去年の冬の終わり頃に、ぼくは彼女と二人でグアムに行って来た。彼女は都心からやや離れた太平洋側にいるが、ぼくは日本海側の山間地に住んでいる。その年の冬は大雪にみまわれた。改めて積雪地帯の苦労を知った。しかし、同じ人間が暮らす地球上に別世界があった。赤道よりやや北側に、一年中夏しかない楽園の島があった。それがグアムだった。
 グアムでの出来事は苦い思い出として残っている。最近は時の経過とともにやっと冷静にあの時の状況を思い出せるようになってきた。思い出すと言うよりは、そんなに気にとめることもなくなった。あの状況を頭の中から払拭できるようになったのではなく、あの時のイメージが彷彿とされても、苦痛を伴わなくなったと言うべきだろうか。
 しかし、時々頭をよぎることもある。こうやって書きすすめながら思い出していると、腹立たしくなってくる。ぼくと彼女の認識の違いから、あの時はそうなってしまった。今、時間が経過して、終わってしまった過去の出来事として語ることができる。しかし、人間という生き物が持つ、感情という曖昧なものはどうにも抑えきれない。
 どんなシステムでそうなるのか分からないが、格安ツアーと言うのが昨今出来た。一昔前と比べて気軽に海外旅行が出来るようになった。いくら格安ツアーでも、ぼくにとっては、旅行料金を二人分トータルすると、少なくない出費だった。その旅費の負担から比べると、彼女が旅行で使った費用は、微々たるものだと言っていい。彼女が旅行中に使ったドルは、ぼくの支払ったお土産代金にも満たない額だった。
 彼女は留学費用を貯めるのに、アルバイトに精を出していた。貯金をしているがまだ目標の金額には達していない。そのことをよく知っている、ぼくというスポンサーがいた。彼女の旅行費用をぼくが全部負担した。彼女は学生という身分だからか、さも当然だという様子だ。ちっとも、恐縮した態度は見せなかった。
 あの時、彼女から、入場料程度の負担なら、受けてもいいと思った。彼女は自分の入場料分は出した。それ以外に、ぼくの分の半分を支払ってくれたとしても、ぼくは僅かな金額でしかないと思っていた。ダンスクラブの入場料を、ぼくが全部出さなかったばかりに、あんな目に逢わなくてはならなかったのだと思うと、考える度、後悔の念に駆られる。あの時の僅かな金額によって、悲劇が起こった。
 若いから、アルバイトをしても、時給の低い彼女にとっては、小額でも自分で稼いだお金は大事なのだろう。ぼくからは小額と思えても、若い彼女には、自分の持ち出したお金は貴重なのだろう。貴重な身銭の分は有効に楽しもうとしただけのことだろう。そう、思い込むしかない。
 あれから一年以上が経ち、あの時は仕方がなかったのだと思えるようになってきた。時の経過があったから、語ることができるようになったのかもしれない。グアム旅行から帰った直後に書き残したら、どんな風になっただろう。今よりもずっと腹立たしく悔しい感情ばかりが優先して、冷静に書けなかったかもしれない。もし、その時に書いたら、どろっとした嫉妬の感情が含まれ、生々しいだけだったかもしれないし、男のくせに女々し過ぎる後日談を語るだけだったかもしれない。もし、旅行直後に書き残せたら、ひょっとして今よりは切迫感とリアル感があったかもしれないが、とにかく、その時は書けなかったのだ。
 あれから時間が経ち、冷静に振り返るということは、第三者的な見方をすると言う欠点があるのかもしれない。でも、あの時の屈辱は一生忘れようがない。どうして激しい苦痛に陥ったのか、自分なりに分析してみたかった。だから、この文章を書くことにした。
 彼女は高校に入学した頃から、今の彼氏と付き合うようになった。当時、大学生だった彼氏との遠距離恋愛に耐えきれないで、病んでいた時があったらしい。それで、援助交際に走って、彼女にはアンラッキーな精神状態であったかもしれないが、ぼくにはラッキーな出会いとなった。
 彼女は成績は優秀なのだが、節目に当たると、世間で言うアンラッキーなことが起きる。高校から大学に進学する時だった。有名私立大学の推薦入学が不合格になったのは、努力をしようとする姿勢が足りなかったのだろう。しかし、国立大学受験の時は、インフルエンザに掛かり、体調を崩したのが元で失敗した。一応、実践的な英語が学べる私立大学へ進学することが決まった。その時期に彼女はこう言った。
「もし、あたしが死んだらしばらく親は悲しむだろう。でも、人間は時間の経過と共に極度の辛さから逃れられるような精神構造になっているんだよ。親はずっとあたしのことを忘れないだろうし、思い出す度に悲しむと思う。でも、それでも自分の命を絶つこともなく、生きて行くんだよ。脳にはそんな機能が備わっている。大方の人間は過去ばかり振り返らないで、明日を考えるようになっているんだよ」
 その時は、なんて醒めたことを言うのだろうと、聞いていた。ぼくは若い頃からでも、そう考える人もいるんだなと、感心した。時が解決してくれると言ったことは、正にぼくがグアムで体験した理不尽な仕打ちからの、脱却期間のことだ。やっとこの頃、記憶の奥に閉じ込めることができるようになった。
 サンデープレーヤーとしてスポーツは今でも嗜んでいる。性欲は衰えても身体を動かすのは好きだ。ぼくは今まで生きることに関しては悲観的には考えていなかった。体育会系のぼくは、たまにスポーツで汗をかいている。辛いことがあったら、身体を動かし、動作に集中する。むしろ、身体を動かした後に、影響を受けるのではないかと思う。
