぜ灰色であるか推測できる。タブレット端末の画面側が本棚の方を向いている。ということは、単行本を映しているということだ。画面の左端上部の、四角い部分が灰色なのは、部屋の明かりがそこまで届かないからだろう。
 タブレット端末で撮影されて、部屋のテレビに映っている自分がいることになる。誰かに監視されているような気分になった。不安になったので、立ち上がって本棚の方向に身体を向けた。本棚に向かって右手を挙げてみた。テレビの画面で確認しなくてはいけなかったので、顔は反対側のテレビの方に逸らさなければならない。右手を挙げて、後頭部を見せている男が、テレビ画面の中にいた。画面を見ると左側の方の手が挙がっていた。鏡に映っているのではなく、モニターで見ているのと同じように、ソファーの横に立っている自分の姿がテレビ画面に映っていた。
 テレビのリモコンのボタンを押すと、入力先が切り替えられる。PCのインターネットサイトが、ワイファイの無線ネットワークを介して、テレビと繋がっている。スマホやタブレット端末の小さい画面ではなく、テレビの大画面でユーチューブなどの動画を見ることができた。家の中でワイファイを使えば携帯電話会社のデータ通信料は発生しない。インターネットのホームページを閲覧する時や、調べ物で検索を利用する時に、タブレット端末を使うことがある。タブレット端末の画面は10.1インチサイズなので、スマホより画面が大きい。家の中で持ち運びができるちょうどいいサイズだった。タブレット端末をたまに使うことがある。
 専用のライブカメラを設置して、インターネット経由で監視できることは知っている。遠隔地にいて、見る方向などを操作できる。必要ならば遡った時期の録画を再生することもできる。それとは別に、簡易式の監視カメラとして、タブレット端末が代用できることも知っている。ACアダプターで電源を途切れないようにしておけば、タブレット端末を置いたままにしておくだけでいい。費用を掛けることもなく、外出先からライブカメラとして、自分の部屋をスマホで見ることができる。自分の部屋にペットがいるわけでもなく、貴重品という程の物も置いていない。だから、タブレット端末を部屋に置く必要がなかった。
 タブレット端末を誰が置いたのだろうと考えてみた。ずっと前、本棚の上にタブレット端末を置いて、スマホから室内を見ることができるか、試したような記憶がある。継続的に使うつもりはなかった。過ぎ去った日々の茶飯事的なことは記憶として曖昧だ。思い出そうとするのだが、いつのことだったのか、ハッキリしないのだ。
 テレビの画面を良く見てみた。ラインやスカイプのビデオ通話だと、左上部に四角い枠が出て、自分の顔が同時に映る。あらためて画面を見るとその枠が消えていた。ライブ中継のモニター画面のようになっていた。ハードディスク内に録画したものなのか、あるいはDVDの映像が映っているのか、分からない状態にある。ただ、画面に映る男の後頭部は同じだった。相変わらず、ソファーに座ってテレビを見ている男の後ろ姿が映っていた。
 そのテレビには自分である男が映っていることになる。テレビに映し出されている男が、自分の後ろ姿を、目の前のテレビで見ていることになる。後ろ側にいる自分が、自分自身を見ているみたいだ。男は目前にある画面の中の自分を見ている。男が見ているテレビにもう一人の自分の姿が映る。鏡のあいだに挟まれて、無限に連なる自分の姿を、覗き見している光景と似ている。
 画面を見続けていると、何の前触れもなく、別の場所の撮影に切り替わった。部屋の中は少し暗くなった。画面には誰もいないダブルベッドが映されていた。部屋の明るさは足りているようなのだが、画質が悪かった。男が画面に出てきた。男がいる方向の後ろの方にダブルベッドがあった。そこに現れた映像はカラーとモノクロの中間みたいで、色の少ないものだった。男は引き続き映像の中の被写体になっていた。画面の中にいる男が、再び近づいてきた。何も持っていない手が、伸ばされている様子が映った。映像が上下左右した。画面の中の男が、カメラの液晶モニターを見ているのだろう。ベッドのあたりに焦点を合わせようと、カメラの位置を調整しているように見えた。