 筋肉疲労が伴い、意識が身体の痛みに向う。だから、本来は精神に関する機微的なことが起こっていても、気づかない。スポーツの一プレーで失敗する度に、上手くなりたいと言う反省点はある。それでも、終わったことなのだと自分に言い聞かせる。そこで、頭を切り替え、日常的な悩みがあったとしても、鈍感になって、記憶や意識に留めなくなるのだろう。嫌なことは、大概のことは忘れてしまう。身体を動かしている瞬間の時間自体が、快楽に近いのだから、スポーツが終わったら、楽しかった時間と共に、辛さをも、忘れてしまっているのかもしれない。そして、筋肉の痛みに意識が向かう。
 日常の中で起こりうるトラブルも、その都度の場当たり的に解決できる方法は、自分なりにいつも持っていた。長い人生の中では、日々に悩みなどが発生するのは当然のことだ。人生に何も無い方が詰まらないことだと思っている。問題は起こっても、解決は出来きなくても、何とかなるだろうと考えるぼくは、いい加減な精神の持ち主なのであろうか。必要に迫られて、彼女のことや身の回りの人のことは真剣に考えたり、こうやって思慮することがある。でも、いざ自分自身の人生に起こりうることは、深刻に考える必要はないのものだと、思っていた。
 ぼくは最近まで、日常生活の悩みが、精神に影響するものではないと思っていた。自分がそうだからと言って他の人もそうだと限らないこと、人によって繊細さの程度が違うことが分かった。日々の日常的な現象から受ける中でも、細かく周囲を見て取り、繊細に敏感に感じる人がいることが分かってきた。
 彼女から、死にたくなる程辛い時があったと、聞いたことがあった。本当かなって思っている。ただの言葉上の表現で言っただけだと思っている。死にたくなる程の悩みが彼女にあったと言うことが、今でもぼくは本当だとは信じてはいない。今でも、半信半疑でいる。
 彼女は死について、深刻に考えたことがあるのだろうか。父親の転勤で何度も転校した。いじめを受けたことがあるのだろうか。いじめは受けなくても、転校する度に新しい環境に対応する精神構造ができたのかもしれない。回りに気遣いする、表面上、いい子でいるのが、対処方法だと、彼女は自戒して喋っていたことがある。
 彼女の不良的な要素はどこから生まれたのだろう。そして、思春期に入って病んでいた時に、ぼくと出会った。反法律、反社会的な関係が続いた。ぱっと見では普通の高校生で、傍目からは中流以上の家庭なのだ。そして時々、歳に似合わない、思慮深く大人びたことを言う。
 ぼくはこの歳で忘れられるから生きていけることがほんの少し分かってきた。ぼくはスポーツをする。日程上、都合の悪い時もあるし、天候の影響でテニスができない時がある。冬になったとしても、一人で行えるスキーにも行けない時がある。そんな時は、ジョギングをする。ジョギングも体調によっては気後れし、億劫になることがある。そんな時は歩く。雨の中でも雪の中でも歩く。歩いて考える。その時は自分なりの哲学思考ができると思っている。歩くことが脳を刺激する。主に彼女のことを中心に思っているが、その他に、個々の一般人を例証として考えることもある。
 痛みとは何? 痛覚は、傷ついたところを触らないようにする自己防御作用だ。心の痛みはどうなのだろう。痛みがあるから触れないように、思い出さないように、自己防御するのだろうか。人間にとって心の痛みとは、記憶に留めないようにすることなのだろうか? 分からない。
 あのグアムのクラブでの状況が、時々頭をよぎる。ぼくのスポーツ好きと、彼女の踊り好きが、どこかで共通していることに気づいた。あの時は事故みたいなものだったんだ。互いに、気遣いをしなかったらどうなるのかを、思い知らされた。あの時は、どうしようもできなかったのだ。そう、思い込むしかないのだ。
 彼女はまだ若いが、気の強い女だ。あの時のクラブでのことは、思い出話として、彼女と語ることはない。あの時のことを言うと、二人の間に気まずい空気が流れるだろう。両方にメリットはない。蟠りやトラブルの元になりかねないので、彼女とは、あの時のことは触れないままでいる。あの時のことを思い出すときは、彼女のことを無意識に「あいつ」と呟いてしまう。
 ぼくは彼女と二人でグアムに行った。格安ツアーで二泊三日の旅行日程だった。週末の金曜日に休暇を一日もらい三連休にした。木曜日の夜、勤務を終え、夜行寝台列車で東京まで行った。ぼくの勤め先の役職員は、夏と冬に、一日の休暇が強制取得できる。権利的に休める特別休暇で、有給休暇を使うことにはならない。
 成田空港からグアムに飛び立った。グアム空港に着いた後、各家族やカップル毎に割り当てられたホテルに、旅行会社から委託された地元スタッフが、ワゴン車で送迎していく。ホテルで一段落してから、タクシーを呼んで繁華街に出掛けることにした。大学在学中の三年間に学んだ彼女の英会話力は相当なものだった。やや太り気味の、中年の女性タクシー運転手からは、英語が上手いと褒められていた。質問に答えて大学生だと彼女は答えていた。
 その女性運転手から、日本人観光客には定番らしく、しばらくして、日本語で書かれた射撃場案内の広告板を、タクシー内で見せられた。マージンを受け取ることができるシステムになっているのだろう。女性運転手から、射撃場への立ち寄りを勧められた。昔ほど有名なことではなくなったとはいえ、初めてグアムに行ったら、日本人は興味を示すかもしれない。射撃場行きを薦められても、断る人ばかりではないのだろう。グアムでの射撃は、まだ観光の一つになっていた。
 彼女の好奇心は旺盛だった。彼女は射撃をやってみたいと言った。ぼくも人生に一度は体験してもいいと思った。射撃場で、ぼくと彼女は、初心者として、ピストルの構え方から教えてもらいながら、的に向かって実弾を撃った。彼女の弾の方が的を得ていて、ぼくよりポイントが高かった。射撃では、旅行用に持って行った現金の五分の二程度の、二百ドル程度を、最初から使ってしまう羽目になった。グアムに着いて直ぐに、所持金のドルが減ることは、想定していなかった。
 ずっと射撃場の待合室で、待機していた女性運転手に、美味しくてお勧めなレストランはないかと、彼女は流暢な英語で尋ねた。射撃場に隣接するように並んだビル内の日本料理店に連れて行かれた。タクシーに乗って一分も掛からなかった。射撃場と同じ系列なのか、その日本料理店を紹介するだけでも、タクシー運転手にはマージンが入るのかもしれない。タクシーを降りた後、彼女から女性運転手の英語には、南米訛りがあると聞かされた。
 ぼくは、地元の美味しい料理を食べたかった。外国での滞在期間も長くなって、連日の外国料理に飽きたなら、日本食も美味しいと思ったかもしれない。が、グアムにある日本料理店の鉄板焼料理は、特別美味しいと思えなかった。彼女がグアムに着いて、最初に話す英語が褒められたばかりか、そのタクシー運転手と意気投合してしまった。その女性運転手から、チャーミングだと言われた以外は、英語が良く聞き取れないので、どんな風に褒められていたのか分からない。ただ、セクシーと言う単語は辛うじて聞き取れた。
 たぶん、ぼくと二人の旅行だから、不安感も少ないのだろう。グアムは南国のリゾート地だから、解放感もあるのだろう。彼女は思い通りに通じるスタンダードな英語で、優越感に浸り、有頂天になって、気分良く女性運転手の言いなりになっていた。日本のステーキハウスみたいな感じで、目の前で調理していた。彼女は、鉄板に向かっている褐色の肌をした現地の若いアルバイト店員らしい男を、初な感じで気に入ったらしく、不服はなさそうだった。
 目の前で鉄板焼きみたいにして炒めているが、既に調理済の食材を、ただ温めているだけだった。若い男が目の前で野菜や肉を炒めていた。海外での日本食なんかそんなものかもしれない。現地人を使うと人件費が安いのか、料理の値段は特別高いとは思えなかった。日本円に換算して一万数千円程の飲食費だったが、日本ではもっと質のいい料理は出るだろう。
 日本からは銀行で両替した五百ドルキャッシュを持って行った。日本円にして五万数千円程度だった。二泊三日なので、その程度の所持金でいいと思っていた。最初の射撃場では、二百ドル近くを使ってしまったので、後のことを考えて、日本食レストランではクレジットカードで支払った。
 その後、ショッピングモールに行った。旅行会社とタクシー会社は提携していて、そこまで行くとタクシー料金が無料になった。旅行会社から配布された旅行案内一式に、そのショッピングモールのパンフレットがあった。そのパンフレットをタクシー運転手に渡せばよいだけだった。
 ぼくはそんなことは知らなかった。パンフレットはホテルの部屋に置いてきた。入口の案内嬢が、ぼくにパンフレットをくれた。忘れて来た人のため、カウンターの下には同じパンフレットが予備として大量にあった。パンフレットに旅行会社名を記入するだけだった。ホテルから射撃場までは、タクシー料金は要らなかった。提携した射撃場側がタクシー代金を負担するのだろう。パンフレットに旅行会社を記入して、タクシー運転手に渡した。日本食料理店から、ショッピングモールまでの、十ドル程度だろうタクシー代も要らなくなった。
 そのショッピングモール内の店では、貴金属や衣料品が免税になっていて、日本で買うよりは安く買えた。しかし、観光客相手の商売らしく、免税されているのは、高級ブランド品ばかりだった。全体的に価格帯が高めだった。ショッピングモール内全体が高級志向で、商品は手頃でない金額ばかりだった。格安とは思えなかった。
 ショッピングモール周辺のビルの中にある小規模な店を回ってみた。ビルの一角には、コンビニみたいな小さいスペースの店があった。そんな店に置いてあるお土産の方が安かった。ホテルに帰る前、当面必要な缶ビールの半ダースパックを買った。日本メーカーの缶ビールだったが、一缶当たりを比較しても、現地のフルーツジュースより安く買えた。ビールの半分以上に税金が掛かっている日本と違っていた。
 ショッピングモールで販売している、定番のお土産であるナッツ入りチョコは、高級感がある分、安くはなかった。ある程度の数を買おうとすると金額が張った。逆に、小規模のコンビニ風の店では、特別外箱に趣向は凝らしてなく、艶のない外箱に、透明な包装用ラップが掛かっているだけだが、土産品としては安かった。試食してみて美味しかった。そのコンビニ風の小型店で、お土産類の買い物をしても、手持ちのドルの減り方が少なく、心配はなかった。
 その時点まではドルの減り方は、計算通りだった。もし、特別の出費があれば、クレジットカードを利用すればいい。海外ではクレジットカードが主流だ。小額だったので使わなかったが、コンビニ風の小型店でも、カード利用が可能だった。マリンレジャーもクレジットカードで支払いが可能だし、何でもカードで事足りる。