 そこに女が登場してきた。自分としては、テレビの画面をただ見ているだけだった。映像の中で、こちらを向いていた男が、ベッドに入った。突然被写体である映像が録画の早送りのような状態になった。画面には男女が絡み合う場面になった。カップルが自分達を撮影していても、プライベートで楽しむだけのものなら、何ら罰則はない。しかし、こうやって見ている側が、当事者でなかった場合はどうなるのだろう。そう思いながら、映りの悪い画面の中にいる人物を、他人として見ていた。ただ確実なことは、最初に出てきた男と、後頭部が同じことだった。
 しばらくすると通常のスピードで再生されるようになった。それを見ている自分がこちら側にいる。同じく、テレビの画面の中には、自分のような男がいることになる。テレビを見ている自分と、テレビの中の男が、その場所に関わっているらしいのだ。それを見て、自分の記憶を探った。十五年程度の年月が経過していた。男は自分の性行為を撮影したことがある。男にそんな趣味はなかった。ただ、ちょうどその頃、デジタルカメラを買った。デジタルカメラには動画を撮影ができる機能があった。試しに、部屋の中や窓の外の風景を撮ってみた。確かにデジタルカメラに動画が録画できた。その動画の映像を再生して、デジタルカメラの液晶モニターで見てみた。そんな映像は見てもつまらないと思った。
 たまたま、タイミングが合っただけのことだ。その時に出会った少女がいた。もっと、刺激のある映像を見たかったので、動画の撮影をしてみただけのことだ。男は露出狂ではない。猥褻動画のコレクターでもない。裏物のコレクションが少しある。数回見ると飽きるので、殆ど人に譲った。今では所持しているだけで罰せられるらしい。もちろん、そのプライベート動画は公開できない。相手の少女の了解がとれているから、そんな動画が残っているのだ。録画した動画を、どこかに保存してあるかもしれない。どこに保存したか忘れた。保存データがどこにあるのか、探すのも面倒だ。男は記憶の中を遡ってみた。「局部は録ったらあかんよ、局部は……」と言いながら、その動画の中に映る少女は笑っていた。その少女と自分らしき男が撮影の被写体に取り入れられている。どうしてあの時の動画がテレビの画面に流れているのだろう。リモコンの操作ボタンを間違って押してしまったのだろうか? そうだとしても、おかしい。デジタルカメラの動画は、データ変換しなければ、テレビでは見られない筈だ。
 テレビの画面を見続けた。そこには重なり合った男女二人が映っていた。蠢きのような動きが先ほどまであった。テレビのスピーカーから、その映像からとみられる音が聞こえてきた。そこには、どちらから発せられたかも分からない、荒い息づかいが漂っていた。男女が離れた直後は、ダブルベッドの上で、それぞれが仰向けになっていた。少女とは明らかに違う成人した別の若い女がいた。息が整わない男の右手が挙がり、女に布団を掛けた。手が届く程度に男は女と距離を置いた。それから少し経って、横になったまま向かい合う姿勢になった。女の方は布団を被っていたが、男の方は体温が上がったままなのか、布団から出ていた。臀部にシミがある全裸の男の背後が映った。
 リモコンの音量ボタンを押すと、ボリュームを上げることができた。会話がきちんと聴き取れた。しばらくして、女の声がした。
「ごめんなさい。遅くまで寝ていてメールを見てなかったの」
「まあ、いいよ」
 男の声が答えた。ベッドの上で二人は語り始めた。
「どう、思った?」
「まあ、良識があると言うか、それが普通だと思う。たまたま、昼前に時間が空いていたので、昼食に誘っただけだよ。後で考えてみたんだけど、深入りしなくて良かった。返信がなければ、初めからないことにするからと、メールに書いたけど、返事が来なかったことで、冷静になれたというか、現実に戻ったよ。そんなに考えないで、メールしてしまったんだ。久し振りに若い女の子と食事をしてみたかったんだ。やや浮ついた気分だったかもしれない」
「お昼は何を食べた?」
「えーっと、一品だけは思い出せる。焼き魚だったかな? あと一品はなんだっけな。自分だけだと、日替わり定食のような地味なものを食べてしまうね」
 女は嬉しそうな表情をしていた。
「誘ってくれて、別に構わなかったよ。昨日の晩は午前三時頃に寝た。夜中に洗濯をしたり、パソコンに向かったり、いろんなことをしてた。たまたま、今日の午前中は寝ていてメールを見てなかっただけだよ」
「夜中に洗濯?」