 ショッピングセンターと、その周辺の商店街を見て回った後、世界的レストランチェーン店の「ハードロックカフェ」に行った。東京にある同名チェーン店に行ったことがある。アメリカ料理のチェーン店では「フライデー」というレストランと人気を二分するレストランだった。
「ハードロックカフェ」のメニューは全世界全店共通メニューだった。しかし、その店では各国の「ハードロックカフェ」にないだろうメニューが載っていた。日本では食べたことがないような、グアムの地元メニューがあった。ドリンク類は世界共通で、東京や横浜の各々のチェーン店と同じメニューが並んでいた。独特の銘柄だったので覚えていたが「セックス・オン・ザ・ビーチ」というアルコール飲料もあった。奔放な夏の浜辺を連想させるネーミングだ。
 グアムオリジナルメニューが何種類もあった。彼女はアルコールに強かった。ぼくと同じようにアルコールが入ると食欲が増すのか、少し前に日本料理店で食事をしていないかのように食べた。まるで食べた分の栄養が一か所に溜まってしまったかのように、同世代の女の子からすると胸は極端に大きく、ブラはGカップだ。それでも細めのジーパンは無理なく履けている。若い体形を維持していて、胴から腰に掛けての括れも締まっている。
 いくら若くて新陳代謝が活発だといっても、大量に摂取したカロリーはどこで発散するのか、いつも不思議に思う。大食いの彼女にとって、日本料理店での食事は、ほんの前菜みたいなものだ。勤め先のぼくは、大食いと早食いで知られていた。しかし彼女の旺盛な食欲についていくのがやっとだった。
 そこで、彼女に負けまいとぼくは奮起した。アルコールの勢いを借りて、ぼくは若い頃のような旺盛な食欲を発揮した。二人で次々と酒や料理を飲食して満腹になった。それでも料金は百ドル以下だった。客は地元の若者や欧米の旅行者が多く、英語が喋られる彼女と一緒だからそんな店にも行けた。その店ではドルの現金で支払った。
 二日目の日中はホテル前の海岸であれこれ遊んだ。ビーチでの遊びがセットになっているコースを選んだ。銃の実弾射撃と一緒で、免許はなくても水上バイクに乗れた。カヌーで二、三百メートル離れた小島まで行ったりもした。海でモーターボートに引かれて、二人相乗りでパラシュートに乗って、二百メートル程の上空に上がる、パラセーリングも楽しかった。一緒に空中に浮かんだ時、彼女は嬉々としていた。
 遅いランチは、宿泊場所のホテル沿いのビーチにあるレストランで食べた。海からの心地よい風に吹かれて、冷えた瓶ビールをショット飲みした。レストランで食べた地元料理も美味しかった。ホテルの部屋で休憩した後、フロントでタクシーを呼んだ。ホテル内の小スペースのロビーで待たされた。
 だいぶ時間が経って、タクシーはやって来た。昨日と同じ中年の女性運転手が来た。彼女と女性運転手は奇遇だと驚きながら喜んでいた。タクシー会社とホテルは提携しているのではないらしい。ただ、女性運転手の担当エリア内にぼく達が泊まっているホテルがある。呼び出しが同じホテルからあったとしても、同じ宿泊客に当たることは珍しいことかもしれない。
 彼女と女性運転手は再会を喜んでいた。彼女の通訳した英語からぼくに伝わった内容では「今度ダーリンと来たら、タクシー料金は只にする」とのことだ。通訳しながら、ぼく達のことを夫婦だと思っていることを、彼女は嬉しそうにぼくに伝えた。外国人から見たら日本人男性のぼくは若く見えるかもしれないが、ちょっとそれはオーバーな表現だと思った。男女関係に寛容な国では、歳の差のあるカップルなんか珍しいことでもないのだろう。運転手にとっては褒め言葉でも外交辞令でもなく、ほんの軽口で言っただけだと思う。
 繁華街に出ても大勢の日本人が道路を闊歩していた。あたかも、日本の街と見間違う程だ。大挙して日本人はグアムにレジャーに来ていた。昨晩と同じショッピングモールへ行き、パンフレットを渡して、タクシー料金を無料にしてもらった。
 そのショッピングモール内にドルの両替場所があった。昨日は良く見てなかったが、為替手数料を上乗せした両替レートが表示されていた。良く見ると、両替所のレートは、日本の銀行で両替するより安かった。そこで金を遣うのは、ショッピング目的の旅行客だ。両替手数料を取らなくても、商品の販売利益だけで元はとれるようになっているのだろう。
 ぼく達二人は翌日の朝に帰る。手元にはドルの現金の手持ちが少なかった。もし彼女が何かを欲しいと言えば、クレジットカードが使えた。手元のドルは使い切ってしまうつもりでいた。ただ、約二十ドル程は、宿泊場所のホテルまでのタクシー代として、残しておきたかった。
 夕方は海岸で夕日が沈むのを待った。その状況だけでもドラマチックで火のような夕映えだった。近くのコンビニで缶ビールを買っている間に、太陽が海に沈む決定的瞬間をウォッチできなかったのが心残りだった。
 夜になり、暗くなった。やや小高いホテルの一角にあるクラブレストランに行った。各種類の蟹が食べ放題のクラブレストランだった。クラブレストランで食事を終えてから、歩いて繁華街に戻ろうとするぼくら二人を見た店主が、サービスで車を出してくれた。その車で、地元のダンスクラブまで送ってもらった。クラブレストランの「クラブ」は蟹のことである。この後行くダンスクラブも同じく、同じ日本語読みの発音で「クラブ」と言い、「クラブ」と同じカタカナで書く。英単語にするとスペルも意味も違う。偶然の一致かもしれないが、この「クラブ」と言う単語は後で考えると因果なものとなった。