「家ではお母さんが一番給料が高いの。力関係かな、帰宅の一番遅い私が、最後に風呂へ入る時に、家族全員の洗濯をするの。家では洗濯くらいするよ。もう、二十三だよ、私」
「気になる発言だなあ。ぼくにとっては『もう』ではなくて『未だ』だけどね。前から、家庭事情は聞いてるから、だいたい想像できる」
「良く覚えてるね」
「自分から喋るからだよ。こんな関係では、プライベートのことはあまり話すことはないよ。普通はあまりお互いの身の上話はしないと思う。まあ、君がぼくの住んでいる場所を聞いたから、方向だけを教えた。それ以外は答えてない」
「そうね。それでも、気にしていない。家庭を持っていてもいなくても、こんなことをするのが男だという事情は分かってる」
「それを、上手く利用している相手がいるから、需給バランスがとれるんだよ。お互い様だよ」
「そうだね」
 女は布団の中から 身を起こしてバスタオルを持って男の顔や肩の汗を拭いていた。男との接触を厭わない女に見える。
「だけど、そんな風にあまり自分のことを多く喋らない方がいいと思うよ。そんなに正直だと、ぼくの方だって、ついつられて、自分のことを喋ってしまいそうだよ。今のところ、ぼくは大したことを喋っていない。でも、相手によるのかな? 段々とプライバシーに及んでいくかもしれない。君とこうやっていると、うっかり本当のことを語りそうだよ」
「別にいいじゃん」
「珍しく君みたいに自分をさらけ出す、淫乱タイプと出会ったよ。ぼくだけの感じ方かもしれないけれど、男女の仲は、身体の融合度合が高まるにつれて、精神の結びつきも高まっていくような気がする。身体と共に気持まで相手に合わせてしまいそうだよ」
「合わせたら?」
「合わせてもいいけど、続けられなくなることも考えているんだ。しばらく、続くかもしれないけど、そのうち飽きるかしれないしね。今のところ、飽きてはいないけど」
「飽きたら嫌、飽きたら嫌」
 女は男にしがみついてそう言った。
「今までの君の言動は覚えているよ。嘘がないのは嬉しいようで、怖いような気分だよ」
「どうして怖いの?」
「情がわくと言うのかな? いろんな想いが後々まで残るってことだよ。それは人間の性かもしれないけれど、楽しいことも辛いこともセットになっているんだよ。快楽の後には時間差で寂しさが襲ってくる。ずっと、こうやってくっついたままではいられないんだよ。恋人や夫婦となったとしても、ずっと一緒にいることは物理的に無理なようにね」
「それはそうだけど、互いが気持の支えになるのじゃない。いつもそんな風に醒めているの?」
「そうかもね。でも、醒めてばかりいられないから、こういうことをして、こういう話をしているんじゃないのかな。まあ、型通りのセックスをして、反応がない相手だとつまらないものだよ」
「そうなの」
「まあ、君の場合は自分のことだから分からないかもしれないね。それと、情緒的なことも大切だよ。こういう行為でも呼び方でイメージが違ってくる。例えば、セックスをするという言い方ではなくて、情を交わすという言葉の響きがいいね。情人とか愛人と言う呼び方もいいね。君は無邪気に自分のことを語るから、プチ愛人みたいだね」
「何、それ?」
「要するにぼく達の関係は、随時相互解約特約付、分割払形式の愛人契約だからだよ。互いの素性が分かった上で、互いが合意して、口頭上の誓約を交わしているわけではないからね」
「難しいことを言うのね」
「ごめん。思い付きの冗談で言ってみたんだ。簡単に言うと、お金をその都度払って、互いの事情でいつでも肉体関係を中断できるということだよ。ぼくの方はこれからも自分のことは喋らないよ。それでもいい?」
「私の方もそんなに大事なことを言ってないよ。固有名詞は出してないでしょ」
「まあ、そうだけど」
「あなたもこれまで通りでいいのよ」
「ありがとう。互いは匿名同士だし、ホテルの中だけの関係だね。そんな関係は嘘の上に成り立っている。行きずりなら、その場限りの作り話をしてもいい。継続的に会うとなると、何気なく言ったことでも、前に会った時と違う発言が出てきたりする。そうなると、すれ違いの気分になると思う。今までの経験上そうだった。だから、そうならないよう、最初から自分の話をしない時もあった。自分のことは喋らなければいいのだけど、それはそれで、なかなか難しいことだよ。君に対しては、自重しているんだけれど、互いに話題が合うから、話が弾んでしまう。楽しいから、いろんなことを、制限なしで話をしそうだよ」
「それでいいじゃない?」
「そうはいかないよ。ただ、匿名で続けることも難しいことは確かだよ」
「そうなの?」
「セックスだけなら、そのうちに飽きると思うよ。気持を通わしたり、それなりの相性が良くないと長続きしないと思う。今のところは、食事をしたり酒を飲んだりしなくても、こうやって話をしているだけでも楽しい。君の方はただ気を遣っているだけなのかもしれないけどね」
「そんなことはないよ。私だって楽しいよ」
「それなら、いいけどね。それと、何となく身体の相性がいいみたいだよ。久し振りにエロいと言うか、ねちっこいと言うか、珍しい子と出会ったよ。続けたいことは確かだけど……」
「何なの?」
「これからも、ぼくは自分のことは喋らない。そして、次からも性行為に没頭する。そして、その後はこんな風に二人でまったりしている。そうしているあいだは寂しくない。こうやっていると落ち着く。そんな相手はなかなかいない。帰巣本能に基づいていると思う。巣の中につがいの雄雌二匹いる状態が今かもしれないね。餌を獲ってこなければならないから、ずっと、こうやっているわけにもいかないけどね」
「それは、仕方のないことじゃない? いつもべったりというのもおかしいしね。家にいたって家族それぞれが独りでいる方が多いし、誰もがそうだよ」
「どっちかと言うと、ぼくは独りでいる方がいいかな。独りで考えている時間が好きなんだ。それに、独りでないと集中してできないこともある」
「そうだね。私も報告物とかは、誰もいない静かな所の方で書く」
「ところで、話は変わるけど、自分の所在を明らかにできないのなら、こんな遊びをしてみない? 『別人ごっこ』って言うんだけどね」
「何、それ?」
「現象的に、こうやって目の前で繰り広げられていることは現実の中で起こっていることだと思う。それは、認識している。そして、自分の所在を言えないでいる」
「何を言っているか、良く分からないわ」
「お客さんだったり、上司だったりすれば、嫌な奴だと内心では思いながら、自分の意に反して笑顔で対応しなくてはならないこともある。みんなが仮面を被って、目の前の相手と接している。それらが、嘘のない世界だと言える?」
「それはそうだけど、誰だって本心を言える筈がないわ。そうしなければ日常を円滑に送れない。当たり前のことじゃない。それが、私たちと何か関係があるの?」
「嘘をつかないと成り立たない現実なら、ここと同じだと言いたかったんだ。だとしたら、現実は虚構の延長じゃないかということだよ。ここにいる二人の互いが仮名だということは、嘘の関係になっている。すると、この空間に限れば、仮の世界だね。だけど、そのことが現実の中でも起こっている。心理的な仮面を被っているなら、この状況と変わらない。似ているじゃないのかな? というようなことなんだ」
「何を言っているか、分からない。理屈っぽいし、話が極端よ。そんなことくらいで、現実と虚構を結びつけるなんて短絡的ね」
「じゃ、別の見方で言ってみる。君は最初にぼくを見た時の印象はどうだった? 会う前の想いと違っていたと思う。会う前まで、君の頭の中では、いく通りかの人物像をイメージしていた筈なんだ。現実の中で相手と話すうちに、実像が段々とハッキリしていくんだ。相手が分かってくると同時に、自分の中でイメージしていたことが、幻想だったことに気付くんだよ。その幻想自体が妄想で、虚構の世界じゃないのかな? 現実は虚構で溢れてる。難しいかな、ぼくの言ってること」
「うん、全然分かんない」
「じゃ、単純な話にするよ。君は会う前の男がどんなイメージに当てはまっても構わないと考えていた。つまり、男なら誰でも良かったのかもしれないね」
「失礼ね」
 女は男に背中を向けてうつ伏せになった。
「まあ、いいや。話がややこしくなるし、どうも気を許してしまうと喋り過ぎていけない。ぼくがいつも考えていることはこんなことなんだ。ああだこうだと考えている変人なんだよ。君は自分の一部分を素で現している。心配した通り、二人が同調していくみたいに、ぼくの思考の過程を語ってしまうんだ。こんなことを言うのはもう止めて、楽しいことだけにしよう。どこだっけ? この前、探知して分かったけど、ここが性感帯だったね?」
 男は女の左肩甲骨の下あたりをさすった。
「ああっ、感じる」
「やっぱり、淫乱だ」
「疲れるから止めて」