 彼女から時々、クラブに行っていることを聞いていたので、大体はどういう所か想像できていた。昔で言えばディスコクラブだ。今はダンスクラブと言わなくても、クラブだけで通用するらしい。
 ぼくは手持ちのドルが少ないからと言って十ドルだけしか出さなかった。クラブの入場料は、ワンドリンク付テーブルチャージとして、一人分二十ドルだった。ぼくの不足分の十ドルは彼女から出してもらった。クラブの中はぼくの想像と大体合っていた。
 九時半頃にクラブに入った。ぼく達が一番乗りだった。客は他に一人もいなかった。ステージが真ん中にあってギリシャの競技場のように両側が観客席みたいになっていた。片側はステージに向かってカップル用のテーブルが並んでいた。もう一方の片側は、長めのテーブルとベンチと対になって、スタンド席のようになっていて、ドリンクバーのカウンター席の方を向いていた。ステージの一方がスクリーンみたいに白っぽくなっていて、何も映ってはいなかった。人影のシルエットが映る程度のものだ。天井付近には大画面モニターがあり、音楽に合わせているのかよく分からない映像が映っていた。スクリーンの反対側がドリンクバーだった。
 同じフレーズを何度も繰り返す、クラブミュージックが流れていた。ビートを刻む低音が身体に響いた。ブーミーな低音と、メロディのない喋りだけのフレーズが、延々と続くだけだ。十曲に一曲の割合で、しっかりしたメロディラインの音楽も流れた。しかし、低音のビートが強調されすぎている。一度、彼女が男友達から借りた車に同乗し、車内で同じようなジャンルの音楽を、大音量で聞いたことがある。その音楽は、適度な音量だったら、聞けただろう。ただ、大音量が耳障りだった。
 その車で、彼女と二人で温泉に行った時、長い時間、車内で不慣れな音楽を大音量で聞かされて、ぼくは突発性難聴になった程だ。耳鼻科に暫く通った。彼女には大分時間が経ってから経過を話したが、それなら音を小さくしてと言えば良かったのにと、全然気に留めている様子はなかった。ぼくは、彼女が大音量で楽しんでいたので、邪魔をする気はなかったのだ。低音で車体を震わせている音楽が、現場のクラブミュージックに近いのだろう。クラブ内での低音域は、FM放送で流れるそのジャンルの音楽と、明らかに違っていた。
 ぼく達の若い頃はドラムがリズムの主体だった。ジャズを聞くようになってからは、情緒でなく、理性に近い感覚でドラムを聞き、躍動感を感じられるようになってきた。身体は動かなくても、意図しないで演奏しているインプロビゼーションや、現代音楽に近い奏法を聞き、気持ちが高揚してくる。それはぼくの感性が成熟したのか、逆に原始的なリズム感が退化したのか、どちらとも言えない。
 クラブという特殊業界用のアンプ出力は、一般家庭のステレオセットとは雲泥の差だった。一般家庭の電力の何軒か分は消費するだろう。それと、大音量に対応する防音装置の投資が必要だろう。閉ざされた暗室の中でスポットライトがステージを照らす。身体の芯まで震わす重低音が地を這う。聞こえない低サイクルの振動波が地鳴りのように響く。細胞の隅々まで、アンプやスピーカーの電磁波で、DNAの配列が狂ってくるような、五臓六腑にまでしみ込む音の冒涜だった。そんな表現でも言い表わせない不快感だった。
 ぼくは昔、興味本位でヘビーメタルのロック演奏を聞きに行った。地下の防音が効いたステージで、その種の音楽を聞いた。その時と同じ拒否反応が出た。生理的に合わない。ただ、単調な繰り返しで、音量だけが大きくて、客はただ縦乗りで飛び跳ねていた。音楽を聞いて身体が動くのではなく、音楽のビートに合わせて踊っているだけという感じだった。ぼくにとってその種類の音楽は、騒音でしかなかった。
 クラブ内にいるのが本当に苦痛だった。ぼく一人なら直ぐにでも出てしまいたかった。苦痛のあまりに身体が硬直してくるのが分かった。ぼくにとって雑音でしかないものでも、国籍も人種も様々な、今時の若者たちには、心地良いダンス音楽なのだろう。身体を音楽に合わせるのなら、快楽となるのだろう。ぼくにとっては、誇張された低音が、不快感を倍加させるだけだ。ぼくは下を向いて耐えていた。
 十時を過ぎたあたりから人がまばらに出てきた。ぼくは繰り返しばかりの低音ビートに辟易し、貝になっていた。ぼくは喋らないでじっとしていた。彼女は退屈しているのではないかと、少し気になってもいた。彼女はぼくが酔って寝てしまったと思ったらしい。ぼくに何も言わないで、勝手に席を立ってステージの方に向かって行った。ドリンクバーに寄った後、彼女はステージ横の柵のようなスタンディングバーに掴まり、左手に小さい瓶ビールを持ち、もう一方の右手で、時々煙草を吹かしながら、ダンス相手を待っていた。
 ぼくは酔っていたが、寝てはいなかった。ただ、耐えていただけだ。耐えながら彼女の姿を目で追っていた。場馴れした様子で、煙草を吹かす彼女の姿は、様になっていた。ダンスで誘われるのを待っているだけなのだろうけれど、まるで軟派されるのを待っているようにしか見えなかった。セックスの相手を求めている、飢えた欲求不満の女のようにしか、ぼくには見えなかった。