「この後、バイトだったね。未だ少し時間があるから、こうやって喋っているだけにしよう。さっき言った『別人ごっこ』について説明するよ。今のところ、ここではどこにも所属していない人物を演じている。存在証明のない人間になっているから、まるでカフカの世界だね。嘘が前提だとしたら、次に会った時から、その都度ごとに別人になってみる。変化があって、楽しいと思ってね」
「今でも、充分楽しいよ。それ、どういうこと?」
「その日限りの登場人物で役割を終える。ぼく達二人は、次に会うまでしばらく日にちがある。次はフレッシュな気持で別人になるんだ。前回のことを覚えていなくても大丈夫なんだ。言ったことを次回で忘れてしまってもいいんだ」
「そんなことできるかしら?」
「二人で人前に出ることはないと思う。絶対にないとは言い切れないけど、たぶん確率的にはないと思う。でも、今は平日の昼下がりだし、部屋の追加料金が加算されても大したことはない。時間はたっぷりあるわけではないけど、しばらくはここにいられる。ここで、タイプの違う人物になりきって、話をするというのはどうかな? やっぱり、別人になるのは難しいかな」
「私はやりたくない。嘘をつくのも疲れるよ。あなただったらどうするの?」
「想像の人物になりきってみるんだよ」
「例えば?」
「単なる偶然でぼくたちは知り合いになれたけれど、過去を脚色することで、別の人物になるんだ。例えば、架空の人物になりきって、将来をシミュレーションするということかな? そして、二人が出会ったのは必然だったというシナリオにできる。お互いに自分がどんな人物になりたいか、相手がどんな相手でいてほしいのかを話すんだ。面白いかもしれないと思ったんだ。例えばだよ。君の仮名は『ゆうり』と言うんだ。東海地区の国立大学を通常より半年送れの九月に卒業する。あるいは、卒業したばかりでいる。来春の就職先をエージェントに依頼中で、今は塾の教師のアルバイトをしている。音楽を聴きながら、絵を描く趣味があるらしい。ひょっとして半年遅れで卒業したのは教員免許を取得するためだったかもしれない。絵を描くのが好きだと言うから、美術教師の免許を取ったのかな?
髪はロングの黒髪。外見は教師という職業にピッタリ。でも、外見と中身のギャップが凄い。中身は外見と真逆なんだ。ビックリする程の淫乱なんだ」
「馬鹿。そのまんまじゃない」
 と、言いながら女は男の方を向いた。布団から左手を出して、拳をつくって相手の男の胸を軽く叩いた。
「どうせ、語りは嘘なのだからどんな人物にでもなれるんだ。話の中ではその時間だけ限定して登場人物になっている。ぼくの場合は話の中だけで演じることになる。具体例を述べなくてはイメージが湧かないかもしれないね。ある人物例を上げるからそれから選んでほしいな。今回はこんな男はどうかな?」
「言ってみて」
「既婚者がいいかな? 独身者がいいかな?」
「そうね、やっぱり最初は独身の方がいいかな」
「それなら、えーっと……。先ずはこんな人物はどうかな? ジャズバーを経営していて、離婚歴あり。子供がいるけど親権は別れた妻の方にある。今は独身。お客さんを叱るような、灰汁の強いマスター役の人物。どう?」
「そんな人、嫌。紳士の方がいい」
「そうしたら、そのバーの客である人物はどうかな? 独身で結婚歴なし。今言ったマスターと同じ年齢で、おとなしい。ただ、不定期で会っている、恋人ではない女がいるらしい。例えば君のような……」
「変なの。私が登場するの? まあ、いいわ。続けて」
「いや、違うよ。少し変形してみる。こんなのはどうかな?」
「どんなの?」
「その子も出会い系ツールを利用して会った。最初は金銭でのやりとりから始まるんだ。でも、凄く、長く続いたことにしてみるんだ」
「それで、どうなるの?」
「そのぼくである男は定年が近い年齢だとする」
「えー、本当なの?」
「だから、ここは嘘の世界だと言ったんだよ。かもしれないということだよ。嘘か本当かは自分の想い次第だよ」
「未だ、言ってることが分からない。それでどうなるの?」
「細かいことは省くとして、その登場人物には女がいて、長い付き合いになっていたとする。異性というより長年連れ添った夫婦みたいになっている。性愛はもちろん残っている。ただ、互いに束縛しないでいるサルトルと、ボ……なんて言ったっけ? ボーヴォワールだっけ? 互いを束縛しない関係を理想としている。でも、感情がある。独り占めしたいという欲求はある。さっき言った二人でいることで落ち着くのと同じように、相手を独占したいという欲求は動物が縄張りをつくるのと似ている。種の保存のために必要不可欠なものなんだ。ある視点から見ると、サルトルのような男女関係は、責任放棄のように映る。だけど、人間は自由な動物であるべきなんだ。理性や理想があるし、いろんな形の男女がいる。相手に新しいパートナーができたとしても、エールを送るような感じかな? バイセクシャルみたいな、マイノリティが市民権を得ようとする時代だし、考え方の多様化が浸透していくと思う。それでも、現実には歳の差があるとか、互いの家とかの事情がある。世間体がある。そして、その世間体とかを気にする普通の人間になって、そこに登場する男がぼくなんだ。当初の関係から、今言っているその女と生涯を共にできないと思う。そして、その女は上昇志向が強い。頭が良いけれど、気が強い。大学卒業直後にオーストラリアに語学留学はしてきたけど、ネーティブな英語の聞き取りが不完全だと思っていた。ぼくからすると外国人が相手でも物おじしないほど、英会話が凄く流暢なんだ。学生時代から東京で彼氏と同居していた。社会人になっても、再び語学留学したいと思っていた。そして会社勤めをしながら資金を貯めていた。渡航費用ができたので、今はワーキング・ホリデーでカナダのトロントに行っている。男は今でもその子と、無料通話アプリのラインで時々連絡を取り合っている。二人は腐れ縁のよう長く続いているけれど、不安定な関係のままなんだ。そして、その登場人物である男は、将来はなるようにしかならないと考えている」
「それって、自分でなくて、相手のことばかり話している。なりたい登場人物はどうしたの? 今までに関係した相手の女の人を語っているみたい。聴いていて楽しくない。現実をいじったみたいな話だね。ただ、私と少し似ているところがある。さっき言ってた私の半年の休学期間は、教員免許取得のためではないよ。経歴に少しだけ違いがある。私も語学留学だった。そこは一緒だよ。何か、私を脚色しているみたいに聴こえる。嘘の中からまことを演出しているみたい」
「ちょっと調子に乗って話が逸れた。ごめん。口から出まかせだったけど、たまたま言ってたことと重なったのは偶然だね。君も語学留学してきたんだ。これも、何かの縁だね」
「無意識に誰かに喋りたいんじゃない?」
「そうかもね。喋りたい相手は特定していないかもしれないんだ。ぼくはいつもこんなことを考えている。そこは何も残らない世界なんだ。地球上には文字を持たない民族がいて、神話や民話を語り継いでいた。日本でも大昔は『言霊』と言って神聖なものだった。語り部が喋り終えた瞬間に、イメージしか残らないんだ。なんか、神秘的でロマンチックだな、そういうの。そうだ、こんなのどうだろう? ここにいる二人は会話の中だけに存在することにするんだ。印象強くて永遠に忘れないでいる君を、ぼくが誰か他の人に話すようにね。こんな風にぼくは言うんだ。『ある時、淫乱タイプの女の子がいた。その子とぼくの関係はこんなんだ。……ごめんなさい。遅くまで寝ていてメールを見てなかったの……、と女は語った。そして男は答えた……』というような感じで始まる。そうして最後には、話し終えると同時に、二人は消えてしまうんだ。いい終わり方だな」
「そんな想定なんて、馬鹿馬鹿しいわ。自己満足のお伽話に過ぎないよ。消えるって、話の中からいなくなるっていうこと? 何を言ってるのか未だ分からない。変な話ばかりして、取り留めがないわ。終わりにしよう」
 そう言い終えた瞬間に、男女が画面から消えた。テレビ画面の映像には、誰もいないダブルベッドが映ったままだった。今まで映っていた男女は、画面の範囲に収まっていた。大きな場面展開がなかった。だから、カメラからの撮影は、固定された位置からの撮影だと思われた。性行為から会話まで、ずっと同じ場所が映っているだけだった。それを見ていて、妙な感覚に陥った。最初は他人が話しているように聴こえていたのが、次第に自分が喋った内容の会話に似ていたからだ。確証がとれないことなので、思い巡らさないようにした。男女の会話の場面が終わっていた。二人はシャワーを浴びにでも行ったのだろうか? 見る限り、映像が途切れたようには見えなかった。