 クラブ行きを決める時、話の内容から、彼女は純粋に踊りが好らしいことが分かった。ぼくに「あなたがテニスやスキーをするのと一緒だよ。踊って身体を動かすことは、スポーツをすることと一緒だよ」と諭された。
 日本と違ってグアムはアメリカ領だし、ダンスは本場だ。黒人兵などは乗りも違う。彼女は女の子達と連れ立って東京都心のクラブに行くと、外国人が、必ず軟派して来ると言っていた。たぶん、女の子の友達同士が連れ立って行くのだから、単独行動の外国人からでなく、グループ同士で軟派されるのだろう。ぼくはそんなことを、彼女から度々聞かされていたので、クラブレストランから、ダンスクラブに移動する車中で「いつもクラブには軟派されに行くんじゃない」と言ったら、彼女は「むかつく」と言っていた。
 時間が遅くなるにつれて大勢の人がクラブに入場してきた。グアムには大規模な米軍基地もある。大勢の若者が基地で働いている。黒人や白人の若者がいる。イラク戦争に参戦し戻った者もいるかもしれない。逆に、イラクに派遣されるかもしれないという、不安を持った兵隊もいるかもしれない。
 明らかにぼく位の高齢で、やせ気味の白人男性がいた。踊るようでもなく、ただステージを見ている。兵隊かどうかも分からないし、現地の人かもしれない。ただ、踊りをしそうな雰囲気ではない。クラブに何をしに来たのかな、という感じだ。コールガールからの声掛けを待っているようにも見えた。中年の米兵が週末の寂しさを紛らす為に、騒がしい場所に繰り出しのだろうか。アメリカ本国に家族を残して、寂しいのだろうか。それとも、ぼくと同じで、男やもめなのだろうか。基地に勤務はしていても兵隊ではないのかもしれない。どんな職業かは分からない。ぼくが述べたのは、想像の列挙でしかない。
 中には、女の子がステージからテーブル席まで来て、一人でいる若い男に、ダンスの相手になって欲しいと、誘う光景も見た。その中年の男性には声は掛からない。ただ、ボーツと前を見ていた。ぼくは、ステージへ踊りに行った彼女の姿と、回りを見回しながら、その時間を耐えていた。日本との時差が殆どないグアムは、週末の土曜日だった。本当に盛り上がるのは十二時過ぎらしい。若者達は段々と増えてきていた。彼女がクラブに行きたいと言ったのは、本場のクラブダンスが、どんなものか、雰囲気を感じとりたいという理由もあった。
 彼女がステージに出掛けてからしばらくは黒人の若者に誘われてダンスをしていた。踊っているらしい光景はぼんやり見えた。ただ、スクリーンのところに行ったりすると、大きい柱に隠れ、見えなくなった。時間が経つにつれて、段々と踊る人数も増えてきた。十一時を越えた頃だろうか、人が増えてきた。段々と熱気が感じられるようになっていた。入店直後は冷房が効き過ぎて、寒いと感じる程だった。段々とクラブ内は、若者達の発散する熱で適温になっていった。
 ぼくはクラブに入った直後から、じっと耐えていた。時間が経ってからも、多くの若者の中から、彼女の姿を必死で探していた。目を凝らしてステージを見ると、先程の黒人ではなく、別の若者とダンスをしていた。白人ではなさそうだ。現地の若者らしい。
 一緒に踊っていた若い男とスタンド席に移って行くのが見えた。それからしばらく経ってから、彼女は見えなくなった。こちらからは反対側になるカウンター席の奥の方に移動して、彼女の位置が良く見えなくなった。長い時間待っても、彼女はぼくのテーブルには戻って来なかった。
 人込みの中で彼女を探す。彼女らしい女が、煙草を吹かしながら、楽しそうに男と話している。暗くて良く判別できなかった。クラブ内に彼女はいる筈なのに、どうして戻ってこないのだろう。いつまで経っても彼女は戻って来なかった。いつになったら戻って来るのだろう。苦痛の中で早く戻って来て欲しいと念じた。日本人の平均的信仰心の持ち主でしかないぼくだが、必死に神に祈った。「神様、早くこの状態から開放して下さい」ぼくは幾度も祈っていた。
 何人かで観光に来たらしい、日本人の若い女の子達は、一塊になって踊っていた。彼女だって、日本では女友達か彼氏とか連れ立ってクラブに行くのだし、単独では行動しないだろう。外国に来て開放的になったといえ、ぼくの前ではやりすぎではないのか。依然としてぼくは屈辱に耐えていた。
 ぼくは、回りを見ながら暇を潰すしかなかった。横を見ると、一人の酔いつぶれた日本人らしい若者が、仰向けに横になっていた。スタンド席は、向こう側になる。ぼくと隣のその若者はステージを挟んでスタンド席とは反対側のこちら側にいた。テーブル席の壁側に連なって設置されているベンチソファに、日本人らしき若者が身体を延ばしていた。その若者と来たらしい女の子は、一人で踊るのが飽きたらしく、席に戻ってきた。その若者を起こしに掛かった。若者に馬乗りになって、必死にキスをしていた。
 時間が経つにつれ、更に人数が増えた。どこに彼女がいるのか分からなくなった。必死に彼女を探したが見えなくなっていた。時計を見た。十一時半になっても戻ってこない。もう耐えられなくなってきた。ぼくのことは考えていないのだろうか。後少し経っても来ないなら、彼女のところに行って「帰ろう」と言いに行こうかと思った。どんな状況になっても、彼女は他の男に付いて行くことはない。ホテルにパスポートも荷物もある。明日は空港から飛行機で帰国する予定になっている。