 男女の消え方が唐突だった。そう思った時のことだった。テレビ画面の映像の流れが逆になった。画面の映像が早戻しされた。会話から、男女の絡みに戻った。いくつかの性行為で体位を変えていて、前の映像へと逆戻りしていった。それまでは、あっという間のことだった。再び、少女が映って「局部は駄目だよ、局部は……」と言った。映像と記憶の中のイメージが交差している。少女がいることがおかしい。画面の中にいるのは淫乱タイプの女の筈だった。
 そこに映る男が人生で一番多く交わった女は外国の地にいる。十五年の歳月もあれば多く交わるのも当然だ。映像の中の女はさらに九歳若い淫乱タイプの女の筈だった。どっちの女なのか分からない。さらに映像には少女が映っている。どちらかの若い頃に近いかもしれない。成人した女二人に共通することがある。心身共に自分をさらけ出す。そして、嘘がつけない性格だ。そして、素性の分からない相手に対しても淫靡な部分を隠したりしない。知らない相手だからこそ、大胆になれるのだろうか? 本性は分からない。一方は「感じる」と声に出して言う。一方は不感症気味だ。どちらも大きな喘ぎ声を出す。似ている部分がある。頭がいいし良く喋る。旧知の女の方は怖い面がある。それより若い女の方は、未だ遠慮がちかもしれない。ただ、段々と似ていく兆候がある。互いに自分の胸中を述べてしまうのだ。女は二人ともリスクを恐れない度胸がある。肝が据わっているのは女たちの方だ。二人の女と交わりを持ったので共通点を認識したことになる。
 機器の誤作動だろうか? 記憶の中の少女が、イメージとして出現して、画面の中の女とダブるようになる。目の前にある女性器がどちらの女のものか判然としない。一番長く付き合ったことのある女より、九歳も若い背の高い二十三歳の女もいる。その膣に中指を入れた。どうした構造になっているのか、膣に入れた中指の爪が痛いと訴えた。薬指に変えた。そう言ったのは単に元々の体質で膣が狭いのではない。本当は「痛いと言っただけよ。それに、最初から膣の角度を知っている男なんか嫌だよ」と言うだろう。その女よりさらに若くなって、ローティーンからハイティーンになったばかりの少女になる。
 目の前の裸体は少女に代わった。少女の隆起した丘には細い毛がまばらにあった。球体が波うつようななだらかな女性器の丘は三人とも同じかたちをしていた。肌のきめの細かさは三人目の女に共通する。二人の成人した女も少女も同じだった。
 そんな画面を見ていても不思議な気がしなかった。画面の少女の性器を見ていた。どれも良く似ている女性器に、挿入することを許されていた。少女の声が声変わりしていた。「痛くしないでね」と目の前の女は男の野太い声を発した。こちら側にいる人物は、少女の澄んだ声で、「大丈夫だよ」と答えるのだった。主客と客体が逆になっているようであるが、どっちが主体とは言い切れない。男の身体と意識は相手側へと分離していた。
 カメラに向かうのでなく鏡に向かう自分をイメージしてみた。鏡に向かい対面する自分を映してみた。鏡の中は、現実のようであるが、非対象の世界なのだ。鏡の中では右側に自分の右手が映る。現実の中で、他者の側から見る場合は、左側に右手がある。鏡の中では、視覚作用で、同じような方向に見える。鏡の世界だけの現実なのだ。イメージの中で、男女の意識が逆になる。鏡の中から、妄想の世界へワープされて、性同一性症候群になったような感覚だった。鏡の中ではマイノリティが認知され、とっくに解放されている。
 カメラで撮られていた映像の中の男が、鏡の前に立っていた。男が鏡の前に立つと少女になって映っていた。少女の顔立ちがイメージできていない。顔以外の身体の部分だけがハッキリ映る。鏡に映る少女の乳房を見た。男は鏡に映る自分の胸のあたりを触れてみた。少女の乳房だった。鏡を見てみる。造形作品で鑑賞者の殆どが美として感じる乳房だった。当事者となっている男に美醜の判断はできない。対象物として見るだけだ。男は鏡を見ながら、胸のあたりを手の平の中に包み込んでみる。感覚では脂肪の塊のふにゃふにゃしたものでしかない。目を閉じて自分の胸のあたりを揉んでみる。その胸の部分は、乳首が突起しているだけで、自分の身体なのか分からない。鏡の前に小さい椅子が置いてあった。その椅子に自分の右足を置いて脚を開いた。薄い陰毛は性器を遮るほどのものではなかった。少女の性器は明るい照明の下で奥まで露になっていた。