 ぼくと彼女は一緒にクラブに入ったのだし、ぼくと出るしかない。一人では彼女は帰れない。その大前提があっても、寛容にはなれなかった。嫉妬心と言えばそれまでだが、どうしてぼくを放りっぱなしにできるのか。彼女の精神構造を疑った。彼女が軟派されていてもどうにもできなかった。ぼくがいるという安心感があるのかどうか分からない。外国の地であっても、彼女にとってはアバンチュールが許される範囲内なのだろう。しかし、ぼくの辛さはピークに達していた。立ち上がることを真剣に決断しようとした。彼女のところまで行く寸前になっていた。
 十二時頃だったろうか、彼女はようやくぼくのテーブル席に戻って来た。彼女は、遅くなった言い訳をした。なかなか席を立てなかったのは、ドリンクを奢ってもらったからだけではなかった。最初は黒人の若者から、ダンスを強要された。そんなダンスに名称があるらしい。彼女はそんな種類のダンスは絶対にしない主義だったし、黒人の若者に性器を擦りつけるポーズのダンスを強要され、困っていた。
 その時に別の若者から助けられた。その若者がそれまでずっと話をしていた相手だった。そして、彼女を助けた直後、若者から本場のペアダンスの手ほどきを受けたらしい。日本では一人で別々に踊っているだけらしいが、本場アメリカでは、ペアダンスが主流らしい。彼女がダンスをしていた時間は短かったような気がする。ずっとその若者と何を話していたのだろう。ダンスの話題だけではないだろう。
 何を断れなかったのだろう。別の場所に誘われでもしていない限り、そんなに時間が掛かったりしない筈だ。ぼくがいるから、それ以上進展しないことは分かっている。ぼくをほったらかし、クラブを出て別の場所に行くことなど絶対にないことだ。ただ、軟派されているその場の雰囲気を楽しんでいたのかもしれない。
 それにしても、何を誘われ続け、何で遅れたのだろう。どうして、彼女はそんなに時間が掛かって、引き止められたのだろう。彼女は付き合っている彼氏とクラブに踊りに行くこともあると言っていた。彼氏の前でも、別の男とペアダンスを公然と踊るのだろうか。彼氏の前でも、軟派されるところを見せたりするのだろうか。なぜ、ぼくがダンスを踊らないでいるだけで、そんな仕打ちを受けなければならないのだろう。
 ぼくは彼女の彼氏ではない。だから、ぼくは彼女がどうな行動をとっても非難はできない立場だ。精神的にも生活的にも、その気になれば、いつでも彼女は彼女の彼氏の元に戻れる。ぼくは彼女にとって有害でもない代わりに、いなくなってもいい存在なのだ。だから、ぼくの前でもぼくに気を遣うこともなく、遠慮もしないのだろう。彼女の彼氏の前では絶対にそんな行動はしないだろう。腹立たしさと屈辱の極みだった。
 それにペアダンスを教えた若者も、過去の成功事例があるのだろう。前にも卑猥なダンスから女の子を救ったことがあったのだろう。正義の救世者のように振る舞って、結果としてセックスに至ることができたのかもしれない。疲れたと言って、その若者はそれ以後踊ってくれなかったと、彼女が言っていた。踊っていた時間が短いことから、結局、軟派が主目的なのだろう。
 彼女はメイクをきちんとすれば、中国人とも日本人とも見分けられない、アジアン・ビューティの典型タイプだった。彼女には若さだけではない魅力があった。綺麗な女と交わりたいと思うのは、古今東西、男の共通願望だ。現地の若者にとっては、英語で会話が通じるし、口説かなかったら、それこそ失礼だ。
 ホテルまでのタクシーの中でなぜそんなに遅かったのかと言うと、彼女も反論してきたので口喧嘩となった。ぼくはそれまでの心持ちを吐露した。
「本当に辛かった。いつ戻って来るのか分からないし、時間が長かった。本当に辛かったんだ。苦しかった。どうしたらいいか分からなかった。本当はもう少しで呼びに行くとこだったんだ」
「呼びに来れば良かったじゃない。あなたはただ焼き餅を焼いているだけじゃない」
「そうだよ。それが悪い。ダンスなら一人で踊ればいいじゃない。なんで、あんな風になるんだよ。ぼくはずっと耐えてたんだよ。寂しかったんだよ」
「あの人は嫌なダンスを無理強いする男から助けてくれたんだし、その後ペアダンスを教えて貰った。あの人はいい人だったの。だから、元の席に戻るとは、なかなか言いだせなかったの」
 日本と違ってアメリカのクラブはペアで踊るのが基本だから、相手になってくれる人を待っていた。すると、絶対にしたくないポーズをせがむように、黒人の若者から、股間を近づけて強要してきた。ぼくは最初にちらっと見えたが強要されているようには見えなかった。楽しそうに踊っているように見えた。その状態から、その若者が救ってくれたのだと言った。タクシーでホテルの部屋に戻ってもお互いの意見を言い合った。しばらく、沈黙があって彼女はポツリと言った。「あたしは、きっぱりと断れない性格なの」
 本当にそうなのだろうか。ぼくは拗ねてベットに寝ころがっていた。そして、辛かったことを面々と語り、素直にその時の心境を語った。
 そして、翌朝になった。朝、早めの便でグアムを発つことになっていた。昨晩は辛い心境を語った筈なのに、グアム空港内の搭乗待合室で、ぼくの心境を逆撫ですることを彼女は平気で言った。
「あの人はね『このクラブ中の女の子の中で一番きれいだ』と言ったけど、女の子全部を見たのかいって感じ、見え透いている褒め言葉だよ」