 画面の中に少女の性器があった。それは今まで見たものと殆ど一緒だった。その時の男の感性は男のままの筈なのに、女性器を見ても陰茎が反応しない。それがグロテスクなものであったとしても、本能的な欲求と繋がっている筈なのだ。いつもなら、自分で陰茎を擦ると勃起状態になる。高揚感がないのは自分には陰茎がないからだ。性的な興奮を覚えたとしても、勃起するすべがない。興奮した兆候はどこに出るのかを考えた。たぶん、目の前の少女の開脚した中央にある陰核が男の陰茎の役割をなすことになるのだろう。鏡を見ている側の男は、刺激を受ける兆候はない。鏡に映る少女の陰核も、影響を受ける様子はない。醒めた意識のまま女性器を見ている。醜いものなのに、美であるのだと、偽りの意思で、自分自身を納得させようとしている。
 少女と二十三歳の女と外国の地にいる女の三人が場所と時間を越えて現れた。それらの女が揃った。年月と時差と居場所が混同している。その女らは三者三様の性格であるし、性器の形が違っていた。それぞれの容姿の違いと各自の性格の違いがある。それぞれが、個性だと主張しているみたいに、それぞれの女陰の形状に違いがある。三人の膣の狭さは一様でない。入り口から膣のうねりの角度に、それぞれの違いがある。陰茎が幾度も往復した膣であるかもしれない。貫通したことが何度もある膣でも、月日を経ると挿入した陰茎が締めつけられることもある。膣は長いあいだ太さのあるものを入れていないと膣も収縮する。未貫通の膣に近い状態になる女もいる。そうでない女もいる。それらの女はどっちなのか分からないままでいる。それらの現象が画面ではなく記憶の中で再生されている。
 現実だと錯覚している世界に男がいる。男から見ているカメラの視線と同じだ。カメラで映された画面の中で自分の後ろ姿の映像を見ている。そこに別の世界がある。対象を自覚できない世界に迷い込んだ。時間と場所と性別さえも超えた世界が混在していた。目の前の世界は歪んではいない。しかし、均衡を映してはいない。それらは、限りなく混沌に近い世界だった。
 三世代の女陰が目の前にある。誰のものなのか分からない。小陰唇を押し広げて小さい突起物を探す。陰核を押し広げると赤身がかった平らな面になる。共通しているのは、中央に肌色の小さい球体があることだ。それは湿疹のようにも見える。口に含んだり舌で往復するように舐めるのは、相手の直の反応があるからだ。大きな声で「気持ちいい」と叫ぶ声も聴き取れた。それとは別の忍ぶような声も漏れ聴こえる。「はあ」とも「うっ」と堪えている声にも聴こえる。反応の違いを知ろうと、そんな行為を続けている。
 いろんな女の声がテレビのスピーカーから流れていた。そのテレビを撮っているカメラからの視界が広くなった。その音声が流れるテレビ画面を見る男がいた。後ろ姿とその後頭部が映るようになった。固定したカメラの筈だ。どうして、後ずさりできたのだろう。その画面の中の男は、頭を逸らして、後ろを振り返るかどうか、迷っているように見えた。男は後ろの本棚に、タブレット端末が置いてあるかどうかを、確認しようと躊躇しているのだ。その時だった。その男の前にあるテレビの画面がブラック・アウトした。
 部屋は明るかった。夕方近くになると、テレビ画面に西日が差し込むことがある。時間の経過を考えると昼下がりだろう。太陽の光が差し込まないようにと、厚手のカーテンを引く必要はなかった。ガラス戸には薄手の白いレース地のカーテンが引かれたままだった。
 後ろを振り返って見た。棚の上のタブレット端末はなくなっていた。テレビのリモコンの入力先は、1から6番まで変更できる。DVD録画再生機能付の、ハードディスクレコーダーと繋がっている。テレビの画面に映るものが、何なのかを確認できないでいる。昔のビデオテープデッキからかもしれないし、インターネットと繋がっているのかもしれない。どこが入力先となっているのか、手元のリモコンボタンだけでは分からなかった。テレビ画面に出る映像でしか、判断できない。手元のリモコンの入力ボタンを、ただランダムに押すしかなかった。
 突然のことだった。部屋が真っ暗になった。テレビの方を見た。テレビの画面だけが白っぽく浮かび上がっていた。テレビの画面の中に、男の後ろ姿が映るのだが、輪郭が薄くなっていた。男の後頭部が、未だ映っているのかを、確認しようと、目を凝らしてみた時だった。
 画面がホワイト・アウトした。