 それでも、ぼくのことは気にしていたらしい。ぼくのことは、てっきり寝ていると思っていたと、彼女は言い張っていた。が、全くぼくを放置していたわけでないらしい。彼女はぼくを見守っていたような言動もあった。
 クラブから出て、タクシーでホテルに向かう直前に、彼女はぼくに問い掛けてきた。ぼくの側に来た若いウェイトレスの女の子は、日本人でないかと聞いた。ドリンクの注文を聞きに来たウェイトレスの手が滑って、籠に入ったチップスをぼくのズボンの上にこぼした。ウェイトレスは、ペーパータオルを持ってきた。謝りの言葉を言ったかもしれないが聞こえなかった。ズボンのチップス屑を拭き取ったりしていたので、他の客よりはそのウェイトレスと接している時間が長かった。彼女はぼくのことはクラブ内でちらっと見ていたのかもしれない。ぼくはそのウェイトレスは日本人に見えるけど、日本語が全く喋れないし、現地の女の子らしいと答えた。
 心の中には前の晩の蟠りが燻っていて、何か皮肉めいたことでも言いたかった。グアムから飛行機に搭乗する直前、待合室のソファに座りながら、帰りたくないと言って、身体をくねらせ、駄々っ子のような仕種をした。そんな仕種を見ていると、口に出して言えなくなった。
 彼女は乗り物に直ぐ酔ってしまう。自分で運転する車ならいいが、助手席に座っていると車酔いする。新幹線に乗っただけでも酔う。彼女は飛行機の中でも酔うことは分かっていたし、気持ち悪さへの対処から、メイクをしないことにしていた。だから、ノーメイクを隠すために、飛行機の中ではサングラスを掛ける。洒落たサングラスをした彼女は、キャバクラ嬢に見えた。
 そう言えば思い出した。出国前、成田空港の飛行機発着場までの、移動用モノレールに乗っていた時だった。髪型を変えたのに、いつまで経っても気づかないでいるぼくに、彼女は一時、機嫌を悪くした。彼女はお洒落に気を遣ったらしい。女心として、関心を示して貰いたい気持ちも分かった。グアムに行くまではわくわくとしたものがあった。その時は仮想の新婚旅行に出掛けるみたいだった。帰国した時のぼくの心境は最悪に近かった。それでも、彼女はグアムを楽しんだみたいだ。
 朝、グアム空港を出て、昼頃に羽田に着いた。出国には時間が掛かったが、帰国手続きは短時間で終わった。成田空港から電車で都心に戻る時、ぼくにとっては、拷問場でもあった楽園の別天地から、現実に引き戻されていくみたいだった。乗換駅で、別れ際に手を振っている彼女の笑顔が、魅力的だった。
 地元に帰るJRの列車内で、彼女の昨晩の行動と、悲惨なぼく自身の状況が思い出されてきた。いたたまれなくなって彼女に携帯電話からメールを送った。
 ぼくを必要としていないことが分かったと、メール文に書いた。本当は、昨晩のクラブのことで、心境を詳細に述べたかったが、携帯電話のボタン操作の指遣いがまどろっこしく、説明不足のままで、結論だけを述べたメールを送信した。クラブの入場料は、一人分二十ドルだった。たったそんな程度の金額で、ぼくを最悪の精神状態に陥らせたことに対しての、報復でもあった。
 彼女からは「せっかく楽しい気分で帰って来たのに台無しだよ」とメールが返った。
「必要だからとか、必要でないからとかで付き合ったりしていないよ。喧嘩をすることもあるし、気分の悪い時もあるけど、何だかんだと言いながらもあなたといて楽しいから付き合ってるんじゃない。必要だからとかという理由であなたといるのでないよ。幻滅した」
 それは彼女の論理だった。彼女にとって、ぼくは刹那の楽しみを共有できるためだけの存在なのだ。彼女には長年付き合っている彼氏がいる。彼女の彼氏は、将来的にも常々欲しいと願っている子供を、生み育てる生活に、必要不可欠な相手だ。もし、ぼくが必要であるとしても、小さい贅沢や少額な金品を与えてくれる、プチ愛人としての存在だ。
 彼女には、有名全国チェーンレストランの経営者を兼ねる、ゼミの先生とか、依然アルバイトで知り合った、とある会社の社長とか、食事を付き合う相手がいる。本当に食事程度か分からない。ぼくとの付き合いは、彼女の彼氏から見たら、不倫関係にある。この事は綿密に策略し、極秘として隠し通している。彼女の彼氏は、彼女を信じきっている。食事相手のことは別に隠すこともなく、彼氏に話してあって、了承はしているらしい。
 ただ、この前、彼氏にも言えない心境を話した。アメリカの西海岸方面だったら、留学費用を全部出す経営者がいると言う。語学力を見込まれてのことか、下心があってそう言っているのか、分からないと言った。ぼくだから正直に心境を喋れたのかもしれない。時々会っている経営者と比べたら、所持資産の桁が違い過ぎる。多額の手当を貰ったら、正式の愛人となってしまい束縛される。彼氏持ちの彼女には、ちょうどいい相手がぼくなのかもしれない。
 彼女はグアムで、自分の支払った二十ドルを有効に使いたいと願い、そして楽しい時間を共有できる相手を探した。その相手はぼくではなかった。楽しい時間を共有して、一緒にダンスのできた相手は別の男だった。そこにぼくはいなかった。結果的に一緒に踊って、楽しい時間を共感したのは、現地の若い男だった。
 それにしてもあの地獄の時間はもう味わいたくない。千ドルを貰ったって嫌だ。彼女はたった二十ドル程度でぼくを蔑ろにした。自分の楽しみを優先した。そればかりか、不甲斐ないことに、グアムから戻ってからも、彼女から軽度な蔑視を受けている。
 そして、ぼくが二十ドル程度の男でしかなかったという事実は、当分消えそうにない。